過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の氷室京介とMr.Childrenだヨ(=^◇^=)

 

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 ┃ ミスチル鈴木英哉体調不良で福岡公演延期 ┃
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†2013(平成25)年01月03日(木) 福岡ドーム公演延期発表
 2013(平成25)年01月04日(金) 福岡ドーム公演延期
 2013(平成25)年01月23日(水) 福岡ドーム公演延期開催
 2013(平成25)年01月24日(木) 福岡ドーム公演延期開催
 [2013年1月3日(木)16時23分]
 Mr.Childrenが3日と4日に予定していた福岡・福岡ドーム公演を延期することを発表した。ドラムス担当の鈴木英哉の体調不良によるもの。
 鈴木は3日にウイルス性胃腸炎と診断され、点滴などの処置を行っていたが、体調が回復せず、やむなくライブを延期することになった。
 振替公演は、1月23、24日に福岡ドームにて開催予定。
 http://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20130103-1067503.html
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 2013(平成25)年01月05日(土)
 年明け3日(木)・4日(金)のライブを楽しみにしていてくれた皆、本当にごめんなさい。
 新たな年明けを、清々しいめでたい気持ちを
 観に来てくれた皆とステージで共有したかったのですが…。
 様々な場所から様々な思いで3日・4日のライブを楽しみにしてくれていた事が
 ネットの書き込みなどを見ていると…痛いほどリアルに
 伝わってきて申し訳ない気持ちでいっぱいです。
 振替公演ができることがせめてもの救いだと思い、
 昨年以上に最高のパフォーマンスを皆に見せられるように
 その日まで最高のコンディションにしておきます!当たり前の事だけれども…。
 そして振替になることで観に来られなくなってしまう人もきっと多くいるんだと思います。
 こんな形でしかお詫びができない事…本当にごめんなさい!
 この先にある、創る音を通じてかえして参ります!
 2013.1.5 Mr.Children ドラム 鈴木英哉 
 http://tour.mrchildren.jp/news/130105.html

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 ┃ 『ap bank radio! THE LAST WAVE~せかいがおわるよるのストーリー~』 ┃  TOKYO FM
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛23:30~23:55
 ┌─――――――――――――┐作・瀧澤 悠 22:55
 |2009(平成21)年 1月 3日(土)|THE LAST WAVE DRAMA_vol.36『初夢』最後の初夢の内容は!?
 └─――――――――――――┘備考・・・毎週(日)曜日23:30~23:55 TOKYO FMをキーステーションに全国38局ネットでON AIR!地球最後に届けたい音楽とメッセージを全国に向けて発信している、この番組から飛び出した「せかいがおわるよるのストーリー」。もし今日が地球最後の日だったら…「せかいがおわるよる」を舞台に、様々な主人公達が繰り広げる、1回完結のショートドラマ。アナタの心には、何が映りましたか?
************************************* http://www.apbank.jp/
 http://www.tfm.co.jp/podcasts/apradio/?ym=200901
 http://ja.wikipedia.org/wiki/Ap_bank_radio!_THE_LAST_WAVE
 http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=128498 2012
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 ┃ 今日は何の日!? ┃|1月3日|
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  http://www.cdjournal.com/main/calendar/20140103/todays/
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 ┃ Golden Circle vol.17 ┃
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 |2013(平成25)年 1月 3日(木)|日本武道館
 └─――――――――――――┘
********************** http://goldencircle.jp/archive17.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/Golden_Circle_(%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%B3%E3%83%88)
 http://en.wikipedia.org/wiki/At_the_Golden_Circle_Stockholm
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 ┃ KING OF ROCK SHOW  ┃
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‡|1989(平成元)年 1月 3日(火)|東京ドーム 1日目
 |1989(平成元)年 1月 4日(水)|東京ドーム 2日目
 |1989(平成元)年 4月22日(土)|『KING OF ROCK SHOW AT 東京DOME』NHK総合
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 ┃ 『KING OF ROCK SHOW of 88'S-89'S TURNING PROCESS』  ┃
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 |1989(平成元)年 6月28日(水)|氷室京介初のライヴビデオリリース
