過去に生きる者たちへ

昔書いた記事

天田昭次 『鉄と日本刀』 3 自家製鉄刀の不明朗さ

2015年06月12日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 一、天田作品に対する歪んだ評価

 天田昭次『鉄と日本刀』1 http://blog.goo.ne.jp/ice-k_2011/e/9034dc9be3459f8e8c4632fee721eddb
 天田昭次『鉄と日本刀』2 http://blog.goo.ne.jp/ice-k_2011/e/9994824bda5ad875030700ccfcc51924
の続きである。
 これらの記事を書いた当時、ハンドルネーム渓流詩人という人がブログで天田昭次を持ち上げていた。この人は当ブログを「おバカさん」と侮辱した人物である。誰が「おバカさん」なのかは当ブログを読めば判る事である。
 渓流詩人氏は藁束切りに使う玩具の視点から今日日本刀の材料として広く使われている日刀保玉鋼を否定し、それを使わず自家製鉄を行っている天田昭次を称揚していた。天田が自家製鉄を行っていたのは藁束切りに使う刀を作るためではなく、あくまでも美術工芸品として美しい刀を作るためだった。藁束切りに使う刀を語る渓流詩人氏が美術刀剣を追求する天田を引き合いに出すのは矛盾している。渓流詩人氏は日刀保玉鋼を否定するために天田を持ち上げていたに過ぎなかった。軍装マニア氏と同じやり方だ。
 当然渓流詩人氏は天田の作品について考察する事はしていないし、天田の自家製鉄を考察する事もしていない。それでも日本刀を知らない人が読めば「人間国宝の天田昭次が日刀保玉鋼を使ってないのだから、日刀保玉鋼は悪いのだろう」と思ってしまう。
 更に渓流詩人氏は天田の著書をダヴィンチコードになぞらえるなど荒唐無稽な扱いをしていた。
 天田の著書とは『鉄と日本刀』慶友社2004である。
 この本は作刀技術や製鉄技術の専門書ではなく天田の自叙伝である。鉄作りの暗号が秘められている訳がない。勿論専門家が読めば天田の言葉に「へ~、そうなんだ。で?」と思う部分はあるかもしれない。だが素人の渓流詩人氏には別世界の話だ。だから渓流詩人氏は天田をダヴィンチコードばりに謎めかして持ち上げるしかなかった訳だが、狸(たぬき)が神輿を担ぐようなもので、胡散臭さがプンプンしていた。それでも当時は軍装マニア氏のホームページの影響もあり、渓流詩人氏の胡散臭さに気付かぬ人も多かった。
 そんな時に私が日刀保玉鋼や自家製鉄に関して真面目な考察をしても、軍装マニア氏や渓流詩人氏に影響された一部の人々に曲解される懸念があった。事実、渓流詩人氏は当ブログに見当はずれな批判を向けていた。私は自家製鉄も鍛刀道の一部である以上、日本刀文化として真面目に考察されねばならないと考えている。藁束切りの次元で語られて良いものではない。それゆえ私は以後日刀保玉鋼や自家製鉄の話題には触れなかった。
 日本刀は作者が心血を注いで作る高度な芸術品である。藁束切りの道具ではない。私は武道修行の一部としての試し斬りは否定しない。しかし試し斬りそれ自体が目的となれば最早年寄りの自慰行為でしかない。そんな事に日本刀を使って貰いたくない。それは陶芸の人間国宝や一流作家が作った抹茶茶碗を便器に使うようなものだ。自分の金で買った物なら何に使おうと勝手だろ、という話ではない。作者やその物に関わる人々の心、またそれを大切にする日本の文化を汚す行為である。
 すると今度はそんな年寄りの自慰に擦り寄る爺専ホストみたいなのが出てくる。藁束切り専用の刃物まで作られている。更には椅子の足を斬ったりオモチャの鉄砲弾を斬ったりして性能をアピールすれば、外国人や日本刀を知らない人々はそれが日本刀だと思ってしまう。
 3、4回折り返しただけの刀身に油焼きで刃を付け、オモチャの拵を被せた粗悪な日本刀モドキ。それでも藁束が切れるから喜んで買う人がいるらしい。それが60万円だそうだ。藁束切りの刃物なら日本刀の外見を真似るなと言いたい。刀身に赤や青のペンキでも塗って区別して欲しい。

