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┃『SGT PEPPER'S LONELY HEARTS CLUB BAND』┃
┃アルバム・カヴァーに登場しているのは誰?┃
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛STORIES
2020(令和二)年05月30日(土)『discovermusic.jp』Published
ザ・ビートルズの『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』は、史上最高にアイコニックなアルバム・ジャケットの座をいまだ維持し続けている。ポール・マッカートニーの着想から、イギリスのポップ・アーティスト、ピーター・ブレイクと妻のジャン・ハワースによる最終デザインに至るまで、これは単なるアルバム・ジャケットの枠を超えている。当時を象徴する見事なモダン・アート作品なのだ。このアートワークは、当時としては画期的なデザインだった。また、制作費用が3,000ポンド(現在では5万ポンド以上に相当する)と破格で、当時のポップ・アルバムのジャケットでは最高額である。コンセプトは、ザ・ビートルズが「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」に扮して登場し、今ちょうどコンサートを終えたところで影響力の大きな人々の集団に囲まれている、というものだ。合計58人が、最終版のアートワークに登場している。ジャケットに登場した人々は、ジョン、ポール、ジョージ、ピーター・ブレイク、ジャン・ハワース、そしてロンドンの美術品商、ロバート・フレイザーが共同で作ったリストから選ばれた。イエス・キリストとアドルフ・ヒトラーは、掲載には不適切とされ、マハトマ・ガンジーやレオ・ゴーシーといった人々は、別の理由で削除された。また、エルヴィス・プレスリーの顔がないのも気になるが、これはポール・マッカートニーが後年語っているが、「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」だったからだという。最終ヴァージョンに残った人々は、文化人や重要人物、さらにはザ・ビートルズのメンバーが関心を持つ人々が並ぶ魅惑的な顔ぶれだ。「Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band」の歌詞のように、「皆さんも長年、このバンドのことは知っているだろう。それでは、『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケットに掲載されている残りの人々を皆さんに紹介しよう……」
┌─―――――――――┐Second row <二行目>
34A| James Joyce |『Wikipedia』
34A|ジェイムズ・ジョイス|『discovermusic.jp』
└─―――――――――┘ barely visible below Bob Dylan
‡1882(明治15)年02月02日(thu) Born
1941(昭和16)年01月13日(mon) Died. 58 years old
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https://sgtpepper.udiscovermusic.com/
‡https://en.wikipedia.org/wiki/James_Joyce
https://www.udiscovermusic.jp/stories/whos-who-on-the-sgt-peppers-album-cover
https://www.udiscovermusic.com/stories/whos-who-on-the-beatles-sgt-peppers-lonely-hearts-club-band-album-cover/
https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_images_on_the_cover_of_Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band
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┃Exclusive:WITH A LITTLE HELP FROM THEIR FRIEND┃By Mark Edmonds
┃ EXCERTS FROM MAL'S DIARIES: ┃
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2005(平成17)年03月20日(sun)『The Sunday Times Magazine』に最初に掲載されましたヨ(=^◇^=)
First published in『The Sunday Times Magazine』20 March 2005
‡1967(昭和42)年02月02日(thu) February 2, 1967:
Recording voices on Captain [sic] Pepper. All six of us doing the chorus in the middle, worked until about midnight. Bag took Cynthia [Lennon]. Bed about 5.30pm after no sleep. Ugh! Cleaning lady Mrs. Turner. Cor!!! Had to go to doctor in 6 George Street. Bought Ringo some undies for his visit to the Doctor.
************* https://www.uta-net.com/song/44469
http://www.angelfire.com/band2/bffh/news/malsdiaries.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/マル・エヴァンズ
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┃ THE BEATLES of 1963 ┃(sat)02 February
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Concert: Gaumont Cinema, New Victoria Street, Bradford, Yorkshire
♪Chains♪
♪Keep Your Hands Off My Baby♪
♪A Taste Of Honey♪
♪Please Please Me♪
The first night of a month-long package tour headlined by Helen Shapiro. Other numbers performed during the tour included "Love Me Do" and "Beautiful Dreamer".
"A recent appeal on this page for memorabilia from the Beatles' Bradford gigs sparked memories for Terry Bostock, who was a young autograph hunter at the time.
"In 1963, I was a 13-year-old, living in Girlington, and regularly stood outside both the Alhambra and Gaumont collecting autographs," recalls Terry, of Brighouse.
