過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日の浜省さんだヨ(=^◇^=)


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 ┃ 浜田省吾 #27 『BIG BOY BLUES/SWEET LITTLE DARLIN'』 ┃
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 2016(平成28)年07月11日(月)
 浜田省吾19枚目のシングル『BIG BOY BLUES』が
 1985(昭和60)年12月08日(日)に発売になりました。今回はその話を。
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 浜田省吾のクリスマスミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』のトラックダウンを
 1985(昭和60)年10月14日(月)、15日(火)の二日間で終えた直後の
 1985(昭和60)年10月19日(土)に、ぼく達はシングル『BIG BOY BLUES』のレコーディングのため、信濃町のソニーのレコーディングスタジオに集合した。今回のレコーディングメンバーも『CLUB SNOWBOUND』の時と同じ。この日のリズム録りのメンバーは
 ドラムス:滝本 季延
 ベース:江澤 宏明
 ギター:町支 寛二
 ピアノ:板倉 雅一 夕方5時30分から音楽雑誌「GB」の取材を浜田さんと町支さんとぼくの三人で受けた後の、夜の7時からリズム録りは始まった。今日一日で二曲のリズムを録る予定になっていた。この日のスタジオは2スタと呼ばれる第2スタジオ。信濃町ソニー、通称”シナソ”には第1~第3スタジオまで三つのスタジオがあって、第1スタジオが一番大きなスタジオだった。第2スタジオはやや小ぶりなスタジオだが、バンドが入ってレコーディングするには何ら問題の無い広さだった。レコーディングする一曲は『BIG BOY BLUES』、もう一曲はB面予定曲の『SWEET LITTLE DARLIN'』。アレンジは二曲ともぼくが担当した。BIG BOY BLUESはアップテンポのロックチューンで、浜田さんとは事前に軽く打ち合わせをしただけだったが、意思の疎通は出来ていたので、今回はプリプロは行わないでレコーディングに臨んだ。冒頭はギターの8ビートのカッティングから始まり、途中からピアノに導かれるようにリズムがなだれ込んでくるようなアレンジにした。BIG BOY BLUESのリズム録りは割とスムーズに終える事が出来た。もう一曲のSWEET LITTLE DARLIN'はブルージーなR&Bのバラード。ぼくは浜田さんからいただいたこの曲のデモテープを聴いた瞬間から、この三連の切ないバラードが大好きになった。アレンジするにあたって浜田さんからのリクエストは、「生のストリングスとブラスを入れて欲しい」。弦のアレンジはぼく、ブラスのアレンジは古村敏比古くんが担当することになった。ベーシックなアレンジはピアノの三連符のアルペジオから始まり、所々経過音で洒落たコードトーンやブレイクを挿入し、間奏では大胆に転調してクロマティック・ハープにソロを取ってもらうという構成にした。SWEET LITTLE DARLIN'のリズム録りも順調に終わり、ぼくが弾くフェンダー・ローズピアノを録ってこの日のレコーディングは深夜に終了した。
 1985(昭和60)年10月20日(日)は六本木のソニースタジオでギターとコーラスのダビング。ギターは法田勇虫さん。BIG BOY BLUESの間奏の部分でのスリリングでトリッキーなギターソロに一同大喜びした。SWEET LITTLE DARLIN'でもブルージーなギターソロを弾いて貰った。そしてこの日はぼくの29才の誕生日でもあった。スタジオでみんなに祝福してもらって幸せだった。
