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動物倫理及び環境倫理の背景思想としての仏教の可能性ー2

2023-06-22 00:11:53 | 日記

(動物倫理及び環境倫理の背景思想としての仏教の可能性ー1の続き)

 

第5章:大乗仏教で重視される慈悲とその前提となる無分別智

 原始仏典では、「自分の命に代えても一切の生きとし生けるものの命を護れ」とされているのに、その後の上座部仏教では、自己にも他者にもあらゆるものにも執着すべき実体などなく、その実体の無き様を実感してあらゆる執着から解放される道を突き進むことが目指された。
 それは、慈悲の対象であるすべての生きとし生けるものも本来は実体の無いものであり、必然的に執着すべき対象ではないことを意味した。そのことが上座部仏教においては、慈悲の問題が半ばおざなりにされてしまった最大の要因であったと思われるが、では、大乗仏教ではどのようにして、無我説から慈悲の必然性を導き出せたのであろうか?
 代表的な大乗仏典の一つである華厳経の中の十地品として知られ、元は十地経という独立した経典があった。以下、その第6地からの引用である。

  (頌14) このように、さまざまな条件に条件づけられてまよいの存在
   が生成してゆく真実を、いささかの疑いもなくさとってゆく。「それ
   は、幻のごとくであって、ありもしないものがあるかのごとく非真実
   にあらわれる。夢のごとくであって、苦悩をうける個我的主体が本来
   ないのに、苦しめられる。真如の鏡にうつる、ありとあらゆる映像の
   ごとくである。陽炎にもひとしい本性があって、愚者たちをして誤認
   させる」と。(二四)

  かの菩薩は、このように十種の真実相によって、さまざまな条件に条件
 づけられてまよいの存在が生成してゆく真実を、さとりの知によって諦観
 して、そこに自己なるものはない、衆生なるものはない、生命あるものは
 ない、人間なるものはない、実体的なるものはなく空である、行動する個
 我的主体も苦悩をうける個我的主体もどこにもない、とさとりの知によっ
 て諦観するのであるが、そうしているうちに、空であるがままの如性によ
 って、自由な解脱をさとる種々なる道(空解脱門)が現前してくる。
   かの菩薩は、これらのまよいの存在の構成要素が、実体的なるものなく
 本来寂滅していることによって、究極的な自由な解脱を体得する。そこに
 おいては、いかなる存在の個的実体もない。このようにして、かの菩薩に
 は、個的実体のない如性によって、自由な解脱をさとる種々なる道(無相
 解脱門)が現前してくる。
  かの菩薩が、このように空なるがままの如性と個的実体なき如性を体得
 するならば、もはや、いかなる願望も生じない。大いなる慈悲かまっさき
 にあって、あらゆる衆生を菩薩道に成熟させようと願求することは別にし
 て、である。このようにして、かの菩薩には、願求することのない如性に
 よって自由な解脱をさとる種々なる道(無願解脱門)が現前してくる。⑱

 ここでは、無我の境地を習熟した菩薩は、自己なるものも、衆生なるものも、生命あるものも、人間なるものも無く、実体的なるものではなく空である事を悟っており、そのような空である在り方と個的実体の無い在り方を体得すれば、もはやいかなる願望も生じないが、全てに先んじて初めからある「大いなる慈悲」によって、あらゆる衆生を菩薩道に成熟させようという願いだけは別であり無くなることはないとしている。
 つまり、ものごとの真の在り方を悟った境地からみれば、自己にも衆生にもあらゆるものには、実体的なものはなく、空であり、自分にとっての執着や願望の対象にはなりはしないが、そのようなものごとの真の在り方を悟っていない衆生にとっては、その無智から生じるありとあらゆる苦しみは厳然として存在している訳で、それら全ての衆生を菩薩道に導いて彼らも苦しみから解放されるように菩薩が導いて行かない限り、彼ら衆生の苦しみは永遠に続くことに成る訳である。
 そのような衆生の苦しみというものは、究極的には妄想であり実体のないものではあるが、だからと言って何もしないまま他人事として放置しておくのは、悟っている自分と悟っていない他者という「分別」をしている証拠であり、それは未だに「自他分別の境地」を超えられていない状態であると言える。
 慈悲の問題をおざなりにしたまま、ひたすらに自己の悟りだけを目指す阿羅漢道にとどまるものは、そういう意味でも正に「自他分別の境地を」超えられていないと言えるのであろう。
 先の引用の続きには次のような一節がある。

  (頌15) このように、さまざまな条件に条件づけられてまよいの存
   在が生成する真実をさとるならば、そこにおいてこそ、空であるがま
   まの如性が現前する。知あるひとびとにとって。さまざまな条件が止
   息してしまうならば、そこにおいてこそ、個的実体なき如性か現前す
   る。個的実体はけっして真実にあるのではないと知るならば、願求す
   ることがなくなる。衆生に慈悲ぶかいがゆえに、まよいの生に生まれ
   ることを別にすれば、である。(二五)

