2022年■BBCラジオ100周年■2022年
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BBC Radio at 90: The Listeners' Archive
‡Tuesday 11 September 2012, 16:42
http://www.bbc.co.uk/blogs/radio/entries/ab5eba7f-15f2-39cc-a5e2-f751af86ddf4
今作は昨年BBCが実施したBBCラジオ90周年個人秘蔵音源収集プロジェクトの成果が含まれているかもしれません
http://blog.kouchu.info/2013/09/BBC-Vol2.html
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┃ 『THE BEATLES Interviews Database』 ┃
┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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‡1964(昭和39)年9月11日(金)
‡No.052(36) 1964-09-11(fri) Beatles / Jacksonville, Florida (5 photos) Beatles press conference and interview at the Gator Bowl.
Beatles Press Conference & Interview: Jacksonville 9/11/1964
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http://www.beatlesinterviews.org/db1964.0911.beatles.html
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┃ THE BEATLES on film and television 1967 ┃
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‡(mon)11 September 1967『MAGICAL MYSTERY TOUR』
(mon)25 September 1967『MAGICAL MYSTERY TOUR』
(sun)01 October 1967『MAGICAL MYSTERY TOUR』
(sun)29 October 1967『MAGICAL MYSTERY TOUR』
(mon)30 October 1967『MAGICAL MYSTERY TOUR』
(tue)31 October 1967『MAGICAL MYSTERY TOUR』
(fri)03 November 1967『MAGICAL MYSTERY TOUR』The band took their own coach on the road to film a television special. 'Magical Mystery Tour' was broadcast by the BBC on 26 December 1967 and was widely panned by the critics. As well as the film itself, there are outtakes and home movies sho by the cast and crew also available.
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http://www.tvtalkin.esy.es/fab4tv/1967.htm
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┃ Summer 1964 United States & Canada Tour ┃THE BEATLES SHOW
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‡No.18 (fri)11 September 1964 Jacksonville, United States, Gator Bowl Stadium
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https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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┛THE BEATLES 1962 Recording Sessions ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛10:00am-1:00pm
┏━━━━━━━━━━━━┓
①┃ ♪P.S. I LOVE YOU♪ ┃takes 1-10
┗━━━━━━━━━━━━┛No.2 リンゴのドラムに不満を覚えたプロデューサー、ジョージ・マーティン卿がセッション・ドラマーであったアンディ・ホワイトを呼んだ時である。この日、リンゴはかわいそうにコントロールルームの隅にぽつんと座っていたそうである。せめてもの、という事なのかリンゴはこの日のセッションで「ラヴ・ミー・ドゥ」ではタンバリンを。 同日録音されたこの「P.S.アイ・ラヴ・ユー」ではマラカスをプレイした。 採用されたテイクは最終テイクである第10テイクである。
┏━━━━━━━━━┓
②┃ ♪LOVE ME DO♪ ┃[re-make] takes 1-18
┗━━━━━━━━━┛No.3 ■レコラス(ト)?■リンゴのドラムに不満を覚えたプロデューサー、ジョージ・マーティン卿はセッション・ドラマーであったアンディ・ホワイトをこの日のセッションに呼んだ。彼は当時32歳。メンバーよりかなり年上だった。この日、リンゴはかわいそうにコントロールルームの隅にぽつんと座っていたそうである。せめてもの、という事なのかリンゴはこの日のセッションで「ラヴ・ミー・ドゥ」ではタンバリンを。同日録音された「P.S.アイ・ラヴ・ユー」ではマラカスをプレイした。採用されたテイクは最終テイクである第18テイクである。
†End of sessions for the first single. Andy White on drums