 1985(昭和60)年10月21日(月)は場所を麹町のサウンドイン・スタジオに移して、シンセサイザーのダビング。サウンドイン・スタジオは日本テレビ別館の6階にあるスタジオで、日テレと言う場所柄、ビルの中に入るのに非常に面倒なスタジオでもあった。シンセのオペレーターは、フクちゃんこと福田裕彦さんにお願いした。フクちゃんはヤマハのシンセサイザー「DX7」のオーソリティで、フクちゃんと作曲家の生方則孝さんの共同名義で開発した、DX7用音色カートリッジ「生福」は当時大きな話題となった。フクちゃんはプレイヤーとしては勿論のこと、シンセのプログラマーとしても名を馳せていた。フクちゃんに作ってもらった音色をぼくが演奏するという、ちょっと珍しい組み合わせではあったが、非常にクリエイティブなコラボレーションになった。BIG BOY BLUESのイントロ部分には、当時流行っていたオケヒット(オーケストラル・ヒットの略。オーケストラが全員で同時に音を鳴らした時のインパクトある音をサンプリングしたもの)の音を入れた。後日、生のストリングスとブラスのダビングが行われた。ストリングスの編成は「6.4.2.2」と呼ばれるもので、第1バイオリンが6名、第2バイオリンが4名、ビオラが2名、チェロが2名で構成される総勢14名からなる、ポップスやロックのレコーディングでは一般的な編成だった。ぼくは生のストリングスのアレンジを手がけるのは初めてだったので、譜面を書いている時から緊張していた。ストリングスの譜面は楽器によって調号を変えて書かなければならないのと、独特の和音の積み重ね方をしないと心地よい弦の響きが得られないので、そんな事ををかなりナーバスになりながら考えた。SWEET LITTLE DARLIN'のストリングス録音のために、”シナソ”にストリングスの方々が続々とやって来た。ぼくの書いたストリングスの譜面は写譜屋さんの手によって清書されて、綺麗にパートごとの譜面となって並んでいた。広いスタジオの中で各々のポジションについたストリングスの方々が、ケースから楽器を取り出しチューニングを始めた。ぼくはスタジオの中で譜面の説明をしながら生の弦を響きを聴いていた。「生の弦はスゲぇ良い音だなぁ?!」ぼくは緊張を悟られないよう平然を装いながらもとても興奮していた。この日スタジオ入りしたストリングスの方々は、年齢層も幅広く女性の方も何人かいた。おそらくアカデミックな教育を受けて来たであろうストリングスの面々を前にして、クラシックとは対極のロックミュージックをやっているぼくが書いた譜面は果たして通用するのか、音を出してみるまではとても不安だった。試しに練習を兼ねて、先日レコーディングしたオケに合わせてストリングスの方達に弾いてもらった。ぼくは自分がアレンジした譜面に間違いが無いか緊張しながら聴いていた。すると一カ所響きが濁る場所があった。慌てて譜面を確認してみると、第2バイオリンの音が他の音とぶつかっている箇所があった。どうやら写譜ミスのようだった。すぐさま譜面を訂正して、その箇所を弾いてもらうと今度は大丈夫だった。一度レコーディングしてみて細かいニュアンス等の修正を確認し、本番のレコーディングを開始した。今度は素晴らしい響きのアンサンブルだった。レコーディングは二時間程で終了した。初めての弦アレンジのプレッシャーと緊張から解放されたぼくは、ストリングス・マスターの元へ駆け寄りお礼を言った。「素晴らしい演奏をありがとうございました。」するとストリングス・マスターの友田さんが労いの言葉をかけてくれた。「とても良いアレンジで気持ちよく演奏出来ましたよ。」別の日には古村くんのアレンジでブラスのダビングが行われた。ぼくは同席出来なかったのだが、後日聴かせてもらったブラスの演奏はとても格好良い仕上がりだった。シングル『BIG BOY BLUES/SWEET LITTLE DARLIN'』は、TBSドラマ『華やかな誤算』の主題歌となってリリースされると、オリコンチャート14位を記録するヒットとなった。B面の『SWEET LITTLE DARLIN'』も劇中歌としてドラマの中で流れた。SWEET LITTLE DARLIN'は、ドラマの中で女優の佐倉しおりさんが演じる、中学二年生の楠田康子の登場するシーンによく流れることが決まっていたため、ぼく達はレコーディングの最中から、通称「しおりのテーマ」と呼んでいた。
