オランダ公務を終えた雅子様をねぎらい労わるどころか、さっそくバッシングを始めたマスメディア。叩きネタは、ご両親とわずか3時間半ほど滞在中のホテルでお茶の時間を持ったということなのですから、呆れるほかありません。
雅子様とご実家の交流は必ずバッシングされ、そのとき必ず引き合いに出されるのが、美智子様です。「美智子様はご実家と交流を絶ち、ご両親は遠くから美智子様を見守った」というのです。このことは、TVの皇室特番でも週刊誌でも繰り返し報道されているため、ほとんどの国民はそう思い込んでいるはずです。しかし、本当なのでしょうか?
このトピックでは、美智子様は「ご実家と疎遠だった」ことが本当なのかどうか、検証したいと思います。この件について、あなたの情報・ご意見をお寄せください。
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【参考記事】週刊文春5月16日号(5月9日発売)
○記事タイトル
雅子妃が「小和田雅子」に戻られた夜/ご両親に完全無視され凍りつく報道陣…
○本文(P26より抜粋)
ベテラン宮内庁担当記者もこう話す。「いくら娘とはいえ、皇室に嫁がせた親族の控えるべき”一線”というのがあります。皇后さまのご実家である正田家は、頑なにその作法を墨守してきました。あれは昭和61年、まだ皇太子妃だった皇后さまの誕生日の会見のことです。『ご両親や兄弟と水入らずで会う機会はあるか』という質問に、『両親、それから兄弟も、どちらかというと遠くからいつも見守っていてくれます』『節度を守っていきたいという家族皆の気持ちを、寂しくても大切にしなくてはなりません』とお答えになっています。皇太子妃というお立場は、そういうものなのです」
別の千代田関係者はさらに手厳しい。「今回、雅子妃殿下はご両親と会い、”小和田家の娘”に戻る時間をお持ちになったわけですが、正田家は、皇后陛下が嫁いでからは身を慎み、特に父の英三郎氏は世間の目を引くような会合に出席されることさえ控えるようになりました。それが『けじめ』だとお考えになったからでしょう。オランダに来たときくらい会えば良いという声もあるようですが、東宮御所でも頻繁にお会いになっているし、昨年9月には馴染みの高級中華料理店で、小和田夫妻の金婚式の御祝いの会もなさっていると聞きました。妃殿下と長く”途絶状態”にある両陛下よりもその距離は近いのです」
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雅子様とご実家の交流は必ずバッシングされ、そのとき必ず引き合いに出されるのが、美智子様です。「美智子様はご実家と交流を絶ち、ご両親は遠くから美智子様を見守った」というのです。このことは、TVの皇室特番でも週刊誌でも繰り返し報道されているため、ほとんどの国民はそう思い込んでいるはずです。しかし、本当なのでしょうか?
このトピックでは、美智子様は「ご実家と疎遠だった」ことが本当なのかどうか、検証したいと思います。この件について、あなたの情報・ご意見をお寄せください。
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【参考記事】週刊文春5月16日号(5月9日発売)
○記事タイトル
雅子妃が「小和田雅子」に戻られた夜/ご両親に完全無視され凍りつく報道陣…
○本文(P26より抜粋)
ベテラン宮内庁担当記者もこう話す。「いくら娘とはいえ、皇室に嫁がせた親族の控えるべき”一線”というのがあります。皇后さまのご実家である正田家は、頑なにその作法を墨守してきました。あれは昭和61年、まだ皇太子妃だった皇后さまの誕生日の会見のことです。『ご両親や兄弟と水入らずで会う機会はあるか』という質問に、『両親、それから兄弟も、どちらかというと遠くからいつも見守っていてくれます』『節度を守っていきたいという家族皆の気持ちを、寂しくても大切にしなくてはなりません』とお答えになっています。皇太子妃というお立場は、そういうものなのです」
別の千代田関係者はさらに手厳しい。「今回、雅子妃殿下はご両親と会い、”小和田家の娘”に戻る時間をお持ちになったわけですが、正田家は、皇后陛下が嫁いでからは身を慎み、特に父の英三郎氏は世間の目を引くような会合に出席されることさえ控えるようになりました。それが『けじめ』だとお考えになったからでしょう。オランダに来たときくらい会えば良いという声もあるようですが、東宮御所でも頻繁にお会いになっているし、昨年9月には馴染みの高級中華料理店で、小和田夫妻の金婚式の御祝いの会もなさっていると聞きました。妃殿下と長く”途絶状態”にある両陛下よりもその距離は近いのです」
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1990年 8月9日号 『週刊新潮』
天皇ご一家の「夏休み」が今年も西武の「別荘」なので
1990年の夏、このような記事が出ました。
この時の天皇ご一家とは現在の天皇ご一家、つまり、今上天皇と美智子皇后、浩宮徳仁親王(現・皇太子徳仁親王:立太子礼は1991年2月23日)、紀宮清子内親王です。
(※ 1990年6月29日に文仁親王と紀子さんが結婚され秋篠宮家の創設となったので、1990年8月の時点で秋篠宮ご夫妻は正確には天皇ご一家ではありません。)
このような記事が出たと云う事は、新しい天皇ご一家は、昭和時代から「夏休みは御用邸ではなく、民間企業が所有する別荘で過ごしていた」と云う事を、当時は、正確に記事として表しています。
現在の皇太子ご一家が御用邸ではなく民間企業が所有するホテルに滞在されるのは、せいぜいスキーをされる時だけではないでしょうか。
「現在の皇太子ご一家は毎年のように軽井沢に滞在する」と、故三宅久之氏や勝谷誠彦などが誤解したまま、しかも悪意に満ちた表情で発言し、それが事実を知らない人間を勘違いさせ皇太子ご一家をバッシングすると云う状況を生じさせました。
軽井沢には小和田家の別荘があるそうですが、正田家の別荘もあり、昭和の皇太子ご一家は毎夏いつも正田家所有の別荘で、正田ご夫妻と一緒に過ごしています。
実家ベッタリ、実家離れできないのは、雅子妃ではなく、やはり美智子さまであると断定しても良いかと思います。
両陛下は軽井沢で出会ったので、思い入れが深いのは分かる。
しかし一歩ひいて冷静に読むと、美智子妃はかなり実家と交流していたと思われる記載部分がある。
しかも陛下(当時は明仁皇太子)も正田家と親密に交流していると分かる記載部分がある。
実家べったり、親ばなれ出来ていないのは、雅子妃ではなく寧ろ美智子妃だと分かった今月号の文藝春秋だった。
一読を薦める。
私も以前美智子妃(当時)の公式のご実家へのお里帰りが十数回だったというのを新聞記事か何かで読んで、
「あれ、意外と多いんだな…」と思った記憶があります。
まだその頃は「美智子様はいじめられていた」伝説を信じ、皇室で抑圧された暮らしをなさってきたとばかり思いこんでおりましたから。
でも、お里帰りのほかに皆様が検証して下さったように
こんなにお忍びでご静養先だの、正田家の別荘だの、イベントだので会われていたというのなら「美智子様いじめられ指数」はかなり下方修正しないといけませんね。
そして美智子様がこれだけほいほいご実家と交流できていたということは、
当時の昭和天皇、香淳皇后様がそれを黙認≒理解なさっていたと言えなくはないでしょうか。
昭和天皇には五人の皇女がいらっしゃり、(うち一人は幼いうちに夭折)一番上の東久邇成子さんが35歳というお若さで亡くなったことはご存知の方も多いと思います。
宮家の東久邇家へ嫁いだものの戦後の宮家の皇籍離脱で平民となられ、
敗戦後の大変苦しい生活の中でも前向きに、五人のお子様を気丈に育てられました。
でもご苦労がたたったのか、
「昭和三十五年十一月に結腸癒着と腹壁膿瘍を発病して宮内庁病院に入院し、天皇皇后も頻繁に病院に通ったが、翌年七月二十三日未明になくなった。」