  このような三種の如性によって自由な解脱をさとる種々なる道を修行す
 るならば、かの菩薩は、自已と他己をわける観念がなくなる。行動する個
 我的主体と苦悩をうける個我的主休という観念がなくなる。有はどこまで
 も有であり、無はどこまでも無であるという観念がなくなる。そうなれ
 ば、それだけますます、大慈悲心にみちびかれて、一生懸命に努力する。
 もし、いささかなりとも、菩提にみちびく諸修行を円満にしていないとこ
 ろがあるならば、それを円満にするために、である。 
  かの菩薩は、つぎのように思惟する。「さまざまな条件が相関連するか
 らこそ、まよいの存在 (有為)が生成する。その関連がどこかで断ちき
 られるならば、生成することはない。さまざまな条件が一つに和合するか
 らこそ、まよいの存在が生成する。その和合がどこかでこわれるならば、
 生成することはない。そうだ、私は、あらゆるまよいの存在がかくもあま
 たの罪悪で罪ぶかいことを知っているのだ。このようにさまざまな条件が
 関連し、和合するのを断ちきるようにしよう。とはいっても、あらゆるま
 よいの存在の生成のはたらき(諸行)―主体的行為—の究極的な寂滅をさ
 とってしまってはならない。あらゆる衆生を菩薩道に成熟させてやらねば
 ならないからである」と。このように、みなさん、仏子たちよ、あらゆる
 まよいの存在の生成のはたらきは、あまたの罪悪で罪ぶかい、個々の実体
 かまったくない、本性において不生不滅である、とさとりの知によって諦
 観しつつあるときに、しかもそのときに大慈悲心が現前して衆生のための
 はたらきをやめてしまわないゆえに、かの菩薩のもとには、「無擬自在の
 知が現前する」と名づけられる、もっともすぐれた般若の知恵の菩薩行
 が、眼のあたりに現前してくる。ありありと顕現するのである。
  かの菩薩は、このように知恵を円満に成就し、もっともすぐれた般若の
 知恵の菩薩行を、ありありと顕現させている。そこにおいて、菩提にみち
 びく諸修行を完成させる諸努力をつみかさねて成就する。しかし、努力す
 るといっても、まよいの存在のうちに安住したままであるのではない。そ
 して、まよいの存在の生成のはたらきが本性において寂滅していること
 を、さとりの知によって諦観する。しかし、その寂滅にそのまま安住する
 のでもない。そうすれば、菩提にみちびく諸修行が円満にならないであろ
 うからである。⑲

 ここでは、先述の、空であるがままの如性によって、自由な解脱をさとる種々なる道(空解脱門)と個的実体のない如性によって、自由な解脱をさとる種々なる道(無相解脱門)と、願求することのない如性によって自由な解脱をさとる種々なる道(無願解脱門)を修行した菩薩には「自己と他己を分ける観念がなくなる」とされている。これこそ「自他の分別」を超えた「無分別智」の境地に至っていることを意味していると言える。
 更に(頌15)には、「個的実体はけっして真実にあるのではないと知るならば、願求することがなくなる。衆生に慈悲ぶかいがゆえに、まよいの生に生まれることを別にすれば、である。」とあるが、菩薩が輪廻の世界に再生するのは、決して我執によるものではなく、衆生に対する慈悲によるが故だとされている。
 そして「かの菩薩は、このように知恵を円満に成就し、もっともすぐれた般若の知恵の菩薩行を、ありありと顕現させている。そこにおいて、菩提にみちびく諸修行を完成させる諸努力をつみかさねて成就する。しかし、努力するといっても、まよいの存在のうちに安住したままであるのではない。そして、まよいの存在の生成のはたらきが本性において寂滅していることを、さとりの知によって諦観する。しかし、その寂滅にそのまま安住するのでもない。そうすれば、菩提にみちびく諸修行が円満にならないであろうからである。」つまり、菩薩は迷いの世界に安住したままであるのでもなく、迷いの存在の生成の働きは本来寂滅していることは悟っているが、かといってその悟りの世界に安住するのでもなく、ひたすらに衆生を菩提に導く諸修行に邁進しているのであるとされている。
 更に、「このようにさまざまな条件が関連し、和合するのを断ちきるようにしよう。とはいっても、あらゆるまよいの存在の生成のはたらき(諸行)-主体的行為-の究極的な寂滅をさとってしまってはならない。あらゆる衆生を菩薩道に成熟させてやらねばならないからである」とあるが、本来なら主体的な行為の究極的な寂滅をさとってしまうことも可能であるが、そうすると衆生を悟りへと導くために輪廻の世界に再び戻ってくる為のはたらきまで断絶してしまい、いわゆる般涅槃に入ってしまって、菩薩の行が継続できなくなるため、あえてそこまではしないとされている。
 このように、大乗の菩薩も、無我説に基づき自己も衆生も様々な条件によって生成しているだけで、実体のないものであると認識している点では、阿羅漢果を目指している上座部仏教の行者と同じではある。だが、本来的な実体はないにしても、様々な条件によって生成しているという事実はある訳で、多くの衆生が苦しみの中にいるという事実も、決して無視はできない現象として生成している訳なのである。その多くの衆生の苦しみに対して積極的に関与することなく、本来的な実体はなく執着すべき対象ではないとして、ひたすらに全ての執着から解放されて、早々に自分だけ涅槃の境地に入ろうとするのは、釈尊が厳命された「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」という厳命を軽視するものであると言える。そのような釈尊の示された仏教徒としての第1行動規範が軽視されたままの仏教修行の在り方に対して、後に大乗仏教が疑問を呈して、積み残されたままになっていた慈悲の問題を包含するような、新たな教義解釈並びに修行体系が確立されていったのは、ある意味、歴史の必然であったと言えるのかもしれない。
 また、瑜伽行唯識学派の開祖、弥勒の作であるとされる「大乗荘厳経論」の安慧註釈版には以下の様な記述がある。⑲