Note・・・9月11日(火) アンディ・ホワイトバージョン このバージョンが『PLEASE PLEASE ME』や『The Beatles 1962-1966』に収められている。タンバリンが入っているので、簡単に判別できる。
Note・・・1962年10月5日にこのシングルはリリースされたが、最初のリリースは9月4日のリンゴバージョンであった。しかし、翌年になってから発売されたこの曲はすべて9月11日のアンディバージョンに差し替えられた。マスターテープの混乱を避けるために、リンゴバージョンは早々と破棄されたそうな。よって、このアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー 」に収められているのはアンディバージョンである。
┏━━━━━━━━━━━━┓
③┃ ♪PLEASE PLEASE ME♪ ┃takes unknown
┗━━━━━━━━━━━━┛No.1 最初に録音が開始され日はセッションドラマー、アンディ・ホワイトを雇って「ラヴ・ミー・ドゥ」が録音された日だったが、ビートルズのメンバーは深夜からこの曲のレコーディングに取りかかった。この時点ではまだスローテンポのアレンジだったが、先ほど書いたマーティン卿の助言を受けて試行錯誤するも、グループはこの曲を保留扱いにする。
Note・・・『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』に1962年9月11日のバージョンが収められた。ハーモニカが入っていなく、ジョージの間奏もちょっといいかげんである。この曲でもドラムはアンディ・ホワイトが叩いていると思われるヨ(=^◇^=)
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┛THE BEATLES 1962 Mono mixing ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛10:00am-1:00pm
┏━━━━━━━━━━━━┓
①┃ ♪P.S. I LOVE YOU♪ ┃from take 10
②┃ ♪LOVE ME DO♪ ┃from take 18
┗━━━━━━━━━━━━┛
Producer: Ron Richards
Engineer: Norman Smith
2nd Engineer: unknown
‡1962(昭和37)年9月11日(tue)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1995/11/20(mon) UK
④┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』 ┃1995/11/21(tue) JP、US
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 〇Disc one〇
24.♪Please Please Me♪ (mono) 11 September 1962 EMI Studios 1:59
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1995/11/20(mon) UK
④┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』 ┃1995/11/21(tue) JP、US
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 〇Disc one〇
24.♪Please Please Me♪ 62.9.11. これはDisk-1最大の発掘。シングルLove Me Doのセッションのテイクで、曲の方は後にセカンド・シングルとなるジョンの作品。9月4日のセッションでリンゴのドラムに不安を持ったマーティンは、この日、アンディ・ホワイトというセッション・ドラマー(アルバム・バージョンのLove Me Doでもドラムを叩いた)を用意、ということで、ここでドラムを叩いているのはアンディ・ホワイト。彼が参加したこの曲のテイクが残っていたというのも初耳で、本当に驚かされた。 ハーモニカは入っていないし、サビのコーラスも若干異なっている。反面、疑問もある。この曲はもともと、ロイ・オービソン風のスロー・ナンバーだったが、セカンド・シングルのセッションの際、マーティンの指示でテンポをあげてレコーディングされた、というエピソードでよく知られていた。しかし、ここで聴ける通り、デビュー・シングルのセッションの時点で既にテンポはあがっており、全然ロイ・オービソン風じゃない。ひょっとすると、 マーティンが「テンポをあげるように」アドバイスしたのは、このセッションでのことだったのでは?? そう思って聴くと、本当に謎の多い、面白いテイクだ。
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①https://beatlesdata.info/1/09_psiloveyou.html
①https://en.wikipedia.org/wiki/P.S._I_Love_You_(Beatles_song)
②https://beatlesdata.info/1/08_lovemedo.html
②https://en.wikipedia.org/wiki/Love_Me_Do
③https://beatlesdata.info/1/07_pleasepleaseme.html
③https://en.wikipedia.org/wiki/Please_Please_Me_(song)
④https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_1
④http://www.geocities.co.jp/Broadway/5266/beaAlb20.html
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┛THE BEATLES 1963 Recording Sessions ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛2:30-6:00pm
┏━━━━━━━━━━━━━━┓♪彼氏になりたい♪
①┃ ♪I Wanna Be Your Man♪ ┃take 1
┗━━━━━━━━━━━━━━┛No.1 最初に録音が試みられたのはこの日のセッションの一発目にこの曲が1テイクだけ録音されたが、翌日に持ち越す事に決定