(「天皇家と宮家」小田部雄次著 より)
当時の昭和天皇皇后両陛下のお気持ちは察するに余りあります。
嫁ぎ先で娘が病に倒れる、親として本当に辛いことなのではないでしょうか。
その気持ちは皇室の方も一般人も同じでしょう。
そしてお見舞いに何度も行かれたのです。
皇室というものは子供が結婚したらつながりを一切絶つなどというような非人間的なところでは決してない、と言えるのではないでしょうか。
昭和天皇が晩年病に倒れられたときは、外孫にあたる成子さんのお子様たちがしばしば入院先を訪れ、最期も看取られたとか。
あたたかい交流は成子さんがなくなった後も続いていたのですね。
そして昭和天皇の三女に当たる鷹司和子さんもご苦労多い人生だったようです。
和子さんはご主人が少しスキャンダラスな亡くなり方をされ、その後は賊に家に押し入られるなどの不運が続きました。
それから赤坂御用地に居を移されました。
心労の娘を見かねた昭和天皇のご配慮だったのかもしれません。
鷹司和子さんは伊勢神宮祭主も勤められ、ちょっと黒田清子さんと境遇が似てますね。
ただ昭和天皇は、また娘を皇族に戻すなどといった公私混同はなさいませんでしたが…。
別トピで村人様がお寄せくださった情報は私もネットのお噂で拝見し唖然といたしました。
「私より公」がモットーの今上らしからぬ…。
ほんとにセールの品をあさる娘が不憫で皇族に戻したいなんて思っておられるのでしょうか?なんかの間違いと思いたいですねえ。
孫娘が学校で暴力を受けても加害者をかばうほど身内にお厳しい陛下が…。
とても信じられませんねww
(正田富美さんは)
紀宮さまの日本舞踊の発表会に足を運んだり、浩宮さまの初めてのヴィオラのソロを披露されたコンサートにも姿をみせていた。
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美智子妃が、ご実家の正田家(実母の正田富美さん)と全く交流していなかったとすれば、正田富美さんが皇孫の晴れ舞台の日時を知ることは不可能だと思います。
本当に交流が無ければ、当日のテレビニュースや翌日の新聞で、皇孫の御活躍を知る事しかできないはずです。
でも交流があったので(前もって連絡できる状態にある)発表会やコンサート当時に足を運ぶ事ができたと考えるほうが自然でしょう。
れみ様 wrote
>美智子さま入内後初めての海外訪問において
>アメリカに出張中だった弟さんと訪問先で会っているはずです。
私も本で読んだ記憶がありますが、記載されている箇所を見つけられません。
でも私の記憶にもありますので、いつか見つかればと思っております。
>美智子さまの兄弟のお子さまが柿の木坂幼稚園に
ソースの提示ありがとうございました。
柏木由紀子さんが語っておられたのですね。
記憶があやふやだったので助かりました。
INDEX様
今の時代にそぐわない美談ですよね。
実家との交流を絶つというのは美智子様のお若い頃だからこそ受けた美談ですよね。
しかしそれすら捏造臭いのですが。
今回オランダ訪問された雅子さまが実家との交流を持ったと盛大に叩かれたことでふと思い出したのですが
美智子さま入内後初めての海外訪問において
アメリカに出張中だった弟さんと訪問先で会っているはずです。
これも記憶が定かではなくソースも示せないのですが
もし事実なら雅子さまがいかに理不尽に叩かれているかの証明になると思います。
ご記憶の方おられませんでしょうか?
ttp://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/080412/imp0804120821000-n1.htm
(産経はリンク切れのため、本文全体については「皇室ウイークリー 正田 芳子」又は「皇室ウイークリー保存所 正田 芳子」で検索してお読みください」)
【皇室ウイークリー】(23)愛子さま、初めてのランドセル
2008.4.12 08:15
(略)
天皇、皇后両陛下は7日、群馬県を日帰りで訪問したが、実は公式日程とは別に、皇后さまの親戚(しんせき)宅を訪れられている。
正田家出身の皇后さまは、午後4時54分から約5分間、「正田醤油(しょうゆ)」会長の正田宏二さん(78)宅をご訪問。正田さんの母、芳子さん(100)との再会を果たされた。芳子さんは皇后さまの父、英三郎氏のおばにあたり、皇后さまが芳子さんと会われたのは十数年ぶり。以前はよく、親族の集まりが開かれる東京でお会いになっていたという。
(略)
当初は市役所で両陛下をお出迎えする予定だったが、芳子さんの年齢や体調を考慮。正田さん宅が両陛下のご移動ルートに近かったこともあり、7日の午前中になって急遽(きゅうきょ)、お立ち寄りが決まったという。
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上記に関する補足
・「公務の移動中、正田本家に立ち寄り(鈴蘭) 」2013-06-02 23:36:24の関連記事です
・美智子さまは2008年(平成20年)4月7日、本家の正田芳子さんと十数年ぶりに面会なさいましたが、美智子さまが東京で親戚の集まりに出ていることが書いてあります
しかも「よく」お会いになっていた
・なお週刊朝日2008年4月25日号によると
両陛下の正田家訪問の可能性が本家に伝えられたのは「一週間前」、
アエラ2008年5月2日号によると「そこから300メートルと離れていない皇后の本家の正田邸」とあります
「そこ」は館林市役所のことで、両誌とも館林市役所で旧友とお会いになったことが書かれています
・宿泊公務であれば私的にホテルで会うことができましたが、日帰り公務なので市役所お立ち寄りですね
その時の写真、何処かにあると思います。
このように思い返してみると、正田家と美智子妃は交流を断ち切っているどころか、庶民以上に頻繁に交流していたと見る方が正しいのではないでしょうか。
ttp://www.47news.jp/CN/200804/CN2008040701000620.html
両陛下が日系人児童の授業参観 正田本家にも立ち寄り
群馬県を訪問中の天皇、皇后両陛下は7日午後、日系ブラジル人の児童らも通う太田市立沢野中央小を訪れ、外国人児童を対象にした授業を見て回られた。
(略)
両陛下は同日夕、車で帰京途中、同県館林市で急きょ、皇后さまの実家、正田家の本家筋に当たるしょうゆメーカー会長正田宏二さん宅に数分間立ち寄り、宏二さんの母芳子さん(100)にあいさつした。皇后さまは戦時中、宏二さん宅近くに疎開していた。
2008/04/07 18:27 【共同通信】
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上記に関する補足、感想
補足
・両陛下は2008年(平成20年)4月7日 公務の帰途、正田本家に立ち寄られた
・共同通信によると「急きょ」立ち寄りが決ったかのように書いてあります
しかし他報道(ネットの配信記事でログが見つからず)では予め立ち寄りの件が出ており、「美智子さまは親戚と都内で会っているが、本家の正田芳子さんは高齢のため(移動できないから、美智子さまが)立ち寄る」とのことでした
週刊朝日などの雑誌情報も含めると、親戚だけでなく疎開時代の友人知人と会ったそうです
感想
・数分のお立ち寄りは、短すぎてお気の毒です
でも宮内庁ホームページのご日程(平成20年4月7日)をみると、ttp://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/h20/gonittei-1-2008-4.html
太田市訪問なのに正田本家にお立ち寄りするために、わざわざ館林市役所に移動して県知事などの挨拶を受けているみたいですね
美智子さまはプライベートで黒田清子さん御夫妻の旅先を訪問なさっているので、そういった機会にくつければ、もっとゆっくり親戚と会えたのでは?