 1987(昭和62)年 翌年、CBSソニー主催のパーティが東京・銀座の老舗フランス料理店「マキシム・ド・パリ」で行われた。アルバム「J.BOY」のレコーディングの最中だった。このパーティはCBSソニー・レコードが主催したもので、1985年の同社のヒット曲に関わった人達が招待されていた。数あるヒット曲の中に『BIG BOY BLUES』も選ばれていた。ぼくは「ゴールデン編曲大賞」という賞を受賞したということで出席することとなった。出席者は豪華な顔ぶれで、ほとんどの人達がドレスやタキシードで着飾っていた。ぼく達の隣のテーブルは杉真理さんのご一行様で、やはりみんなスーツやタキシードを着ていた。そこにひときわ異彩を放っている集団が一組いた。ぼく達浜田省吾の一行だった。ぼく達はタキシードを着ているものは一人もおらず、みんなアロハにGパンやシャツの上にジャケットを羽織っただけのようなラフな格好だった。ぼくはパーティということで一応ジャケットは着ていったのだが、それでも他の面々に比べたらとてもカジュアルな格好だった。ぼくは隣の席の水谷公生さんと一緒にパーティの模様を楽しんでいた。次々と受賞者の名前が呼ばれて行く。やがて浜田省吾さんの番になった。そしてぼくの名前も呼ばれ、ぼくはゴールド・ディスクと副賞をいただいた。音楽人生の中で初めて貰った賞だった。いただいたゴールドディスクは、片面しかプレスされていないとのことだった。どうやら裏をひっくり返してもB面のSWEET LITTLE DARLIN'は入っていないらしい。そして実際にプレイヤーに乗せて針を落とせば、ちゃんと再生されるとのことだったが、勿論そんなことを一度もしたことは無い。
 写真◆BIG BOY BLUESのアナログ盤。
 写真◆BIG BOY BLUESのゴールドディスク。
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②┃ 浜田省吾 #30 "I'm a J.Boy" ┃
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 2016(平成28)年09月10日(土)
 1986(昭和61)年09月04日(木)、浜田省吾さんの二枚組LP「J.BOY」が発売になりました。それと同時に過去に類を見ない大規模なコンサートツアーが始まりました。今回はそんなON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"ツアーの話です。
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 1986(昭和61)年09月04日(木)京都会館から始まり、翌
 1987(昭和62)年04月06日(月)の那覇市民会館で幕を閉じた浜田省吾「On The Road I'm A J.BOY」は、合計で85本のスケジュールが組まれていた。そしてこのツアーから、ぼく達バンドにも大きな変更があった。まず新メンバーとして、アルバムJ.BOYのレコーディングから加わったドラムの高橋伸之くんがツアーにも参加することになった。そしてもうひとりのキーボードに梁邦彦くんが加わった。また初めての試みとして、ホーンセクションがツアーにも帯同することになった。メンバーは
 トランペット:小林正弘
 トロンボーン:清岡太郎
 サックス:中村浩 そしてもう一人のサックスはおなじみ古村敏比古くんの4人。他にもJ.BOYツアーで変わったことは、ベースの江澤くんが鍵盤ベースも使用する事になったこと。彼のポジションにはヤマハのシンセサイザーDX7がセットされて、ベースギターと鍵盤によるシンセベースを曲によって弾き分けると言う、当時としては画期的な試みに挑戦した。今までもあまり語られることは無かったが、この時の江澤くんの試みはぼくは快挙だったと思っている。現在に至るまでいわゆるベーシストで、ステージ上で鍵盤ベースをプレイする人物は殆どいないと思う。彼は天才的なものを持っていた。ぼくの機材まわりも大きく変貌した。まずそれまでのツアーで使用していた、KAWAIのエレクトリック・グランドピアノを辞めて、代わりにテクニクスから新たに発売されたデジタルピアノ「SX-PX1」を使う事にした。