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(更新)「愛」と「原発」と「自然エネルギー発電」

2015-05-06 08:50:02 | megamiyama

青字部分書きなおし)

これも「弥栄の会のブログ」。

タイトルに惹かれて読んでみましたが、「正義は愛の中にしか存在しない」と書いておられるのは立派ですが、感動されたという例のお騒がせ教授の動画には、ちっとも感心しませんでした。

しかし、脱原発派の“大先生”でさえ、水力、風力、太陽光など自然エネルギーに懐疑的だとわかったのは収穫でした。

「ダムを作るときには、魚のお母さんの話も聞くべき」とか、「水力も風力も太陽光も生きとし生けるものみんなのものだから、人間が勝手に独り占めして使っちゃいけない。その分エネルギーが損なわれて、必ず悪い影響を周囲に及ぼす」「利他の精神が必要」みたいな…お話は、いわゆる理系の学者さんからフツー聞ける話ではありません。(ならば、やはり当面は原子力に頼るしかないという結論になってしまいますね。)

失礼ですが、「少なくとも県外」と云って基地移設できなくしておいて、「やはり、米軍の海兵隊は必要と勉強してわかった」と云ったハトヤマさんの無責任極まりない“トンでも発言”を思い出してしまいました。

“悪い人”ではないのでしょうが、国益や住人の安心や幸福を損なう方向に人々を誘ってしまう「危険極まりない人」がときどきいるようです。(理解に苦しむ発言を繰り返すのは、思考回路が普通の人と違うのでしょうか?頭のねじが一本外れているのでしょうか?)

確かに、生きとし生けるものへの配慮が人間には欠けがちであることは、否めませんし、できるだけ環境に負荷をかけない方法があれば、それに越したことはないでしょうが、「人間のすることが環境に負荷を与えるなら、何もしない方がまし。」という考えには、人間の活力を削ぐ危険な考え方が潜んでいる気がします。

人間が独り生まれれば、その分だけ新鮮な食べ物(つまり生きた動植物)が必要になりますし、自然資源やエネルギーも使われます。自然を損なわないということが最優先されるなら、人工物をつくることは悪になってしまいますし、人類の進化・発展など、なんの価値もなくなってしまいます。そもそも、人類が地上に存在する意味さえなくなります。

「利己的になってはいけない。利他が基本。」も、過激になると自分の存在価値を貶める方向に行き、人類にとって危険思想となります。(左翼思想が、弱者(この場合自然?)を優先して、国民(この場合人類)の自由や繁栄を圧迫するのと同じ!ですね。)

やはりお釈迦様がおっしゃった「利自即利他」を基本とするべきでしょう。

なので、

 

「正義は愛の中にしか存在しない」とは言えても、

「物事を、善だ悪だ、賛成だ反対だと言っているだけの世界に正義はありません。」という云い方には、「ちょっと待て!」と云いたくなります。

岐路に立たされた時、自分自身の中に「何が善で何が悪であるか、どちらの道を選ぶのが正しいかの基準がないなら、他人や外国の判断に容易く飲み込まれてしまうことになってしまいますから、まずは「善だ悪だ、賛成だ反対だ」という自分の考えを、個人個人が表明することが大事なこと!ではないでしょうか?

戦後の日本では(それとも、もともと?)、衝突を恐れるあまり、議論することさえ躊躇する(要するに表面上は波風をたてないで暮らしたいという気持)風潮が日本人にはありますが、国内はそれで済んだとしても、国際間はもともとそれでは通用しません。

世界は未だに野蛮な戦国時代を卒業していないのですから。

しかも、人類の平和を実現する為…というより、人類を支配するために、世界統一を目論んでいる勢力がしのぎを削っているのですから、「和を以て貴し」とする日本精神が通用する“ヤワな世界”になるには、まだまだ程遠いことを肝に銘じておくべきだと思います。

「弥栄の会ブログ」さんも、典型的な、心優しい日本人のおひとりのようですが、「何が善で何が悪か」などそっちのけの新興国?や未熟な若者?にはまず、ソレを教えるのが、大人(の国)の責任であり、仕事ではないでしょうか?