ブログ「Mrs Oakley Fisher の台所から」の過去記事で、ブログ主のオークリー様は、この三宅氏の嘘に怒り、次のように書かれています。文中で触れられている写真は、別トピに載せた、浩宮様を抱いて里帰りをしている美智子様の写真です。(ご承諾を得て転載)
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■正田家は美智子さまと絶対会わなんだ(by 官房機密費から100万円もらった三宅という爺さん)2012/03/14 (Wed) 資料本 美智子妃関係
立ち読み専門さま、ガーネットさま。そのへんにバラバラと置いてある本から拾い出しているので、「まとまって、きちんと」は無理ですが(すみません)「正田家は美智子さまと絶対会わなんだ」の第一弾を。
前にも出しましたかね、この写真。(元「女性自身」カメラマン・清宮由美子「美智子妃誕生と昭和の記憶」)浩宮さまの大きさ?からいくと昭和36年の1月19日、「6回目の里帰り」と書いてあります。同じ東京にいながら年平均3回は少ないかな?
でもうちの兄嫁は、姑さんが死ぬまで、年2回(盆と正月)しか実家に帰れなかったです。それも婚家へまず「ただいま帰りました」と行って帰ってきて、2日目くらいに「それでは、里へ(車で15分くらいの同市内)行かせて頂きます。ご不自由をおかけして申し訳ありません。」と挨拶してから。帰りは、また婚家へ戻って一晩くらい泊まって、赴任地へ帰る。挨拶は「行ってまいります」
休みが少ないと里へは帰れないことも。義兄もうちの亭主も、一度も嫁さんの実家に泊まったことがないです。姑が禁止してました。庶民で、しかも美智子さんよりうんと後の世代の兄嫁でもこんなだから、婿さんの皇太子が日清製粉のテニスコートでテニスやって、風呂も入って、なんて間柄で、年3回の公式里帰り(母親のフミさんはオペルに乗って、よく東宮御所へ出かけたというし)ならマシなんじゃないでしょうかw
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オークリー様が書かれているように、また、ここで皆様が書かれているように、美智子様の里帰りが当時の一般庶民と比べて少なかった、ということはとても言えないように思います。
>auxilia様 wrote
美智子妃と正田家との交流が少ないと、悲劇的な文体で書かれています。でも、戦後かなり経ったとはいえ、昭和のあの当時は、平民に嫁ぎ庶民として生きる妻でも、なかなか自由に里帰りできなかったのではないでしょうか。今こうして冷静に読み返してみると、美智子妃は実際には、かなり自由に里帰りできたり、実両親と交流できていたのではないかと思われます。
>れみ様 wrote
美智子様とご実家との交流は一般庶民より頻繁だったかもしれないですよね。庶民の大半は仕事の都合で盆や正月に帰省するくらいがせいぜいですから。もしかしたら国民の同情を買う為に情報統制されていた可能性もあるかもしれませんね。
「美智子様は実家と一切の交流を絶ち、絶対に会わなかった」などというのは嘘であることがわかってみると、なぜそんな嘘が広く流布されたのか気になります。
れみ様が指摘されているように、「国民の同情を買う為に」、そういう悲劇が演出されたのではないでしょうか。美智子様のファン層は、お嫁に行って姑にいびられて苦労した女性たちです。そういう女性たちは実家に帰ることもままならず苦しんでいたでしょう。「美智子様も同じご苦労をされている」となれば、ファン心理はいっそう強固なものとなります。
嫁いびりに苦しむ女性たちの同情をかい、人気を不動のものにするために、宮内庁が演出し情報統制したのが、「美智子様は実家と一切の交流を絶ち、絶対に会わなかった」なのではないでしょうか。
しかし、もうその美談は美談ではなくなっています。現代日本人は、ご両親が雅子様を滞在先のホテルに訪ねてお茶の時間を過ごすことを叩く皇室ジャーナリストを「はぁ?(何言ってんの、この爺さん)」としか思いませんし、世界的に見ても「はぁ?(日本人はなんてクレージィ)」としか思われないでしょう。
実家に帰れず耐えて泣いているお嫁さんなんて、もういないんですよ、橋本さん、神田さん、今は亡き三宅さん、宮内庁の中の爺様、婆様。美智子様の時の演出がそのまま雅子様時代に通用すると思ったら大間違いです。
もう、そのカビの生えた美智子様美談を棍棒にして雅子様を叩くのは、おやめください。
新時代つくられたご努力に畏敬の念
皇后さまの弟
日清製粉グループ本社
正田修会長(66)
(略)
ご結婚後まだ日も浅い、まだ自分が学生だったころに、テニスにお誘いをいただき、御所にうかがうと、当時の両殿下がその頃の学生生活、特に課外の生活(すなわち遊び)についていろいろとご下問になり、お話のついでに当時学生の間で流行(はや)っていたツイストをお教えした記憶があります。
安心して愚弟を演じ、両殿下にも楽しんでいただいた青春の一コマです。
ご即位の後も両陛下のお誕生日あるいは新年の祝賀など行事以外にもときおり夫婦でお招きいただき、お話の機会をちょうだいします。
また、時には我が陋屋(ろうおく)に行啓賜ることもあります。
ここしばらくは家内の体調もありお成りいただいておりませんが、ぜひまた次の機会をお願い申し上げようと考えているところです。
****
上記に関する補足とまとめ
・両陛下のご結婚50周年にちなみ、美智子さまの弟(正田修さん)が朝日新聞の取材に応じ証言した
・交流の例として
明仁さま美智子さまのご結婚後まもなく、正田修さんは御所にテニスに招かれ、ツイスト(当時、若者に流行った踊りの一種)をお教えした
明仁さまの即位後も(誕生日、新年などの)行事以外に、正田修さんは夫婦で御所に招かれたり、時には両陛下が正田修さん宅にいらっしゃる
その証拠の1つとして、
明仁皇太子は、美智子妃の妹である恵美子さんの結婚式に出席しています。
美智子妃は流産などが原因のノイローゼだったために、結婚式は欠席でした。
本当に、正田家と美智子妃との交流が無ければ、「美智子は皇室に差し上げた方で、現在は妃殿下です。正田家とは交流はありません。」というのが事実であれば、美智子妃の妹の結婚式に、明仁皇太子が出席するなど有りえないはずです。
この事実も、「美智子さまがご実家とは疎遠であった。」というのはウソであるとの証明になるのではないでしょうか。
ご実家とは普段着でも会えるから会えた。
それだけのことでしょ。
私の周辺では、雅子さまの回復が遅いと思っていた人ですら、「公務が出来ない理由が分かった」と言っています。
サンデー毎日で、そのようなことを言っているのですか。
驚きました。
鳥の脳というのは、いったん刷り込まれると消えないのですが、
人間の脳は鳥とは違い、刷り込みも、消すことが出来ます。鳥は生きていくうえで、どうしても刷り込みが必要でしょう。人間は違います。マスコミは、私たちを、鳥だと思っているのでしょうか。
ちなみに橋本明さんとはどんな人?
