今年も、あと三日を残すかぎりとなりました、
個人的には、ここ数年間の中で一番充実して、家族的にも幸せな年でした、
しかし、いまだに被害が進行している国難とも言える東日本地震災害が
起こった年でもあります、3月11日(金)震源地から遠く離れた
*約1000k
我が職場でも普段と違う地震の揺れを感じこの様な、ゆったりとした揺が起こる地震もあるのだと
思った次第です、
*阪神大震災時には我々には直下型の激しい揺れを体感したので・・・
しかし震源地は我々が想像もしないような大津波が地震発生時よりすぐ
後に襲て来ていたのです、
それはそれは言葉には言いあわらせない状況で、
いくつかのメデアで報道された映像はまるで映画の1シーンの様に感じたものです、
いかに文明が発達しても対自然の猛威には人間なんて本当にもろい物だと
改めて思い知らされた事でしょう、
実は、この状況時に東京在住のある若い医療に従事する女性が医療スタッフとして現地に入り
現状をつぶさに体験されたブログを読んだのですが、
あまりにもリアルな現場の壮絶な状況に長文でしたが、一気に読んだのです、
あれから9カ月が過ぎ住み慣れた我が家を無くし不自由な仮設住宅や
故郷を捨てて疎開されている人々そして放射能と言う新たな難問を抱えたまま
年越しを余儀なくされる方々が現実に多く居られることを我々は忘れてはならないと思うのです、
是非お読みください、我々が今年起こった現実の大災害を忘れないように!
長文になりますが彼女のブログの一部を掲載します
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被災地へ医療スタッフとして行ってきました。
1、被災地へ。
3月11日
午後2時46分。
東北関東大震災。
被災地の皆様、被災地以外でも様々な影響を受けている皆様、
1日も早く元の生活に向けて復旧しますようお祈り申し上げます。
多くの犠牲者の方々、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
今回放置状態だったこちらのブログを一時的にアップしたのは理由があります。
3月15日
私の勤務する病院でも災害対策支援医療チームが発足されました。
救命センターの中から私も被災地に行くことになり、16日から23日までの第一陣のチームで
そこで見たものや
感じたこと、どうにもならないこと、
私なりの文章でお伝え出来ればと思います。
決してきれいごとではなくて
どんどん増えていく被害状況や泣いている人を見て自分には「今」何が出来るか
何をすべきかあの地震の日からずっと考えていました。
この仕事をしている以上、きっと何か出来るんじゃないかとずっと思っていて
オファーが来たときは「これだ!」と思いました。
前日に資料を配られ医療チームでの協議に参加。
荷造りに必要なものの中に財布やお金は不要と書かれていました。
持って行っても使い道はない、食事や睡眠は確保出来ないと思う事、トイレも仮設トイレは被災者優先と。
そして他院のリーダーナースとして指揮をとる方からの挨拶。
『想像以上に現場は壮絶。甘い考えやボランティア精神の人はここでリタイアしてください。
現場ではどんな状況下においても絶対に泣かないこと。
私達は同情しに行くんじゃない。看護、医療を提供しに行く。あなたたちが泣きたい気持ちなんかより
現地の方々はどんなに泣きたいか。こんなに裕福な東京医療チームの涙なんて現地の人には迷惑や嫌味だからね』
へたれな私はもうこの時点でドヨーンとした思いでした。
ばっちりメイクの先輩も名指しで呼ばれて
『化粧なんてして来ないように』
協議が終わって部屋に帰ってからは不安な気持ちを紛らわせたくて
お友達にメールしたり
被災地に行く宣言をすることで自分に気合いを入れていました。
しばらくあったかいものも食べられないと思って
つけ麺も頑張って2玉食べました(´`)
実家も被害を受けていたけど様子を見に行きたくても交通機関が復旧していなくて帰れないし
医療チームとして明日から被災地に行くことを母に電話して
背中を押してもらった気持ちになりました。
『実家のみんなはピンピンしてるから
困っていたり大変な思いをしている人の力になってきな~』と言われてすごく元気になりました。
もちろん出発前夜は何回も荷物の確認をしたり
明日からのことを考えてあんまり眠れず朝を迎えました。
そう、一時的にこちらを再開したのは医療支援に行くからには私が見てきたものや感じたことをみんなに伝えなくてはと考えて
その日その日が終わるたびに携帯メールに日記を残すことを決め、まとめてこちらに載せようと思ったのがきっかけ。
なかなか文章ではあらわせないことばかりに向かい合ってきたので
うまく伝わらないと思いますが・・・・。
2、初日の自分。
3月16日
出発日に自分の行く場所を発表されました。
「あなたは陸前高田」
被害の大きかった岩手県の陸前高田への医療班を告げられ空路で移動。
先輩たちは福島、宮城とそれぞれチームが分かれました。
東京の病院から各チームごと
点滴、薬、包帯、湿布、オムツ、ナプキン、ガーゼ、マスクetc
1万単位の数であらゆる物流手段で移送。
一万個、一万本、一万枚がこの後全然数が足りないことも知らないまま。。。
いつも仕事で着ている白衣ではなくジャージのようなスモッグにNURSE・看護師と印字されたユニフォーム。
空から見ても栃木を越えたあたりかな?
