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“最強プロレスラー”ダニー・ホッジさん死去 テーズ、BI砲にも勝利
‡2020(令和二)年12月27日(日) 12:15配信 デイリースポーツ
 写真◆ダニー・ホッジ氏=2014年撮影
 米国の元プロレスラー、ダニー・ホッジさんが25日に死去したと、米国の世界最大手プロレス団体WWEの公式ホームページなどが伝えた。88歳。死因は不明。ホッジさんは56年のメルボルン五輪レスリング・フリー79キロ級で銀メダルを獲得。ボクシングでも58年に米国のアマチュア大会ゴールデングローブでヘビー級王者となり、59年にプロレスデビュー。60年には当時の世界最高峰団体NWAのジュニアヘビー級王座を獲得し、12年以上も保持した。だが、76年に交通事故で重傷を負い、引退した。レスリングとボクシングの実績、さらにリンゴを握りつぶす怪力の持ち主であることなどから、最強との呼び声も高かった。来日も多く、67年には国際プロレスに参戦し、68年には“鉄人”ルー・テーズからTWWA世界ヘビー級王座を奪取。69年には日本プロレスに参戦し、ウィルバー・スナイダーとのタッグでジャイアント馬場、アントニオ猪木組からインターナショナル・タッグ王座を奪取。74年には全日本プロレスに参戦した。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/a1a209c38f2cdc02f3e17c103e79a053286d457d
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 ダニー・ホッジさん死去 88歳「史上最強のジュニア選手」BI砲からインタータッグ奪取 
‡2020(令和二)年12月27日(日) 12:09配信 スポーツ報知
 写真◆ダニー・ホッジさん
 日本でも人気を誇ったプロレスラーのダニー・ホッジさんが24日、米オクラホマ州ペリーの病院で死去した。88歳だった。ホッジさんは
 1932(昭和七)年05月13日(金)、オクラホマ州の出身。アマレスでは52年ヘルシンキ、56年メルボルンと2度五輪に出場。フリースタイルで2度、銀メダルを獲得した。アマチュアボクサーでも実力を発揮した後、プロレス入り。NWA世界ジュニア王者のタイトルを1960年から76年にわたってのべ16年保持。「史上最強のジュニアヘビー級選手」とも称される。日本にもたびたび来日。69年の日本プロレス参戦時には、ウィルバー・スナイダーと組んでジャイアント馬場、アントニオ猪木組からインターナショナルタッグ王座を奪取した。プロレス評論家の流智美氏は「ルー・テーズさんがよく私に『ノールールで、ホッジに勝てるヤツはこの世の中にいない。ホッジが現役時代にアルティメット・ファイトがあったら、冗談ではなく彼の相手は何人か死んでいたと思う』と何度も言っておられた」とホッジさんの強さを回想し、故人を悼んだ。
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【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈9〉ブロディ刺殺事件に遭遇したプエルトリコ】
 https://news.yahoo.co.jp/articles/afbdb2901b7169ef54547ba623506d91be87b025
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 「何で私がバードマンなんだ?」名レスラー、ダニー・ホッジ逝く…“ノールール最強”の異色な才能
 2020(令和二)年12月29日(火) 17:01配信 Number Web 「格闘技PRESS」高木圭介 = 文
 オクラホマ大学時代のダニー・ホッジ photograph by AP/AFLO
【この記事の写真】2014年来日時の様子はこちら!
 米国より、往年の名レスラー、「鳥人」ダニー・ホッジの訃報が入ってきた。享年88。NWA世界ジュニアヘビー級王者としての実績云々だけでも語り継ぐべき存在なのだが、1990年代に入り、それまでプロレスが売りとしてきた「強さ」が他の格闘技やMMA(総合格闘技)興行の台頭とともに揺らぐ中、時代を共にした鉄人ルー・テーズをはじめとする往年のレジェンドたちが「彼こそが最強だった」「彼がもし、ノールールの試合に出場していたら大惨事が起きる……」などと語ったことで平成時代のファンにも、その幻想が一気に広まった伝説のプロレスラーなのである。ホッジがプロレスに転向したのは27歳とかなり遅め。と、いうのもプロレス入り前の経歴が異色すぎる。まず少年時代から親しんだレスリングで、オクラホマ大学時代にAAUを4度、全米大学選手権を3度制覇。19歳で1952年ヘルシンキ五輪に出場、56年メルボルン五輪ではフリースタイルのミドル級(79kg級)で銀メダル獲得と輝かしい成績を残している。五輪銀メダリストの経歴でプロレス入りならば、さもありなんなのだが、ホッジは大学時代に誘われて、ほんの“かじった”つもりで始めたボクシングでも頭角を現わしてしまう。それも、半端なレベルではなく、すぐにオクラホマ州王者となり、その後はヘビー級で全米ゴールデングラブ王者に君臨し、短期間ながらプロボクサーとしても活躍。プロレス転向はその後の話なのである。