Time 誌 のナビで、検索してみました。
Akira Hashimoto で検索 1件ヒット
TIME の 今日の言葉 というコーナーにありました。
"Thursday, Mar. 11, 2010
Quotes of the Day
Thursday, Mar. 11, 2010
Many people won't want such an unhealthy family to become emperor and empress.
AKIRA HASHIMOTO,
author of books on Japan's imperial family, on reports that Princess Aiko refused to attend school because of bullying; the news bring attention to Aiko's mother, Crown Princess Masako, who has been criticized for having a history of depression
Read more: http://www.time.com/time/quotes/0,26174,1971505,00.html "
「多くの人がこんな不健康な家族に 天皇や皇后になってほしくない と考えている」 ですって?。
そんなことを言う日本人に、私は会ったことがありません。
皇太子さまと雅子さまでなければ、絶対に嫌だ! 」と言う人しか会ったことがありませんけれど。
愛子さまは学校に行けず、雅子さまは心のご病気で、だからこんな家族はというのが、橋本さんの主張のようです
2010年の記事です。
愛子さまは、学校に行けなかった時期を克服されて、今、すばらしいご成長ぶりであることを私たちは知っています。
橋本さんの役目も想像がつくというものです。
●サンデー毎日5月26日号(5/14発売)
<記事タイトル>
ご結婚20年「雅子さま」の正念場 療養10年目「苦難の日々」
皇室ジャーナリスト 橋本明/神田秀一/渡辺みどり(誌上座談会)
※3人は、雅子様のオランダご公務をひとまず褒めた後、批判に入ります。批判ネタは、相変わらずご両親とわずか3時間半、ホテルでお会いしたことです。
<本文より引用>
(ドレスの皺が気になったという話の後)
橋本 それより気になったのは、「小和田家」です。雅子さまの父で、オランダ・ハーグの国際司法裁判所判事の亙氏と母の優美子さんがホテルに訪ねてきました。実の娘に会うという理屈でしょうが、天皇家に嫁いだということは民法上の庇護から外れるわけで、もはや雅子妃は自分の娘でないとの自覚を持つべき。なぜなら、皇太子殿下は次期天皇で、雅子妃は次期皇后陛下なのです。国民の尊崇の対象となる、その意味を今一度噛みしめるべきでしょうね。その点、皇后陛下はご結婚後、実家である正田家と一切連絡を断ち切った。正田家側もわきまえていました。
神田 私も次期皇后陛下になられる方へ期待を込めて発現させてもらえれば、もっと「公人」としての自覚を持っていただきたいということです。雅子妃は、即位式とレセプションにはご参加されましたが、それ以外の行事に「私も出ます」とはいかなかった。皇太子殿下は前女王が開いた晩餐会や翌日に新国王が主催した夕食会に一人で出席しました。予定通りとはいえ、公式行事に出ないで両親に会うのはいただけません。
渡辺 雅子さまには、同じ民間から嫁がれている美智子さまという素晴らしいお手本がいらっしゃる。次期皇后に向け、しっかり美智子さまから吸収して欲しいと願っています。その上で、「小和田家」という外交官の家庭で育った新しい文化を皇室に吹き込んでいただくことはあってもいいのではないでしょうか。
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橋本さんは「皇后陛下はご結婚後、実家である正田家と一切連絡を断ち切った」という嘘を、これまで何度も言ってきました。ジャーナリストとして恥ずかしくないのでしょうか。「皇太子殿下は次期天皇で、雅子妃は次期皇后陛下なのです。国民の尊崇の対象となる、その意味を今一度噛みしめるべき」などとも言っていますが、病気の娘を気遣ってホテルに訪ねてくるご両親がいると、なぜ国民の尊敬する天皇皇后になれないのか、さっぱりわかりません。美智子さまも、年に何度もご両親と交流なさっていましたが、そんなことを理由に、国民が美智子さまを尊敬しなくなるとでも? 実家との交流を断ち切ることがご立派、国民の尊敬の条件という考え方が理解できません。
神田さん、オランダは心の病について理解が深く、雅子さまにぜひ出席していただきたくて、オランダ側から「即位式とレセプションだけ出席してくださればOK」と提案してこられたのですよ。ご両親に会うように提案して下さったのもオランダ側のご配慮です。それにケチをつけるのですか。そういう心の病への無理解が、雅子様の回復を阻んできたのですよ。
座談会はこの後、「今こそ詳しい”病状”を公表すべき」という大合唱に移るのですが、こんな無理解な人たちに病状を詳しく明かしたら、大変なことになります。オランダが王室を挙げ、国を挙げて、クラウス殿下の鬱病について理解を深めようと取りくんだのとは真逆で、心の病に苦しむ雅子様を叩き続けてきた日本のマスコミ。新しい燃料をネタに、どれだけ曲解したバッシングを始めるか、火を見るより明らかです。
浜尾実(著) 新潮社 1993年4月発行
126頁
正田家を訪問されて、ご実家のお父様やお母様と会われるのは、四、五年に一度くらいだったと思います。
127頁
ある時、かわりに、ご実家のご両親のほうから、東宮御所にいらしたことがありました。
その日は、皇太子殿下も妃殿下も外へお出かけでした。
お二人がお留守の間、浩宮様がお一人ではさびしいだろうし、ご両親もお会いしたいだろうと思われたのか、両殿下のほうから、美智子様のご実家のご両親をお呼びになったようでした。
まだ浩宮様がお小さいころの話です。
****
上記に関する補足とまとめ
・「かわりに」とは「正田家訪問のかわりに」
なお他誌によると里帰りは最初の二年で5回しています
その他の定期的な交流として、新年など、東宮家の誕生日、静養先(軽井沢や葉山)があります
・明仁さま美智子さまの留守中にも、正田英三郎さん御夫妻を東宮御所に招いた
>これだけでなく美智子様が清子さんを柿の木坂幼稚園に通わせたのは妹の家に近かったからとか(これも交流があったのでしょうね)
