過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)


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 ┃George Martin ジョージ・マーティン誕生┃
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‡1926(大正15)年01月03日(日) ビートルズの音楽創造に極めて重要な役割を果たした「ジョージ・ヘンリー・マーティン (George Henry Martin)(ジョージ・マーティン (George Martin) )」は、1926年1月3日にロンドン・ホロウェイ(Holloway, London) で生まれす。彼の家庭にはピアノが備えらており、彼は6才時以降音楽に興味を持つようになり、その2年後には両親に許しを経てピアノのレッスンを受けるようになりますが、このレッスンは長くは続かず、その後は独学でピアノの演奏法を身につけます。ホロウェイの修道会学校や聖ジョーゼフ初等学校など、複数の学校を様々な理由で(資金面の多々あり)入退学し、最終的には奨学金を勝ち取りスタンフォード・ヒルの聖イグナティウス大学に入ります。そして、戦争が始まり、聖イグナティウス大学の学生はウェルウィン・ガーデン・シティに疎開させられることとなり、その影響もあり、マーティン一家はロンドンを離れ、マーティン自身はブロムリー・グラマー・スクールに編入します。ジョージ・マーティンは語ります、「私が初めて交響楽団を聞いたのはティーンエージャー時だった。その時の事はよく覚えているよ。公開コンサートでエイドリアン・ボールトが私の学校にBBC交響楽団を連れて来た時だった。魔法に掛けられたような衝撃だった。それは規模の大きななサウンドで、光輝いていた。ただ、真鍮や木製の器具を吹き、弦を馬の毛の弓でこすったりする90人の男女の様をその壮麗な音と結びつけることはその時の私にはができなかったよ」その後彼は、積算士として働き出しますがそれは短期間で、続いて国防省の臨時職員となり、1943年には、17歳で英国海軍のパイロットになり同時に将校もなります。しかし、戦闘に巻き込まれることなく戦争は終わり、退役軍人の助成金で1947年から1950年までの間「ギルドホール音楽演劇学校」 に通い、ピアノとオーボエを学びます。そこでは、モーリス・ラヴェル(=『スペイン狂詩曲』やバレエ音楽『ダフニスとクロエ』、バレエ音楽『ボレロ』の作曲や『展覧会の絵』のオーケストレーションでよく知られたフランスの作曲家)やセルゲイ・ラフマニノフ(=ロシア帝国出身の作曲家、ピアニスト、指揮者で、ピアノ演奏史上有数のヴィルトゥオーソであり、作曲とピアノ演奏の両面で大きな成功を収めた音楽家としてフランツ・リストと並び称される存在)、コール・ポーター(=6歳でヴァイオリンを、8歳でピアノを習いイェール大学卒業後、ハーバード大学に入学するが、最終的に音楽家としての道を選んだ、アメリカ合衆国の作曲家・作詞家)、ジョニー・ダンクワース(=(別名John Philip William Dankworth)英国エセックス州ウォルサムストウ生まれのジャズ奏者であり、アルトサックス奏者、クラリネット奏者、アレンジャーとして活動)などの音楽を学びます。この時のオーボエの教師は、偶然にも1960年代にポールと恋仲になる「ジェーン・アッシャー」の母のマーガレット・アッシャーです。そしてマーティンは在学中にもかかわらず、
‡1948(昭和23)年01月03日(土)(彼の22歳の誕生日)に、シーナ・チザムと結婚し、アレクシスとグレゴリーの2子を儲けますが後に離します。
 1966(昭和41)年06月には、ジュディ・ロックハート・スミスと再婚し、ルーシーとガイルズの2子を授かります。その後、ギルドホール音楽演劇学校を卒業し、BBCのクラシック音楽部局で働きますが、短期間で止めてしまいます。そして1950年、パーロフォン社長のオスカー・プロイス氏の助手としてE.M.I.に入社します。過去においてのパーロフォンは伝統のあるドイツ系の重要なレーベルでしたが、マーティンが入社した頃はE.M.I.のマイナーなレーベルの一つにとなっており、マネージャーのプロイスの1955年の引退に伴い、マーチンがE,M,I.傘下レーベルのパーロフォンのマネージャーであり実質のヘッドとなり、成功の道へと突き進みだします。