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『中医研だより』にはいつも勉強させて頂いています。
一反百姓「じねん堂」の農産物や風来書房「フィガロ舎」の本の販売等で、
お世話になっている中医研(群馬中国医療研究協会)さんの
発行している『中医研だより』を抜粋してお知らせします。
□□□□『中医研だより』No137 2008年7月30日より抜粋□□□□
WHOの「健康の定義」について考えてみました
~草木と向き合って・健康(養生)を考える~
吉田 久雄
■健康は「流行」になっています
今日、テレビ、新聞、雑誌等で健康問題は連日取り上げられています。健康はまさに「流行」になっています。
現在、健康情報は氾濫し人々は健康、健康で振り回されているような面もあります。情報の多くは、ほとんど表面的、対症療法的な情報のように思えます。本当に健康に役立っているかと言えば「否」と言わざるを得ません。健康情報は溢れても病人は増加の一途?・・・。
日本の人口1億2700万人で糖尿病は予備軍を含めると1800万人、アトピー・花粉症等のアレルギー性疾患は推計2200万人、がん患者は50代以降2人に1人、そして若年層も増加傾向です。心の病も深刻です。うつ病(うつ傾向を含む)は6人に1人が発症しています。今、身体も心も大勢の人々が病んでいます。現在の病人の増加は自然環境破壊とも密接に関係しているのが特徴です。
健康を損なう理由は様々な要因が考えられます。食、ストレス、生活全般、労働(経済)自然環境等々。一口で言えば、病人の増加は、不自然な労働・生活環境全般にあると思われます。自然に沿って、自然と向き合って、人間の欲望を小さくし、自然体で暮らしていければ健康は回復し、病人は減少すると思われます。しかし、現状は自然体で暮らしている人ほとんどいません。ある意味、みんなで病気を作っている側面もあります。
では、その健康とは、健康の概念とはどういうことなのでしょうか。健康の概念は人によって大きな差があると思われます。中医研も健康活動を長年行ってきました。中医研の周辺には、鍼灸ツボ、気功、食、自然をテーマした小グループが17存在しています。この17もの健康サークルが存在していることは高く評価されていいと思われます。しかし、私たちも、健康の概念、「健康の定義」について明確に定まっていません。そこで、WHOの「健康の定義」について考えてみました。
■身体性と精神性だけでは「健康は維持」できない
医療、健康問題で世界的に影響力があるWHO(世界保健機関)は、1998年「健康の定義」の原案を発表しました。まだ総会で可決されていませんが、その原案とは、「健康とは、身体的、精神的、社会的、かつ、霊的(スピリチュアル)に完全な一つの幸福のダイナミカルな状態を意味し、決して単なる病気や障害の不在を意味するものではない」というものです。新しく霊的(スピリチュアル)とダイナミカルの言葉が付け加えられました。問題は霊的という言葉に大きな意味があると思います。一般的に「霊的」という言葉は、「霊性、スピリチュアル、スピリット、いのち」という同じ意味の言葉で解釈されています。いずれにしても、WHOの原案が総会で可決された場合、世界の日本の医療界に大きな影響を与え健康の概念が変化します。
WHOは従来、健康を主に身体性と精神性しか問題にしなかったのですが、霊性(いのち)を加え健康を定義付けしようという試みです。
私は、そもそも人間の命も他のいのちとつながって活かされているにもかかわらず、健康を身体性と精神性のみに限定してみること事体、限界があると思っていました。
人間の生命も宇宙や大自然とつながって活かされています。WHOの従来の「健康の定義」は他のいのちとのつながりはほとんどみようとしませんでした。この点、WHOの提案する「健康の定義」が身体性、精神性以外に目を向けたことに対しては評価したいと思います。しかし、果たして霊性と言う言葉が適切なのか検討を加える必要を感じました。言葉の意味は非常に大きなものがあります。
■自然と健康は結びついている
私はこの10数年、多くの人達の協力を得て、医療や食と平行して自然をテーマに講演会や交流会を幾度となく開催させていただきました。植物・野草ハイキング・橋本竹二郎さん、自然農法家・福岡正信さん、アメリカ先住民族・デニス・バンクスさん、アイヌ民族・長谷川修さん、アマゾン先住民族・アユトン・クレナックさん、哲学者・内山節さん、縄文百姓を提唱している大森昌也さんらとの出会い等々。そしてその出会いの中で、私なりに「新たな世界が見え」様々面で気づかされ学びました。そんな中、自然と健康はきっても切り離せないことを強く感じてきました。
ところで、支配層の概念とは違って、近代以前の日本の村々、アイヌ民族、アメリカやアマゾン先住民、アボリ二ジの人々にとって、木や草や山や川を敬い自然と絆を結んで自然と共生して暮らしてきました。霊性という言葉が存在しなくても「いのち」のつながりは見え精神世界が築かれていました。しかし、問題なのは、自然から離れ自然観を失い、経済至上主義の中で「人類の自滅」とも関係している人間のエゴイズムが肥大化し、近代の生活を享受している日本をはじめ「先進国」等々の人々が霊性という言葉をどう捉えるかです。