 二、天田作品の現実

 天田に話を戻そう。
 例えば裸焼やそれに類する焼き入れ方法で作った作品なら一目でそれと判る特徴がある。しかし天田の作品には「これぞ自家製鉄」という際立った特徴がない。天田が自家製鉄で作ったという作品は日刀保玉鋼で作られた他の現代刀匠の作品と比べて特に違った所がない。肝心の地鉄も現代刀の水準を超えたものとは言えない。
 天田以前の人間国宝の作品は明らかに他の現代刀匠とは異なる出来栄えを示していた。新作刀コンクールの展示会場では、姿や地刃の冴えにおいて、明らかに他の出品作より上だった。天田以前の人間国宝も自家製鉄をやっていた。同時に日刀保玉鋼も使っていた。彼らの作品が材料の違いで区別される事はなかった。あくまでも作品の質が問われていた。つまり彼らは特別な材料を使ったから人間国宝になったのではなく、作品が良いから人間国宝になれたのである。しかし天田以後の人間国宝は作品の質において他の現代刀匠より格段に上ではない。むしろ独創的な作風や技法を追求する一部の現代刀匠の作品と比べると影が薄い。
 天田は様々な伝法を試み、それらに合った製鉄方法を研究していた。しかし材料の問題ではなく作品そのものの出来として、相州伝でも備前伝でもそれを専門にやっている刀鍛冶から天田の作品はあまり評価されていなかった。新作刀コンクールの展示会場で天田の作品を指差し、「私はこんな刀は作りたくありませんね」と言った刀鍛冶もいる。刀鍛冶は誰しも自分の作品に信念を持っているから偏見はあるだろう。しかし備前伝や相州伝に限定すれば天田より上手な現代刀匠は少なくない。
 また天田以前の人間国宝は一門の長として多くの弟子を育て、日本刀文化の継承と発展に貢献している。が、天田はそれほど多くの弟子を育てていない。
 そして天田は、どういう原材料を使ってどういう製鉄方法で作った鉄が、具体的にはどの作品になっているか、全く公表していない。自家製鉄が作品とどう関係しているのか不明なのである。これでは自家製鉄と日本刀の関係を科学的に検証するのは不可能である。そもそも自家製鉄は多くの刀鍛冶が行っているありふれた作業であり、天田の自家製鉄だけがどうして人間国宝即ち重要無形文化財の対象となったのか判らない。
 新作刀コンクールで正宗賞を三回取ったら人間国宝という説もある。しかし月山貞一は正宗賞二回で人間国宝になっているし、天田以前に正宗賞を三回取っていた大隈俊平は人間国宝ではなかった。ところが天田が人間国宝に認定されると不思議な事に大隈も人間国宝にされた。天田が三回目の正宗賞を取ったのが1996年(平成8年)で、人間国宝になったのが翌1997年。大隈が三回目の正宗賞を取ったのが1978年(昭和53年)で、人間国宝になったのが天田と同じ1997年。大隈はなんと19年も放置されていたのである! 正宗賞を三回取ったら人間国宝というのは大嘘だ。
 とは言え、天田の作品が真面目に作られた名刀なのは間違いない。
 しかし作品の出来と自家製鉄を結び付ける具体的な証拠がなく、作品の質が自家製鉄に由来するのか、作刀技術に由来するのか判断できない。腕が良いから良い作品ができたと言われればそれまでだ。作品だけから自家製鉄の優秀性を認める事はできない。実際、天田の腕なら日刀保玉鋼を使っても同程度の作品を作る事ができただろう。やはり天田においても作品の質を決定付けているのは材料ではなく、作刀技術、取り分け鍛錬と焼き入れという事になる。





古刀期の焼入れ方法と残留応力ゼロの刀

2013年11月04日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 物事には多面性がある。単細胞な人は物事の多面性を一面的にしか理解できない。
 刀の強度が材料のみに規定されると思い込むとそれ以外の発想ができなくなり、玉鋼より電解鉄の方が良い、それよりそこら辺の鉄屑を溶かした方が良いと、まるで北朝鮮国営放送のようにブログで延々と同じ主張を繰り返す。猿がマスを覚えると死ぬまでカキ続けるというが、そういう人は幼稚な主張を死ぬまでカキ続けるに違いない。
 因みに同一条件で制作すれば、玉鋼で作った刀の方が電解鉄で作った刀より強度が上である(京都大学エネルギー科学研究科)。