"On the Beatles' first visit (in February 1963), I knew that Helen Shapiro was also performing at the Gaumont and thought I'd try and get her autograph.
"I went down that afternoon and stood outside the stage door in Quebec Street, along with a number of girls. "One of the girls noticed that a small door near the stage door, where they unloaded props, was insecure and they went through. Not one to miss a chance, I followed and ended up on the stage where we found all the acts on that evening. I went up and got Helen's signature, along with those of the Honeys, Danny Williams and Kenny Lynch.
"Most of the girls were flocking around four lads in leather jackets and jeans with quiffed hair, I hadn't a clue who these lads were, but I got behind the girls and had just got my first autograph when a man shouted from the balcony for us get out.
"I'd like to think this was Brian Epstein, but it could just as easily been the Gaumont manager." Terry adds: "After this the rest of them refused to sign my book. The autograph I did manage to get was John Lennon's."
Source:(mon)26 April 2010, Bradford Telegraph and Argus
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This was possibly the first night Ringo's bass drum was adorned with a new "antennae" band logo (although the earliest photographic evidence is from
(sun)17 February 1963). Designed by signwriter Terry "Tex" O'Hara (brother of the Fourmost's guitarist Brian O'Hara), it would last until Ringo upgraded to a Ludwig kit on
(sun)12 May 1963.
Photo◆Paul's initial design idea
Photo◆Tex O'Hara's preliminary sketches
Photo◆The final design, hand-drawn on a linen cloth band which Ringo attached across the front of the bass drum
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http://www.multiplusbooks.com/630202.html
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┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1961(昭和36)年02月02日(木) ライヴ演奏:リザーランド・タウン・ホール/リヴァプール
②1962(昭和37)年02月02日(金) ライヴ演奏:オアシス・クラブ/マンチェスター
③1963(昭和38)年02月02日(土) ライヴ演奏:ゴーモン・シネマ/ブラッドフォード
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②1962(昭和37)年02月02日(金) ライヴ演奏:オアシス・クラブ/マンチェスター
これはリヴァプール以外の地域で興行的に組まれたビートルズ最初の公演であった。このイベントはオアシス・クラブ (The Oasis Club) の支配人トニー・スチュアート (Tony Stuart) によって手配されている。この会場はマンチェスターのロイド通り (Lloyd Street) にあり、ケネディ・ストリート・エンタープライズ (Kennedy Street Enterprises) が所有していた。このショーでのビートルズの演目は、
・The Hippy Hippy Shake
・Sweet Little Sixteen
・The Sheik Of Araby
・September In The Rain
・Dizzy Miss Lizzy
・Take Good Care Of My Baby
・Till There Was You
・Memphis, Tennessee
・What A Crazy World We Live In
・Like A Dreamers Do
・Money (That's What I Want)
・Young Blood
・The Honeymoon Song
・Hello Little Girl
・So How Com (No One Loves Me)
・Ooh! My Soul
・To Know Her Is To Love Her
・Roll Over Beethoven
・The Love Of The Loved
・Dance/Twist In The Street
・Dreams
・Seartin' このクラブの共同所有者のヒュー・グッドウィン (Hugh Goodwin) は、オアシス・クラブへの一連のビートルズの出演報酬25ポンドに対して、ブライアン・エプスタインがサインした領収書のコピーを保存している。ヒューはショーの前宣伝を気にする唯一のマネージャー、ブライアン・エプスタインに感銘を受けた。その当時、事前のプロモーションを重視する者などいなかったからである。ロイド通り45-47番にあったクラブの建物は、1990年代に再開発され、当時の姿を現在見ることはできない。
ビートルズはオアシス・クラブに4回出演しているヨ(=^◇^=)
‡1962(昭和37)年02月02日
1962(昭和37)年09月29日
1962(昭和37)年12月08日
1963(昭和38)年02月22日
③1963(昭和38)年02月02日(土) ライヴ演奏:ゴーモン・シネマ/ブラッドフォード
