宝泉寺 ブログ

念仏の極意 天野の四郎の話から

念仏の極意

 河内国に天野の四郎という男がいた。盗賊として知られるほどの悪党だった。ある日、法然上人が説法をされるという寺に忍び込みました。
 大勢の人が集まるのであれば、ここは狙い所だと。盗人をするには、チャンスだと。
 その寺の縁の下で、こっそりと物音を立てずに、待っていました。
 静かにしていると、法然上人の声が、上の方から聞こえてきます。
「あなたも私も、どんな人でも、阿弥陀仏によって救われている、救われていることに気付いて下さいネ」
「どんなに立派なことを行っても、どんなに素晴らしいことを話しても、自分自身をふりかえれば、愚かな自分がそこにはあります」
「阿弥陀仏は、愚かな人の為に、お念仏の道筋を明らかにして下さいました」
「だから、どんな悪人でも、阿弥陀仏によって導かれるのです」
 これを聞いた天野四郎は、「口先だけのクソ坊主だ。バカバカしい」と思います。自分だけが、利益があればいい、自分だけが幸せであればいいと考えていたのですから。
 
 再び、盗人をするために忍び込んだ寺で、法然上人の説法を聞くことになりました。
「どうしても、私たちは目先のことに、心を奪われてしまう。目先の欲得に振り回されてしまいがちだ。
 人生は、お釈迦さまがお説きになったように、老いる苦しみ、病になる苦しみ、命が終わるという苦しみからは離れることなど出来ないものだ。
 だからこそ、目先の価値にとらわれないで、朽ちない宝物を見つけることが大切になってくる。
 南無阿弥陀仏と称えることが、私たちには一番身近な教えなのだ」
 この説法に、心底惚れ込んだ四郎は、法然上人に向かってこう話しました。
「私は、盗人で暮らしてきました。人様のことなど、何にも考えないで、わがままに生きてきました。こんな悪人でも、阿弥陀様は導いて下さるのでしょうかねぇ。こんな男では、無理なことなのでしょうねぇ」
「どんな悪人であっても、自分をふりかえって、南無阿弥陀仏と称えればよろしいのですよ」
 これを聞いた四郎は、無理矢理に頼み込んで法然上人の弟子となりました。そして教阿という法名をもらいました。


 盗人であったというだけに、教阿の性格は荒っぽいものの、一途なところもありました。法然上人の側近の弟子として、支えることになりました。
 ある夜のこと、法然上人のお休みになっている隣の部屋に教阿が寝ていたところ、法然上人のお念仏の声が聞こえてきました。なんで夜中に念仏をされているのかと思わず咳払いをしました。すると、法然上人の念仏の声が止まりました。


 高齢になった教阿は、関東に向かう際に、法然上人に向かって、こう言いました。
「関東に行きましたら、もう法然上人さまとは再会できないだろうと思います。そこで、最後に教えて欲しいことがあります。お念仏の極意とは、何でしょうか」
「念仏に極意などはない。ないのだが、一つ言うとすれば、むかし、私が真夜中に念仏を称えていたことを、覚えているか」
「はい、覚えております」
「念仏は、他人に聞かせるのではなくて、自分自身が喜んで称えることだ。他人に聞かせるという飾り心を捨ててみることだ。飾り心の念仏は虚仮の念仏だ」
「ありがとうございます。自分自身が喜ぶお念仏を、これからも続けていきます」


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