美智子さまが柿の木坂幼稚園に決めた理由について柏木由紀子さん(坂本九夫人、娘は柿の木坂幼稚園に通った)は
「皇后さまのご兄弟のお子さまが、柿の木坂幼稚園に通われてらっしゃった」ttp://www.youtube.com/watch?feature=player_detailpage&v=jUHolYxwL3o
の2分54秒以降
柏木さんは、美智子さまの兄弟のうち誰かは特定していません
「美智子さまのご兄弟のお子さまが紀宮さまと同時期に在籍した」のか「ご兄弟のお子さまが以前に在籍して評判が良かったから決めた」のどちらかはわかりません
ただ美智子さまの妹(恵美子さん)の家は、柿の木坂幼稚園にとても近いです
(住所はネットや本でわかりますが、ここには載せません)
ところで恵美子さんの長男は慶大生なのに、学習院大生の礼宮さまのサークル「自然文化研究会」のメンバーでした
恵美子さんの長男と礼宮さまは大学が違うにも関わらず礼宮さまのサークルに所属するくらい親しいわけですから、明仁さま御一家と恵美子さん御一家は交流していたのでしょう
(1999年4月発行 ハードカバー版131頁)
正田家に里帰りしたのは五回ほどである。
正田家の両親が東宮御所に招かれたのは、皇太子、美智子妃、三宮の誕生日で、一年に五回。
また皇族親族が集まる菊栄親睦会にも招待された。
美智子妃が両親や兄弟について語られたのは、昭和57年の記者会見でだった。
「皆それぞれ忙しくしていますが、両親には年に何回か皇居や東宮御所、軽井沢などで会うことができます。両親もだんだん歳をとりますが、幸い変わりなく、いつも兄弟や私のことを見守ってくれています。」
(1999年4月発行 ハードカバー版132頁)
美智子妃と正田家の家族が、割と遠慮することなく、気楽に会えるのが軽井沢だった。
(略)
皇太子、美智子妃、三人の宮たちは一夏に一度は、正田家の別荘に遊びに行った。
両親をホテルにも招いた。
****
上記に関する補足とまとめ
・「里帰り五回」は誤り
(理由)他の記事、書籍とあわせ読むと、もっと多いです
結婚後の2年で5回里帰りしています
・正田さん御夫妻は「皇居、東宮御所(東宮御一家の各人の誕生日)、菊桜親睦会」に招かれた
・美智子さまご自身が会見で「両親に年数回会っている」旨を述べた
・毎夏、軽井沢において、明仁さま御一家は正田家の別荘を最低一回は訪ね、また正田家両親をホテルに招く
昭和62年10月12日 第1刷発行
59p.
このときは五時間半も水入らずで歓談している(因みに美智子妃はご結婚以来四半世紀を越えた今日まで、里帰りはわずか十数回にすぎないが、初年の三十四年に三回、三十五年に二回と、この両年で三分の一になる)。
そして三十四年の三回目は軽井沢からだった。すでに七月二十二日以来、皇太子とともにプリンスホテルに滞在して、ドライブや学友たちの招待、別荘訪問などを楽しんだが、肝心のテニスは皇太子だけで美智子妃は控えていた。
実はすでに妊娠の兆候がみえ、検診では三ヶ月に入っていたのである。テニスに同行しても観戦のみではつまらぬし、マスコミの憶測のネタになりかねない。このさい里帰りしてご両親に報告を、との皇太子のすすめで急に実現したのだった。
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河原敏明氏は、すべての本に「里帰りの回数は少ない。」「正田家との交流は無い。」と書いていますが、よくよく読んで計算してみると、美智子妃は結婚後かなり里帰りできていますし、なにより明仁皇太子が美智子妃に里帰りをすすめています。
こうして書き出していると、「美智子妃は実家に里帰りせず、正田家は美智子妃との関係を絶った。」と云う昨今の皇室報道はウソであると思えてなりません。
コメントの掲載ありがとうございました。
美智子様とご実家との交流は一般庶民より頻繁だったかもしれないですよね。
庶民の大半は仕事の都合で盆や正月に帰省するくらいがせいぜいですから。
もしかしたら国民の同情を買う為に情報統制されていた可能性もあるかもしれませんね。
>清子さん関連の検証トピも立てたいです
是非お願いします。
マスコミの論法は正田家は皇族の娘と一線引いていた。それに比べて小和田家は…なのですが
なぜか降嫁後の清子さんの再三の里帰りは美談だと手放しで褒めるのですよね。
老いた両親の世話をする為に帰っているから親思いで素晴らしいと。
しかし数十人もの使用人に傅かれて暮らしている両親の一体何の世話をしているのでしょうか?
最も人手が必要ない環境だと思うのですが。
子供も産まず、実家に入り浸っている清子さん。
実家との交流とは対照的に全く交流の話を聞かない黒田家。
この方のマスコミの扱いは謎だらけです。
実家との交流を絶つのが美談なのか実家に入り浸るのが美談なのか。
雅子様を批判する前にマスコミにはこの点をはっきりさせてもらいたいです。
「正田英三郎さん御夫妻の結婚記念日」他の転載につき、ありがとうございました
「英三郎さん御夫妻の結婚記念日に交流あり」
なので、当然、金婚式(50回目の結婚記念日)にも交流ありですね
・美智子さまと富美子さんとの交流例
1968(昭和43)年2月1日 美智子さまと富美子さんが「桑島すみれハープコンサート」へ
ttp://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071204151434.jpg
・富美子さんに関するテレビの報道例
日テレ おもいッきりイイ!!テレビ 2008年5月28日
ttp://www.ntv.co.jp/omoii-tv/today/080528.html
>美智子さまのご公務の際には駆けつけた富美子さん、しかし富美子さんには節度を守り遠くから見守るという姿勢で美智子さまとお会いする機会にも自身から話かけることはしなかった。
上記のような報道に洗脳されてきましたが、公務の場ですから、話しかけることはできないと思います
控え室なら会って話せると思いますが
過去に「美智子さまが相撲をご覧のときに正田さん御夫妻がいて、そっと視線をかわす」とか「美智子さまの視察公務に正田さん御夫妻がいらして、そっと見守る」という美談がありました
よく考えると「正田さんは美智子さまと連絡をとっている」から、「美智子さまの行き先がわかっていた」のですね
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「美智子皇后」 河原敏明 著 講談社 刊
平成2年12月20日 第1刷発行
平成4年11月5日 第13刷発行
269p.
