過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)


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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1926(大正15)年01月03日(日) ジョージ・マーティン誕生
②1962(昭和37)年01月03日(水) ライヴ演奏1:キャバーン・クラブ (昼) /リヴァプール
②1962(昭和37)年01月03日(水) ライヴ演奏2:キャバーン・クラブ (夜) /リヴァプール
③1963(昭和38)年01月03日(木) ライヴ演奏:ツー・レッド・シューズ・ボールルーム/エルギン
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①1926(大正15)年01月03日(日) ジョージ・マーティン誕生
 ビートルズの音楽創造に極めて重要な役割を演じたジョージ・マーティン (George Martin) は、
‡1926(大正15)年01月03日(日)にロンドンのホロウェイ (Holloway, London) で生まれる。フルネームはジョージ・ヘンリー・マーティン (George Henry Martin)。彼の家庭にピアノが備えられた6歳の時以降、彼は音楽に興味を持つようになる。2年後には両親にねだってピアノのレッスンを受けるようになった。しかしこのレッスンは長くは続かず、その後は独学でピアノの演奏法を身につける。ギルドホール音楽演劇学校 (Guildhall School of Music and Drama) を卒業後、少しだけBBCのクラシック音楽部局で働いた。そして1950(昭和25)年にパーロフォン社マネージャーのオスカー・プロイス (Oscar Preuss) 氏の助手としてEMIに入る。プロイスが1955(昭和30)年に引退した後を受けて、マーティンがパーロフォン社のヘッドとなる。
  1962(昭和37)年06月06日(水)に行われたオーディションとレコーディングセッションの後、ジョージ・マーティンはビートルズとパーロフォン社との契約書にサインする。このジョージ・マーティンとビートルズのカップリングは、ポップミュージックに計り知れない変化をもたらす一連の出来事を引き起こし始めようとしていた。
③1963(昭和38)年01月03日(木) ライヴ演奏:ツー・レッド・シューズ・ボールルーム/エルギン
 この日ビートルズは1963年最初のツアーを、スコットランド・エルギン (Elgin) のツー・レッド・シューズ・ボールルーム (Two Red Shoes Ballroom) での演奏でスタートした。このダンスホールは
 1960(昭和35)年07月28日(木)にジャズの会場としてアルバート・ボニーシ (Albert Bonici) がオープンした。ビートルズのスコットランド巡業は1962年の11月にカーナ・バラエティ・エージェンシー (Cana Variety Agency) のジャック・ファロン (Jack Fallon) によって契約されており、ビートルズの報酬は1晩42ポンドであった。その低額な出演料にもかかわらず、ファロンはこのツアーでは収支赤字となった。しかし彼がボニーシと交わしたその契約には、将来のスコットランドでのすべてのビートルズの公演は、彼が独占的に仲介するという条項が含まれていた。ツー・レッド・シューズへのビートルズの出演は、いつもその会場での演芸を手配していたエルジン・フォーク・ミュージック・クラブ (Elgin Folk Music Club) が推進した。ビートルズが演奏したこのダンスホールはL字型なので、観客の一部はステージを見通すことができなかった。
④1962(昭和37)年05月24日(木) 録音:♪Sweet Georgia Brown♪ / ♪Swanee River♪
 1961(昭和36)年06月22日(木)~24日(土)にビートルズはハンブルグで、トニー・シェリダン (Tony Sheridan) とのコラボで7曲をレコーディングしていた。それからちょうど11ヶ月を経たこの日、彼らはふたたびトニーともう2曲をテープに収めた。このレコーディング・セッションは、1961年のレコーディングをプロデュースしたベルト・ケンプフェルト (Bert Kaempfert) とビートルズがサインした契約に則ったものであった。ブライアン・エプスタインがビートルズのマネージャーとなって彼らのレコード契約を模索し始めた時、彼はビートルズはまだ法律的にはケンプフェルトとの契約下にあることを発見した。エプスタインとケンプフェルトは、ビートルズが次にハンブルグに戻って来た際に、もう一度シェリダンとのレコーディング・セッションに参加すれば、ビートルズはその契約から解放されることで合意していた。そのレコーディングがこの日、ハンブルグ・トンドルフ (Tonndorf, Hamburg) のラーラウ (Rahlau) 128番にあるスタジオ・ラールシュテッド (Studio Rahlstedt) で行われた。録音された曲は♪Swanee River♪と♪Sweet Georgia Brown♪で、後者はポール・マッカートニーによりアレンジされた。ビートルズの4人に加えて、非公式にスター・クラブ (Star-Club) で彼らと共演していたロイ・ヤング (Roy Young) がピアノで参加している。しかしトニー・シェリダンの方はこの日の録音ではOKとならず、
 1962(昭和37)年06月07日(木)に♪Sweet Georgia Brown♪にオーバー・ダブでヴォーカルを重ねている。そしてそれは1962年の終り頃に♪Ya Ya♪というタイトルのEP盤としてドイツでリリースされた。シェリダンは、ビートルズのアメリカ上陸に先立つ
‡1964(昭和39)年01月03日(金)に、再度ヴォーカル部分を録音し直している。新しいバージョンは歌詞を変えてビートルズのことを歌っている。
 旧バージョン
 ♪Fellas that she can't get♪
 ♪Are fellas she can't get♪
 ♪Georgia Claimed her, Georgia named her♪