 今日、自家製鋼に取り組んでいる刀鍛冶は、強度ではなく美しさを追求している者が殆どである。美しさの追求とは無関係にただ単に電解鉄やそこら辺の屑鉄を使っている者は、その方が玉鋼より安上がりだからだろう。安っぽい拵えに入った打ち下ろし数十万円の居合い刀に玉鋼など使えないからだ。玉鋼は1kg8千円。一振りにつき最低10kgの玉鋼が必要になる。それに炭が十数俵。日本刀制作に使う炭は高価で、炭代が一振り当たり十数万円もかかる。その他諸費用を合わせると、一振りに付き、材料費が30万円は必要になる。自家製鋼だとその3倍位のコストがかかる。それに研ぎ、白鞘、ハバキ等の代金が加わえれば、作品がそれ相当の金額になるのは止むを得ない。新品で数十万円程度の居合い刀では、安くて粗悪な鉄と炭を使わなければ割が合わない。勿論心鉄を入れるなんて手間のかかる事はしない。そんな下手物をさも名刀みたいに言う人は、商売が絡んでいるのかもしれない。

(注 極端に脆い現代刀は玉鋼を使っていない粗悪品か、玉鋼に混ぜ鉄をした物である。混ぜ鉄は玉鋼の節約や鍛え肌を強調するために行われるが、大抵は鉄滓と同じ悪影響を及ぼし、鋼内に電位差を生じさせる。これによって刀身が脆くなるのである。榎本貞吉の刀は畳を掠っただけで切っ先が大きく欠ける事で有名だったが、鍛え肌を強調するために混ぜ鉄をしていた。新新刀期の直胤が荒試しに弱かったのも混ぜ鉄が原因である。そのように何事にも理由がある。原因も究明せず、現代刀は悪い、直胤は大偽物、「斬鉄剣(商品名)」が本物、と扇情的に宣伝する輩は非常に胡散臭い。)

 力学的には、刀身が折れるという現象は、刀身内部の応力によるものと理解される。

 応力とは作用反作用に基づく動力学的概念で、外的エネルギーに対して物体内部に生じるエネルギーの事である。
 刀で堅い物に打ち込むと、物打ちではなく刀身の下部が折れる事がある。それは材質が原因ではなく、刀身下部に応力が集中するからである。例えばうどんを長く伸ばして乾燥させたものを地面から水平に持ち上げると自重でポキッと折れる。その時うどんは手で持っている付近で折れるだろう。なぜならうどん内部に生じた応力が手元に集中するからである。刀が腰で折れるのは、それと同じ原理である。
 現代では刀の応力は簡単に測定できる。工学的な装置がなくても大体の応力分布は検査用の塗料で判る。それで自分の刀のウィークポイントを予め知る事ができるし、様々な方向から刀に力が加わった時の応力分布の変化を調べる事もできる。業者の悪質な宣伝に騙されず、自分の刀は自分の目で判断すべきである。

 日本刀の歴史は強度追求の歴史ではなく、刀身内部の応力減殺の歴史なのである。

 刀の素材的な強度は鋼という物質によって限界付けられており、いくら弄っても大して変化しない。そんな事より刀身内部の応力を減殺する方が刀の折損防止に効果的なのである。刀身内部の応力は、皮鉄と心鉄や刃鉄と棟鉄の組み合わせ、焼き入れ方法、波紋の構成によっていくらでも調整できる。
 そうして開発された方法が、硬度(炭素量)の異なる鉄の組み合わせである。
 刃鉄、心鉄、皮鉄、棟鉄を組み合わせる本三枚や四方詰めは、異なる硬度の複合体として刀身内部の応力を減殺する。甲伏せは飛行機のモノコック構造のように応力を分散させる。
 また、樋はハニカム構造に通じている。
 昔、『刀剣美術』誌に、樋の有無による刀身強度の違いを数学的に検証した論文が掲載されていた。それによると、「樋は刀身強度を低下させるが、刀身の重量が同じなら樋のある刀の方が表面積が大きいので強度がある。例えば同じ重量なら、棟を大きく削いだ菱型状の刀身より、樋を掻いた刀身の方が強度がある」、といった結論だったと記憶している。しかしこれはあくまでも机上の計算による静力学的な見解だ。
 焼入れした後で樋を掻いた刀ならこの論文の計算結果に近づくかもしれないが、火造りの段階で樋を造形した刀ならこの論文の結論とは異なってくるだろう。
 焼き入れ前に造形した樋は、動力学的に刀身内部の応力を減殺する最良の構造だと思われる。どこかの研究室で是非検証して欲しいものである。その場合、今日単なる飾りと思われている二筋樋や添え樋にも、応力減殺上の積極的な意味が見出されるだろう。
 但し焼き入れした後に樋を掻くのは前出の論文が指摘する通りの結果になると思うので感心しない。これもどこかの研究室で検証して貰いたい。