六十二年夏からは入退院をくり返していたが、日増しに病状は悪化して、絶望的な日々になっていった。
我々のように、いつでも自由にとはいかなかったが、それでも美智子妃は殿下ご理解のもとおしのびのお見舞いをつづけていた。
戦前なら危篤までに見舞いが二、三度だったことを思えば、時代の流れを覚えるが、美智子妃の胸中は察して余りあった。
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戦後かなり経ったとはいえ、昭和のあの当時まだ、「女は三界に家無し。」という諺は一般的に厳しく残っており、平民に嫁ぎ庶民として生きる妻でも、なかなか自由に里帰りできなかったのではないでしょうか。
でも、今こうして冷静に読み返してみると、美智子妃は実際には、かなり自由に里帰りできたり、実両親と交流できていたのではないかと思われます。
興味深い記事のご紹介、ありがとうございます。
> 新証言「母・富美子さんと密会のとき」 文藝春秋五月特別号
これは、2009年5月特別号(2009年4月10日発売)の文藝春秋ですね。「ご成婚五十周年」で大特集が組まれたようです。
これだけの証言が活字になっていながら、「皇室に嫁がせた親族の控えるべき”一線”というのがあります。皇后さまのご実家である正田家は、頑なにその作法を墨守してきました」などという、ベテラン宮内庁担当記者ってなんなのでしょうね。
正田家で夕食を食べ、別荘でテニスをし、お風呂に入っていく皇太子殿下。これが作法なんでしょうか。今の皇太子さまがこれをやったら、どれだけ叩かれますやら。
黒田清子さんの件、「皇居に出戻っているという噂」が事実ならば、そのケジメのなさは途方もないですね。いずれ、清子さん関連の検証トピも立てたいです。雅子様、愛子様を「母子分離ができていない」などと叩きながら、清子さんのご両親、とくに美智子様べったりは常に美談仕立て。このマスコミのダブルスタンダードが不気味です。
●auxilia様
書籍や新聞からの地道で丁寧な抜き書き、ありがとうございます。
>美智子妃は殿下のご理解のもと、おしのびのお見舞いをつづけていた。
これは、ご両親どちらかのお見舞いでしょうか?
>美智子妃と正田家との交流が少ないと、悲劇的な文体で書かれています。
そうなんですよね。実際には、ご実家と暖かい交流をされていた美智子様なのに、なぜか「ご実家と疎遠」であることが強調され、悲劇のヒロインのような演出がされますよね。これは、明確な意図をもって演出されたのかな、という疑念をもつに至りました。
>新年の拝賀と各宮さまの御誕生日だけ
いつぞやは、小和田氏が新年のあいさつに御所に伺っただけで、叩かれましたね。まるで罪人のような叩き方で、週刊誌は非道だと思いました。
小和田ご夫妻は、愛子様のお誕生日に御所に招かれたことはあるのでしょうか。浩宮様の運動会や、美智子様と連れ立ってのコンサートにも、富美子さんは招かれていたはずで。正田家と同程度の交流(下記)が、小和田ご夫妻にも許されてほしいです。マスコミや宮内庁の道理に合わないバッシングはなしで。
■正田家と東宮ご一家(昭和時代)の交流
・両殿下は御忍びでよく正田家に来られた。皆さんが思っている以上に来られている。
・夕食は中華料理が多かった。食事をすませるとお子様だけ先に帰し、そのあと両殿下はゆっくりとすごされた。
・婚約発表の直後、正田家に引かれた東宮仮御所との直通電話が、ご成婚後は富美子さんの部屋に移され、その後も使われていた。
・電話だけですまないときは、その足で東宮仮御所に向かった。正田家の車で。当時はBMW、その前はオペル。富美子さん一人で行くことが多いが、ときどき英三郎さんと一緒のときもあった。とくに頻繁に訪れるようになるのは浩宮を出産した頃だった。
・「軽井沢の別荘」は、お忍びでよくいらしてた。東京にある日清製粉のテニスコートを使うこともあった。 殿下はテニスをしたあと、お風呂に入って帰られた。五、六人ほど入れる湯船だった。
・両殿下は葉山に行かれた帰り、正田家の鎌倉の別荘に立ち寄られた。お母さまは週末から行っておられた。英三郎氏と富美子さんのお墓は鎌倉霊園にある。
先にご指摘いただいていた次の記事ですが、
(2) 正田英三郎さんと明仁さま美智子さまが写った別記事もあり。「軽井沢静養前の明仁さま美智子さまが、正田英三郎さんに案内されて日清製粉の記念館?工場?を見学」というものも。
お台所からお借りした写真を別トピに貼りましたので、ご参照ください。この記事には、次のように書かれています。
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週刊明星 昭和44年12月5日発行
今年8月、群馬県館林にある日清製粉の工場をお訪ねになったお二人は、久しぶりに父正田英三郎氏と楽しいひと時をすごされた。
軽井沢へご出発になる前日という、あわただしいご日程だったが、めったにお会いになる機会もないだけに、お話がはずむ。
広い工場内を英三郎氏の案内でお歩きになりながら、幼い頃、疎開していた時の記憶を楽しく思いだされる美智子さま。父と娘と心からくつろがれた忘れられない一日であったに違いない。
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いまは亡き週刊明星の記者の、なんと暖かい文章でしょうか。比べて、わずか3時間半、父上とお茶の時間をもっただけで、雅子様とその父上を口を極めて罵り叩きまくる文春、新潮の記者・編集者・デスク・発行元の、なんと非道なことでしょう。
なんのために?誰の意向で?と思わずにはいられません。
「美智子皇后」 河原敏明 著 講談社 刊
平成2年12月20日 第1刷発行
平成4年11月5日 第13刷発行
267p.
新年の拝賀と各宮さまの御誕生日だけ
269p.
