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2023(令和五)年十一月五日(日)曜日の初記事ですヨ(=^◇^=)


 スタンフォード大学フーヴァー研究所:西鋭夫教授
 来日講演「2023年を前に直接伝えておきたい想いと真実」
‡2022(令和四)年11月05日(土) 13:00~16:00 形式:オンライン配信につき、ご自宅にてご覧いただけます
 https://in.hooverreport.jp/nihoov_nilive2211_online_500_adw_hd5?cap=yt_kankoku&gclid=Cj0KCQjwnvOaBhDTARIsAJf8eVMuTRXQDsjc2GiHucELN6nYnpmOwxyWRc8liPFPhvKlr3lspiVPsf0aAgujEALw_wcB

 ABBA復活記念、究極の名曲トップ25
 2021(令和三)年11月06日(土) 10:00 Rob Sheffield ローリングストーン日本版 From Rolling Stone US.
 ABBA、40年ぶりのニューアルバム『Voyage』がついにリリースされた。偉大なるポップグループの復活を記念して、誰もが口ずさめるヒット曲、隠れた名曲、ファンのお気に入りまで再検証。ABBAブームが再びやってくる。大ヒット映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』では、シェールが「悲しきフェルナンド」を歌い上げた。もしくは、第1作目の『マンマ・ミーア!』で、メリル・ストリープとピアース・ブロスナンが「SOS」をデュエットしたシーンを思い出すかもしれない。70年代のラジオは、北欧スウェーデン出身のポップスターが席巻した。白いパンツスーツに厚底ブーツを履いたスカンジナビア版フリートウッド・マックとも言えるビヨルン・ウルヴァースとアグネタ・フォルツコグ、ベニー・アンダーソンとアンニ=フリード・リングスタッドの2組の夫婦が、別れや破滅をテーマにした曲を次々とヒットさせたのだ。スウェーデンから世界のスターになった彼らの音楽は、きらびやかさの裏で怒りと絶望に満ちていた。ヒット曲は彼らの一部分でしかない。アルバムには、まだ多くの宝が眠っている。彼らの再結成とニューアルバムは、ABBAフリークですら想像し得なかった事態に違いない。北欧の神々に敬意を表しながら、ABBAの作品から厳選した25曲をランキング形式で振り返ろうと思う。よく知られたヒット曲だけでなく、荘厳な曲から笑える作品までさまざま。夜は始まったばかり、音楽は最高潮だ(Night is young and the musics high)。
25位 1980年「Super Trouper」前髪を垂らしたのがビヨルンで、髭をたくわえたのがベニー。ブルーネットがアンニ=フリードで、ブロンドがアグネタだ。ビヨルンとベニーが書き、アンニ=フリードとアグネタが歌の大部分を担当したヒット作。元々はビヨルンとアグネタ、ベニーとアンニ=フリードがそれぞれ夫婦だった。破局した2組が心の内をぶちまけた、涙を誘うメロディアスな楽曲。”ただ歌って食べて寝るだけの生活/これが最後のステージならいいのに”と歌う、ツアー続きの孤独な生活に疲れたディーバのバラードだ。しかしステージ上ではスターらしく振る舞い、ファンの前では痛みを見せられない。華麗な仮面の下には、中年期の悩みがあった。ABBAの全ての物語が詰まっている。「学校に行ってみたかったな」人身売買の末亡くなった少女の言葉に、日本の大学生が始めた活動を30秒で支援!
24位 1973年「Disillusion」デビューアルバムに、”幻滅”などというタイトルの曲を収録するアーティストが他にいるだろうか? ABBAはどんなに陰気なグループだろう、と誰もが思ったに違いない。アグネタが作詞・作曲にクレジットされた最初で最後の楽曲。彼女はこの時すでに、将来訪れる失意の時を予感していたようだ。
23位 1982年「Under Attack」80年代に入り、ABBAは空中分解寸前で、音楽も明らかに減退していた。1982年の終わりにリリースされた本シングルは、彼らの最後の砦。ベスト盤『The Singles: The First Ten Years』向けに、ABBAの最後の作品としてレコーディングした。メンバーは、自分たちに次の10年はないと悟っていた。離婚を経験して売り上げも低迷する中で作られた楽曲。恋人の幻影に追い回される様子を、ヴォコーダーによる気味の悪いコーラスで表現した、幻影的で寒々しいシンセポップ。
22位 1977年「Hole in Your Soul」シンセサイザーとギターが炸裂するプロト・インダストリアル・ミュージックで、”心の穴を埋めるロックンロール!”と繰り返すノリのよいコーラスが印象的。(あり得ないが)若きトレント・レズナーが参考にしていそうな曲。その名も『The Album』というアートロックのアルバム(1972年)に収録された隠れた名曲で、まるで『Pretty Hate Machine』(訳註:ナイン・インチ・ネイルズのデビューアルバム)ばりにゴリゴリのロックだ。