┏━━━━━━━━━━━┓
②┃ ♪Little Child♪ ┃takes 1-2
┗━━━━━━━━━━━┛No.1 アビイ・ロード第2スタジオにて録音された。2テイクだけ録音したものの、出来映えが気に入らず翌日にリメイクする事に。
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
③┃ ♪All I've Got to Do♪ ┃takes 1-15
┗━━━━━━━━━━━━━━┛■この日のみ■アビイ・ロード第2スタジオにて録音された。このセカンドアルバムのセッションは、デビューアルバムの時の「1日で全曲収録」なんて事はせずに、じっくりとレコーディングセッション時間が取られていた模様。まず14テイクを録音して、15テイクはオーバーダブに使用され、それがそのままアルバムに収録されている。14テイクのうち、半分以上にわたる8テイクはボツテイクだったとか。ポールの得意技である「ベース和音弾き」がビートルズの歴史上で初登場している
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┛THE BEATLES 1963 Recording Sessions ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00-10:15pm
┏━━━━━━━━━━━━━┓
④┃ ♪Not a Second Time♪ ┃takes 1-9
┗━━━━━━━━━━━━━┛■この日のみ■第1~第5テイクをベーシックトラックとして録音して、6~9をオーバーダブ(ジョンのダブルトラッキング用のヴォーカルとジョージ・マーティン卿のピアノ)セッションにあて、最終的に第5テイクに第9テイクを重ねた物が採用された。
┏━━━━━━━━━━━━┓
⑤┃ ♪Don't Bother Me♪ ┃takes 1-7
┗━━━━━━━━━━━━┛No.1 アビイ・ロード第2スタジオにて録音された。4テイクの録音と3テイクのオーバーダブをしたものの、出来映えが気に入らず翌日にリメイクする事に。
Producer: George Martin
Engineer: Norman Smith
2nd Engineer: Richard Langham
‡1963(昭和38)年9月11日(wed)
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①https://beatlesdata.info/2/11_iwannabeyourman.html
①https://en.wikipedia.org/wiki/I_Wanna_Be_Your_Man
②https://beatlesdata.info/2/05_littlechild.html
②https://en.wikipedia.org/wiki/Little_Child
③https://beatlesdata.info/2/02_allivegottodo.html
③https://en.wikipedia.org/wiki/All_I%27ve_Got_to_Do
④https://beatlesdata.info/2/13_notasecondtime.html
④https://en.wikipedia.org/wiki/Not_a_Second_Time
⑤https://beatlesdata.info/2/04_dontbotherme.html
⑤https://en.wikipedia.org/wiki/Don%27t_Bother_Me
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┛THE BEATLES 1968 Recording Sessions ┛Studio 2
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00pm-3:30am
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①┃ ♪Glass Onion♪ ┃takes 1-34
┗━━━━━━━━━━┛No.1 この曲が録音開始されたのはアビイ・ロード第2スタジオにて。この時期はジョージ・マーティンが休暇を取っていたために、便宜上クリス・トーマスがプロデューサーだった。ドラム、ベース、アコギ、エレキのシンプルな編成でリズムトラックを34テイク録音し、第33テイクがベストとなる。
Note・・・ちなみに1968年9月3日以降より、(♪While My Guitar Gently Weeps♪から)アビイ・ロードスタジオは8トラックレコーダーを使用できるようになった。この曲はその8トラックレコーダーを使用して録音されている。
Producer: Chris Thomas
Engineer: Ken Scott
2nd Engineer: John Smith
‡1968(昭和43)年9月11日(wed)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1996/10/28(mon) JP、UK
②┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 3』 ┃1996/10/29(tue) US
┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 〇Disc one〇
20.♪Glass Onion♪ (original mono mix) 11-13, 16 & 26 September 1968 EMI Studios 2:08
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①https://beatlesdata.info/10/03_glassonion.html
①https://en.wikipedia.org/wiki/Glass_Onion
②https://www.amazon.co.jp/dp/B0000070GX
②https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_3
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┛THE BEATLES 1969 Stereo mixing ┛Studio 3 (control room only)