この日は記念すべきビートルズの初UKツアーの初日であった。それはヨークシャー・ブラッドフォード (Bradford, Yorkshire) のニュー・ヴィクトリア通り (New Victoria Street) にあるゴーモン・シネマ (Gaumont Cinema) で開催された。広告に名前の載る6組の出演者の内、ビートルズは最下位であった。最上位に名前が記載されるメインスターは16歳の少女歌手ヘレン・シャピロ (Helen Shapiro) であった。このツアーは彼女のニュー・シングル『Queen For Today』の発売と同じ日にスタートしている。この新曲はすでに傾きかけていた彼女のキャリアの再起をかけたものであった。
ヘレン・シャピロ『Beatlemania!』マーティン・クリージー ⇒ 私はアーサー [プロモーターのArthur Howes] とミーティングして、彼は言った。この新しいツアーでは、私はダニー・ウィリアムス (Danny Williams) とケニー・リンチ (Kenny Lynch) と一緒で、それからザ・レッド・プライス・コンボ (The Red Price Combo) が私のバックバンドとなり、デイヴ・アレン (Dave Allen) が司会を努め、それからこのビートルズという新しいグループも来る。 彼は私に彼らを知ってるかと聞いてきたけど、私はもちろん知っていた。私は彼らの『Love Me Do』が気に入っていて、このツアーを楽しみにしていた。そのツアーに参加するミュージシャンのほとんどはロンドンのオールソップ・プレイス (Allsop Place) のバスターミナルから出発し、ヨークシャーまではるばる旅していった。その日のヨークシャー地方の最高気温は-1℃で、雪と氷がその旅を危険なものにした。一方ビートルズは、前夜にタムワース (Tamworth) とサットン・コールドフィールド (Sutton Coldfield) での公演を終えた後、ニール・アスピノール (Neil Aspinall) のコマー・ヴァン (Commer van) でブラッドフォードに移動した。このツアーでは毎晩6:15pmからと8:30pmからの2回のショーが開催された。ゴーモン・シネマは3,318人が収容できるが、1回目のショーでは多くの空席が目立った。このショーはザ・レッド・プライス・バンド (The Red Price Band) からスタートし、次にザ・ハニー (The Honey) が出演する。それから司会のデイヴ・アレン (Dave Allen) がビートルズを紹介し、ダニー・ウィリアムス (Danny Williams) が前半を締めくくる。インターバルの後、ザ・レッド・プライス・コンボが再び登場し、それにザ・ケストレルズ (The Kestrels)、ケニー・リンチ (Kenny Lynch) と続き、最後にヘレン・シャピロが登場する。ビートルズはツアー初日のこの夜、6曲を演奏した。
♪Love Me Do♪
♪Beautiful Dreamer♪
♪Chains♪
♪Keep Your Hands Off My Baby♪
♪A Taste Of Honey♪
♪Please Please Me♪ またこのツアーの他の日には『Long Tall Sally』を演奏することもあったヨ(=^◇^=)
ゴードン・サンプソン(NME)『Beatlemania!』マーティン・クリージー ⇒ ヘレンは1階のメインスター用の楽屋にいたが、ビートルズがあの夜いた小さな部屋に行くには階段を昇らなければならなかった。猫が入る隙間もなかったほどに狭かった。僕の記憶では僕らは全員立っていた。彼らは小さなミラーによってようやく支えられていた。2人が片側に立ち、もう2人は反対側に立って、そのうしろにブライアンが立っていた。その部屋には僕らだけだったんだけどね。 僕らはごく普通の会話をした。彼らのレコーディングの予定とか、全国ツアーのスポットライトの感想とかそんな話だ。彼らはとても友好的でユーモアもあった。でも少しも人を馬鹿にするようなところはなく、とても誠実だった。
スタン・リチャードソン (Stan Richardson) はフリーのカメラマンで、彼はメロディ・メーカー紙 (Melody Maker) のために、レポーターと一緒にこのツアーを取材しに来ていた。ブライアン・エプスタイン (Brian Epstein) は、彼にビートルズの写真を撮ってくれるよう依頼する。バンドは代金を払わないことが時々あるからと彼は最初拒んだが、彼らは説得して写真を撮らせた。彼はショーの途中で家に帰って現像し、20×16インチのプリントに仕上げてビートルズのサイン用に持ってきた。
スタン・リチャードソン『Beatlemania!』マーティン・クリージー ⇒ その写真はロビーで撮った。僕らはヘレンの写真とインタビューが欲しかったんだが、彼女は拒んだ。それからこのリヴァプールの連中が「僕らの写真を撮ってくれないかな」と鳴きだした。白いスーツとピンクのカーネーションを付けた親分 [エプスタイン] がそこにいて「いいじゃないか、ねえ。彼らの写真を撮ってくれよ」と言った。僕は家に帰って現像し、2回目のショーの終りに会場へ戻った。エプスタインは腕を僕にからみ付けて言った「ねえお願いだから、彼らの写真をフルセットで撮ってくれない。」僕はそれは断った。気違いじみた話だ。僕は以前ポップスターの写真を撮ったことがあるけれど、ほとんど払ってもらえないんだ。唯一払ってもらえたのはルル (Lulu) の写真を撮った時だけだった。彼女の周りの人々は直ちに払ってくれた。
またこの日♪Please Please Me♪のシングル盤が、『ミュージック・ウィーク誌 (Music Week)』のチャートで16位にランクインしている。
ジョン・レノン『Lennon Remembers』ジャン・S・ウェナー ⇒ ブライアン・エプスタインは僕らをスーツやら何やらで包んだ。そして僕らはそれをふくらませた。僕らは売り尽くした。僕らが英国の劇場ツアーを始めた時、もう音楽は死んでいたんだ。すでに僕らは「ちくしょう」と感じていた。なぜなら1~2時間の演奏を20分に減らさなければならなかったからだ。それはある意味では嬉しかったけど、その同じ20分を毎日毎日繰り返す。演奏家としてのビートルズの音楽はその時に終わった。それが僕らが演奏家として成長しなかった理由だ。僕らは自分たちを作ろうとして、あの頃自分たちを殺したんだ。そしてあれがその最後だった。ジョージと僕は特にそう思っている。僕らはいつもクラブの時代を恋しく思っている。なぜならそれが僕らが音楽を演ってた時だからだ。
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①https://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
②https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620202_live_Oasis_club.html
③https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630202_live_Gaumont_Bradford.html
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─―――――┐
┃ THE BEATLES HISTORY ┃| February 02|033
┃ ザ・ビートルズの今日の出来事 ┃| 2月02日 |
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1962(昭和37)年02月02日(金) ランカシャーのオアシス・クラブに出演。ブライアン・エプスタインのマネージャーとしての力が発揮され、リヴァプール以外の会場で初めてプロのバンドとして手配された。
