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仕事、睡眠、用向き、雑事・・・合間の自由時間を半分削って、韓国ドラマ「薯童謠(ソドンヨ)」を見続け、すっかり深みにはまっている。
一時間もののドラマを一本見るとくたくたになる。娯楽だのに目が疲れ、神経が疲れ、肩だって凝ってくる。それだのにまた一本、腕枕したり姿勢を変えながらでも疲労に耐え、頑張って続きを見てしまう。
そしてさらにくたくたになる。
ある意味、これは病気のようなものだ。
バラエティーのお笑いの方が考えなくてすむし疲れも吹っ飛ぶし身体にはいいのかもしれない。だけどそれは自分が馬鹿になっていくようで見る気はしないのである。
いくら会いたいと言っても、あんな近くで立ってたら相手が気づかないのはおかしい。そんな偶然ばかり起こって現実味のないドラマなんて見る気もしない、バラエティー見てる方がよっぽどまし、という逆の話をしているのを耳にしたことがある。
まあ、人の好みはそれぞれだから口から泡を飛ばして反論する気はない。それはそれでいいのだろう。テレビ(映像放送)を一切見ない人だっているわけだし・・・人の好みや趣味は人それぞれだ。
「薯童謠(ソドンヨ)」でも主人公ソドン(チャン)とソンファ公主の間でこういう偶然が何度も起こる。
昨夜はソドンの祖父の遺骸(頭蓋骨)をめぐり、新羅のソンファ公主と百済の太子(テジャ)が会う際、百済の太子(テジャ)に同道してきたソドンとソンファ公主が部屋を仕切った簾(今でいうカーテン)を隔ててニアミスを起こす。
(これは二人が再会することのない段取りだなと直感したが、はたしてその通りになった)
祖父だとされる遺骸(頭蓋骨)を詳細に写し取り、太子(テジャ)に対して発したソドンの声に、作業が終わるのを待っていたソンファ公主はピクンと反応する。
ソドンの声に似ていると瞬間的に感じたのである。しかし、この場に彼がいるはずもない、との常識的な理性の邪魔が入ってそれを否定する。
ソドンも部屋を出ていく時、ちらと簾の向こうを見る。しかし簾はその向こうにいる人間の判別がつかないほどのものだった。
ただ、新羅からやってきた相手の全体の姿から主は女性だと感じたようでソドンはその後すぐ「誰ですか?」と太子(テジャ)に質問を投げかけている。
しかし、太子(テジャ)の答える場面は当然ながらカットされる。二人はここでの再会を果たすことはできない。
(ここで二人が再会してたらこのドラマはぶち壊しになる。むろん、小説ならこういったドラマチックな描き方はしない)
ここまでの場面が描かれて二人が再会できないのはおかしい、と考えてはいけない。ドラマを楽しむ者にはここはこれでいいのだ。ドラマとはそういう場面づくりで見る者を引っ張っていくように出来ているのだ。
何もかもがかなう予定調和ほどつまらないものはない。見る者に苛立ちを募らせてやるのも次の感動につなげる効果のひとつであったりするのだ。
ドラマ好きはこういったところを受け入れながら見るからどんどん先が楽しくなっていくのである。
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