新たにぼくのポジションに「SX-PX1」が二台置かれることとなった。テクニクスのピアノは、ぼくが実際に演奏してみて感じたフィーリングを何度もメーカーに伝え、ぼくの意見をフィードバックしてもらって、ぼくの好みのタッチと音色にチューニングしてもらった。おかげで素晴らしい音色と弾きやすいタッチのピアノになった。シンセサイザーも一新した。新たにヤマハDX5とオーバハイム・エキスパンダー、そして時にプロフィットT8という布陣になった。バンドの名前もそれまでの「His New Band」から約二年ぶりに「The Fuse」名が復活した。
 1986(昭和61)年09月04日(木) ツアーは京都会館での初日を無事終え順調に進んでいた。今回のコンサートは二部構成の毎回三時間超えの長丁場で、時には三時間半を超える事も珍しくなかった。当時はまだ若かったとはいうものの、コンサートを終えた後の疲労感は半端じゃなかった。ツアー中に一人でも倒れたらコンサートは成立しなくなる。そのためぼくは今までにも増して、身体のケアに気をくばるようになった。ツアー中に羽目を外すことも勿論あったが、ツアーが終了するまではコンサートの無い時でも常に緊張感を持って過ごしていた。新しく加入したバンドメンバーとの関係は良好だった。ぼくもキーボードの梁くんとプラベートでも一緒に食事に行ったりする仲になった。梁くんのクレバーでおおらかな人柄はすぐにみんなから好かれるようになった。ドラムの高橋くんとはJ.BOYのレコーディングを共にしていたので、すでに気心知れる間柄になっていた。彼の生真面目な性格はドラムのプレイにも良く現れていて、その一糸乱れぬビートはバンドのサウンドをよりタイト&シャープにした。J.BOYツアーの中でもぼくがひときわ印象に残っているのが、
 1986(昭和61)年10月20日(月)、ぼくの30才の誕生日に松本市社会文化会館で行われたコンサート。
 1986(昭和61)年10月14日(火)富山、
 1986(昭和61)年10月15日(水)福井、
 1986(昭和61)年10月17(金),18日(土)長野でのコンサートを終えたぼく達は、
 1986(昭和61)年10月19日(日)は松本への移動日でオフだった。そこでメンバーのうちの何人かは一旦東京に戻る事になった。東京への戻り組はぼくと江澤くん、古村くんと梁くんの四人だった。
‡1986(昭和61)年10月21日(火) 次の日、松本までぼく達四人は一台の車に便乗して中央高速を快調に走っていた。すると途中で事故渋滞に巻き込まれて、まったく動かなくなってしまった。でもすぐに渋滞は解消されるだろうと、まだこの時点では高をくくっていた。時間はまだたっぷりあった。午後三時までに会館に着けば大丈夫なので、気持ちにもゆとりがあった。しかし一時間経っても一向に渋滞は解消されないどころか、わずか数キロしか進まない。松本まではまだかなりの距離があった。やがて二時になり、やがて会館入りのリミットである三時を過ぎてしまった。高速を降りて下道を走ることも考えたが協議の結果、下で行ったら開演時間には間に合わないだろうという結論に達した。どうにか最寄りのSAに入り、マネージャーの岩熊さんに電話で到着が開演ギリギリになってしまうかもしれない旨を伝えた。18時過ぎ、ようやく会館に到着した。楽屋口で岩熊さんが仁王立ちで待っていた(笑)客席はすでに開場していてたくさんのお客さんが入っていた。結局この日は先に入っていたメンバーの簡単なサウンドッチェックぐらいしか出来なく、リハーサル無しで本番を迎えることとなってしまった。しかしアクシデントがあった時のコンサートはなぜか盛り上がるもので、この日はいつにも増して熱いコンサートになった。セットリストは以下のとおり。
  ON THE ROAD'86 "I'm a J.Boy"
 1986(昭和61)年10月20日(月) 松本市社会文化会館
  01.A NEW STYLE WAR
  02.HELLO ROCK&ROLL CITY
  03.DANCE
  04.AMERICA
  05.A RICHMAN'S GIRL
  06.想い出のファイヤーストーム
