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┃ 11B-X-1371 ┃
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‡2015(平成27)年10月12日(月) 記事投稿
2016(平成28)年11月05日(土) 2016年アメリカ合衆国大統領選挙の3日前、ライトは自分の Facebook ページに「110A30213」と題する新作動画をアップロードした。この動画は、ライトが独裁者または将校のような衣装を身に着け、群衆に対し演説するという内容だった。クラビシュラーはこの動画から「非常に政治的」との印象を受けた上で、アメリカ大統領選に関係するメッセージである可能性があると分析した。さらにクラビシュラーは、ライトが Facebook に動画を投稿した日付は、ガイ・フォークスに関する一節( "Remember, remember, the 5th of November" )を示している可能性があると考えた
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https://ja.wikipedia.org/wiki/11B-X-1371
https://www.buzzfeed.com/jp/kylaryan/dont-read-after-2am
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「昭和の通勤電車」今では信じられない地獄絵図
「失神者」や「ガラスの破損」は日常茶飯事
2019(平成31)年02月19日(火) 5:00 服部淳:コラムニスト
写真◆昭和の通勤ラッシュは「地獄」とまで言われていた(写真は1962(昭和37)年のものです=写真:Everett Collection/アフロ)
「タクシーは乱暴運転が当たり前」「自分の血液が売り物になった」など、昭和の時代は今では信じられない常識が多くありました。昭和の「通勤ラッシュ」もその1つ。今よりもはるかに混雑していた通勤ラッシュの実情について、コラムニストの服部淳氏が解説します。この原稿を執筆中に、2017(平成29)年度の都市部の鉄道混雑率が国土交通省より発表された。それによると、東京圏の混雑率は163%まで下がったそうだ。この混雑率とは、ピーク時(ラッシュアワー)1時間平均の混雑度の割合で、現在のところ、ほぼ目視で測定しているらしい。目安としては、混雑率100%が、座ることができない人もいるが、他人に触れることなく乗っていられる状態のようで、150%になると「広げて楽に新聞を読める」状態(最近は新聞を読んでいる人の姿もぐっと少なくなっているので、新たな基準が必要かもしれない)、200%が「体がふれあい相当圧迫感があるが、週刊誌程度なら何とか読める」状態、250%になると「電車がゆれるたびに体が斜めになって身動きができず、手も動かせない」状態とのことだ(混雑率100%以外は国土交通省の資料より)。
■「通勤地獄はマンガだ」東京で通勤、通学していて混雑路線を利用しているなら、毎朝200%から250%の状態だよ、とケチもつけたくなるが、あくまでも東京圏主要31区間の平均であり、混雑する車両から比較的空いている車両までの平均であり、混雑する急行や快速列車と、若干空いている各駅停車との平均でもある。この調査が始まった1975(昭和50)年度の混雑率を見ると、東京圏で223%となっているので、それでも東京近郊の通勤ラッシュはだいぶ緩和されているのである。さらに調査開始以前の昭和30年代から40年代後半の高度経済成長期には、通勤ラッシュの混雑率は300%を超えていたともいう。混雑率300%超えとは、いったいどれだけの混雑なのだろうか。当時の新聞を調べてみると、
1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊に“通勤地獄はマンガだ”というセンセーショナルな見出しが紙面を飾っていた。東京の新宿駅のあまりにもひどい朝のラッシュを、運輸省(現・国土交通省)の大臣が視察したというニュースなのだが、この大臣が視察後の会見で述べた「あえて“マンガ”だといおう。すさまじいマンガだ」が、この見出しのもととなっている。
→次ページ「地獄」とまで言われた当時のラッシュ
https://toyokeizai.net/articles/-/265054
添えられた写真には、4、5人の駅係員(いわゆる「押し屋」)が乗客を中央線の上り列車に押し込んでいる様子を運輸大臣が視察する姿を捉えている。
■毎日1人は失神する通勤地獄 ⇒ その視察が混雑をさらにひどくしているのではないだろうかとも思えるが、押し込まれている人は、まるで拷問でも受けているような悲痛の表情だ。この日は2人の女性が失神したそうだが、駅員の話によると毎日1人は失神するのだとか。
1965(昭和40)年06月07日(月)の読売新聞夕刊より写真◆朝の通勤ラッシュのひどさを伝える新聞記事
日本国有鉄道(国鉄、現・JRグループ)の通勤電車に冷房車が登場したのは1970(昭和45)年なので、当然クーラーはない。この混雑に梅雨入り前の蒸し暑さが加われば、そりゃ失神する人も頻発するだろう。だが、単純に混雑だけでいえば、この視察があった6月より、乗客が厚着して“着ぶくれ”になる冬場のほうがひどくなる。視察以前の冬の新聞を探ってみると、
1963(昭和38)年12月12日(木)には、国鉄常磐線の松戸駅で〈ギュウ詰めの乗客のゆり返しでガラスが破れた〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が、翌
1964(昭和39)年01月11日(土)には、国鉄中央線において1本故障が出たためにダイヤが大幅に乱れ大混雑、〈新宿駅では、電車のガラス五枚が割れ、電車のドアが七カ所もはずれる〉(同日付の朝日新聞夕刊より)という事故が起きていた。当時のガラスは現在のものより強度がなかったので、ラッシュで割れることもたびたびあり、ドアもよく壊れた。ケガの恐れもあるし、混みすぎてキツイというだけではすまなかったのだ。電車に押し込まれた際に靴が脱げてしまう人も多かったようで、国鉄ではサンダルの貸し出しも行っていたり、新橋駅ではラッシュでちぎれたボタンをつける商売をする店も出現したりした。いずれもこの時代の通勤地獄を物語るエピソードである。
→次ページ「混雑率ワーストの区間」はどこ?
