「自由の哲学」ノート

その日開いたページ、浮かんだイメージを大切に、読んでいきます。

人間の二重の本性の成り立ち

2014-12-20 18:14:26 | 第4章 知覚内容としての世界
4-7

我々は思考の助けを借りてのみ自分を主観として措定し、そして自分と対象とを対置させることが出来る

……

思考は主観と客観の彼方にあって、この二つの概念を全ての他の概念と同じように作り上げる

思考する存在としての人間が行う活動は、主観と客観という両概念を超えた活動なのである

……

思考という要素は、私を私の自我の彼方へ導き、客観と結びつけてくれる
けれども思考はまた、私を主観として客観に対比させることによって、私を客観からも引き離す

4-8
It is just this which constitutes the double nature of man.

人間の二重の本性は、まさにこれにより
構築されている
(二重の本性とは、二章に出てきた存在の分裂、宇宙が自我と世界の両極として現れること、世界と意識の間に壁があると感じ、また同時に世界の内部にいると感じること 物質と精神 観察と思考 等々の二重構造

「これ」とは、4-7の思考の作用)


He thinks, and thereby embraces both himself and the rest of the world.

人間は考える、そして自分自身とそれ以外の世界、その両方を包み込む

But at the same time it is by means of thinking that he determines himself as an individual confronting the things.

しかし同時に、考えることによって、事物に向き合う個としての自分自身を確認するのである

以下hasutama感想

じゃあ、つまり、
人間の意識の分裂は、思考のせいだったの!?
思考によって生まれた分裂を、思考を深めきって行くことで解消しようということなの!?

これ、ちょっとびっくりだな~

思考さんのこと

2014-12-18 18:52:57 | 第4章 知覚内容としての世界
なんかひっかかっていて読み進められなくて、なんなのかなー?と思いつつだらだらとしていた

それで今日少し思いつくことがあったのでメモする

ヒントは汎神論である

最初から気になっていたのだけど、シュタイナーの言葉の使い方で、非常に重要なところで、内容的には動詞的な言葉を主語として使うってどういうこと?という疑問がある

四章でも、思考は思考はと繰り返され、まるで思考のほうが人間よりも主体性があるような言い方
しまいには、人間が主観となることが出来るのは思考の恩寵だとか

思考って、単に人間の行為じゃなかったの?
人間の意識は思考と知覚内容が出会う舞台でしかなく、人間が考えるということは、その舞台に思考さんが舞い降りて、観察内容に応じた演目を披露してくれるということなのだろうか?

人間がもしいなかったとしても、思考さんのほうは独立して存在していらっしゃるの?

人間の行為は、人間だけのものではないのだろうか?

人間と、思考さんとのコラボ

行為とは、人間と目に見えない作用力との出会いによって成り立つ

シュタイナーの文を読んでいるとそんな気がしてくる

それで思い出すのは、ホーメロスのイリアスである
オリンポスの神々の世界と人間界は相関関係にあり、人間界での出来事には神界の事情が反映している

ギリシア思想の復興の流れ
その中にシュタイナー思想もある
そうどこかで読んだ気がする

イデア界
人間界に関与する神々の作用

まとまらないが、そう考えると腑に落ちるのである

もう少し詳しく調べたり考えたりしてみよう



subject 主観

2014-10-05 04:15:50 | 第4章 知覚内容としての世界
goo辞書

主観メモ

その1

主観
《subject》
1 ラテン語のsubjectum(下に置かれたもの)に由来し、スコラ哲学以来、18世紀ごろまでは性質・状態・作用を担う基体を意味した。近世以後は認識し行為する人間存在の中心である自我をいう。特にカントでは、先験的意識としての主観が設定された。⇔客観。→主体

2 その人ひとりのものの見方。「できるだけ―を排して評価する」⇔客観


hasutama

語源に、下に置かれたものという意味があったのは興味深い

お皿のように上に何かのせる容器

性質・状態・作用をのせる



その2
kotobank

しゅかん【主観】

対象について認識・行為・評価などを行う意識のはたらき,またそのはたらきをなす者。通例,個別的な心理学的自我と同一視されるが,カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え,これが客観的認識を可能にするとする。 → 主体

自分ひとりだけの考え。 「 -だけで言うのは困る」 「それは君の-だ」

客観 〔西周(にしあまね)訳「心理学」(1878年)に英語 subject の訳語として載る〕


hasutama

『通例,個別的な心理学的自我と同一視されるが,カントの認識論では個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)を考え,これが客観的認識を可能にするとする。』