■「奇跡」を達成した稀有な存在■レスリングとボクシングはともに古代オリンピックから競技採用された格闘技の二大古典。長い長い人類の歴史の中で駆逐されずに生き残ってきたことは、無駄なモノがそぎ落とされた両競技が非常に実戦的だという証拠にもなる。93年に米国でさまざまな格闘技の選手を寄せ集めてノールールの“何でもアリ”を売りにアルティメット大会(現在のUFC)がスタートした際、まずはグレイシー柔術がその強さと実戦性を証明し、その後もさまざまな格闘技の選手が、その特性を生かした強さを披露した。しかし、スタートから20年以上が経過し、「ノールールというルール」が整備され、MMA(ミックスド・マーシャルアーツ)なる名称も一般化してきた頃になると、互いの攻撃や防御も知り尽くされ、もはや「秘技」などは存在せず、その戦い方も、ボクシングに近い構えでステップし、レスリングの間合いとなれば、タックル等で相手を倒し、有利なポジションをキープしつつ殴るという「ボクシング&レスリング」スタイルに落ち着く傾向が見られた。“何でもアリ”で最も実戦的だったのは結局はレスリングとボクシングの二大古典だったということが証明された。ストライカーとグラップラー。打撃系と組み技系格闘技では、強化すべき筋力も異なるし、選手の適性も違う。ゆえにトップレベルで両競技を両立させた選手はいないはずなのだが、ホッジはその二大格闘技でトップクラスに君臨する「奇跡」を達成した稀有なる存在なのだ。
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■スポーツ・イラストレーテッドの表紙にも■現在、YouTubeなどでホッジのアマチュア時代の映像が、レスリングとボクシングの両方で視聴可能となっている。レスリングのほうは、寝技で相手の手首を掴むや、そのまま長いリーチを活かしつつ、相手をひっくり返してフォールを奪うモノだった。大学生が圧倒的な体力差をもって高校生を組み伏せているならば納得だが、大学のトップレベル同士の対戦ではまず見られないシーンだ。レスリング時代から「普通ではない」握力を武器にして戦っていたことが分かる。だから、ホッジのレスリングを研究したところで、一般の選手にはまるで参考にならない。ホッジの握力や身体能力には、後天的に鍛錬して身につけたというよりは、先天的にリミッターが外れた強者のみが持つ「何か」が感じ取れる。 プロレス転向前の57年に『スポーツ・イラストレーテッド』誌の表紙を飾り、生まれ故郷のオクラホマ州ペリーに偉業を称えた銅像が立つのも、プロレスラーとしての実績よりも、むしろそれ以前の異色すぎるトップアスリート歴が称えられたものだろう。
■リンゴを片手でつぶす82歳■ホッジと最後に会い、インタビューさせていただいたのは6年前、東京・高円寺で『U.W.F.スネークピット・ジャパン』を主宰する宮戸優光氏の招聘で来日した2014年5月だった。当時82歳だったホッジは、ニッコリ笑顔で握手してくれたのだが、ウインクと同時にギュッと手を握られるや右手に激痛が走り、1週間は痛みが取れなかった。ホテルの部屋では得意とする、片手のみでリンゴを握り潰すパフォーマンスも見せてくれた。こんな82歳はなかなかいない。その来日時に、ホッジと久々の再会を果たし、握手を交わしたアントニオ猪木氏も、相変わらずの握力維持に驚きつつ「レスリングはもちろん、ボクシングも強かったし、あの時代に今でいうアルティメットみたいな競技があったら、凄い実績を残しただろうね」と語っていたのが印象深い。
  次ページは:代名詞的な技がない
■代名詞的な技がない■打撃と組み技で高すぎるスキルを持ち、プロレスラーとしても華麗なる実績を残しているホッジだが、ルー・テーズ=バックドロップ、ビル・ロビンソン=人間風車(ダブルアーム・スープレックス)、フリッツ・フォン・エリック=アイアンクロー……といった代名詞的な技は思い浮かばない。フリースタイルレスリングの「股裂き」の体勢からフェイントで相手の四肢にからみつくコブラツイスト(アブドミナル・ストレッチ)や、下半身を固めるオクラホマ・ヘイライドなども印象深いが、小学生がプロレスごっこでモノマネするような浸透度はなかった。本来はテクニシャンタイプなのに、披露されるパフォーマンスは「リンゴ潰し」と怪力系。それほど凄まじい握力を誇示しつつも、試合でクロー技を披露することもない。そして何よりも謎だったのが、「鳥人」なる異名だった。