 ♪Sweet Georgia Brown♪
 新バージョン
 ♪In Liverpool she even dared♪
 ♪To criticize The Beatles hair♪
 ♪With their whole fan club standing there♪
 ♪Ah, meet Sweet Georgia Brown♪
 ビートルズがレコーディングに参加した『Swanee River』はリリースされないまま、マスターテープが紛失している。シェリダンは後に別のミュージシャンを迎えての別バージョン『Swanee River』をリリースしている。
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 ①http://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/19260103_georgem_birth.html
 ②http://gejirin.com/beatles/history/1962/0history_index-1962.html
 ③http://gejirin.com/beatles/history/1963/19630103_live_TwoRedShoes.html
 ④https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620524_Recording_SweetGeorgiaBrown.html
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 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃| January 03|003
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃| 1月03日 |
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 1962(昭和37)年01月03日(水) キャバーン・クラブで、ランチタイム・セッションと夜の部のそれぞれのステージに出演。
 1964(昭和39)年01月03日(金) 前年のクリスマス・イヴから開催されている、ブライアン・エプスタイン企画・主催の「ビートルズ・クリスマス・ショー」の9日目の公演がロンドンのアストリア・シネマで開催される。コメディ、パントマイム等のパフォーマンス、演奏と様々な要素で観客を楽しませた。演奏コーナーでのセットリスト、「Roll Over Beethoven」「All My Loving」「This Boy」「I Wanna Be Your Man」「She Loves You」「Till There Was You」「I Want To Hold Your Hand」「Money (That's What I Want)」「Twist And Shout」。12月24日から1月11日まで行われたステージ出演者は、ほとんどがNEMSエンタープライズ所属アーティストで、チケット10万枚は完売。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=16870
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/001/0103.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15601549.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 モノクロ映像◆The Beatles In France January 1964 And First USA TV Appearance (Not Ed Sullivan) https://youtu.be/vRpCUqbibMQ
 1964.1.3 
 
『The Jack Paar Show』transmits a fragment of a Beatles' concert at the Winters Garden, Bournemouth. 
It includes ♪She Loves You♪. First important exposure of the Beatles on American television.

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 ┃ 『A HARD DAY'S NIGHT Instrumental Versions of the Motion Picture Score』 ┃
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 (fri)19 February 1965, UK album release, United Artists
 『A HARD DAY'S NIGHT』orchestral LP by George Martin
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①┃ Sir George Henry Martin、CBE ジョージ・マーティン ┃
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‡Born 1926/1/3(sun)
 Died 2016/3/8(mon) aged 90
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②┃ George Martin Interview 1964 NTSC  ┃
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  ■Note・・・『BONUS INTERVIEW』39.George Martin Interview 1964 NTSC - 16:9 Wide Screen - Dolby Digital Stereo/Mono - video time approx. 24min.+ slideshow audio time approx. 4h07min.