https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=2
再び国土交通省の鉄道混雑率の調査に戻ろう。全体の混雑率のほかにも混雑率が高い11の区間が紹介されていた。見事(?)ワーストに輝いたのは、すっかり常連となっている東京地下鉄(東京メトロ)東西線の木場駅から門前仲町駅に向かう区間で、1時間平均の混雑率は199%だった。東京のベッドタウンである千葉県船橋市から、集合住宅も多い東京都江戸川区を経て、オフィスビルが林立する大手町方面を結ぶ混雑必至の路線なので(東京圏在住者なら特に)納得の順位である。
■地道に改善されていった混雑事情 ⇒ 全体の混雑率が下がってきた現代に、199%もの混雑率である東西線だが、ラッシュがさらにひどかった時代には、どんな恐ろしい状態だったのだろうか。新聞をさかのぼっていくと、
‡1966(昭和41)年10月12日(水)の朝日新聞(東京版)に、東西線に関するこんな意外な見出しが載っていた。「相変らずガラ空き?都心乗入れの地下鉄東西線」。見出しの上にはガラガラの車内の写真が掲載されていて、新聞には〈中野駅で
1966(昭和41)年10月11日(火)午前10時うつす〉と撮影時間が併記されている。当該新聞の発行日は水曜なので、撮影日は平日の午前中ということになる。通勤ピークは過ぎているとはいえ、1人も座っていないロングシート(横向きの長椅子)があるというのは、都心の平日の日中にはまず見ない光景だ(始発駅なので、発車までまだ時間があったのかもしれないが)。実は地下鉄東西線は、この記事の2年前になる1964年に高田馬場駅と九段下駅の間で開業した新路線で、
1966(昭和41)年03月に中野駅と高田馬場駅間、九段下駅と竹橋駅間が開業。この記事の11日前に竹橋駅と大手町駅間が開業したばかりのときだった。中野から大手町(東京駅とほぼ同位置)を結ぶ路線でしかないため、国鉄中央線とルートはさほど変わらず、利用メリットがまだ少なかったころだったのだ。その後、1967(昭和42)年に東陽町駅まで延伸、
1969(昭和44)年03月に東陽町駅と西船橋駅(千葉県)間が開業し、現在のような利用価値の高い(混雑しやすい)路線へと成長していったのだった。このような地下鉄を中心とした新路線が次々と開業し、地下鉄と私鉄の相互乗り入れや、路線の複線化などさまざまな策が施され、東京圏をはじめとする混雑は地道に緩和されていったのである。
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https://toyokeizai.net/articles/-/265054?page=3
創価学会の皆さんに質問します。
2014(平成26)年11月08日(土)の聖教新聞に、会則変更の案内が出たそうですが読みましたか?
‡1979(昭和54)年の会則「弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」
2002(平成14)年03月28日(木) 改変の会則「一閻浮提総与の三大秘法の大御本尊を信受し、、」
2014(平成26)年11月08日(土) 会則変更 「具現された三大秘法を信じ御本尊に云々」で、原田会長の大御本尊と言う言葉を抜いた理由が「広宣流布を推進する仏意仏勅の団体であるとの自覚に立ち、その責任において広宣流布の為の御本尊を認定します。そこで言う御本尊とは、創価学会が受持の対象として認定した御本尊であり、大謗法の地にある弘安二年の御本尊は受持の対象にはいたしません」だそうです。創価学会が認定した御本尊て、例のぺラ刷りのコピー本尊ですよね。あのニセ本尊は認定すると言う事ですが、日寛上人が書写したおお元である弘安二年の大御本尊は受持しないって、何を言ってるのかわからないんですが、どう言うことですか?「熱原法難」をきっかけに日蓮大聖人が出世の本懐を遂げられた、と言う教学で言うところの、出世の本懐は、伝統的に弘安二年の一閻浮提総与の大御本尊様でしたよね。それを受持の認定にしない?でも自分らが刷ったペラコピーは認定する?何を言っているんですか、意味がわかりません創価学会の会長たるものが、昭和54年の会則で信仰の根本としていた大御本尊を、受持の対象に認定しないと決めたわけですが、これは明らかな教義の変更ですよね。昭和54年当時の教義を捨てると言ってるのですよ。日寛上人の大御本尊を書写したどっかの寺の御本尊とそのペラコピーは認定して、日蓮大聖人の出世の御本懐であり、御遺命である広宣流布の暁には富士山の麓に本門寺を建立し、本堂の戒壇に安置しなさい、とした本門戒壇の大御本尊様は認定しないと公に宣言したわけですよね。日蓮大聖人の御本懐を捨て、日蓮大聖人の御遺命の、本門寺建立と本門戒壇建立を捨てて、一体、日蓮大聖人の仏法の何を広宣流布したいのですか?私には、日蓮大聖人の仏法を利用して、創価学会という団体を広宣流布したいようにしか見えません。それは、選挙と金のためですよね。創価関連企業の維持=従業員の生活の為、選挙=国の権力に入り込み、選ばれし議員だけ潤う、これが日蓮大聖人の信心利用の本当の理由ですよね。そんな信心を金儲けと権力の道具にしたいだけの広宣流布の、どこが正義なんですか?現世利益を追い求める私利私欲が動機の広宣流布で、誰が成仏するんですか?政治で成仏しますか?金で成仏しますか?世界平和で成仏しますか?成仏と言う究極の目的が無い信心なんて意味が無いでしょう。さて、創価学会の皆さん、それでも創価学会が正しいと思い込む理由は何なんですかね?