福島上空になると屋根が壊れた家や街並みが増えてくる。原発も見ました。
指揮官ドクターに「海沿いをずっと見ていくと分かるよ」「あれが仙台市内かな」
お友達が住んでいる、何回も行ったことがある仙台の街並みが一変していました。
みんなから「無事」や「大丈夫」メールをもらったけど、
大丈夫じゃないじゃんと
やるせない思いです。
上空から仙台市内の様子を教えてもらうたびに
次第に無口になってく機内。
次第に岩手の三陸地方の街並みに。
足がすくむ思いでした。
まるで水に浸かった焼け野原です。
他人事に聞こえるかも知れないけど「これが日本なんだ、東京からもそこまで離れていないのに」と
これから自分が向かう場所がすごく怖く感じました。
それと同時に
自分は足手まといにならないか不安な気持ちも強くなっていきました。
現地に到着するとそんな不安な気持ちになっていられないくらい過酷な毎日が待っていました。
3、赤い旗
陸前高田に降り立ったときの印象はぬかるんだ地面と瓦礫の山。
津波の被害で壊滅的の場所です。
本当に何もなくて
残っている建物も廃墟と化していました。
5階建てマンションの5階にまで泥や船の備品が突き刺さっていて何度も目を疑いました。
何の匂いだろう?
焦げ臭い匂いがつーんと鼻に抜けていきました。
あとすごく静かでした。
報道のヘリや自衛隊のヘリが上空を旋回している音だけが響いている感じ。
雪が瓦礫の山に積もっていて、ずっとしんしんと降っていたけど寒いという感覚よりも恐怖のほうが強かったです。
足が震えていたのは寒さでなく恐怖でだったと思います。
一分間黙祷をしながら
もっと早く来るべきだったと思いました。
避難所や病院に行く前に
ざっと市内を案内される。
ここは商店街でした、
ここは郵便局だよ、
ここはおいしいラーメン屋、
ここは公民館、
ここは幼稚園、、、
ただの瓦礫の山。
15mくらいの真っ黒な津波が往復して全てを飲み込んでいったとのこと。
避難勧告が出て準備をしていたり、逃げる最中にみんな流されて行って
誰かのせいにすれば少しは矛先が出来て醜い感情を出せるけど、天災だから怒りの持って行き場がないと言っていました。
年に数回海を敬うお祀りもあっていつも海に感謝をして暮らしていたんだよ、それなのに・・・と
現地の人は案内しながら涙を流していました。
もうこの時点で私も泣きそうだったけど、絶対泣かない約束だったから
現実から目を背けて曇った空ばかり見ていました。
案内する人の後ろをずっと手をグーにして肩をすくめてついていきました。
風が吹くとどこからか
セピア色の写真や赤ちゃんの写真付きの年賀状が足元に飛ばされてくる。
そして一歩二歩歩くごとに赤い旗がヒラヒラ揺らいでいる。
しかも数えきれないおびただしい数の旗。
「この赤い旗は遺体が見つかった場所に立てられています」
正直つらかったです。
ある旗の前に佇んでいるお婆さん。
私のお婆さんと同じくらいの年だったかな?