彼の最大の成功はコメディや企画物のレコードで、コメディ俳優のピーター・セラーズらの作品など、コメディ色の強いレコードの制作を多く手がけ実績を積み、1962年にマーティンは、レイ・カソード のペンネームで「タイム・ビート」と云うエレクトロニック・ダンス曲を録音してリリースし、「戦場にかける橋」のパロディ作品を作った際、収録曲の「クワイ河のマーチ」について会社上層部からのクレームを受け、既に録音し終えていた曲中の「クワイ(Kwai)」というフレーズから「K」の部分だけ削除して「ワイ河のマーチ」に作り直したと云うエピソードもあり、頑固で洒落っけがある気質はここでも見受けられます。その後、英国で芽を出し始めていたロックンロールの波に乗ろうと、彼はパートナーとなるグループを探し始めます。そしてマーティンは、デッカのオーディションを不合格になり、その他の大方のレコード・レーベルにも相手になさなかったポップ・グループのマネージャーである「ブライアン・エプスタイン」を知ります。彼は
 1962(昭和37)年02月13日(火)にエプスタインと会う手はずを調え、その場でビートルズのデッカでのオーディションでの録音を聞くことになります。マーティンは語ります、「彼らの音楽性は非凡だったが、ジョン・レノンとポール・マッカートニーのヴォーカルには好感を持ったよ。」。そして、マーティンとエプスタインは
 1962(昭和37)年05月09日(水)にE.M.I.スタジオ(アビイ・ロード・スラジオ)で再度打ち合わせすることになります。
 マーティンは語ります「『僕はまだ彼らビートルズに会ったことはないし演奏も聞いたこともないが、君の熱意に打たれ、契約することに合意するよ。』とエプスタインに言った。この時『失うものは何もない』と考えて、「1枚のレコード売上げに付き、1ペニーのロイヤリティをビートルズ払うこと」を契約に入れると約束した。」。そして、マーティンはそのバンドのパフォーマンスを聞いてから契約書にサインするという条件で合意します。
 1962(昭和37)年06月06日(水)に、プロデューサー:ロン・リチャード、エンジニアノーマン・スミスでE.M.I.のオーディション・テープの録音が行われます。マーティン不在のレコーディング・セッションですが、終了後彼はビートルズに会い、テープを聴きます。
 マーティンは語ります「僕はビートルズと云うバンドのオリジナル曲はあまり良くないと思った。彼らに『何か気に入らない事はあるか』と尋ねると、ジョージ・ハリスンが『まずはあなたのネクタイですね』と答えた。この時を境にガラッと楽しいムードに変わったね。僕は彼らのウィットだけでも契約する価値があると感じたよ。」。1962年にビートルズを見出したことによりプロデューサーとして大成功を収め、1965年にはEMIから独立しますが、ビートルズのプロデュースは継続します。その後もジェフ・ベック、アメリカ、チープ・トリック、ポール・マッカートニーなどのプロデュースを手がけ、1997年、ダイアナ妃を追悼したエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド97」が、彼にとってのイギリスにおける30曲目のチャート1位作品となり、1998年、ジェフ・ベック、セリーヌ・ディオン、ヴァネッサ・メイ、BONNIE PINK、フィル・コリンズらの参加したビートルズのトリビュート盤『イン・マイ・ライフ』を息子のジャイルズと共にプロデュースし、自分の名義で発表します。1999年、聴力の衰えを理由にプロデューサー・エンジニアを引退し、その後は公演会でのパネル活動を主軸にしています。 そして、
 2016(平成28)年03月08日(火)に亡くなったことが、海外メディアで報じられます(90歳没)。1962年のデッカのオーディションに不合格となったビートルズは、マネージャーのブライアン・エプスタインの貢献により、ジョージ・マーティンへの売り込みに成功します。マーティンはビートルズのメンバーと直接面会していないにもかかわらず、ビートルズにレコーディングを要請し、
