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ブログ katsukazan/活火山★時々の四方山話

16年ぶりの映画の話し3-3★kazan少年のシネマパラダイス

前投稿では、1965年頃、日活映画の看板スターは、出演する映画の主題歌を歌い、それが映画の構成の中に組み込まれているという、経営学的に、且つ、今流に言うなら「日活映画的ビジネスモデル」だった認識してます。


少年時代、毎週土曜日の午後に通い詰めていた日活映画は、田舎のkazan少年の、正にシネマパラダイスでした。

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当時としても、映画では、白木マリが薄手・露出度がかなり多いステージ衣装で、艶めかしく踊るシーンや、そこそこのラブシーンがあり、さらに、次回上映予告編では、18歳未満厳禁でありながら、左幸子・「日本昆虫記」や春川ますみ「赤い殺意」のそこそこのサワリを予告編で見れるのですから、少年ごころに怪しげな、禁断の世界をそっと覗けるようなワクワク全開です。

その意味で、後年知ったジュゼッペ・トルナトーレ 監督の「シネマ・パラダイス」など、全く寄せ付けないレベルの濃厚さと、背伸びした大人の世界があったでデス。


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1970年代の終わり頃、早川雪洲(俳優)と親しい映画人のご遺族との接点があって、そのご縁でお住まいにお邪魔したことがあります。

早川雪舟夫人宅は、目黒◯◯◯通りのマンションの上階にお住まいで、どうやら、UFOマニアでマンションのベランダ越しに羽田方向を指さし、「見えたのは向こうヨ!」と、小一時間ばかり、UFO談義を拝聴させられましたことを覚えておりますデス。

その早川雪洲の親友に阿部豊映画監督がおり、その後遺族と何度か港区のお住まいでお目にかかったことがあり、その時、初めて、高名な監督が新東宝映画の契約の監督であったことにびっくりしたことがあります。


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驚いた理由は、新東宝映画に対する以下のようなイメージがあったことが理由です。

少年期というより学童自時代、父親に連れラレテ、新東宝映画・嵐寛寿郎扮する「明治天皇と日露戦争」を見にいったことがあります。

kazanの町では、その一角には封切り館として、新東宝、東映、洋画上映館の三館があって、別場所の映画館街から離れたところにありましたが、東映は「笛吹童子」など、子供ごころをワクワクさせる時代劇を、近所のガキ大将に連れられていったという、ほぼ馴染んだ場所ながら、隣の新東宝は初めてです。

いやはや、驚きましたデス。
新東宝の外廊下の壁面いっぱいに貼られた新東宝映画のポスターが、今流で言うなら、「エロい」のです。

半裸の女性がデカデカ写された構図や、SMの世界、団鬼六的ロープ縛りがあったり、ローソクもあったかも。。で、子供ごころでも、「危ない世界」をインプットしたハズです。

つまり、「新東宝」というキーワードと、往年の大物俳優やその親友である著名な監督がリンクされているという違和感に驚いたからでしょう。


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いつか記事に起こしたいと思いますが、新東宝は、戦後の東宝映画の労働争議から、経営上のソリューションとして、「新東宝」ができた。。

やがて、新東宝は映画マン、シネマ人が予算度外視した重厚な作品を制作し、経営が傾きました。

そこに、よく言えば風雲児・大蔵貢氏が経営権を握り、ヒタスラ「エロ」「グロ」というなれば、「わかりやすい」娯楽・大衆路線に切り替わった。

その結果、独特の映画風土ができたということらしい。
新東宝や大蔵貢、大蔵映画、大蔵ピンク映画、ピンク・成人映画でのパットカラー映画といったキーワードでググれば、香ばしい情報をヒットできるはずです。

■3-1

■3-2

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