昨夜のNHKスペシャルは<揺れる大国 プーチンのロシア>だった。
丁度昨日のブログを書いているときに放映されていたので、今朝の書きこみに。
ロシア革命下では<宗教は阿片>であったから、東ローマ帝国→ビザンチン帝国の伝統を継承したロシア正教はスターリン政権下では弾圧と言うより<粛清>された歴史を持つが、活火山が興味を持ったのは、人間と共同体の関係だ。
ソビエト政権下では、皆が平等で、医療費はゼロ、食、住が満たされ、病人でも、老人でも孤独にならない環境-地域的な共同体や職域的共同体が機能していたが、革命政権が崩壊し自由市場経済社会になって、職域や地域、家族などの共同体意識、構造が崩壊した。その隙間を埋めたのがこのテーマのロシア正教との番組展開。
ソビエト政権が崩壊して、ロシア正教がまずは市民権(生存権)を得、自由経済下で失われた共同体に替わるものとしてのロシア正教が、プーチン政権下で政・宗一体化することで、完全復活したとの内容。
<イデオロギーの差異をこえて、人間はすべからく共同体に帰属している>
は、活火山の持論だ。
概ねその共同体がノーマルに機能している社会は、非常に住み心地の良い社会だ。
コミュニケーションが潤沢な家族の光景はまさに理想的を通り越して、修身の教科書的シーンだ。
地域的なレベルで見ても、例えば、<祭り>の盛んな地域は、人間同士の付き合いがポジティブな傾向がある。
あまりにもその傾向が強く、たまにはそこから開放されたいくらいの願望が時として湧くぐらいだが、三日目には戻りたいくらいの居心地の良さを経験した人は多いはず。
日本社会は地縁、血縁、神社、仏閣、経済活動を通して、共同体を形成してきた。
祭りの法被、職人の法被、商店の法被、トビの法被がヤクザ社会の法被、それを着る者が帰属する共同体の一員であることをオーソライズしている。
この共同体に帰属している限り、孤独に苛まされる事はまず無いのが普通だ。
昨今、訳の分からない事件が多発する。
その反社会的な個人は、今の競争社会や経済社会、地縁から疎外されたかのような錯覚から、ネット社会なる世界にその存在を証明させ、犯罪に走るらしい。
番組を通して、<共同体なるもの>の存在を改めて認識させられた活火山だ。
それにしても、昨日のブログで紹介したキンピラごぼうは今朝も食したが、なかなか美味い。
包丁にはこだわる活火山だが、板場の修行経験は無い。
その活火山が包丁で下ごしらえする<ごぼうの笹がき>はササのような繊細さは微塵もなかったが、やはり道具だ。
繊細な<ササ>加減は、味を絶対的に左右する事を身をもって知らされた。