「東京の看護婦さん、
ここにおじいちゃんが戦後一生懸命働いて建てたおうちがあったんだよ、
おじいちゃん病気ひとつしなかったのに死んじゃったよ」
人間の感情があるから泣くなと言われても無理でした。
リーダーナースが飛んで来て私の耳を引っ張って車の陰に連れて行かれて
すっごくおこられました。怒られようがもう自分は素直な感情でここでやっていこうと思いました。
テレビで映されているのは報道規制のなかの範囲内でそれでもあの映像。
映されない、テレビで流せない現状をこの目で見てきましたがそれはもう地獄でした。
案内されている隣で
自衛隊の方が瓦礫や木材をどかすと泥だらけになった遺体が必ず出てきて。
この光景は一生忘れないし
忘れてはいけないと思う。
瓦礫や木材と言っても数日前は誰かの生活の一部だった家や道具や誰かの宝物です。
その下から続々見つかる遺体。
そのたびに手を合わせる自衛隊の方々。そして偶然居合わせてしまった私たちも合掌しました。
初日はあわただしく避難所をまわってお年寄りの血圧測定と健康相談でした。
無我夢中で多分、私に笑顔はなかったんじゃないかな。
高齢者が多いな、という印象でした。
電気が復旧していないので暗くなる前までに1人でも多く血圧を測ってあげたくて本当に無我夢中でした。
脈をとっていると私の手を握り返してきて
「孫と同じくらいだな、看護婦さん。あったかい手だねぇ」
とそのまましばらく目を閉じているお婆さん。
両手を合わせて拝んで
何回も何回もお礼を言うおじいさん。
寝たきりなのに飛びきりの笑顔を見せて起き上がろうとするおじいさん。
美味しそうに小さなおにぎりを食べる子供たち。
毛布に包まって眠る赤ちゃん。
健康相談では「体育館では眠れないよ」
「親類と連絡がとれなくて眠れない」
と眠れない訴えが多く
血圧も高めなかたがたくさんでした。
すっかり暗くなる頃には
私の腕が上がらなくなっていました。
10数ヶ所の避難所、それでもまだまだたくさんまわれなかった避難所と救護所だらけでした。
あとから聞いたのですが
私は初日だけでも数百人の血圧を測ったらしい。
でも全然足りないくらい、測ってあげられなかったお年寄りのほうが断然多かったです。
気付けば朝トイレに行ったきり夜更けになっていました。
反省会や明日以降の予定のミーティングを終え、移動の疲れや現地を目にしたショックと
避難所まわりであっという間で忙しく過ぎた1日でした。
避難所だってぎゅうぎゅうで
もちろん私たちは寝る場所もなく
初日の夜は遺体安置所のわきの簡易プレハブに男女関係なく雑魚寝。
疲れているのに眠れるわけがなく、
持ってきたiPodを聞きながら友達と撮った写真を見たり圏外のままの携帯にこの文章をずっと打っていたり
友達がくれたメールを読み直して
1日泣くのを我慢していたのでバスタオルに包まってずっと朝まで泣いていました。
4、小児と高齢者
17日
避難所の一部を救護所兼病院として救急車を受け入れているところへヘルプに入る
救護所のベッドはすでに満床で
待合室には数えきれない受診希望の患者数
全然足りない薬品と医療品
トリアージにまわると
小児の間で39℃代の熱発による受診希望が多い
うー、嫌な予感
そして嫌な予感的中、
インフルエンザ
リレンザもタミフルも持ってきていたけど備蓄が足りない
症状軽めの患者にはカロナールでなんとか解熱を期待する
抵抗力の弱い小児や高齢者、
しかも今の状況だと全ての人が抵抗力が弱っているから感染してしまう可能性が高い
救護所の中もインフルエンザの患者とその他の症状の患者を分けて対応することに
これ以上拡大しないようにと気持ちが焦っていました
先輩の管轄の避難所から救急要請が入る
下痢で脱水気味の高齢者数人搬送したいと
物資が届かずなんと生米を食べていたらしく胃腸炎を起こしているとのこと
ラジオからは物資は続々届いているけど
小さな避難所には行き届いていないことやガソリン不足による物流が困難というニュースが流れていた
自分も雪解け水を飲んでしまいお腹の調子がいまいち
でも弱音は吐かないで笑顔!笑顔!
みんなの前では元気!元気!