21位 1976年「When I Kissed the Teacher」ABBAの作品には、疎外感(「Sitting in a Palmtree」)や苦悩(「Tropical Loveland」)、全人類滅亡に対する病的な恐怖(「Happy New Year」)に満ちている。ところが本曲では、スウェーデンの学校制度に挑戦。セクシーな幾何学の先生への想いを抑えきれない女子生徒の気持ちを歌った、無邪気なバブルガム・ミュージックだ。70年代とは奔放な時代だった。
20位 1979年「Gimme! Gimme! Gimme! (A Man After Midnight) 」ABBAのナイトライフのダークサイド。不気味な電子音のストリングスが、ストックホルムにある営業時間外のバーでの卑猥な情景を思わせる。本作のデス・ディスコ・サウンドは、ザ・レザー・ナンをはじめとする80年代のヨーロッパのダンス・ミュージックに影響を与えた。「F.F.A.」で有名なレザー・ナンによる1986年のカバーバージョンは、怪しげなアンダーグラウンド・クラブ曲になった。また、マドンナは2006年の大ヒット曲「Hung Up」に本作のシンセのフックをサンプリングし、退廃的なオリジナルのノリを再現した。
19位 1976年「Dum Dum Diddle」ABBAのお得意な三角関係をテーマにした曲。シャイな女の子がある男の子を好きになるが、彼は恋愛よりもバイオリンに夢中になっている(”あなたは寂しげ/でも笑顔になるのは/バイオリンを弾いている時だけ”)。彼女はバイオリンを押しのけて、彼のハートを掴めるだろうか。それとも”ダム・ダム・ディドル/あなたの愛しのフィドル”と歌い続けるしかないだろうか。ABBAの歌う傷つきやすい魅力は、70年代に青春時代を過ごしたカート・コバーンらを虜にした。カートが、ABBAのトリビュートバンドであるビヨルン・アゲインを、ニルヴァーナのオープニング・アクトとして招いたのは有名な話だ。
18位 1981年「One of Us」1977年、ABBAのマネージャーだったスティグ・アンダーソンがローリングストーン誌に明かしたところによると、彼はかつてスウェーデンの映画監督イングマール・ベルイマンに対して、なぜスウェーデンのポップ曲を自身の映画作品に採用しないのか尋ねた。「彼は何も答えなかった。しかし彼の次作のタイトルは、”沈黙”だった」という。残念ながらイングマールとアグネタのコラボレーションは実現しなかったものの、「One of Us」はABBA作品の中で最もベルイマン風のメロドラマだと言える。エイス・オブ・ベイスばりの明るいトロピカル・ビートに乗せた『ある結婚の風景』(ベルイマン監督のテレビ番組)のようだ。偶然ではないが、「One of Us」は2組のカップルの離婚後初のシングルだった。シェールは自分にとってパーフェクトな楽曲だとして、ABBAのカバーアルバムで本作を取り上げた。
17位 1974年「King Kong Song」(邦題:キング・コングの歌)ギターのパワーコードを駆使したグラムロック調の楽曲で、”キング・コングの曲を歌おう/あいつが打ち鳴らす音が聞こえるか”と歌う。英国チャートを席巻したスレイドやスウィートらの大ヒット作に通ずるものがあるが、ABBAは常にABBAらしいやり方を貫いた。”私たちが歌うのはファンキー風の曲”と歌う彼らは、”?風”(kinda)の定義をどこまでも拡げた。
16位 1976年「Money, Money, Money」ビヨルンのキャリアは、スウェーデンの純フォークグループ「フーテナニー・シンガーズ」から始まった。「史上最悪のグループ名だ」とビヨルンはかつて語っている。しかし「酷い名前だったが、ABBAには負ける」と付け加えた。中央ヨーロッパのシュラーガー・ミュージックを思わせる「Money, Money, Money」は米国人にとって、新鮮でエキゾチックに聴こえたに違いない。ABBAはシュラーガー・スタイルで盛り上げつつも、虎視眈々と「リッチな世界」を狙う。ボルボに次ぐスウェーデンからの輸出額を誇るグループに、相応しいテーマだ。マンマ・ミーアの周辺では現金が全てを支配する。
15位 1982年「The Day Before You Came」ザ・ビートルズの「I Me Mine」や、ザ・スミスの「I Keep Mine Hidden」に見られるように、大物ポップグループが最後にレコーディングする曲は、駄作になりがちだ。しかしABBAの場合は、ダークウェイヴの驚くべき傑作になった。アグネタが、スウェーデンのオフィスワーカーのありふれた日常を、分刻みで語る。主人公は、仕事から帰宅後にテレビ番組『ダラス』を見て、(マリリン・フレンチの最新刊など)フェミニストの小説を読むのが楽しみになっている。単調な生活が変わるかどうかは定かでない。良くなるのか、それとも悪くなるのか、先のことは誰にもわからない。本作を聴くと、デペッシュ・モードの『Violator』に収録された「Policy of Truth」や「World in My Eyes」が思い起こされる。アグネタは、スタジオの照明を落としてボーカルのレコーディングを行なったという。歌い終わると彼女は、そっと出ていく。パーフェクトだ。
14位 1976年「Tiger」ABBAによるロックソングの傑作のひとつ。アグネタとアンニ=フリードが、自分たちの荒々しい性欲の強さを誇示する(「Rock Me」や「Bang-a-Boomerang」にも共通するものがある)。本作で2人は、”出会った男を/食べてやる/私はタイガー!”と、ストックホルムのコンクリートジャングルを徘徊しながら若い男を狙う凶暴な虎を演じる。ラストは、身の毛もよだつ叫び声で締め括られる。