 1962(昭和37)年06月06日(水)、彼らをE.M.I.スタジオに呼び、多くの曲を演奏させ、演奏技術を確かめた後、その場でデビュー曲のレコーディングを行います。彼マーティンのビートルズに対する第一印象は「彼らはだいぶひどかった(They were pretty awful)」と云うものですが、彼はビートルズと契約すことを決めます。その決断こそが、彼らとマーティンとの長きにわたる関係の始まりとなります。この時、緊張していた彼ら4人にマーティンは「何か気に入らないことがあるか?」と尋ねたところ、ジョージ・ハリソンの回答が「あなたのネクタイが気に入らないね!」と云うもので、その時に感じたセンスやユーモア、そして音楽性が、お互いを認め合うスタートであると云われています。彼は最初のレコーディング時のドラマーであるピート・ベストの演奏が気に入らず、レコーディングには使えないことを指摘します。マーティンのこの指摘が直接的な引き金となってピート・ベストが解雇され、あらたにリンゴを加入させるというメンバー再編となったと報道されてますが、後に発表されたジョージ・マーティンの自伝『耳こそすべて(ALL you need is ears)』によれば、マーティンはベストの脱退に関してはまったく関与していないと語っており、現在ではピートの脱退はマーティンの示唆によるもの、という説はほぼ否定されています。マーティンの音楽的専門知識は、ビートルズの天賦の才能と達成しようと考えていたサウンドとのギャップを満たすことを助け、ビートルズの楽曲におけるクラシック的アプローチやオーケストレーション、複雑なサウンド・エフェクトの多くが、マーティンとの共同作業によるもので、代表的な例として「ペニー・レイン」におけるピッコロ・トランペットのソロや「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」でのテンポもキーも違った二つの曲を一つの曲にするという離れ業を行うなど(注意して聞くと開始から1分ちょうどを境にテンポが違っているのが分かります)、彼はメンバーからの困難なリクエストに応え、その音楽的な成功に大きく貢献します。ただし、実際はジェフ・エメリックの手腕によるところが大きいとも云えるでしょう。彼自身は「アレンジの際、ポールは音楽的に解り易く説明してくれたので、あとはそれに基づいて譜面を書けばよかったけど、ジョンは抽象的な表現だけで説明してくるので苦労した」と振り返っています。
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 https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1926-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3-%E8%AA%95%E7%94%9F/
 https://en.wikipedia.org/wiki/George_Martin
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 1964(昭和39)年04月04日(土)、ザ・ビートルズが全米トップ5独占~同時にチャート・インしたもう一つの理由とは?
 2018(平成30)年04月04日(水)【大人のMusic Calendar】By - NEWS ONLINE 編集部
 ザ・ビートルズが全米ヒット・チャートに遺した前人未到の記録の中でも、とりわけ華々しく語られているのが、シングル・ランキングのトップ5独占であろう。日付は1964年4月4日。一般的に全米チャートとしてもっとも幅広く認識されるビルボード誌Hot 100のデータに拠るものだ。
 第1位♪キャント・バイ・ミー・ラヴ♪ キャピトル
 第2位♪ツイスト・アンド・シャウト♪ トリー、ヴィージェイ系列
 第3位♪シー・ラヴズ・ユー♪ スワン
 第4位♪抱きしめたい♪ キャピトル
 第5位♪プリーズ・プリーズ・ミー♪ ヴィージェイ。参考までにこの週のHot 100には
 第31位♪アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア♪ キャピトル
 第41位♪フロム・ミー・トゥ・ユー♪ ヴィージェイ
 第46位♪ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット♪ ヴィージェイ
 第58位♪オール・マイ・ラヴィング♪ キャピトル
 第65位♪ユー・キャント・ドゥ・ザット♪ キャピトル
 第68位♪ロール・オーバー・ベートーヴェン♪ キャピトル
