アイデアリズム idealism daydream

エホバの証人 王国会館

「なんか集会所みたいなのが、いつの間にか出来ているンですけれど、アレは何なんですか?」
「あれ、エホバの証人の建物(エホバの証人王国会館)らしいよ」
「へぇーっ」
「"へぇーっ"じゃ無いでしょ! "へぇーっ"じゃ!」
「そう言われても・・・」
「○○サン(私の名前)、なんかリアクション薄過ぎ! 勧誘に来たらどうすんの?」
「うーん・・・」
「なんか冊子みたいなの配って回るよね。ウチは"読まないし(冊子が)無駄になるので要らない"と断るンだけれど、○○サンのところにも来る?」
「うーん、あまり来られないですねぇ。来られた時は一応、冊子("目ざめよ!"とか)はフツーにもらいます」
「えーっ?! もらうの? 読むの?」
「読みますよ。だって面白いし・・・」

(空気が一瞬にして凍り付く)

 なんということでしょう! 私が今勤務している工場の真ん前に「エホバの証人 王国会館」なるものが建設されたので一同大騒ぎなのです。

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 政治や宗教、スポーツ(特に野球)の話は三大禁句っぽいのですが、まぁ私のブログは世間を騒がせる事も無いでしょうし、少々空気読まなくても炎上ももちろん無さげ。友人たち曰く、

・自己完結してる・・・
・終わってる・・・
中二病・・・
お察し下さい・・・

 等の"称賛"の嵐です。とほほ。

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 さてさて「自称:真のクリスチャン」はエホバの証人なのです。

大体「YHWH」をどう読むのか、ヤハウェとかエホバとかワイ・エイチ・ダブリュー・エイチ等など・・・

 の論議は取りあえずよく分かんないので棚上げっぽいのです。

ま、聖書って2000年前の話だし・・・

 それはともかく問題は「2000年前の決まり事を守れるか?」の一点に尽きます。エホバの証人は旧約聖書が大好きで何が何でも頑に守ろうとするからです。

無理だわサ・・・
キビシ過ぎるンだわサ・・・

 2日前の記憶も定かではない昨今、2000年前なんて・・・と「既に迷える子羊モード全開」の私なのです。

多分、入信しても一瞬で破門されそう

 です。ハイ。

取りあえず、この(ちょっと体たらくだけれども)迷える子羊をお救い下さい!
出来れば、救い"ついで"にお金とカワイイ恋人もお・ね・が・い!

 と、救いようが無い私なのであります。ハイ。

アンタ、地獄に堕ちるわよ!

 いつか細木数子に激怒され、おそらくハルマゲドンに一番近い私なのです。

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 まぁ、マジメな話、私はどちらかというとアニミズム(原始宗教)とか汎心論等の哲学系なのであります。

 アニミズムとはもちろんアニメじゃなくて「自然の中に精霊や神様がいるカモ」という考え方で、汎心論とは「自然や物に心が宿るカモ」という考え方です。おそらく大半の人が「なんとなく信じてる」感じのものです。

要するにいっぱい(そこら中に)神様がいる・・・多神教
要するに間口がとてつもなく広い
要するに奇跡が起きても起きなくても問題無し

 というわけで。
 キリスト教は一応一神教なのです。ただ今のキリスト教は三位一体(=神様とイエス・キリストと聖霊が同格であるという考え方)を認めていますのでチョイと注意です。
 エホバの証人は三位一体を認めていないので少数派ではあるけれども、ある意味忠実と言えば忠実です。

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 そもそも旧約聖書の中で最初の方に、

神様が天地を作り、その後、食べ物や動物、そしてご自身に似せた"人間"を作った(天地創造)

 なるものが私としては「それホンマか?」「ストイック過ぎやしないか?」と少々違和感があったりするわけです。百歩ゆずって"それが本当"だとしても天地創造後の「ヤハウェ(神様)」と「人間」の泥臭い関係が延々と続くのは、

ドラマや読み物としては面白いけれど「聖典」としてはどうかなぁ・・・

 と思ってみたりして。

大体、全知全能の神であるはずのヤハウェが「人間」という失敗作を作るのがハッキリ言っておかしい

 いやぁ、中世のヨーロッパに生まれなくて良かったなぁ・・・と。こんな事をうっかり発言した日には火あぶり必須です。ハイ。

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 そんなこんなでアニミズムや汎心論の方が私個人的にはしっくりしますし、そもそも宗教全体を学術的に考える時はこれらを除いて考えると結構不自然になってしまいます。昨今の宗教や現代思想はアニミズムや汎心論等の影響を多少なりとも受けていると考えられているからです。

 人々が日々の暮らしをしていく中、天災やら災害にあったとします。その時に例えば、

・山の木を切り倒しちゃったから、多分、山の神様が怒ってしまって土砂崩れが起きたんだ
・雨が降らないから雨乞いの儀式をするのだ。そうすれば雨の神様が必ず雨を降らしてくれる

 とか。

 今では"山の神様"としなくても「森林は保水能力があるため、ある程度残しておかないと土砂崩れや水害が起きやすくなる」し、同様に"雨の神様"としなくても「雨が降るまで雨乞いの儀式を止めなければ良いだけの話(結果的に100%の確率で雨が降る)」と科学的に説明がつくでしょう。
 けれども科学が無い時代、人々は長い間の経験から自然に対して(人は自然に対して儚く無力なのだと)畏敬の念を持つのは別にオカシい事ではなく、自然の巨大な力=神様の力と考えても不思議ではありません。

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 そもそもいくら科学で仕組みが分かったからと言っても、じゃ人工的に何でもかんでも代替可能か? 作る事が出来るか? と言えばNOです。
 現代科学では台風やハリケーンの進路すら変える事が出来ませんし、原始スープで新しい生命を作れないし、核融合炉も実用化はまだまだ先の話で、ノーミソ自体もよく分からないのでコンピュータに置き換えられるものではないし・・・自然というものが恐ろしい程に「コンパクトで効率的」なのであります。自然の循環そのものが「神業レベルで動いている」ンです。
 それに対して「ヤハウェが人間の為に作ってくれたものだから」と考えるのか「もともと神様や精霊が個々に宿っているから」、「神様とかそういう幻想を抱くのは人間だけ。アンタがいようがいまいが地球は粛々と回ってるし」等々を感じたり考えたりするのは"信仰の自由"デスね。ハイ。

 まぁ、かといって、

・巫女さん萌えーっ
うpしてくれてありがとう、まさにネ申
ナコルル:「大自然のお仕置きよ!」

 はチョイと違うと思われ・・・。
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