 |2009(平成21)年 3月18日(水)|DVD リリース
‡|2013(平成25)年 1月 3日(金)|アマゾン現在価格 中古品¥11,400より コレクター商品¥16,450より 
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 http://www.amazon.co.jp/dp/B001MYRO1Q
 http://www1.ka2.koalanet.ne.jp/boowy/history_himuro.htm
 http://ja.wikipedia.org/wiki/KING_OF_ROCK_SHOW_of_88'S-89'S_TURNING_PROCESS
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 KYOSUKE HIMURO TOUR1988 -KING OF ROCK SHOW- http://youtu.be/xAM_4Q3YRuQ
 
 KING OF ROCK SHOW TOUR 1  http://youtu.be/BeMcuoW46V0
 
 KING OF ROCK SHOW TOUR 2  http://youtu.be/i1Qa5OXWo7Q
 
 KING OF ROCK SHOW TOUR 3 http://youtu.be/lYudp8O2Gjc
 
 KING OF ROCK SHOW TOUR 4 http://youtu.be/H80aLKXlIuI
 
 '89.1 KYOSUKE HIMURO『ROXY~IMAGE DOWN』  http://youtu.be/ooMTuZg8C50
 
 '89.1 KYOSUKE HIMURO『DEAR ALGERNON』  http://youtu.be/kFdGIrAi3C8
 
 REBECCA KING OF ROCK SHOW(低画質・ノイズ) http://youtu.be/xDr4B4ZYfFI 
 
 BOOWY KING OF ROCK SHOW(低画質・ノイズ)  http://youtu.be/TJSwtoskchw
 
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 ┃ ♪ANGEL♪で見る氷室京介の変遷<4> TURNING POINT 88-89   ┃2006-02-22(水)
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛氷室京介がアルバム「Flowers For Algernon」を引っさげて行ったツアー「King of Rock Show」。BOφWYの解散後いち早くソロ活動を開始した氷室。彼のもとにはBOφWYの主要なスタッフがついてきたという。そのことが、布袋をCOMPLEXの結成に向かわせたという説もある。つまり、氷室はそのカリスマ性ゆえに多くの人を惹きつけていたのだ。ツアーの模様を収録したビデオ作品にはインタビューも収録されており、その中で本人がこう言っている。「チェスではキングを守るために周りの駒が動く。しかしキングそのものは大した動きができない」彼自身は自分がキングだという尊大さではなく、キングでいられるのは周りの優秀なスタッフに支えられているからだという謙虚さを素直な語り口で表現している。それはすなわち、「ANGEL」で彼が歌った内容に合致する。いつでも優しさを弱さと笑われて 弱さを優しさにすりかえてきたけど臆病な俺を見つめなよ ANGEL 今飾りを捨てるから 裸の俺をみつめなよ ANGEL...カッコつけ虚勢を張っていたBOφWY時代のイメージを脱ぎ捨て、「自分は裸なんだ」という生身の人間としての彼の告白を表している。私が惹かれるのは、そうした自分をさらけ出す勇気を持った人間・氷室京介である。誰かに裸を暴かれるのではなく、自ら裸になって自分は裸だと言い切れる。そんな強さを身につけていた、あるいは身につけようともがいていた氷室京介。彼はツアー本編最後にANGELを選んだ。「俺が一番大事にしてる8ビートのロックンロール」というMCとともに。1989年1月4日、東京ドームでのツアー最終公演には当時天才少年と言われ音楽界を一斉風靡していたチャーリー・セクストンがゲストギタリストとして参加。彼はANGELのレコーディングの段階でも参加し、素晴らしいソロを聴かせてくれている。しかし当時、氷室本人は後に共演・共作することとなるスティーブ・スティーブンスにオファーを出していたという。後の自分の活動イメージを、氷室は当時から明確に描いていたということであろうか。いや、氷室はその猛禽類の獣のような鋭い眼でつかむべき未来を見据え、ついに掴んだのではないか。彼のTURNING POINT。それがこのツアー、シングル、アルバムの成功であった。
 http://ameblo.jp/thaimai/entry-10009365704.html
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 ┃ ♪ANGEL♪で見る氷室京介の変遷<4> ~ソロとバンドの境目~   ┃2006-08-28(月)
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛前回からずいぶん時間がたってしまった。前回の記事と若干かぶってしまった感もあるが、このままいかせてもらう。では。1988年~89年初頭。アルバム大賞を取りBOOWYの勢いをそのまま自分の活動に取り込んだかに見えた氷室だったが、Flowers For Algernonのツアー最終日は東京ドーム公演。LAST GIGSにて氷室が「今度は必ず4人それぞれがこの場所に帰ってくる」と言ってのけたとおり、一番乗りで帰ってきた。布袋はともかく、松井や高橋が一人でこのドームで単独公演できるとは思えないが、その辺が氷室らしいとも言える。とにかくドームでは様々な演出を凝らし、King of Rock Showの名の通り、日本人ソロアーティストとして最高峰のエンターテイメントが提供できるという証明をしてのけた。バンドで一番になって、ソロになって初めてのアルバムがナンバーワン。そしてツアーも成功。この自信が次の活動に進む大きなステップとなったことは間違いない。話をANGELに戻すと、東京ドーム公演でのMCは以下の通りである。「Ok Ok Thank You Baby. それじゃ、俺が一番大事にしている8ビートのロックンロールを 一発ぶちかましたいと思います」字面にするとちょっと痛い感じだが、やんちゃで怖いものなしの氷室に叫ばれると何も言えない。理屈ぬきでカッコいいのだ。