■「何で私がバードマンなんだ?」■ギリシャのイカロスは別として、それまで日本国内で「鳥人」の異名で呼ばれた存在は大正時代の映画スタア・高木新平や、戦前映画界で「昭和の鳥人」と呼ばれたアクションスタアのハヤフサヒデト、そしてコウモリ(哺乳類)のはずなのに、日本のTVドラマ版で「怪鳥人間」なる謎の冠がつけられてしまったバットマン、フォーリーブスが主題歌を歌っていた米国産アニメ『電子鳥人Uバード』、ウクライナの棒高跳び選手、セルゲイ・ブブカ、プロレス界ではドロップキックを得意としたアントニオ・ロッカらがいる。しかし、ドロップキックは得意技としていたものの、ホッジに「鳥人」のイメージは乏しい。ホッジ本人に日本で「鳥人」と呼ばれていることについて訊ねてみたのだが、首をかしげつつ「何で私がバードマンなんだ?」と、鳥の仕草をマネしつつ大笑い。日本国内での「鳥人呼ばわり」はまったく周知していない様子だった。鉄人、神様、銀髪鬼、人間発電所、荒法師、人間風車、鉄の爪、黒い魔神、魔王、仮面貴族、人間山脈、不沈艦etcと、昭和期を飾った外国人プロレスラーの異名は、意味こそ少々不明だが傑作が多い。しかし、ホッジの「鳥人」は失敗作の部類に入るだろう。日本で「まだ見ぬ強豪」であり続けたアントニオ・ロッカとも丸被りだし……。 インタビュー時、あらためて、プロレスラーとしての必殺技を問うてみたところ、ホッジの答えは「私の必殺技はコンディション。いつでも60分、90分を戦い続けられるコンディションにあった。コンディションさえ保っておけば、レスリングの攻防でもパンチの攻防でも負けない」だった。その言葉は、トップアスリートだった者のみが有する自信に満ち溢れていた。合掌。
◎puramu | ホッジが現役の頃のプロレスは今とはまるで別物だからね。ちょっとでも油断すると相手が潰しにくるような代物。だからテーズも相当「リアルファイト」を経験している。そのテーズが強いと言うんだから間違いないだろう。
◎>ホッジが現役の頃のプロレスは今とはまるで別物だからね。MMAでさえ初期のUFCに比べると随分とマイルドになってしまった印象が否めない。地下プロレス的な初期のUFCは流血など当たり前だったが、今のMMAは(ボクシングでは当たり前の)ダウンカウントさえ取らず即KO決着で面白味が無い。恐らく昔のプロレスは初期のUFCに似た空気が漂っていたのだろう。
◎意表を突くのは卑怯、というプロレスの価値観があるからね。あえてそれをやる場合もあるけど、それはやる方もやられる方も、わかっててやってる。その土俵で強さを競うのがプロレス。そこを理解しない人は永遠に総合>プロレスって言いつづける。
◎フレッド・ブラッシーとかゴージャス・ジョージとかバディ・ロジャースとか大人気だったんだけどね。どんなにガチが強くても客呼べないレスラーは価値がない。
◎見た目からして本当に強そう。ホッジさんの全盛期はとてつもなく強かった事が窺い知れるエピソードですね。長い間、お疲れ様でした。御冥福をお祈り致します。
◎ボクシングとレスリングの実績、現代の総合格闘家と同じような引き締まった肉体、数々の強さのエピソード。間違いなく総合格闘技で活躍できただろうね。もし時代が合っていたらグレイシー一族もあれほど時代を風靡しなかったかもしれない。
◎ウィルバー・スナイダーとのタッグは当時最強でしたね。この方スタミナが無尽蔵だったらしく、フルタイムファイトしても全然平気だったようです。この方の逸話と言えば片手だけでリンゴを粉々に砕いたことで凄まじい握力だったみたいです。レスリングも基礎がばっちりだったので強く、ストリートファイトも強かったという噂があります。ディック・マードックもレスリングも強く、ストリートファイトも滅法強かったので他のレスラーから一目置かれていたのと似ていますね。
◎ボロ | >ディック・マードックもレスリングも強く、ストリートファイトも滅法強かったので他のレスラーから一目置かれていたのと似ていますね。
 こういう逸話は良いよね。不良の価値観を大人になってまで引きずってる感じがてさ。オレも含めて、大人になったら大抵は物分かりが良くなっちまうからさ。
◎時代は変われどやっぱりレスラーが最強であって欲しい。プロレスファンにとってダニー・ホッジとは最強という幻想を抱かせてくれる存在であったと思う。
◎ホッジさんが現役の頃に初期UFCがあったら・・柔術家をタックルでテイクダウンし上をキープしつつ超威力のパウンドで制圧!きっと凄い活躍をしたでしょう私は本気でそう信じています
◎藤波がJr.のままならば、ホッジ、マツダの後を継いだ正統派のJr.チャンプだったと思う。藤波はJrでは大きく、ヘビーでは小さかった。努力でヘビーの中で負けない身体を作ったね
◎名優バート・ランカスターに似た風貌から、ランカスターが英国アカデミー賞主演男優賞を受賞した名作「終身犯/Birdman of Alcatraz」から名付けられたというのは考えすぎかな。
◎試合会場への車のなかでエネルギー浪費させるため あんなこと、したて80年代の暴露本に書いてありましたが・・創りですよねたいへんすごいかたでした。
◎バスのなかで発電してたのは有名ですね!突き抜けた人はやることが違います!凡人は真似出ません!
◎オレが持ってたプロレス大百科にはゆりイス固めが必殺技って書いてあって、写真もあった。その後、小橋がローリングクレイドルを使い始めた時、コレがゆりイス固めかと思ったが、全然違ってた。
◎不覚にもホッジの動いている姿を見たことがない。ゆえにこの記事は非常に興味深かった。
◎フィジー | 昔のプロレスって十字架固めばっかりで退屈だけど、今の新日とかスターダムよりはマシかな。
◎木村政彦先生とガチ勝負では、どちらが勝つだろうか?