13位 1977年「Thank You for the Music」”私は特別ではない/実際に退屈な人間だし”という歌い出し。ABBAは最も純粋なラブソングに、自分たちの信条を集約した。決して自分たちを裏切らない、音楽に対する強い情熱をバラードに込めている。ラッシュの「The Spirit of Radio」と比較すると、全く相容れないように見える2つのグループに、興味深い共通点が見つかるだろう。ビヨルン、ベニー、アグネタ、アンニ=フリードはスウェーデン版ラッシュだったのか? 或いはゲディー、ニール、アレックスの方が、カナダ版ABBAなのかもしれない。
12位 1976年「Fernando」(邦題:悲しきフェルナンド)”フェルナンド、ドラムの音が聴こえるか?”と歌う本作は、ABBAのバラード曲の中で最もヒットした作品のひとつ。スウェーデンとメキシコの国境沿いのとある国で革命を戦う同志の物語を、星空の下のキャンプファイアーを囲んでギターをかき鳴らしながら歌う。映画『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』では、アンディ・ガルシア演じるフェルナンドを前に、ルビー(シェール)が本作を歌い上げる。本作はABBAとしてレコーディングする以前に、アンニ=フリードが1975年のソロアルバムで歌った。同作では他に、ビーチ・ボーイズの「Wouldnt It Be Nice」やデヴィッド・ボウイの「Life On Mars?」をスウェーデン語で歌っている。
11位 1979年「Does Your Mother Know」ビヨルンがリードする本ヒット曲は、あるグルーピーを若すぎるという理由で拒絶する内容の、70年代のレア中のレアな作品だと言える。正に時代遅れだ(同時期には、ロッド・スチュワートの「Hot Legs」、フォリナーの「Hot Blooded」、ニック・ギルダーの「Hot Child in the City」をはじめ、”ホット”をタイトルに冠した、モラル的に受け入れ難い数多くのヒット曲があった)。スウェーデン各地の村には、「母親は君が外出していることを了解しているか?」とビヨルンに言わせたのは私よ、と言い張る60歳を超えたお婆さんが少なくとも1人ずついる。
10位 1974年「Waterloo」(邦題:恋のウォータールー)結成当初のABBAは、他のスウェーデンのグループと同様に将来が期待されていた。つまり、鳴かず飛ばずの4人組フォークグループだったのだ。しかし、あからさまなデヴィッド・ボウイへのトリビュートとも言える本作が、1974年にユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表になってからは、状況が一変する。本作で大会に優勝したABBAは同時に世界的な名声も得て、米国では初めてトップ10入りも果たした。当時はまだ英語で歌うことに慣れていなかった彼らだが、それがかえって魅力だった。米テレビ番組『サタデー・ナイト・ライブ』に出演した彼らは、口パクだったもののタイタニックのセットで本曲を披露した。
09位 1977年「Take A Chance On Me」男女の声が複雑に絡み合う冒頭20秒間の絶妙なアカペラをよく聴こうとボリュームを上げすぎて、ステレオヘッドフォンを壊してしまった少年少女も多かっただろう。アグネタが”ねえ、もう許してくれる?”と囁きながら、セクシーに誘いをかける。本作には、細部に至るまで正確なABBAのテクニックが凝縮されている。1992年にはイレイジャーがアルバム『ABBA-esque』で、本作のブリリアントなバージョンを聴かせている。90年代におけるABBA最大のライバルの出現だった。
08位 1980年「The Winner Takes It All」(邦題:ザ・ウィナー)感動的なピアノに乗せてアグネタがソロで歌う、別れのバラード曲の傑作。映画『マンマ・ミーア!』の拍手喝采のシーンで流れる本曲は、映画『スティーヴとロブのグルメトリップ』の心を打つシーンにも登場する。2人の中年男が高速道路を走行中に、「The Winner?」を順番に歌いながら、叶わなかった少年時代の夢を思い返す。感動的なシーンにはABBAの曲が合う、ということだ。
07位 1981年「The Visitors」ABBAは作品をリリースするごとに、より奇妙で、より不気味にニヒルさを増して行く。そして80年代に入ってついに、「ザ・ヴィジターズ」というシンセポップの隠れた名曲へと行き着いた。本作は冷たいピンク色をした6分間のエレクトロ曲。幽霊屋敷に閉じ込められた状況で(”この壁は、あらゆる屈辱の苦悶を目撃してきた”)、ロボットビートに乗せて”もうメチャメチャになりそう!”と繰り返す。大ヒットとはならず、映画のサウンドトラックに採用されることもなかったが、この曲はABBAが最後まで実験を続けていたことの証だと言える。