美智子妃は殿下のご理解のもと、おしのびのお見舞いをつづけていた。
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美智子妃と正田家との交流が少ないと、悲劇的な文体で書かれています。
でも、今になって読み返すと、美智子妃は、雅子妃よりも遥かに実家と交流していたと判断しても良いのではないでしょうか。
ブログ「Mrs Oakley Fisher の台所から」の過去記事について、管理人様のご許可を得て、ご指摘の記事を、転載させていただきます。
(1)「美智子さまは正田英三郎さん御夫妻の結婚記念日などに行っている」旨の記述。確か「明仁さま御一家が、日清製粉の中央研究所を見学した記事」に書かれていた。
(2) 正田英三郎さんと明仁さま美智子さまが写った別記事もあり。「軽井沢静養前の明仁さま美智子さまが、正田英三郎さんに案内されて日清製粉の記念館?工場?を見学」というものも。
まず、(1)について、台所ブログ(2012/05/11)から転載します。「」内が雑誌記事からの引用で、地の文は管理人のオークリー様のコメント(歯切れよい!)です。
(2)については、この後のコメントで。
なお、コメント欄に画像を貼れないため、新トピのほうに関連画像を貼りました。そちらも、どうぞご参照ください。
■娘は皇室にさしあげたもので、もう正田のものではございません2012/05/11 (Fri)
資料本 美智子妃関係 FOCUS 1983年4月15日発行 新潮社
「英三郎氏の古希の祝いや、夫妻の結婚記念日には、やはりご一家揃って正田邸を訪問なさっている。正田氏側も、浩宮様の誕生日などで、東宮に招かれることが、ままあるようだ」
今回、西尾幹二がいい加減なことを吠えてる週刊新潮、おんなじ出版社なのよね。ホントにその時その時で好きなように書いてる(つまり捏造記事)ということがよくわかるわ。
「美智子妃の里帰りは全部でわずか十数回、親兄弟を交えて水入らずで賑やかに過ごす機会はほとんどなかった」
「吹上御所で天皇・皇后両陛下から会食の宴に招かれたことがついに一度もなかったという事実は、今日に伝えられていまさらのように驚かされる話である。」
正田夫妻の結婚記念日なんか1年に1回あるんだし、孫の誕生日は年に3回あるんだし、それでお互い行き来しているんだからいいんじゃない?
この他、小坂井先生の「浩宮の感情教育」は、先生たちを東宮御所に招待する時にもこの夫婦が来ていて「孫がお世話になりまして」と頭を下げるところから始まる。
西尾幹二に言わせると、その上で、さらに昭和天皇・香淳皇后は息子の嫁さんの親を一席設けて歓待しないのはけしからん、ということになるが?
どっちにしても、いい加減に「正田家はご遠慮してご立派」「小和田家は好き勝手にしてけしからん」のウソはやめなよ。
小和田氏が好き勝手に出来るようなら、雅子さまは適応障害なんかにならないよ。
むしろ、日清製粉が娘を皇室に嫁がせているという事実は、英三郎氏が銀座で省庁の役人や経団連のお歴々をご接待しなくても、やっていけたということなんだから。
アメリカの農務省の小麦販売担当は、アメリカの小麦戦略という本の中で、正田英三郎氏と知己を得たことで、アメリカ余剰小麦の販売成功の鍵を握ったって言ってますぜw
笹川良一が日清製粉の株買い占めをした時、当時の富士銀行会長岩佐氏(銀行協会会長だったと思うが)が仲裁に乗り出して、株を返させたんだよ。(だれもあの競艇のドンがタダで返したとは思っておらんけどねw)
護送船団方式で大蔵省の睨みが効いた頃だから出来たんだと思うよ。
しかし、こんな生臭い話を聞くと、小和田氏が国家公務員で良かったよ。
敬宮殿下も小和田のお祖父様の案内で国際司法裁判所を見学される機会がありますように。
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転載は、以上です。
ほんとうに、愛子様が、小和田のお祖父様のご案内で、オランダの国際司法裁判所を見学される日が来てほしいです。
すばらしい国際親善になるでしょう。なぜ、そういう配慮がなされないのか不思議です。
配慮がなされないどころか、意図的に忌避されているのではないかと思えます。
小和田氏が国際司法裁判所長という要職にあられたときも、ほとんど意図的に無視されていた気がします。
★ 新証言「母・富美子さんと密会のとき」 文藝春秋五月特別号 1
美智子妃のご成婚前から正田家に仕えて来た澤田喜一郎氏(仮名)がいまはじめて語る。
大宅荘一のいう「格子無き牢獄」にいる美智子妃を富美子さんはただ見守るだけだったのか。
澤田氏は「そんなことはありません」とこれを否定した。
「両殿下は御忍びでよく正田家にお見えになりました。
皆さんが思っている以上に来られています。
そのたびに私は『手伝いに来てくれ』と呼ばれるのです。私の役目は、侍従とか女官の相手をすることでした。
お母さまは、お二人が見えられるとほんとにうれしそうなお顔をされていましたね。
夕食はわりと中華料理が多かったと思います。
就寝時間があるのか、食事をすませると、お子様だけ先にお帰しになり、そのあと、
両殿下はゆっくりとすごされました」
美智子妃と富美子さんは思うように電話もできなかったといわれたが、
婚約発表の直後、正田家に引かれた東宮仮御所との直通電話が、ご成婚後は富美子さんの部屋に移され、 その後も使われていたという。
「お部屋にお茶を運んでいくと、お母さまがよく電話されていました。美智子様と
お話されているときはすぐわかるんです。にこにこされていますから」(お手伝いさん)
電話だけですまないときは、その足で東宮仮御所に向かった。
「仮御所には正田家の車で行っていました。あの頃はBMWだったかな。その前はオペルでした。
仮御所へはお一人で行かれることが多いのですが、ときどき英三郎さんと一緒のときもありました」(澤田氏)
とくに頻繁に訪れるようになるのは、浩宮を出産した頃だったという。
「赤ちゃんができると、いろいろ相談したいことがあったんじゃないでしょうか。女官には
頼めないものもあったようで、たとえば『これ、買っておいてね』と、頼まれたこともあったようです」(澤田氏)
「軽井沢の別荘」は、お忍びでよくいらしていました。
東京にある日清製粉のテニスコートを使うこともあったという。
「社員のための施設ですが、あのテニスコートは、生垣がびっしり茂っていて、外から
見えないんです。お忍びでテニスをするにはちょうどいいんですね。
殿下はテニスをしたあと、お風呂にはいって帰られました。五、六人ほど入れる湯船でしたね」(澤田氏)
それから正田家は鎌倉にも別荘があったので、両殿下は葉山に行かれたら、 帰りには鎌倉の別荘に立ち寄られたそうです。お母さまは週末から行っておられたとか。
英三郎氏と富美子さんのお墓は鎌倉霊園にある。
これだけでなく美智子様が清子さんを柿の木坂幼稚園に通わせたのは妹の家に近かったからとか(これも交流があったのでしょうね)
国民には知らされないご実家との交流は相当あったと見受けられます。
個人的には皇族であってもご実家との交流をされてもいいと思うし批判される程の事ではないと思いますが、
雅子様への強烈なバッシングを考えるとダブルスタンダードも甚だしいのではないかと疑問です。
それと黒田清子さんが目白で何年もお見掛けしない、皇居に出戻っているなどという噂があるのですが
それが事実ならば皇族の立場を離れた人が税金で暮らしているという話になりこちらの方が大問題になるのではないでしょうか?