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③┃ 『OFF THE BEATLE TRACK』 ┃(fri)10  July 1964 (US)
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛(mon)03 August 1964 (UK)
  Instrumental versions of THE BEATLES big hits by GEORGE MARTIN & his orchestra
  音源◆https://youtu.be/XUNziWgr8jc
  
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④┃ 『George Martin INSTRUMENTALLY SALUTES "The Beatle Girls"』  ┃
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 1966(昭和41)年11月28日(mon) United Artists (S)ULP 1157 instrumental LP by George Martin
 1967(昭和42)年03月03日(fri) UK album release: The Beatles Girls, instrumental, by George Martin
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 ①https://en.wikipedia.org/wiki/George_Martin
 ②http://www.webers-records.com/134_1420.html
 ③https://en.wikipedia.org/wiki/Off_the_Beatle_Track
 ④https://en.wikipedia.org/wiki/George_Martin_Instrumentally_Salutes_the_Beatle_Girls
 http://gejirin.com/beatles/person/George_Martin.html
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 ┃ THE BEATLES Live 1962 ┃
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‡(wed)03 January 1962 Liverpool, England, The Cavern Club (lunchtime)
 (wed)03 January 1962 Liverpool, England, The Cavern Club
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 ┃ Winter 1963 Scotland Tour ┃THE BEATLES SHOW
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‡No.1 (thu)03 January 1963 Elgin, Scotland Two Red Shoes *
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 ┃ BRIAN EPSTEIN Presents  1964   ┃
 ┃ THE BEATLES Christmas Shows ┃
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‡No.11 (fri)03 January 1964 London, England, Finsbury Park Astoria Theatre (09)
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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  ┛THE BEATLES 1970 Recording Sessions ┛Studio 2
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①┃ ♪I ME MINE♪  ┃takes 1-16
 ┗━━━━━━━━━┛No.1 この曲が録音されたのはアビイ・ロード第2スタジオ。 公開予定の映画にこの曲が演奏されている場面があり、映画との整合性をとるためにこの曲を録音する事になった。ジョンを除く3人はポール(ベース)、ジョージ(アコースティック・ギター)、リンゴ(ドラム)の編成で この曲を16テイク録音し、第16テイクにピアノ、エレキギター、オルガン、ヴォーカル、コーラスをオーバーダブ。この時点でこの曲は1分34秒の長さしかなかった。
  Note・・・『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』に、1970年1月3日の第16テイクが収録されている。 長さも1分34秒のままで、オーケストラはオーバーダビングされていない。
  Last song recorded by THE BEATLES
  During the session, George improvises a version of ♪Peggy Sue Got Married♪.
  Producer: George Martin
  Engineer: Phil McDonald
  2nd Engineer: Richard Langham
 ‡1970(昭和45)年1月3日(sat)
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1996/10/28(mon) JP、UK
②┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』 ┃1996/10/29(tue) US
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ◎Disc two◎
 22.♪I Me Mine♪ (Take 16) 3 January 1970 EMI Studios 1:48
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 ①https://beatlesdata.info/14/04_imemine.html
 ①写真◆https://en.wikipedia.org/wiki/I_Me_Mine
 ②https://www.amazon.co.jp/dp/B0000070GX
 ②https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_3
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 ┃ About from『GET BACK』to『LET IT BE』~アルバム発売までの経緯 ┃
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‡1970(昭和45)年1月3日(土) あの悪夢のトゥイッケナムからちょうど1年後のこの日、ビートルズ(ジョンを除く)はアビイ・ロードに集まる。正式な録音がされていなかった「アイ・ミー・マイン」の録音のためである。これは映画との整合性を図るために追加で行われたセッションだった。。
************************** http://getback.tv/
 https://beatlesdata.info/14/12_getback.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/Let_It_Be#Get_Back_albums
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■ジョンのMBE勲章返還の真の理由とは?
