コロナウイルスのおかげで、日本中世界中が激変のさなか!夜中にふと見つけた、ブログ「温故知新」の記事。
8年前に書かれた記事にしては「今がその時!」な気がしたので、貼らせて頂きます。
「今、神が復活している!」と説いた加治木義博さんはすでにこの世に居られませんが、今天上界から地上をどうご覧になっておられるでしょうか?
地球最大の悪魔「共産主義」に真っ向勝負を挑み「幸福実現党宣言」をしても相手にされず、「我はソレ(地球神)なり」と自覚して多彩な活動を繰り広げても、政・財・マスコミ界によって無視され、宗教嫌いの日本人には嫌われがちの大川隆法「幸福の科学」総裁が「その人!」だと、生前気づいておられたのか?そこが気になります。
ちょっと前、「ベンジャミン・クレームの霊言」が収録されたと聞きました。彼が神戸に来られた時、講演を聞きに行ったことがありますが、「彼が言い続けている「救世主」がいつどこに現れるのか、だれのことのか?肝心のコトがさっぱりわからない!」と思いました。
案の定、大川先生の存在に気づいたのはあの世に帰ってから!
何も知らないで、世界中に「救世主降臨の予言」だけして回っていたようです。
加治木先生は日本に生まれて、日本に救世主が降臨することまでわかって居られて、大川隆法総裁の存在に気づかないで、どうやってこの「予言」を書き続けることができたのか?
そこが知りたい!ところです。
もし気づいていたなら、信者の一人になっていたはずだし、ソレについて語らないはずもないので、気づいてなかったと思われます。
ベンジャミン・クレームさん同様、あの世で気づいてびっくりされてるのでしょうか?
http://momo-matmkanehara-momo.blogspot.com/2012/02/blog-post_06.html
過去の歴史を通しての21世紀に対する心構え
2012年2月6日月曜日
《今、まさに神の復活期》
イエス・キリストは、この予言どおりに人の世に来て、
その予言どおりにことを果した。
彼は「真理]で道を示した。
「神」の期待どおりに……。
「聖母の大天使ミカエル」という意味の名をもつ
我がミシェル・ド・ノストラダムスは、
第三のイザヤと呼んでいい。
彼は今から四三五年前、
その『予言集』で新しいキリストの再臨を予言し、
その条件を細かに示した。
時は今、ところは日本、世は未曾有の混乱期。
そして諸々の悪魔の終末期。
まさに神の復活期でもある。
その日は、すでに訪れた。
イエスは「愛」を私たちに教え、
命を捨てて人の世の為に捧げた。
真の慰めである。
やがて訪れる救世主もまた、
さらに偉大な新しい贈りものを、
全人類に与えるという。
十八世紀英国の代表的知性デビッド・ヒュームは
「神や哲学の教科書で、量と数、事実と存在を追及せぬものは
雄弁と錯覚の産物だ。焼き捨てよ」といい、
十九世紀は「宗教は阿片だ」というマルクスの唯物論が葬り、
二十世紀はニーチェの「神は死んだ」で明けた。
しかし期待された唯物思想「民主=共産主義」は、
出発点からサチュルヌ=スターリンの「皇帝」即位で最悪の出帆をし、
粗暴米国と対立した冷戦構造で、
全人類を巻き添えに「大滅亡寸前」にゴルバチョフが出現、
世界もまた「建て直し」の新軌道に乗ることができた。
ゴルバチョフ氏こそ、まさにノストラダムスのいう
「アンテ・クリスト」であった。
そしてニーチェの宣告から一世紀。
「死んで」いた「神」はいま、本当によみがえった。
イエスがいったとおり、
「神」は私たちの肉体の中=「頭の中」に実在していたのである。
イエス・キリストは死んではいなかった。
そして予言どおり復活し、再臨したのである。
否、イエスだけでなく、釋迦も、ムハンマドも、ソクラテスも、老子も孔子も、卑弥呼も、
いや、アトゥムも、マルドウクも、ゼウスも、ブラフマンも、ヴィシュヌーも、ヤーべも、
アフラ・マツダも、オーディンも、アラーも、天帝も、天照大神も、全人類の全ての神々 、
そしてノストラダムスまでが、「再臨」したのである。
これでこの私の仕事も終わった。
ある人が私に尋ねた。
「どうして……!? こんな本が! 書けたのですか!?…… 」と。
私は
「心が静かに澄みきっている時、
すべてが透明に、真実が見えるのです」と、答えた。
お陰で私は、
「黄金の世紀」と
「至福千年紀」の
開幕を告げる本書を、
皆様にお贈りすることができた。
あとはご一緒にその実現の日の訪れを、
心静かに待つだけである。
二十一世紀には必ず真の幸福が訪れる
《二十一世紀には必ず真の幸福が訪れる》
《二十一世紀には必ず真の幸福が訪れる》
この現実的な例に加えて、
基本的な例を挙げてみよう。
それは過去の「常識」「道徳」の徹底的な「洗い直し」ができる人物である。
一人一人の個人が世界を構成しているのだから、
個人の生き方が世界の未来を左右する。
新しいキリストは人類に
「新しい生き方」「新しい健康法」「新しい知識」などを教えられる
「超能力者」でなければならない。
彼の超能力は魔術的なものではない。
それは「未来」に対する優れた洞察力であり、
知識なのである。
彼でなければ描けない「未来図」こそ
『 至福千年紀』 の設計図であり、
それを人類が手に人れない限り、
人類には「安らかな未来」はない。
そして過去のそれのように、
人類は、「手探り」の、
不安な試行錯誤の世紀を、
送り迎えねばならないのである。
しかしそんな心配は少しも必要ない。
ノストラダムスが「二十一世紀には必ず真の幸福が訪れる」と保証している。
それは神も動かせない「決定ずみ」のことなのだ。
いまはその救世主の出現を待つだけだが、
彼はどんなふうに私たちを訪れるのだろう?