06位 1975年「Hey, Hey Helen」離婚した子持ちの主婦を応援するグラムロック・アンセム。主婦層は、ABBAが登場するまで、ラジオを積極的に聴く視聴者層ではなかった。本作は70年代に盛り上がったフェミニズムをテーマにした、初期のポップソングのひとつだった(”あなたが払った代償は/今どきの女性になるためのもの”)。ベルボトムを履いたアンニ=フリードとアグネタが、新たな冒険に出るヘレンに声援を送る。ABBAのロックのパワーは決して侮ってはいけない。キッスが「Calling Dr. Love」に流用するほど、本作のギターリフはヘヴィなのだ(ビヨルンとベニーによるフェミニズムを前面に押し出した楽曲を、ジーン・シモンズが借用した。つまりジーンはABBAの熱烈なファンで、彼も趣味が良いということだろう)。本作が映画『マンマ・ミーア!』から外れていたのは驚きだが、続編にも含まれなかったABBAの作品の中で、間違いなく最高の楽曲だと言える。シェール、メリル(・ストリープ)、(クリスティーン・)バランスキーが総出演する『マンマ・ミーア3:ターン・バック・タイム』で、本作が流れることを祈ろう。
05位 1975年「Mamma Mia」ビヨルンとベニーは、シロフォン使いの天才だ。本曲では彼らの才能が十分に発揮され、さまざまな音がひとつの曲に詰め込まれている。苦しいが止められない恋の悩みを歌った3分半の「マンマ・ミーア」は当初、米国やヨーロッパでは受け入れられず、トップ40に入るのがやっとだった。サウンドが明るすぎたようだ。ところが今や、ABBAの伝説の中心に位置する曲になっているから驚きだ。当時にしてはアバンギャルドなポップ曲だったのは、間違いない。デヴィッド・ボウイの『Low』や『Heroes』を聴いてみて欲しい。シン・ホワイト・デュークも、頭の中で「Mamma Mia」が流れ続けて離れないファンの一人だったことがわかるだろう。
04位 1975年「SOS」ジョイ・ディヴィジョンや初期ザ・キュアーの曲を聴いてから本作を流してみると、ABBAがいかに”ゴス”的だったがわかる。哀愁を帯びたピアノの旋律からシンセサイザーが加わって過剰なまでの盛り上がりを見せる「SOS」は、後のニューウェイヴやポストパンクのアーティストたちに大きな影響を与えた、煌びやかな北欧のメランコリーを表現している(トリビア:ヒットチャート入りした曲名とアーティスト名の両方が回文になっているのは、SOS/ABBAが唯一の事例。)「ABBAは、中高年の抱える問題を曲のテーマに取り上げた最初の国際的バンドだろう」と、おそらくABBAファンではないピート・タウンゼントが、ローリングストーン誌のカバーストーリー(1982年)で語っている。「米国にいる時にラジオで『SOS』を聴いた。後からアーティストがABBAだと知ったが、その時は既にこの曲に魅了されていた」と彼は告白した。
03位 1977年「The Name Of The Game」(邦題:きらめきの序曲)あらゆることに挑戦してきたABBAは、『The Album』という地味なタイトルでプログレッシヴの大作を手がけている。結果、フリューゲルホルンと教会オルガンに、「ドゥー、ドゥー・ドゥー」と囁くようなコーラスをフィーチャーした叙事詩が生まれた。ただし内容的には、シャイな女の子が少しだけ勇気を出して気取ってみるという、よくある話だ。「恥ずかしがり屋の子ども」が2度会っただけの相手に片想いして思い悩むという、テイラー・スウィフト的な歌詞の原型がここにある。”私は知りたい/もちろん知りたい!/この駆け引きが何なのか!”と歌うABBAの率直さは、女性たちの共感を呼んだ。
02位 1976年「Knowing Me, Knowing You」ABBAと言えば、タイトなライクラのパンツスーツと悲劇的な失恋の組み合わせだ。キャロル・キングの『Tapestry』やフリートウッド・マックの『Rumours』のように、70年代のABBAもまた、破綻した結婚生活の上にハーモニーを重ねて覆い隠した。アグネタとアンニ=フリードは、思い出の詰まったがらんとした家の中を歩きながら、子どもたちの遊んだ部屋にさようならを告げる。静かに始まる「Knowing Me, Knowing You」は、心の痛むメロドラマへと展開する。最後は「ああ、そうね」と半分あきらめながら納得するのだが。クライマックスは、曲の始まりから3分後に訪れる。女性がもう一度、これまで住んだ家を振り返るものの、気が変わる前に急いで立ち去るのだ。
01位 1976年「Dancing Queen」バンドの最も有名な曲が、本人たちのベストソングになることだってある。ポップスターの中のポップスターだったABBAは、誰にでも受け入れられる音楽を作っていた。だから、彼らが最も輝いた瞬間と彼らが広く愛されていた時期が重なるのは、詩的な意味でも納得がいく。「Dancing Queen」は、心の中でディスコの女王を夢見る女の子たちのアンセムとなった。周囲から見れば、ダンスフロアにたたずむシャイな少女でしかないのだが。アグネタとアンニ=フリードが「タムバリーン…オー、イエーイ」と、喜びを爆発させる(この2人ほど”タンバリン”というフレーズを心地よく歌える者はいないだろう)。オープニングのピアノのグリッサンドから、誰でもフェロモン全開になるだろう。女の子が主役で、男の子はただの使い捨ての小道具でしかないダンスフロアでは、(1)ダンスする、(2)ジャイブする、(3)最高に楽しく過ごす、の意味を誰もが知っている(”誰でもキングになれる”とは、ABBAらしいフレーズだ)。あの娘を見て、あんなふうに踊ればいい、あなたもダンシング・クイーンになれる。
『Voyage』(邦題:ヴォヤージ)