 第79位♪サンキュー・ガール♪ ヴィージェイの計12曲が入っていた。そもそもなぜ,これほどの数の楽曲が一度にチャート・インしたのか? 曲名後に表記したように、アメリカにおいてザ・ビートルズのシングル盤が複数のレーベルから発売されていたことが小さくない要因であろう。1962年10月にイギリスにて公式デビューを果たし、よく63年を通じて本国のマーケットを制圧した彼らながら、大国アメリカでの反応はまだ鈍かった。所属レーベル=パーロフォンを持つEMIは2枚目のシングル♪プリーズ・プリーズ・ミー♪の時点でアメリカでの系列キャピトル・レコードに発売を要請するが見送られる。そこでEMI音源の販売促進を請け負っていたニューヨークの代理業会社トランスグローバルを通じてアメリカ発売実現のため、他のレーベルへの売り込みがかけられる。バンドのマネージャーだったブライアン・エプスタインの意向もあり、これに応じたシカゴのR&Bレーベル=ヴィージェイが63年2月に♪プリーズ・プリーズ・ミー♪をアメリカ発売するが売り上げは5,650枚と、広い国土で限られた都市からしか反応は得られなかった。デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』も出そうと考えたヴィージェイは、『INTRODUCING ...THE BEATLES』のタイトルで7月末のアメリカ発売を予定する。一方乏しい成果とシングルからの印税未払いなどを理由に、トランスグローバルはヴィージェイに見切りをつけるが、♪シー・ラヴズ・ユー♪をまたまたキャピトルのデイヴ・デクスターが見送ったため、実力者ディック・クラークにも近いフィラデルフィアのレーベル=スワンが9月に発売する。だが、まだアメリカではラジオが彼らに注目していなかった。63年11月に、「抱きしめたい」を持って渡米したエプスタインの、キャピトルのブラウン・メグスとの交渉によって事態は動く。様相が本格的に変わるのは、
‡1964(昭和39)年01月03日(金)に米NBC-TVの『ザ・ジャック・パー・ショー』で♪シー・ラヴズ・ユー♪の映像が紹介されたころからで、ついにキャピトルから発売された♪抱きしめたい♪が
 1964(昭和39)年01月18日(土)付けで全米第45位に初登場すると、登場3週目、
 1964(昭和39)年02月01日(土)付けで堂々の第1位を獲得。そしておよそ7,300万人が観たともされる
 1964(昭和39)年02月09日(日)のCBS-TV『エド・サリヴァン・ショー』への伝説的な出演以降、リヴァプールの4人組は1964年の社会現象となっていく。発売権をめぐってキャピトル/トランスグローバルとの係争に入っていたヴィージェイは、いかなる法的紛争に陥ろうとも出せるレコードを売るだけ売ってしまおうと考えていただろう。当初獲得した音源の6ヶ月間の販売猶予で裁判が決着したこともありシングルが多数流通し、結果としてそれがバンドの加熱する人気に対応し得る状況作りに結びついた。キャピトルだけがザ・ビートルズのシングルを出していたら、これほどの曲数がチャートにひしめくことにはならなかったかもしれないと考えると、ひとつの必然的なドラマだったようにも感じられてならない。
【著者】矢口清治:ディスク・ジョッキー。1959年群馬生まれ。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオ業界入り。これまで『Music Today』、『GOOD MORNING YOKOHAMA』、『MUSIC GUMBO』、『ミュージック・プラザ』、『全米トップ40 THE 80'S』などを担当。またCD『僕たちの洋楽ヒット』の監修などを行なっている。
 https://news.1242.com/article/140970

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 ┃ 『GET BACK NAKED...ゲット・バック・ネイキッド』  ┃
 ┃  22DAYS THAT ROCK'N ROLLED THE BEATLES IN 1969 ┃
 ┃    1969年、ビートルズが揺れた22日間   ┃
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 2019(令和元)年05月08日(金) 青土社 著:藤本国彦 \2640(電子書籍)
 1969(昭和44)年、ビートルズが揺れた22日間の全貌!