しかもすでにこの時から「一番大事にしている」発言があったことに注目したい。氷室はソロデビュー作として選んだこの曲に対し、相当な思い入れがあるということだ。後に変更を加えることとなる「臆病な俺を見つめなよANGEL」のフレーズがいかに意味のあるものだったのかだ窺い知れる。「ぶっちゃけ、バンドを解散しなくてもよかったと思っていた」という氷室の実感が、このフレーズに込められているのではないだろうか。今回GLAYとのコラボレーションが実現し、氷室はバンドの良さを再認識したという。楽しいこと、嬉しいことは分かち合えて、辛いこと、苦しいことは支えあって乗り切っていく。BOOWYはメンバーそれぞれの個性、特に氷室と布袋との個性のぶつかり合いが絶えなかったという。二人の衝突にいつも割って入ったのが年長者の高橋だったという。そうしてぶつかり合いながらも刺激しあい、わずかな期間で大きな変化と成長を遂げたバンド。成功をつかみ、その影に自らを見失う前に潔く区切りをつけたバンド。氷室がGLAYに見たものは、過去の追憶だけだったのだろうか?氷室はGLAYに、ぜひバンドを続けていって欲しいと伝えたという。氷室はバンドに対する思いを断ち切って、たった一人で暗黒の空を切り裂いていった。その生き方に、後悔はないはずだ。ただ個人的には、BOOWYの再結成もありえない話ではないと思う。もしあるとすればそれは、イベント・ライブという形での実現になるだろう。東芝EMIの青写真には既に描かれているに違いない。自分が上層部ならそうするだろうから。この音楽シーンに絶大なる集客力を確実に見込めるのは、BOOWY再結成である。CDやDVDが出ようものなら、トップセールスは確実である。それはデビュー20周年時のリリース・ラッシュでも証明済みである。大胆にも私はここで予言したいと思う。BOOWY再結成は「ある」2010年までに、東京ドーム2Daysのスペシャルライブという形で。布袋は断らないだろう。松井も。高橋も。布袋は以前Hey×3出演時に氷室には頭が上がらない的な発言をしていた。21stの際にも、氷室から一言も断りなり連絡なりがなかったことにへそを曲げていた。布袋は氷室が声をかけてくれればやるという心積もりだろう。氷室が決定権を握っている。実現には、氷室本人に何としてでもYesと言わせなければならない。今はそのための一歩一歩を進んでいるではないだろうか。お祭りライブの恒例化、BOOWYのセルフカバー、BOOWYに多大な影響を受けたGLAYとの共演・・・こうして、BOOWYに対するマイナス要素が氷室の中で取り除かれてきているのは間違いない。ただし、現在製作中のアルバム発売・ツアーは行われるであろう。ついでに予想すると、アルバムは11月以降、2月まで。ツアーは2月から3月にかけて。その間、影でボウイ・プロジェクトが画策され、ツアー終了後しばらくして氷室に打診。「お祭り」の延長上にBOOWYが仕掛けられている・・・ああ、恐ろしい、恐ろしい・・・。(((( ;°Д°))))
話がANGELからとんでもない方向に進んでしまった。自分でも書いてて怖い。みんなの反応が。
※この記事は全くの憶測に基づいて作られており、氷室関係者、東芝EMI関係者からの情報は全くありません。いちファンが恐る恐る妄想しているだけですのでお手柔らかに。
http://ameblo.jp/thaimai/entry-10016329743.html
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 ┃ Mr.Children[(an imitation) blood orange]Tour ┃Official Live No.24
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛20会場40公演
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†|2013(平成25)年 1月 3日(木)|福岡 Yahoo! JAPANドーム(公演延期)1日目 4会場
 |2013(平成25)年 1月 4日(金)|福岡 Yahoo! JAPANドーム(公演延期)2日目 4会場
 |2013(平成25)年 1月23日(水)|福岡 Yahoo! JAPANドーム(振替公演)1日目 4会場 07本目
 |2013(平成25)年 1月24日(木)|福岡 Yahoo! JAPANドーム(振替公演)2日目 4会場 08本目
 └─――――――――――――┘
  備考・・・17thアルバム『[(an imitation) blood orange]』発売後に行なわれたライブツアー。年をまたいで行なわれるツアーは『Mr.Children Concert Tour Q 2000-2001』以来12年ぶりで、ドームツアーのさいたまスーパーアリーナ公演はMr.Childrenでは初めてスタジアムモードで開催された。1月3日・4日に予定されていた福岡公演が鈴木がウィルス性胃腸炎と診断されたため1月23日・24日に延期となった[28]
******************* http://ja.wikipedia.org/wiki/Mr.Children
 http://www.mrchildren.jp/live/2013_animitationbloodorange.html http://tour.mrchildren.jp/
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メダカの「恋ごころスイッチ」、東大研究グループが解明
2013(平成25)年 1月3日(金)06時20分TBS系(JNN)配信
 「メダカのメスはずっとそばにいたオスを記憶し、性的パートナーに選ぶ」。そんなメダカの「恋ごころのスイッチ」の働きを、東京大学の研究グループが明らかにしました。初めて出会った2匹のメダカ。メスは、オスの求愛行動をなかなか受け入れません。透明なガラスで仕切ってお互いが見える「お見合い」状態を経た別のカップルでは、メスがオスをすんなりと受け入れます。東京大学の竹内秀明助教らが行った実験で、メダカのメスは、目で見ていた「そばにいたオス」を識別し性的パートナーとして選択することがわかりました。「お見合い」をすると、メスの脳内で大型の神経細胞の電気的活動が活性化することが確認され。研究チームではこの働きを「恋ごころスイッチ」と名づけました。ヒトにも同様の働きがあれば恋に落ちる仕組みが分かるかもしれませんが、今のところその存在がわかっているのはメダカだけです。
 http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20140103-00000008-jnn-soci