◎エビデンス将軍 | 自分も彼がバーリトゥーダーのパイオニアだと思っていた スキルが高い人は全ての技の破壊力が有るから必殺技なんて要らない かつてのジャンボ鶴田にしてもバックドロップが無かった時も技が全て強力だったから他の技でピンフォールしてたしね得てして格闘技はそう言う事です
◎ビル・ロビンソン曰く「鶴田とはグレコローマンでもやったが正直大したレベルではなかった」。鶴田が一度も勝てなかった磯貝頼秀氏は「アマレスルールなら谷津、長州、鶴田の順」で、長州と鶴田の間はかなり差があると言ってる。鶴田が五輪代表になった時の身体測定では体重110kgで背筋力228kg(吉田沙保里が200kg超、中西は330kg)なので、そこから体重が増えて筋力アップしてるとしても、外人をフィジカルで圧倒できるレベルとは思えない。性格もガチ向きではないので顔面への打撃センスが特に優れてでもいない限りは厳しいと思う。
◎鶴田はアマレス2年くらいしかやってないんだから、強いわけないです。あと、背筋力とか個別の筋力の数値って意味ないですよ。明らかに性格的に向いていないのでMMAには出ていないでしょう。当時だからプロレスラーだったけで、現在ならバスケやサッカーやってたんじゃないかな?いずれにせよ、歴代のプロレスラーの中では身体能力はNo1でしょう。
◎鶴田はお坊ちゃん育ちだからね。(自分で言ってた)あまり野蛮なことはしないよ。でも鶴田が総合でガチギレしたら、ああ、怖くて書けない…
◎それこそジャンボのMMA参戦を見てみたかったですよね!
◎エビデンス将軍 | ビルロビンソンのコメントはあくまで新人時代 ナンセンスな話し それこそルーテーズから1000マン払って学んでからのスタート 学識有る彼は貪るように格闘哲学、運動生理学まで学んだらしい 故に強い 強いのは完成形は無く 伸び代の多さが重要 何々出身なんて正にナンセンス レスリングは総合格闘技の一部分 レスリングだけでは今や勝てない進化してしまったパンクラチオンなんだよ 現在はボクシングの方が重要殺傷力が有るからでもそれも総合格闘技では一部分日本は遅れているから勝てない
◎エビデンス将軍 | 5さんじゃ中西、永田は総合格闘技で通用したの?アマレスの実績とか性格が優しいとかナンセンスだと思わないのですか?要するに通用する資質は順応性、鶴田は順応性が高く、能力が有ったと戦ったレスラーがほとんど言っている 貴方の何を知ってるの? ナンセンスな事言って知ったかぶりしてもね 彼は元々バスケだし サッカーなんて関係ない インターハイ選手だよ 彼は全日に就職したから業務命令が無い限り総合格闘技に参戦しないよ 彼の順応性の高さを評価してるだけ エビデンスが無いコメントは不毛です
◎aornxuiwin | テレビで馬場、猪木VSスナイダー、ホッジを見たのが、懐かしく思える。
◎ダニー・ホッジの強さだけでなく、身体能力は伝説だからね。◎読み応えのある、いい原稿だね。プロレスLOVEが伝わってくるよ。◎自分もホッジの「鳥人」はピンと来てなかったがやはり誰もピンと来てなかったと聞いてなんかホッとした。
◎バーンバニア、レオノメリーニ、カールゴッチ、ダニーホッジ、ルーテーズ。
 https://news.yahoo.co.jp/articles/3972abdb756478715905794533e29168a57a6b55
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 ┃ Danny Hodge ダニー・ホッジ ┃
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 1932(昭和七)年05月13日(金) 生 誕
 2020(令和二)年12月24日(木) 88歳没
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%B8
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 カール・ゴッチとダニー・ホッジとではどちらが強いですか?