 さらに興味深いのは、人間には物体内部の応力を感じ取る力があるらしい事である。

 神社仏閣の虹梁には彫刻や装飾が施されている。虹梁の装飾は建物が大型化するに伴って発生した。建築工学的には、建物が大型化すれば建築素材に生じる応力も増大する。社寺の虹梁はそこで発生している応力をなぞるように描かれているのである。
 これは、高所にある巨大な物体を下から見上げると人は不安を感じるから、その不安感を減殺するために装飾が施されるようになった、と解釈されているが、その装飾が梁の内部の応力分布と一致している所が興味深い。つまり、人間は梁に生じた応力を直感的に感じ取るから不安になる、だから応力に合わせて装飾を施す事で心理的な安心感を得ている、という事なのである。
 同じ事が刀の刃紋にも言えるだろう。
 直刀時代には直刃しかなかったのに、刀に反りが付くと乱れ刃が焼かれるようになった。最初は静謐な直刃より乱れ刃の方が馬上から斬り下す太刀の躍動感に相応しいという装飾的な意味合いだったのだろう。しかし焼き刃が構成する硬度の波が実際に刀身内部の応力減殺に有効だったから、以後乱れた刃紋の美が追求されるようになったと考えられる。また映りは明らかに応力減殺のために焼かれたものである。
 
 そこから古刀の焼き入れ方法についての推理が可能だ。

 日本刀は精神的にも技術的にも直刀を踏まえて誕生した。ところが今日一般的に行われている焼入れ方法では、直刀を作るのは難しいのである。なぜなら焼き入れによってどうしても反りが生じてしまうからだ。だから現代刀匠は直刀を作る時、火造りの段階で内反りに作り込んでおき、焼きが入ったら直刀になるようにしている。だが古代の直刀がそんな作り方をしていたとは思えない。技術史的には先ず直刀が作られ、次に反りのある刀が誕生している。つまり直刀時代の焼き入れ方法では反りが生じていなかったと考えられるのである。

 これは刀身内部の応力の観点からも極めて重要である。

 刀身を先天的に弱くする最大の要因は、焼き入れのエネルギーの残留応力である。これは焼き入れのエネルギーに対する反作用ではなく、焼入れで刀身に反りが付く事で生じる鋼の分子間結合のストレスである。この残留応力が分子レベルで刀身に負荷を掛けており、その刀が存在する限り付いて回る。
 今日一般的に行われている焼き入れ方法だと、焼入れで生じる反りは定寸で1cm位。それでも焼き入れ時や焼き入れ後に刃切れが起きる事がある。焼き入れ後の刃切れは厄介で、焼入れの翌日発生する事もあれば研ぎ上げた後で発生する事もある。これは刀身の焼入れ残留応力によるものである。つまり今日一般的に行われている焼入れ方法で作られた刀は、使用で生じる応力だけでなく、先天的な残留応力をも余分に持っているのである。そのような作り方で平安・鎌倉時代の反りの深い太刀を写すと、火造りの段階で付ける反りの残留応力も加わって、焼き入れ後の刀身にはかなり残留応力が存在するだろう。実用には適さないかもしれない。因みに裸焼きだと3cm/定寸もの反りが生じるので、刀身内部の残留応力は極めて強いと考えれる。

 現代より遥かに粗悪な鋼を使っていた古刀期の刀鍛冶が、かなり強靭な刀身を作り得たのはなぜか。
 それは古刀期の刀鍛冶が直刀譲りの焼入れで、反りが付かない方法を行っていたからだろう。
 それなら焼入れによる残留応力ゼロなので、極めて強靭な刀身になる。
 恐らくその方法は今日一般的に行われている焼き入れ方法とは全く異なり、刀身の刃側に土を厚く置き、地や棟に行くに従って土を薄く置いて、焼き入れしていたはずだ。古刀に多く見られる映りはこの方法で意図的に焼かれたと考えられる。実際、この方法で焼入れしている現代刀匠(松田次泰氏等)の作品は古刀っぽく見えるから、古刀の焼き入れ方法は残留応力ゼロの、反りが付かないやり方で間違いないと思われる。