今日は休憩は2時間半で朝までぶっ通し
みんなはもっともっとつらくて大変なんだから
これくらいのことは頑張らないと
搬送されてきた高齢者は
みんな脱水症状と低体温
点滴のストックがもうすぐ底をつく
点滴の針もあと数箱
避難所生活のストレスで胃潰瘍からの出血なのか吐血で血圧低下のショック状態の患者さんも搬送されてきた
すぐに内視鏡と輸血!
ドクターが叫んで自分で「あぁ、ここには何もないんだ」我に返っていた
緊急処置で点滴確保してどんどん補液しながら血圧を保たせながらヘリで内視鏡や処置が出来る盛岡市内へ搬送となる
最善の治療が出来なくて申し訳ない気持ちで見送る医療チーム
明日石巻に医療機器不足の連絡がとれるといいけど向こうも同じような状況なのかも
いまだに家族と連絡がとれない被災者は増える一方
あの日から奥さんを探すおじいさん
なんとか休んで欲しい
想像以上の状況と過酷さに挫けそうになるけど、
少しずつ高速バスが再開したり途中まででも新幹線が再開するニュースも聞こえてきた
昨日よりは絶対前に進んでいる!!
5、消えてく命、生まれてくる命
18日
救急患者を受け入れている病院へ。
とにかくここの病院のドクター、ナース、薬剤師、放射線技師、検査技師、栄養士、看護助手・・・
全て震災後から不眠不休。家族や休みだったスタッフの安否さえ分からないまま、
極限の精神状態で仕事をしていたらしいです。
少しでも交代で休んでもらうようにサポートに入ることに。
地域や物品の場所は全く違っても、医療は共通。
そう思いながらも、続々搬送されてくる救急車と
受診を求めて並んでいる1000人以上の患者さんを目の当たりにして正直途方に暮れましたが
目的の「1人でも多くのかたに医療と看護を」のために気持ちを切り替えました。
救急搬送のほうのグループになり
搬送されてくる患者さんも
心筋梗塞や脳梗塞の薬を飲めていないから
再梗塞を起こしていたり
透析患者さんが透析を出来なくてカリウムの数値が上がっていたり心不全を起こしていたり
医療機材が足りていない中、現状は相当厳しかったです。
地震によるケガは免れ生き抜いたのに、地震後に病気で亡くなってしまう方の無念さと
私達医療スタッフの絶望感は文章にはあらわせないです。
東京の病院では手を伸ばせば点滴台、棚をあければ薬品etc
そして当たり前についている電気
自家発電とはいえ、バッテリーと時間との勝負で
手術が必要な患者さんはヘリで他県へ搬送の繰り返し。
採血をすると真っ黒でどろどろした血液がひけて
「お食事したりお水飲めていますか?」と聞くと
「私だけそんな飲み食い出来ないし、おにぎりと朝夕のお茶だけだよ」と力なく答える患者さん達。
点滴も足りなかった・・・
受診する患者さんをどんどん固い床に寝かせ点滴をして
様子を見て
点滴を抜いて止血して
誰が何の点滴をしてどのペースで終わるか把握するだけでも精一杯
そうこうしてるうちに救急車の受け入れ
そういえば今日もあんまり笑顔を見せてないなって時に
妊婦さんが産気づいたとの連絡。
私と同じ年くらいの初産の妊婦さん。
助産師の免許はないから
点滴の確保とベビーキャッチにまわりました。
点滴を入れていると
「重症のかたがたくさんいるこんな時に本当にすみません」と。
「何をおっしゃいますか!!
高田のみんなや全国のみんなが赤ちゃんを待ってますよ!!」と声をかけました。
赤ちゃんは明日への希望です。
元気な赤ちゃんが生まれたときは、薄暗い分娩室が
本当に明るくなったように思います。
お湯も思うように沸かせないからガスコンロであたためた湯を準備したり
支援物資で届いたアンパンマンのバスタオルに包んで。
涙を流してるお母さんが
「もうちょっと早く生まれてきてくれたらおじいちゃんとおばあちゃんに見せられたのに。
とても楽しみにしていたのに。」と言っていました。
でもこんなにスムーズに
元気な赤ちゃんが誕生したことはきっとそばで見守ってくれていたに違いないと思いました。
眉間にシワを寄せてピリピリしていた救急チームも産声に駆けつけ
一気に笑顔の空間に。
これから大変なことがたくさん待ってるけど、
絶対それ以上に嬉しいこと、幸せなこと、楽しいことだって待っています。
この赤ちゃんが大人になる頃は元の高田市に戻って笑顔が溢れる穏やかな街並みになっていることを
その場にいたみんなが願いました。
ラジオからはひっきりなしに聞こえてくるどんどん増えていく死亡者数。
こうやって生まれてくる新しい命。
どちらも尊いものです。
命の重さもみんな同じ。
改めてそう思いました。
明日も笑顔で今日よりいいことを見つけよう。
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6、ライフラインと絆
18日夜
避難所の体育館に時間制限はありますが電気が復旧しました!!