  初地に達する時,自他の平等なることを知る見解を獲得するが故に,
 「大〔我〕見」と言う。このように〔自他を平等と〕見ることによって,
 無限の衆生を利益するから,「大〔我〕見」と言うのである。つまり〔初
 地に達する〕その時に,このような〔自他平等の〕見解に住するから,
 「大〔我〕見に依止する」のであり,それは世間では極めて希有なことな
 のである,と言う意味である。

  「ここに我見無くして我見あり」(K.38,a)という場合,初地を得る時,
 「我見〔あり〕」とも「我見なし」とも言われる。なぜ「我見無し」と言
 われるのか,と言えば,初地を得る時に有身見を断ずるが故に,「我見な
 し」と言われる。それでは何故「我見〔あり〕」と言われるのか,と言え
 ば,自己が即ち衆生でもある,というように自己と衆生とを平等に見るが
 故に,「我見〔あり〕」とも言われるのである。㉑

  (中略)

  「しかし〔菩薩に於いては〕衆生と自己とに関して平等であるから,そ
 うではない。」(K.41, d)と言う場合,これは〔上記の菩薩の所行が〕希有
 なことではないことを示す。すなわち,自己と他者に関して平等心
 (sama-citta)を体得していない人々において,もし上記のようなことが
 生ずるならば,〔それは〕希有なことである。しかし,〔そういう人々の
 場合でも〕自分を慈しみ幸福になるために努力している場合には,〔上記
 のような事を自分の為に行うことは何ら〕希有なことではない。それと同
 様に,この場合においても,菩薩が自己と他の人に対して平等心を獲得
 し,一切の衆生は即ち自己であると理解するならば,一切の衆生に対して
 利益をなし,その幸福を願うことがどうして希有なことであろうか。希有
 なことではないという意味である。㉒

 つまり、自他の分別の超えた無分別智を獲得した菩薩は自己と他者に関して平等心(sama-chitta)を体得しており、一切衆生は即ち自己であると理解し、一切衆生に対して利益をなし、その幸福を願うことは、決して稀有なことではなく、ごく自然なことであるとしている。
 このように、大乗仏教の思想的発展によって、釈尊が説いた四諦・八正道と無常・無我説を全て踏まえつつ、釈尊が強調した慈悲の大切さもその思想体系に取り込まれた。それによって、従来はあらゆる執着を捨てて、輪廻の世界から解放されていることが仏教修行の目的であったものが、先ずは慈悲が大前提とされて、その慈悲の実践としての、衆生と共に悟りの道を歩む菩薩行こそが修行の目的となった。そして、最終的には自他の分別を超えた無分別智を獲得して、一切衆生は自己であると境地に達することが最終ゴールであり、それが仏の境地であるとされたのだ。ここに至って、ついに、釈尊が説いた四諦・八正道・無常・無我説と最重要戒律としての不殺生戒及びその根拠としての慈悲の実践との一貫した整合性が解明され、思想的に統合されたと言えよう。