1963(昭和38)年02月02日(土) ヘレン・シャピロがメイン・アクトをつとめ、他にビートルズを含めた6組が出演するパッケージ・ツアーの初日が、この日のヨークシャーのゴーモント・シネマ公演からスタートした。ビートルズにとって初めての全国ツアーで、ビートルズのランクは6組のなかでは最も格下。セットリスト「Chains」「Keep Your Hands Off My Baby」「A Taste Of Honey」「Please Please Me」。「Love Me Do」「Beautiful Dreamer」をリザーブ曲としていた。
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=16900
http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/002/0202.html
https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15639497.html
http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
楽曲資料https://beatlesdata.info/
歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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┃ OTHER VENUES PLAYED IN FEBRUARY 1962 ┃
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‡(fri)02.02.1962 Manchester, Oasis Club
Note・・・The Beatles also played The Cavern several times and The Casbah one time but this is certainly neither of those clubs
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http://www.beatlesource.com/savage/1962/62.02.10%20birkenhead/62.02.10birkenhead.html
http://www.beatlesource.com/savage/1962/62.02.20%20Floral%20Hall/62..02.20floralhall.html
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┃ THE BEATLES Live 1961 ┃
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‡(thu)02 February 1961 Litherland, England, Town Hall
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┃ Winter 1964 France show ┃THE BEATLES SHOW
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‡No.19 (sun)02 February 1964 Paris, Olympia Theatre (18)
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https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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┃ Winter 1963 Helen Shapiro Tour, Part 1 ┃THE BEATLES SHOW
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‡No.01 (sat)02 February 1963 Bradford City, England, Gaumont
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https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles_Winter_1963_Helen_Shapiro_Tour
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参考パンフ■Beatles Helen Shapiro Original Tour Programme 1963 £300.00 22:22 2017/03/18 An original concert programme from the 1963 UK British tour that took place between 2nd February and the 3rd March. The tour was headlined by Helen Shapiro and the Beatles appeared as one of the support acts. Programme features a black and white group shot and a brief history of the group. Measures 21cm x 27cm (8.25 inches x 10.75 inches). There is some dirt staining to the cover and a small tear measuring 1cm (0.25 inches). Condition is very good minus.
https://www.tracks.co.uk/product/b24475-beatles-helen-shapiro-original-tour-programme-1963/
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┛THE BEATLES 1967 Recording Sessions ┛Studio 2
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ overdub onto take 09,
┃ ♪SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND♪ ┃tape reduction take 09
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ into take 10
No.2 空いてる2トラックにポールのボーカルと、ジョンとジョージのコーラスを録音。空きトラックを作るために、ピンポンを行った。
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┛THE BEATLES 1967 Mono mixing ┛
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┃ ♪SGT PEPPERS LONELY HEARTS CLUB BAND♪ ┃remix 1, from take 10
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Producer: George Martin
Engineer: Geoff Emerick
2nd Engineer: Richard Lush.
