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┃ 今日は何の日? ┃※名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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‡1987(昭和62)年12月27日(日) 横綱双羽黒、立浪部屋から失跡 ⇒ 横綱双羽黒が、折り合いの悪かった立浪親方(元関脇安念山)、おかみさんとトラブルになり、立浪部屋から失跡する騒動を起こした。親方は廃業届を出し、日本相撲協会に受理された。横綱在位は実質8場所で、幕内優勝なしのまま角界を去った。
1987(昭和62)年12月31日(木) 写真は、廃業が決まり記者会見する双羽黒(右)【時事通信社】※2020(令和二)年記事追加
‡1959(昭和34)年12月27日(日) 文京公会堂で、第1回『日本レコード大賞』が開催
‡1989(平成元)年12月27日(水) 将棋の羽生善治が竜王に。棋界初の10代のタイトル保持者 ※2020(令和二)年記事追加
‡2016(平成28)年12月27日(火) 安倍首相が真珠湾を訪問 ⇒ 安倍晋三首相とオバマ米大統領が、旧日本軍が1941年に米国との戦端を開いた真珠湾を訪れ、犠牲者を慰霊した。この後に演説した安倍首相は二度と戦争を繰り返さない決意を表明し、戦後に強固な同盟を築いた日米の「和解の力」を訴えた。日米首脳がそろって真珠湾を訪れたのは開戦後の75年間で初めてだった【時事通信社】※2020(令和二)年記事削除
‡1979(昭和54)年12月27日(木) ソ連がアフガニスタンに軍事介入 ※2020(令和二)年記事削除
‡2012(平成24)年12月27日(木) 松井秀喜選手が現役引退を表明。日米通算507本塁打をマーク
https://www.jiji.com/jc/daily
1968(昭和43)年12月24日(火) アポロ8号、史上初となる月の周回軌道に乗る ⇒ 米航空宇宙局(NASA)が打ち上げた有人宇宙船「アポロ8号」が史上初となる月の周回軌道に乗った。
1968(昭和43)年12月25日(水) アポロ8号は翌日までに月を10周し、
‡1968(昭和43)年12月27日(金)に地球に帰還した。写真は、「アポロ8号」から撮影された月の地平線と地球【AFP時事】※2020(令和二)年説明追加
https://www.jiji.com/jc/daily?d=1224
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=前島進
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‡2014(平成26)年12月27日(土) 黒田博樹の広島復帰を発表
‡2017(平成29)年12月27日(水) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月27日だ。
写真◆2006(平成18)年オフはファンの熱いメッセージで広島残留を決めた
多くの選手が海を渡り、一方で日本球界への復帰も珍しくなくなった。日米球界は完全にボーダーレス時代となっているが、このときはさすがに驚いた。
‡2014(平成26)年12月27日(土)は、広島が黒田博樹の獲得を発表した日だ。08年にFAでドジャース入りし、1年目から先発ローテーションに定着。2012(平成24)年からのヤンキース時代も含め、10年から5年連続2ケタ勝利を挙げていた。
2014(平成26)年オフ、ヤンキースをFAとなると複数球団の争奪戦に。「日本に戻るなら広島しかない」と公言はしていたが、約21億円と言われたメジャーのオファーを断って4億円(推定)での復帰には米球界関係者も衝撃的だったようだ。
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=Getty Images
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2012(平成24)年12月28日(金) 松井秀喜、引退会見
2017(平成29)年12月28日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は12月28日だ。
写真◆最後のユニフォームはレイズだった
1993(平成五)年に入団した巨人、そして2003年に移籍したメジャーでも活躍したスラッガー、松井秀喜。無類のタフガイにも現役を終える日がやってきた。
‡2012(平成24)年12月27日(木)、アメリカ・ニューヨークのホテルで緊急会見。日本時間では
2012(平成24)年12月28日(金)午前7時からの出来事である。
全国放送のTV局のほとんどが一斉に松井を映し出した。前日のスポーツ紙の報道のどおり、現役生活に区切りをつける記者会見だった。今回は、そのほぼ全文を再現してみよう。
「長嶋監督には感謝し尽くせない気持ちでいっぱい」
<あいさつ>