第6章:仏教国における慈悲の思想の思想的及び現実的影響の歴史と現状

 以上みてきたように、原始仏典で示されている釈尊の「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」という「命がけで、一切の生きとし生けるものを慈しむべし」という厳命は、不殺生戒として全仏教徒にとっての行動規範の第1項目にされるほどの最重要事項であったはずであるが、その重要性はその後の弟子達によって充分に伝えられたとは言えず、特に教義面での重要性が浸透していかなかったために、単なる戒律の一つとして扱われ、その思想的影響は限定的であったと言える。
 その後、釈尊が強調した慈悲の大切さにも関わらず、現実の僧侶達の社会から隔離された修行実態に矛盾を感じた心ある人々によって、改めて慈悲の大切さの意味を教義面でも実践面でも追及し、社会的にもより積極的に衆生の苦しみに関与し、衆生と共に悟りの道を歩もうとする菩薩思想を根幹とする後に大乗仏教と言われるようになった思想体系が大乗経典として登場するようになったと考えられる。
 しかし、大乗経典や論書としての思想体系は登場したが、その思想を実際に実践する実践集団がどれほど発展したのかは不明である。そして、大乗仏教はインドにおいては密教化を経て衰退していった。
 しかし、大乗仏教は、東アジアやチベットに伝わり、それぞれの地で発展した。だが、上記の十地経や大乗荘厳経論において到達されたような、自他の分別を超えた無分別智を獲得した菩薩は「自己と他者に関して平等心(sama-chitta)を体得しており、一切衆生は即ち自己であると理解し、一切衆生に対して利益をなし、その幸福を願う」というような、菩薩行の理想がそのまま実践されたという形跡は、一部の高名な僧侶達や中国唐代の三階教の信者達などの伝説的な例を除けば、決して多くは見られなかったようである。
 その原因は、東アジアやチベットに伝わった大乗仏教はひたすら個人の瞑想を重視するものであったり、神格化された仏に祈願して救いを求めるものが主流で、上記のような「一切衆生は即ち自己であると理解し、一切衆生に対して利益をなし、その幸福を願う」というような菩薩行の理念を現実社会の中で多くの人が実践するような宗教運動は、大きな社会運動に成りえなかったからであろう。
 その理由は、上記の中国唐代の三階教が時の政権に徹底的な弾圧を受けた歴史を見ても、もし本当に全ての人々が自分自身よりも他者の利益の為に生きるようになると、自ずと相互扶助的な社会が出来上がってしまい、統治者が不要になるという、権力者にとってはこれほど不都合な事は無いという事態を生み出したからかも知れない。
 正に「大乗仏教の原点ともいえる利他の精神においてもつとも徹底した宗教の一つ」㉓で、菩薩行の理想を各自が実践していたと思われる三階教が跡形もなくなる程、徹底的に弾圧されたのはその為であろうと考えられる。
 各国の仏教は時の政権の監視下で拡がって行った為、政権にとって民衆統治の邪魔にならない範囲内で許容さされたのであろう。従って、その内容も個人の精神的充足や救済に焦点を当てたものが中心に成らざるを得ず、社会全体の在り方まで大きく変えてしまうような思想的社会運動は許容されなかったということであろう。
 しかし、この事実は、もし全ての人々が実際に「一切衆生は即ち自己であると理解し、一切衆生に対して利益をなし、その幸福を願う」という生き方をするようになれば、社会の在り方も、動物の扱われ方も、環境問題の状況も激変するほどの結果をもたらしうるという事を意味している。
 せっかく、そのような素晴らしい成果をもたらしうる思想が大乗仏教において花開いたのにも関わらず、これまでの所、その本当の成果を現実の社会の中で活かす機会が残念ながら無かったと言わざるを得ない。だが、これからの未来に向けてなら、仏教が今の人類社会の在り方を大きく変革しうる基本理念になりうる可能性は充分にあり得ると思われる。

第7章:仏教は「動物倫理」及び「環境倫理」の背景思想に成り得るか?