 2017(平成29)年04月09日(日) 19:34
 2017(平成29)年04月09日(日) 19:36 ベストアンサー rewens2659さん
 ダニー・ホッジがレスラー仲間から恐れられたのは、反則ながら時折見せる強烈なパンチ攻撃と、キレたら何をしでかすかわからない無鉄砲な性格からでした。ホッジはプロレス入りする前は、レスリングの選手として鳴らし、1956年にはメルボルン・オリンピックのレスリング競技にアメリカ代表として参加し、ミドル級で銀メダルを獲得しています。しかし、オリンピックを終えてアメリカに帰国してから、なんとプロボクシングの選手としてリングに上がり、1年半にわたって活躍し、ライトヘビー級で17戦し11K.Oの記録を残したのです。ホッジのボクシングには、先ほど紹介したキレたら何をしでかすかわからないという自身の性格が影響していました。それはホッジが大学生の時分まで遡ります。ホッジの所属していたレスリング部の選手とボクシング部の生徒が喧嘩になってしまったため、ホッジが仲裁に乗り出したのですが、あるボクシング部員がホッジを怒らせてしまい、ホッジが怒り狂って、こともあろうに当時のボクシング部のエース選手の腕を折ってしまったのです。あとで冷静になってから、そのことを反省したホッジが罪滅ぼしのためにボクシングの練習に加わり、自分が怪我をさせてしまった選手の代わりに競技に参加するようになりました。ところが、もともと抜群の運動神経をホッジは誇っていたために何なくボクシングのテクニックをマスターしてしまい、ボクシングでも一流の選手に名を連ねるまでになったのです。
 このようなホッジの性格でしたから、対戦した選手は大いに気を使いました。特に、打撃や顔面への攻撃には細心の注意をはらっていたそうです。あのルー・テーズですら、試合中にホッジの様子がおかしくなってきたのがわかると自らリング外に出て、ホッジが冷静になるまで決して戻らなかったそうです。また、NWA世界Jr.ヘビー級タイトルを賭けて長年に渡りライバルとしてしのぎを削ったヒロ・マツダさんも、試合中は絶えずホッジの目の動きを気にしていたそうです。マツダさんが言うには、キレそうになると目が据わってくるらしく、そうなってしまった時は、テーズ同様リング外に逃げて時間稼ぎを試みたそうです。
 このように述べると、ホッジは喧嘩屋の印象を持たれがちですが、プロレスにおいては派手な投げ技や立ち技は使わず、アームロックやヘッドロックなどの基本技を大切に、小技からじっくりと大技につなぐという形に試合を組み立てる正統派のテクニシャンタイプでした。また、その体格からは考えられないほどの怪力と握力の持ち主だったため、相手を押さえ込む力や締め上げる力が非常に強く、一度技を決められてしまった場合はほとんど脱出不可能でした。それに加えて、パンチ攻撃とキレやすい性格でしたから、強さと言ったら並のものではなかったように思います。それなので、ゴッチとの対戦は非常に興味深いものがあったように思います。ゴッチも、ホッジほどではありませんが、気の短いのには定評があり、また喧嘩早さでも名前が通っていまし、それぞれが持っていたプロレスのテクニックも似ているようなところがありましたから、なかなか面白い試合になったのではないでしょうか。展開としては、寝技中心のあまり動きの活発なものにはならないでしょうが、それだけに技の一つ一つに力が入って、緊迫したものになったと思います。また、仮にホッジがキレたとしてもゴッチならそのまま受け流して自分の攻めを続けていったかもしれません。ですから、最終的にどのような形で決着が着いたかといえば、プロレス流なら一瞬の隙を突いての返し技でピン・フォールというものになったような気がします。このふたりの性格から考えて、技を決められてもう逃れられないような場合でも、決してギブアップはしなかったと思います。ギブアップするくらいなら、腕か足でも折られても構わないと考えそうな感じです。また、展開によってはお互いのキレやすい、喧嘩早い性格が顔を出して、正統派テクニシャン同士の試合とは思えないような、凄惨な内容にも変化したとも想像できます。このふたりに限っては、まったく実力的に互角のように思えて、どちらが強いのか、結果を出すのが非常に難しいです。しかし、あえていうならば、ボクシングのテクニックのあるホッジのほうが、ゴッチよりはもしかしたら強いかな…という気はしないでもないですね。しかし、きっぱりと断言出来ないところがまことに残念です。 3人がナイス!しています
 https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13172796778


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①┃ 内山信二 ┃
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 1981(昭和56)年09月25日(金) 生誕
 2019(令和元)年11月29日(金) 入籍
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②┃「夢を育てよ」#2 最高月収3000万円から仕事ゼロ ┃
 ┃   そして再ブレイク。内山信二さんに聞く   ┃
 ┃  逆境からの立ち直り方と、これからの夢と家族  ┃
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‡2019(令和元)年12月27日(金) 取材・執筆/清水京武 写真/山田英博