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛2:30-5:30pm
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┃ ♪What's The New Mary Jane♪ ┃remixes 1-3, from take 4
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┛ THE BEATLES 1969 Tape copying ┛Studio 3 (control room only)
┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛2:30-5:30pm
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┃ ♪What's The New Mary Jane♪ ┃of stereo remixes 1-3
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Copies of ♪What's The New Mary Jane♪ for John, to refresh his memory, in order to release it as a POB single.
Producer: Malcolm Davies
Engineer: Tony Clark
2nd Engineer: Chris Blair
‡1969(昭和44)年9月11日(thu)
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https://en.wikipedia.org/wiki/What%27s_the_New_Mary_Jane
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1974年 ジョンレノンの貴重映像
‡2013年9月11日 (水)
http://yotayota515.cocolog-nifty.com/blog/2013/09/1974-b1c2.html
■発掘ホンモノ超貴重映像◆ https://youtu.be/pP0mwSKIpGY
28th November 1974 エルトン&ジョン・レノン
映像◆Please Please Me - MonaLisa Twins (The Beatles Cover) https://youtu.be/gjrZJg7iqfk
ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」でリンゴ・スターが受けた屈辱
2017年09月11日 執筆者:藤本国彦
1962年9月11日のビートルズのデビュー・シングル・セッションは、新参者だったリンゴ・スターにとって、一生忘れることのできない思い出の日になったに違いない。これ、いい意味で書いているわけではない。
そもそもデビュー・シングル・セッションが行なわれたのは、9月11日だけではなかった。その1週間前の9月4日にまずEMIスタジオでジョージ・マーティン立ち合いの元、「ラヴ・ミー・ドゥ」と「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」が収録された。ご存知のファンも多いと思うけれど、前者はジョンとポールのオリジナル曲で後者は他人(ミッチ・マレー)の曲だ。
ビートルズはリヴァプールの「片田舎」から出てきた新人バンドであり、レコーディングを仕切ったのは50年代からパーロフォン・レーベルを引っ張ってきたプロデューサーのジョージ・マーティンだった。後のインタビューで両者が回想しているように、63年までは「先生」と「生徒」の関係――つまり「先生」に言われれば「生徒」は従う、ということである。
そして、これはヒットするから演奏するようにと「先生」が持ってきたのが「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」だった。対してジョンとポールはその「他人の曲」もレコーディングしたものの、あくまで自分たちのオリジナルで勝負をしたいという強気の姿勢を押し通した。
ここまでが9月4日の最初のセッションでの出来事で、当然リンゴはその2曲でドラムを叩いた。が、しかし、翌11日のセッションで、「先生」はリンゴの代わりにベテランのセッション・ドラマーを立てたのだ。アンディ・ホワイトである。ドラムの座を奪われたリンゴは、「ラヴ・ミー・ドゥ」でタンバリンを叩く役割へと「格下げ」になった。
このときもう1曲、ジョンとポールのオリジナル曲「P.S.アイ・ラヴ・ユー」も収録されたが、ここでもリンゴはマラカスを振るハメになった。しかしセッションはそれで終わらず、さらにもう1曲、オリジナルで勝負したいという意気込みの強かったビートルズが準備したのが、セカンド・シングルとなる「プリーズ・プリーズ・ミー」だった。その初期(9月11日録音)のヴァージョンは『アンソロジー 1』(95年)で初めて公表されたが、ドラムはアンディ・ホワイトが叩き、リンゴは不参加である。さらに言えば、11月26日のセカンド・シングルのレコーディングの際に、そのアンディのドラムのリズム・パターンをリンゴが踏襲していることもわかる。
ビートルズの前任ドラマー、ピート・ベストにもダメ出しをしていたジョージ・マーティンとしては当然の判断だったのかもしれないが、当のリンゴはそれをずっと根に持っていた。ジョージ・マーティンも後にお詫びしている。
結局「ラヴ・ミー・ドゥ」の「9月4日録音」ヴァージョンはイギリスのオリジナル・シングルの初回版に収録されただけにとどまり、その後ビートルズのオリジナル・アルバムが初めてCD化された際、アルバム未収録曲をまとめた『パスト・マスターズ』など一部のレコードやCDに収録された程度にとどまった。デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』や、64年にアメリカでヒットしたシングルで聴ける演奏は、もちろんともに「9月11日録音」ヴァージョンである。
それからおよそ35年。リンゴはその時の恨みを“倍返し”にするかのように「ラヴ・ミー・ドゥ」を再レコーディングした。しかもビートルズ度の高いアルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』(98年)で、である。そうしてリンゴは、「62年9月11日」の出来事に自分なりの“落とし前”を付けたのだった。