 第1章と第2章で触れた現代の欧米における動物倫理思想と環境倫理思想の代表的なものは、上述の通り、双方の相反する理念によって相互に批判し合っている状況にあるが、一方では、それまで長い間欧米の人々の倫理観の根拠となって来たユダヤ・キリスト教が、家畜動物や自然環境は創造主が人間の為に作られたのだから人間にはそれらを利用する権限が与えられている、あるいは管理する義務が付与されているというオーソドックスな考え方に対しては、人間中心主義的であるとして否定している点で共通している。
 つまり、過去2000年の長きにわたり、ユダヤ・キリスト教を信奉する人々は、家畜動物を食べる事や森林を切り開いて人間の為に利用することは、創造主から認められたことであって、倫理的な問題など一切ないと信じてきたのであったが、今や、その本来創造主から許されていたはずの人間の行為の積み重ねによって、地球の環境が破壊され、人間自体の存続が危うくなってきつつある。そして、先にも述べたように人間の食料として与えられた筈の家畜の飼育も、そのゲップや放屁に含まれるメタンガスの総量の温室ガス効果が人間の産業活動によって排出される二酸化炭素の総量による温室ガス効果を上回るとされており、地球温暖化がより深刻化する主要な要因のひとつにもなってきている。
 20世紀後半から叫ばれるように成った環境問題への注意喚起は、人間の快適な生存にとって欠かせない自然環境は、今後の人類の永続的な存続の為にも保護しなければならないという人間中心主義的な発想によるものと、その対極の発想として、そもそも長年に渡る人間中心主義的な発想こそが、周りの全てを破壊して調和を乱してきたわけだから、もうこの辺で、根本にある人間中心主義的な発想そのものを転換しなければならないという非人間中心主義的環境倫理思想の二通りがそれぞれ発展することとなった。そして、現状では非人間中心主義的な生態系中心主義が理論的な指針に成りつつあるようである。
 それらの環境問題に触発されて発展した環境保護主義や環境倫理思想とは弱冠違う文脈で、1975年には第1章でも触れた、ピーター・シンガーの「動物の解放」が出版され、現在の畜産動物や実験用動物がいかに残酷な扱いを受けているのかを数多くの具体例を列挙して欧米の多くの読書に多大なる衝撃を与え、結果的に欧米先進国を中心に動物福祉が法制化され、動物に対する残酷な扱いが禁止され、畜産や動物実験のあり方にも大幅な見直しが迫られる事となった。
 しかし、シンガーは保護されるべき対象は相当程度の痛みの感覚を有する動物以上であり、痛みの感覚が基準以下の動物や、そもそも痛みを感じないとされる植物全般、更に場合よっては痛みを感じる以前の人間の胎児まで保護の対象には成らないとしたため、その極端な主張は、環境倫理学者を中心に、依然として人間中心主義的で環境倫理的な視点が欠けているとして批判され、人権団体からも非人道的であると批判されている。
 既述の通り、シンガーの著作や活動が今日の欧米における動物福祉のための法整備に結びついたことは否定しがたい事実である。そして、欧米文化における肉食の風習と人間の為の動物実験というそれまで誰も疑問を呈したこと無かった問題に対して、彼の著作と活動によって、多くの人がそれまでのやり方を再考するようになり、今や欧米の食習慣や生活習慣やファッションのあり方にまでもがすっかり様変わりしてしまったというこの事実は驚くべきことである。近年の欧米の歴史の中でも、一人の思想家の影響で、欧米文化のあり方そのものまで様変わりしてしまったことなど殆ど無かったことを考えると、その影響力の大きさは正にエポックメーキングであったと言えよう。
 しかし、これほどまでに多大なる影響を及ぼしたピーター・シンガーではあるが、各方面からの批判を受けて、現在ではその影響力は限定的なものとなっている。彼の思想の最大の問題点は、生き物を保護すべきかどうかを決める権利をあたかも人間が持っているかのような判断基準の提示の仕方をしていることであろう。
 もちろん、人間の行動を人間が決めるのは当然であるが、人間が人間以外の生き物を保護すべきかどうかを判断して、その運命までをも決めるというその姿勢にこそ、人間としての驕りが感じられるのである。そして、同じような姿勢は、生態系中心主義の環境倫理思想家や活動家らにも見られる。
 彼らの思想や活動は非人間中心主義的で生態系中心主義であるとしているが、生態系の保全という理念と名目で、外来種の徹底排除などの大量殺戮行為を彼ら人間の判断で公然と行なっているのである。外来種の生存の権利を人間が決めている訳である。本当に、彼らが生態系の保全を第一に考えているのであれば、一番に排除されるべきは人類自体であろう。人類があらゆる種の中でも最も生態系を破壊し変化をもたらし、多数の生物を絶滅させている最悪の外来種であるはずである。その一番の生態系破壊の元凶である人類が、自分達以外の外来種を邪魔者として公然と抹殺しているのは、マフィアが町の治安維持と称してコソ泥を始末しているようなものである。
 しかし、あれほど動物に対する残酷な扱いを大きく改変させたピーター・シンガーでさえも、依然として人間中心主義的であると批判され、逆に非人間中心主義であると標榜している生態系保全主義者達が全体主義的観点から個々の不要生物を勝手に殺戮している状況は、そもそもの始まりから、人類は、創造主から、特別な権限を付与されているという神話的前提とその文化的伝統の影響から、彼らも結局免れていなかったのではないかと感じざるを得ない。
 シンガーも生態系保全主義者達も、その前提そのものに疑義を抱き、自らの判断で、動物達や生態系が不当な扱いを受けていることに反対し、人間の犠牲になる事に異議を申し立てたわけで、それ自体は本来画期的な事であったはずである。だが、元々創造主から特別な権限が与えられていたので、その後人間が自らの判断でその権限を制限しても、それは権限の内容と程度を変えただけであって、そもそも、人間が、全ての生き物の運命を決める権限をもっているという前提自体を、彼ら自身の考え方から完全には排除しきれなかったことが事の原因なのかもしれない。
 もともと、創造主が、人間の為に家畜や自然環境を作ったという前提自体は、極論すれば人間が勝手に考え出した都合の良い神話にすぎず、根拠のあるものでは全くなかったはずであるが、一部の人類は、過去2000年以上もの長きにわたって、その根拠のない権限を殆ど何の疑問も抱かずに当然の事として行使してきた上、その文化的影響力の大きさによって、日本も含めてほぼ世界中に彼らの価値観と生活様式を浸透させてきたのである。
 いずれにしても、客観的な事実としては、地球上に人類とその他の生き物が共存しているという状況があるだけである。このような状況を、先にも述べたように、一部の人類は、創造主が人類の為に家畜や自然環境を創ったと解釈し、そのような解釈に基づく生活様式が全人類の生活様式にも大きな影響を与える事となったわけである。その一方で、別の一部の人類は、自分たちが生きていくことで、他の生き物が犠牲になるという事実に、非常に心を痛め、そもそも他の生き物を犠牲にしてでも自分だけ生き残ろうとする自己中心的な貪り、自分に対する執着が諸悪の根源であるという結論に到達した。そして、人生のすべてをそのような自己中心的な貪りと自分に対する執着を克服する修行に捧げることにした。その間、自分が生きて行くことで他の生き物が犠牲になるのを出来る限り避けようとした。そして、行動規範の第1番目に「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」という指針を定めたのである。