 「夢を育てよ~素敵なあの人に聞いた、夢と備えの話~」。シリーズ第2回は、タレントの内山信二さん。子役として大ブレイクし、10歳にして最高月収3000万円。ところが16歳の頃には預金通帳の残高が数百円に。さらに、そこからの再ブレイクと、ジェットコースターのような人生を経て、内山さんがどのような夢を抱くようになったのか。また、金銭感覚の変化についても赤裸々に語っていただきました。90年代を代表する人気バラエティ番組『あっぱれさんま大先生』。その生徒役として、おそらくその当時、日本一有名な子役タレントとなったのが、「内山くん」こと内山信二さんでしょう。現在、38歳。今も変わらないその笑顔、その体型は、愛されるキャラクターとして希有な存在です。しかし、小学生ながら一気に全国区となった内山さんは、そのときが紆余曲折の人生の始まりでもありました。テレビから姿を消し、困窮の生活、そして引きこもり。そんな内山さんを救った恩師の言葉や、周囲の人たちの支え。ご本人に、これまでの歩みとこれからの自分、新しい家族について、語っていただきました。
◆内山信二さんプロフィール◆1981年、東京都葛飾区生まれ。5歳で芸能事務所に所属。7歳のとき『あっぱれさんま大先生(フジテレビ)』に生徒役で出演、一躍、人気子役となる。14歳で同番組を卒業し、それとともに人気も下降線に。アルバイト生活や引きこもりを経て、17歳で芸能界復帰。タレントの他、俳優やグルメレポーター、ラジオのMCなど、仕事の幅を広げていく。2017年には「かつしか観光大使」に任命。現在、TOKYO MX『バラいろダンディ(火曜レギュラー)』、TBSテレビ『坂上&指原のつぶれない店(準レギュラー)』、NHK『ごごナマ(コーナー準レギュラー)』等に出演。2019年11月、一般女性と入籍。
◆一躍全国区になり、お小遣いは1回5万円◆「芸能事務所に入ったのは5歳のとき。父親があべ静江さんの大ファンで、どうすれば本人に会えるかを考え抜いた結果、息子を芸能界に入れることを思いついたようです。ただ、最初は兄貴を歌手にするつもりだったんですよ。でも、当時はネットも普及していないからどこにも情報がなくて、どうやったら歌手になれるか分からない。それで、とりあえず信二を子役にして様子を見ようと考えたわけです。「これからの時代は人前で臆せず話せないとダメだ」と考えていた父親にとっては、僕の引っ込み思案をなおす目的もあったようです」
「最初に受けたオーディションが『あっぱれさんま大先生』でした。おいしいハンバーグ食べさせてやるからって、父親にだまされて(笑)。事務所に所属したとはいえ、演技のレッスンを受けていたわけでもない、単なる素人の子どもでしたが、なぜか受かって。気づいたらテレビに出ていました」すぐに人気タレントとなった内山少年。しかし、最初は芸能界での仕事が嫌で仕方なかったと言います。
「やっぱり遊びたかったんですよ。事務所は学校を優先してくれるところで、授業はほとんど出席できました。そうなると、仕事が入るのは学校が終わってからか、土曜の午後や日曜日。遊ぶ時間はほとんどありません。運動会も参加したのは6年間で1回だけ。今では仕事をいただけるありがたさが身に染みていますが、当時は遊びたい気持ちの方が強かったですね。でも、小学4年生くらいから、お金がいっぱいもらえることが分かって、子どもながらに『これはいい商売かもしれない』って。それが間違いのもとだったんですが」給与は当初、手渡し。しかも本人が事務所で金額を確認しなければいけませんでした。だから、収入はリアルな額で分かってしまう。10歳になると、CM契約も一気に増え、ピーク時で最高月収3000万円に達しました。
「そうなると家族全員、金銭感覚がマヒするんですよ。ウチの実家は下町の魚屋で、近くに大型スーパーができて、売上なんて知れています。でも、軽トラだった父親の愛車がいつの間にかベンツになっていたし、母親のバッグもヴィトンに。僕は僕で、おもちゃ屋さんに行って、ここからここまでゲームソフトを全部くれ、みたいな。僕自身は小遣い制で、金額は1回につき5万円。言えばいつでもくれました」
◆人気がなくなったのは自業自得◆いつまでも続くと思っていた自身の人気も、徐々に陰りが見え始めます。そして、いつの間にか子役タレント・内山信二の姿を見ることはなくなりました。
「『あっぱれさんま大先生』のときは、トコトコと歩いて『お腹減ったあ』と言うだけでドカーンとウケました。でも、それも小学生だからです。中学生になれば通用しません。それと、僕自身が嫌な奴でしたから。今振り返ってみても、つくづくそう思います。早々に、俺はこの家の大黒柱だっていう意識でいました。マネージャーなど、周囲の大人たちをからかったり、偉そうにご飯をおごったりして。とんでもない勘違いですよ。人気がなくなるのは、自業自得だったんです」
「中学生になったくらいからですかね、家にあったものが徐々に消えていくんです。ベンツもヴィトンもロレックスも。そういえば、最近、仕事が少ないなあって僕も感じたし、親も薄々分かっていたんです。でも、誰も触れなかった。見栄もあるし、一度知った贅沢な生活って、なかなか変えられない。相変わらず、家族でハワイに行ってましたから。しかもファーストクラスです。行けば行ったで、高級ホテルに泊まって、買物もする。旅行費用は恐ろしい金額になっていたと思いますよ」16歳になって、原付免許を取得したいと父親に言ったときのこと。見せてくれた預金通帳の残高に目を疑いました。わずか数百円。そして、そのとき初めて、想像を超える状況に陥っていたことを知ります。でも、時すでに遅し。ほどなく家の電気が止められる事態に。
「高校も辞めてしまったので、とりあえず働くしかないと思い、ガソリンスタンドや引越しのアルバイトをしました。でも、続かないんですよ。僕だってすぐバレてしまって、最近テレビ出てないねって言われたりする。相手も悪気はないんです。事実だし。そのうち、被害妄想が出てきました。前にいるあの二人は僕の悪口を言っているに違いないって。だから外出もしたくない。結果、引きこもりになりました」
