楽天爺さんの気まぐれ日記

・田舎暮らしを楽しんでいます。

荘子の言葉

2012-08-22 | 先人の知恵に学ぶ

 イガ爺が読んでいる本から、荘子の言葉 50編を駄弁りたいと思いますが、その前に荘子についての文献から少し紹介しておきたいと思います。


 

荘子とは

 老子と100年後の後継の荘子(そうし)の思想を並べて「老荘思想」と呼ばれます。この思想ほど後年、中国、日本の文化、特に文芸に影響を与えた思想は無いといっていいほどです。
 反体制的、超俗的、厭世的、枯淡的など色々いわれますが、どれも正しい言い方ではありません?老子の「無」「無為自然」の哲学と荘子の「超俗自由主義」とが見事にマッチし、さらに仏教とも結びついて、悩める東洋思想人の理想の哲学となったのです。


 荘子の生き方

 荘子の出自については、はっきりとしたことは分かりません。春秋時代の後の戦国時代、紀元前4世紀末から同3世紀にかけての生まれと推定され、儒家の孟子たちと同じ世代の人物です。時は学者が並び立つ百家争鳴の時代ですが、荘子はこうした学者群の中に入ることもせず、農村の中で静かに清貧の暮らしをして勉学に励んでいました。司馬遷が史記を書いたのは紀元前1年のことですから、すでに二百年の歳月がたっており、終生田舎で暮らした荘子に付いては取材しようにも、地方の伝説しか残っていなかったのです。

 それでも史記の記述では、荘子の名前は荘周。宋の国の生まれで、若いときは漆園の管理人のような仕事をしていたといわれます。宋の国は前の殷の国が滅んだとき、殷人たちが移住した国で、当時の中国社会では宋人たちは徹底して馬鹿にされていました。『孟子』には、畑の稲を早く成長させようと毎日せっせと稲の苗を引き伸ばし、枯れさせて仕舞った農夫の話、『韓非子』には目の前の切株に走ってきたウサギが当たって死ぬのを見て、以来毎日株のそばに座って、ウサギが来るのを待っていた男の話などが載っていますが、それらはいずれも宋人の話です。世間に馬鹿にされた宋人、ここに後の荘子の人生譚の面白さが隠されています。

 長年の勉学が実を結んで、荘子は地域では並ぶものなき学者という評判が立ち、楚の国の威王は使者を走らせて、千金の贈り物とともに、楚の宰相に招きたいと伝えさせます。しかし荘子はこの話をにべもなく断ります。大金は魅力だし、宰相の地位も願っても無いものだが、祭りに供される牛のように大切にされていても、祭りが近ずけば豚に成りたかったと嘆いても遅い。自分は権力者に運命を握られようとは思わない、というのが理由です。

 この種の話は『荘子』の内編「秋水」にも見られます。荘子が釣りをしていると楚王が二人の大夫を派遣し「楚の国を任せたい」と伝えさせます。荘子は使者に対し「あなたの国の王廟には死んで千年も経つ亀の甲が飾られているようだが、この亀の身になって考えたとき、死んで骨を尊ばれる方を喜ぶか、生きて尾を泥の中に引きずって暮らす方を喜ぶか、どちらか」と問います。使者は「そりゃ、生きて泥の中に尾を引きずっている方でしょう」と答えると、荘子は「お帰りください。私も泥の中で尾を引きずっていたい」と答えたとしています。

 いずれも反権力主義で、己の名誉栄達を拒否し、権力におもねず、どこまでも自由でありたいという荘子の精神を物語るものです。こうした姿勢を貫くため、荘子は生涯王侯に仕えず常に貧乏でした。

 あるとき、金に困った荘子が友人の上級役人に食べる穀物を借りに行くと、友人は「近く税金が入るので、それが入ったら貸してあげよう」という。これを聞いた荘子は「ここへ来る途中、道端で鮒が水無しで干からびようとしていた。そしてたとえ僅かでよいから水をくれという。わしがこれから遊説に行く途中に長江があるので、そこに着いたら君を迎えにこようといった。そうしたら鮒は、もうよい、そのときは乾物屋の店先で俺を探してくれ、と答えよった」と言い捨てて立ち去ったという話があります。それ程貧しい日もあったのですが、誇りは堅持していたという話です。