2009/01/12 15:15|ジョン・レノン|TB:0|CM:7|▲  
先日、こんなニュースを見つけました。
ジョンが1969年に返還したMBE.勲章発見
ジョンが1969年に返還したMBE勲章が発見されたと、Times OnlineとUKサンが報じている。ジョンは当時「イギリスのナイジェリア/ビアフラでの内戦への関与、ベトナム戦争におけるアメリカへの支援、「コールド・ターキー」がチャートを下降していることに反対し」と言ってMBE.勲章を返還した。そのMBE勲章は返還されたときに、ジョンが添えた手紙とともに、セント・ジェームス宮殿の Central Chancery of the Orders of Knighthood(勲爵士団の中央公文書保管所)に置かれた。 勲章は返還されたが、ジョンの気持ちとは裏腹にMBEという称号はそのまま残されている。バッキンガム宮殿は声明を出し、その一部で「それはレノン氏が返還した日から保管されておりますが、博物館で展示されるかどうか決めるには、まず所有者を定める必要があるでしょう。それはジョン・レノンの遺産を管理するヨーコ・オノ次第と言えましょう」念のため解説しておきますと、ビートルズの4人は
1965年10月26日に大英帝国彰勲章 (Members of the Order of British Empire: MBE)を英国王室から送られています。
受勲の理由は国家に対する、外貨獲得などによる多大な経済的貢献です。ビートルズの受勲が発表されたところ、戦争の武勲で勲章をもらった元軍人達の中で勲章を返上するという騒動が起こったりしましたが、その時にジョンは、「僕らの叙勲に不満がある人は、戦争で人を殺して勲章をもらったんだろう。でも僕達は人を楽しませてもらうんだから、僕達のほうがもらう資格はあると思うよ」と、なかなかユーモアのある発言をしています。さて、そのMBE勲章をジョンが王室に返還したのが
1969年11月26日で、その勲章が先日 宮殿で見つかった、というニュースなのです。返還された勲章が捨てられずに発見されたことついては特に感想はないんですが、今回のニュースであらためて思ったのは、なぜジョン・レノンはMBE勲章を返還したのか?ということです。>「コールド・ターキー」がチャートを下降していることはジョークとして、一般にはイギリス政府の政策に抗議してと言われていまして、その具体的な政策が「イギリスのナイジェリア/ビアフラでの内戦への関与」と「ベトナム戦争におけるアメリカへの支援」です。しかし私は、これはジョンの気持ちの核心ではないのではないかと考えています。2年後の1971年に「Happy Xmas (War Is Over)」をリリースしていますから、1969年当時のジョンが強固な反戦思想を持っていても不思議ではないんですが、これが勲章返還の真の理由ではないと思うんですよね。まず、戦争についての政策を決定・実行しているのは英国王室ではなく英国政府ですから、政府への抗議として王室へ勲章を返還するのは少し筋違いだと感じます。それに「ベトナム戦争におけるアメリカへの支援」に反対してといいながら、ジョンは1971年にアメリカに移住してるんです。1971年のアメリカは、まだベトナム戦争を継続中です。これらのことから考えて、ジョンの勲章返還の本当の理由は「戦争政策批判」ではないと思います。それではジョンの勲章返還の真の理由は何だったのでしょうか?謎を解く鍵は、1969年11月という時期にあると思います。この頃のジョンですが、まず1969年7月に「平和を我等に(Give Peace A Chance)」、10月に「コールド・ターキー(Cold Turkey)」の各々をビートルズではなく、Plastic Ono Band(プラスティック・オノ・バンド)というジョンとヨーコを中心とした新しいバンド名義でリリースしています。そして勲章を返還したとされている
11月26日ですが、この日のジョンは何をしていたかといいますと、プラスティック・オノ・バンド名義でEMI第2スタジオを使い、「What’s The New Mary Jane」と「You Know My Name (Look Up The Number)」の編集やオーバー・ダビングをしています。この日にスタジオに集まったのはプラスティック・オノ・バンドの名の示す通りジョンとヨーコだけであり、ポール、ジョージ、リンゴは参加していません。
そして翌年の