電気がついた瞬間拍手喝采で嬉しくてみんなで泣きました。
全国で節電したから予定より早く復旧したそうで
本当に本当に嬉しかったです。
優しさが伝わりました。
被災地に到着した日は
雪が降り積もっていて現地の人が
「こんなときに雪が降って神も仏もいなくなったな」とつぶやいていたけど
神も仏もいない今、
優しい気持ちの生きてる人間がたくさんいるよ!!とちょっと胸をはれたような気がします。
でも本当に大変なのはこれからです。
これからも全国の優しい気持ちが広がることを願います。
ガスや灯油が届かなくて寒いのは変わらなかったけど、
夜に電気が灯っているだけでなんだかあったかくなった気分でした。
18日午後
震災が起きた時間14:46には手を止めて黙祷をしました。
サイレンが鳴り響いて
現地の人たちの涙を見て
1週間経過した時間に対して早く感じました。
1週間経過したことでメンタル的サポートも必要になってきたようにも思う光景も増えてくる。
相変わらず救急搬送患者や入院が必要な被災者が増えていく一方、
救急車の燃料切れや
受け入れ先病院を探してもどこも満床、少なくなっていく医療物品、
新たな問題も山積みになり何度も立ち尽くしてしまいました。
そういう問題にぶつかるたびに弱気になったけど気持ちは常に強く。
救急患者対応だけでなく
避難所の血圧測定と健康相談、
現地ナースに休んでもらうために入院病棟の患者の処置や巡視、
エレベーターが止まったままなので食事の配膳時には5階建て階段の往復、
時間が少しでもあいたら火をおこしてお湯を沸かす、
1日が24時間では足りないくらいでした。
寝る時間が2時間でも
横になりながらこの時間も何か有効につかえないか考えていました。
こうして記録して現状を報告することしか思いつきませんでした。
電気がついただけなのに
全国で節電をしたみんなのことを思うと絆で結んだ電気に思えてすごく明るくあったかく電球が見えました。
頑張りがこうして形になって見えると俄然自分ももっと頑張らなくてはと背中を押された気持ちになります。
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7、瑠奈チャン
寝泊まりをした体育館で
たった三日間でかわいいお友達が出来ました。
血圧測定や点滴に走り回る私のあとを小走りについてくる
人懐っこい6歳のかわいい女の子、瑠奈チャン。
マスクが大嫌いな子だったので
マスクに全然似てないキティちゃんを書いてあげたら気に入ってくれたのがきっかけだったのかな。
夜の体育館は本当に寒いので頼るのは薄い毛布と人肌。
私の医療チームは男ばっかりだから人肌に頼ることも出来ず毎日入り口付近ですきま風と戦っていました。
電気が復旧していなかった広い体育館は例えるなら洞窟みたいでした。
ストーブも消され冷えきった真っ暗な空間。
頻繁な余震。
1人だったらどんなに怖くて心細いか。
たくさんの避難されているかたが集まっているからこんな暗闇でも朝を待つ気力に変えられるのだろうと心底思いました。
真っ暗な夜中の体育館の
寝息の中に
もちろんすすり泣きの声も聞こえています。
不安なのかな、
家族や友達と会えていないのかな、
考え出すときりがないし
私は1週間程度だけど
ここにいるみんなはこれがいつまで続くんだろうと思うと暗闇の体育館は洞窟どころか
出口の見えないトンネルのようにも思えました。
寒くて眠れないけど、そろそろ寝ないと不眠不休で倒れてしまいそう
ここで倒れて足手まといになったら来た意味がないと寝返りをうっていたら
