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『SGT:PEPPER'S』を可能にした10の事
 2017(平成29)年05月15日(月) STORIES Written by Laura Stavropoulos
『Sgt. Pepper』はザ・ビートルズのカタログにおいても、人々の記憶においても唯一無二の地位を占める作品である。あなたの音楽的な傾向にかかわらず、一般的に、音楽、文化、両面にとってこのアルバムの影響力が非常に巨大なものであることは否定できない。歴史は、サージェント・ペパーズ以前と以後で分類されるのだ。そのリリースを直に体験したことのない人々にとっては、『Sgt. Pepper』へのなじみは軽減されているだろう。かつては広く革新的であり、大いに新しいものであったものが、今や“クラシック・ロック”に分類されるからだ。それにもかかわらず、『Sgt. Pepper』はロックを“尊敬すべき”アート・フォームたらしめ、その評判は、その後何十年にわたって聞かれることとなる。『Sgt. Pepper』は1967年にしか生まれえなかったものかもしれない、それを理解するには、文化と音楽の間の共生関係を理解しなくてはならない。このアルバムの50周年を記念して、ザ・ビートルズ史上もっとも、褒め称えられた功績へと導いた周囲の状況を考察してみよう。
 01:60年代カウンターカルチャー■カウンターカルチャーの精神は、『Sgt. Pepper』以前に、一足早く姿を現していた。ボブ・ディランが彼の伝説的な2枚組アルバム『Blonde On Blonde』をリリース、一方で、ブライアン・ウィルソンは、ザ・ビーチ・ボーイズで『Pet Sounds』を制作した。一見したところ、すべてのアーティストが創造的にフル回転しており、その1年間に及ぶ、凄まじいリリースのペースは異例なものであった。アメリカの両海岸、そして、イギリスにおいて、アーティストは各々刺激しあい、次々に何か新しいものが創作されるなど、文化的な交流が開放されていた。ジョン・レノンの指摘によると、ザ・ビートルズがカウンターカルチャーを作り上げたわけではない、しかし彼らが最も周知されたシンボルであることは間違いない。「僕らがみんなのヘアスタイルを変えたなんてほんの微々たることだろ?だけど、僕らは何らかの影響を受けたんだ、そこに漂っているすべてにね」とジョン・レノンは語った。「僕たちは60年代のすべての一部だよ。それは自然に起こったことだ。僕らはストリートで起きていることを代表するためのひとつとして選ばれただけ」。『Sgt. Pepper』は60年代文化の反体制的な本質を捉えたものではない一方で、音楽、ヴィジュアル・アート、歌詞のイメージといった点において、その寛容性を定義していた。ボードビリアン的な「Being For The Benefit Of Mr Kite!」から 「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」のスポークン・ワード、そして、「A Day In The Life」のフル・オーケストレイションまで、それらは、前衛的芸術とポップ・ミュージックの境界線をあいまいなものとしたのだ。
 02.カリフォルニアのサイケデリックなバンドのバンド名■東海岸、特にサンフランシスコのシーンで起きていること夢中になり、ポール・マッカートニーはバンドの名前の最近の流行は、革命的に長く、そしてより想像力に富んだものであることに気が付いた。もはやザ・ビートルズ、ザ・バーズ、ザ・キンクスといったものではなく、それらは突然、ローター・アンド・ザ・ハンド・ピープル、ビッグ・ブラザー・アンド・ザ・ホールディング・カンパニー、そしてジョン・レノンの提案(*訳注:インタビューにおける発言)の“フレッド・アンド・ヒズ・インクレディブル・シュリンキング・グレイトフル・エアプレインズ”といったものになった。バンドはパロディの偽名を無造作に口にしながら、ザ・ビートルズという名前を忘れるアイディアをうみだし、それ自身に新しいアイデンティティを創造していった。