1970年1月3日と4日に、前回の記事で書いたようにビートルズとしての最後のセッションが行われたのですが、これにはジョンのみ参加していません。さらに、このセッションの中でジョージがこんな“公式表明”をした記録が、テープに残っているそうです。「すでにお聞き及びのことと思いますが、デイブ・ディーはグループを脱退しました。しかしミッキーとティッチ、それに私は、大切でありながらこれまで二の次とみなされていた仕事を、今後も続ける所存であります」デイブ・ディーとは、60年代のイギリスのポップ・グループ「デイブ・ディー、ドジー、ビーキー、ミック&ティッチ(日本での名前はデイブ・ディー・グループ)」のリーダーで、1969年にグループを抜けてソロになった歌手の名前です。ジョージはデイブ・ディーとジョンをひっかけて、ジョンがビートルズをすでに脱退していること、自分達は残されたテープの編集作業をしていることを、皮肉交じりに表明しているのです。この流れを踏まえてジョンの勲章返還を、私はこう考えます。ビートルズとしての名誉であるMBE勲章を返還することで、ジョンはビートルズとしての名声を返上したかったのではないでしょうか。ジョンのMBE勲章返還は、ビートルズとの決別の表明だったのではないでしょうか。受勲の時は“たかが勲章”という態度を取っていたジョンでしたが、MBE勲章にそれだけの意味を込めていたのかと思うと、やぱりジョンは英国人であり、“されど勲章”の気持ちも強かったのではないかと思います 
http://beatlesinmind.blog101.fc2.com/blog-entry-104.html

 映像◆激レア!【レット・イット・ビー】日本語解説付き版http://video.fc2.com/content/20151106hrTB9TS1/
 1980(昭和55)年2月2日(土) 14:30- 映画「LET IT BE」TBS いわゆる「かまやつひろし」さんのナレーション版
 http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Vocal/6398/tvdata.htm
 私の所有する「レット・イット・ビー」は長い間、
†1982年の正月にテレビ放映されたものを録画したVHSテープのみだった
 http://blog.goo.ne.jp/shiotch7/e/389f4f9b4fcc00834d2978052a7579d9
 動画:激レア! 【レット・イット・ビー】 日本語解説付き版
 動画:激レア! 【レット・イット・ビー】 日本語解説付き版
 動画:激レア! 【レット・イット・ビー】 日本語解説付き版

 The Beatles In France January 1964 And First USA TV Appearance (Not Ed Sullivan)  http://youtu.be/vRpCUqbibMQ
 

1963年に書かれた ビートルズ4人のサイン 
コメント・・・1963年に書かれたビートルズ4人のサインです。
4人とも青のボールペンでサインを書いています。それぞれ”xxx”マークを書き入れています。
サインが書かれているのはスケジュール帳から切り離された1ページで
■1963年6月5日~8日■のページです。
サインはまだ字体が固まっていない頃のもので、1963年初頭に書かれたものだと思われます。
ビートルズは前年暮にドイツ巡業を終えたばかりで、1月のUKのツアーに出ていた頃です。
ビートルズ4人揃った貴重なサイン!紙のサイズは15cm x 9.5cm。
コンディションは、紙に多少のよれと経年黄ばみ、折りたたみ跡があります。
白黒写真と白黒ブロマイドが一緒に額装されています。額のサイズは60.5cm×47cm。
上の写真はサイズ20×25.4cm、サイン右横にブロマイド(13.5×17.4cm)。
保証書、鑑定書、額装付き。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/w203851401
http://www.tracks-japan.com/autograph/beatles-autograph.html

■1963年初頭、BEATLES4人のサイン 
ジョンのサインの表面です。
¥680,000 2017/11/06(mon)現在
注文番号:beatles012-2
11.5cm×9.5cm。
額装、保証書、鑑定書付き
こちらの商品はショッピングクレジット、カード、またカードと現金の併用などが出来ます。
ぜひお問い合わせください。
額縁に入った状態
ジョンの●1963年初頭のサインと
●63年の4月頃のリバプールエンパイアでもらったサインです。
持ち主の方の手紙も付いています。
サインの状態は大変きれいです。
ジョンのサインはインクが出なかったのか
何度か書き直しをしてからペンのインクが出るようになったようです。
裏面のカードもとてもかっこいいカードで、
筆圧も強く大変素晴らしいサインです。
お値段も手ごろなものになっています。