‡2021(令和三)年11月05日(金) 全世界同時発売
※日本盤CDはすべてSHM-CD仕様試聴・購入:http://umj.lnk.to/ABBA
 スタンダード・エディション(1CD)価格:¥2,750(税込)
 with 『アバ・ゴールド』(2CD)限定盤 / 価格:¥3,960(税込)
 今年7月に全英アルバム・チャートで1,000週チャートインした初のアルバムという大記録を樹立し、 日本でもミリオンセラーを記録している全19曲入りベスト・アルバム『アバ・ゴールド』をプラスしたCD2枚組の日本独自企画盤。
 with 『アバ・イン・ジャパン』(CD+2DVD)限定盤 / 価格:¥5,500(税込)
 現在は入手困難な『アバ・イン・ジャパン』をプラスしたスペシャル価格の日本独自企画盤。1978年にプロモーションで初来日した際に制作された伝説的な特別番組「アバ・スペシャル」でのスタジオ・ライヴをDVD 1に収録。DVD 2には1978年、 1980年3月に実現した初来日公演時のそれぞれ来日ドキュメンタリーを収録。
 with 『エッセンシャル・コレクション』(CD+DVD)限定盤 / 価格:¥5,500(税込)
 日本初発売となる全36曲入りのDVD『エッセンシャル・コレクション』をプラスしたスペシャル価格の日本独自企画盤。 日本では今回が初めてのリリースとなる同作は、 日本でも一連の代表的ヒット曲のミュージック・ビデオをはじめ、珍しいビデオ・クリップ、 スペイン語ヴァージョンのMVも収録。
 ABBA日本公式ページ:https://www.universal-music.co.jp/abba/
 https://news.yahoo.co.jp/articles/c735c5dbf7a033d2f37efcdf9f11130612f1f0f4

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 ┃ 『衝撃の瞬間』season6 ┃
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①2012(平成24)年11月01日(木) ep.1「集団自殺とカルト教団」
 1978(昭和53)年11月18日(土) 南米ガイアナのジョーンズタウン。ここで、ある宗教団体による大規模な集団自殺が行われ、多くの米国市民が犠牲となった。世界中を震撼させた猟奇的事件の真相とは
②2012(平成24)年11月08日(木) ep.2「炎に包まれたコックピット」
 1998(平成十)年09月02日(水) 乗員乗客229名全員が命を落とすという大惨事となったスイス航空111便の墜落事故。原因はコックピットの火災だった。いったい機内で何が起きたのか。今、その全容が明らかに
③2012(平成24)年11月05日(月) ep.3「ブラックホーク・ダウン」
 1993(平成五)年10月03日(日) ソマリア、モガディシュで行われた米軍、特殊部隊による奇襲作戦
 1993(平成五)年10月04日(月) ソマリア、モガディシュで行われた米軍、特殊部隊による奇襲作戦。米兵、ソマリア兵ともに多くの犠牲者を出したこの作戦の問題点とは。関係者の証言をもとに検証していく
④2012(平成24)年11月19日(月) ep.4「エベレスト大量遭難事故」
 1996(平成八)年05月10日(金) エベレスト下山途中で起きた大量遭難事故
 1996(平成八)年05月11日(土) エベレスト下山途中で起きた大量遭難事故
 1996(平成八)年05月12日(日) エベレスト下山途中で起きた大量遭難事故。原因は、猛烈な吹雪と人為的ミスによるものだった。気象条件や登山者の心理など、高地での危険性をあらゆる角度から検証する
⑤2012(平成24)年11月29日(木) ep.5「日本航空123便墜落事故」
 1985(昭和60)年08月12日(月) 多くの犠牲者を出した日航機墜落事故。離陸のわずか45分後にその悲劇は起きた。原因は機体後部の損傷。事故は本当に避けられなかったのだろうか。専門家が分析する
⑥2012(平成24)年12月02日(日) ep.6「福知山線脱線事故」
 2005(平成17)年04月25日(月) 100人以上が命を落とし、多くの負傷者を出したJR福知山線脱線事故。その現場は目を覆いたくなるような光景だった。なぜ脱線してしまったのか。原因を究明していく
⑦2012(平成24)年07月22日(日) ep.7「ノルウェー連続テロ事件」
 2011(平成23)年07月22日(金) ノルウェーの首都オスロで起こった政府庁舎爆破事件。そして同日に起こったウトヤ島の大量虐殺。この連続テロ事件の犯人は、移民排除を主張する国粋主義者の男だった
⑧2012(平成24)年12月02日(日) ep.8「駆逐艦コベントリー沈没」
 1982(昭和57)年03月19日(金)から
 1982(昭和57)年06月14日(月)まで、フォークランド紛争。英コベントリー、ブロードソード両戦艦はアルゼンチン空軍の攻撃を受け、撃墜される。多くの犠牲者を出した結末の裏には不運な偶然が…
⑨2012(平成24)年12月02日(日) ep.9「チヌーク空軍ヘリ墜落事故」
 1994(平成六)年06月02日(木) 政府の要人を乗せたイギリス空軍のヘリコプター、「チヌーク」が墜落、衝撃が走った。事故後の調査結果は物議を醸すことに。墜落の真の原因は何だったのか