付記 上記の考え方は、動力学的な作用反作用の概念の枠内での、一面的な見方に過ぎない。反りが付かない焼き入れ方法には、動力学的な残留応力ゼロ以上の、もっと積極的な作用がある。熱力学的に見れば、刀身が折れたり曲がったりするのは基より、外的な力に対して刀身内部に応力が生じる事自体が、刀身エントロピーの増大と見做せる。反りが付かない焼き入れ方法で鋼を刀身へと相転移させたエネルギーは、動力学的な残留応力としてはゼロのように見えるが、実は刀身というシステムのエントロピー増大を鋼分子のレベルから抑制するエネルギーに転化しているのである。
 エネルギーは必ず何らかの仕事をする。今日一般的に行われている作り方だと、焼き入れのエネルギーは刀身に対してネガティブな残留応力として作用し続ける。一方、反りが付かない焼き入れ方法だと、焼き入れのエネルギーは刀身の形態を分子レベルから維持するエネルギーになるのである。だから曲がった刀身が一晩寝かせておくと元に戻るという現象もあり得ない事ではではないだろう。


 関連記事 2013年10月7日「鋼の錬金術 杉田善昭刀匠の想い出・番外編」http://blog.goo.ne.jp/ice-k_2011/e/0ca4df28d55667605337f91c5a253265


 参考文献

・「日本刀の焼入れ条件と材料が刃文と残留応力に及ぼす影響 : シミュレーションと実験結果」 京都大学エネルギー科学研究科

・「人間が好むデザイン」 日比野治雄 『人間科学の可能性』放送大学教育振興会2003 







天田昭次 『鉄と日本刀』 2

2013年10月27日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 天田は1959年の『刀剣美術』に掲載された久我春(くが はじめ)の論文、「鍛刀用の砂鉄とチタニウム」「刀剣の地肌について」に注目した。そこで久我を訪ね、直接話を聞き、様々な実験試料、研究資料を見せて貰う(『鉄と日本刀』P.163-171)。
 久我の説は、

1、チタンは炭素との親和力が強く、炭化鉄の形成を妨げ、鋼(フェライト)の炭素を除去し、鉄との間で強靭な合金を形成していることが判った。ゆえにチタンを鋼に添加すれば抗張力と靭性が増す。

2、科学の力をもってようやく解明できた事実を、1000年前の刀鍛冶が当然のように取り入れ、無比の利刀を作り上げていることにはただ驚嘆するばかりであり、当に神業と言う外ない。

3、平安時代中期以前の製鉄は火力が弱いため鉄もチタンも完全には溶解せず、チタンが鉄滓として鋼内に残っている。それらは鍛錬によって除去されるが、一部のチタンは炭素と結合して鋼(フェライト)結晶中に溶解し、炭化チタンとして鋼を形成する。

4、鎌倉・南北朝時代はチタン鋼として最も理想的である。適量のチタンが鋼に溶解し、余剰のチタンが炭化チタンとなって刀の切れ味と強さを実現している。

5、室町時代以後は製鉄技術が発達し、純粋な鋼が得られるようになったが、その製鉄法ではチタンが鉄滓として排除されてしまう。

6、その結果として刀身が弱くなった欠陥を補うためか、心鉄を組み合わせるようになった。心鉄は化学的に重大な難点がある。日本刀はチタン鋼なるがゆえに強靭であるのに、心鉄を入れると鋼中にごく僅か残存しているチタンまでが心鉄に移行し、チタンの支配力が完全に打ち消され、ただの鋼に変質してしまうからだ。それによって日本刀はセメンタイト(硬いが脆い鋼)が跳梁する所となり、もはや特殊鋼の機能は失われてしまう。

 そして天田に大和古社寺に残存していたという平安時代から室町時代までの古刀をピクリン酸に浸した資料を見せた。そこには黒く錆びた地鉄の中に白銀色の筋が浮いているのが確認できた。この筋こそチタンが炭素を吸収してできた炭化鉄である―。天田はそう確信した(P.167)。
 