今からちょうど二千年前、
イエス・キリストが現われたが、
その出現の何世紀も前に、
「第二のイザヤ」は、こう予言した。
「我が援ける我が僕。我が心歓喜ぶ、我が選びし人を見よ。
我、我が霊(たましい)を彼に与えたり。
彼、異邦人に道を示すべし。
彼は叫ぶことなく、声をあぐることなく、その声を巷に
聞こえしめず、また傷める葦を折ることなく
ほのぐらき灯し火を消すことなく、
真理をもて道を示さん。
彼は衰えず、気落ちせずして道を地に建設(た)て終らん。
諸々 の島は、その教えを待ち望むべし。
天を作りてこれを述べ、地とその上の産(なりいで)物とをひらき、
その上の民に息を与え、その中を歩むものに、霊を与え給う神エホバ
かく言い給う」
『イザヤ書』第四十二章一~五
2012年2月4日土曜日
『ノストラダムスの予言集』 は明るい未来を約束する『 第三の聖書』
《『ノストラダムスの予言集』 は明るい未来を約束する『 第三の聖書』》
《『ノストラダムスの予言集』 は明るい未来を約束する『 第三の聖書』》
ノストラダムスの目的は、間違いなく、こうしたことを教えることにあった。
その意味で『予言集』は決して予言書ではない。
予言が書いてあっても預言書と呼ばれないものは『聖書』もそうである。
「いや、しかし『聖書』には、予言以外に[救世主キリスト]について書いてある」
というなら、
『予言集』にも[新しいキリストの出現]が書いてある。
それだけではない。
澄んだ心で、その詩を一つ一つ深く味わえば、
それは私たち人間が、どう生きるべきか、何をしてはいけないか、
未来はどうあるべきか、どうなるか、限りもない教えに満ちている。
『旧約聖書』が第一の聖書、
『新約聖書』が第二の聖書とすれば、
このノストラダムスの『予言集』は
『第三の聖書』 というべきものだったのである。
だが嬉しいことに、この新しい『聖書』は、
二つの先輩が苦悩と恐怖に満ちているのに比べて実に明るい未来を約束し、
まもなく訪れる二十一世紀には必ず真の幸福が訪れるという。
しかも彼の予言は間違いなく「決定済み」なのだ。
あとはその救世主の出現を待っだけだ。
彼は一体どんな贈り物を持って、私たちを訪れるのであろう?。
人類を教え導いて真の「黄金の世紀」を迎えることが、
新救世主の任務であることは間違いない。
彼の思想は崩壊した共産主義や、
不治の病根をもっている資本主義に代わる、
完全なイデオロギーだというが、それはどんなものなのだろう?