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%AF%BA%E9%99%A2
②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E8%88%AA%E7%A9%BA111%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
③https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%82%AC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%81%AE%E6%88%A6%E9%97%98
④https://ja.wikipedia.org/wiki/1996%E5%B9%B4%E3%81%AE%E3%82%A8%E3%83%99%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E5%A4%A7%E9%87%8F%E9%81%AD%E9%9B%A3
⑤https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%88%AA%E7%A9%BA123%E4%BE%BF%E5%A2%9C%E8%90%BD%E4%BA%8B%E6%95%85
⑥https://ja.wikipedia.org/wiki/JR%E7%A6%8F%E7%9F%A5%E5%B1%B1%E7%B7%9A%E8%84%B1%E7%B7%9A%E4%BA%8B%E6%95%85
⑦https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%AB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%BC%E9%80%A3%E7%B6%9A%E3%83%86%E3%83%AD%E4%BA%8B%E4%BB%B6
⑧https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89%E7%B4%9B%E4%BA%89
⑨http://www.shippai.org/fkd/cf/CA0000429.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A1%9D%E6%92%83%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93
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 ┃フィンセント・ファン・ゴッホよりテオ宛書簡 No.403┃
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‡1883(明治16)年11月05日(月)頃 ニーウ・アムステルダム『1958年版書簡集339a』
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B#.E6.89.8B.E7.B4.99.E3.81.AE.E5.87.BA.E5.85.B8

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 ┃「なんでんかんでん」復活の知られざる舞台裏┃
 ┃完全閉店から3年、川原ひろしが帰ってきた┃
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 ビジネス井手隊長のラーメン見聞録
 2018(平成)年10月20日(土) 6:00 井手隊長:ラーメンライター/ミュージシャン
 環七ラーメン戦争――。東京都大田区を起点として世田谷区、杉並区、練馬区、北区、足立区、葛飾区などを経て、最終的には江戸川区に至る東京都道318号環状7号線は、通称「環七(かんなな)」「環七通り」と呼ばれる。東京23区内をグルッと走れる環状道路の一般道としては最も外側に位置し、交通量も多い。そんな環七の沿道にラーメン店が多数現れ、タクシーや一般乗用車がお目当ての店を求めて走り回っていた時期がある。ピークは1980年代後半から1990年代。それをメディアは「環七ラーメン戦争」と呼んだ。
■「なんでんかんでん」が復活オープン■そんな環七ラーメン戦争を象徴したお店が、世田谷区羽根木に本店を構えていた「なんでんかんでん」である。1987年にオープン。福岡出身の川原ひろし社長が、まだ東京では人気がなかった豚骨ラーメンを看板メニューとして打ち出し、大人気を博した。大繁盛するラーメン店の店主としてメディアに引っ張りだこだった川原氏を、一躍スターダムに押し上げたのが、2001~2004年に日本テレビで放送されていた「\マネーの虎」だろう。起業を考えている人が提案するビジネスプランの審査員で、投資家として出資役も担うレギュラー出演者の1人が川原氏だった。今の30~40代以上の読者なら、記憶している人も少なくないはずだ。だが、その後の2012年11月に「なんでんかんでん 東京本店」を閉店、2015年には全店を閉めた。川原氏はいったん表舞台から姿を消していた。その川原氏が再び脚光を浴び始めている。今年9月、杉並区高円寺で「なんでんかんでん」が復活オープンを遂げたのがきっかけだ。なぜ、なんでんかんでんは一度、撤退を強いられ、そして復活を遂げられたのか。川原氏の生い立ちから、なんでんかんでんの栄枯盛衰をひも解きながら、その系譜をたどっていこう。