 1969(昭和44)年01月02日(木)、ビートルズの4人は、ロンドン郊外のトゥイッケナム・フィルム・スタジオに集まった。無精髯を生やしたポール・マッカートニー、スタジオを立ち去るジョージ・ハリスン。伝説のルーフトップ・コンサート。そして残された未発表音源――。ビートルズが揺れた22日間を追いかけて、現在入手可能なあらゆるブートレグ音源、記事、証言を徹底検証。幻のゲット・バック・セッションの全貌を再構築する。
‡1969(昭和44)年01月03日(金) ポール・マッカートニー「やってることを楽しめるようになるための作業だ。またやり直すための。次に僕らがやりたいのは何だろう? 僕はライヴ・ショーがやりたい。君たちは?」
 1969(昭和44)年、原点に立ち返る思いでスタジオに入った4人。ビートルズが揺れた22日間を追いかけて、あらゆるブートレグ、資料、記事を徹底検証。そこで彼らは何を話し、バンドはどこへ向かっていたのか。幻のゲット・バック・セッションの全貌、そしてビートルズの終わりのはじまり
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 https://www.amazon.co.jp/dp/B087FZPY4W
 https://www.getback.tv/shopdetail/000000005383/
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 ┃ 『'LET IT BE' DAY BY DAY in color expanded』 ┃THE BEATLES
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【CD : TWICKENHAM FILM STUDIO STEREO TRACKS】紹介する順序が逆になってしまったが、本作には映像とは別に3枚のCDが同時に収録されている。ディスク1とディスク2の半分までは、
‡1969(昭和44)年01月03日(fri)のステレオ音源が収録されている。セッションが始まって間もないため、まだ散漫な印象を受けるが、演奏頻度が少ないカバー曲や、後にジョージのソロ・アルバムに収録される「All Things Must Pass」を何度も繰り返しトライしているなど、かなり興味深い日である。珍しいところでは「I’m So Tired」「Ob La Di Ob La Da」「Back In The U.S.S.R.」や「Every Little Thing」といったかつてビートルズで演奏した事のある曲、「Gimme Some Truth」といった後にソロ・アルバムに収録される曲などがある。
 AUDIO DISC ONE
‡1969(昭和44)年01月03日(fri) January 3, 1969
 01. Piccaso
 02. Taking A Trip To Carolina
 03. All Shook Up
 04. Your True Love
 05. Blue Suede Shoes
 06. Three Cool Cats
 07. Blowin' In The Wind
 08. Lucille
 09. I'm So Tired
 10. Ob La Di Ob La Da
 11. Don't Let Me Down
 12. I've Got A Feeling #1
 13. I've Got A Feeling #2
 14. One After 909 #1
 15. One After 909 #2
 16. I'll wait Until Tomorrow
 17. The Hippy Hippy Shake
 18. Two Of Us #1
 19. Two Of Us #2
 20. Two Of Us #3
 21. Two Of Us #4
 22. Two Of Us #5
 23. Short Fat Fanny
 24. The Midnight Special
 25. Gimme Some Truth
 26. All Things Must Pass #1
 27. All Things Must Pass #2
 28. All Things Must Pass #3
 29. All Things Must Pass #4
 30. All Things Must Pass #5
 31. All Things Must Pass #6

 AUDIO DISC TWO
‡1969(昭和44)年01月03日(fri) January 3, 1969
 01. All Things Must Pass #7
 02. All Things Must Pass #8
 03. All Things Must Pass #9
 04. Back In the USSR
 05. Every Little Thing
 06. Maxwell's Silver Hammer #1
 07. Maxwell's Silver Hammer #2
 08. Maxwell's Silver Hammer #3
 09. Maxwell's Silver Hammer #4
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 ┃ 『'LET IT BE' DAY BY DAY in color expanded』 ┃THE BEATLES
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【'LET IT BE’ DAY BY DAY in color expanded】マニア必携Mクローデル・レーベルより、初登場映像を数多く含んだ、1969年1月のゲット・バック・セッションの貴重な映像集である。しかも日付順に収録されているため資料的な価値も高い作りとなっている。今まで音源は数多く、ほとんど全てが流出しているが、こと映像となると淋しい限りの状況であった。本作ではそのような現状を解消する必見映像である。なかなか初登場音源ないし映像が出にくくなっていたビートルズのマテリアルを取り巻く状況において、この作品は驚きをもってマニアに受け入れられるであろうと自信を持っている。美しいピクチャー・ディスク仕様の永久保存がっちりプレス盤。スリップケース付。
【DVD : TWICKENHAM STUDIO】
‡1969(昭和44)年01月03日(fri) リンゴが座っている横でポールがピアノを弾いているお馴染みのシーンである。途中ジョージが到着してリンゴとにっこり笑いながら話している。演奏シーンももちろんだが、機材のセッティングや調整しているシーンも含まれている。「All Things Must Pass」を歌っているシーンが印象的である。フロントの3人がディスカッションをしているのを後ろでリンゴが不安そうに見ているのも、このセッションの特徴や雰囲気を表しているといえよう。
 DVD DISC ONE
 Twickenham Film Studios 1969
‡1969(昭和44)年01月03日(fri) January 3, 1969
 Paul's Piano Intro
 Don't Let Me Down
 Improvisation
 Electric Shocks
 All Things Must Pass
 Maxwell's Silver Hammer
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 http://www.teenagedream-record-3rd.net/?pid=120647554
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ゲット・バック・セッション
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 ┃ 『ザ・ビートルズ・サウンドを創った男 耳こそはすべて』 ┃
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 2016(平成28)年12月21日(水) 発売
 G・マーティン (著), 吉成 伸幸 (翻訳), 一色 真由美 (翻訳) 
 https://www.amazon.co.jp/dp/4309277268
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①┃ 『OFF THE BEATLE TRACK』   ┃