とはいえ、「先進国」と言っても様々で、人間中心主義で近代化の基礎を築き推進してきた欧米と日本の歴史は異なっています。「先進国」で唯一「森の民」と言われるのは日本です。縄文文化を基礎にした日本の村の人々の自然を敬う精神世界は、現代に生きる日本人の精神性にまだまだ大きな影響を与え、私たちの精神に良い意味で深く浸透していると思われます。そうゆう有意味では、「先進国」で自然環境や健康問題を克服する「素質」は、日本人はもっともあると思っています。が、現状を見ると寂しさはかくせません。いずれにしても、霊性は重大な意味があります。
■霊性という言葉を検証する必要
霊性(スピリチュアル・いのち)という言葉は人によって余りにもイメージが異なっているのが特徴です。ある人は「宇宙の中のいのちの自覚」、またある人は「人間の心に湧き起こる観念」またある人は「いのちのコンパス」等々。人間を見てある人は、サルだとか、また、ある人はチンパンジーとか、またある人はヤギと言っているのに等しいと思われます。霊性という概念自体は否定するわけではありませんが、なぜ、霊性という言葉が人のイメージによって余りにも異なってしまうのかを検証する必要があると思います。
霊とか霊魂とか言う言葉は人の想像によって創られ、非常に観念的です。想像の世界は人それぞれ受け止め方が違ってきます。とりわけ「霊」という言葉は、いのちを雲の上に隠してしまったり、心の中にしまい込んだりもします。つまり、霊性という言葉は、いのちを「天上と心と空間」に置く傾向があります。とりわけ身近に存在する「本物のいのち」が見えなくなってしまう面は否めません。だから、身近な森が枯れても客観的になり、逆に「自身の問題」をも遠ざけてしまう場合がしばしば見受けられます。ここに、今日の日本のスピリチュアル(霊性))ブームの一端も伺えます。
■霊性を草木に置き換える!
私は、今年600坪の実家の畑にサツマイモの苗やトウモロコシやサトイモの種を適当に植え、ささやかですが、毎週「土に触れ草木と向き合い」、村の森林組合の杉林の下草刈りにも参加してきました。一応一言報告した上で、次のように「健康の定義」について問題提起をします。
「健康とは、身体的、精神的、社会的、かつ、草木が活き活き宿る状態を意味し、決して単なる病気や障害の不在を意味するものではない」と、より明確に「いのち」を捉える為に、WHOの「霊性」を「草木」に置き換えるべきと考えます。
つまり、人の健康も草木が活き活き宿る状態であってこそ健康も保たれると言うことです。草木は、人間も生物も活きていく上で絶対的な条件である空気、大地、水、食と密接に関係し、草木が消滅すれば人間の生命も健康も維持することはできません。マクロ的にみても草木(大自然)が病めば人体も病みます。人間の遺伝子と草木の遺伝子は一緒、違いは染色体の中の4つの組み合わせ方だけと言われています。生命を宿す草木は、ある意味、人間の兄弟です。その草木は現実的に生命を宿す生命エネルギーの源と言っていいと思われます。草木が活き活き宿っていれば健康維持の条件が出来ます。草木と人間は運命共同体です。まさに目で皮膚で鼻で耳で口で感じ、そして、身近に存在し、他の「いのち」を無心で活かしている草木が「いのち根っこ」。
草木は人間がいなくとも活きていけます。しかし、人間は毎日の食事(草木)も草木が存在しなければ生きていけません。火星も金星も地球と同じく宇宙で「生存」していますが、草木は存在しません。いのちを「天上と空間」から地上のいのちに目を向けなくてはなりません。ここにも「草木がいのち根っこ」と言う所以でもあります。こうした中、自然から学んだ知恵でなく、「自然から離れた知識」によって話をむずかしくする人もいるかも知れませんが、事は単純です。草木が存在してこそ人間の命の生存が可能です。これは明確な事実、科学者や「知識人」も含め誰もが否定できないと思われます。
■草木を基本に健康を考える
では、草木を「いのちの根っこ」と位置づけ、健康の前提条件と考えるとどうなるのでしょうか。次のようなことが想定されます。
①健康維持のため、草木を多くの人が敬うようになり種を蒔く人が増えます。
②健康維持のため、森や田畑を大切にし、自身で食べる食べ物は自身で創る、自給自足をする人が増加します。
③身近に存在する草木に学ぶため、人間のエゴイズムも小さくなり社会全体に「やさしさが広がり」平和を求める人が増加します。
④草木を失うことは健康破壊という意識が広がり、自然復活の契機にもなります。
⑤自然環境問題も、草木が基本と考える人が多くなります。
以上のようなことが予測されます。いずれにしても、草木を見て、「魚だ」という人はまずいません。草木は、霊性という言葉のように人のイメージによって異なることはないし、草木の心はわからなくても草木そのものは誰もが了解できます。そこで、これからの健康を考えると次のようなことが重要になってくると思われます。
■いのちの交歓を!
