http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/cce7b7035dfdb3bc32c7765258ea2b41
理想国家日本の条件 自立国家日本
支那人の多くは農民です。日本軍の言動を間近に感じて親日になる人が多かった
http://hrp-newsfile.jp/2014/1680/
文/幸福実現党政務調査会 佐々木勝浩氏
◆聖職者がウソの証言をした理由
東京裁判では宣教師が日本軍の虐殺や、強姦があったことを証言しました。裁判では、その証言が検証されないまま採用され判決が下されています。
では中立の対場であるべき、神に仕えるアメリカの聖職者である宣教師の証言は、本当に信用
できるものだったのでしょうか? その証言はあまりにも信憑性に欠けるものでした。
その理由の一つは、アメリカの宣教師にとって、4億人の人口と近代化が遅れている中国は最大の布教地だったからです。歴史的経過として南京大学や鼓楼病院をつくるため、アメリカのキリスト教関係者はアメリカで募金を集めてきました。
それは明治の終わりから始まって、大正までずっと続いてきましたが、信者が思うように増えませんでした。
それで昭和に入る頃には、もう中国大陸への伝道をやめようじゃないかという声がアメリカで起こったわけです。
宣教師の中には帰国命令を受けた人もいます。宣教師としては、大陸伝道を何とか頑張ろうと、布教活動をアメリカに認めさせる必要があったのです。そのために日本を悪者にする必要がありました。
つまり「中国人は本当にかわいそうだ。それは日本人のせいだ」とアメリカへの報告書で強調し、日本から受けた市民の被害を針小棒大に書いて、「だから布教をやめてはならない」とアメリカを説得しました。
これが宣教師のウソの証言につながっています。
◆中国を愛するアメリカ人たちの証言
また南京にいたアメリカの宣教師たちは、日本軍が攻めている中を、よく生き残ったのですが、
10年前(1920年代)以下のようなことがありました。
その頃、南京では軍閥が占領しており、そこに蒋介石が攻めてきました。蒋介石軍が攻めようが、そのときも
南京大学や鼓楼病院も無事で宣教師たちも生き残ったのです。
例えばこのときに生き残ったウィルソンという鼓楼病院の医師は、中国で生まれています。他にもYMCAの理事をやっていたフィッチも中国で生まれています。彼らにとって中国は自分の国のようなものです。
また宣教師のベイツやマギーはアメリカで生まれていますが、20代に南京に渡ってきており、アメリカ以上に南京の生活が長く大陸に非常に愛着を持っています。
こうしてアメリカの宣教師は、明治の終わり頃から施設もない南京に大学や病院を建て
30年、40年支援を続けてきました。
宣教師は最初の頃は病院や大学をつくって布教できましたが、なかなかそれが通用しなくなり、こうした時期に戦争が起き医療、薬が必要になったのです。
アグネス・メドレーの「戦争は彼らにとって神からの贈り物だ」という言葉もありますが、宣教師たちは、戦争を布教のチャンスととらえたのです。
◆マギー証言――「私が見たのはたった一人です」
こうして大陸で伝道をしていくための論拠として宣教師たちの日本軍に対する証言が針小棒大になっていきました。牧師のマギーとベイツが中心に東京裁判で日本軍による南京虐殺を証言したのです。
マギーは、東京裁判で「日本軍が来ると市民から時計から何から全部奪った。それから至るところで次々と殺していった。強姦もたくさんやった」と、日本兵のやった残虐な行為を2日間に亘って証言しました。
こうした証言の最後に日本の弁護士が反対尋問したのですが、そのやり取りが以下です。
弁護人「マギー証人、それではただいまお話になった不法行為、もしくは殺人行為というものの現行犯を、あなたご自身、いくらくらいご覧になりましたか?」
マギー「私は自分の中にはっきりと申してあると思いますが、ただわずか一人の事件だけは自分で目撃しました」
2日に亘って「日本軍がいたるところでやった殺人や殺戮」を証言したのにも関わらず、マギーは、自分が目撃したのは「たった一人です」と答えているのです。
また強姦に関する証言でも、弁護人が問い詰めるとマギーが見たのは「たった一件だけ」でした。
聖職者がまさかウソを言うはずはないと思うわけですが、実際には噂、伝聞の証言をしました。
こうして見てもいない、検証もされない証言がそのまま採用され東京裁判で「日本軍は20万人の市民を虐殺した」
という判決が下されました。松井石根大将はこうして汚名を着せられたま死刑になったのです。
それが現在でも日本の教科書では、「南京大虐殺」として教えられているのです。
中国から謝罪しろと言わたら、本当の真実も知らずに「すいませんでした」と謝罪してきたのです。
戦後70年、そろそろ日本人は本当の歴史を世界に説明し、その汚名を晴らさなければ、私たちの子孫もまた世界から「いじめ」を受けることでしょう。
その汚名を晴らす役目は、いま生きている私たちの世代の役目でもあります。
次回、「戦争で勝って宣伝戦で敗けた日本」と題して、お送り致します。
--------
◎幸福実現党公式サイト http://hr-party.jp/
参考記事
誰も見ていない、誰も知らない南京大虐殺
。http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20111217/1324078987