本日をもって20年に及んだ野球人生に区切りをつけたいと思い、20年間応援してくださったファン、報道の皆さまに感謝の気持ちを伝えたいと思います。
今(2012年)シーズンは3カ月くらいしかプレーできませんでした。マイナーからスタートし、メジャーに上がり、プレーする機会をいただきクリーンアップを打たせてもらいましたが、結果が振るわなかった。これが一番大きな要因です。
10年前にメジャーに挑戦するときに話しましたが、『命懸けでプレーし、メジャーという場で力を発揮する』という気持ちでやってきましたが、結果が出なくなったということです。『命懸けのプレー』もこれで終わりを迎えたんじゃないかと思います。
僕の野球人生を振り返りますと、北陸の小さな町で生まれ育ち、野球を始め、地元の高校で甲子園に出るという目標を達成でき、注目もしていただき、高校3年のとき、ジャイアンツにドラフト1位で指名していただき、長嶋監督にクジを引いていただきました。長嶋監督に出会い、毎日のように2人きりで指導していただき、その日々が僕の野球人生にとって大きな礎になりました。その出会いに関しては大きなもの、長嶋監督には感謝し尽くせない気持ちでいっぱいです。
ジャイアンツで10年間で3度の日本一になり、日々幸せで充実した時間を過ごせました。センターにコンバートされたとき、長嶋監督から『ジョー・ディマジオのような選手を目指せ』と言われたんですが、そのとき、ぼんやりとヤンキースというチームをイメージし、ずっと頭の中に残りました。1999(平成11)年のオフ、ニューヨークのヤンキースの試合を1日でいいから見てみたいと思いアメリカに行きました。ヤンキー・スタジアムでヤンキースの試合を見たことが運命のような気がします。ヤンキースの選手が放っている空気、ヤンキー・スタジアムの雰囲気。3年後にFAになるのは分かってはいましたが、3年後、このチームから欲しいと言われるような選手になりたいと思いました。
そして3年後、運良くヤンキースに誘っていただき、(決断まで)苦しい思いもしましたが、あこがれのヤンキースで7年間もプレーできたのは、僕にとって最高の出来事でした。ヤンキー・スタジアムで初めてプレーしたこと、最後にプレーしたことは一生忘れることはありません。
20年間たくさんのファンの方に応援していただき、僕の大きな力になりました。素晴らしい指導者とチームメート、僕にとって一番大きな誇りです。今後につきましては、まだ(引退を決断して)時間もたっていませんし、あまり決めておりません。ゆっくりしながら今後のことを考えていきたいと思います。20年間、ファンの皆さま、温かい声援をくださり、ありがとうございました。
「何一つ後悔はない」
<記者との質疑応答>
――引退を決断したタイミングはいつごろだったのでしょう。
松井 常にありましたけど、傾いたのはつい最近ですね。
――巨人から復帰の誘いはなかったのでしょうか。
松井 10年前、ジャイアンツの四番バッターということに対して誇り、責任を持ってプレーしていたつもりです。もし戻ってプレーすることになれば、たくさんのファンの方が10年前の姿を見たいと思うし、期待します。正直言いましてその姿に戻れる自信が強く持てませんでした。
――巨人とヤンキースについてお聞かせください。
松井 巨人は故郷(ふるさと)のようなチーム。ヤンキースはあこがれていたチームでしたが、家族のような時間があったし、家族の一員になれたような気がします。
――20年間で一番の思い出を教えて下さい。
松井 いっぱいありますね……やはり、長嶋監督と毎日、2人で素振りした時間ですかね。一番印象に残っています。
――引退することを最初に報告したのはどなただったのですか?
松井 妻です。「お疲れさま」と言ってもらいました。そのひと言に集約されています。彼女が一番のファンでいてくれたと思いますし、支えてくれました。ケガをしてから結婚したので心配をかける時間が多かった気がします。普段は球場には来ませんが、2009年のワールド・シリーズは全試合球場で観てました。それが唯一の恩返しですね。
――長嶋監督には報告されたのでしょうか。
松井 報告はしてあります。電話だったのですべての気持ちは伝わったかどうか分かりませんが、少し残念な気持ちと、よく頑張った、ご苦労さんという気持ちと両方あったような気がします。
――松井選手にとって長嶋監督とはどのような存在ですか。
松井 プロ野球選手としての心構え、練習への取り組み方、試合への取り組み方、すべてにおいて学んだことは20年間の大きな支えになりました。
――今後についてお聞かせください。
松井 これまでの経験をいろんな世代、いろんなファンに伝えていけたらいいですね。ただ20年間、プロ野球しかやっていませんから、いろいろ勉強しながら土台をつくる時間が必要だと思います。
――指導者への道をお考えではないですか?
松井 現時点では想像していないです。ただ、もしかしたら将来そういう縁があるかもしれないですね。
――日米通算で507本塁打を打たれました。その感想をお願いします。
松井 本塁打は確かに僕の魅力の一つだったと思いますが、僕が常に意識したのはチームが勝つことで、そのために何をするかを一番大きく考えていました。
――引退に悔いはありませんか?