今日、健康維持は自身の身体性・精神性だけを問題にしても、自然・社会環境的に健康維持が出来ない時代的背景があります。そんな中、人間以外の生物は「いのちの交歓」をしています。ただただ「自然界を消費」するだけの生物は人間以外いません。便利になって、物も溢れ、「子供たちの未来を奪った」では済されません。いずれにしても、人間の「いのちの交歓」とは、大地に種を蒔き草木に向きあうことが基本と思います。明日からでも、森と交流し、プランターで、べランで、家庭菜園で、土地を借りて、畑で種を蒔くことからはじめましょう。
草木の種を蒔くことがマクロ的にもミクロ的にも健康維持の条件と思われます。その立場にたって、自身の養生(いい食生活、心の循環、気功、鍼灸ツボ等の行法を身につける等々)を位置づけることが健康維持の基本と思われます。そうでないと対症療法の「域」を脱しきれません。対症療法も必要ですが、対症療法を繰り返し、医学がどんなに進歩しても病人は減少することはないと思われます。
以上、私なりに考えた問題提起ですので、皆さん、ご意見をお寄せください。
一反百姓「じねん堂」の農産物や風来書房「フィガロ舎」の本の販売等で、
お世話になっている中医研(群馬中国医療研究協会)さんの
発行している『中医研だより』を抜粋してお知らせします。
□□□□『中医研だより』No137 2008年7月30日より抜粋□□□□
WHOの「健康の定義」について考えてみました
~草木と向き合って・健康(養生)を考える~
吉田 久雄
■健康は「流行」になっています
今日、テレビ、新聞、雑誌等で健康問題は連日取り上げられています。健康はまさに「流行」になっています。
現在、健康情報は氾濫し人々は健康、健康で振り回されているような面もあります。情報の多くは、ほとんど表面的、対症療法的な情報のように思えます。本当に健康に役立っているかと言えば「否」と言わざるを得ません。健康情報は溢れても病人は増加の一途?・・・。
日本の人口1億2700万人で糖尿病は予備軍を含めると1800万人、アトピー・花粉症等のアレルギー性疾患は推計2200万人、がん患者は50代以降2人に1人、そして若年層も増加傾向です。心の病も深刻です。うつ病(うつ傾向を含む)は6人に1人が発症しています。今、身体も心も大勢の人々が病んでいます。現在の病人の増加は自然環境破壊とも密接に関係しているのが特徴です。
健康を損なう理由は様々な要因が考えられます。食、ストレス、生活全般、労働(経済)自然環境等々。一口で言えば、病人の増加は、不自然な労働・生活環境全般にあると思われます。自然に沿って、自然と向き合って、人間の欲望を小さくし、自然体で暮らしていければ健康は回復し、病人は減少すると思われます。しかし、現状は自然体で暮らしている人ほとんどいません。ある意味、みんなで病気を作っている側面もあります。
では、その健康とは、健康の概念とはどういうことなのでしょうか。健康の概念は人によって大きな差があると思われます。中医研も健康活動を長年行ってきました。中医研の周辺には、鍼灸ツボ、気功、食、自然をテーマした小グループが17存在しています。この17もの健康サークルが存在していることは高く評価されていいと思われます。しかし、私たちも、健康の概念、「健康の定義」について明確に定まっていません。そこで、WHOの「健康の定義」について考えてみました。
■身体性と精神性だけでは「健康は維持」できない
医療、健康問題で世界的に影響力があるWHO(世界保健機関)は、1998年「健康の定義」の原案を発表しました。まだ総会で可決されていませんが、その原案とは、「健康とは、身体的、精神的、社会的、かつ、霊的(スピリチュアル)に完全な一つの幸福のダイナミカルな状態を意味し、決して単なる病気や障害の不在を意味するものではない」というものです。新しく霊的(スピリチュアル)とダイナミカルの言葉が付け加えられました。問題は霊的という言葉に大きな意味があると思います。一般的に「霊的」という言葉は、「霊性、スピリチュアル、スピリット、いのち」という同じ意味の言葉で解釈されています。いずれにしても、WHOの原案が総会で可決された場合、世界の日本の医療界に大きな影響を与え健康の概念が変化します。