 この箇所は本書の山場であり、純粋に美を追い求める刀鍛冶の素直な驚きが伝わって来ると共に、著者の終生の目標が明確化される極めて感動的な場面である。 
 ところが刀の切れ味にのみ取り憑かれた試し斬りマニアにとっては違うようだ。ここで一気に妄想のテンションが上がってしまうのである。彼らには本書の感動的な場面も、チタンの呻き声さながら、病んだ心に妖しく響くのだろう(チタンはギリシア神話のタイタン。ゼウスとの戦いに敗れ地底の暗黒世界に幽閉された。この世に強い恨みを抱いている)。
 天田は切れ味の追求ではなく、あくまでも美術工芸品としての美しさの追求のために久我の説に注目したのである。切れ味に関してはチタナイジングを紹介している。チタライジングとは、金属をチタンでメッキし、250℃で2時間加熱して金属内部にチタンを浸透させる技術である。日本刀にこれを行うと鋼の水準を超えた強度と切れ味になるという(P.169-170)。
 試し斬りマニアはこれをやれば良いのである。勿論そんなものは日本刀とは言えない。だが彼らには相応しい玩具である。彼らの幼稚な願望を十二分に満たしてくれるだろう。またそれによって世間一般の人々の目にも、日本刀を文化・芸術として愛する多くの愛刀家と、日本刀を自慰行為の道具として用いる一部のマニアが差別化される。

 天田が紹介している久我の論文は入手困難なため、私は未だ読んでいない。ゆえにあるいは見当外れかもしれないが、素朴な疑問点が幾つかある。

・天田は本書の別の箇所で古代釘の成分分析表を掲載している。チタン含有量は、法隆寺の釘で、建立当初の釘が0.025%、中世の釘が0.036%、慶長の釘がの0.015%である。現代の電解鉄が0.001%、玉鋼が0.002~0.010%位<注1>のチタンを含有しているから、法隆寺の釘のチタン含有量は電解鉄と玉鋼よりは多いものの、久我が言うような炭化チタン鋼を形成できるほどの量と言える数値であるかは不明である。その上、久我が研究に使用した古刀の分析結果が示されていない。肝心の古刀の成分データがないのである。これでは古刀に多量のチタンが含有されているという久我の主張を鵜呑みにすることはできない。

・一定の条件下ではチタンと炭素は結合可能だが、自然界においては殆どのチタンは酸素と結合している。製鉄過程でチタンと炭素を結合させるのは現代の高温の溶鉱炉でも無理。増してやそこで鉄とチタンの特殊合金ができるなどあり得ない。それが古代の低温の炉で生成されたと考えるのはあまりにも非現実的。造るとしたら、最初から炭素と結合したチタンを自然界で発見するか、鋼の炭素とチタンを特殊技術で結合させるしかない。

・チタンを他の金属に浸透させる特殊技術がチタナイジングだが、天田は「(チタナイジングで)チタンを人為的に注入したのでは、古刀の地鉄は得られない。これは一に製鉄に関わる問題であり、酸化チタン(TiO2)という介在物をいかに残していくか、それ以外にないと、確信しました。」と言っている(P.170-171)。しかし酸化チタンなら、あくまでもただの鉄滓に過ぎないのではないか。

・チタナイジングにおいては150℃から250℃という低温でチタンが炭素鋼に浸透するという(P.169)。しかしその場合のチタンは工業的に精製されたチタンである。自然状態の酸化チタンではない。天田は酸化チタンを鉄滓の形で鋼に残しておけば、鍛錬の熱によって炭素とチタンが結合すると考えたようだが、既に酸素と結合している酸化チタンが鋼の中で炭素と結合することは不可能である。久我は「チタンは炭素との親和力が強い」と言ったそうだが、鋼内におけるチタンと他の元素との結合のし易さは、酸素、窒素、硫黄、炭素の順である<注2>。既に酸素と結合しているチタンが鋼内で炭素と結合することはない。そして炭素と結合しなければチタンは酸化チタンという単なる鉄滓に過ぎず、美術的な面では瑕欠点となるし、実用面では脆さにつながる。

 これらの疑問が生じたのは、久我の主張の要点が、上記3、「鉄滓として鋼内に残ったチタンが炭素と結合して鋼(フェライト)結晶中に溶解し、炭化チタンとして鋼を形成する」ことだからである。これを根拠に上記4~6の推理が展開され、一部のマニアの妄想に拍車が掛かった。しかし前述の通り、鉄滓として鋼内に残ったチタン(=酸化チタン)が炭素と結合して炭化チタンになることは通常の製鉄過程や鍛錬過程ではあり得ない。仮にそんな奇跡が起きたとしても、鉱物として鋼の中に固定されているはずの炭化チタンが固体状態の刀身の中で上記6のように皮鉄から心鉄に移行することなど物理的に不可能である。上記4~6の推理は非現実的な空想と言わざるを得ない。