 上述の様に、そもそもの大前提として、人間には他のすべての生き物の運命を決める権限が与えられていると考えた人達がいた一方で、これらの究極的に謙虚な人々は、人間は他の生き物の運命を決めるどころか、他の生き物が生きる邪魔をしないように、最大限の遠慮をしながら生きて行くのが精一杯であると感じた。そして本当なら、そもそも他の生き物を犠牲にしてでも自分だけ生き残ろうとする自己中心的な貪り、自分に対する執着をとことん克服して、最終的には全ての生き物を一切犠牲にしなくて済むような存在の仕方に到達することを目指すしかないと考えたのであろう。
 この、全ての生き物を一切犠牲にしなくても済むような存在の仕方こそが涅槃の状態であると考えられ、釈尊が不殺生戒を最重要戒律に定め、慈悲の大切さを厳命し、修行のゴールに涅槃を設定したのは正に上記のような理由であったのかもしれない。
 そうだとすれば、仏教は、動物倫理の背景思想になりうるだけでなく、植物を含めたあらゆる生きとし生けるものを大切する真の環境倫理の背景思想にも成り得るものと考えられる。
 しかし、あらゆる生きとし生けるものを大切にすると言いながら、生き物を食べながら生きるのは、矛盾であり、欺瞞であるとして、倫理学的には非現実的で整合性がないとして倫理思想としての不完全さが指摘されるのは明らかであると思われる。だからこそ、Deep Ecologyも「生命中心主義」も、結局は生存の為の殺戮は容認しているし、シンガーが配慮の対象から下等動物や植物を除外したのも自らの生存の為の食料とする必要があったからだと思われる。
 そうやって、倫理としての現実性や一貫性を保持し、万全なる倫理としての整合性を保とうとしたものと思われるが、そうすることで反って、本来、容認出来ないはずの他者の殺戮を無理やり正当な行為あるいは容認されるべき行為に位置付けてしまったのであると言えよう。しかし、そうした例外的殺戮を容認することで、本来の、あらゆる生きとし生けるものを大切にするという大前提そのものが有名無実化してしまい、結局、倫理思想としても空疎化しているのは否定できない。
 あらゆる生きとし生けるものを大切にすると言いながら、生き物を食べて生きているのは矛盾であり、欺瞞であるのは、その行為者である人間がそもそも非倫理的な存在だからであって、あらゆる生きとし生けるものを大切にするという思想に欺瞞や偽善がある訳では決してない。
 要は、人間は本来的に本当の正義など為せる存在ではなく、生きているだけで多くの他者を犠牲にして行かざるを得ない、限りなく罪深い存在なのであって、それを自覚する事こそが、その罪深い存在の悪事を最小限に抑える為の最大の抑止力になりえるものと思われる。
 「あらゆる生きとし生けるものを大切にする」ことが究極的な正義であり倫理であるとすれば、それを文字通りに実行できない人間存在にこそ不備があるのである。人間が文字通りに実行できないような理念は非現実的でただの夢想的理想論であるとして、代わりにどんな人間でも実行可能な現実的な理念や倫理を提示し、それを正義として実行していくことは、その理念や倫理そのものが人間存在の不備や矛盾をそのまま反映したものに成らざるを得えない。そのような不備で矛盾を抱えた不完全な倫理をあたかも完全なる正義であると勘違いして、誇らしげに公然と実行していくことほど愚かで恐ろしい事は無いと思われる。
 同様の事は過去にも何度も繰り返されており、自らが本来不備で罪深い存在であるという自覚のない人間が掲げる倫理や正義がどれ程多くの不幸をもたらして来たかは人類の歴史を振り返れば明らかなのである。
 要するに、不備な人間が実行できるような倫理は、そもそも本質的に不備なものでしかないという事であり、その自覚が大切なのであって、その自覚があれば、単に実行が難しいからと言って「あらゆる生きとし生けるものを大切にする」というような理念を非現実な理想論として片付けてしまうようなことはでき無くなるはずである。
 仏教は、自己も他者もあらゆる生きとし生けるものは、因と縁との無限の繋がりを持つ縁起の総体として一切の分別・差別が不可能なものであり、全てを実体の無いものとして、忌避するか、逆に全ての現象を我が事、我が問題としてその全ての福利の為に生きて行くのかの、二者択一の道を示しているとも言える。いずれにしても、現在のような動物倫理学や環境倫理学における人間中心主義か非人間中心主義か生態系中心主義か生命中心主義かなどの二極対立を止揚しうる第三の道として、自己も他者も動物も植物も自然全体が無限の繋がりを持った切れ目のない総体であり、その全てが大切にされなければならない存在であるという無分別智的慈悲精神は、今後の人類のための動物倫理と環境倫理の双方を統合する背景思想にもなりうると思われる。
 動物も植物も自然全体も無限の繋がりを持った切れ目のない総体であるという発想自体は、生態系中心主義や生命中心主義やディープエコロジーなどの環境倫理学でも言われている事である。だが、仏教に於いては、繋がりを持った切れ目のない総体の方が個々の生命体よりも大切であったり、生存の為に限って他者の犠牲が容認されたりはしないのである。個々の命の大切さは、人間が勝手に判断したり決めたりすることは仏教的には決して許されないのであって、たとえやむなく、命を奪ってしまったとしても、決して正当化されたり、容認されたりすることはないのである。生命尊重が文字通り実行できないのはあくまで行為者自身の責任であって、その結果も行為者自身が請け負わざるをえないのである。現実的に実行できないからと言ってその実行できない行為自体を正当化したり、容認したりする権限は人間にも誰にも無いのである。そのような究極的な謙虚さこそが、釈尊の説かれた不殺生戒と慈悲の精神の大前提になっていると思われる。
 しかし、これまでは、釈尊が全仏教徒の第一義的な行動規範として定めた、不殺生戒と慈悲の行いは、本来なら仏教の中心的テーマであったはずであり、先にみてきたような、釈尊の慈悲の行いの必然性を思想的に根拠づけた大乗仏教の菩薩思想は、キリスト教の教義がこれまでの全人類の生活様式の在り方に大きな影響を与えてきたように、もっと多くの人類の生き方や生活様式に大きな影響を与えていても良かったはずであるが、残念ながら、現状はそうはなっていない。
 であれば、これから未来に向けて、人類の生き方や生活様式を考え直す上で、これまでのような環境破壊や動物達への残酷な扱いの元凶であった「人間には他のすべての生き物の運命を決める権限が与えられている」という大きな思い違いを改め、釈尊が厳命した「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」という考え方を、これからの全人類の行動理念とすべきだろう。こうした一切の例外を認めず、言い訳も正当化もしない、究極的に謙虚な姿勢こそが、今後の動物倫理と動物福祉、環境倫理と環境保護の活動にとっての不可欠な姿勢であると思われる。