WHOは従来、健康を主に身体性と精神性しか問題にしなかったのですが、霊性(いのち)を加え健康を定義付けしようという試みです。
私は、そもそも人間の命も他のいのちとつながって活かされているにもかかわらず、健康を身体性と精神性のみに限定してみること事体、限界があると思っていました。
人間の生命も宇宙や大自然とつながって活かされています。WHOの従来の「健康の定義」は他のいのちとのつながりはほとんどみようとしませんでした。この点、WHOの提案する「健康の定義」が身体性、精神性以外に目を向けたことに対しては評価したいと思います。しかし、果たして霊性と言う言葉が適切なのか検討を加える必要を感じました。言葉の意味は非常に大きなものがあります。
■自然と健康は結びついている
私はこの10数年、多くの人達の協力を得て、医療や食と平行して自然をテーマに講演会や交流会を幾度となく開催させていただきました。植物・野草ハイキング・橋本竹二郎さん、自然農法家・福岡正信さん、アメリカ先住民族・デニス・バンクスさん、アイヌ民族・長谷川修さん、アマゾン先住民族・アユトン・クレナックさん、哲学者・内山節さん、縄文百姓を提唱している大森昌也さんらとの出会い等々。そしてその出会いの中で、私なりに「新たな世界が見え」様々面で気づかされ学びました。そんな中、自然と健康はきっても切り離せないことを強く感じてきました。
ところで、支配層の概念とは違って、近代以前の日本の村々、アイヌ民族、アメリカやアマゾン先住民、アボリ二ジの人々にとって、木や草や山や川を敬い自然と絆を結んで自然と共生して暮らしてきました。霊性という言葉が存在しなくても「いのち」のつながりは見え精神世界が築かれていました。しかし、問題なのは、自然から離れ自然観を失い、経済至上主義の中で「人類の自滅」とも関係している人間のエゴイズムが肥大化し、近代の生活を享受している日本をはじめ「先進国」等々の人々が霊性という言葉をどう捉えるかです。
とはいえ、「先進国」と言っても様々で、人間中心主義で近代化の基礎を築き推進してきた欧米と日本の歴史は異なっています。「先進国」で唯一「森の民」と言われるのは日本です。縄文文化を基礎にした日本の村の人々の自然を敬う精神世界は、現代に生きる日本人の精神性にまだまだ大きな影響を与え、私たちの精神に良い意味で深く浸透していると思われます。そうゆう有意味では、「先進国」で自然環境や健康問題を克服する「素質」は、日本人はもっともあると思っています。が、現状を見ると寂しさはかくせません。いずれにしても、霊性は重大な意味があります。
■霊性という言葉を検証する必要
霊性(スピリチュアル・いのち)という言葉は人によって余りにもイメージが異なっているのが特徴です。ある人は「宇宙の中のいのちの自覚」、またある人は「人間の心に湧き起こる観念」またある人は「いのちのコンパス」等々。人間を見てある人は、サルだとか、また、ある人はチンパンジーとか、またある人はヤギと言っているのに等しいと思われます。霊性という概念自体は否定するわけではありませんが、なぜ、霊性という言葉が人のイメージによって余りにも異なってしまうのかを検証する必要があると思います。
霊とか霊魂とか言う言葉は人の想像によって創られ、非常に観念的です。想像の世界は人それぞれ受け止め方が違ってきます。とりわけ「霊」という言葉は、いのちを雲の上に隠してしまったり、心の中にしまい込んだりもします。つまり、霊性という言葉は、いのちを「天上と心と空間」に置く傾向があります。とりわけ身近に存在する「本物のいのち」が見えなくなってしまう面は否めません。だから、身近な森が枯れても客観的になり、逆に「自身の問題」をも遠ざけてしまう場合がしばしば見受けられます。ここに、今日の日本のスピリチュアル(霊性))ブームの一端も伺えます。
■霊性を草木に置き換える!