 恋の仕組み解明 ※メダカ限定  http://youtu.be/bnXS6qLIGPg
 

2004年の正月に浜田省吾が姉宅を年始で訪ねた時のURL㊦↓㊦↓㊦
http://www.chugoku-np.co.jp/hwpm/message/Hs04083001.html
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 ┃ クリシュナムルティ マドラス・トーク6 ┃
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 |1965(昭和40)年 1月 3日(日)|「空間」中野多一郎:訳
 └─――――――――――――┘
 私は、もし宜しければ、今晩はあなたが聞いたことがあるかも知れないことについて、或いはあなたが実践したかも知れない、深く検討したかも知れないことについて話したいと思います―瞑想の問題です。私は、もし宜しければ、大いなる領域の多くのことを、その途轍もない言葉の十分な意義を網羅したいと思います。しかし我々がそれを検討する前に、その性質と意義を検討する前に、我々は〝美〟を理解する必要があるだけではなく、一般的に〝愛〟と呼ばれるその言葉を理解する必要があります。我々の殆んどの生の中には、ごく僅かの美とごく僅かの愛しかありません。我々は樹木や汚穢や貧困や飢餓のようなものを見ます、我々は我々自身のむさ苦しい、狭い、取るに足りない生を見ます、そして我々の精神の狭い領域の中で争います。そして我々は実際には愛の深さと広さを知りません。我々は同情を知っています、我々は時折何の動機もなく他の人に対する大いなる親愛の情に気づきます、我々は寛容さや親切心や優しさも知っています、しかしこれらの言葉はあの〝愛〟という言葉の十分な意味を本当には蔽い尽くしていません。我々が行おうとする全ての実践や我々が育成して果てしなく実践しようとする全ての徳、社会変革、意見、聖者であると思われている人達の性格―それら全てが、この欠くことができないもの、愛を欠いていると私には思われます。そしてそれなしに生には何の意味もありません、いかなる意義も殆んどありません。
  そこで、我々は今晩〝愛〟と〝瞑想〟を検討します。我々は言葉を玩んでいるのではありません。言葉はコミュニケーションのときだけ有用です。あなたと私が共に理解する言葉を我々が使うとき、言葉はある確定的な意味を持ちます―それぞれの言葉の論争的な弁証法的な論理的な意味では全くなく、我々はそれぞれの言葉の意味を大なり小なり把握しています。そしてもし私に言わせて貰えば、我々がこのことを、この愛と瞑想という全く途轍もない問題を話しているとき―それは実際には共有することですが―我々は耳を澄ますという霊妙な働きをも学ぶべきです。我々は沢山のものを聞きます、カラスの声を聞きます、我々は話し手の言うことを聞きます、彼の使う言葉を聞きます。しかし聞くことは耳を澄ますことではありません。耳を澄ますためには言葉の上でのコミュニケーションが成立するだけではなく、同意するのでも同意しないのでもなく、耳をひたすら澄ますという行為がなければなりません―あなたが聞いたことをあなた固有の言葉で解釈するのではなく、或いはあなたが聞いたことを何らかの伝統に従って、それとも誰かの言ったことに従って解釈するのではありません、それらは耳を澄ますという行為を妨げます。
  耳を澄ますという行為はいつも現在の行為です。それはいつも現在の活動です。そしてあなたがあなたの聞くことをあなた自身の理解の観点から、あなた自身の伝統的な観点から、あなた自身の文化という観点から―もしあなたに文化があるなら―解釈するや否や、あなたは耳を澄ますことを単に妨げているだけです。もし人が耳を澄ましているなら、人は途轍もない活動の中で話し手に耳を澄ましているだけではなく、あらゆるものに果てしなく耳を澄ますことができます、あのカラスたちやあのバスに、木の葉の中のそよ風の囁きに耳を澄ますことができます、夕陽を見ることができます。それは余すことのない行為であり、それは部分的な行為ではありません。そしてもし我々が生涯を通じてそのように耳を澄ますことができるなら、数分間ではなく生涯を通じてあらゆる音に耳を澄ましているなら、親しみのある声音だけではなく思考と言葉のあらゆる活動に耳を澄ましているなら、生が学ぶことと耳を澄ますことの果てしない活動となるでしょう。
  そして我々がこの愛と瞑想について共に語っているとき、共に分かち合っているとき、人はその言葉に耳を澄ましているだけではなく、その言葉以上のものにも耳を澄ましていなければなりません、その表面だけではなく、その表面を超えたものにも耳を澄ましていなければなりません。愛の本質は協同行為です。我々は一種類の協同行為を知っているだけです―賞罰を通じての、或いは必要性に迫られての協同行為です。それが我々の知っている唯一の協同行為です。協同行為、それは物を生産するために一緒に働くことです、そしてそれは利益或いは損失を通じて、或いは権威への順応を通じてなされます―権威とは理想であり個人或いは模範となるものなどがもたらす抑圧的な力です。それが我々の知っている唯一の協同行為です。あなたが自分自身を観察するなら、あなたはあなたがオフィスへ行くとき、あなたが一緒に何かを行わなければならないとき、あらゆることの中に、賞罰を通じての或いは必要に迫られてのこの協同行為があることを見るでしょう。そのような協同行為は実際には原始的なものであり、それは協同行為では全くありません。
  我々は協同して行わなければなりません、そうでなければ我々は存在できません。協同行為がないとき社会や関係が成立しません。そしてそれがこの国で起こっていることです、協同行為がありません、この国のどのグループもどの部分もそれ自身のことを考えています。この断片的な在り方―人がよく知っている、とても種族的で、とても国家的な在り方―は明らかに非協同行為的な状態です、従ってそれは崩壊であり、破壊であり、腐敗です。我々は協同して行うときだけ、一緒に働くときだけ生きられるだけです。
  賞罰とは無縁に、強制されることなく一緒に働くことは可能ですか? 私には、その言葉の性質上、その言葉の意味から、協同行為は親愛の情があるときだけ、愛があるときだけ起こりえるだけであると思われます。そしてそれは既得権益が存在するや否や止んでしまいます、それは個別の言語によって個別の国によって個別の地域によって条件付けられた取るに足りない狭小な精神の種族的な活動が起こるや否や止んでしまいます。従って、協同行為を語る殆んどの我々は非常に原始的な人間です、何故なら我々の協同行為は恐れや必要性や損得に基づいているからです。そして私には、本当に協同して行うためには、一緒に働くためには、大いなる親愛の情や、我々が言葉にするのをためらうこのありふれた言葉、この大いなる〝愛〟が要求されるように思われます。