ポールのサインは青のボールペンで「XXX」マーク入り、
ジョージとリンゴは黒のボールペンでサインしています。
3人のサインは丁寧に書かれています。
紙は多少経年風化していますが、コンディションは良好です。
下に小さくBEATLESとサイン帳の持ち主が書いています。
1962年に書かれたBEATLES4人のサイン 
http://www.tracks-japan.com/autograph/beatles-autograph.html

 

本日、1月3日はビートルズの育ての親、ジョージ・マーティンの誕生日
2018年01月03日 執筆者:藤本国彦
「5人目のビートルズ」はいったい何人いるのだろうか。そういうふうに考えること自体がおかしいと、真面目な人には言われてしまうこともあるけれど、こういう無邪気で他愛のない妄想で遊べるのもまたビートルズの面白さだ。
まず思い浮かぶのは、マネージャーのブライアン・エプスタインと、プロデューサーのジョージ・マーティンの二人である。これに異論を挟むファンはほとんどいないと思うが、ここでは「育ての親」のジョージ・マーティンについて紹介してみる。
ジョージ・ヘンリー・マーティンは、1926年1月3日にロンドンで生まれた。6歳でピアノを始め、音楽にのめり込んでいったものの、「仕事」にする気にはならず、最初に就職したのは測量士の事務所だった。そこを2ヵ月足らずでやめたマーティンは、陸軍省に就職。最初はお茶汲みなどの雑用係だったが、その後、海軍航空隊の飛行士になった。だが、そこでもむしろ鍵盤を弾く才能が認められ、除隊後には奨学金を得ながら音楽学校に通い、プロのオーボエ奏者になった(ちなみにマーティンがオーボエを教わったのは、ポール・マッカートニーが60年代に付き合っていたジェーン・アッシャーの母親だったそうだ)。しかしすでに結婚していたマーティンは、それだけでは食えず、レコード制作アシスタント募集の告知に飛びつき、1950年にビートルズとの接点ともなるEMIへの入社を果たしたのだった。
以後、マーティンが「ビートルズの先生になるまでの道」を駆け足でたどると、50年代はいわゆる学芸ものを主とするパーロフォン・レーベルのA&R担当者となり、ジョンとポールもお気に入りだったラジオ番組『グーン・ショー』のダイジェスト・アルバムや、その番組に出ていたピーター・セラーズやスパイク・ミリガンのソロ・アルバムなどをプロデュース。60年代に入ると、セラーズとソフィア・ローレンとのデュエット曲「グッドネス・グレイシャス・ミー」が全英5位のヒット、さらに61年にはテンペランス・セヴンの「ユーアー・ドライヴィング・ミー・クレイジー」も全英1位となり、パーロフォン・レーベルのチーフ・プロデューサーとして活躍した。ちなみにテンペランス・セヴンのパーカッショニストは、 ビートルズと縁のあるボンド・ドッグ・バンドとラトルズで知られるニール・イネスの父親だったというのだから、マーティンとビートルズは「出会うべくして出会った」と言えるかもしれない。
両者の繋ぎ役となったのは、ビートルズの「生みの親」のブライアン・エプスタインだった。「デッカ・オーディション」のオープン・リールのテープをHMVレコード店でアセテート盤にして持ち歩いていたエプスタインが、HMVの階下にあるEMI系列の音楽出版社に勤めていたシド・コールマンと出会い、巡り巡ってマーティンとの縁が生まれたわけで、「もしブライアンがテープを抱えてロンドン中を歩きまわらなかったら、そしてジョージ・マーティンにめぐり会えなかったら、僕たちは成功していなかっただろう」(ジョン・レノン)という発言もむべなるかな、である。
ビートルズのレコード・デビュー後のマーティンの貢献度の多さと幅広さは、改めて言うまでもないだろう。ほんの一例ではあるけれど、たとえばアレンジに関しては、ロイ・オービソン調のスローでブルージーだった「プリーズ・プリーズ・ミー」のテンポを速めてハーモニーを加えるように提案して全英1位の大ヒットに繋げた手腕や、「イエスタデイ」の弦楽四重奏の導入もしかり、である。演奏に関しては、「ロング・トール・サリー」や「ロック・アンド・ロール・ミュージック」などで聴かれるピアノがロックンロール・サウンドの要となっているのは見逃せないし、「イン・マイ・ライフ」の間奏のバロック調の印象的なピアノ・ソロは言うに及ばず、である。サウンド作りに関しても、テンポもアレンジも異なる2曲を繋げた「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」や、「おがくずの匂いが床に充満するようなサウンドにしたい」というジョンの抽象的な要望を、テープを切り刻んで繋げ直し、さらに逆回転のサウンドで曲に放り込んで具体化した「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」をはじめ、50年代に生み出した数々の実験音楽作りの経験が最大限に発揮された。