 03:オルター・エゴ(別人格)の採用■この時点までに、ザ・ビートルズの人気は、成層圏に届くレヴェルに達していた、そしてザ・ビートルマニアはバンドの音楽自体を曇らせてしまうほどだった。バンドは、彼らのモップの様な髪型の時代のイメージからの解放を求めており、それがオルター・エゴという未踏の地への探検へと導いたのだ。後にポール・マッカートニーは、「自分たちのアイデンティティを失うというのは素晴らしく思えたんだ、偽のグループのペルソナに、自分たちを隠してね」と思い出して語った。そして、サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドは生まれたのだ。この流動的なアイデンティティという考えは、カウンターカルチャーの若者たちにの心に強く響いた。もはやその人の将来すべては出自で決定するものではなく、自己改革はシンプルに行うことにできるのだ。
 04:ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』■ジョージ・マーティンとポール・マッカートニーは、ザ・ビーチ・ボーイズの『Pet Sounds』を公に褒めちぎっており、『Sgt. Pepper』にとって、影響力を与えたものであったと公言している。ジョージ・マーティンはもしもブライアン・ウィルソンとザ・ビーチ・ボーイズがこの名盤を制作しなかったならば、「“Sgt. Pepper”は生まれなかっただろう」と語っており、ポール・マッカートニーは、「このアルバムにおける音楽的改革は、ただ‘ワオ!’という感じだよ。僕にとってはとても大きなことだった。しまった、これは最高傑作だ。いったい僕らは何をやってるんだ?って思ったね」と語った。しかし一方『Pet Sounds』は永続的なローテーションの中にあった、この作品はブライアン・ウィルソンがザ・ビートルズの『Rubber Soul』に影響を受けなければ、生まれなかったからだ。そして、このサイクルは続いている。
 05:フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの『Freak Out!』■もし、ブライアン・ウィルソンが、ポップな側面に助言を与えたとしたら、フランク・ザッパは、ザ・ビートルズにより革新的であるようにと後押ししたといえるだろう。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションの1966年のデビュー・アルバム『Freak Out!』は、ネオクラシカルなオーケストレーションとジャズの即興性を合体させ、カウンターカルチャー的な政治が内包され、また、単なるLPフォーマットを、コンセプチュアルな声明へと変化させた最初ともいえる作品であった。『Pet Sounds』も『Freak Out!』も、ロックとは、スタジオ・プロデューサーのメディアであるだけでなく、パフォーマンス・アートであることを証明したのだ。『Freak Out!』がLAのフリーク・カルチャーにおける宣言であったならば、『Sgt. Pepper』はサンフランシスコのヒッピーたちのサブカルチャーの高尚な宣伝といえるだろう。
 06:ツアーをやめたこと■オルター・エゴの採用を決定する前、ザ・ビートルズは、ツアーをやめることを決めた。不便さを別にしても、熱心なファンや、ジョン・レノンのキリスト教を冒涜するように見える発言を受け入れない好ましくないオーディエンスのおかげで、ツアーはバンドにとって物理的に危険なものになっていた。1966年8月29日に、サンフランシスコのキャンドルスティック・パークで行われた彼らのパフォーマンスが、1969年の有名なアップル・ルーフトップ・パフォーマンスを別にして、最後のコンサートとなった。それぞれに自分のやり方で逃避していたメンバーが、1966年11月にふたたび集まった時、彼らは、ワーキング・バンドであることよりも、よりコンセプチュアルなアイディアと共にあることへと変化することを決めた。彼らの曲の中で、民主的にヴォーカルと楽器のパートを分け合わなければ、彼らはお互いの強みにより自由でいることができ、また、完璧に近いところまで成し遂げるために、スタジオで(音を)いじくりまわすことができたのだ。リンゴは『Anthology』のブックレットの中で、バンドの考えを総括して語った、「ツアーをやめると決めた後、僕らはわずかなことを気にせずに済むようになった。『Revolver』や『Rubber Soul』を聴けばわかるように、僕らはスタジオでより楽しめるようになった。スタジオから引きずり出されて、ツアーに出る代わりに、(スタジオで)時間を費やせるようになったし、リラックスできたんだ」。