 これも貧しい話。荘子が魏王と会見したとき、荘子は粗末な布の着物で、つぎはぎだらけ、靴もぼろぼろで麻縄で縛り付けているといったありさま。魏王が「先生はなんともくたびれたご様子で」というと、荘子は「これは貧であって、くたびれているのではありません。士として道徳がありながらも実行できないのがくたびれです。貧とはよい時代にめぐり合わないというだけです」と言い放ちます。荘子は外見的な貧と精神的なくたびれとは違うと言いたかったのです。

 宋の人で曹商という人がいた。あるとき宋王の使者として秦に行ったが、行きは十台の車だったが秦王に気に入られ、帰途に車を百台貰った。この話を荘子に自慢すると荘子は「秦王は病の腫れ物があり、それをなめると車五台をもらえるという。君は王の痔でもなめたのか」といってあざ笑ったという話があります。徹底的な反権力主義で、権力者におもねり、こびる人間を嫌いました。



 荘子の思想

 荘子の思想は老子の思想の後継であり、追随者といって過言でありません。終始一貫して老子の「道」と「無為自然」の哲学を守ります。しかしその表現となると、地味で玄妙で難解な老子の文章と異なり、奇想天外、支離滅裂な誇大表現、一方では誰にも分かりやすい寓話(大人の童話)を多用して理解を助けます。これは哲学というより文学です。

 まず常識を超える表現。最初の編の「逍遥遊」に「大魚の鯤が大鵬となる」物語があります。鯤(こん)とは魚の卵、その大きさ(直径)が幾千里、そしてこの巨大卵からこれまた巨大な大鵬(鳥)が生まれる。その偉大なること、卵の鯤が直径幾千里もあれば、それから生まれる大鵬の大きさは凡人には想像もつかない。翼の長さ数千里、空を覆います。この鳥が動けば海が荒れ動きます。翼を一回動かせば三千里飛び、上昇すれば一気に九万里も上る。これを見て地上の小鳥たちがあきれて騒ぎます。一体どこへ行くのだろう。古言いわく「燕雀いずくんぞ大鵬の志を知るや」です。小鳥には大鵬の気持ちは分からないというたとえですが、それにしても話が大きすぎます。

 そのほかにも樹下に何千頭の馬車を止められるという巨大な古木の話も登場します。何故こうしたことを荘子は冒頭の編に持ってきたのでしょう。これは荘子の哲学が「常識破り」から始まることを意味しているのです。人間には「常識」という厄介なものがあります。これを破れるのは芸術家だけです。荘子が説くのは「超俗主義」です。俗は常識です。俗は現代でも「俗っぽい」とか「風俗的」とか低めに見られますが、この俗を越えるために、どれだけ多くの芸術家が挑戦してきたことか。荘子の思想がこの後、詩人など文学者を中心にもてはやされるようになったのはこれが原因です。
 



 『荘子』の構成
 
 日本で書物『荘子』のことを「そうじ」と読ませるのは儒家の陰謀です。孔子の弟子に曹子があるため、紛らわしいと荘子の方を「そうじ」にしてしまいました。日本では江戸幕府が儒学を国学扱いにして保護してきましたので、やむをえないことなのでしょう。
 『荘子』は内編、外編、雑編合わせ三十三編からなります。文字数にして六万五千余字というから『老子』約五千字の十三倍です。このうち荘子が直接書いたのは内編七編のみで、後は荘子の思想を継ぐ後学の学者によるものとされています。しかし荘子の思想の集大成を図ったものですから、これは偽作とはいえません。

 内編は逍遥遊、斉物論、人間世、徳充符、大宗師、応帝王に分かれますが、特に有名なのは逍遥遊(しょうようゆう)と斉物論(せいぶつろん)です。逍遥遊は作為を捨てて悠々自適し、何物にもとらわれることない自由の境地を説き、斉物論は万物は全て等しい、この道理によって人は智の呪縛から逃れ、真の自由を獲得できると説きます。荘子の哲学の基幹にあたります。