  そこで、我々は今晩、その言葉の意味と性質を知る精神の状態を我々自身で明らかにしよう、発見しようとしています。というのは、この一つの行為こそが人を解放することになるからです、それこそが完全に人の変質をもたらすことになるからです。この親愛の情、この愛、この質は育成されえるものではありません、実践されえるものではありません、生み出されえるものではありません、それは呼吸のように自然に、夕陽のように大いなる喜びと歓喜に満ちて起こるのでなくてはなりません。
  そしてそれを探究するために人は空間のこの問題を、そしてその空間の中の対象を探究しなければなりません。我々が〝空間〟という言葉を使うとき、我々は対象と共に見られる継続的な状態、或いは対象を持たずに見られる継続的な状態、或いは対象の周りのものに関連する継続的な状態、或いは対象を持たないものに関連する継続的な状態を意味しているのではないのですか? 私はそれをもう少し検討します。
   我々が検討しようとしているのは本当の瞑想であり、我々はこのことを理解しなければなりません。我々は空間をその空間の中に存在する対象によって知るだけです。私は空間を部屋の四つの壁によって知るだけです。あなたが樹と呼ぶ対象があるので空間があり、その樹がその周りに空間を作り出します。あなたと話し手との間に空間が、時間的な隔たりが、距離があります。時間的な隔たりとしての空間があり、二点の間に空間があります―観察者としての地点と空間を作り出す観察されるものがあります。このことは殆んどの我々が知っています。
  これは、我々が話していることは真剣なことです。これは子供たちのためのものではないので、もしあなたが子供たちを連れているなら子供たちを連れて行って下さい、彼らを庭で遊ばさせて下さい。あなたは余すことなく気をつけていなければなりません、そうでなければあなたは我々が検討しようとしていることを理解できないでしょう。
  空間は二つの思考の間のその隔たりでもあります。空間は思考者と思考が存在するときの精神の状態でもあります。従って我々は空間をその中の対象によって知るだけです。対象としての話し手のおかげで空間が存在します―彼の周りの空間です。そしてそれが我々の知っている全てです。いつも対象があり観察者がいます、対象があり観察者がいるので空間ができます。そしてその空間の中に全てのコミュニケーションと欲望が生じます。そして空間がその対象で生み出されている限り、人間の精神はいつも奴隷であり、それは決して自由ではないでしょう、何故ならその対象こそがその空間を作り出すからです、そしてその対象によって或いは思考者によって作り出される空間の中を生きていては、自由は決してもたらされないでしょう。
  対象を持たない、思考者のいない空間があるときだけ自由があります。このことを理解するには大いなる探究を必要とします、そしてこのことを理解することは重要です。あなたには空間がなければなりません―精神の中の空間です、心の中の空間です。そうでなければあなたは閉じ込められています、そうでなければ自由はありません。そしてもし心と精神の中の空間が思考者や空間を作り出すその対象によって作り出されているだけなら、精神はどれほど博識でも、どれほど賢くても、どれほど論理的でも、取るに足らなくて狭小なままでしょう。
  私はあなたが部屋の中の椅子に気づいたかどうか、それを観察したかどうか知りません。その部屋の中の椅子こそがその空間を作り出します、そして部屋の四隅の壁こそがその空間を作り出します。そしてその中で我々は生きています。そして思考やその対象によって作り出された空間の中を生きながら我々は果てしなく格闘します、我々は家具をあちらこちら移動させます、我々は部屋を広げます、我々は様々な種類のドラッグなどで我々の感受性を広げます、我々は我々の感受性を高揚させます。しかしそれは依然として思考によって作り出された空間の中を生きています。そしてそのように生きていると、殆んどの我々がそうしているように、その活動はいつもある対象から別の対象への活動であって、その対象が作る空間の中の活動です。従って、我々は決して自由な感じを手にしていません、そして自由なしに愛はありません。
  従って全ての探究は、それは瞑想ですが、思考や思考者或いはその対象が作り出すのではないあの空間を明らかにすること或いはその空間と出会うことです。私は私がこのことをいくらか明らかにしていると願います。このことのためには愛がなければなりません。我々がこの言葉を使うとき、我々はそれが壮大に広がる感じをあなたの中に、そのような空間を見る当のものを脱落させて、呼び覚ましているのでしょうか。我々はそれを検討しようとしています。つまり沈黙が生まれるときのみ空間は存在しえるだけです。そして愛があるときにだけ沈黙が生まれます。
  従って我々が探究しようとしているのは沈黙の全プロセスです。始めに、瞑想しようと意図的に座っている人は、或いは意図的にある姿勢を取って瞑想を始めようとしている人は決して自由にこの沈黙の不思議なものに出会わないでしょう。我々はその理由を説明します。あなたは、あなたの肺が詰まって重苦しいときのみ、或いはあなたがひどい風邪を引いているときのみあなたが息をしているのを知ります、そうでなければあなたはあなたが息をしていることに全く気づきません。意図的に瞑想しようと座ることは、あなた自身或いは他の人によって確立されたパターンに従って沈黙を果たすために、或いは精神の中に〝心の平和〟と呼ばれる―あなたたちの殆んどがそう呼ぶような―ただの〝心の平和〟を、他の何ものでもなくただの声であり言葉である何らかの平和を手にするために、精神を無理に機能させようとすることです。意図的な瞑想行為は雑音的な行為であり、その雑音の催眠的なプロセスの性格や特徴や傾向に従ってコントロールされているものです。
  そのように瞑想の何らかの特別なメソッドに従うことは致命的で破壊的です―あなたがそれを自分自身のために発明しようと、或いはあなたが沈黙と呼ばれるその特殊な状態に達するために瞑想するよう古代の人達がそれを発明しようとそれを考え出そうと、それは沈黙ではありません、それは〝沈黙〟と呼ばれる特殊な空間に到達するためにあなたの精神を沈黙させる意図的な行為の結果です。何故ならそれは精神をもっともっと狭くするだけだからです。