 07:スタジオにおける実験とジョージ・マーティン■アビィ・ロードにおけるセッションの間に、ザ・ビートルズは彼らのビートルマニアの章の幕を閉じ、スタジオ・イヤーズともいえる章の幕を開けたのだ。何年もの間、多くのロックとポップはある程度ライヴで演奏ができるように制作されていた。レコーディング・プロセスがどうかというと、大まかなやり方は、ライヴ・パフォーマンスを録音する、もしくは再構築するといったものだった。しかし、ジョージ・マーティンと・ザ・ビートルズは、彼らの奇抜な考えで、それらをひっくり返したかった。ジョージ・マーティンが語ったところによると、「テープでしかできない何かをテープの中に落とし込みたかったんだ」ということだ。彼はプロデューサー以上の存在であり、ザ・ビートルズ・サウンドの建築家であり、グループにより前衛的なタイプのレコーディングを経験させ、彼らの視野を広げるアイディアに触れさせた。
 08:技術的制限■当時のスタジオ技術を使用して、ジョージ・マーティンとザ・ビートルズが成し遂げたことは、並外れたことであり、それが、『Sgt. Pepper』を印象的なものにしている。すべての素晴らしいアイディアのように、逆境は、創意あふれるアイディアの源である。1967年までに、マルチ・トラック・レコーディングは業界のスタンダードになっていたが、エイト・トラック・テープ・レコーダーは、アメリカではありふれたものであったが、イギリスでは、1967年後半まで、そうではなかった。アルバムにおけるサイケデリックなサウンド・エフェクトの大半は、ヘッドフォンをマイクとして利用したり、マイクをスタジオにある様々なものとつなげたりする独創的なアイディアや他の創意あふれる工夫によって、作り上げられた。
 09:東洋的神秘主義■ザ・ビートルズは、他の西洋世界と同様に、インドの音楽の伝統、精神性、文化に夢中になっていった。その影響は、『Rubber Soul』収録の「Norwegian Wood」のころから感じられる、そして、特に、『Revolver』収録のジョージ・ハリスンによる「Love You To」では色濃く感じられる。ジョージ・ハリスンのインド音楽への興味は一生かけての情熱として花開いた。『Sgt. Pepper』のセッションが始まる前、ジョージ・ハリスンはボンベイへ、ラヴィ・シャンカールのシタールのレッスンを受けるために旅立った。結果として、東洋に染まった「Within You Without You」が生み出され、「Lucy In The Sky With Diamonds」のバックの音色にもそれは現れている。
 写真◆George Harrison Ravi Shankar Credit: Michael Ochs Archives/Getty Images
 10:音楽業界のトレンドを無視した■1966年までに、次々と巨大なヒットを蓄積しており、
 1966(昭和41)年12月31日(土)までに、アルバム『Revolver』はアメリカだけで、1,187,869枚売り上げていた。彼らの成功は、自身をソングライティング、楽器/機材の使用において新しいアプローチを試みることのできるポジションへと押し上げていた。彼らは、それぞれのアルバムで、ロック・ミュージックが許容しうる定義を広げて、またあらゆるジャンルのファンにリーチすることができる能力は、メインストリームへのアピールを残しつつも、彼らに違うスタイル、楽器での演奏を可能にした。ポピュラー音楽の思いつきを通過しそれにこたえてこなければ、ザ・ビートルズはダンス・ミュージックやラジオ・フレンドリーなシングルを作ることを避けることができただろう。その代わりに、彼らはロックのスタンダードを上げ、その後すぐに頭角を現すプログレッシヴ・ロックや、アートロックの未来を切り開いたのだ。