≪著者略歴≫藤本国彦(ふじもと・くにひこ):ビートルズ・ストーリー編集長。91年に(株)音楽出版社に入社し、『CDジャーナル』編集部に所属(2011年に退社)。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
http://music-calendar.jp/2017091101
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┃ 『Yellow Submarine』 ┃FILM
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Starring SGT. PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND
1968(昭和43)年07月17日(wed) UK released ※THE BEATLES attends the movie world premiere show at the Pavilion Theater in London
1968(昭和43)年11月13日(wed) US released
1969(昭和44)年07月19日(sat) JP released
2009(平成21)年08月21日(fri) ウォルト・ディズニー・ピクチャーズとロバート・ゼメキスが本作を3Dアニメ映画としてリメイクすることが報じられ[1]、
‡2009(平成21)年09月11日(fri) 正式に発表 しかし高額の制作費とプレゼン用に制作されたフッテージの出来が悪かったことに加え、同時期に公開された『少年マイロの火星冒険記3D』の興行成績が散々な結果であったことから制作中止となったヨ(>▽<)
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https://en.wikipedia.org/wiki/Yellow_Submarine_(film)
http://beatles.hideki-osaka.com/data/movie/movie4.html
http://tsugu.cside.com/b-ken/movie/yellow.html
Ohttps://music.amazon.co.jp/albums/B019GHC780
⑨https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTGF9RQ
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音源◆BEATLES' MOVIE MEDLEY http://youtu.be/VtGQZfNcVRw
音源◆BEATLES' MOVIE MEDLEY US promo https://youtu.be/YljEzwku2O4
音源◆"Fab Four On Film" 1982 B-Side Promo Unreleased https://youtu.be/HvIaSqdyygU
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┃ 東芝EMI TOSHIBA-EMI LIMITED ┃
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1973(昭和48)年10月01日(月) キャピトルEMIが資本参加し、東芝イーエムアイ株式会社(東芝EMI)と改称
‡1978(昭和53)年09月11日(月) 自社製作におけるデジタル録音を、同社の第1スタジオにて開始する。最初の録音は、第一家庭電器用のLPソフトで、「サマータイム PCM vs Direct 山本剛トリオ+鈴木勲」[5]、同年11月配布開始)。デジタル(PCM)録音用のプロセッサーには、当時、市販前だった東芝製のAurex PCM-MK Iを使用し、記録レコーダーには、ソニーのU規格のVTRを使用した。翌年の夏頃から、Aurex PCM-MK IIを使った16ビット直線量子化によるデジタル録音を開始する。
1979(昭和54)年11月XX日(?) 自社製作において初めての、一般向け市販LPでのデジタル録音によるソフトを発売する。
1981(昭和56)年XX月XX日(?) デジタル録音機としてPCMプロセッサー ソニーPCM-1610を導入、運用開始。これを機に、Aurex PCM-MKIIを使ったデジタル録音は無くなっていった。
1982(昭和57)年05月24日(月) 港区赤坂2丁目(溜池交差点脇)に本社ビルが完成。
1982(昭和57)年11月XX日(?) コンパクトディスクを発売する。製造はのちに自社で行うまでCBS・ソニー静岡工場(現:ソニーDADCジャパン静岡工場)に委託した。
1983(昭和58)年XX月XX日(?) 本社スタジオに、24チャンネルマルチデジタル録音機であるソニーPCM-3324を導入、運用開始
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https://ja.wikipedia.org/wiki/EMIミュージック・ジャパン
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┃ EMI Recording Studios ⇒ Abbey Road Studios ┃
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1983(昭和58)年07月18日(sun) from ↓↓↓↓
†1983(昭和58)年09月11日(sun) to ⇒ the public had a rare opportunity to see inside the legendary Studio Two where the Beatles made most of their records. While a new mixing console was being installed in the control room, the studio was used to host a video presentation called The Beatles at Abbey Road. The soundtrack to the video had a number of recordings that were not made commercially available until the release of The Beatles Anthology project over a decade later