Paul poses for photographers at his house
‡1967(昭和42)年2月2日(thu)
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https://beatlesdata.info/8/01_sgtpepperslonelyheartsclubband.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Sgt._Pepper%27s_Lonely_Hearts_Club_Band_(song)
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英警察、ザ・ビートルズのルーフトップ・コンサートを語る
◆2009-02-02 09:19:59
40年前の1月30日、ザ・ビートルズがロンドン、サビル・ロウにあったアップル社のビルの屋上で伝説のゲリラ・ギグ、ルーフトップ・ギグを行なった。ザ・ビートルズ最後のパフォーマンスとなったこの歴史的ギグを目撃していた警官が当時のことを回想した。
当日、ピカデリー・サーカス周辺で任務にあたっていたケン・ホウォーフ警官は、BBC6ミュージックにこう話している。「頭の固い巡査部長から“あの騒音が聞こえるか?”って電話があったんだ。私は“そうですね、ザ・ビートルズみたいですね”って答えたよ。実際、彼らが屋上にいるなんてことは知らずにね。でもみんな、ザ・ビートルズがサビル・ロウにスタジオを持ってることは知ってたから。巡査部長からは“誰か連れて行って、やめさせろ”って言われたんだ」
しかしホウォーフ警官は、この命令に従う気はなかったそうだ。周囲はお祭り気分で盛り上っており、警察が止めに入ったら暴動が起きてもおかしくない雰囲気だったという。「我々は公然と、続けるよう奨励していた」「周りのビルの屋上には(ギグを見ようと)どれだけたくさんの人が集まったことか。パーティー気分だった。それを止めようとする警官がいたら、屋上から振り落とされるんじゃないかって思ったね、正直言って」
しかし結局のところ、別の署の警官が止めに入ったという。その場にいたEMIのサウンド技術者デイヴィッド・ハリスはこう話している。「警察が来て、“中に入れないなら、ここにいる全員を逮捕する”って言ったんだ。ジョージ・マーティンは真っ青になってたよ。ものすごく、面白かった。僕は、そりゃ愉快だって思ったね。“ザ・ビートルズと一緒に逮捕されるんだ。テレビに出られるぞ”ってね」
ハリスによると、彼らはできるだけ大きな音を出そうと目論んでいたという。「車の流れや通行人を止めるほどにね。道にいてもザ・ビートルズが聴こえるようにさ。EMIからでかいスピーカーをいくつか持ち込んだ。1月の凍える朝の4時にね。スピーカーを屋上において、下にある器材と繋いだ。スタジオは地下にあったからさ」
結局、ザ・ビートルズは47分間の演奏を敢行。このときの模様は映画『Let It Be』に収められている。
先週金曜日このギグの40周年を記念し、ザ・ビートルズのトリビュート・バンドThe Bootleg Beatlesが同じ場所でパフォーマンスすることを計画したが、警察や市議会から許可が下りず断念したという。
https://www.barks.jp/news/?id=1000046725
映像◆激レア!【レット・イット・ビー】日本語解説付き版
‡1980(昭和55)年2月2日(土) 14:30- 映画「LET IT BE」TBS いわゆる「かまやつひろし」さんのナレーション版
http://www.geocities.co.jp/MusicStar-Vocal/6398/tvdata.htm
http://video.fc2.com/content/20151106hrTB9TS1/
映像◆The Beatles Rooftop concert https://youtu.be/f7cMARkgWPQ
映像◆☆ビー☆トルズ☆アップル☆屋上☆ライブ☆1969☆01☆30 http://video.fc2.com/content/20140330D499uXbB/
アニメ◆
ダイジェスト◆
静止画◆
音源◆http://youtu.be/OEjDa-xz0a4
Original "Get Back" Album音源◆http://youtu.be/4XkfCWYK1FQ
GET BACK 1st mix音源◆http://youtu.be/dXHl_Y_rt7U
Get Back (Aborted Studio Album Re-Edit)音源◆http://youtu.be/TBk4QCCV5QQ
http://applejamjam.web.fc2.com
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┃ Wings Japan Tour 1980 ┃■中止★\(>▽<)/★