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/10-things-that-made-sgt-pepper-possible
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『SGT:PEPPER'S』が後世に与えた影響
 2017(平成29)年06月12日(月) STORIES Written By Martin Chilton
 こと実験性という意味においては、1967年以降現在までの半世紀の間に生まれたポピュラー・ミュージックの大部分が、『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』(以下『Sgt Pepper』)に借りがあると断言しても決して言い過ぎではないだろう。ザ・ビートルズのサウンド、ソングライティング、スタジオ・テクノロジー、そしてカヴァー・アートにおける極めてユニークな冒険が、たちまちのうちに大きなインパクトをもたらし、英国の全レコード・リリース史上最大のセールスを記録するに至ったこのアルバムが世に出たのは、
 1967(昭和42)年06月01日(木)のことだった。
 1967(昭和42)年06月04日(日) リリースから僅か3日後、ザ・ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンスはロンドンのサヴィル・シアターでのショウのオープニングを、(『Sgt Pepper』の)アルバム・タイトル曲のカヴァーで飾った。折しも客席に居合わせたポール・マッカートニーとジョージ・ハリスンはこの時、自分たちが何かとんでもなくスペシャルなものを作り上げたことを悟ったに違いない。それから5カ月も経たないうちに、ジェファーソン・エアプレインが、実験的な『Sgt Pepper』の影響色濃い『After Bathing at Baxter’s』をリリースする。これは彼らが同じ年にリリースしていた前作の『Surrealistic Pillow』とは全くかけ離れた作風のアルバムだった。ザ・ムーディ・ブルースもいち早く新たな音楽的視界の受け容れを表明したバンドである。67年11月、彼らがリリースした『Days Of Future Passed』はロンドン・フェスティヴァル・オーケストラの力を借り、ザ・ビートルズの影響を強く感じさせるサイケデリック・ロック/クラシック・サウンドを作り上げた。
 1967(昭和42)年12月08日(金)には、ザ・ローリング・ストーンズが『Their Satanic Majesties Request』をリリースする。このアルバムは『Sgt Pepper』に対するシニカルなサイケデリック的回答と評価され、キース・リチャーズもこう認めている:「あれは、結局何とも中途半端なもんになっちまったな。ちょうどストーンズが新しいアルバムを出そうとしてた時に、『Sgt Pepper』が出てきて、要するに俺たちはあれのパロディーをやらかそうと考えたわけだ」。この他にも、ザ・ビートルズによって具現化されたアルバムには枚挙のいとまがなく、1968年のブリティッシュ・ロック・グループ、ザ・プリティ・シングスによる『SF Sorrow』から、一年後にはキング・クリムゾンが『In The Court Of The Crimson King(邦題:クリムゾン・キングの宮殿)』で明らかにそれと分かるオマージュを捧げた。ギタリストでありプロデューサーでもあるロバート・フリップは、ラジオ・ルクセンブルグで耳にしたジョン・レノンとザ・ビートルズの他のメンバーたちに触発され、かの歴史的プログレ・ロック・アルバムを作る着想を得たのだそうだ。「『Sgt Pepper』を聴いてから、私の人生は一変したんだ」、ロバート・フリップはそう言って憚らない。ザ・ビートルズはカウンターカルチャーの価値観をメインストリームに持ち込んだ。“ロック・アルバム”かくあるべし、という伝統的な不文律を破ることで、『Sgt Pepper』は他のアーティストたちに、それまでになかった新しいアイディアとアティテュードによる音楽へのアプローチを促したのである。