「老子の霊言」が出ました。そして「荘子の霊言」も…。
このお二人、他の霊人のお話とは、趣がかなり違います。
ブログ主が若かりし頃、一番エライ思想家は老子だと思ってましたが、大川総裁の著作(最初の「老子の霊言」)で、「(天国で)ストライキをしているようなもんだから、そんなエライもんじゃない」と云っているのを読んで、「なんだ、そうか」とがっかりして以来、自分の価値観が崩壊してしまいました(笑)
最近の「霊言」の老子さんは、ますます、なかなかの“くせ者”デス。突き放したような、ミもフタもない人間観は、カミサマにしては冷たすぎる(笑)気もしますが、 霊的な自由の際限の無さは善悪を越えている…?精神(永遠の生命)というモノの得体の知れ無さを垣間見る気さえ、します。
「老子の霊言」はパラパラッと読んだだけで、買う気がしなくなりました(笑)が、リバティの紹介記事を読むと、やはり読んでみようと思います。
「魂があると思っていない人には魂はない(中略)。時間も空間も全部止まっている世界」
という“本当のコト”も、云ってるようですから…(笑)
ただ、「荘子」さんの方が、好感が持てます。(笑)
リバティの記事です。http://the-liberty.com/article.php?pageId=2&item_id=8907
幸福を考えないことの幸福 無為自然の幸福の道を老子が語る
2014.12.17
大川隆法総裁 公開霊言抜粋レポート
「自由でない人間は『死んでる』んだ」
「老子の幸福論」
10月18日
霊言を通して、歴史上の偉人、聖人の「幸福論」が次々と語られる中、大川総裁は、孔子に続いて、老荘思想で知られる老子の霊を呼び出し、人間の幸福について聞いた。
老子は、一般に紀元前6世紀の人物とされ、5千数百字による『老子道徳経』の著者として知られる。中国の神秘思想である道教のルーツの一人でもあり、思想的な大家と言える。司馬遷の『史記』では、若き日の孔子が老子に「道」について尋ねるというエピソードが記されているが、老子の実在を疑う声もある。
幸福の科学では過去にも複数回老子の霊言を収録している。過去の霊言では「人間の心は純白のスーツのようなもの。シミが付いたらすぐに洗って綺麗にしないと、パーティ会場に戻れなくなる」と語り、心を常に浄化するという仏教の反省にも通じるような教えを老子ならではの比喩で話した。
また、老子は「幸福」について2011年の『老子の復活霊言』では「君、人生は"昼寝"だよ。ゴロゴロして食っていけたら、もう、それで最高の幸福じゃないか」と語り、「仕事がないことは幸福なこと」「時計を忘れることができるというのが幸福」と、質問者を煙に巻いたりもした。
ただ、10月11日に収録した霊言「孔子、『怪力乱神』を語る」において、孔子の霊は「老子は霊的な悟りを得ていた」として、無神論・唯物論に染まる現代中国に関して、「儒教より、道教を流行らせた方がよい」と発言した。
そこで、改めて老子に霊的な「幸福」や、中国に必要な霊界思想に関して話を聞いた。
魂を信じない人の死後を語る老子
老子の霊は、「そんなに働かんほうが幸福だよ」と切り出し、時間に追われる現代人の幸福は、時計を捨てることから始まると諭した。前回と同じ思想を同様の表現で述べたことから、霊人の個性が一貫していることの証明にもなっている。
「霊言現象」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のこと。これは高度な悟りを開いた者に特有のものであり、「霊媒現象」(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる現象)とは異なる。また、外国人の霊の霊言には、霊言現象を行う者の言語中枢から、必要な言葉を選び出し、日本語で語ることも可能である。 詳しくは⇒⇒⇒大川隆法のスーパー霊能力 「霊言」とは何か
絶対的な不幸を感じたことが、無い人なのかなぁと。
神仏は、乗り越えられない試練は与えないと言われますが、渦中にあると大変ですね。
何でしょうかね、段階論的なものとは違うのでしょうね。
飛躍してるのでしょうね。
地に足がついてない…というより、地に足つけたくない!浮いていたい!地上から離れたい!人間であることからも?離れたい!(笑)…ということだったりして~
なんか、糸の切れた風船 のイメージが浮かんできます(笑)
そこは、荘子も似たようなモン(確か、荘子の霊言に、「人間はみんな地獄に帰る。天国に帰るのは一部の“浮いている人間”だけ。天使は“変わりモン”…」みたいなコト云ってませんでした?)
「自由な魂」って、すぐ“浮いてしまう”んでしょうか?(笑)
老子や荘子の(血も涙もないような?)“ドライな人間観”は、実は孤独や悲しみや(他人となじめない)不幸感から自由でいるための「自己(魂)防衛」に思えてきました。(老荘思想こそ究極の「人間幸福学」だったりして…)
「自分一人の幸福など考えたこともない」イエス・キリストなどとは対極に位置する世界観ですが、もしかしたら、地上に居た時理解されない悲しみや孤独感の深さはイエス・キリスト以上だったのかも知れないとも思います。)
傷つきやすさや繊細さが並外れていると、つらいので“人間離れ”していく…ということもあるのかも知れません。
そう考えると、人類を見捨てない神の優しさは、究極の忍耐強さの現れなのだと思い至りますね。
神が忍耐する理由は人類への愛しかない。
…と思うと、“老荘”みたいに「(人類という)団体」から脱走している場合じゃないと気がつきます(笑)
(ただ、その気になれば、抜け出すことも可能なのだという“抜け道”が一個あると、ホッとします。“戦闘意欲”を削ぐという点では、老荘の世界観ほど、役に立つ世界観はないのでは?やっぱり漢民族には「老荘」に帰って頂きましょう!)
金子みすずじゃないけど、天上界も「みんな違って、みんな良い!」の世界みたいですね。
老荘思想のドライさも、内に秘めた悲しみや弱さや優しさの裏返しかも知れないと思うと、身につまされます。(ナンテ、云ったら老子にバカにされそうですが…)