今まで、主観とは自我と同じようなものと漠然と思っていた

カント
『先験的意識としての主観』
『個別的内容を超えた超個人的な形式としての主観(超越論的主観)』

シュタイナーが言う主観は
スコラ哲学以来の、語源に近い意味合いだが
カント的に超個人的となる条件として
お皿の上に思考という働きが乗っていることをはっきりさせたのだ

思考という働きが意識のお皿に乗っている時にのみ、人間の意識は能動的な行為者、創造者となり、その時の意識を主観、主体ということができる


wiki の『主体と客体』

なかなか面白い

ついでに見つけたけど難しい
カントの主観、自我に対する考えが解りそうな論文↓
'先験的意識としての主観'

思考活動する意識

2014-10-04 21:13:43 | 第4章 知覚内容としての世界
えーっと、どこだったかな?
思考を思考するというのは、非常に特殊な状況だということに注目すべきだと述べていたシュタイナー
どう特殊なのかよくわからなかった

それに対するヒント、答え?とも思われる部分が四章にある

『人間の意識が主観となるのは、思考する意識だからである

人間の意識は思考する意識であるゆえに、自己意識でなければならない

思考が自分自身の活動に目を向けるときには、思考活動にもっとも固有の本性である主観を客観視することになる』

私の自己意識なのかと思っていたけど、私の意識って私より思考のものだったの?

私の意識が能動的になって、主観としてあるときというのは、思考活動しているとき

私が自己意識を持つのは、私が思考を自分の思考に向けて、私自身の主観を客観したとき

『思考=私』であるとき

そんなときには私は自己を対世界に確立して中心として能動的に活動する

思考の恩寵がかっているときに

思考って誰?

思考のもっとも固有の本性が主観であるとは

主観とは何なのだろう?

能動性とは?





思考が、私を自分の自己から引き離す?!

2014-08-10 22:02:21 | 第4章 知覚内容としての世界
note

我々は思考によってはじめて

自分を
主観として規定し
客観に対置させる
ことが出来る

思考を
単に主観的なもの
として捉えてはならない

この関連
(思考する自己を主観として客観に対置する)
を持ち込んだのは
主観ではなく思考である

主観は
主観であるから思考するのではなく
思考することにより主観として姿を現す

それゆえ
思考する存在としての人間が
営む活動は
単なる主観的な活動ではなく
主観、客観の概念を越えるようなもの

私は、
自分の個別的な主観が思考する
という言い方を決してすべきではない

むしろ主観は
思考の恩恵によって
生命を得る

以上のように
思考とは

自分の自己を越えて私を連れ出し
客観と結びつける

と同時に
私を主観として客観に対置させることで
私を客観から分離させる

hasutama

難しい
自分の言葉で捉え直してみる

観察時には世界を客観している
客観とは、対象と自分が直接関わっていないもの、行動の主体ではない状況で、ただ観ること

思考しはじめると、対象に概念を付け加える作業を私が行うという意味で主体的となり、その時には主観となる

ただの客観ばかりでは、私は世界のお客様、なりゆきまかせの傍観者のまま

しかし思考しはじめれば概念を付け加えるという、生産的な行動の主人公になる

私は私がいることの意味、価値を見出すことが出来るとすれば、生産的、創造的な行為によってだろう

でも私がはじめから主人公であるから、だから考え始めたとすることは出来ない
なぜなら、私は逆に、考えるという作業によってはじめて主人公になるのだから

考えることが私を、単なる世界の傍観の状態から引き離し、一人前の行為者として客観に向き合わせてくれる

客観された世界も、私が主人公になることで生かされると言えるかもしれない

ただし、思考を単に主観的なものと位置付けるのは間違っている
こうした、主観、客観の世界を生かすような対置と交流をもたらすもの、それが思考なのである

私の個人的な主観が思考するのではない、思考は、私が単に個人的主観として存在している場から連れ出し、その後に客観に向き合わせるのだから

思考は主観、客観両方を見渡すもの、その彼岸にあるものと言える

自分の言葉での捉え直し、以上

以下、感想

最後のところはまだピンと来ない
客観を越えるという言葉で
自分の自己、単に個人的な主観、
から私を引き離し、連れ出すことを
意味するようだが、まだ説明が足りなくてイメージがはっきりしない

思考が客観、主観を越えるというが、ではどのあたりに位置しているのか?も不明である

今後の文章の中でより明確なイメージに出会えますように