補足:創価学会本部の教学部のおバカさんが、戒壇の御本尊はニセもので、御書にある日興上人の身延相承書と産湯相承書もニセもんかもしれないから、偽ものじゃ無い事を証明しろとかほざいています?証明するとかしないとかの前に、創価学会の平成3年までの信仰の根本である、教義の核心だった「戒壇の御本尊様」を捨てると原田会長が宣言してる事は、創価学会の創立から60年の歴史は間違いの教義を信じてきた歴史だと言ってるに等しいわけです。と言う事は、創価の永遠の師匠たちは、間違った信仰を広宣流布してきたんですね。戸田会長も牧口会長も、犬作もバカだったんですかね。師匠の信仰を否定してまで、創価学会が正しいと思い込む?や、本部の人間は給料の元だから事実を捏造してでも正当性を主張するだろうけど、一般の学会員さんたち、この本部の奴らのウソまみれの主張おかしいでしょ?どう思いますか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10138410890
「本日は東京へ行けません」掲示 新幹線運休で新大阪駅
2019(令和元)年10/12(土) 9:18 朝日新聞デジタル 配信
写真◆JR新大阪駅の新幹線中央口改札前に置かれた「本日は、東京へ行くことができません」と書かれた掲示板=2019年10月12日午前5時37分、大阪市淀川区のJR新大阪駅、古田寛也撮影
台風19号の接近に伴って東海道新幹線は12日、大規模な計画運休を実施し、名古屋―新大阪間で午前6時台に出発する上下線計6本を除いて全て運転を取りやめた。東京―名古屋間は始発から運休した。
【写真】東海道新幹線の名古屋行き最終の新幹線の利用客らで混雑するJR新大阪駅=2019年10月12日午前5時33分、大阪市淀川区のJR新大阪駅、古田寛也撮影
早朝のJR新大阪駅では改札前に「本日は、東京へ行くことができません」と書かれた掲示板が置かれた。
駅構内では「上り方面は6時23分発名古屋行き、のぞみ100号が最終列車となります」とのアナウンスが繰り返し流れた。
出張先の中国・上海から帰国した愛知県在住の会社員横田宏さん(58)は、11日夜の中部国際空港行きの便が欠航したため、急きょ広島空港行きの便に変更した。昨夜の終電で新大阪駅に着き、近くのホテルに泊まったという。
「予想より台風の影響が出るのが早かった。なんとか自宅に帰れそうです」と胸をなで下ろしていた。
東京の大学に留学している中国・福建省出身の林悦さん(22)は、名古屋行きの最終列車に乗り込んだ。大阪には旅行で訪れていたという。12日は名古屋のホテルに滞在するが、「明日の新幹線がいつ再開されるか分からない。いつ東京に戻れるのか」と不安げに話した。
JR東海によると、13日の東海道新幹線は台風通過後に鉄道関連設備の安全確認が終わり次第、運行を再開するという。広報担当者は「台風の予想通過時間を見る限り、始発からの再開は難しいかもしれない」と話した。(古田寛也)
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【まとめ】
台風19号情報 12日午前0時台まで
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高潮、高波、暴風雨に警戒を 台風、満潮時に高まる危険
台風19号と規模類似 甚大な被害残した狩野川台風とは
台風で停電でも温かいごはん パック活用、鍋でも炊ける
最終更新:10/12(土) 11:33
lum***** これぐらいはっきり掲示しないと、ことの重大さがわからない人が多いのが問題だな。
h21***** こんな時 なんの用事があるの。じっとしてれば少なくとも死なずに済む可能性は高い。
p09***** もし大規模災害が起こったとき、救助される人が少ない方が対処しやすいのですけれどね。子供連れのお母さんで実家が関東以外にある場合、脱出されている方も多いですよ。1日待てば、「結果は分かる」話ですから、待ちましょ。
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┃ 今日は何の日? ┃名称、肩書き、年齢などは当時のものです
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‡2002(平成14)年10月12日(土) バリ島の繁華街で爆弾テロ、202人が犠牲に ⇒ インドネシアの世界的観光地バリ島で爆弾テロ事件が起きた。外国人観光客でにぎわう同島南部の繁華街クタのナイトクラブを標的として、大量の爆薬を積んだ自動車が爆発、日本人観光客2人を含む計202人が犠牲となった。写真は、煙が立ち上る爆弾テロ現場【AFP時事】※2020年記事削除 2021(令和三)年記事復活及び説明追加
‡2016(平成28)年10月12日(水) ♪PPAP♪が動画サイトの週間再生回数で世界1位に ⇒ ピコ太郎さんが作曲した「PPAP(ペンパイナッポーアッポーペン)」が動画サイトYouTubeの週間再生回数ランキングで世界1位となった。日本人では初めて。コミカルな和製英語と振り付けで注目を集め、人気に火が付いた。※2021(令和三)年説明削除
2016(平成28)年10月28日(金) 写真は10月28日に東京の日本外国特派員協会に招かれて会見するピコ太郎さん【時事通信社】
‡1960(昭和35)年10月12日(水) 右翼少年が演説中の浅沼稲次郎日本社会党委員長を刺殺
‡1983(昭和58)年10月12日(水) ロッキード事件裁判の第一審で、田中角栄元首相に有罪判決 ※2020(令和二)年記事追加
https://www.jiji.com/jc/daily
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┃ 王貞治 ホームラン(本塁打)記録 ┃
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映像◆【プロ野球通算本塁打ランキング1位】王貞治【通算】打率.301 本塁打868 打点2170 https://youtu.be/5JHqQ1jQXWM
‡1980(昭和55)年10月12日(日) 868本 ヤクルトスワローズ26回戦 後楽園球場 6回裏 神部年男 右越ソロ 現役最終