南京虐殺のウソ 転載、させていただいた記事です
大虐殺を見た人も、認識していた人もいない。
昭和12年(1937年)12月13日、支那事変南京戦で日本軍は南京城内に突入しました。大東亜戦争後、
ここで30万に及ぶ大虐殺があったと言われてきました。
南京は城壁に囲まれた城内と城外があり、城外は支那国民政府軍による焦土作戦により目茶目茶に
なっていました。城内と城外の下関(シャーカン)は40平方キロほどの広さで東京の世田谷区58平方キロより狭いくらいです。日本軍突入と同時に多くの報道陣が取材し、朝日新聞は80名、東京日々新聞
(毎日新聞)は70名の取材班を投入しています。南京を取材した記者たちは「南京大虐殺」など見たことも聞いたこともないのです。
朝日新聞・山本治上海支局員
「(虐殺は)全然みたことも聞いたこともありません。夜は皆集まりますが、そんな話は一度も聞いたことはありません。誰もそういうことを言ったことがありません。朝日新聞では話題になったこともありません」
東京日々新聞・佐藤振寿カメラマン
「(虐殺は)見ていません。虐殺があったと言われていますが、16、7日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出ていました。また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まっていましたから、とても虐殺行為があったとは信じられません」
城外でも朝日の記者が「幕山では、最後の一人まで、チェッコ(機関銃)を握って皇軍に抵抗していた少年があったよ」と取材しています。
ニューヨーク・タイムズのダーディン記者、シカゴ・デイリー・ニューズのスティール記者が「大規模な虐殺」「非戦闘員の殺害」と報じていますが、パラマウントやロイターはそのようなことは書いていませんし、南京の国際委員会が報告した殺人は49件で確認されたものはゼロです。
ダーディンらの記事は金陵大学のベイツ教授(裏の顔は国民党政府顧問)のプロパガンダレポートをもとにしたようです。
支那には宣伝部というのがあり、日本軍の非行があったとして、プロパガンダをまき散らしており、代表的なものにディンパーリの「戦争とは何か」という本があります。このほか金陵大学のスマイス博士も自己の調査では非戦闘員被害が少なすぎたので、12,000という数字をでっちあげ、郊外の被害者調査を巧妙な手口で水増しし、3万という数字を出しています。
当時、日本政府も内閣直属機関「興亜院」がこうしたプロパガンダは把握しており、吉田三郎氏が
「支那における第三国人の文化施設」という報告を行い、スマイス調査を「科学的な研究という面を被った
排日宣伝文書」「支那軍が逃げるときに放火したために焼けたものまで皆その中に一緒に入れてある」と
見破っており、ティンパーリの「戦争とは何か」についても「排日宣伝文書」と指摘しています。
南京の国際委員会が日本外務省宛てに殺人49件他、傷害、強姦などの抗議が来ており、これに対し、
外務省東亜局長、石射猪太郎は「上海からの来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。
掠奪、強姦目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か」と日記に書いていますが、「虐殺」とは言っておらずまた、国際委員会の報告も検証されたものはありません。現場に確認に行くと何もないことばかりでした。
支那国民党は南京陥落から2か月後の昭和13年(1938年)2月に国際連盟で「2万人虐殺」を演説しましたが、その2か月後にアメリカの大使館付武官であったキャーボット・コービルが調査のため南京に入りました。
しかし、「虐殺」「殺人」といったことは報告されていません。
支那国民党も国際連盟で演説したにも関わらず、南京陥落から11カ月間、漢口で300回の記者会見を
開きましたが、「大虐殺」については一言も言っていません。外交ルートを通じて日本政府に抗議もしていません。
30万人が殺害されたのに当時、誰も見ていないし、誰も知らない。日本政府も支那政府も認識していないし、世界も認識していないなんてことはありえないでしょう。南京虐殺・・・それは虚構です。
中国の土台は日本が作った
一部転載 http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n262714
この写真は日本兵と支那の子供たちが遊んでる様子。こういったことは中国各地で普通にあったのです。
倒れた孫文の銅像に国民党旗を優しく掛けてあげている日本兵。戦場でも敵に対する敬意は忘れてません
日中戦争では戦闘が終われば敵味方関係なく、亡くなった兵士を埋葬し墓を作り慰霊祭によって弔ってました。
「中国無名戦士之墓」と明記された墓標に深々とお辞儀(最敬礼)をする日本兵。
戦場とはいえ武士道精神は忘れていないのです
支那人の子供と記念撮影。日本兵は子供を可愛がる人が多かった
日本兵は現地の支那人と仲良くやってました。治安維持だけでなく復興支援、
食料配給や治療などをやってたので好感度は高い方でした。
支那人の多くは農民です。日本軍の言動を間近に感じて親日になる人が多かった
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます