この手のおぢさんの心をくすぐるおまけには非常に弱い(゜ー゜;Aアセアセ
どうやら、TTさんもこの手のおまけで数千円つぎこんだみたいだ(笑)
故本田宗一郎氏の『私の幼き頃からの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった』と1954年3月に社員に向けての社長宣言文(*1)の言葉にあるとおり、1959年マン島TTレースに参戦し始めたホンダはまず2輪世界制覇、そして2輪世界制覇後のターゲットとしてF1世界制覇を計画していた。
1960年初頭、日本のモータリゼーションは世界レベルと比較すると、やっと自社製品が作れるようになったばかりで国内需要に応えるのが精一杯、輸出しようなどという考えは誰の頭にも浮かばず、ましてや世界的なレースに出場しようとは誰も考えられなかったそんな時代に、単に参戦するだけでなく、のっけから世界制覇を目指すとは、今から考えるととんでもないことを計画していたものである(笑)
ましてや当時ホンダはまだ4輪の生産すらしていないメーカーであったにもかかわらず。。。。
1961年、ホンダの2輪ライダーであったボブ・マッキンタイアが所有していた、戦後いち早くミッドシップエンジンを採用した近代F1マシンの原点ともいえる『クーパーT53クライマックス』1.5リッター直列4気筒エンジン搭載のマシンを購入し、F1の研究に着手する。(このT53はもてぎのホンダコレクションホールにて展示されている)
そして同年、2輪においてマン島TTレースのみならず世界GPの2クラス制覇を成し遂げたホンダは本格的にF1エンジンの製作を開始するのである。
2輪で盤石不動の地位を築いたホンダは1962年にS360とS500のスポーツカーを発表し4輪市場にも名乗りをあげる。
ホンダはさらに大きく発展し飛躍しようと、これまで2輪で得られたノウハウを余すところ無く4輪に生かし、当然F1の挑戦も当時4輪市場では後発であったホンダの意気込みの表れであることは間違いない。
1963年6月には早くも水冷1.5リッター60度V型12気筒48バルブエンジンを完成させているが、またそのエンジンは故本田宗一郎氏の構想(慣性モーメントの低減によるハンドリングレスポンスの向上)により、従来の縦置き搭載方式ではなく、それまでの常識を覆す2輪と同じ横置き搭載方式で産声をあげるのである。
F1においても突拍子もない搭載方法を考えつくのは故本田宗一郎氏ならではであろう(笑)
(それとも単純に2輪のエンジンをでかくしたらこうなった?(^^ゞ)
もちろんエンジンそのものは2輪から受け継がれたホンダのお家芸でもある高回転&高出力なのは当然で、当時のフェラーリV8で205ps/10500rpm、コベントリー・クライマックスV8で190ps/9000rpmに比べ、なんと220ps/11500rpmを発生させている。
現在のF3が2000ccで210psあたりなのと比較しても1500ccで220psは驚異的な数値である。
翌1964年1月~3月にかけて金色に塗装されたプロトタイプマシン(RA270)が密かに鈴鹿サーキットでテスト走行を開始する。
当時のF1は、国別にボディカラーが決まっていて、ホンダもマシンの色を決めなければならなかったが、故本田宗一郎氏は、『金箔を貼ったら面白いかもしれねぇ』と言ってマシンを金色に塗装した。
超度派手な金色のマシンで密かなテスト走行っていうのも古き良き時代の話である(笑)
しかし、金色は南アフリカが既に登録済みだったので、故本田宗一郎氏の願い叶わず、泣く泣くアイボリーホワイトに日の丸カラーとした。
ちなみに、当時各国のナショナルカラーは、イギリスがグリーン、フランスがブルー、ドイツがシルバー、イタリアはレッドで、今もこのカラーを守っているのは、フェラーリのイタリアンレッドだけである。
当初、ホンダはエンジンのみ製作し、既製のシャーシにエンジンを搭載する、いわゆるエンジンサプライヤーとしてF1参戦を予定していた。
ホンダは英国のロータスチームとコンタクトを取り、シャーシもロータスにほぼ決まりかけていたが、当時ジャガー傘下であったロータスはジャガーとの関係でホンダのエンジンを搭載することができなくなり、ロータスから『エンジンは他社製を使う。悪しからず』の電報(*2)を受け、そのシーズンが始まる3ヶ月前の1964年2月、急遽ホンダはボディ、シャーシなど全て独自設計しなければならなくなった。
エンジンテスト用のプロトタイプマシンであるRA270のシャーシはマルチチューブラーのスペースフレームであったが、エンジンは横置きでボディがワイド化するため、RA271は東京大学航空学科を卒業してホンダ入社僅か4年目、当時26歳の佐野彰一氏を筆頭に東京大学航空科の協力を得て風洞実験を繰り返し、R270とは全く姿を変えたモノコックで製作された。
当時、モノコック構造でレーシングカーを作っていたのは、フェラーリ、ロータス、そしてBRMといった一流チームだけで、まだパイプフレームが主流の時代にホンダは敢然とモノコックを選択している。
このようなアクシデントもあり、当初の目標であった1964年5月10日のモナコ、7月11日のイギリスには間に合わず、当時の開発責任者である中村良夫氏が自らハンドルを握り宵闇の鈴鹿サーキットで試行錯誤を繰り返し、1964年7月に入ってようやくR271は完成する。
当時、F1に乗れるドライバーは日本に居なかったので、完成したR271は本格テストをするべく、すぐさまヨーロッパへ送り込まれ高速走行テストを行い、ドイツでのデビュー戦になんとか間に合ったのである。
もちろんドイツGP最大の焦点は、2輪を制した『東洋の鷹』ホンダが送り込む最新鋭F1マシンRA271の存在であった。
F1初挑戦、エンジンもホンダならではの高回転・高出力、前代未聞の1気筒あたり4バルブ、さらにV型12気筒エンジンが横置きに搭載してあるのには関係者をあっと驚かせ、F1界を震撼させた。
しかし、いくら話題をさらったかたといって、デビュー戦で好成績を残せるほどF1の世界は甘くはない。
ドライバーは1961年のF1ワールド・チャンピオンのフィル・ヒル、ジム・レッドマン、マイク・ヘイルウッドなどが候補であったが、ホンダは一流ドライバーのペースに翻弄されるのを嫌い、F1は未経験であったが当時28歳でアメリカの新鋭ドライバーであるロニー・バックナムを起用した。
ロニー・バックナムは、ホンダS600に乗り1964年5月3日の第2回日本GP・GT1クラス優勝するなどGTカーでは経験豊富であるものの、F1は初のステアリングで出来上がったばっかりのRA271を慣らすと共に腕も鍛え上げなくてはならなかった。
公式練習を含めて5日間ニュルブルグリンクを走りこんだが、予選で不運にもピストンを焼き付かせてタイムが出ずテールエンドスタートとなってしまった。
そして8月2日、ニュルブルクリンク15周を22台で戦う記念すべきドイツGP決勝を迎えるのである。
ニュルブルグリンクは気温19度とレース日和でなんと約30万もの大観衆が押し寄せている。
RA271は、テールエンドからのスタートであったが、V12エンジンの『ホンダミュージック』がニュルブルクリンクの森を軽快に駆け抜ける。
ロニー・バックナムがマイペースで走り10周までに11位まで浮上し、さらに12周目には9位まで浮上したものの、14kmを過ぎたあたりでコースアウトし、左側の土手に激突してしまう。
ナックルアームの金属疲労による破損が原因でマシンは大破したが、ロニー・バックナムは無事で幸い大事には至らなかったが13位と苦いデビュー戦となった。
その後、イタリアGPでは予選10位で12周までに5位にまで浮上するという驚異的な走りを見せたが、オーバーヒートとブレーキトラブルであえなくリタイア、そして3戦目となるアメリカGPでは予選でノーズを破損し予選14位、決勝は旧型でレースに挑んだが50周したところでシリンダーヘッドが焼きつきオーバーヒートでリタイアとなってしまっている。
この年のF1挑戦は失敗に終わったかのように思われたが、これくらいのことで転んでもただでは起きないのが故本田宗一郎氏率いる『ホンダ』の強さと粘りであった。
急ごしらえで仕上げたRA271は重く、整備性も悪かったが、徐々に熟成を重ねRA272と進化し、翌1965年の最終戦、そして1500ccのレースとして最後となるメキシコGPでリッチー・ギンサー搭乗するホンダF1は『ニュルブルクリンク』のデビューから14ヶ月、わずか11レースで念願の初勝利を飾っている。
後の『ホンダF1時代』を築く礎はまさに『ニュルブルクリンク』から始まったのである。
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(*1)宣言文抜粋
私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった。
然し今回サンパウロ市に於ける国際オートレースの帰朝報告により、欧米諸国の実状をつぶさに知る事ができた。
私はかなり現実に拘泥せずに世界を見つめていたつもりであるが、やはり日本の現状に心をとらわれすぎていた事に気がついた。
今や世界はものすごいスピードで進歩しているのである。
絶対の自信を持てる生産態勢も完備した今、まさに好機到る!
明年こそはT・Tレースに出場せんとの決意をここに固めたのである。
全從業員諸君!
本田技研の全力を結集して栄冠を勝ちとろう、本田技研の將來は一にかかつて諸君の双肩にある。
ほとばしる情熱を傾けて如何なる困苦にも耐え、緻密な作業研究に諸君自らの道を貫徹して欲しい。
本田技研の飛躍は諸君の人間的成長であり、諸君の成長は吾が本田技研の将来を約束するものである。
日本の機械工業の眞價を問い、此れを全世界に誇示するまでにしなければならない。
吾が本田技研の使命は日本産業の啓蒙にある。
右宣言する。 昭和二十九年三月二十日
本田技研工業株式会社
社長 本田 宗一郎
(*2)
横置きV型12気筒エンジンにコーリン・チャップマンも驚いて(呆れて?)さじを投げたという話もある(笑)
すなわちロータスではこのエンジンを搭載するF1マシンを作ることができなかったわけで、それを可能にした当時若干26歳の佐野彰一氏はチャップマンを凌ぐ技術者だったのかもしれない。。。
ちなみに当時、佐藤氏は部品設計などを担当しており、東大航空科卒というだけでF1のボディ設計を一任させられている。
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以上、Nurburgring Museum(HiroshiS担当記事)からの抜粋。
寅吉さん、ケロさん、そして私の共同で作っている「ニュルブルクリンク博物館」。
ふと思い出して読み返していたところ、我ながらなかなかよかったのでご案内です。
年表形式になっているので、是非ご覧下さい。