終 章

 本論考は「人間のみならず動物など生きとし生けるものを含めた他者は何故大切にされなければならないのか?」という根源的な問いから始まったわけであるが、欧米において動物倫理及び動物福祉の為の法整備のきっかけを作ったとも言えるピーター・シンガーは、痛みや苦しみを感じる能力を有する動物以上の存在は、そのような苦痛から保護される必要があるという理由を提示した。
 しかし、それは裏を返せば、そのような苦痛を感じない生き物は、保護される必要はないという事を意味しており、そのような差別はピーター自身が指摘した「種差別」に他ならず、植物を保護し森林伐採などの環境破壊を回避するための背景思想には成り得ないことを意味していた。
 かたや、環境倫理思想においては、人間の生存に必要な環境を保護するという考え方と、生態系の保全が最重要でありそれを妨げるものは排除するという考え方と、個々の生命を大切にするが生存の為の犠牲はやむを得ないとする考え方に分かれているが、どれも痛みを感じる動物の殺害を容認している点で、動物倫理思想からすると受け入れがたいものばかりである。
 ということは、人間や動物だけでなく植物も含めたすべての生き物に対する、あらゆる不当な扱いを、この世から完全に無くすためには、一切の「種差別」を完全に無くし、全ての生物を同等に大切にし、どのような例外も認めないし、それが実行できない時の言い訳も正当化もしないということであるという結論が見えてくると言える。
 ただ、そのような理想は実行不可能な非現実的な理念でしかないとして、あたまからそれを否定するのではなく、理想を文字通り実行できない人間自身の在り方を見つめ直し、変えていこうとする謙虚さこそが今一番求められているのであると考える。
 そういう意味では、2500年前に釈尊が「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。」と全仏教徒に厳命し、後の大乗仏教がその趣旨を更に深く掘り下げて、最終的には自他の分別を超えた無分別智を獲得して、一切衆生は自己であるという境地に達すること(が最終ゴールでありそれが仏の境地である)という結論は、正にあらゆる「種差別」を超えた境地であると言える。そしてそのように、これからの人類が、すべての人間、動物、植物が自分自身であるという気持ちで対処行動するという考え方こそが、今後の世界の動物倫理・環境倫理の背景思想になりうるものであろう。尚且つ、その理念とは矛盾する行動をとらざるを得ない人間存在というものの自己中心性に目を向けて、その根深さを自覚しつつ、謙虚にその克服への道を歩んでいこうとする生き方こそが、今後の人類に求められているのであって、それを古来説いてきたのが仏教であったことが確認できたものと思われる。
 そして、結論としては、人類が仏教の説く究極的謙虚さを学び、あらゆる他者の犠牲の最小限化こそが人類共通の最大の目標であるとの共通認識を共有する、それこそが、本当の意味で動物福祉と環境問題解決の実現に繋がる道であると本論考では結論する。
 尚、今後の更なる研究課題としては、人類には他者の苦しみを自らの苦しみとして感じる共感力と言われるものがあり、その共感力によって他者を慈しみ思いやる気持ちが生じるものと思われるが、同時に自分の生存の為には他者を犠牲にせざるを得ないという状況に置かれていることも認識している。
 その人類の他者を慈しみ思いやる気持ちは歴史を振り返っても、どんどん増大しており、より普遍的な感情に成りつつあることも伺える。シンガーらの動物倫理思想によって多くの人々がベジタリアンになったり、動物福祉政策が世界的な広がりを見せているのもその証左であると思われる。
 このように、今後の人類においては今以上に他者を慈しむ気持ちや思いやる気持ちが増大するものと思われ、そうなると、その強い気持ちと、それにも関わらず自分が生きて行く為には他者を犠牲にして行かざるを得ないという矛盾に対する葛藤の感情も、より普遍的な感情になるものと思われる。そうなった時にこそ、仏教が2500年も前から説いてきたことの意味がより多くの人々によって共感を持って理解されるのではないかと思われる。
 そういう認識が拡がれば、仏教は単なる東洋の一宗教にとどまらず、生物進化の過程で人類などの高等生物が必然的に行きつく利他的な境地と、それとは相反する自身の利己的な本質との間で生じる葛藤を克服する為の普遍的な思想体系として再認識されるのではないかと思われ、今後はそういう視点からの仏教研究もあってしかるべきなのではないかと筆者は考えるものである。