  07.晩夏の鐘(インスト)
  08.悲しみの岸辺
  09.もうひとつの土曜日
  10.勝利への道
  11.路地裏の少年
  休憩
  12.反抗期
  13.MAINSTREET
  14.MONEY
  15.DADDY'S TOWN
  16.19のままさ
  17.遠くへ
  18.八月の歌
  19.マイホームタウン
  20.BIG BOY BLUES
  21.J.BOY
  アンコール:R&B Medley
  You Can't Hurry Love(ザ・スプリームス)
  A Thousand Nights(浜田省吾)
  Unchained Melody(ライチャス・ブラザーズ)
  Trying to Live My Life Without You(オーティス・クレイ)
  Proud Mary(クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル)
  Just One Look(ドリス・ トロイ)
  Hold On I'm Coming(サム&デイヴ)
  メンバー紹介(各々ソロ廻し)
  The Land Of 1000 Dances(ウィルソン・ピケット)
  土曜の夜と日曜の朝(浜田省吾)
 "I'm a J.Boy"ツアーの白眉はアンコールのR&Bメドレーだった。このメドレーのタイトルは出典によっていろんな記述がなされている。「Sweet&Sour(スウィート&サワー) Medley」と表記されているものもあれば、「Sweet&Soul(スウィート&ソウル) Medley」と表記されているものある。ぼくの記憶では後者だったような気もするのだが定かではない。このアンコールでのR&Bメドレーは、浜田さんが十代のころに良く聴いたり歌ったりした曲をチョイスして、その中に自分のオリジナルのR&Bナンバーを織り交ぜるという趣旨のメドレーだった。一曲目の「You Can't Hurry Love」から、途中メンバー紹介の各人のソロ廻しを入れて、最後の「土曜の夜と日曜の朝」までノンストップ、ビートが途切れることなく歌いっぱなし、演奏しっぱなしの約三十分にも及ぶメドレーだった。これは約三時間の本編を終えた後に演奏するのは本当にキツかった。この日のアンコールでとても嬉しかったのは、メンバー紹介のソロ廻しの箇所でぼくの番になった時、J.Honesと命名されたホーンセクションの連中が即興で「ハッピーバースデイ」を演奏してくれて、それに乗せて浜田さんとお客さんが歌ってくれたこと。全くのサプライズだったのですごく感激した。軽くメドレーの曲を紹介すると、
 You Can't Hurry Love(恋はあせらず)は1966年にスプリームス(シュープリームス)が発表した曲で、全米二週連続一位に輝いた。1982年にはフィル・コリンズがカバーしてヒットした。
 Unchained Melody(アンチェインド・メロディ)は1955年の曲だが、有名なのは1965年にライチャス・ブラザーズが発表したバージョン。浜田さんもライチャス・ブラザーズのバージョンを、町支さんとのデュエットで披露した。
 Trying to Live My Life Without You(愛なき世界で)は1972年にオーティス・クレイが発表した曲。メンフィスソウルのいかしたナンバー。
 Proud Mary(プラウド・メアリー)は1969年にアメリカのバンド、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(CCR)が発表した曲。アイク&ティナ・ターナーやエルヴィス・プレスリー等、数多くのミュージシャンがカバーしている。
 Just One Look(ジャスト・ワン・ルック)は1963年にドリス・ トロイが発表した曲。リンダ・ロンシュタットがカバーしたことでも有名。
 Hold On I'm Comingはサム&デイブが1966年に発表した曲。全米R&Bチャート一位に輝いた。
 The Land Of 1000 Dances(ダンス天国)はウィルソン・ピケットが1966年に発表した曲。オリジナルは1963年のクリス・ケナー。ウォーカー・ブラザースやJ・ガイルズ・バンド等もカバーしている。