 写真◆高円寺になんでんかんでんが復活オープンした(筆者撮影)
→次ページ歌手を目指して福岡から上京
 福岡出身の川原社長は1964年生まれ。幼い頃から歌唱の勉強をしており、歌手を目指して1983年に上京した。知人の講談師が、当時人気だった漫才師「Wけんじ」の付き人兼前座歌手となり、その後弟子入り。全国のイベントで司会を務め、漫談や歌を披露していた。昔からラーメンが好きで、福岡でよく食べていたという。福岡といえば博多豚骨ラーメン。川原氏にとって、「ラーメンとは豚骨ラーメン」だった。18歳の頃、豚骨ラーメンの食べすぎで体調を悪くしたことがあるぐらいだ。東京に来て醤油ラーメンを食べてみたものの口に合わず、豚骨ラーメンを出すお店もいくつかあったが、いわゆる博多豚骨のような濃厚なラーメンはまったく見つからなかった。
■東京に来て初めて出会ったうまいラーメン■ある日、師匠のWけんじを乗せて車を運転していたときだ。板橋区常盤台あたりの環七沿いに大行列を発見した。1軒のラーメン屋だった。気になったので行列に並び、ラーメンを注文。すると出てきたものは背脂ギトギトのラーメン。このお店の名前は「土佐っ子ラーメン」。川原氏が東京に来て初めて出会ったうまいラーメンだった。「土佐っ子が受け入れられるなら博多豚骨もいけるはず」そう考えた川原氏は毎日ラーメンのことばかり考えるようになる。夢にまで出てきたという。以前は、「ラーメンは好きだがラーメン屋はカッコ悪い」というイメージを持っていた川原氏だったが、行列をさばきながらラーメンを作り続ける、土佐っ子ラーメンの店主がカッコよく見えた。ラーメン屋でもこれだけはやるのはカッコいい。「歌はいつかできればいい。自分はラーメン屋になるぞ」。そう決心したという。ペンとメモだけを持って屋台のラーメン屋を訪れ、店主にラーメンの作り方を教えてもらい、あとは実家に帰ってラーメン作りの研究にいそしむ。豚骨ラーメンのお店はいくつかあったがまだブレイクしていない。本格的な博多豚骨ラーメンを出せば確実に目立つ。「とにかく早く開店したい!」。そんな思いで必死に研究を重ねた。「先にやるが勝ち」という考えは、川原氏のDNAに刻まれていた。実は川原氏の大叔父は明太子の発明の親「ふくや」の創業者である。明太子の先駆者である「ふくや」の飛躍を目の前で見ていた川原氏には、とにかく目立つためには誰より先にやることというポリシーがあったのだ。ラーメンが完成した後は、物件探し。とにかく場所も目立つところにと考えており、大きい道路である環七は候補の1つだった。世田谷区羽根木の場所は条件面から一度断っていたが、調べてみると「吉方(きっぽう)」(縁起のいい方位)に位置していることがわかり、再度交渉して出店を決めた。
 写真◆なんでんかんでんの豚骨ラーメン(筆者撮影)
→次ページ知人のデザイナーに店名について相談
 今度は店名だ。知人のデザイナーに店名について相談したところ、「店の名前なんて、なんでんかんでんよかろうもん(なんでもいいじゃない)」という返事が返ってきた。「なんでんかんでん」とは九州の方言で「なんでもかんでも」という意味。川原氏はこの言葉の響きにピンとくる。「ん」という文字は言霊でお客様をとどまらせるという意味もある。そのまま「なんでんかんでん」を店名にし、このデザイナーにロゴの制作を依頼する。そして開店準備に入った。レシピは実家で作っていたのであとはお店でその味を再現すればいいわけだが、ここで問題が発生する。東京の問屋に豚頭を注文すると、何と豚の頭そのままの形のものが届いたのだ。豚頭の「ガラ」がなかったのである。ガラを持っている問屋を何とか探し出し、譲ってもらう。もともと捨てている部分だったということもあり、1つ10円という破格で売ってもらう。
■環七ラーメン戦争の中心的なお店へと一気に成長■
 1987(昭和62)年07月08日(水)のオープン当日。とにかく目立ってお店を話題にしたかった。オープン当日は全品半額にすると宣言、開店前から100人以上の人が並ぶ。さあ開店しようとその日のスープをチェックすると一気に顔が青ざめた。これはお客さんには出せない。スープの出来が悪くてこの日はオープンできず、行列するお客さんに平謝りした。今では笑い話だ。こうして「なんでんかんでん」はオープンした。ただ、開業当初の2年は赤字に苦しんだ。家族からも「やめろやめろ」と言われ、あっという間に瀬戸際に立たされていた。一方で、少ないもののお客は毎回同じ人が来ていた。リピーターが多かったのである。そのうち2~3人の行列ができる日も出てきた。それを聞きつけた雑誌『フロムエー』が行列のできるお店特集ということで取材に来た。それがすごい反響となった。なんでんかんでんの豚骨ラーメンは食べてもらえば、クセになってもらえる自信があった。とにかく人に来てもらうためには取材してもらうしかない。そう考えた川原氏は雑誌を30~40冊買いあさり、片っ端から編集部に電話をしてFAX番号を聞き、リリースにクーポン券を付けて送った。すると取材が殺到。当時は雑誌の影響力は高く、その後テレビ取材も殺到。人気は一気に加速した。1日20万円だった売り上げが120万円になった。13坪で夜のみ営業のお店としては破格である。とにかく人が人を呼ぶ状態。環七ラーメン戦争の中心的なお店へと一気に成長した。「なんでんかんでん」人気はヒートアップし、その勢いはまったく止まらなくなった。川原氏はメディアに引っ張りだことなった。「\マネーの虎」にレギュラー出演。ラーメン界だけでなくお茶の間にも有名な存在となった。最高の売り上げ杯数は1日1200杯。500杯がまともなスープの限界だったが、それでもお客さんは食べたいと聞かず、スープが薄くなってしまったときは無料で提供していた。