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https://en.wikipedia.org/wiki/Abbey_Road_Studios
https://en.wikipedia.org/wiki/Abbey_Road
https://en.wikipedia.org/wiki/Abbey_Road,_London
Ohttps://music.amazon.co.jp/albums/B019GHCXYS
⑨https://music.amazon.co.jp/albums/B07FT8JSPS
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《ピート・ベストに首を言い渡した男「ブライアン・エプスタイン」とは 》
「ピート・ベストがビートルズを突然脱退した!!」と云うニュースはすぐに広まり、また、ピート・ベストを辞めさせる際に、当時リヴァプールでD.J.をしていたボブ・ウーラー(キャバーンの顔とも云われたD.J.)とエプスタインとの間に一般的に知られている以上の何かがあったらしく、激しい言い合いがあったことも世間に知られてしまいます。ボブ・ウーラーは「ピートの件は変な噂が広まるより真実を書いた方がいい!真実を書く!」と経緯の全てを公表する旨をエプスタインに告げ、彼は、それが、多くのファンのためにとるべきことだと主張します。彼とエプスタインは口論し、エプスタインは逃げ出すように去りますが、その場にいたテッド・ニップス(歌手ビリー・クレーマーのマネジャー)が、仲に入り「ピート・ベスト、エプスタイン、そしてビートルズに起きたことは、第三者が口出しすべきではない」とウーラーに語り、エプスタインが去った後、彼を説得します。ウーラーがどのようなことを書こうとしたのか不明ですが、エプスタインが必死にピートの「首切り」を行ったことは紛れもない事実で、それは、端から見れば「何とも非情な行い」に見えたとしても仕方がないのでしょう。エプスタインは、レコード店経営者からロックグループのマネジャーに転身したおそらく初めての人間で、「その世界での当然の常識に無知」であったと云うことが彼の行いに拍車をかけたのも間違いないでしょう。しかし、同時に「その無知さ」が、考えられないほどの成功をビートルズにもたらすことになったのも事実です。当時のエプスタインとしては、目の前の問題を自分なりに一つ一つ懸命にクリアーして行くしか無かったと云うことです。?ピート・ベストから交代したリンゴ・スターは、ビートルズにとって申し分のないドラマーだと誰もが感じます。特にジョージ・マーティンは、リンゴが有能なドラマーであることに満足します。ジョンとポールの邪魔をせず、しかもキュートでユーモラスな彼のセンスはグループとして全く違和感も無く、彼を選んだビートルズのセンスにもマーティンは改めて感心します。しかし、別の問題は依然存在しており、「ピート・ベストをクビにした男、エプスタイン」は、ファンたちの怨嗟の的になり、彼はキャバーン・クラブに近づくことさえできなくなります。普通の生活でも、ボディーガードに守られなければならないほど危険な状態に陥り、「ピート・イズ・ベスト(ピート・ベストがナンバー1だ!)」、「ピート・フォエバー、リンゴ・ネバー(ピートよ永遠に、リンゴは要らない)」、とが書かれたプラカードを持ったファンたちが、N.E.M.S.((ネムズ)エンタープライズ (N.E.M.S. Enterprise)とは、
1962(昭和37)年06月26日(火)、ブライアン・エプスタインが弟クライブを共同経営者に、ビートルズのマネージメント実務を処理する組織として設立した会社)の前を一日中歩き回ります。しかし、ピート・ベストを「傷つけた(とされる)」エプスタインは、それ以上に「傷ついていた」のかも知れず、彼は、自分がピートにとった態度に自責の念を持ち、罪悪感に悩まさ心身ともに疲れて行きます。そして、彼の常識とピートの件同様であろうこれから起こる出来事は、彼の理解を超えたところで進んでいくのですが、普通の人間ならば、とても耐えられないようなことにも彼は我慢し続けます。何故なら、彼は誰よりもビートルズを素晴らしいと思い、崇拝すらしていたからで、彼は誰よりもビートルズを愛していた人間だからです。やがて彼は、ビートルズ流の毒を含んだ、ひねりの利いた言葉のセンスを楽しめるまでになります。彼は、一見どうしようもないただのチンピラにしか見えない若者達が、実はとてつもなく鋭い感性を持ち、頭の回転も人一倍早く、一目で真実を見抜く洞察力を持っている素晴らしい人間達だということに気が付くのです。当時のエプスタインをクラブのオーナーが語っています、「彼はステージ脇で、ビートルズを見つめ、楽しくて堪らないという様子でした。彼は、すべての音、すべての瞬間を逃すまいとしているようでした。彼はいかにも上品で物静かで、まるで俳優のようでした。でも、彼はできることなら自分もビートルズになりたいと思っていたのでしょう。見込みはありませんでしたけどね」そして、ブライアン・エプスタインは「5人目のビートルズ」として精力的に活動をし続けるのです。
<1962(昭和37)年09月11日(火)>
‡1962(昭和37)年09月11日(火) ビートルズは、
1962(昭和37)年09月04日(火)のレコーディングセッションでの『How Do You Do It』と『Love Me Do』の録音に続き、デビューシングルのレコーディングのためロンドン・アビーロード・E.M.I.スタジオに再び戻って来ます。、ロン・リチャーズは語ります、「『How Do You Do It』と『Love Me Do』はマーティンとスミスの手で9月4日中にミキシングを完成させ、翌朝マーティンとエプスタインが聴くためのアセテート盤を作った。ノーマン・スミスは『ポールはリンゴのドラミングは良くなかったと言っていたよ』と僕に言ってくれた。マーティンは『How Do You Do It』で行こうと決めていたようだが。最初的には『私も彼らの意見を聞き入れ『Love Me Do』を採ったよ、あれはとても好い曲だと』言っていた。マーティンも僕もグループのファースト・シングルだけに、あくまでも納得のいくものを作る必要があった。でも、『Love Me Do』のオリジナル・バージョンは、ドラム・サウンドが良くなかったんだよ。マーティンはこの日のセッション前半は参加できないことが分かっていた。だから前半は僕が唯一のプロデューサーだった。