 仙人伝説の生まれ

 老子は「道」を身につけた人を「聖人」と呼びますが、荘子は至人、真(神)人、聖人と呼びます。この順位は分かりませんが至人は自己に固執せず、真人は功を求めず、聖人は名声に関心を持たないとされています。

 荘子といえば仙人伝説の元祖のように言われます。老子は「道」を体得した聖人は、生に対する執着が無いため、山野を歩いても猛獣も牙を立てず、戦場でも怪我をすることはない、としていますが、仙人伝説を唱えているものではありません。生への執着を捨てることの重要性を言っているのです。これに対し荘子は「藐姑射(はこや)山の神人」の話を紹介します。「肌は雪のように白く、体は乙女のようにしなやかで、風を吸い、露を飲むだけで、穀物は一切食べない。雲に乗り、飛龍にまたがって空を駆け巡る」また「神人は何者にも支配されない。洪水におぼれることなく、大地を焦がす炎熱にも火傷することがない」とします。

 「不老長寿」の超能力者伝説はここから生まれたのです。これも冒頭の大魚、巨大樹の話と同様で、常識を超える話をでっち上げたのですが、これが当時の人の夢であったため、いつの間にか荘子は仙人伝説の元祖になってしまいました。



 荘子の影響

 荘子は秦王朝、漢王朝を越えて中国知識人に非常な影響を与えます。漢王朝が農民暴動の黄布の乱により滅んだ後、三国志でおなじみの三国時代に入り、最終的に魏が呉、蜀を破って魏王朝を建てるものの、王朝は臣下の司馬氏によって奪われ晋王朝が成立します。

 この晋王朝は時代を追って東晋、西晋に分かれますが、北方の匈奴によって滅ぼされ、後は北の匈奴など夷荻(遊牧民)たちによる王朝が次々と成立する南北朝時代に入ります。漢王朝が崩壊してから隋王朝が再び中国全土を支配するまでの、この369年間を中国史では「三国両晋南北朝時代」と呼ぶことが多いようですが、北方民族によって支配されたこの時代は漢人にとってまさに屈辱の時代でした。

 当時の中国人は身分を士族、庶族と分けられていました。これは魏の制度から始まったのですが、士族は封建制の大地主階級で、いわば貴族として重要な官職を独占していました。庶族は小地主など庶民です。士族はこれまで家柄だけで、官職を得ることが出来ましたが、北方民族の王朝ではそれはなりません。生活は何とか領地からの税で出来るものの、うつうつした思いで日々を過ごしてきました。

 この層は知識人階級です。その不満から世を嫌い、山野に篭って隠者生活をするものが多くなりました。山の庵で清貧な生活をしながら哲学を語り、詩を詠み、書、音楽に親しむという生活です。清談、竹林の七賢などという言葉が生まれました。

 荘子の思想は特に文人に大きな影響を与えました。陶淵明、李白、杜甫、白居易、柳宗元など高名な詩人たちはこぞって隠者生活に入りました。荘子の説く自由を求め脱俗、超俗の境地を得たかったのです。そして今も残るすばらしい詩が次々と生まれました。
 また老荘思想は仏教に大きな影響を与えました。禅宗はこの時代に生まれた中国産の仏教です。釈迦の仏教と老荘思想を見事にドッキングさせ、瞬く間に中国全土に広がり、他の宗派を駆逐しました。

 日本に老荘思想が入ったのは平安時代ですが、西行法師、鴨長明、江戸時代に松尾芭蕉、僧良寛などが特に有名で、明治以降は森鴎外、夏目漱石など枚挙に暇がありません。
 殆どの文人が老荘思想の影響を受けています。それには日本における禅宗の普及もあります。禅宗を通して老荘思想を知らぬままに身につけ、今では日本人の精神の多くを老荘思想が占めているのです。

                                                荘子全訳:草舎人より


 

昨夜は、天領の里へ宿泊ボランティアで行って来ました。

盆地だからか、耶馬の里に比べて、蒸し暑い夜でした。

それでも、しっかりお役を全う出来た、かな?

帰宅後、田んぼの周りの草刈りをしました。

水害復旧で後回しにしていました、我田、きれいに刈り取る

事が出来ました。   稔りの秋に心馳せながら!!

                               17:00投稿                                


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