レコードのプロダクションにおいても、このアルバムは専門的技術と革新性において新たな基準となった。ザ・ビートルズのファースト・アルバム『Please Please Me』は、全曲を実に僅か1日、約10時間で録音完了させたものだったが、『Sgt Pepper』は1966年11月から1967年4月まで、トータル約700時間の作業(プロデューサーのジェフ・エメリック談)が注ぎ込まれていた。レコードが完成するまでレコーディング作業を続けるという考え方(ただ単にスタジオを数日借りるということではなく)は革命的なコンセプトであり、プロデューサーのジョージ・マーティンによれば、‘道具としてのスタジオ’の定義を見直すきっかけにもなった。結果としてアビィ・ロード・スタジオの使用料総額が、当時としてはケタ外れの25,000ポンドに達したのも当然の成り行きだろう。更に画期的だったのはマルチ・トラックを使っての録音作業で、ジョージ・マーティンはその利点を駆使して西洋の音楽とインド音楽、ジャズ、そしてサイケデリック・ロックやポップ(ヴィクトリア時代のミュージック・ホール《訳注:ヴォードヴィル的演芸要素を含む軽音楽劇》をたっぷりと加えて)との融合を図り、声とインストゥルメンテーションによるめくるめくサウンド・コラージュを作り上げた。ポール・マッカートニーは『Sgt Pepper』が音楽カルチャーに‘大いなる違い’をもたらした理由のひとつとして、それ以前は「みんなポピュラー・ミュージックの枠の中で、少しばかり無難な方に寄っていたんだけど、僕らはふと気づいたんだよ、別にそうする必要なんかないんだってね」と語っている。『Sgt Pepper』は時に、史上初のコンセプト・アルバムとして称えられることがある。これは必ずしも的を射た表現とは言えないが(ドラマーのリンゴ・スターは、アルバムには首尾一貫したテーマは存在しないことを公式に認めており、レコーディング作業開始直後のセッションから生まれた2つの名曲、「Strawberry Fields Forever」と「Penny Lane」はそれぞれシングルとして出すことを前提に録音されたものだったと証言している)、世の人々はかの作品を‘コンセプト’・アルバムと信じて疑わず、その定義はもはや音楽界の民間伝承と化しているのだ。ザ・ビートルズに影響を受けたバンドには、ジェネシス、イエス、ラッシュ、ジェスロ・タルまで含まれており、彼らの独創的なアルバムは、空前の“ロック・オペラ”熱をも巻き起こすきっかけとなった。驚異的成功を収めたザ・フーの2枚組アルバム『Tommy』(1969)も、ティム・ライスとアンドリュー・ロイド・ウェバーによる『Jesus Christ Superstar』(1970)も、根元をたどれば『Sgt Pepper』という大木に行き着くのだ。ザ・ビートルズが変化の引金を引いたのは、何もロックの輪に限ったことではない。カーラ・ブレイはこのアルバムを聴いて、「これに負けないようなアルバムを作ってやる」と心に決め、それからの4年間を費やし、リンダ・ロンシュタットをフィーチャーして作り上げた前衛ジャズのトリプル・アルバム『Escalator Over The Hill』を1971年に世に送り出した。『Sgt Pepper』はまた、音楽上の第二の自我(ルビ:オルター・エゴ)という考え方を一般的に知らしめた。いつもの日常から一歩踏み出し、ステージの上やレコードの中では別のペルソナをまとっても差し支えないという発想は、「解き放たれたように感じさせてくれた」とポール・マッカートニーは言い、この冒険はやがてデヴィッド・ボウイやグラム・ロック時代のKISSをはじめとする多くのアーティストたちを巻き込んでいくことになる。もっとも、すべての人が『Sgt Pepper』を手放しで、何もかも超越した天才的作品と褒め称えたわけではなく、かのアルバムにインスピレーションを得て生まれた作品の中には、寧ろその逆に近い反応もあった。フランク・ザッパ&ザ・マザーズ・オブ・インヴェンションがヴァーヴ・レコードから1968年にリリースした『We’re Only In It For The Money』(*訳注:直訳すると「俺たちはただ金のためにやってるだけだ」)は、アルバム・カヴァーからして『Sgt Pepper』のパロディで、その政治的スタンスと、60年代後期のカウンターカルチャーの心臓部と思われていた、いかにもインチキ臭い“ヒッピー的”価値観を痛烈に諷刺した。