1 『動物の開放』(ピーター・シンガー著)人文書院-P21.L2~L3
2 同上-P23.L4~L5
3 同上-P26.L9~L10
4 同上-P26.L15~L16
5 同上-P30.L3~L5
6 同上-P30.L6~L9
7 同上-P273.L3~L7
8 同上-P273.L11~P274.L1
9 同上-P6.L7~L11
10 同上-P6.L18~P7.L3
11 『生命倫理学と功利主義』伊勢田哲治・樫則章-ナカニシヤ出版(2006年)-P77.L15~P78.L11
12 研究ノート 環境倫理と宗教思想―仏教思想の課題について 竹村牧男 P9
13 “The Shallow and the Dee, Long-Range Movement. A Summary” by Arne Naess
14 倫理学の「環境論的転回」と「一般的観点」 矢島直紀
15 ブッダのことば―スッタニパータ― 中村元訳 岩波文庫-P33.L2~P34.L5
16 「植物に命はあるか? ―南伝上座部の二種の命根―」藤本 晃(日本佛教學會年報第68号024)P102
17 The problem of the sentience of plants in earliest Buddhism(Lambert Schmithausen)P58-P65
18 十地経(大乗仏典8)荒牧典敏訳(中公文庫)P191.L4~P192.L4
19 同上-P192.L10~P194.L8
20 無我論と倫理をめぐる一考察-初期唯識派における利他行を中心に-千葉公慈(駒沢女子大)
㉑ 大乗荘厳経論第十四章教誡教授の章の安慧註釈(小谷信千代訳)(文栄堂)P179.L16~L27
㉒ 同上-P182.L16~L25
㉓「智儼・法蔵と三階教」木村清隆(印度學佛教學研究27 巻 1 号 (通号: 53)) P107

引用文献
「動物の解放」改訂版 Peter Singer (原著), 戸田 清 (翻訳)- 人文書院; 改訂版  (2011/5/20)
「生命倫理学と功利主義」伊勢田哲治・樫則章-ナカニシヤ出版(2006年)
研究ノート 環境倫理と宗教思想―仏教思想の課題について 竹村牧男
“The Shallow and the Dee, Long-Range Movement. A Summary” by Arne Naess
倫理学の「環境論的転回」と「一般的観点」 矢島直紀
「ブッダのことば―スッタニパータ―」 中村元訳 岩波文庫
「植物に命はあるか? ―南伝上座部の二種の命根―」藤本 晃(日本佛教學會年報第68号024)
「The problem of the sentience of plants in earliest Buddhism」Lambert Schmithausen(Tokyo : International Institute for Buddhist Studies, 1991)「十地経」大乗仏典〈8〉(中公文庫) 荒牧 典俊 (翻訳) 中央公論新社 (2003/6/25)
「無我論と倫理をめぐる一考察-初期唯識派における利他行を中心に-」千葉公慈(駒沢女子大)
(日本佛教学会年報. 2008. 74. 1./駒沢女子大学研究紀要. 2009. 16. 117-127)
「大乗荘厳経論の研究」小谷信千代訳(文栄堂)1984年
「智儼・法蔵と三階教」木村清隆(印度學佛教學研究27 巻 1 号 (通号: 53))

参考先行研究
「環境倫理 と仏教の課題」山 本 修 一(印度學佛敎學研究第45巻 第2号 平成11年3月)
「環境倫 理 と仏教 の課題(2)」山 本 修 一(印度 學佛 教學 研究 第48巻 第1号 平成11年12月)
環境倫理学の成立―アメリカでの成立過程を振り返る― 畠中和生
環境倫理学の成立(Ⅱ)― 初期の環境倫理学論争 ― 畠中和生
「内在的価値」と倫理―環境倫理の場合― 渡辺啓真(大谷学報第73巻第4号)
「仏教の環境観について」竹村牧男(東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.3)
「インド仏教の自然観と倫理」デレアヌ フロリン(国際仏教学大学院大学)
(東洋大学「エコ・フィロソフィ」研究 Vol.2 別冊 シンポジウム・講演会・セミナ一編)
「P.シンガーの道徳的配慮の対象について-D.パーフィットと H.T.エンゲルハートとの比較から-」加藤佐和(先端倫理研究 : 熊本大学倫理学研究室紀要2006-03)
「仏 教説 話 にお けるエ コパ ラダイム―仏教説話文献の草木観 と環境倫理―」岡 田 真 美 子(印度學佛教學研究第47巻 第1号 平成10年12月)
「共生の原理としての非暴力 (不殺生)」菅 沼 晃(東 洋 大 学)(日本仏教学会年報1998)
「不殺生考」原實(国際仏教学大学院大学研究紀要 1, 292-256, 1998-03)「古代インドにおける殺生」加藤隆宏(国士館哲学 (19), 7-17, 2015-03)「根本無分別智に就いて」川田熊太郎(印度学仏教学研究 通号 7, 1956-01-30, 38-47,)

*上記論文の引用等学術目的でのご使用の際は、学術機関での発表サイトのリンクをお教えしますの以下のメールアドレスまでご連絡ください。
hsgchtyhk226@gmail.com



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