 このR&Bメドレーは歌うのも演奏するのも本当にキツかったが、ぼくも大好きな曲ばかりだったので本当に楽しかった。浜田さん初の二枚組No.1アルバムを引っ提げての、三時間半に及ぶロック絵巻を全国85本のツアーで披露する試みは、当時の日本の音楽シーンにおいて例を見ない桁違いのスケールのツアーだった。そしてぼくもその中の一員であれたことを感謝すると共に誇らしく思っている。あれから三十年、ぼくも今年で還暦を迎えるが、気持ちはあの頃と少しも変わっていない。
 写真◆ぼくがJ.BOYツアーで使っていたテクニクスSX-PX1。
 写真◆J.BOYツアーのコンサートチケット。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 ①http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/07/27-big-boy-bluessweet-little-darlin.html
 ②http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/09/30-im-jboy.html
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 ┃ 浜田省吾 #31『CLUB SURFBOUND』 ┃
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‡2016(平成28)年10月21日(金)
 1987(昭和62)年06月28日(日)に発売された浜田省吾さんのミニアルバム「CLUB SURFBOUND」のレコーディングの話です。
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 1987(昭和62)年04月06日(月)、沖縄県那覇市民会館でのJ.BOYツアーの最終公演を終えた浜田省吾一行は、次の日に恩納村のプライベートビーチを貸し切って、総勢数十名での打ち上げパーティを行った。長い長いツアーが終わった安堵感から、この日のパーティはとても和やかで楽しいものとなった。東京に戻ったぼくは、すぐに浜田省吾のニューアルバムのための曲作りにとりかかった。今回のアルバムは夏をテーマにしたリゾートアルバムで、1985(昭和60)年に出たクリスマスアルバム『CLUB SNOWBOUND』の続編とも言えるアルバムだった。そしてバンドのメンバーが各自一曲ずつ曲を書いて、それに浜田さんが詞を書くという画期的な試みを行うことになった。ぼくは意気揚々と作曲を始めた。しかしなかなか納得の行く曲が出来なくて苦しんだ。いつもはもっとスムーズに曲が出来るのだが、今回は浜田省吾のアルバムに収録される曲ということで、特別なプレッシャーを感じていた。曲の断片を作っては捨てる作業を何度も繰り返した。それでもやっとのことで何とか納得の行く曲が出来たので、早速浜田さんに聴いてもらうことにした。ちなみに今回のアルバムのプロデューサーは、J.BOYの時と同じく浜田省吾だった。ぼくが作った曲を聴いた浜田さんの感想は、サビのメロディが今一つ弱いのでは?ということだった。もっとゆったりとした端正なメロディのほうが、ぼくが作った曲には合うということで、ぼくはサビのメロディを作り直すことにした。何パターンかサビのメロディを作ってはみるものの、どうもいまいちピンと来ない。そこでぼくは何かヒントになるのではと思い、敬愛するミュージシャンでもあるデビッド・フォスターのビデオを見ることにした。ビデオの中にデビッド・フォスターが作曲をするシーンがあった。デビッド・フォスターがカナダのバンクーバーの街を車を運転しながら、カセットテープレコーダーを片手に鼻歌で曲を録音している映像だった。「これだっ!!」と思い、早速ぼくはデビッド・フォスターの真似をして、車にテレコとポータブル鍵盤を積み込んで真夜中の駒沢公園近辺に繰り出した。駒沢公園の周辺をテレコ片手に、鼻歌を口ずさみながら車に乗ってぐるぐると周回してみたものの、一向にメロディが出てくる気配は無い。結局明け方までトライしてみたものの、いいメロディは出来なかった。「デビッド・フォスターの嘘つき?!」ぼくは一人で毒づいていた(笑)何日か経ってやっと自分でも納得の行くメロディが出来た。浜田さんに聴いてもらうと今度はOKだった。ホッとした。メロディが出来たのも束の間、すぐに曲のアレンジに取りかかった。ちなみにぼくの作った曲の仮タイトルは「Itakura Ballad」だった。