「善も悪もない」 などと、大人(の国)が云ってしまえば、必ず真に受ける“未熟者”が湧いて出てきます。(善悪の判断を示さないで、どっちつかずに笑っている「日本」は、外国からみれば、ただの卑怯者にしか見えないでしょう。)

話が完全にずれていってます(笑)が、エネルギー問題然り、核戦争や国際紛争然り、二酸化炭素削減問題然り、中国問題然り、TPP問題や中国包囲網しかり、日本(と日本人)は大局的見地に立って「正義」を世界に示していく勇気が求められている今、まだこんなことを云っている方がいるのかと思うと、残念です。

以下に転載する「弥栄の会ブログ」さんには、勝手な反論ばかり書いてしまいましたが、つっこみどころ満載ながら(失礼!)、しかし真摯に「日本のお建て直し」を考え、独自に行動を起こされている点では、スピリチュアル系ブログの中では、異彩を放っているように感じましたので、紹介させていただきます。(知らないだけで、まだまだたくさんいらっしゃるのでしょうね)

「弥栄の会ブログ 」 

 http://earth.kurasu.biz/index.php?QBlog-20150223-1

中部大学・武田邦彦教授の音声メッセージ(2015年2月23日付)の紹介から。

 

かつて「石炭を焚かなくても水の流れを利用して電気を作ることができる」といって日本でも盛んにダムと水力発電所が作られたことがありました。私の小さい頃、ダムは日本の発展の象徴でしたし、水力発電所は自然と調和した環境によいものとして大いにもてはやされたものでした。

(中略)

ダムを建設するときには付近の住民を集めて説得するために公聴会を開きます。たとえば黒部ダムの場合は、ダムを造ってもただちに近くの住民にメリットがあるわけでもなく、関西電力はダムで作られた電気を金沢の方に送るのですから、近くの人から見ればダムだけができるということでもあるからです。
そこで電力会社は、国の発展のため、洪水がなくなる、観光産業が興るといろいろなメリットを強調して地元の賛成を得るという手続きを踏んだわけです。

でも、私は考え方が違い、15年ほど前の本に「ダムを造るときの公聴会には魚のお母さんを呼ばなければならない。そうしたら魚のお母さんはこう言うだろう。『私には育ち盛りの子供が2匹います。もしダムができたら水が涸れて子供たちは死んでしまいます。あるいは、ダムを放水する時にはどっと水が流れて来るのでそれでも死んでしまいます。人間にとっては、ダムを造ればテレビを見ることができる電気が来るからよいのでしょうが、私たち親子の生死がかかっているのです』と訴えるのではないか」と書きました。

(中略)

川は人間のためだけにあるのではありません。川の流れるエネルギーというのは、もともとは太陽の光が海水面を照らすバイオのエネルギーで水が蒸発し、それが上空で雲となり、風で流されて山にぶつかり、雨を降らせ、それが川となって流れるわけです。

元々は太陽のエネルギーであり、光なのですが、それを利用して生活しているのが魚であり、河畔に生えている樹木であり、川を転がる小石です。鳥がさえずるのも、平野ができるのも、すべて太陽のエネルギーの結果であり、それを自然は余すところなく使っているのです。

人間から見ると川は無駄に流れているように思いますが、自然は結構、節約家で、実際は川のエネルギーはとことん利用されているといって間違いないと思います。そこに人間が割り込んで川のエネルギーから電気を取るのですから、人間が電気を横取りする分だけ自然は痛むのもあたりまえです。

それが明らかになってきたのはダムを造ってから20年ほどたったときでした。日本ではダムの下流の自然が破壊されていきます。ダムの水の中には腐ったものがありますから、それを放水すると下流の川は全滅するという事態もありました。

(中略)

風力発電

それと同じように私が15年ほど前に書いた本に「風力発電は自然を破壊する」という一節を書きました。その時は社会から、「そんな馬鹿なことはない。風から電気をとったって風は何も変わらないじゃないか」というばからしいバッシングを受けたものです。

(中略)

でも、風もまた川と同じように太陽エネルギーの変形で、風が吹くから樹木の葉から水分が蒸発しで樹木が生きる。木は根から水を吸うが、主に葉から蒸発させて、人間が熱中症になることを防ぐのと同じことをしている。また地面も風が吹くから乾き、風が無くなれば苔だらけになる。そして花粉が飛び、鳥が舞うことができるのです。
ところが、その風から人間が電気になるエネルギーをとれば「エネルギー保存則」で風は弱まり、風の下手の樹木は枯れて、地面は湿気るのです。