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1980(昭和55)年1月16日(水) ポールが大麻取締法違反と関税法違反で東京税関成田支署に現行犯逮捕
1980(昭和55)年1月21日(月) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月22日(火) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月23日(水) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月24日(木) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年1月25日(金) ポールは強制送還され成田空港を飛び立つ
1980(昭和55)年1月25日(金) ■中止■愛知県体育館
1980(昭和55)年1月26日(土) ■中止■愛知県体育館
1980(昭和55)年1月28日(月) ■中止■フェスティバルホール
1980(昭和55)年1月29日(火) ■中止■大阪府立体育館
1980(昭和55)年1月31日(木) ■中止■日本武道館
1980(昭和55)年2月01日(金) ■中止■日本武道館
†1980(昭和55)年2月02日(土) ■中止■日本武道館
【まぼろしの1980年公演】
ビートルズとドラッグの関係は彼らが現役時代から、何かと世間を騒がせてきた。ビートルズ解散後も特にポールは日本公演が2度までも幻となっており、われら日本のファンにとってドラッグといえばポールの名を思い出すことが多い。ここでは'80の1月に予定されていたウイングス来日公演について書いてみた。その直前の日本の盛り上がりにちょっと触れてみたい。'75年秋に予定されていた待望のポール・マッカートニー&ウィングスの来日コンサートが直前になって流れた。理由は「ポールにケシ栽培と麻薬所持の前歴ある」ということで、法務省入国管理局が来日に対してNO!を突きつけた。あの名盤「Wings Over America」のツアーの一環として、オーストラリア公演の次に日本へやって来る予定であった。ビートルズ武道館公演以来9年ぶりのポールのコンサートは、お堅い法務省の役人のつまらん判断により潰されてしまった。
【日本公演スケジュール】
1月21~24日、31日~2月2日 武道館大ホール S席¥4500 A席¥3800 B席¥3000
1月25、26日 愛知県体育館(武道館と料金は同じ)
1月28日 フェスティバルホール S席¥10000、A席¥8000、B席¥6000
1月29日 大阪府立体育館(武道館と同料金)
フェスティバルホールでのチケット料金が異常に高いが、なんと東京だけで7回コンサートがあり、
名古屋、大阪でもステージがあり、合計11回という大盤振る舞いだ。 今ではドーム公演で一回に数万人の観客動員があるが、当時はせいぜい一回で一万人が精一杯、しかし、やろうと思えば11回もポールを見ることも可能だ。またドームに比べて比較的近い場所でポールを見られる素晴らしい環境だったに違いない。ポールより日本のファンにメッセージが届いた。「念願の日本公演実現できることになって嬉しい。親子ともども日本でのコンサートを楽しみにしています。日本公演では特別のプログラムを用意して、必ず日本のファンの期待に応えたい」。今まで以上にビートルズ・ナンバーを取り入れ、日本の曲を1曲演奏することが確認された。「麻薬の前歴のある外国人は原則として入国させない方針でのぞんでいるが、何が何でも入国拒否というのではなく、前歴が軽いものであって、罪を犯してから8,9年たっていれば入国を認める」となんともあやふやな見解を法務省は発表した。 '75にポールの入国拒否事件から5年。この間本人はもとより、様々な関係者による入国許可のための努力があった。招聘元のウドー音楽事務所の根気強い交渉というか、各方面への根回しは相当のものだったという。またポールの要請によりヨーコ・オノが日本での人脈を活用して、なんと政財界を動かして働きかけを行ったという。しかし、一番忘れてならないのはファンの努力である。法務省への嘆願書提出、入国許可を求める数万人規模の署名活動、キャンドル行進などの涙ぐましい地道な、そして世論をも動かす素晴らしい活動があったのだ。こうした日本のファンの活動をポールは知っていたのだろうか?もし、知っていたのだとしたら、何故?こうしてポール、ファン、関係者にとって最悪の運命の日を迎える事となった、、、。
*********************** http://www.asahi-net.or.jp/~wa5y-knn/
http://music.geocities.jp/yjunchan_999/wings-maborosi-japan.htm
https://ja.wikipedia.org/wiki/ポール・マッカートニー#日本公演日程
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