 1987(昭和62)年04月23日(木)、千駄ヶ谷にあるビクターレコードの301スタジオで、ニューアルバムのレコーディング第一弾が行われた。この日はアルバム先駆けてリリース予定のシングル曲のレコーディングだった。曲は「二人の夏」。愛奴のデビュー曲のリメイクだった。リメイク版のアレンジは町支さん。19時から始まったレコーディングは順調に進んで行った。この日のレコーディングメンバーは
 ドラムス:高橋伸之
  ベース:江澤宏明
  ギター:町支寛二
  ピアノ:板倉雅一 いつものお馴染みのメンバーだった。
 1987(昭和62)年4月26日(日)、19時から信濃町ソニー1スタジオで二人の夏のダビング作業が行われた。一週間後の
 1987(昭和62)年5月03日(日)~05日(火)、横須賀の観音崎マリンスタジオで本格的にレコーディングが始まった。ただし浜田省吾さんは私事で帰郷していたため、このレコーディングには参加することが出来ず、ぼく達バンドのメンバーだけでリズムトラックのレコーディングを行うことになった。観音崎マリンスタジオは観音崎京急ホテルに隣接したリゾートスタジオ。すぐ目の前が海で東京湾が一望出来る素晴らしいロケーションのスタジオだった。ぼく達バンドのメンバーは、
 1987(昭和62)年5月02日(土) レコーディングの前日に観音崎入りした。宿泊は観音崎京急ホテル。ホテルからの景色もスタジオと同じく素晴らしくて、プライベートでも訪れたいような場所だった。
 1987(昭和62)年5月04日(月)と
 1987(昭和62)年5月05日(火)でリズム録りする予定の曲は、江澤くん作曲のミディアムテンポのナンバー、町支さん作曲の軽快なシャッフルのナンバー、古村くん作曲のアップテンポのナンバー、ぼくが作曲のバラードナンバー、浜田さん作曲のアップテンポのナンバーの5曲だった。浜田さん不在の中、レコーディングは始まった。スタジオにいるのはバンドメンバーと、ロード&スカイのスタッフ数名、楽器担当のローディ数名、ディレクターの須藤晃さん、エンジニアの助川健さん、カメラマンの内藤順司さんの十数名。それぞれの曲のテンポを慎重に確認しながら、レコーディングは進んでいった。観音崎マリンスタジオはピアノのブース(個室のような仕切り)が無く、レコーディングの際に他の楽器の音がピアノを録音するマイクに被ってしまうため、アコースティックピアノは仮で弾いておいて、後日東京のスタジオで差し替えることになった。ぼくは出来ることならバンドのメンバーと同時にピアノを録音したかったので、これには少しがっかりした。マリンスタジオでは朝と夜の二回、スタジオスタッフ手作りの食事が提供された。これがとても美味しくて、ぼくはレコーディングの合間の食事がとても楽しみ だった。しかし滞在している間中、ほぼ朝までレコーディングが続いたので、朝と夜の食事の区別がよく分からなくなってしまった(笑)
 1987(昭和62)年5月05日(火)の昼過ぎにリズム録りを終えたぼくはスタジオを後にして、世田谷区三宿の人見記念講堂で行われたデビット・フォスターとリー・リトナーのコンサートを観に行った。人見記念講堂は当時住んでいた家から歩いて数分のところだったので、ぼくは一旦帰宅してから出かけた。この日のコンサートはアメリカのビールメーカー、クアーズが冠スポンサーに付いていて、会場の外ではクアーズビールが販売されていた。ゴールデンウィークの最中、幸い天気も良くてアメリカンな雰囲気の中でのコンサートは最高だった。
 1987(昭和62)年5月08日(金)~20日(水)まで、集中的にダビング作業が行われた。
 1987(昭和62)年5月08日(金)は信濃町ソニースタジオで江澤くんの曲のダビング、