マーティンは65年にEMIから独立し、アソシエイテッド・インディペンデント・レコーディング(AIR)を設立。ビートルズ解散後は4人のソロ作や『アンソロジー』プロジェクトのほかに、マハヴィシュヌ・オーケストラ、ジェフ・ベック、アメリカ、チープ・トリックほか数多くのプロデュースを手掛けた。97年には、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、マーティンにとってイギリスでの30曲目のナンバー・ワン・ヒットとなった。翌98年にはビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズとともにプロデュースして自らの花道を飾り、翌99年に聴力の衰えを理由に正式に引退を表明。2001年には、50年代からのプロデュース作品を集大成した“一家に一箱”と言っていい秀逸な6枚組ボックス・セット『Produced By George Martin:50 Years In Recording』が発売された。
2016年3月8日。ジョージ・マーティンは90歳で亡くなった。
同年5月11日にロンドンのセント・マーティン・イン・ザ・フィールズ教会で執り行なわれた追悼式典には、ポールやオノ・ヨーコも出席。マーティンと生前から交流が深く、式典にも参列した新田和長氏によると、ポールは、マーティンが航空隊の見張りとしてカリブ海で終戦を迎えたことに触れつつ、こんな話をしたという。
「結局、ジョージはたいしたことはしなかった、飛行機を操縦したわけでも、船を航行させたわけでもなく、爆弾を落としたわけでもない。見張りをしていただけだったんだから。これって、結局はプロデュースみたいなものだよね。曲を書くわけでもないんだし」(※)
こう言って場内を笑わせたポールは、最後にスピーチをこう締めた。
「皆さん、学生時代に一人は好きだった先生がいると思います。僕にとって、ジョージ・マーティンがまさにそういう先生のような存在でした。ジョージは彼のために仕事をしたくなる、一緒に仕事をしたくなる 、そんな存在でもあったのです。私も、私の家族も彼のことを愛しています。彼を知ることができて光栄だし、友人になることができて誇りに思います。ありがとう、ジョージ」(※)
※は『レコード・コレクターズ』2016年8月号より引用
http://music-calendar.jp/2018010301


2 ジャック・パーのトーク番組
(1)Tonight Starring Jack Paar
これは、「Jack Paar’s TV show(正式な名称はTonight Starring Jack Paar)」というテレビ番組に出演した時のジョージとリンゴが、派手なシャツの上に上着を着ようとしているところですね。
でも、この頃にもうこんな派手な柄のシャツを着ていたんでしょうか?サージェント・ペパーの頃なら分かるのですが、彼らのステージ衣装といえばまず真っ白なシャツのイメージなんですけどね。初めてのアメリカツアーではなく、もっと後の写真かもしれません。
(2)この番組が初登場だった
ここで「Jack Paar’s TV show」のお話が出たのでついでに触れておきます。多くの人がビートルズのアメリカでのテレビ・デビューは、1964年2月9日の「エド・サリヴァン・ショー」だと思っています。
確かに、彼らがアメリカで大ブレイクしたきっかけとなったのはその番組ですが、実は、アメリカにおけるテレビ・デビューは、それよりも一か月以上前に既に済ませていたのです。
それがアメリカCBSの「トゥナイト・スターリング・ジャック・パー」というテレビ番組です。司会者のジャック・パーは「ワイドショーのパイオニア」と呼ばれている人物であり、「トークショーの歴史は二つに分けられる。パーが登場する前とその後だ。」と言われた程、アメリカのトーク番組に大きな足跡を残した名司会者でした。
彼は、1963年秋にイギリスを訪問した際にビートルズの演奏を観ていたのです。その時同行していたTV局の撮影クルーが演奏を撮影し、
●1964年1月3日に同番組で放映されました。
もっとも、これは、ビートルズが演奏しているところをアメリカのテレビ局が初めて放映したという意味では正しいのですが、ビートルズ自身がアメリカのテレビ局に出演して演奏したわけではありません。また、この時はそれほどの反響はありませんでした。
ただ、この放映は決して無駄に終わったわけではなく、一部のアメリカの若者たちの心を捉えたことは確かなようです。いわば起爆剤か、導火線の役割を果たしたといったところでしょうか?
