い王くら道道標は、美濃路とい王くら道の追分に立つ、い王くら道起点地道標です。い王くら道について色々調べましたが、明確に記載(説明)できるような資料(史料)は有りませんでした。美濃路の追分に立っています。美濃路の管理監督、管轄等をしたのは、幕府道中奉行です。幕府道中奉行が認めた、い王くら道道標について、書かれた資料は見られませんでした。資料がない事は不思議でなりませんでした。因みに、い王くら道は起点地から北へと通る道です。下小田井青果市場が始まると同じくして、利用された道です。下小田井青果市場が始まったのは、1610年頃(おおよそ)、い王くら道は、下小田井青果市場が始められたという事から、下小田井青果市場と野菜等を生産した農家の人との取引が行われたと考えられ、い王くら道は下小田井青果市場が始まった時、1610年頃から利用された道であるという事です。起点地は明確ですが、終点地は不明です。
因みに、下小田井青果市場は日本三大青果市場と呼ばれるほどの市場になり、中小田井村、西春村、大山寺村、遠くは岩倉村、江南、犬山からも野菜が運ばれたといわれ、農家の人が生産をした野菜等、い王くら道を通り運んだと考えられます。
い王くら道道標(私が知る限り、い王くら道道標は、下小田井村(現西枇杷島町)に立っていました。よって、この道標を立てたのは下小田井村であると思いました。い王くら道道標は、幕府道中奉行に立てるのを許可され立てられています。しかし、い王くら道道標について色々調べましたが何も分かりませんでした。なので、私は愛知県図書館に問い合わせをして尋ねましたが、い王くら道道標について書かれている著はないといわれました。)
江戸時代のい王くら道界隈絵
い王くら道についての岩田の見解
い王くら道は、美濃路との追分より犬山(北)へ通じる道という事です。美濃路は、幕府道中奉行の管理監督されていたという事から、現在の道路に例えるならば国道になります。い王くら道は犬山へ通じる道でした。犬山から南には犬山街道があったと思われますが、私は、犬山街道については調べておらず記載は出来ません。そこで、い王くら道起点地より北、犬山街道に通じるまでの道の事を調べました。『尾張徇行記』を読み取ると、岩倉街道、九之坪街道の記載があります。岩倉街道としているのは、中小田井村から大山寺村辺りまで。岩倉村の記載には、岩倉村には犬山街道があった事が記載されています。つまりは、岩倉街道という道は、中小田井村から大山寺村まで辺りまでの道という事です。い王くら道はどこが管理していたかについて記載します。幕府道中奉行が管理していた道ではありません。ではですが、尾張藩が管理していた道かを調べましたが、そのような記載は見ることがありませんでした。尾張藩が管理していれば、現在で言うならば県道という事になると思いますが、そのような道ではありません。名前には街道と記載していますが、い王くら道起点地より犬山街道に繋がるまでの道は村道になります。現在、い王くら道起点地より北にあった村は、市になっています。い王くら道起点地より北の道の補修は誰が、何処が行ったかを調べると、街道沿いの村がそれぞれ補修(維持管理)を行っています。西春村は庄内川の土砂を道の補修に使っているとされています。また、岩倉村は幼川(五条川)の土砂にて道の補修をしています。村道を現在に例えると市道という事になります。街道という名前は勝手につけられます。客観的にみて、い王くら道起点地より北には、江戸時代の街道と呼ばれる条件には当てはまる道は有りません、宿場も無し、一里塚もなしという事にて理解が可能かと思います。江戸時代以降に出来た街道の宿場は、明治5年頃、宿駅廃止制度の発令にて廃止になっていますが、現在、い王くら道起点地より北にある市史を見ましたが、そのような記載がありません。岩倉街道及び九之坪街道が街道ではなくなる事と思いますが、い王くら道起点地より北にある市、市史にはそのような記載がありません。以上の記載から、い王くら道起点地から北の道は村道であった。現在の道に例えるならば市道であったという事になります。つまり、実態は「岩倉村道」という事です。
因みに、岩倉街道を調べると、ほとんどの市史に、下小田井市場へ野菜を売りに行った街道と記載されています。起点地(終点地)、終点地(起点地)の明確な記載はされていません。市史の多くは、起点地は枇杷島橋西詰辺りとか、清須市西枇杷島町問屋町と橋詰町の境辺りと記載されているのを多く見ています。どちらも、美濃路という事になりますが、美濃路と記載されている市史は見た事がありません。