松井 そのとき、そのときに自分で決断してきましたし、何一つ後悔はないし(心残りも)ないですね。
――今の率直な心境をお聞かせください。
松井 寂しい気持ちとホっとした気持ち。いろんな気持ちがあります。複雑ですね。「引退」という言葉は使いたくないですね。草野球の予定も入っているし、まだまだプレーしたい(笑)。
――今、自分にかけたい言葉はありますか。
松井 「よくやった」という気持ちはありません。「頑張ったね」というのもない。そんなに苦労した思いもないですし「もう少しいい選手になれたかもね」ですかね。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171227-14
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171228-14
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.043 ┃ 30円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
1959(昭和34)年2月04日(水)号 特集 二年目の長嶋茂雄 ストーブ・リーグその後の主人公
2017(平成29)年12月9日(土) 11:07 2018年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。おかげ様で、すでに通算3400号を超えている。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎長嶋茂雄のオフの多忙な取材日程
写真◆表紙は南海・野村克也
今回は『1959年2月4日号』。創刊43号で定価30円だ。表紙は南海・野村克也のキャッチャーシーン。なかなか斬新だ。センターグラビアでは里帰りの密着もあった。センターカラーは青空バックで巨人・広岡達朗のゴルフ場での1シーンだ。
巻頭グラビアは残り少ない学生生活を楽しむ王貞治(早実─巨人)。そして本文巻頭が『2年目の長嶋茂雄』。オフの多忙な取材日程があったので抜粋する。
‡1958(昭和33)年12月27日(土) 13時 東京新聞写真撮影
‡1958(昭和33)年12月27日(土) 17時 短波放送正月番組
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.397 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1965(昭和40)年12月27日(月)号 永易将之の契約金事件
2019(平成31)年02月11日(月) 10:14 昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎川上哲治はOB会を座禅で欠席
写真◆南海・野村克也
今回は『1965年12月20日号』。定価は50円だ。
ふたたび契約更改の季節がやってきた。この企画では8回目となる。
三冠王となった野村克也にシブチン南海がいくら払うかなどが話題となっていたが、ちょっと変わった事件もあった。
主人公は、この年、10勝を挙げた東映の永易将之である。のち球界を激震させた黒い霧事件の中心にもいた男だが、このときは事件というのは少し大げさな話だった。
この年、永易に提示された年俸は大幅アップの270万円。これ自体には納得だったのだが、世間話の中で永易が「もとが低いとなかなか上がりませんね」と言ったとき、球団代表が「いやいや、君は契約金で800万も払ってるじゃないか」と言って、実際に入団時の契約書を見せた。
それを見て永易の顔色が変わる。
「僕は400万しかもらってません。いったい残りの400万はどこに消えたんですか」
その後、永易は「これがはっきりするまでサインをしません」と言って、その後、記者たちにも経緯を説明し、翌日の新聞に「謎の400万円」と見出しが出る騒ぎになった。
しかしながら、その新聞が輪転機で印刷されていたころ、すでに謎は解決していた。
400万円は永易の父親が預かっていたのだ。それを入団前にお世話になっていた方たちの謝礼にしたというが、大学卒初任給が2万円程度だった時代、謝礼にしては少々高いか。
日本一となった巨人の王貞治が12月4日から1週間の予定で祖国ともいえる台湾へ。すさまじい歓迎を受けていた。同行した新聞記者は「お嫁さん探しでは」と王に質問したが、
「まさか、1週間じゃ無理ですよ」
と笑っていた。
翌5日には、熱海のホテルで巨人のOB会。芸者を呼んでの楽しいはずの会だったが、何やら不穏な空気もあった。
実は、ホスト役になってもおかしくない川上哲治監督が岐阜で参禅のため欠席したのだ。毒舌家として知られる浜崎真二が「せっかく大監督になったとほめようと思ったのに、OB会が怖かったのかな」と皮肉っていた。
また、プロ野球では閑古鳥が鳴くことが増えていた東京球場でスケート場がオープン。なかなか盛況だったようだ。
屋外だから東京の冬はいまより寒かったのだろう。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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┏━━━━━━━━━━━━━━┓『週刊ベースボール』
┃ プロ野球仰天伝説 No.001 ┃ ONLINE
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長嶋茂雄は素振りで手にマメができなかった!?/スーパースターたちの妙技