 1987(昭和62)年5月09日(土)は信濃町で梁くんの曲のリズム録り、
 1987(昭和62)年5月10日(日)は六本木ソニースタジオでぼくの曲のダビング、
 1987(昭和62)年5月11日(月)と
 1987(昭和62)年5月12日(火)は信濃町でシンセのダビング、
 1987(昭和62)年5月14日(木)は六本木セディックスタジオで町支さんのギターダビング、
 1987(昭和62)年5月16日(土)と
 1987(昭和62)年5月17日(日)は浜田さんのボーカル録り、
 1987(昭和62)年5月18日(月) はビクタースタジオでギターの土方さんにぼくの曲を弾いてもらった。そして
 1987(昭和62)年5月20日(水)~23日(土)の間にトラックダウン作業を行い、アルバムは完成した。息つく間もない日々だった。アルバム「CLUB SURFBOUND」は全7曲入りのミニアルバムで、作曲はバンドのメンバーが一曲ずつと浜田さんが二曲、作詞は全曲浜田さんが担当した。江澤くん作曲の、後に「プールサイド」とタイトルが付くナンバーは、ちょっとブラコンっぽい(ブラックコンテンポラリー)サウンドで、ちょうど当時流行っ ていたクール&ザ・ギャングのようなテイストの、独特のグルーブ感が難しい曲だった。江澤くんの書いて来た譜面は、ピアノの和音の積み重ね方も指定して あって、彼のこだわりが譜面を通して感じられた。ドラムはリズムマシンによる打ち込みで、シンバル類を高橋くんが叩いた。あとからスネアの音色をサンプリングして足したりもした。町支さん作曲の、後に「Gear Up409」となるナンバーは、タイトルからも分かるようにビーチ・ボーイズテイスト満載の楽しい曲で、エンディングにはビーチ・ボーイズの「カリフォルニア・ガールズ」のフレーズもパロディで挿入された。古村くん作曲の、後に「Hot Summer Night」と名付けられたナンバーは、いかにも古村くんらしい骨太のロックな曲で、古村くん本人もちょっとだけ曲中でボーカルを披露している。梁くん作曲の、後に「曳航」とタイトルが付くナンバーは、梁くんのコンテンポラリーなテイストが良く出たお洒落な曲で、浜田さんもボーカルをオクターブにして二本入れる等、普段とはちがったアプローチをしていて大人な雰囲気を醸し出していた。「二人の夏」と「Little Sufer Girl」は浜田さん作詞作曲のナンバー。二曲ともビーチボーイズへのオマージュ。「二人の夏」は愛奴のデビュー曲のリメイクで、ぼくも当時からとても好きな曲だったので、レコーディングしていてとても嬉しかった。ぼくが作曲の「Harbor Lights」と名付けられたナンバーは、当時傾倒していたデビッド・フォスターやマイケル・オマーティアン等のLAサウンドを下敷きにした曲。江澤くんの弾くシンセベースが素晴らしい。コーラスはぼくと江澤くん、町支さんの三人で歌った。他のメンバーの曲はそれぞれ作者を彷彿とさせる歌詞だったが、ぼくの曲だけは作者は歌の中に全然登場していなくて、浜田さんが書いた詞を読んで「この曲の登場人物は全然オレじゃない」と思った(笑)浜田省吾のアルバム『CLUB SURFBOUND』は
 1987(昭和62)年6月28日(日)に発売されると、アルバムチャートの一位を獲得した。同時に発売された、85年のミニアルバム『CLUB SNOWBOUND』がカップリングされたCD『CLUB SURF&SNOWBOUND』も二位になり、チャートの一位と二位を独占した。
 写真◆CLUB SURFBOUNDのレコーディング風景 at 観音崎マリンスタジオ。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
 http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/10/31-club-surfbound.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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