  そしてもしあなたが見守るなら、いわゆる瞑想と呼ばれるこのプロセスは現実からの一種の逃亡です―現実とは毎日の生活のことであって、それは強制することによって、コントロールすることによって、言葉を繰り返すことによって、絵やイメージやシンボルに精神を集中することによってあなたが手にする或いは見つけるだろうと考える何らかの形の神秘主義への逃亡ではありません。結局のところ、メソッドは精神をある方向に沿って働くように訓練するだけです。そしてその実践は自己催眠をもたらします、つまりあなたはビジョンをえます、あなたはその状態の中であらゆる種類のものをえます、従ってそれは次第にあなたが生から逃げ去ることを助けます。そのように生活と瞑想の追求との間に距離ができます。生活が現実です―争いや嫉妬、不安、望みのない絶望、途方もない競争、残虐性などあらゆるものです、それらが現実です。その他のものは催眠を通じての、言語による、現実性を全く欠く何らかの状態を通じての空想的な逃亡です。そしてあなたがそのパターンに順応すればするほど、あなたはあなたが益々達成していると考えます。勿論あなたは達成しています―それはアンバランスを生み出すのであり、生活や現実と空想との間に矛盾を生み出すのです。
  従って人はこのプロセスを理解して、瞑想を実践するというこの考え方の全てを完全に脇へおく必要があります。私はそれがあなたの希望に全くそぐわないことを知っています、何故ならそれがあなたの学んできたことだからです。その中に意味されていることを見て下さい。あなたが瞑想を実践するとき、あなたは対象に、観念に、何らかのビジョンに、何らかのイメージに精神を集中しようとしています、従ってあなたは他のあらゆる侵入物を押し退けます。従ってあなたの精神集中は一種の抵抗です、そしてあなたはあなたのエネルギーを消費します―そのエネルギーは〝沈黙〟と呼ばれるこの途轍もないものを見つけ出すために必要とされるものです―あなたはそのエネルギーを精神集中しようとしているときに浪費します、あなたの精神は彷徨します、そしてあなたは果てしない年月をあなたの精神をそれが興味をもてない何かに精神集中させようとして消費します。自分自身でそれを観察して下さい。
  従って精神集中は、実践を通じて生み出される精神集中は、精神を更にもっと鈍く、更にもっと鈍感にします。何故ならそれは果てしのない葛藤を作り出すからであり、葛藤の中の精神は明らかに鈍感です。そしてあなたには〝沈黙〟と呼ばれるこのことを発見するために、それと出会うために、最高の形の感受性、叡智が必要です。
  そして殆んどの我々にとって瞑想は自己陶酔です。私はあなたがオモチャと遊んでいる子供或いは少年を見たことがあるのかどうか知りません。その子供は完全にそのオモチャに夢中です、彼は完全にそのオモチャに精神を集中しています、彼は全くそれと一体です。悪戯は止みました。彼はどのような悪戯もしません、彼は腕白ではありません、彼は静かに座っています、彼はそのオモチャと果てしなく遊んでいます、彼がそれを壊すまで―そうすると彼は新しいオモチャを欲しがります。そして殆んどの我々はそれと同じです、我々は何かに、我々が作り出したイメージに夢中になりたいと思います―我々の伝統というイメージに、我々の風変わりさというイメージに、我々の傾向や我々は献身的であるというイメージに、そして我々はそれに夢中です、そして我々はそれを瞑想と呼びます! 明らかに、それは瞑想ではありません、それはあなたの考えを吸収したあなたの精神が思い描くものです。あなたはそのイメージ、そのシンボル、そのビジョンがあなたによって思い描かれているのかどうかには興味がありません、あなたはそれが現実であると考えます。
  そのように瞑想は精神集中でもなければイメージやシンボルに夢中になることでもなければ祈りでもありません。あなたは祈りがどういうものであるか知っています、果てしのない言葉の繰り返しです、直ぐにそれが口から出ればそれだけ良いのです! あなたはそれを聞きます、或いは絵や像―精神或いは手で彫られたイメージ―の前に座ってあなたは果てしなく言葉を、言葉を、言葉を繰り返します、自然にその繰り返しが精神を静めます。このように精神を静めることは精神を鈍くすることであり、それはそれらの言葉に意味があろうとなかろうと精神を言葉によって催眠術にかけることです、それには現実性がありません、あなたはただ〝コカコーラ〟と果てしなく言い続けているだけです―それはあなたがあなたのマントラやあなたのラテン語を繰り返すのと同じ意義を持ちます。そしてこれが続きます―このような祈りです、あなたが作り出したイメージに夢中になることです、そのビジョンです、或いは精神集中です。これが一般的に瞑想と呼ばれています! 様々な学校があってそこで言われます「あなたのつま先の動きに気づき、それを見守り、逸脱する気に付いていきなさい、そしてつま先に戻ってきなさい」と。様々な形のメソッドやシステムや考え方があります―瞑想の仕方です!
  そして我々が言ったように、意図的に座ったり瞑想を実践したりしている人は生活を考えない人と同様に現実から離れ去っています。我々は生活に関心があります―つまり、我々の毎日の活動であり、我々の毎日の生活であり、我々の悲しみであり、我々の絶望であり、我々の苦悶であり、生の残虐性であり、それら全ての無慈悲さです。それが変えられなければ、あなたが何を行おうとあなたは決して現実が何であるのかを明らかにできません。そのように瞑想はそこから始まらなければなりません、人は存在することの美を、存在することの途轍もない繊細さを見つけなければなりません。そして世に言うところの瞑想は逸脱の仕方です、現実からの逃亡の仕方です。
  そして日常生活の中に余すことのない変質を、余すことのない革命をもたらすことが瞑想の佇まいです。座ってそして瞑想してそれから行動するのではなく、生活すること、理解すること、あなたが行うあらゆることに気づいていること、あなたの言葉やあなたの仕草やあなたの歩き方や毎日の存在の仕方の全てに気づいていること―それが瞑想です。それはあの蜘蛛に気づくことです、それが作る蜘蛛の巣に、その効率性に、その色彩に、その美に、その繊細さに気づくことです、ただ見守っていることです。そしてあなたが見守っていると、あなたの精神は彷徨します、その逸脱を追って下さい、それを否定しないで下さい、それを気の逸脱と呼んでその蜘蛛を見るように無理に自分自身を見るように仕向けないで下さい。その気の逸脱を追って下さい。そうするとあなたは気の逸脱が全く起こらないことがわかるでしょう、あらゆるものに継続的に気づいている状態があるだけです。
  そうするとあなたは分かるでしょう、その気づきの中に、いつも観察者が、気づいている当のものがいることを、そしてその当のものが言います「私は気づきを実践しなければならない、私は見なければならない、私は学んでいる、私はもっと感じている、私はもっと感受性が鋭敏になっている」と。つまり、その気づきの中に取捨選択が起こります。つまり〝私〟はその蜘蛛を見ることを選択します、〝私〟は取捨選択して言います「これは良い、それは悪い、これは正しい、あれは間違っている」と。