‡2017(平成29)年12月27日(水) 11:07 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
素振りの重要さに気付いたのは立大時代
現役時代、素振りにこだわった長嶋
スーパースター・長嶋茂雄(巨人)は徹底的に素振りにこだわった。練習に関しては、盟友・王貞治のほうが有名で、“努力の王と天才の長嶋”と見られがちだが、実際には負けないくらいバットを振ったという。
ただ、長嶋には自分の努力をあまり見せたくない、という美学もあった。したがって、よくやったのは夜、自宅の素振りルームだ。毎日、納得するまで振ってからではないと眠れなかったという。だから15分のときもあれば、空が薄明るくなるまで振ったこともある。それは試合のあった日も変わらない。むしろ、試合の感覚が残っているうちにと、球場では風呂にも入らず、家に戻り、素振りルームに向かった。
「バットを振る音が早いと、体が開いて、ポイントが後ろに残ったということだし、音を聞けば、すべて分かるんです」
納得するポイントで短い音がすれば、最高のスイングができたという証だった。その音が聞こえるまで、妥協することなく振り続ける。音に集中するため、部屋の電気を消し、真っ暗にした。たいていはパンツ一丁で振っていたが、下半身主導のスイングができているかを確認するため、時に全裸になることもあった。できていれば、一物が“ピシピシ”といい音を立てて左足の腿に当たるというわけだ。
素振りの重要さに気付いたのは、立大時代だ。入学時の監督は“鬼”と恐れられた砂押邦信。長嶋の才能に注目した砂押に指示され、毎日、全体練習の後、30分かけて砂押の家まで走り、師匠の前で通常のバットの2倍ほどの重さのマスコットバットを振った。1日1000スイングがノルマ。バッティンググラブなどない時代だが、素手では手がもたないので軍手をつけて振った。それでもすぐマメができ、つぶれた。軍手が血に染まると、それを水で洗ってまたつけたという。
スイングは、砂押に見せられたジョー・ディマジオ(ヤンキース)の連続写真を見本にした。日本ではまだ理論化されていなかった下半身主導のスイングを徹底的に繰り返し、スイングのベースを作り上げていったという。
長嶋が素振りにこだわったのは、体の状態が日々変わっていくなかで、スイングしながらそれを確認、修正したいという思いがあったからだ。そのためには、いいときの自分を知っている人に見てもらうほうがいいと、プロ入り後も、サンケイで監督となっていた砂押のもとを訪ね、スイングを見てもらったこともある。
松井秀喜が言われたことは……
2006(平成18)年、ヤンキース時代の松井の手のひら
1970(昭和45)年のスランプ時からは、ニッポン放送のアナウンサー、深澤弘氏がパートナーになった。自分がこれほど苦しんでいるのをチームメートにも見せたくないという長嶋の思いもあったのだろう。毎日、自分のスイングを近くで見せ、当初、素人が恐れ多いと何も言わなかった深澤氏に、「いいときの俺と悪いときの俺を一番分かっているの、あんただろ。なんで言わないんだ」と叱ったこともあったという。
深澤氏が「次は平松(政次。大洋)」「次は安仁屋(宗八。広島)」という長嶋の言葉に合わせ、シャドーピッチングすることもあった。長嶋は引退前夜も深澤氏の前でスイングしたが、深澤氏の目には好調時とまったく変わりはないように見え、長嶋自身も「俺は衰えたわけじゃない」ときっぱり言い切った。
大学時代とは違い、長嶋の手はいくら素振りしてもマメができなかった。その証言者が巨人監督時代の愛弟子・松井秀喜だ。グラウンドではなく、長嶋にホテルの部屋に呼ばれ、目の前でスイングをさせられた。監督の任期の最後4、5年は、ほとんど毎日呼ばれ、さらに監督が原辰徳に代わった2002年にも何度も呼び出されたという。
「そこで言われたのが、手にマメができる選手はよくない。自分ができない体質だからかもしれないけど、マメができるバッターはそれだけ余分な力が入っているからダメだというのが持論でした。力が入ると、バットのコントロールがダメになるから、握る力はバットをコントロールできるだけでいいと。僕もそれまではマメができやすいほうでしたが、そこからそれを意識し、巨人時代の最後はほとんどマメができないようになっていました」(松井)
柔らかい握りでヘッドスピードを高めることにこだわった長嶋。周囲からはアウトステップするクセを批判されることもあったが、「肩も腰も開いてないから問題ない」と気にしなかった。それもまた、毎日の素振りでつかんだ自信だったのだろう。
●長嶋茂雄(ながしま・しげお)
1936(昭和11)年2月20日(木)生まれ。千葉県出身。佐倉一高から立大を経て
1958(昭和33)年に巨人へ入団、本塁打王、打点王、さらに新人王にも輝いた。派手なアクションや勝負強さで絶大なる人気を誇り、“ミスター・プロ野球”とも呼ばれた。
1974(昭和49)年限りで現役引退。その後は2期にわたって巨人の監督を務め、リーグ優勝5回、日本一2回。
2001(平成13)年限りで勇退、巨人の終身名誉監督に就任した。
1988(昭和63)年に野球殿堂入り、
2013(平成25)年には国民栄誉賞にも。主なタイトルはMVP5回、新人王、首位打者6回、本塁打王2回、打点王5回。通算成績2186試合、2471安打、444本塁打、1522打点、190盗塁、打率.305
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171227-15
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%AB
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