◆「芸能界で頑張るしかないな」の一言が自分を変えた◆アルバイト時代に知り合いから「相撲部屋に入門したらどうだ?」と、ウソのような誘いを受けます。紹介された入門先は、大関・霧島関が親方になったばかりの陸奥(みちのく)部屋。悩んだ内山さんは、明石家さんまさんに相談をします。
「たぶん通用しないやろけど、やれるとこまでやってみろ、と言われました。俺が後援会長になったる。しこ名は〈あっぱれ山〉でいいやろって」
「でも、いきなり飛び込むのは不安だったので、別の相撲部屋に見学に行かせてもらいました。すると、親方とか後援会の方が、相撲取りはいいぞって、盛んに僕に言うんです。朝に稽古して、あとは腹いっぱい飯食って寝るだけ。それで、ものすごく稼げるって。でもそれは成功したときの話ですよね。それで、僕と同じくらいの年齢の新弟子の人と二人きりになったとき、聞いてみたんです、正直どうなのって。そしたら、今日、部屋から逃げようと思ってるって真顔で言われました。相撲は無理だとその時点で思いましたね」その後、しばらくして、今度はさんまさんから連絡が入ります。コントの舞台の誘いでした。相撲部屋もあきらめ、引きこもっていた内山さんに「もう芸能界で頑張るしかないな」と言われたそうです。
「だから、トークを勉強せえって言われました。数年ですけど、まったくテレビを見ていない時期があって。情報が入ってくるのが嫌だったし、違う子役が活躍しているのを見るのも悔しかった。それでもさんまさんに声を掛けていただいてからは、まずはテレビを見てトークを勉強しました。『踊る!さんま御殿!!』を見ながら、このトークテーマを振られたら何て答えるか、自分なりにシミュレーションをしたりして」
「誘っていただいた舞台は『あっぱれさんま大先生』と同じで、台本はありません。設定だけを決めて、あとはその場で稽古しながら作っていく。さんまさんにはよく怒られましたよ。ここ、おもろいのに何で言わへんのかとか、お前キャラ分かってんのかとか。怖かったですけど、僕のために怒ってくれていると思うと、それだけで嬉しいんです。自分の存在を認められたみたいで」
◆支えてくれる人の存在と夢のハリウッド◆舞台をきっかけに仕事も少しずつ入るようになり、仕事の幅を広げていきました。人の浮き沈み、入れ替わりの激しい芸能界で、デビューより難しい復帰を成し遂げた、その要因は何だったのでしょうか。
「少なくとも僕の場合は、手を差し伸べてくれた人たちの存在が本当に大きかった。さんまさんはもちろんですが、それ以外にも、例えば、石塚英彦さんは、僕がまったくテレビに出てないときから、僕のことをテレビで話題にしてくれて。伊集院光さんは監督をされたVシネマに誘ってくれたし、松村邦洋さんは地方の放送局に行ったとき、内山に仕事ないですかって聞いてくれていたんです」
「裏方の方たちもそうです。マネージャーさんや事務所のスタッフさん。そういう人たちのフォローがなければ、タレントは仕事できません。僕なんか、電車のきっぷも自分で買えなかった。周囲の支えなくしてとても復帰は無理でした」そんな内山さんは、仕事でも新しいチャレンジに向けて、動き出しています。自身の夢、目標でもあるハリウッド映画への出演。そのために英会話の勉強も始めました。
「先日、Netflixの仕事で渡米しました。いつか生まれる自分の子どもたちに、父親のしてきた仕事を見せたいし、残したいと思っていて、その一つのかたちが映画なんです。国内映画は何本か出させてもらいましたが、ハリウッド映画は本当に憧れですよね」
「実際に撮影現場に入ってみると、すべてが新鮮なんです。例えば、呼び方ひとつ取っても、日本だと内山、あるいは内山くんですが、向こうでは〈SINJI〉ですからね。芸能生活はもう30年以上になりますが、まだまだ知らない世界があることを痛感しました」
◆苦しいときこそ、生活の中に笑いを◆
 2019(令和元)年11月29日(金)、「いい肉の日」に婚姻届を提出し、一般女性と結婚。家庭を持ち、新たな人生のスタートを切りました。子どもは欲しいし、きっと子煩悩になるという内山さん、ちょっと気が早いですが、どんな父親になろうと考えているのでしょうか。
「親子というより、兄弟みたいな関係がいいですね。いっしょに遊んだり、ご飯を食べたり。そして何でも相談してくれる。パパやお父さんではなく、親方と呼ばれたい。きびしい稽古は一切ない相撲部屋、それが理想の家庭かな」描く理想像には、自分の父親の影響が少なからずあるのだとか。内山さん曰く「お金で人生の歯車が狂ってしまった」父親でありながら、だからといって、内山さんの目には決してダメな人間には映っていなかったのです。
「典型的な下町の頑固親父なんですが、子どもの僕を、いろんな場所に連れ出してくれたんです。動物園に行くと言って、中山競馬場だったこともありますが、遊園地や食べ物屋さんなど、約束をしていたら、前の晩にすごく飲んでいても、翌日ちゃんと連れて行ってくれました。しかも、僕以上に楽しんでいる。東京ディズニーランドの『ピーターパン空の旅』というアトラクションが大好きで、何回乗ったことか。だから、自分もあんな父親になりたいという気持ちが、どこかにあるんだと思います」お子さんが生まれれば、もちろんお金もかかります。しかし、お金のことで夢をあきらめることは、させたくない。だから、親として貯金はしないといけないと、今は自分に言い聞かせているそうです。
「でも、僕はお金の管理はできないので、もっぱら奥さん任せです。今、自宅には貯金箱が3つあるんです。1円とか10円の小銭用、500円玉用、そして1000円札用。定期的に財布からお金を抜かれて貯金箱へ。でも、ありがたいですよ、そうやって貯めようとしてくれている。僕一人では、そんな発想自体が出ませんから。それと最近は、奥さんに言われて、カードのポイント還元も気にするようになりました」最高月収3000万円から仕事ゼロと、まさに転落人生を経験された内山さん。それを経て、今後どのような思いで人生を歩んでいこうと考えているのでしょうか。同世代、子育て世代へのエールという意味も込めて、伺いました。