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https://ja.wikipedia.org/wiki/王貞治
https://www.uta-net.com/song/2025
https://www.uta-net.com/song/78844
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①┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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‡1989(平成元)年10月12日(木) 奇跡の逆転優勝に導いたブライアント4連発
‡2017(平成29)年10月12日(木) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月12日だ。
写真◆3打席連続弾のシーン。手前でマウンドにヒザを着いているのが渡辺久
◎崖っぷちからの逆襲
前年の1988(昭和63)年、あの「10.19(水)」で時間との戦いにも敗れ、つかみかけていた優勝を2厘差で逃した近鉄バファローズ。その途方もない虚しさと悔しさから、翌89年を前に、個性派ぞろいの、いてまえ男たちが「今年こそは優勝!」と一つになった。
しかし、ケガ人の続出に加え、22試合連続三振もあった四番・ブライアントの不振もあって出足でつまずく。対して破壊力満点の“ブルーサンダー打線”を擁する新生オリックス・ブレーブスが独走態勢を固めていた。
それでも夏場に入り、近鉄はブライアントの復調もあって猛烈な追い上げを見せ、ついにはオリックス、近鉄、西武の三つ巴の混戦にもつれ込んだ。最初に脱落したのが
1989(平成元)年10月5日(木)にオリックスに敗れ、自力優勝が消滅した近鉄と思われた。
その日、近鉄グループの総帥・佐伯勇が死去の悲報も届く。一時期を除き、創設以来ずっとオーナーの座にあって、弱かった時代に「近鉄グループのお荷物」と批判があっても「ドラ息子だが、かわいいところもある」とかばい続けた人物だ。
喪章をつけて戦った翌
1989(平成元)年10月06日(金)のオリックス戦(藤井寺)から奇跡が始まる。1対2から9回裏二死に同点に追いつき、10回裏リベラがサヨナラ本塁打。仰木彬監督は「オーナーが見守ってくれたんでしょう」と声を震わせた。
◎1人で3本塁打
その後、
1989(平成元)年10月10日(火)までの5連勝で近鉄は自力優勝が復活。この時点で1位・西武、2位・近鉄、3位・オリックスとなったが、近鉄、オリックスとも西武とのゲーム差はわずか1だった。翌
1989(平成元)年10月11日(水)、西武─近鉄戦は雨で試合中止。日程が詰まっていたこともあって、
‡1989(平成元)年10月12日(木)が対西武のダブルヘッダー(西武)となった。
まず第1試合、近鉄は、西武の辻発彦に2ランを浴びるなど、3回までに0対4とリードを許す。4回に四番・ブライアントが46号ソロを放つも、5回裏に1点を返され、1対5で迎えた6回表だった。
この回、西武先発の郭泰源が突然崩れ、無死満塁でブライアントに回る。マウンドに行った森祇晶監督は「歩かせてもいいから。初球は必ずボールで」と指示したが、ブライアントは吸い込まれるように入った高めの甘いスライダーをとらえ、満塁弾。5対5と振り出しに戻った。
8回から西武・渡辺久信がマウンドに上がったとき、スタンドから少しざわめきが起こった。2日前の近鉄戦で8イニング131球を投げ、2対2からの8回にリベラに決勝本塁打を浴びていたからだ。この年、初めてのリリーフだったが、ブライアントとの相性の良さを見込まれてのスクランブル登板だろう。
そして打席には再びブライアント。渡辺久がカウント2ストライク1ボールから投じた速球だった。ブライアントが豪快なフルスイングをすると、打球はライトスタンド上段に突き刺さり、3打席連続ホームラン。近鉄ベンチから選手が飛び出し、ブライアントを手荒く祝福し、渡辺久は呆然とした表情でマウンドにヒザを着いた。
渡辺は試合後、記者たちに「あの高めの球は今まで打たれていないんだ、クソ」と吐き捨てた。森監督からは「なぜフォークを投げなかったんだ」と詰問されたというが、渡辺久は現役引退会見で「後悔しないように一番自信を持っていた球を投げた」と語っている。
◎ついに悲願達成
これが決勝点となり、近鉄が6対5で勝利。この日、西武が1戦目に勝てばだが、川崎球場で2位のオリックスがロッテと同じくダブルヘッダーを戦っており、オリックスが1試合に負けか引き分けで2戦目での西武優勝の可能性もあったが、ブライアントのバットがそれを打ち砕いた。
2試合目、観客は1試合目よりさらに増えた。「10.19(水)」以来、近鉄ファンは関東圏でも急増。「パ・リーグ元年」と言われ、人気面でもセ・リーグを追い上げ始めた時期だ。
まず近鉄が2点先制も、西武打線が近鉄の先発・阿波野秀幸の立ち上がりを攻め、2対2の同点。そしてブライアントが2打席目でセンター左にホームラン。1打席目は敬遠だったので、4打数連続本塁打となる。勢いに乗った近鉄は15安打、14得点で大勝。ついにマジック2を点灯させた。
1日にして首位を陥落し、3位となった西武・森監督は「想像もせんことになった。でも、これも野球だ」と語り、仰木監督は「あと2勝は考えない。最後の最後まで。130試合全力で戦うという最初からの目標を実現させるだけ」と表情を引き締めた。
歓喜の胴上げは
1989(平成元)年10月14日(土)、本拠地・藤井寺でのダイエー戦で実現する。「10.19」だけでも、「10.12」だけでもなく、「10.19」から「10.14」まで。これが、仰木近鉄が球史に残した、渾身のドラマだ。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
①http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171012-10
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②┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1973(昭和48)年10月11日(木) 0対7から10対10のドロー。巨人対阪神、伝説の死闘