瑠奈チャンが「お姉ちゃん!」とどこからか毛布を持ってやってきてぴったり横にくっついてきました。
「瑠奈チャンも眠れないの?」と聞いたら元気よく頷いていたので
抱き寄せるとめちゃめちゃあったかい瑠奈チャン。
「お姉ちゃん、好きな人いる?」と瑠奈チャンに聞かれたので
「いるよ!」と言ったら
「どんな人?」って(´`)
「おヒゲがはえてる人だよ(笑)」と分かりやすいように教えてあげたら
「サンタさん??」と。
かわいいなぁと思いながら「そうだね、サンタさんみたいな人だね」と頭をなでなでしながら話すと
「また冬になったらサンタさん来てくれるかな?」とニコニコした笑顔。
やっと笑顔が見れて嬉しくなって「瑠奈チャンいい子だからまたサンタさん来てくれるよ!」と言ってしまった私。
でも「瑠奈チャンね、おうちなくなっちゃったけどサンタさん、瑠奈チャンちがないからプレゼント持って帰ってしまわないように
お姉ちゃんから言っておいて」と言われて、
ごめんねって思いながらぎゅっと抱き締めてしまいました・・・
「瑠奈チャン、なにが欲しい?」の私の質問に
「おうちとママ」
いつも一緒にいるのが母親かと思っていたけど
次の日、それは叔母さんということが分かりました。
瑠奈チャンのお母さんも被災され、あんなにかわいい瑠奈チャンを残して瓦礫の下から変わり果てた姿で見つかったそうです。
瑠奈チャンは幼稚園にいて救出されたけど
お母さんは瑠奈チャンが大事にしていたお人形や絵本の入ったリュックを抱えて亡くなっていたそうです。
まだまだ小さな瑠奈チャンはお母さんが恋しくていつも私にくっついて寝ていたのかな。
別の避難所と救護所に移動のためにいつも寝ていた体育館を去るとき
瑠奈チャンが私と別れることに対して声をあげて泣いていました。
お母さんと悲しい別れをしたばかりなのに、傷は癒えてないのに、また
別の形だけど人と別れる悲しみを味わせてしまった・・・
また会おうって言っても
お手紙を書きたくてももう瑠奈チャンには住所がない
でも、きっとまた復興したら必ず会いに行く約束をして体育館を離れました。
この震災を忘れずに
強くて優しい女性になってほしい。
どうかこれから進む道が明るくて幸せであるように。
リーダーナースとの泣かない約束はあっけなく破られ手を振る瑠奈チャンを見ながら、車の中でずっと泣いていました。
なんでこんなことになったんだろうと悔しさをどこにぶつけていいか分からず
次の支援施設、救急病院へ向かいました。
みんなに笑顔と元気を届けに来たのに、瑠奈チャンを泣かせてしまって。
私のここにいる意味は何だろうとも思っていました。
朝から校庭がなにやら騒がしい。
トラックが続々搬入。
聞くと仮設住宅の建設に来たとのこと。
こわもてだけどめっちゃ優しいトラックの運転手さんと思わずハイタッチ!
まだ優先順位での入居になるらしいけど、これも明るいニュースでした。
さっそく朝から昨日より良くなったこと見つけた!!
それとDOCOMOとau災害カーが来てやっとやっとやーっと携帯から圏外の文字が消えた!
避難所のみんなも続々連絡がとれている人が。
DOCOMOのスタッフとも笑顔でハイタッチ!
超ベタベタの髪と化粧水すらつけずに過ごしてる汚いすっぴんも慣れてきました。
とりあえず残り少ないウーロン茶をティッシュにつけて顔を拭いて今日も頑張るぞー!!とスタッフと気合いを入れました。
あとは水が出るといいな。
そうこうしているうちに
昨日よりいいこと発見。
あったかい。
春の日差し。
もう寒くならないで。
そして今日から盛岡~陸前高田の高速バスが1日2本だけど運転再開になった!
また朗報が入った!