「たぶん、子育て世代は多少の差はあっても、経済的に我慢したり、窮屈に感じることがこれから増えると思います。僕も間違いなくそう。でも、だからこそ、家庭の中の笑いを大事にしたいですよね。どんな状況であっても、そこから笑いを見つけ出す。それがどんな笑いなのか、今から楽しみですよ」
◆これまでの夢や目標◆小さい頃はお坊さんになりたいと思っていました。お盆などにお経を上げに来てくれるんですが、感謝されてお金ももらえる。子どもながらに、何ていい仕事だと思いました。
◆夢を実現するためにやってきたこと◆自分で勉強したり人に頭を下げたり、地道にコツコツ。すぐに結果は出なくても、きっと誰かがそれを見て声を掛けてくれるから。
◆大切な時間やお金の使い方◆大事な部分は妻にすべてお任せしています。しっかりした人や会社にお任せするのがよいと思います。
◆いつか生まれてくる子どものために◆夢をあきらめることがないよう、親として支えてあげたい。
◆これからの夢や目標◆ハリウッドで映画デビュー。
◆読者へのメッセージ◆苦しいときこそ、生活の中に笑いや楽しみを見つけてください。
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/内山信二
②https://www.daiwa.jp/sodatte/career/s0238/
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 松屋「ビーフシチュー定食」爆売れ販売休止
‡2019(令和元)年12月27日(金) 11:41 Written by Narinari.com編集部 松屋は12月27日、
 2019(令和元)年12月17日(火)より販売開始した「ビーフシチュー定食」の販売休止を発表した。公式サイトに掲載された「ビーフシチュー定食の販売休止につきまして」によると、「ご好評につき原料の供給が間に合わず、
 2019(令和元)年12月29日(日)より順次、販売を休止させていただきます」とのこと。販売再開は
 2020(令和二)年01月初旬を予定しており、「再開日時決まり次第、お知らせ申し上げます」としている。松屋の新作メニューとして登場した「ビーフシチュー定食」は、とろっとろになるまで煮込んだ牛肉と、ゴロゴロとした甘みのあるジャガイモ・ニンジンを赤ワイン風の特製ソースで煮込んだ本格的なビーフシチュー。販売開始直後からTwitterなどネットで「すごいおいしい!」「最近の松屋凄すぎる」「松屋が熱い」などの声が上がるなど、話題を呼んでいた。 
 https://www.narinari.com/Nd/20191257733.html

 映像◆小泉進次郎の不倫と国会不倫問題についてhttps://youtu.be/pTxe8gQkjZY
‡2019(令和元)年12月27日(月) 公開
 

 D.B.クーパー事件
 https://ja.wikipedia.org/wiki/D.B.%E3%82%AF%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E4%BA%8B%E4%BB%B6
 実録・闇の手口 12 伝説の人(プリズンブレイクにも出てます)  https://youtu.be/NmWgqj9tdj0?list=PLMZIuMKJHFPELK3K2UrzcqQv-cWqBm_si
 

 ソニー SONY【ハイレゾ音源対応】Bluetooth対応 [ノイズキャンセリング機能搭載]
‡2017(平成29)年12月27日(水) 20時58分 お買い上げ日
 カナル型イヤホン(ブラック) WI-1000X BM
 ビック特価 29,270円(税抜)消費税:2,341円=31,611円(税込)
 ビックポイント 3,793ポイント(12%)
 お支払い額 23,874円 
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①┃    呉線 Kure Line    ┃
 ┃ 瀬戸内さざなみ線 三原-広間 ┃
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‡1903(明治36)年12月27日(日) 官設鉄道の海田市駅~呉駅間開業により、その終着として設置
 1935(昭和十)年11月24日(日) 全通
 起点  三原駅
 終点 海田市駅 28駅
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②┃ 瀬戸内マリンビュー ┃
 ┗━━━━━━━━━━━┛
 2005(平成17)年10月01日(土) 運行開始
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③┃ 山陽本線と呉線 大回り乗車 ┃
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 大都市近郊区間外でも、TOICAエリア及びICOCAエリアの相生駅~東岡山駅間(山陽本線と赤穂線)や
 三原駅~広島駅間(山陽本線と呉線)などではIC乗車券の利用では最短距離で運賃計算されるため、IC乗車券の利用に限って最短経路による運賃での大回り乗車が可能である。
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/呉線
②https://ja.wikipedia.org/wiki/瀬戸内マリンビュー
③https://ja.wikipedia.org/wiki/大都市近郊区間_(JR)#大回り乗車
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