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 instrumental versions of THE BEATLES big hits by GEORGE MARTIN & his orchestra
 1964(昭和39)年07月10日(fri) mono US released
 1964(昭和39)年08月03日(mon) mono UK released
 A面              B面
 1. ALL MY LOVING        1. FROM ME TO YOU
 2. DON'T BOTHER ME       2. THERE'S A PLACE
 3. CAN'T BUY ME LOVE      3. RINGO'S THEME(THIS BOY)
 4. ALL I'VE GOT TO DO     4. PLEASE PLEASE ME
 5. I SAW HER STANDING THERE  5. LITTLE CHILD
 6. SHE LOVES YOU        6. I WANT TO HOLD YOUR HAND
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②┃ 『off the beatle track   THE GEORGE MARTIN Orchestra』  ┃
 ┃ ビートルズ・ヒット・ソング集 ジョージ・マーティン楽団 ┃
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 OP 7149 STEREO  日本独自編集盤
 A面              B面
 1. I WANT TO HOLD YOUR HAND  1. SHE LOVES YOU
 2. PLEASE PLEASE ME      2. CAN'T BUY ME LOVE
 3. FROM ME TO YOU       3. ALL MY LOVING
 4. THERE'S A PLACE       4. I SAW HER STANDING THERE
 5. LITTLE CHILD        5. DON'T BOTHER ME
 6. RINGO'S THEME(THIS BOY)  6. ALL I'VE GOT TO DO
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③┃ 『Off The Beatle Track』 ┃George Martin And His Orchestra
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛(Feat. The Beatles)
 2014(平成26)年07月10日(thu) Amazon Music Unlimited 12曲(25分) 
 01 2:15 She Loves You
 02 2:01 Can't Buy Me Love
 03 2:53 Don't Bother Me
 04 2:14 All I Gotta Do
 05 2:04 I Saw Her Standing There
 06 2:46 All My Loving
 07 1:48 Please, Please Me
 08 2:20 I Want to Hold Your Hand
 09 1:50 From Me to You
 10 1:45 Little Child
 11 2:12 This Boy
 12 1:49 There's a Place
 (P) RE Musik und Media c Rainer Kern
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 ①http://en.wikipedia.org/wiki/Off_the_beatle_track
 ②http://www.thebeatles-1.com/akaban/jpakaban1965offthebeatletrack.htm
 ③音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B00LNFYI4U
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 ┃ 『Beatles To Bond To Bach』  ┃George Martin And His Orchestra
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 1974(昭和49)年01月01日(tue) Released
 1 08:33 The James Bond Suite: James Bond Theme/Whisper Who Dares/Bond Meets Solitaire/Live And Let Die 
 2 03:11 Air On The G String 
 3 09:19 The Beatle Suite: Sergeant Pepper's Lonely Hearts Club Band/Lucy In The Sky With Diamonds/A Day In The Life 
 4 02:37 Theme One 
 5 02:09 Elizabeth And Essex 
 6 11:01 Yellow Submarine Suite: Pepperland/March Of The Meanies/Desolation/Voyage Through The Seas Of Time; Holes And Monsters/Yellow Submarine 
 7 03:32 Prelude For Strings 
 (P) 1974 Chrysalis Copyrights Limited, under exclusive license to Varese Sarabande Records, under exclusive license to Varese Sarabande Records c 1974 Chrysalis Copyrights Limited
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 https://music.amazon.co.jp/albums/B01BZEG8RS
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 ┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』 ┃
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 1996(平成八)年10月28日(mon) JP Released
 1996(平成八)年10月28日(mon) UK Released
 1996(平成八)年10月29日(tue) US Released
◇Disc two (CD2)
◎LP F-side (Record Disc 3)
 22."I Me Mine" (Take 16) Harrison
‡1969(昭和44)年01月03日(fri) EMI Studios 1:48
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 https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDWNM
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT36GH9
 https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_3
 https://music.amazon.co.jp/albums/B00H77Z0I6
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 ┃ THE BEATLES of 1963  ┃(thu)03 January 1963
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 Concert:Two Red Shoes Ballroom, South College Street, Elgin, Morayshire, Scotland
 The first night of a four-show Scottish jaunt.