3 パーもイギリスのビートルマニアを冷ややかに見ていた
(1)ご多分に漏れず
パーは、イギリスの熱狂的なビートルマニア現象を目の当たりにしても、それはあくまで一時的な流行にすぎず、いずれはすたれるだろうと思っていたのです。まあ、当時の大人としてはごく普通の反応でしょう。
逆に、あの時代の30代以上の大人でビートルズを理解できた人がいたら、その方が凄かったかもしれません。
「私の7年間のCBSの番組の中でロックンロールをかけたことはありません。でも、私は、ビートルズに対して社会現象として興味を持っているので、今日皆さんにお見せしたいと思います。」
「彼らは、リヴァプール港の近くというイギリスでも非常に厳しい環境から生まれてきましたが、なかなかのユーモアのセンスがあります。」
「『リヴァプール港の近くで生活するって何がエキサイティングなの?』と聞かれて答えたそうです。『ただサバイバルするだけでエキサイティングだよ(笑)』」
「まず、最初に見てもらいたいのはイギリスの観客が、ビートルズが演奏する前にどのような反応を見せるかです。」
そして、イギリスのビートルマニアの熱狂ぶりが放映されます。「一体、イギリスの若者たちは何をあんなに大騒ぎしているんだ?頭がおかしくなったのか?」と冷ややかに見ていたのが分かりますね。
(2)後でフォローはしたが
後年になってその当時のことを語るパーです。
ビートルズを最初に紹介したアメリカのテレビ番組は、エド・サリヴァン・ショーだと言われているが、実はそうではなくて私のテレビ番組が最初だったと自慢しています。
でも、その時はパー自身が「イギリスの文化的レベルがようやく我が国に追いついたということを記憶に留めておきましょう(笑)2月にエド・サリヴァンはビートルズのライヴを放映しましたが、私のことをいつも支持してくださっている彼らよりは大人の聴衆の皆さんにお見せしたかっただけです。」なんて皮肉っていたんですね。
ビートルズが素晴らしいアーティストとして世界中で受け入れられるようになってから、このVTRを見て穴に入りたい心境になったのは、他ならぬ彼自身でしょう(笑)
(3)相変わらず
しかし、それでもめげずに「これは私だけが思っていることですが」と前置きして「彼らが偉大なアーティストになり、彼らの姿を見る度に悲しい思いをするのは、リンゴだけが解散した時に4人のうちの1人ではなかったことです(つまり他の3人に比べて実力が劣っていた)」と語っています。
この手のリンゴに対する誤解は、一般人だけではなく彼のような一流のジャーナリストの中にもあったんです。実際、リンゴは、作詞も作曲もあまりしていませんでしたから、解散したら著作権料も入ってこないし、生活に困るだろうとは誰しもが思い浮かべたでしょう。
ああ、そうそう、パーさん、もうご存知でしょうが、
2018年3月20日、リンゴは、ウィリアム王子から「ナイト」の勲位を授与されたんですよ。天国で祝福してあげて下さいな。
http://abbeyroad0310.hatenadiary.jp/entry/2018/04/06/220000

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