  そのように殆んどの我々にとって気づきは取捨選択から生まれています。そしてもしあなたが更に踏み込んでいくと、あなたはあなたがいかなる取捨選択もせずに見たり、観察したり、気づいたりできることが分かるでしょう。あなたはその樹を、あの夕陽を言葉にしないで思考を働かせずに完全に見ることができます―それはあなたが夢うつつであることを意味しません。あなたは完全に見守っています―あなたが見守っているのではなく、その夕陽に完全に見入っていることが起こります。我々が言ったように、あなたは何らかの障害があるときにあなたが息をしていると気づくだけです、あなたはあなたが風邪を引いたときにあなたが重苦しく息をしていると気づくだけです、そうでなければあなたはそれに気づきません。あなたがそこに座っているとき、あなたはあなたが息をする当人として息をしていると気づきません。それは自然なプロセスです。そのように瞑想は自然なプロセスです―意図的な行為ではありません。それが意図的な行為になると、取捨選択する者が、監視する者が現れます、そうしてその当人が残ります。しかしその監視者を見守っているとき、その樹を、その顔を見守っているとき、あなたの思考を見守っているとき、その当人が見守っている者として現れるのは、あなたがその思考を取捨選択したり、否定したり、抑圧したり、変更したりするときだけです。しかしもしあなたが何の干渉もしないで単に見守るだけなら、見守る者は全く存在しません。そうすると即座に空間が生まれます。
  あなたはこれらのことに付いてきています、私はそう願います! 言葉の上ではなく実際にそのように行っていることを、何故なら我々はこの瞬間に、瞑想を、それを理解することを、それと共に歩んでいることを分かち合っているからです。監視者がいる限り、彼が見るものを彼自身の過去である条件付けから解釈している当人がいる限り、あなたが観察するものを、あなたが見るものを、あなたが聞くものをあなたが説明している限り中心やその対象があるはずであり、そしてそれがその周りに空間を作り出して、そこに二重性が起こるはずです。そしてあなたがひとたび二重性を確立すれば葛藤が起こります。しかしもしあなたが単に観察するだけなら、あなたは対象のない空間があることが分かるでしょう。それはそのように単純です。しかし我々は単純性を好みません、我々はそれら全てを複雑にしたがります。それは途轍もなく単純です。そして非常に単純な精神だけが明瞭に見ることができるのであり、完全に耳を澄ますことができるのであり、取捨選択することなく気づくのです。
  そして単純性は単に外見の見せ掛けではありません。単純であることに従うことは自己顕示であり、それは粗末な服を着ることによって社会的に敬意を表されるようになることです。托鉢僧になることはある意味でブルジョワ的な社会的敬意に浴することです! しかし聖者は決して単純性を知らないでしょう、何故なら彼は単純ではないからです、彼は自分自身と絶えず格闘しています。そして真理が何であるかを見つけることは、それを発見することは、それと出会うことは、観察の性質を理解することであり、思考なしに、思考の干渉なしに、時間とは無縁に観察することです。
  そして人はこの沈黙の空間を理解しなければなりません。人は経験のあらゆる問題も理解しなければなりません。我々は経験したがります、多ければ多いほど良いのです。何故なら我々は生の日常的な経験にうんざりしているからです。我々はその中にどのような美もどのような魅力も見出しません、我々はただ決まりきった習慣や侘しさや生の退屈さを見るだけです。我々はそれに慣れてしまっていて、そこで我々は言います「我々はもっと経験をしなければならない」と、即ち月へ行くことや海底に住むことです、もっともっと経験することです。そして経験を追い求める精神には、或いは経験で飽和状態の精神には空間がありません、従ってそれには沈黙が生じません。
  我々にとって経験は何らかの挑戦に対する反応を意味します、違いますか? 私は夕陽を経験として見ます。私は道を歩いていて汚物を踏みます―それは経験です。私はバスに乗ります、そしてバスの車掌が乱暴です―それは経験です。私は妻と話します―それは経験です。生は挑戦と反応の果てしのないプロセスです。そしてあなたはその挑戦と反応に慣れています―殆んどの我々がそうであるように。オフィスへ四十年間行くこと、そのことを考えて下さい! あなたの毎日の生は退屈です、或いはあなたは他の人より少し上手にやっているので、少し多く稼いでいるので、より良い車を、よりよい家を持っているのでわくわくしています。それらは経験の一部です。そしてそれらの終わりに、あなたが―あなたの頭脳とあなたの心とあなたの精神が―決まりきったことで燃え尽きると、あなたはもう少し欲しがります、そうするとあなたは神を追い求めます、あなたがそれを何と呼ぼうと―〝神〟です。
  そのようにあなたはもっともっともっと欲しがります! あなたはその〝もっと〟をドラッグを通じて手にします、そしてそれはあなたに驚くべき感受性をもたらします。そしてその高揚した感受性の中であなたはあなたが以前に決して経験しなかった経験をあなたの気質に従って、あなたの個性に従って、あなたの条件付けに従って経験します。もしあなたが聖職者なら、あなたは途轍もない経験を手にします、そしてその小さな経験があなたの全生活を変えます。しかしそれは依然として経験を追い求めている中での生です、そしてそれが殆んどの我々が行うことです。あなたが意図的に瞑想するために座ると、それがあなたの欲することです。そして更なる経験を、更なる興奮を、更なる感覚を手探りしている精神は―そのような精神は沈黙していません、従ってそれはそれ自身の条件付けの境界の中で、そしてそれ自身の知識の中で経験するだけです。
  そこで人は経験の全プロセスを理解する必要があります、そしてそうするときだけ精神はもはや経験を追い求めません―それが愚かになったからではなく、もう経験することがないからではなく、それが一つの経験に満足していて、それがあまりにも最高で「それ以上のものはもうない」とそれが言うからではなく。経験を追い求めるのは欲望の別の形です。知恵は経験を通じては手に入れられません。沈黙から反応するときにだけ知恵が生じます。
  従ってそれはそれらのいずれでもありません。それでも殆んどの我々にとって、空間は対象―〝自分〟や〝私〟や〝見守る者〟や〝経験者〟―のせいでのみ存在します。そして自然に、彼の狭小な精神に従って、彼の取るに足りなさに従って―それが詩的な取るに足らなさであろうと、芸術的な取るに足らなさであろうと、或いは絶えず料理や子育てなどに掛かりきりの主婦の取るに足らなさであろうと―そのような取るに足りない精神は経験を手に入れます。それがどれほど経験しようと、それがどれほどコントロールしようと、それがどれほど果てしなく実践しようと、そのような精神は依然として取るに足りません。