2017(平成29)年10月11日(水) 7:05
‡1973(昭和48)年10月12日(金)「あすは完全休養日にする。ゆっくり休んでくれ」と珍しく優しい笑顔で言ったという。
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③┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1974(昭和49)年10月14日(月) 長嶋茂雄、引退。涙の後楽園
2017(平成29)年10月14日(土) 7:05
‡1974(昭和49)年10月12日(土) 中日が2試合を残し優勝決定。巨人はその日、神宮球場でのヤクルト戦の後、「川上監督勇退、長嶋現役引退」の記者会見を行った。
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④┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1992(平成四)年09月11日(金) 阪神が優勝を逃したのは“幻の本塁打”が理由だったのか
2017(平成29)年09月11日(月) 7:05 写真◆歓喜の表情でサヨナラのホームを踏んだ八木(背番号3)だったが……
‡1992(平成四)年10月12日(月)の午前0時26分、延長15回3対3のまま引き分けとなった。試合時間は史上最長の6時間26分となった。
ただ、この引き分けが響いて優勝を逃したわけではなく、前述のように、その後も連勝を続け、
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⑤┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1958(昭和33)年10月21日(火) 球史に残る奇跡のドラマ完結! 西鉄が3連敗から4連勝
2017(平成29)年10月21日(土) 7:05 プロ野球の歴史の中から、日付にこだわって「その日に何があったのか」紹介していく。今回は10月21日だ。
‡1958(昭和33)年10月12日(日) 同じく後楽園での第2戦は、初回で勝負が決まった。巨人打線が西鉄の先発・島原幸雄ら3投手に襲い掛かり、一挙7点。打線は大きなカーブで緩急を使った巨人先発・堀内庄に抑え込まれ、3対7で連敗となった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
②http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171011-11
③http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171014-11
③https://www.uta-net.com/song/44469 https://www.uta-net.com/song/51514
④http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20170911-14
⑤http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171021-12
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┃ プロ野球デキゴトロジー ┃写真=BBM
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1980(昭和55)年11月04日(火) 世界の王貞治が引退発表
2017(平成29)年11月04日(土) 7:05
‡1980(昭和55)年10月12日(日)には19年連続の30本塁打を記録し、力の衰えは隠せないにしても、まだ十分できるのではないかと思われた。
それでも王は言った。
「口はばったい言い方になるかもしれませんが、王貞治のバッティングができなくなったのが一番の理由です」
笑顔ではあるが、大きな目には涙が浮かんでいた。多くのファンがショックを受けたが、同時に「王貞治のバッティングができなくなった」という言葉で納得した部分もあった。
当時、王は歴史上の偉人のような存在だった。「30本で引退」はさびしかったが、「さすが王さん、カッコいい」と思ったのだ。
ただし、スムーズにはいかなかったようだ。シーズン終盤、長嶋監督にも引退の意思を告げ、何度も強く慰留された。決意は変わらなかったが、発表のタイミングを考えていたとき、その長嶋監督が突然の辞任……。
さらに藤田新監督から「選手と助監督の兼任」の依頼を受け、心が揺れる。「正直、二足のわらじを考えなかったわけではありません」と明かす。
応援してくれたファンの気持ちを考え、「ONがいなくなり、不安に思うのでは」と危惧したからだ。ファンのために戦う。それが王貞治という選手だった。美化するわけではない。当時の王は、本当にそういう存在だったのだ。
最終的には自らの美学を貫き、引退を決める。もう迷いはなかった。引退の翌
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http://column.sp.baseball.findfriends.jp/?pid=column_detail&id=097-20171104-11
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①┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.131 ┃ 40円
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‡1960(昭和35)年10月12日(水)増大号 特集 三原、水原“最後の巌流島”
2018(平成30)年03月07日(水) 11:08 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永く、お付き合いいただきたい。
◎『12球団昼と夜の合宿生活実態』
写真◆表紙は左から大洋・土井淳、巨人・堀本律雄