 写真◆人気はヒートアップ(写真提供:なんでんかんでん高円寺復活店)
→次ページ異変が訪れる…
 ところが、異変が訪れる。自家用車でお店に来てくれるお客さんが激減してしまったのだ。理由は2つ。路上駐車と飲酒運転の取り締まり強化だった。当時の環七は路上駐車が当たり前だったが、あまりにもそれが増え、近隣住民などによる警察への通報で10分に1回はパトカーがやってくる状態に。その110番は1日50回以上にも上ったという。その後半年間パトカーがお店の前に常駐するようになってしまった。飲酒運転の取り締まりも厳しくなっていき、客足も遠のき始める。その後、ラーメンを食べに来る人が環七を横断して事故が起こるなどし、さすがに限界かと思われた。売り上げはどんどん落ちていった。駐車場を確保し、売り上げを多少戻したものの、時代の波には勝てず、移転を決意。渋谷の物件を探し、移転を決め、
†2012(平成24)年11月05日(月)に本店を閉店。閉店の告知が10日前だったので、大変な騒ぎとなった。しかも、その渋谷への移転も幻となってしまったのだ。最終日にラーメンを食べにやってきた移転先の渋谷の大家が、「このスープのニオイでは困る」と言われ、移転を断念せざるをえない状態となった。こうして「なんでんかんでん 東京本店」は移転ではなく、閉店になってしまった。本店を閉店する前から、FC(フランチャイズチェーン)の展開をスタートしていたがそれもうまくいかなかった。「なんでんかんでん」をやりたいと手を挙げた人がたくさん現れ、山口、土浦、新宿、三重、海老名、名古屋2店舗、群馬、新潟などたくさんのお店ができたが、なかなか軌道に乗らず。2015年にすべてを閉店し、「なんでんかんでん」の歴史にピリオドが打たれた。それから3年、川原氏は何をしていたのか。実は川原氏は閉店後もスープの研究をしていた。お店のプロデュースやコンサルティングにかかわっていたのだ。それからラーメン作りに加えて、「接客」の大切さを伝えていた。「なんでんかんでん」が味はブレても繁盛したのは、7割は接客で稼いでいたからだという。高円寺でお店を復活させるという構想が持ち上がったのは今年に入ってから。スープ工場を作って店舗展開をしやすい土壌ができていた川原氏は復活を決意。「タイ屋台居酒屋 ダオタイ」など8店舗を展開する株式会社DAOが協力、復活第1号のFC加盟店となり、「高円寺復活店」としてオープンさせた。「濃いスープを安定して出せなかった反省を生かして、開業時の味に戻そうと試行錯誤しました」と川原氏。時代を感じさせないおいしい濃厚豚骨ラーメンを提供している。
■「いい店」を作るには「いい人」が必要だ■これからの展開について川原氏はこう語る。「FCをやりたいという希望者はたくさんいます。ですが昔に比べて競争も激しいし話題にもなりにくいのは事実。こぢんまりしたお店ならまだ可能性はありますが、手広く展開していく予定はありません。味だけで成功する時代は終わりました。足元を見つめ直して、当たり前のことに立ち返っています。“いい店”を作るには“いい人”が必要。ラーメン作りはもとより、人が大事です」(川原氏)昔のように1つのお店で大繁盛できる時代は終わったかもしれない。それでもファンのためにも、自分のためにも。川原ひろし氏が再びラーメン界に帰ってきた。
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■猪木映像◆闘魂シリーズ
‡1981(昭和56)年11月05日 蔵前国技館 ランバージャック・デスマッチ
 アントニオ猪木 VS ラッシャー木村
 https://njpwworld.com/p/s_series_00038_1_4
■初虎仮面映像◆闘魂シリーズ
‡1981(昭和56)年11月05日 蔵前国技館
 タイガーマスク VS グラン浜田
 https://njpwworld.com/p/s_series_00038_1_2

 スタンフォード大学フーヴァー研究所:西鋭夫教授
 来日講演「2023年を前に直接伝えておきたい想いと真実」
‡2022(令和四)年11月05日(土) 13:00~16:00 形式:オンライン配信につき、ご自宅にてご覧いただけます
 https://in.hooverreport.jp/nihoov_nilive2211_online_500_adw_hd5?cap=yt_kankoku&gclid=Cj0KCQjwnvOaBhDTARIsAJf8eVMuTRXQDsjc2GiHucELN6nYnpmOwxyWRc8liPFPhvKlr3lspiVPsf0aAgujEALw_wcB

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