 そして天田が納得してしまった久我の研究資料の古刀に関して。
 ピクリン酸で浮き上がった白銀色の筋が果たして「チタンが炭素を吸収してできた炭化鉄(P.167)」と言えるのかどうか。
 ピクリン酸は爆薬の材料で強酸性である。アンモニア、カリウム、ニッケル、コバルト、銅、カドミウム、金などの確認にも使われる。濃度にもよるが、天田が見た白銀色の筋はチタン以外の金属だった可能性が大きいのではないか。
 
 かように本書のチタンに関する記述は眉唾なのである。

 とまれ天田の自家製鉄は見方を変えると非常に注目すべき点がある。
 例えば久我に触発されてチタン含有量の多い鉄の製造にチャレンジし、チタン含有量の少ない出雲の真砂鉄からチタン含有量0.34%の鉄を作り出したケースである(P.196)。
 これはチタン云々とは別に、炉内で液状化した鉄の表面張力が製鉄に及ぼす影響の問題であり、美術工芸品としての日本刀のみならず、製鉄産業における小型炉の利点が確認される可能性を秘めている。そして「鉄と日本刀」という命題において、天田が行き着いた反射炉が良いのか、それともやはりタタラの方が良いのか、という問題が、改めて提起されるだろう。そこから古刀の地鉄の特有性も見えてくるだろうし、日刀保タタラの問題点も浮上してくるだろう。
(続く)


注1 京都大学エネルギー科学研究科「日本刀の焼入れ条件と材料が刃文と残留応力に及ぼす影響 : シミュレーションと実験結果」掲載資料ではチタン含有量、電解鉄0.001%、玉鋼0.002%。「伝統的鍛錬工程における日本刀材料の炭素量変化」『鉄と鋼』Vol. 93(2007)掲載資料では玉鋼のチタン含有量0.003~0.010%。 
注2 「鋼中の硫化チタンの形態」 斎藤利生 『鉄と鋼』Vol. 47 (1961)

参考文献
・「金属チタンの精錬と加工」 高尾 善一郎 草道 英武 『鉄と鋼』Vol. 41 (1955)
・「古代釘の冶金学的調査」 堀川 一男 梅沢 義信 『鉄と鋼』Vol. 48 (1962)
・「鋼中の硫化チタンの形態」 斎藤利生 『鉄と鋼』Vol. 47 (1961)
・「日本刀の焼入れ条件と材料が刃文と残留応力に及ぼす影響 : シミュレーションと実験結果」 京都大学エネルギー科学研究科
・「伝統的鍛錬工程における日本刀材料の炭素量変化」 佐々木直彦 桃野正 『鉄と鋼』Vol. 93(2007)
・「真砂砂鉄と赤目砂鉄の分類--たたら製鉄実験から明らかになったチタン鉄鉱の役割 」 久保善博 久保田邦親 ―『たたら研究』第50号 
・ブリタニカ国際百科事典
 





天田昭次 『鉄と日本刀』 1

2013年10月23日 | 天田昭次「鉄と日本刀」

 天田昭次著『鉄と日本刀』慶友社2004は、著者が自らの試行錯誤を回想しつつ古代・中世の製鉄方法を推理し、現在の自分に結び付けて行くという形式で書かれており、日本刀に興味がない者でも楽しく読める本である。それゆえ一般読者にもそこそこ売れたと思われるが、実際に自家製鋼を行っている刀鍛冶からは一笑に付されている本である。本書を公平に評すれば、天田昭次のロードムービーと言えよう。年老いて尚夢を追い求める老鍛冶天田の姿に、読者はほのぼのとした感動を味わう・・・。それが本書の正しい読み方だ。
 ところが奇怪なことに、そうした和み系のはずの本書が、一部マニアの妄想を煽ってしまったようなのだ。曰く、日本刀の真の材料は鋼(玉鋼)ではなく銑鉄か錬鉄である。曰く、日刀保玉鋼はダメである。曰く、皮鉄に心鉄を組み合わせると刀身が弱くなる。更には、屑鉄を溶かして作った「斬鉄剣」こそが本物である、と粗雑な試し切り刀をHPで宣伝する者まで現れる始末だ。
 天田の結論ははっきりしている。

 「中世には、錬鉄も鋼も銑もあり、それらの加工を経て供給される製品もあって、選択肢は大きく広がっていたわけです。そのほか、地域ごとの特色ある地鉄もあったでしょう。古刀は想像以上に変化に富んだ素材の中から、これはと思うものを選んで作っていたことが確実になってきました。」本書P.80