それで、録り直しの時はアンディ・ホワイトを雇ったんだよ。彼は腕のいいドラマーでたびたび彼を使っていた。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)この日、E.M.I.の要請にて、5ポンド15シリング(当時の標準的な日当)の報酬でこの仕事を受けることとなったアンディ・ホワイトは語ります、「彼らのことはすでに知っていた。僕のワイフのリン・コーネルが同じリヴァプール出身のヴァーノンズ・ガールズと云うバンドに所属していたので、冷たくされるかなあ、と思ったけど、彼らは凄く感じが良くて、冗談を言い合った。あの頃大抵のグループが。アメリカの曲や作曲家の書いた曲をカバーしていたから、彼らが自作の曲やっているのには感心したよ。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)」。レコーディングセッションは、ロン・リチャードがプロデュースの下、午後5時から始まり、ジョージ・マーティンも途中から参加し、午後6時45分には完了します。ロン・リチャーズは語ります、「リンゴはコントロール・ルームの僕の隣に大人しく座っていたよ。そこで僕は『P.S.I Love You』でマラカスを振ってくれまいか!?』と頼んだ。リンゴは素敵な奴だ。いつもおっとり構えてる。リンゴは『何かして欲しいことがあれがやるよ、なのもやらなくていい??うん、分かった』って、こんな感じさ。『オレが!オレが!』みたいなところが全然ないんだ。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)そして、この日リンゴ・スターは『PS I Love You』ではマラカスに、『Love Me Do』ではタンバリンの演奏を担当します。リンゴが語ります、
「E.M.I.でのレコーディングに僕が初めて参加したのは9月で、ジョージ・マーティンのために何曲かやったんだ。「プリーズ・プリーズ・ミー」もやったよ。僕が何故覚えてるかって言うと。レコーディングの時、僕は片手にマラカス、片手にタンバリンを持って、バス・ドラムをやってたからね。そのせいで、一週間後に「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに行った時、ジョージは“プロ”のアンディ・ホワイトを使ったんだと思うな。どっちみち、ピート・ベストの代わりってことで、最初からそいつがやることになってたんだけどね。彼はもう危険な橋を渡りたくなかったんだろうね。そこへちょうど僕がはさまっちゃったわけ。僕が、僕らが北部出身だと云うのでちょっと変な反応をしていたジョージだけど、僕に来ないかとOK!!をくれ、レコーディングに参加し、この人にこのチャンスにかけてみようと思ってたから、彼に信頼されてないって分かって、僕はがっくりきたね。やる気満々で行ったのに、『プロのドラマーがいるから』って言われたんだ。彼にはその後、何度も謝られたけど、あれはひどいよ。あのことを僕は何年も恨んでた。いまだに完全に許しちゃいないからね(笑)・・・と、そんなわけで、「ラヴ・ミー・ドゥ」のシングルではアンディがドラムをやってる。アルバムは僕がやったけど。アンディはそんなに大したことないから、アルバム用にやる時はコピーしようがなかった。その後はすべて僕がドラムをやってる。まあ、『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』とか数曲は除くけどね。」。(書籍『Anthology』抜粋参照) ポールがリンゴについて語ります、
「なんてことだ!ジョージ・マーティンはリンゴを気に入らなかった。確かにあの頃のリンゴは、あんまりビートが正確じゃなかった。今じゃ完璧だけね。いつのセッションの時だって彼の貢献度は大きかった、だからこそ僕らは彼を選んだんだよ。でも、ジョージからすれば、セッション・ドラマーほどきっちり正確じゃなかったわけだ。それでリンゴはデビュー・シングルから外されてしまった。ジョージが『ちょっといいかな!?』って来てね、僕が『何?』って答えると、『いやぁ~・・リンゴはやめよう。』って。彼は僕にこう言ったんだ、『このレコードでは他のドラマーを使いたい』だってさ。その決定を受け入れるのはものすごく辛かった。『リンゴがドラマーでなきゃ困る。僕らは彼のことを失いたくない』って言ったんだよ。だけどジョージは譲らなくて、結局リンゴはデビュー・シングルで叩けなくなった。彼がやったのはタンバリンだけだ。リンゴはずっとあの痛手を乗り越えらなかったと思う。リヴァプールに戻ると、みんなに『ロンドンはどうだった?』って訊かれるだろ。僕らはいつも、『B面は好いよ』って言ってた。リンゴはA面が好きだとはどうしても言えなかった。自分が参加していないんだからね。リンゴのショックは大きかったはずだよ。」。(書籍『Anthology』抜粋参照)
‡1962(昭和37)年09月11日(火)、ビートルズはこの日『PS I Love You』を10テイク、『Love Me Do』18テイクを録音します。また、この日のセッションで行った『Please Please Me』に関してジョージ・マーティンは語ります、「『Please Please Me』はあの段階では退屈な曲だった。とてもスローでヴォーカルはブルージーで、ロイ・オービンソのなんばーみたいだったよ。テンポを速めなくっちゃ使えないと思ったよ・セッション後、テンポを上げてタイトなハーモニカをつければパットした曲になるだろう。そしたら次のセッションでやろう」・・ロン・チャールズはこれを裏付けます、「セッションの後、コントロール・ルームの外で廊下で、マーティンがこう言ってたんだ。『「Please Please Me」は今はよくないが、捨ててしまうにはおしい曲だ、保留にしておこう』とね。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)アンディ・ホワイトは当時のことを2012年、『Daily Record』紙のインタビューでこう話しします、「僕はロンドンでよくテレビの仕事をしていたんだ。ある金曜日、次の月曜日EMIで3時間の仕事ができるかって電話があった。それしか知らされなかった。ザ・ビートルズの名前は聞いたことあったよ。僕の妻がリバプール出身で、その名前を出していたから。でも、彼らのことはよく知らなかった。本当に楽しい経験だったし、彼らの曲は凄いと思った。独自のものだったし、新しかった。当時はアメリカの音楽をコピーしたものばかりだったんだ。それで成功していた。でも、彼らがやっていることは新しく、ほかとは違いとてもスペシャルだって言えた。でも、それがその後、どれくらいスペシャルになるのかは、当時わからなかったけどね。(Daily Record)」。