ザ・ラトルズは『Sgt Pepper』ならぬ『Sgt Rutler’s Only Darts Club Band』というパロディ・アルバムを出し、子供向けTV番組の『セサミ・ストリート』までもが、‘With A Little Yelp From My Friends’という曲をレコーディングした。しかし、ザ・ビートルズがこのアルバムで切り拓いた新たな道は、実は音楽だけに留まらなかった。フロントの眩惑的なヴィジュアルは、アルバム・カヴァーがモダン・アート作品になり得ることを確信させたし、アルバムのパッケージの一部に全収録曲の歌詞をすべて完全な形で組み込んだ、最初のロック・アルバムともなったのである。マイケル・クーパーの撮影による写真では、バンド・メンバー全員が揃いのサテンのスーツ姿で、画家のピーター・ブレイクと彼の当時の妻ジャン・ヘイワースが制作したメイ・ウェスト、オスカー・ワイルド、ローレル&ハーディ、それにW.C.フィールズといった歴史上の人物たちの段ボールのコラージュの前に立っている。これは60年代サイケデリック時代全体を通じて、最も不朽のイメージのひとつだろう。『ザ・シンプソンズ』をはじめ、このカヴァーは愛情をこめて何百回と真似されてきた。2016年には、英国の芸術家クリス・バーカーが、レナード・コーエン、プリンス、フットボール選手のヨハン・クライフ等、同年惜しまれつつ亡くなった各界のスターたちをキャスティングした新たなヴァージョンを発表している。アルバム全体と同様、『Sgt Pepper』は曲単位でも数え切れないほど多くのカヴァー・ヴァージョンを触発している。特によく知られているのは♪Lucy In The Sky With Diamonds♪ エルトン・ジョン ♪With A Little Help From My Friends♪ ジョー・コッカー他、ハリー・ニルソン、ファッツ・ドミノ、ブライアン・フェリー、ジェフ・ベック、ソニック・ユース、アル・ジャロウ、ビリー・ブラッグ、そしてビリー・コノリーに至るまで、実に多くの優れたカヴァーが世に出ているのだ。20世紀の音楽の傑作に対するトリビュートは、1995年のスマッシング・パンプキンズの後も、世紀をまたいでなお続いている。カイザー・チーフスは1967年のレコーディング時にエンジニアを務めたジェフ・エメリックの手による2007年のトリビュート・アルバムのために、「Getting Better」のカヴァーを提供した。ブライアン・アダムスも参加したこの『Sgt Pepper』のニュー・ヴァージョンの録音に際し、ジェフ・エメリックはオリジナルのレコーディングで使用されたのと全く同じ機材を使っていた。アメリカのバンド、チープ・トリックは、2009年のライヴ・アルバムでフル・オーケストラをフィーチャーしたヴァージョンを披露し、更に2011年にはアメリカ人ギタリストのアンディ・ティモンズが、1970年に別のザ・ビートルズのアルバム、『Abbey Road』の全曲カヴァーを出した例に倣うように、全曲インストゥルメンタルのカヴァー・アルバムを出している。『Sgt Pepper』が何故こんなにも絶大な影響力を持っているのかを恐らく最も的確に総括してくれるのは、ロジャー・ウォーターズの言葉だろう。ピンク・フロイドの1973年の名作『The Dark Side Of The Moon(狂気)』の構想に、このアルバムがいかに大きな役割を果たしていたかについて、彼はこう説明している:「俺はレノン、マッカートニー、そしてハリスンから、俺たちの人生について書いてもいいんだ、感じたままを表現していいんだと教わったんだ ……あれは他のどんなレコードよりも、俺と俺の同世代たちに、思い切って既定路線を外れて、何でもやりたいことをやっていいんだって許可を与えてくれたんだよ」。
 https://www.udiscovermusic.jp/stories/beatles-influence-sgt-pepper

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