我が家のキッチンの カウンターに
頂き物の お茶が有ります
頑張れ熊本
みたいな事が書いてあります。
それを見て
「頑張りたくない時もあるは」
と私
60近くになるまで
ある意味 今でも
私 結構健気に
頑張り続けてきた と思うので
もういいよ
我が父は八十二で他界するまで
アルツハイマーの母と
生活を共にしていた
父の方は頭は はっきりしていた
(これが 辛さの原因)
母の方は身体が達者だった
家事一切をテキパキとこなす
しかし頻繁に 鍋を焦がしていた
それを横で見ていた父は
身体が 思う様に 動かなくなっても
心配で 心配で ますます心労が増した様だ
私の三つ違いの妹が
「お父さん もうそんなに
頑張らなくても 良いんだよ
お母さんは アルツハイマー専門のグループホームに入ってもらったから」
と語りかけた後
数日後に逝った
ホッとしたのだろう
アルツハイマーの母を
残しては行けないと
ずーっと心の重荷になっていた様だ
責任感の強い人だった
二人共
若い頃は
頼りにならない 父親(私の祖父)
に代わって 家族を支え
その為に父と母との結婚は
30近くになってからだった
その後も夫婦で
父の実家を
サポートし続けた様だ
祖父母を看取り
弟を看取り
父の弟や妹達は
私たちの家庭を
尊敬してくれた
立派な両親だったと思う
父は長く日ソ貿易に従事し
ハバロフスクの街から
名誉市民の称号を与えられ
市の高校の卒業式に招待され
祝辞を述べる様な名誉にも預かった
彼の口癖は
「一度お前をナホートカに
連れていきたいな」だった
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