 である。

 元が錬鉄であろうが銑鉄であろうが、延いては砂鉄であろうが鉄鉱石であろうが、日本刀の材料の段階では全て鋼になっている。その鋼になるまでの道程を天田自身が旅してみた。それが本書の内容である。

 ところで本書では鋼のことをしばしば「(けら)」と表記している。とは、日本古来の製鉄法であるケラ押しまたはタタラ吹きでできる鋼の粗製品で、鋼とスラグの集合体である(広辞苑より)。だからという言葉は本来あまり良い表現ではないが、天田は鋼に含まれる不純物こそが古刀の地鉄に表れる働きと密接な関係があると信じており、敢えてという言葉を使っているのである。

 以下が本書の目次である。

一章 「鉄」と日本刀

 日本刀はなぜ貴ばれたか
・小学校に見る日本刀 ・日本刀の四つの価値 ・今、なぜ日本刀か

 鉄文化の始まり
・鉄の発見と伝播 ・鉄生産の開始時期 ・戦略物資としての鉄 ・わが国の製鉄の発展過程

 古代鉄の不思議
・法隆寺の鉄釘 ・古い鉄ほど純度が高い ・沸かしが利く和鉄 ・朽ち果てぬ鉄とは ・侮れぬ近世の職人技

 日本刀の起源
・玉鋼は最高の鉄 ・古刀は銑卸しか ・銑押しは後世の技術 ・中世は銑である ・見えてきた中世の「鉄」 ・新々刀の主材料は玉鋼

  出土した古代の鉄塊
 ・判明した大炭の樹種 ・鉄塊は遺失物か、放棄物か ・古代鉄を鍛える ・製製か、精製か

二章 「鉄」を求めて

 幻の講和記念刀
・栗原師の最後の仕事 ・初めての作品を鍛える

 桶谷博士「日本刀のこと」の波紋
・日本刀に神秘はないか ・分析から名刀は生まれない

 なぜ自家製鉄か
・理想理念を明らかにせよ ・目標に徹し切る ・やれどもやれども光明なく

 作刀界の材料問題
・鑪の火は消えて ・自家製鋼時代 ・日本刀の「新素材」の可能性 ・「日刀保たたら」への期待

 出雲に「鉄」を探る
・『古来の砂鉄精錬法』に導かれて ・最後の大鍛冶屋大工 ・左下法を伝授される

 木炭銑から学んだこと
・鳥上木炭銑工場を訪ねる ・東西の銑鉄処理法 ・わが国に炒鋼法はあったか

 砂鉄か、鉄鉱石か
・砂鉄にこだわる ・鉄鉱石の種類と性質 ・特異な鉄鉱石 餅鉄 

 陸中に「銑」を求めて
・野鍛冶も使った和銑 ・鋳物の里 軽米を訪ねる

 古刀の地鉄とチタン
・神秘のカギはチタンにあり ・各期の作風とチタンの有無 ・刀とチタナイジング

 未知の鑪に挑む
・二つの特殊な遺構 ・壮大な古代製鉄実験 ・秘法マンダラ製鉄

 自然通風による製鉄実験
・高まる鑪製鉄への関心 ・先駆けとなった自然通風実験 ・自然通風でも鉄はできる

 「鉄」に聴く
・鉄生成のメカニズム ・切れ味も優れた玉鋼 ・さまざまな鉄の探求 ・低温製鉄による生成物 ・昭和平成を画する名作を

三章以下省略

 映画かアニメにでもして貰いたい内容である。

 鉄と日本刀という視点で見ると、本書の内容は概ね、

1、日本刀の材料の鋼には直接製鋼で作ったものと銑鉄の炭素量を下げて鋼にしたものがある。古刀期は銑鉄の炭素量を下げて鋼にしていた。もしかすると錬鉄の炭素量を上げて鋼にした場合もあったかもしれない。
2、武器としての日本刀ならタタラ製鋼による玉鋼が最高の材料である。
3、しかし美術工芸品としての日本刀なら古刀期の製鋼技術に倣った方が良い。
4、銑鉄の炭素量を下げる方法は、銑鉄を細長い板状にしたものを熱してハンマーで叩く左下法と、炉で溶かして脱炭する銑卸しの方法がある。
5、銑卸しの場合、著者が発見した最適の方法は反射炉式の精錬方式。
6、銑、鋼、いずれも鉄以外の不純物が適量混ざっていることが重要であり、特にチタンが古名刀再現の鍵を握っている。

 この6、のチタンに関する記述が専門家からは失笑を買い、一部マニアの妄想を掻き立てたのである。(続く)