昨日体育館から救急搬送されたお婆さんが元気になって避難所に戻ってきた。
「お帰りー!!」
「ただいまぁ」
避難所がひとつの家みたいでした。
ユニフォームの「NURSE・看護師」だと子供や高齢者は看護師と認識しずらいだろうと
初日の夜に前後にカラーテープで「カンゴシ」とカッティングして貼っていました。
毎日ユニフォームを着て仕事や仮眠をしているうちに「シ」の点が一個取れてなくなっていて、私の後ろ姿は「カンゴン」になっていました。
それからは子供たちや避難所のみなさんから「カンゴンさん」と呼ばれるようになり
今日はもっと短縮され「ゴンちゃん!」と気軽に声をかけられたことも嬉しかったです。
あと昨日となりの市に行って、友達に公衆電話から「公民館の避難所に物資が届いていないことを知らせて」とお願いをしたら
今日夕方にやっとやっとそこへ物資が届いたと避難所から連絡。
運んでいただいた自衛隊の方によると
「北は秋田から南は九州の人から、ここに物資が来ていない連絡が入ったんだよ。
こんな小さな避難所だけど全国からの声が来たよ」とのこと。
命のリレーです。
ご協力して下さった皆様と気に留めて下さった皆様、本当に本当にありがとうございます!!
オムツをかえられなくてお猿のお尻になってしまった赤ちゃんにたくさんの替えのオムツと
ベビースキンも届いたそうです。
あとはおいしい味噌握りやヤクルト、山崎パンからのたくさんのナイススティックも。
これから夜半過ぎ都内の大学病院からたくさんのお薬と点滴と簡易吸引器が届く。
私の滞在期間も21日から23日までに変更。
明日くらいには入院患者を他県の病院へ搬送する準備に入ります。
もう適切な医療の限界。
患者さんは入院だけでも心細いし
家族もお見舞いに行きにくくなるだろうし・・・
でもきちんとした治療を受けるのが最優先なんだよね。
考えを切り替えて頑張ろう!!
今日の反省会で気仙沼で9日ぶりに生存者発見とのことを知りました。
みんなで手を取り合って喜んだけれど、震災を逃れても避難所で体調を崩して亡くなる高齢者も増えていることも事実。
1人でも多くの命を。と思っていたけど、もう今は全員の命を救いたいとみんな思っています。
つらいのはみんな。
自分らは微力。
微力が集まって大きな力になりますように。
9、月明かり
19日夜
今夜はちょっと休めそうだったけど熱を出している人や腹痛のかたが多いので
1人ずつ救護車の中で休むことになりました。
やっぱりみんなのいる体育館のほうが寂しくないけどそんな甘えたことは私は言っていられないですね。
運転席が明るいから電気がついているのかと見に行ったら
すごい大きなお月様の月明かり!!
今夜だけなのかな?
何かの現象なのかな?
毎晩こんなに明るかったらみんな少しは寂しくないのになぁ。
体育館からもお月様を見に、眠れない人たちが続々出てきて月明かりに照らされています。
ちょっと笑顔になってます!
被災地のすべての人に笑顔と幸せが降り注ぎますように。
絶対にこれ以上の悲しみは起こりませんように。
深夜便でそろそろ医療物品が来る頃かな?
梱包してくれた方やトラックの運転手さんにも本当に感謝感謝です。
明日は避難所から他県が用意した一時避難所に向かう方々もたくさんいるのでその準備も少し手伝えたらと思う。
今日ちょっと話したお婆さんは生まれ育った90年も過ごした高田を離れるのは死ぬほどつらいと言っていました。
海と貝博物館という施設が高田にあったらしくそこの近所に家があったので
いつもそこを訪れる観光客の笑顔を見るのが日課だったそう。
戦後貧しい思いをして
それでもおじいさんと頑張って家を建てて
漁をするのに船も買って
年老いたから仕事をやめて孫も出来て贅沢せずにゆっくり余生を過ごそうね、
そんな時にこの震災にあったとのこと。
「また戦後の時みたいにやり直せばいいけど
あの時みたいに若くはない」と涙をぼろぼろ流すおばあさん。
ここを離れたくない気持ちは痛いほどわかります。
一時避難でも高齢者には他県に行くことや高田を離れることは想像以上のストレスになると思います。
でも受け入れ先の優しい気持ちやあったかい場所とご飯が約束されているなら
少しだけの辛抱!!
なんだか私も東京に戻るのが嫌になってきました。
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ありがとうございました! ここからは後篇に続きます。
「2011年 心に刻んでおかなくてはならない出来ごと」
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