今回は『1960年10月12日増大号』。定価は10円アップの40円だ。巻頭グラビアは首位大洋に1ゲーム差と詰め寄った巨人の多摩川練習の様子。本文巻頭も『三原、水原最後の巌流島』とし、9月26(川崎)、27、28日(後楽園)で予定された最後の直接対決を展望している。
大洋・三原脩監督は言う。
「私は一挙手一投足にまで気を配り、あたかもそれが意味があるように行動した。また選手たちは私の一挙手一投足に何か意味があることをピンと感じてくれた。もしそれがなかったら大洋はこうまで強くなれなかったでしょう」
多少禅問答のようでもある。
一方の巨人・水原茂監督はすでに辞意を固めたようだ。敗戦の後の重苦しい雰囲気の中、「大本営発表、何も言うことなし、以上終わり、水原監督談」と言って記者たちを笑わせるなど、勝敗に対し淡々となっていた。
解説者の佐々木信也は大洋の強さについて次のように分析する。
「三原さんは力の野球が理想だと言っている。それは三原さんの頭の考えだ。しかし本当に三原さんの肌が好んでいるのは、いまの大洋のようなチームなのではないだろうか。代打代走をめまぐるしく出して、1点差で勝つ三原さんを見ると、まるで水を得た魚のように楽しそうだ」
なお『巨人、大洋優勝するとしないでは』では親会社の優勝効果について検証していた。これによれば、当時マルハでオレンジジュースを売り出したらしく、これに三原監督を使ったポスターを作り、評判になっていた。また読売新聞は巨人が勝つか負けるかで、次の日の売上が1割5分違うらしい。
大井廣介の『プロ野球時評好球悪球』では「トトカルチョを拒否せよ」と64年東京オリンピックの財源確保のため野球のトトカルチョを制定しようとしている東京都への反対記事だ。時代は回るか。
『12球団昼と夜の合宿生活実態』では12球団の寮が紹介されているが、国鉄が面白かった。
部屋名が「雲仙」「大和」「銀河」「明星」「出雲」「安芸」「かもめ」「南風」「奥陸」「日本海」「青葉」「阿蘇」。すべて当時の急行列車の名前だった。
以下は宣伝です。しばらく、まったく同じ文を掲載します。
現在、週刊ベースボール60周年企画として「週べでつづる12球団史」を制作中。第1弾は3月14日発売予定の巨人編です。
では、またあした。<次回に続く>
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②┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.333 ┃ 50円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1964(昭和39)年10月12日(月)号 優勝は大洋? 阪神? 誌面大混乱
2018(平成30)年11月05日(月) 10:14 今年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎大洋まさかの甲子園連敗
写真◆表紙は左上が南海・鶴岡一人監督、下が野村克也、右上が大洋・三原脩監督、下が秋山登
今回は『1964年10月12日号』。定価は50円だ。
1964年9月30日が発売日。予定どおりであれば、日本シリーズ第2戦の日だ。表紙にあるように『日本シリーズ展望号』として両軍の戦力分析にしたかったのだろう。
雑誌の進行を考えると、表紙や早版記事の大部分は24日締め切り、最終は26日だったはず。
予定ならシーズンは終了しているのだが、長雨でスケジュールがムチャクチャになっていたセ・リーグは、まだ終わらず、しかも大洋、阪神の優勝争いが緊迫していた。
表紙や早版記事の24日時点では、2位阪神に1.5ゲーム差で首位に立っていた大洋優勝は濃厚と思われ、それを仮定し、南海─大洋の日本シリーズ前提のものも多かった。
しかし、遅い記事のタイトルは「阪神・逆転優勝ムード」。なお、出場チームの選手名鑑もあったが、それは大洋、阪神の両方が載っていた。
事態を混沌とさせたのは雨で2日順延となって9月26日に行われた、甲子園での直接対決だ(ダブルヘッダー)。
1戦目に完封勝利を挙げた阪神・バッキーは、2戦目も好リリーフを見せ、阪神が5対0、3対2。ついにゲーム差は0.5となった。大洋はこれで全日程終了。阪神は残り3試合に2勝1敗なら逆転優勝となる。
バッキーは「休養十分でボールに威力があった。おもにタイミングを外すピッチングをした。ナックルは8球だけ。あとはインコースの落ちる球と速球。ウイニングボールはあと1個ほしいし、優勝したい」と上機嫌。
阪神・藤本定義監督は「予測しないことになったが、こうなった以上、あとの3試合はがっちりやりますよ」と語気を強めた。
一方、大洋・三原脩監督は、よほど悔しかったのだろう。「何も言うことはありません」とだけ言い残し、選手らを置いたまま一人夜行列車で東京に戻ってしまった。
このあたり細かくなるが、裏で三原監督と中部謙吉オーナーとのやり取りがある。
20日対阪神ダブルで連敗した後、1日雨で試合が延び、9月23日に巨人ダブルヘッダー(後楽園)となった際、三原は25、26日のはずだった甲子園での阪神戦のために1試合目が終わったら主力を大阪に行かせ、控えで巨人戦を戦うプランを立てた(結果的には26日のダブルとなるわけだが)。
「少しでも早く大阪に着いて決戦の準備をしたかった」(三原)からだ。
大雨の中、2試合を戦うことでの主力の体力消耗を心配したからでもある。
これに反対したのが、中部オーナーだった。
「日程が不利だ、不利だと言ったところでどうする。黙々と試合をやって結果を待とう。同情はこちらから求めるものではない。巨人にも失礼だ。堂々と試合をしてこそ、大洋の価値は決められる」
結果的には対巨人には連勝も阪神に連敗。優勝の行方は、阪神の結果待ちとなった(3試合に2勝で決定)。
では、またあした。<次回に続く>
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③┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.655 ┃ 80円
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛写真=BBM
‡1970(昭和45)年10月12日(月)号 突然浮上した1リーグ案だが、突然に立ち消え?
