宇喜多秀家が安土城をならって築き、三層六階の大天守の下見板に黒漆が塗られた姿から「烏城」と呼ばれた岡山城。歴代の城主が裏切られたり、裏切ったことのある者であることから、裏切りに敏感になってしまったチョット陰気な城姫。
宇喜多秀家時代に岡山城の呼称が定着した。
関ヶ原の戦い後宇喜多家は改易となり、小早川秀秋が入城。
1603年、小早川秀秋が急死し小早川家が断絶すると池田忠継の領地になるが幼少のため兄の利隆が代政。
1613年に忠継が岡山城に入城したが15年に死去し弟の忠雄が入封。
1632年に池田光仲と鳥取城主池田光政が交代になり、光政が岡山城に入城。以降明治維新まで光政系池田氏が城主を務めた。
明治維新では存城となったが廃城令で順次建物の取り壊し、堀の埋め立てが行われた。
天守は残っていたものの、1945年6月29日の岡山空襲で焼失。
1964年から鉄筋コンクリート造で再建。秀家時代をイメージしている。