ここでは風力発電、水力発電という二つの例を挙げましたが、私たちはあまりにも頭でっかちになり、それも中途半端な頭脳の理解と判断で、自分にだけ都合のよいことを「自然や他の生物も同時にメリットがある」と錯覚するんです。
現在は、太陽光発電なんか典型的です。石油を焚かなくてもいい。でも太陽光は人間だけではなくあらゆる生物が使っているから相当な打撃になる。

人間は心のどこかで、自分が何をしているのかが分かってるのだと思います。自分以外の生物のおかげで自分が生きているという事も知ってると思う。(中略)
つまり我々の心の中には「愛」というのが存在するわけです。それは利己的ではないわけです。ところが、短絡的な頭脳で考えると、すぐ利己的になります。
利他的な事、つまり共生が人間の本質ではないか? そうすると、それが現代人の最大のストレスになっているのではないか? 
つまり、我々は本当は利他的である。他を愛する生物である。ところが、他を愛する生物であるはずの人間が、頭脳で考えると利己的になる。それはおそらく人間の本来の心とは違うので、この歪みというものが私たちの心に大きな負担をかけているのではないかと思うのです。

大学の先生が「愛」をテーマにメッセージを発信しているので、私は感激しました。
そしてこの内容は、「原発を支持する人は悪で、水力や風力や太陽光など自然エネルギー発電を支持する人は善である」という理論は全く成り立たないことを意味しています。

武田邦彦教授は原発問題のスペシャリストであり、積極的に放射能の危険性を説いてこられた方です。また同時に、学者としてこのように中立的な発言をされてきました。
ところが、武田教授が原発反対運動の集会へ行くと「出ていけ!」と言われて追い出されるのだそうです。
この話を聞いた時に私は、原発に反対の立場を取りながら活動をしている人の中には、「社会活動家」と「抗議活動家」と別々に2種類いるのだと思いました。

社会活動家とは、物事を多面的にとらえて、具体的にどうすれば皆で幸せになることが出来るかを考える人であり、他を愛する心のある人です。
抗議活動家とは、自分が嫌いなものを問答無用で全否定する。抗議することが専門で、物事を多面的に見ることができない自己愛だけの人です。

このメッセージの中では黒部ダムが例に出てきますが、それと同じように福島の原子力発電所の電気は福島の住民に供給されてきたわけではなく、首都圏へ送られていました。
311が起こる何年も前から、佐藤栄佐久前福島県知事が先頭を切って国の原発政策の矛盾を指摘し、その危険性を主張して東京で公聴会を開いたりしてきた経緯があります。

しかしその間、原発の受益者である首都圏の人々はのんきなもので、311が起きて爆発してしまってから大騒ぎをして原発反対運動を起こしました。
福島にあった原発が爆発したら放射能が東京にも飛んできて自分たちにも影響しそうなので、怖くなってきたから反対運動を起こすのでは、福島の人々から見たら無責任極まりないことでしかないのです。

佐藤前知事は、原発自体に反対だったわけではありません。あの事故の原因は東電の経営者の問題などではなく、国の原子力政策の体質に問題があったと自己の著書の中で指摘しています。

福島の人々が犠牲になってくれたことによって、福島がいろいろな意味で教訓になりましたから、これから先、日本ではあのような原発事故はもう起きないでしょう。
今、福島の人々が望んでいることは、全国にある原発を廃炉にするかしないかという議論よりも先に、311で破壊された原発の収束作業や除染作業の進行を含めた健康被害の防止と、いまだに故郷へ帰ることができない住民たちをどうするかといった問題を早く解決して欲しいということなのです。
起きてしまったことを振り返って抗議活動をし、ただ原発反対を言っているだけの人たちは、その行動のエネルギーを福島の人々の思いへ向けて欲しいと思います。

物事を、善だ悪だ、賛成だ反対だと言っているだけの世界に正義はありません。
「正義は愛の中にしか存在しない」と、私は思うのです。

(やしろたかひろ)

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