2020(令和二)年02月26日(水) 10:15 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎田淵は死球を覚えていない
写真◆表紙は東映・金田留広
今回は『1970年10月12日号』。定価は80円。
広島・外木場義郎から頭部に死球を受け、入院。一時は再起不能と言われていた阪神・田淵幸一だが、驚くべき回復力で退院が間近になったとあり、この号では手記が掲載されていた。
あの打席、田淵は外木場が前の遠井吾郎に本塁打を浴び、動揺しているから、まずは外寄りの真っすぐで様子を見ると考え、思い切って踏み込んだ。
それが内角高め。以後、記憶がない。
断片的だった記憶が完全につながったのは4日後、村山実監督が見舞いに来た際だった。
「この間より元気になっているじゃないか」と言われて驚いた田淵。聞けば、村山の面会は3度目だったという。話はしなかったが、目を開いて話にうなずいていたらしいが、まったく記憶にないという。
怖い話だが利点もある。
これから内角球を怖がるのではなど、後遺症を心配する人も多かったらしいが、田淵は、
「それはない。なにしろ、あの瞬間のことはまったく覚えていないのだから」
と話してた。あれほどの事故、覚えていたら確かにトラウマになる。
9月22日のオーナー会議で1リーグ制が決まるのでは、という記事があった。もともとは東映・大川オーナーが熱心だった話で、ロッテの永田雅一オーナーの反対でパがまとまらなかったが、今度は永田も大川とともに1リーグ移行の急先鋒となっていた。
2人の1リーグ案では吸収合併される球団に5億円、解散球団には10億円が残留球団から支払われる。ヤクルトとロッテ、広島と西鉄が合併するという筋書きになっていた。
永田は、親会社の経営状況もあり、この5億円が死んでもほしかったのだと思う(最初はこう書いたが、会議で踏みとどまったことを考えると、「のどから出るほど欲しかったが」とか書くべきだったと思う。反省です)
しかしオーナー会議当日になって「合同会議はプロ野球全体の問題を話し合うもので、最初からリーグの態度を決めてくるのは好ましくない」と永田が発言。分かりにくい言葉だが、土壇場になって1リーグ案の決定を避けた。
実は1リーグ案に積極的に動いたのは永田ではなく、ロッテのオーナー代理の中村長芳だった。岸信介元首相の人脈なのかヤクルト、大洋に働きかけ、落ちかけていたようだ。
これで多数決ならパの6+2。広島はすでに半落ちだったようで、9対3で1リーグになる。
しかし、この下工作を知ったセの他球団が反発。事前の話し合いで6球団の意思を統一し、2リーグ維持の方向性を固めた。
1リーグ案をスクープしたのは読売、報知だったらしいが、これはパ球団に対し「勝手な真似はよせ。お前たちの思惑は全部分かっているぞ」というメッセージだったようだ。
では、またあした。<次回に続く>
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④┃ 『週刊ベースボール』60周年記念企画 No.656 ┃ 80円
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‡1970(昭和45)年10月12日(月)号“ダン”ブレイザーのシンキング・ベースボール
2020(令和二)年02月27日(木) 10:14 一昨年、創刊60周年を迎えた『週刊ベースボール』。現在、(平日だけ)1日に1冊ずつバックナンバーを紹介する連載を進行中。いつまで続くかは担当者の健康と気力、さらには読者の皆さんの反応次第。できれば末永くお付き合いいただきたい。
◎誰が監督でもロッテは勝てた?
写真◆表紙は東映・金田留広
今回は『1970年10月12日号』。定価は80円。
前号からもう1回やっておく。
各チームのヘッドコーチ格、いわゆる「参謀」の特集があった。
まず、投打に圧倒的な戦力で優勝を目前とするロッテ。このチーム、実は、濃人渉監督の評価がもともと高くない。
第三者が見てもおかしいと思われる采配が多すぎる監督として知られ、一時はナインからの文句も絶えなかった。
永田雅一オーナーから首脳陣批判は厳禁と言われ、以後、一応は収まっていたが、これは結局、濃人の「俺の采配は間違っていない」という勘違いにつながるという声も多かった。
それがこの年は、「参謀」土屋弘光コーチが作戦の疑問についての聞き役となり、また一塁コーチとして濃人がおかしなサインを出すと、修正することもあり、快進撃を陰で支えているとも言われた。
ただ、この年のロッテは、誰が指揮を執っても勝てたかもしれない。
投手陣では、最終的に成田文男が25勝、木樽正明が21勝、小山正明が16勝と三本柱で62勝。彼らの完投数は驚くなかれ、59試合だ(130試合制)。
さらに打線もすごい。アルトマン、ロペス、有藤通世などを擁し、チーム打率.263、166本塁打はいずれもダントツだ。
打線が活発なパと対照的だったのはセ。こちらはよろめきながらも優勝に近づいていた巨人は、この時点での3割打者は王貞治のみ。ただ、それはセ全体も同じ。
最終成績であるが、この年、セの3割は王の.325のみ。2位の安藤統夫(阪神)で.294だ。しかもホームランも王の47本に続くのが30本。まさに別格だ。
リーグ全体で打率.234、防御率2.92というから、まさに投高打低のシーズンだった(パは.246、3.58)。
話を「参謀」に戻す。前年の最下位から2位に躍進した南海では「ダン」と呼ばれたブレイザーの評判がいい。メジャー時代から頭脳派二塁手として知られ、ピークは過ぎていたが、67年から3年間、南海でプレー。その間、野村克也が彼の野球論に心酔し、兼任監督になると、ぜひにと同年限りで退団したブレイザーをヘッドコーチに呼び寄せた。
そのときブレイザーが持参したのが、投手のピッチングの心得から守備のフォーメーション、走塁に至るまで細かく書かれたメモ、そしてシンキング・ベースボールという言葉だった。