  精神は―我々は精神ということで頭脳だけではなく全有機的組織、人の存在の余すことない全てを意味しています―この〝対象〟と呼ばれるものがなくなるときのみ空間を持ちます。そしてあなたはどのような形のペテンによってもそれを消滅させることができません。それはあなたがその活動のあらゆる動きを、あらゆる思考を、あらゆる感情を果てしなく見守るときにのみなくなります、それをただ見守るのです、それを解釈してはいけません、「それは正しい、それは間違っている、こうでなければならない、こうであってはならない」と言ってはいけません。そのように見守ることから取捨選択しない気づきが起こります―一歩一歩ではありません、それは自然に起こります。河の水が橋を過ぎ、汚れた町を通り抜けて自ら浄化するとき、それは流れ流れて果てしなく流れます、それは一歩一歩ではありません、それは一つの流動です。その取捨選択しない気づきから気をつけていることが起こります―何かについてではありません、ただ気をつけているのであり、気をつけている状態の中にいて、経験したいという欲望が起こらず、あなたは完全に気をつけています。変わろうとする欲望が起こらず、気高い或いは卑しいものになろうとする欲望が起こりません。あなたは完全に気をつけています。そして宜しいですか、そのように完全に気をつけているときには対象がありません、従って空間が生まれます。そしてその空間のために完全な沈黙が起こります。
  沈黙は思考の沈黙だけではなく頭脳の沈黙でもあります。私はそれらを検討しません、それらを検討する時間がありません。頭脳、それは神経であり、細胞であり、あらゆるものです、頭脳は静まっていますが、それは驚くほど目覚めていて気をつけています―そうに違いありません。そうするとこの沈黙のために空間が生まれます、そして空間が生まれるので愛が生まれます。あなたは実践することによって「私は最初に気づくことを試みよう、それから取捨選択することなく気づくようにしよう、それから気をつけていよう、そうして沈黙が生まれる」と言ってそこへ辿り着くことはできません。精神は全く取るに足りません! あなたはそれら全ての青写真を欲しがります、そしてあなたが行うことはただそれに従うだけです。それはそのようにはいきません。あなたは全部を、夕陽の美の全てを、樹木の美の全てを、そしてこの瞑想の美の全てを完全に一度に見るのでそれと共に流れるのか、それともあなたは全く見ないのかのいずれかです。
  そうするとあなたは愛が生のあらゆる行動を瞬時に変えるのが分かるでしょう。それが精神の余すことのない変質をもたらすことになる唯一の触媒、唯一のものです―他にはありません。そして我々にはそのような変質が必要です。何故なら人は悲惨の中を、存在の日常的な拷問や、その不確かさ、その混乱、その葛藤など生の無意味なものと思われるものと共に非常に長い間生きてきたからです。しかし生きることには途轍もない意味があります。生きること―オフィスへ行くこと、あなたの妻と話すこと、あなたの行おうとするあらゆることを行うこと―には途轍もない意味があります、もしあなたがそれをどのように見るのかを、それとどのように出会うのかを知るなら。そしてそれと出会うこと、それを知ること、その美を見ること―それは沈黙が生じるときに、空間と愛が生まれるときに起こるだけです。そしてそれが真理であり、それが生の中で大切な唯一のものです。そうすると全ての天国と地獄が開きます。そうするとあなたは神を追い求める必要がなくなります。そうするとあなたはいかなる寺院にも、いかなる教会にも行く必要がありません、あなたはいかなる聖職者の奴隷にも、いかなる本の奴隷にも、いかなる権威の奴隷にもなる必要がありません。そうすると光のみがあります、そしてその光は愛と沈黙です。
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 http://www1.icnet.ne.jp/abelia-2/space.html
 http://d.hatena.ne.jp/sokaodo/archive?word=%2A%5B%A5%AF%A5%EA%A5%B7%A5%E5%A5%CA%A5%E0%A5%EB%A5%C6%A5%A3%5D
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3
 http://blog.goo.ne.jp/beatle-lennon/e/aeae62427309fe0d6030fef7acf0b426
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 留守番電話に「法王です」、修道女びっくり仰天 スペイン
 2014(平成26)年01月04日(土) 17時22分 AFP=時事 配信
‡2014(平成26)年01月03日(金) 撮影
 イタリア・ローマのジェズ教会で新年のミサを行ったローマ・カトリック教会のフランシスコ法王
【AFP=時事】スペイン南部コルドバ(Cordoba)に近いルセナ(Lucena)の跣足カルメル会(Barefoot Carmelites)の修道女たちは、2013(平成25)年12月31日(火)に留守番電話に残されたメッセージを聞いて、死にたくなるほどびっくりした。地元のラジオ局が2014(平成26)年 1月3日(金)に放送したこのメッセージには、含み笑いと「電話を取れないとは修道女たちは何をしているんだろうね? 」という言葉に続けて、「フランシスコ(Francis)法王です。新年のあいさつのために電話しました。また後でかけ直してみます。神の祝福がありますように」と言う声が録音されていた。労働者が多く暮らす地区にあるこの修道院のアドリアナ(Adriana)院長は地元ラジオ局COPEに対し、ほかの4人の修道女と共に正午の祈りをしていたため電話の音が聞こえなかったと語った。数人の修道女は法王と同じアルゼンチン出身で、法王の古い友人だという。院長は、法王のメッセージを聞いたときには「文字通り死にたかった」と述べ、「法王の言葉を書き取って修道女たちに見せました。私たちは祈りの義務を果たしていたのだから、とお互いに言葉を交わしました。法王が私たちを覚えていて下さっているとは思いもよらなかったのです」と続けた。院長は必死になってある司教やその他の関係者に電話をかけ、バチカン(Vatican)に電話をかけ直そうとしたがうまくいかなかった。だが、その夜再び法王から電話があり、修道女たちは法王と話をすることができたという。【翻訳編集】 AFPBB News
 http://www.afpbb.com/articles/-/3005959

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