親子であっても皇族と平民はケジメをつけた接し方が必要だと言うなら、清子さんについてもマスコミは言及するべきだと思います。
でも美智子さまも出席しています
ブログ「Mrs Oakley Fisher の台所から」の過去記事で、雑誌記事(画像)中、「美智子さまは正田英三郎さん御夫妻の結婚記念日などに行っている」旨の記述がありました
確か「明仁さま御一家が、日清製粉の中央研究所を見学した記事」に書かれていたと思います
ブログは過去にパスワードを取得した人のみ閲覧可なので私は現在、閲覧できません
どなたか閲覧できる方、雑誌名・号数を書き出していただけないでしょうか
ブログには正田英三郎さんと明仁さま美智子さまが写った別記事もあり、それは「軽井沢静養前の明仁さま美智子さまが、正田英三郎さんに案内されて日清製粉の記念館?工場?を見学」というものもありました
(すぐに軽井沢で正田家の方と会えるのに)「なかなか会えない」という説明がついていました
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オランダに来たときくらい会えば良いという声もあるようですが、東宮御所でも頻繁にお会いになっているし、昨年9月には馴染みの高級中華料理店で、小和田夫妻の金婚式の御祝いの会もなさっていると聞きました。妃殿下と長く”途絶状態”にある両陛下よりもその距離は近いのです。
*********
★雅子様とご両親は「頻繁に会っている」?
そもそも「頻繁に」とは、どういう頻度を指すのでしょうか。オランダに住む小和田夫妻が「御所で頻繁に会っている」とは思われず。滞在先のホテルで3時間半を一緒に過ごしただけで、複数の雑誌を使って大バッシングされる状態で、そんなことが可能でしょうか。昨年9月に会っていることは確かだとして、半年以上前ですよ。
★金婚式の御祝いを叩きの材料にする意地悪さ
両親の金婚式のお祝いで食事をしたことを叩きの材料にするとは、いつの時代の小姑かと思います。わざわざ「馴染みの高級中華料理店」と言うのにも、下品な小姑根性を感じます。
★「妃殿下と長く”途絶状態”にある両陛下」という嘘
皇太子ご夫妻は、4月に少なくとも2回、両陛下にお会いして食事を共にされていますね。
・「女性セブン」2013年4月25日号(同4月11日発売)
記事タイトル:「皇太子妃雅子さまオランダご訪問「極限決断」に外務省の冷眼
本文より:皇太子ご一家は、4月7日に御所を訪問されている。両陛下から”お昼を一緒に”とお誘いがあったため。
・「女性自身」2013年4月30日号(同4月16日発売)
記事タイトル:雅子さま涙の闘い! オランダご訪問へ 奮起の決意を阻んでいた「宮内庁の姑息」
本文より:4月10日は天皇皇后両陛下のご成婚54周年の記念日で、東宮御所でお祝いの夕食会が開催された。
★結論: ”手厳しい「千代田関係者」”というより、”皇太子妃とそのご実家を叩きたいあまり平気で嘘もつく「千代田関係者」”でしょう。
皇太子妃を守らなければならない立場のはずの「千代田関係者」が、皇太子妃を叩くために、嘘までついて週刊誌に悪口を書かせるとはどういうことなんでしょう。
「関係者」という書き方は巧妙で、千代田そのものなら役人としての責任を免れないところ、逃げていますね。
宮内庁は、この「関係者」がいったい誰なのか突き止めて、相応の処分をすべきではないですか。こうした怪しい「関係者」を野放しにするのは、皇太子妃殿下のご病気悪化を望んでいるとしか思えません。
河原敏明 著 イースト・プレス 刊
1993年2月20日 第1刷発刊
152p.
皇太子の幼いころ、誕生日に東宮御所から招かれると、富美子さんは鉄腕アトムの人形などをプレゼント、皇太子を大喜びさせた。
==========
毎夏、軽井沢にある正田家の別荘で、明仁皇太子一家と正田夫妻は過ごすことができた。
浩宮さまのお誕生日には、招かれて東宮御所を訪問した。
正田夫妻と美智子妃は、少なくとも年に2回は会っています。
Dianthusさんのお話を加えれば、年に3回は会っています。
正田家と美智子妃は全く交流できなかった、というのは語弊があるのではないでしょうか。
りました。
昭和35年10月7日 朝日新聞
羽田空港には、天皇皇后両陛下のお使いとして三谷侍従長が出向くほか、各皇族、ご親戚や正田英三郎夫妻、池田首相以下閣僚、外交団代表など約100人がお出迎えされる。
==========
本当に控えていれば、このような場所には出て来ないのではないでしょうか。
あまりに滞在期間が長いので?アーヤとサーヤは軽井沢の地元の保育園に通っておられました。
★秋篠宮さまや、黒田清子さん(紀宮さま)も通われたことのある、軽井沢町大日向地区の
「聖ヨゼフ保育園」が、今年度末で閉園することになった。
(以下略)
*+*+ YOMIURI ONLINE 2010/09/08[22:51:09] +*+*
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20100908-OYT8T00367.htm
1ヶ月も滞在しているのですから、一年一日ではなく、何日も気兼ねなく交流されていたのではないかと思うのですが。
一日しか会えない七夕になずらえるのは、ちょっと大げさすぎだと思います。
また、東京に戻られても、ちゃんと交流はなさっていたようです。
サーヤの幼稚園の授業参観に出席する美智子妃と正田富美子さん
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6a/03/614563c916ba81756ce6005f62e8502f.jpg
(アンチサイトより拝借)
むしろ、愛情細やかな交流こそが皇室の伝統のようですね。
(昭和62年10月12日 第一刷発行)
120 p
附属邸は海ぎわながら細長い庭にはスロープがある。
その木立に三脚を立て、キャンパスに絵筆を揮ったり(時には父栄三郎と並んで画策を立て)、
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これは、智子妃がブドウ胎児の処置なども重なりノイローゼになり、葉山御用邸で静養していた時の話です。
天皇家の人間しか使用できないはずの御用邸に、正田栄三郎という、実父であれ、一般民間人が足を踏み入れ、皇太子妃と共に過ごす事ができていたのですから、美智子妃が実家と全く交流が無かったとは言えないのではないでしょうか。
「美智子皇后」 河原敏明 著 講談社 刊
平成2年10月20日 第一刷発行
(平成4年11月5日 第十三刷発行より書き出す)
267p
ただ年に1回七夕の織姫と彦星のように、わりと無礼講に楽しめる日があった。
正田家の別荘に、東宮ご一家が来られるのだ。
警察や侍従、女官たちがいるから完全な団欒とはいえないが、この日ばかりはジジ、ババとしてお孫さんたちを抱きしめ、用意の玩具で遊んだり絵本を読んであげられた。
孫が長じては話相手になり、スポーツに興じることもできた。
==========
この話からも、正田家と美智子妃は滅多に会えなかった、とは言えないのではないでしょうか。