過去を振り返ってみると、
失敗した共産主義の生みの親マルクスも、
決して悪意で構想したのではない。
同じことはヒトラーにも言える。
彼等は人並み以上の「善意」で行動したのだが、
現実は彼らの夢想とは遠く離れていて、
手におえるものではなく、愚かな頭は独裁に引きずりこまれて、
無残な殺数に手を血で汚し、
描いた夢とは正反対の悪魔になりさがって、
結果は最悪だった。
そのほか有象無象(うぞうむぞう)と現われた
過去の反キリストどももまた善意の人だったはずだ。
しかも悪い結果に終わったのは、全て「無知」のせいなのである。
人類は二十一世紀の新しく正しいモラルを必要としている。
戦争屋どもが教えた旧式の封建制度の遺物では未来は破滅以外ない。
遅れに遅れた古代のモラルのままでは、
もう人類は、まともに生存できない時代に来てしまった。
だからといって今の世界の国々は、彪大な政治機構を構築している。
モラルに外れる、無駄が多すぎるといっても、おいそれとは解体できない。
「悪いことは悪い」「目には目」という処分だけでは、
手のつけられない後遺症がのこる。
それでは余りにも無責任に過ぎる。
だからそれらの損害と、国民の未来と、どちらが重いか区別がつかない説である。
そんな白痴的な政治家でなく、
そんな説もまた「一掃」して、
真の「世界の建て直し」を遂行できることが第一条件だ。
そんな人物こそ、全人類が待望する「救世主」なのである。
2012年2月3日金曜日
運命は本人の選択で変えられる
《運命は本人の選択で変えられる》
《運命は本人の選択で変えられる》
だからそれは、絶対に逃れられない[運命]でも、
決して動かせない[宿命]でもない。
ノストラダムスが『 アンリ二世への献辞』中で
「私の予知能力は……我が神と自然による」。
と書いている真意は、その天体軌道のように一定の、
避けることのできない大きなコースのことであり、
「Fato=運命、Deo=神、natura=自然」とラテン語で特筆大書し、
「天に救われる運命の予言はできない」と念を押しているのは、
「運命は本人の選択で変えられるから、予言できない」という意味である。
だから人類が辿る大きな流れは動かせないが、
その範囲内でなら自分の運命は動かせる。
ただし、いつ、どこで、何が起こるか。
何が善で、何が悪か、どう対処するのがいいか、
といったことを前もって知っておかないと、それはできない。
従来の解読者たちの「一九九九年人類絶滅説」は、
その原因に戦争、核、公害、堕落などを挙げている。
しかしそれらは「我々 が選択し、取り除くことのできる禍い」でしかない。
だから、本書の出現が、我々人類の未来を、さらに明るくしたことを確認しておこう。
従来の解読者らは警告者を装いながら絶望を吹きこんだ。
昔からインチキ予言者どもが繰りかえしてきた「世紀末予言喜劇」の現代版である。
だが今は、もう恐れる必要はない。
私が恐れるのは、この事実を知らない人々 に、
この事実を知らせるのが遅れることだ。
全ての書物の著者は、私も含めて例外なく
「人類全体に責任のある公人」の義務を負う。
悪に対して煮えきらない暖昧な態度をとることは絶対に許されない。
だからこそ私は心で見たとおり、正は正、悪は悪と厳しく
「人類全体の眼」で、はっきり書いた。
だがそれにも増して人類の悲劇を少なくしたのは、
この新しい哲学によって生命の現実が明瞭に見え、
人々が[大いなる諦観」をもつようになることである。
人間はゴミのような小さな存在なのに「自分は一生神様に守られている」などと妄想し、
野獣のような自信をもち、勝手気ままに振舞うかと思うと、
ちょっと挫折しただけで自暴自棄になり、犯罪者や廃人になる。
しかしそれは未来が[決定済み]だと知らないためである。
この真理が分かってみると、それらの「不運]は前もって決っていたことで、
今さら嘆くことも悩むこともなく、後悔することもない。
だからといって毎日の生活が、磯知なくなるわけではない。
自分自身の働き相応に、幾らでも楽しい日々を送れる。
実に大きな救いである。
ブログ主は加治木義弘(かじき よしひろ、1923年 - 2016年)という人。wekiにも載っている学者さんでした。
加治木義博
人物
鹿児島県出身。歴史言語学者と自称し、文化人類学の分野でも独自の研究を続けた。[1]「言語復元史学会」という団体を主宰している(学会と名乗っているが、これは日本学術会議協力学術研究団体ではない)。元同盟通信社記者、元大阪府文化財保護審議委員会委員。
言語の変化とその伝わり方から、その背景にある歴史を浮かび上がらせる手法をもちいており、古代日本の言語の変化を調査して、その時代変化から古代における国家の変遷を考察した書籍を数多く書いている。ただし、その内実は、エラムと永良部、アテナイと嘉手納を結び付けるなど、日本語と外国の似た地名や人名を結びつけるものが多く、歴史を題材に採った語呂合わせ大会と評する者もいる[2]。
また言語の専門家としての立場からノストラダムス『予言集』を解釈したと主張した『真説ノストラダムスの大予言』(KKロングセラーズ、1990年)はベストセラーとなり、1991年のベストセラー「新書・ノンフィクション」部門第2位、総合部門第19位にランクインした(東販調べ)[3]。
要するに、今や「トンでも本」扱いされている本をたくさん書かれた著述家さんのようですが、上の記事を読んでもわかるようにこの方が独自の手法で探求した結果得られた「結論」や「論考」には、トンでも扱いし批判する学者たちの冷笑などモノともしない、真摯な熱意や使命感に溢れています。
万が一、彼が信じた通り「救世主」が日本に出現し、ノストラダムスの予言通り「東の国が黄金の千年紀を開く」ことに成功すれば、彼は予言者の使命を果たしたことになるのでしょう。
そうなってほしい!と願わずにはいられません。
明日は何が起こるかワカラナイ!今となっては、時代が彼(そして我らが日本!)に味方し始めた気がします。
おもしろくなってきた~!!!
ところで、「オ・モ・シ・ロ・イ」 って何!?
日本語って オモシロー!