1年目の兼任監督野村はブレイザーに采配を委ね、自らもブレイザーのサインで動いていたという。
打者のタイプに合わせた大胆なシフトなど、ブレイザー野球はかなり革新的だったらしい。
では、またあした。<次回に続く>
備考・・・2018(平成30)年に創刊60周年を迎える『週刊ベースボール』。1日に1冊ずつバックナンバーを紹介
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広島の初Vムードを高めた「再起不能説」が流れたサブマリンの復活劇
2018(平成30)年7月23日(月) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
初優勝の胴上げ投手にも
写真◆広島・金城基泰
1975(昭和50)年、広島の初優勝までの道のりでは、阪神、中日との息詰まるデッドヒートが展開された。その中で、広島のムードを高めたのが金城基泰の復活だった。
1974(昭和49)年、金城は20勝15敗で最多勝をマークしたサブマリン。しかし、セ・リーグの全日程が終了していない
‡1974(昭和49)年10月12日(土)、大分・別府で友人の車に同乗して事故に遭い、顔面を強打。フロントガラスの破片で両目を傷つけ、視力をほとんど失った。「再起不能説」まで流れた。
だが、特殊なコンタクトレンズの使用で、視力も日常生活に支障がない程度に回復。退院したのは事故から半年が経った4月末だった。
そこから8月の一軍復帰を目指して世紀への道が始まった。
1974(昭和49)年07月23日(火)、紅白戦で3イニングを1安打。
1974(昭和49)年08月02日(金)の大洋戦(広島)で復帰のマウンドに立った。この試合は1イニングを無安打無失点。そして、
1974(昭和49)年08月07日(水)のヤクルト戦(神宮)、6対7と1点をリードされ、なおも7回二死三塁のピンチで金城がマウンドに上がった。
金城は9回までの打者7人に対してパーフェクトピッチング。打線も金城の好投に応えて8、9回に4点を取り、逆転に成功。金城にシーズン初勝利を贈った。この勝利で広島は
1974(昭和49)年07月08日(月)以来の首位にも立った。
1975(昭和50)年10月15日(火)、初優勝を決めたマウンドに金城がいたこともドラマを演出した。
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②┃ プロ野球仰天伝説 No.196 ┃ ONLINE
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前日頭部への死球で病院に運ばれながら放った劇的満塁弾
2018(平成30)年7月7日(土) 11:05 長いプロ野球の歴史の中で、数えきれない伝説が紡がれた。その一つひとつが、野球という国民的スポーツの面白さを倍増させたのは間違いない。野球ファンを“仰天”させた伝説。その数々を紹介していこう。
◎広島との熾烈なデッドヒートのなかで
写真◆満塁弾を放った巨人・クロマティ
鈍い音が客席まで届き、一瞬、満員の神宮球場が静まり返った。
1986(昭和61)年10月2日(木)、ヤクルト対巨人の6回一死。ヤクルト・高野光の145キロのストレートが巨人・クロマティの右頭部のヘルメットに直撃。大きく三塁側にはねた。タンカで運ばれ、そのまま救急車で病院へ。試合後、「外角球と思い、踏み込んだのでよけ切れなかった。ぶつかった瞬間も覚えているし、大丈夫」と本人のコメントが出され、治療に当たった医師も「首に痛みがあるようだが、頭の中ではない。後遺症はないでしょう」と説明した。
8月に入り、首位に立った巨人だが、
1986(昭和61)年9月23日(火)直接対決で敗れて広島に抜かれ、さらに翌日、四番の原辰徳が広島の守護神・津田恒実の球をファウルした際、左手有鉤骨骨折で離脱。試合も敗れた。
だが、そこから巨人は息を吹き返し5連勝。再び広島を抜く。その原動力となったのが新四番・クロマティだ。そこでの死球。試合には勝ったが、王貞治監督の眉間のシワがさらに深くなった。
翌1986(昭和61)年10月3日(金)、クロマティは再検査を受けた後、家に戻り仮眠。そこから自分で車を運転し、ヤクルト戦開始近くに神宮球場入りした。練習はしていないが、王監督には「代打でいいから出してほしい」と申し出た。
巨人は水野雄仁が先発も初回、いきなり3失点。それでも3回表に3点を取って同点にし、マウンドに斎藤雅樹を送った。クロマティもブルペンに向かい、投手の球筋を追う。いまさらバットを何回も振るより、目を慣らしたほうがいい。あとは1球で仕留めればいいのだ。
◎奇跡のひと振りでベンチも涙、涙
6回だった。二死満塁とし、打者は一番・松本匡史。ここで王監督は決断した。クロマティの名を告げる場内アナウンスと同時に、すさまじい歓声が起こる。1ボール2ストライクの後、尾花高夫の外角への速球だった。バットを一閃すると打球はバックスクリーン左へ。満塁本塁打だ。クロマティは右手こぶしを突き上げ、大きくほえた。
ホームにかえると選手、コーチが泣き笑いで次々抱きついてきた。巨人ファンからクロマティが好きな「バンザイ」コールが起こった。
「みんな泣いていたし、オレも泣いたよ。ベリー・エキサイティング!」とクロマティ。一番泣いていた感激屋の中畑清は「こんな試合をしたんだ。絶対優勝できるぞ!」と目をぎらつかせて語った。
この試合、8対3で勝利した巨人は、さらに翌日の阪神戦にも勝ったが、広島も負けない。巨人は
1986(昭和61)年10月07日(火)、同じ神宮でヤクルトに逆転負けし、ついにゲーム差なしながら2位転落。
‡1986(昭和61)年10月12日(日)には広島の優勝が決まり、巨人はわずか3厘差で優勝に届かなかった。
************************* https://www.uta-net.com/song/78844
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