 "...a five night trip around various Scottish towns thanks to a contract signed between Brian Epstein and Albert Bonici [through Cana Variety Agency] in November of 1962. The original advert [12 Dec 62] billed the Beatles with the Dave Sisters [Dale] but they took another date. By the end of the month, the Beatles song "Love Me Do" was becoming popular and Bonici then coined, "Love Me Do boys" to promote the band in Scotland...
 John took the opportunity to fly back to Liverpool for a few hours, returning to Scotland early on the morning of the 3rd in time to get to the Elgin gig. The Elgin gig was noted for the L-shaped ballroom which meant that some of the audience couldn't see the Beatles on stage...
 Thanks to Jimmy Russell and others who remember the '60s music scene in Elgin, I've heard interesting stories about various entertainers such as Lulu, Pink Floyd, and the Beatles...
 John, Paul, and George had a bit of history with NE Scotland as they had backed Johnny Gentle in 1960 when they were under fianced. This came to mind when Jimmy told me about their arrive in the Park Cafe which was attached to "Boots" [nickname for the 2 Red Shoes]. The Beatles knew that touring as nearly unknowns meant they'd need to budget themselves, if not "tightening their belts" along the way.
 The account goes that Jimmy's daughter was working in the sweetie shop and had called her dad when the Beatles arrived. Besides letting him know they were at the hall, she mentioned and that they had a funny smell about them. According to the story, the fab four had bathed in a nearby river and had the odor of weeds. The story goes that Albert had Jimmy take them over to his house for a proper bath before they performed and again the next day before they went on to Dingwall for their second performances.
 Jimmy, recalling the night of the third, said that whilst there were only a few dozen in the beginning of the Beatles performance, there were about 200 by the end of the night. By cover band leader Alex Sutherland's account there were about 80 there but Jimmy was taking tickets. Boots often had larger crowds since kids came from surrounding towns but it was decent considering the weather. The Dingwall gig was said to have a poor showing of less than 20 but the booking was in conflict with a traditional Irish band and it was a smaller hall.
 After the performance in Elgin, Jimmy sat with the Beatles for an hour or so whilst they were treated with food and coffee. From what he could remember, they were dressed in black that night and were friendly young men though he didn't think to get an autograph. Though 'Love Me Do' was just hitting the pop charts, most people didn't suspect that they'd have two singles by the end of the month."
 Source: http://blogs.myspace.com/david.dills 
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 "Arthur McKerron used to go to the back cafe? of the Two Red Shoes for a meal. He asked the owner's wife who was performing in the dance hall that night and she replied it was "some group called The Beatles". 
 "The place was deserted," Arthur recalled. "One couple were more or less just walking or jiving around the hall and three or four couples were sitting at tables." 
 The next day student nurse Adeline Reid and her friend were leaving their boarding house to go to the local hospital when she saw The Beatles hanging out a window of the boarding house next door. 
 "They shouted at me," Adeline recalled. "John asked me to take his pulse. My face went the colour of a tomato. 
 "Our landlady proceeded to reprimand them for their cheek. She did not approve of them talking to her girls in such a shocking manner!"" 
 Source:『Sunday Post』, (tue)25 October 2016 
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