私は、今年600坪の実家の畑にサツマイモの苗やトウモロコシやサトイモの種を適当に植え、ささやかですが、毎週「土に触れ草木と向き合い」、村の森林組合の杉林の下草刈りにも参加してきました。一応一言報告した上で、次のように「健康の定義」について問題提起をします。
「健康とは、身体的、精神的、社会的、かつ、草木が活き活き宿る状態を意味し、決して単なる病気や障害の不在を意味するものではない」と、より明確に「いのち」を捉える為に、WHOの「霊性」を「草木」に置き換えるべきと考えます。
つまり、人の健康も草木が活き活き宿る状態であってこそ健康も保たれると言うことです。草木は、人間も生物も活きていく上で絶対的な条件である空気、大地、水、食と密接に関係し、草木が消滅すれば人間の生命も健康も維持することはできません。マクロ的にみても草木(大自然)が病めば人体も病みます。人間の遺伝子と草木の遺伝子は一緒、違いは染色体の中の4つの組み合わせ方だけと言われています。生命を宿す草木は、ある意味、人間の兄弟です。その草木は現実的に生命を宿す生命エネルギーの源と言っていいと思われます。草木が活き活き宿っていれば健康維持の条件が出来ます。草木と人間は運命共同体です。まさに目で皮膚で鼻で耳で口で感じ、そして、身近に存在し、他の「いのち」を無心で活かしている草木が「いのち根っこ」。
草木は人間がいなくとも活きていけます。しかし、人間は毎日の食事(草木)も草木が存在しなければ生きていけません。火星も金星も地球と同じく宇宙で「生存」していますが、草木は存在しません。いのちを「天上と空間」から地上のいのちに目を向けなくてはなりません。ここにも「草木がいのち根っこ」と言う所以でもあります。こうした中、自然から学んだ知恵でなく、「自然から離れた知識」によって話をむずかしくする人もいるかも知れませんが、事は単純です。草木が存在してこそ人間の命の生存が可能です。これは明確な事実、科学者や「知識人」も含め誰もが否定できないと思われます。
■草木を基本に健康を考える
では、草木を「いのちの根っこ」と位置づけ、健康の前提条件と考えるとどうなるのでしょうか。次のようなことが想定されます。
①健康維持のため、草木を多くの人が敬うようになり種を蒔く人が増えます。
②健康維持のため、森や田畑を大切にし、自身で食べる食べ物は自身で創る、自給自足をする人が増加します。
③身近に存在する草木に学ぶため、人間のエゴイズムも小さくなり社会全体に「やさしさが広がり」平和を求める人が増加します。
④草木を失うことは健康破壊という意識が広がり、自然復活の契機にもなります。
⑤自然環境問題も、草木が基本と考える人が多くなります。
以上のようなことが予測されます。いずれにしても、草木を見て、「魚だ」という人はまずいません。草木は、霊性という言葉のように人のイメージによって異なることはないし、草木の心はわからなくても草木そのものは誰もが了解できます。そこで、これからの健康を考えると次のようなことが重要になってくると思われます。
■いのちの交歓を!
今日、健康維持は自身の身体性・精神性だけを問題にしても、自然・社会環境的に健康維持が出来ない時代的背景があります。そんな中、人間以外の生物は「いのちの交歓」をしています。ただただ「自然界を消費」するだけの生物は人間以外いません。便利になって、物も溢れ、「子供たちの未来を奪った」では済されません。いずれにしても、人間の「いのちの交歓」とは、大地に種を蒔き草木に向きあうことが基本と思います。明日からでも、森と交流し、プランターで、べランで、家庭菜園で、土地を借りて、畑で種を蒔くことからはじめましょう。
草木の種を蒔くことがマクロ的にもミクロ的にも健康維持の条件と思われます。その立場にたって、自身の養生(いい食生活、心の循環、気功、鍼灸ツボ等の行法を身につける等々)を位置づけることが健康維持の基本と思われます。そうでないと対症療法の「域」を脱しきれません。対症療法も必要ですが、対症療法を繰り返し、医学がどんなに進歩しても病人は減少することはないと思われます。
以上、私なりに考えた問題提起ですので、皆さん、ご意見をお寄せください。