‡1962(昭和37)年09月11日(火)のセッション終了後、最良のテイクがモノラルにミックスダウンされ、E.M.I.は『Love Me Do/PS I Love You』をビートルズのデビューシングルとしてプレ・プレスを開始します。当初のプレスではリンゴがドラムを担当する
1962(昭和37)年09月04日(火)の『Love Me Do』が採用され、後のプレスではアンディ・ホワイトのバージョンになります。『Please Please Me」に関しては、1962年にはレコード・リリースの原盤が出来上がると、その日のテープは処分されるのがンツウジョウダッタノデ、ロイ・オービンソン風の『Pleas Pleas Me』のテープは破棄されます。ジョージ・マーティンは語ります、「アウトテイクまでは取っておけなかったんだよ・マスター・テープを保管するだけでも、場所がなくて困ったくらいだから」幸いこの方針は1963年に改められ、以降はほとんどのセッション・テープが保存されるようになり、今日まで残されています。『Anthology 1』に収録される『Please Please Me』は、
‡1962(昭和37)年09月11日(火)の音源とクレジットされていますが、ロイ・オービンソん風ではなく通常のスピードの演奏であるため、
1962(昭和37)年11月26日(月)のセッションの音源であると推測されます。当時、ロンドン、アビイ・ロード・EMIスタジオでは毎週には製作会議が開かれ、発売が予定されているレコードを試聴する日でもあります。これは、営業担当の12人が出席し、その出席者にはこれから聴かされる曲のアーティストは知らされず、その場で今聴いたばかりの曲についての判定を彼ら自身が下すと云うシステムで、多くの曲の中に、当然ビートルズの演奏した「Love Me Do」もあり、この曲に関しては、評価は分かれる!と云うより、むしろ殆どが否定的な意見が飛び交います。ビートルズの「Love Me Do」のような曲は、全員がこれまで全く聴いたこともない曲調なので、戸惑いが先行する作品と捉えられたわけです。しかし、この場の議長であるロン・ホワイトは、この曲を気に入ります。ジョージ・マーティンの手によるものであると云うことも彼に迷いを生じさせない一因となり、結局、このレコードは「評価すべきだ」という評価に至ります。ジョージ・マーティンの大きな影が全員を動かしたとも云えます。ロン・ホワイトは、政策会議後に聞かされるグループ名に聞き覚えおがあり、オフィスに戻り記憶を辿ると・・「数か月にブライアン・エプスタインと云う男が売り込みに来たグループの名が『ビートルズ』と云う名前ではなかったか!」・・彼の脳裏に、さまざまな思いが駆けめぐります。「あの時はジョージ・マーティンが関与していなかったのだ。」と回想する彼は、ふと我に返り「自分たちが否定したグループを最も信頼しているあのジョージマーティンが評価したという事実」に愕然します。困惑を隠せないロン・ホワイトは、エプスタインに「私は過去に自らが下した評価を恥じています。今更ながら申しわけなく思います。今回の曲は誠に素晴らしく、マーティンさんからも彼らのセンスの良さと聞いています。ビートルズと契約が交わされたことは私どもにとって有意義で喜ばしいことです。云々...」なのと云うこれ以上はないと思える表現で記した「詫び状」に近い手紙を出します。しかし、彼の一番の気掛かりは、天下のEMIが、組織内に混乱があると思われることで、追記として「今回、私が手紙を差し上げましたのは、貴殿からご覧になれば、我々の組織の異常とも思われるに違いない事態を釈明したいと考えたからに他なりません。私たちが真剣にレコードを聴いたことは誓います。しかし、製作部長といえども、意見が変わるということは、貴殿にもご理解いただけることと存じます」とも記します。この手紙にエプスタインは、「こちらこそ、感謝以外の何物でも無く、最初に却下されたことやその時のやり取りに関して不快に思ったことは一切御座いません。また、御社の内部組織に関しても一切の疑問は無く、社内の異状事態などとは考えもおりません...云々。」と記す感謝の手紙を折り返し出し、ホワイトの不安を取り除きます。そして、
1962(昭和37)年10月02日(火)ビートルズはデビューシングル「Love me Do / P.S,I Love You)」を発売します。
《ジョンとジョージのGibson J-160E "Jambo"》
1962(昭和37)年09月10日(月)
‡1962(昭和37)年09月11日(火)、ビートルズはデビュー・シングルを再録音することになりますが、ぞの前日の
1962(昭和37)年09月10日(月)、ジョンとジョージの二人は、トニー・シェリダン (Tony Sheridan) が弾いているGibson ES-175 'Jumbo' に感銘を受け、自分たちもとリヴァプール・ラッシュワース楽器店に発注していたGibson J-160E "Jambo"がこの日アメリカから到着したと云う知らせを受け、受け取りに行きます。このJ-160Eは、翌日の『Love Me Do』の収録ではジョージが、『P.S. I Love You』の収録ではジョンが演奏することになります(『P.S. I Love You』のジョンのギターはRickenbacker 325の可能性も大いにある)。右写真と下記写真はマージービート誌が同年
1962(昭和37)年10月に掲載したもので、初めて手にした
1962(昭和37)年09月10日(月)に撮影されたものかどうかは不明です(ギターのTOP面に傷がありストラップもすでに装着されていることから、マージービート誌のイベントにて後日改めての撮影の可能性があります。
<参考記事>1963年後半、ジョンのJ-160Eは盗まれたとされていましたが、現存するジョージのJ-160Eのシリアルナンバーは、ジョンに渡されたJ-160Eのもので、ジョンとジョージのJ-160Eはある時点で、入れ替わったことが分かっています。50年以上行方不明だったジョンのJ-160Eは、奇跡的に存在していたことが分かり、
2015(平成27)年11月07日(水)の米・ビバリーヒルズのオークションハウス・Julien’s Liveが主催したオークションのイベントにて出品され、241万ドル(約3億円)で落札されます。
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-%E5%BE%8C%E5%8D%8A-08-16-11-26/