過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 ビートルズ ハンブルグでのライブ
 2007(平成19)年02月10日
 1962(昭和37)年12月31日録音のテープ
 1962(昭和37)年10月にはデビューシングル「ラブ・ミー・ドゥー」がすでに発売され、「プリーズ・プリーズ・ミー」も録音完了している時期なのになぜ?~どうもハンブルグでClubとの契約が残っていて、その履行のライブがこの日だったようですね。メンバーもジョン、ポール、ジョージ、リンゴの公式メンバーがそろっての、非公式録音の最初で最後のものだと思います。音質はひどいもの(家庭用テープデッキにマイク1本で収録したもの)ですが、雰囲気、“ビートルズのルーツ”が嗅ぎ取れる貴重な録音だと思います。I’m Gonna Sit Right Down And Cry Over You ~ I Remember You全30曲、音源は‘77リリースの独ベラフォンのレコードからです。アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア、ロール・オーバー・ベートーベン、ツイスト・アンド・シャウト、ミスター・ムーンライト・・・等後に大ヒットする曲もたくさん含まれています。興味深く聴きなおし、編集をしております。このテープ第一話には2時間たっぷり、解説を交えてビートルズデビュー前の非公式録音の現存するすべてが収録してあります。ビートルズ コレクション軽音楽をあなたに
①The Beatles with Tony Sheridan
 1961(昭和36)年06月
 1962(昭和37)年04月 全8曲 録音
②The Decca Audition
 1962(昭和37)年01月01日 全15曲 録音
③The Star Club Tapes
‡1962(昭和37)年12月31日 全30曲 録音
③の一部が収録されたCDがありました、紹介しておきます。
 http://analogshinn.seesaa.net/article/391649985.html
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 ┃デッカのオーディション落選と┃
 ┃ そのテープがもたらしたもの ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━┛ビートルズ物語 1962年
 1961(昭和36)年12月13日(水)、このオーディションは、マイク・スミス (Mike Smith) が、デッカ・レコード会社のA&R(アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する職務)の代表としてキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏を見た結果を受けて開催されたもので、その夜の彼らのパフォーマンスは、すぐにレコード契約を保証できるほどのものではありませんが、スミスは意欲的で、デッカのスタジオで改めてオーディションすることを彼らに提案したものです。
 1962(昭和37)年01月01日(月)、ジョン・レノン (John Lennon)、ポール・マッカートニー (Paul McCartney)、ジョージ・ハリソン (George Harrison)、ピート・ベスト (Pete Best) の4人は、ローディーのニール・アスピノール(Neil Aspinall) が運転するヴァンでリヴァプールから移動しますが(ブライアン・エプスタイン は列車移動)、吹雪の天候にたたられ、一行は午前11時からのオーディションにぎりぎりで間に合います。そして、ロンドンのウェスト・ハムステッド区 (West Hampstead) ブロードハースト・ガーデンズ(Broadhurst Gardens) 165番にあるデッカ・レコード社で、ビートルズのオーディションは始まります。オーディションにぎりぎりで間に合ったビートルとその一行に待っていたものは、デッカの担当者マイク・スミスからの待ちぼうけで、徹夜の新年会で遅れて来たスミスは、ビートルズの持ち込んだアンプ類の使用を認めず、スタジオの機器を使い、待望の「オーディション」は始まります。スミスは
‡1961(昭和36)年12月31日(日)、大晦日の夜にハリキリ過ぎて遅れて来た上に、ビートルズの使ってるのは音が問題外だからデッカのアンプを使えと言ってきかず、ビートルズの神経を逆撫でてしまいます。ビートルズは、15曲(「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love Of The Loved」の3曲がレノン=マッカートニーの作品で、残り12曲はカバー曲)を演奏し、オーバー・ダビング無しの一発録りで、おおよそ1時間で全曲の録音を終了させます・・しかし、あえなく「落選」、ジョンは、この時の感想を率直に語っています、「これで終わりだなって、その時はほんとに思ったよ。ここまでだって」。ビートルズはオーディションが終わると、デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”に、「次のバンド『BRIAN POOLE AND THE TREMELOES(ブライアン・プール&ザ・トレメローズ)』の開始時刻を過ぎてしまった」とせかされスタジオの外へ出されます。緊張のためにビートルズの演奏は最高とは言えないまでも、メンバー4人とブライアン・エプスタインは、このセッションがデッカとの契約に結びつくことを確信しますが、ブライアン・プール&ザ・トレメローズが合格したことを知らされ、その後、1月27日付のリバプール・エコー誌に短い記事が載ります。
「デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”は、ビートルズはすごいバンドだと筆者に語った。30分以上に及ぶオーディションの模様をテープに録音しており、デッカのレーベルからぜひともデビューさせたいということである」と云う内容ですが、公式の理由としては「エプスタインさん、ギター・グループは消えゆく運命ですよ」と云うもので、この言葉は世間に広く知られ、ディック・ロウは後に「ビートルズを蹴落とした男」という悪名を背負うことになります。しかしジョージ・ハリソンの推薦を受け、ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) と契約するのも彼だと云うことです。
 ↓↓『Decca_studio』↓↓
 ジョージは語ります、「雪が降る中、デッカのスタジオに言ったのを覚えれいる。ただ、入って行って、アンプをセットして、演奏しただけ。あの頃のロックンロールの曲は、実際には古い曲ばかりだった。40年代とか50年代とか、みんながロックにハマっていた頃のやつさ。やるものがない時はそう云うのをやってたんだ。ジョー・ブラウンが『シーク・オブ・アラビー』のロックンロールバージョンを出してたね。彼は土曜のテレビ番組『シックス/ファイブ・スペシャル』や『オー・ボーイ!』凄く人気があった。僕はそのジョー・ブラウンのレコードをやって、『シー・オブアラビー』を歌った。ポールは『セペテンバー・イン・ザ・レイン』を歌った。それぞれがやりたいこと曲を選んだんだよ。グループのメンバー全員が歌うって云うのは当時は珍しかった。あの頃は、クリフ&シャドウズって具合に、どのグループでもリードボーカルを前面に出してた。他のメンバーは全員スーツに揃いのタイとチーフで決まった動きをしているだけ。その前にボーカルが一人立って歌ってるんだ。オーディションは何時間か続いた。それが終わると僕らはホテルに帰った。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
 ジョンがブライアン・エプスタインを語ります①、「ブライン・エプスタインはこう言った『なあ、本当にもっと大きな場所でやりたいなら、変わらなきゃだめだ。ステージでものを食べるのも、汚い言葉を使うのも、煙草も、止めろ!』ってね。彼は僕らのイメージをクリーンにしようと考えていたんじゃなく、恰好が間違っているって言ったんだ。『そのままじゃいいところには絶対出れない』って。僕らはステージの上でも下でも、いつだって好きな格好をしていたからね。『ジーンズはあまりスマートじゃない、きっちとしたスラックスを履かないか』って彼は言ってたけど、いきなりかしこまった格好をさせようとしたんじゃないよ。彼は僕らに、個性ってものを分からせようとしたんだ。僕らにすればブライアンはエキスパートだった。だってもともと店をやってただろ。店を持ってる人間ならみんな正しいはずだって思った。それに車にでかい家、それが全部父親のだろうと関係ない。こいつこそ理想の人間だって僕らは思ったのさ。『成功するか、ステージでチキンを食べ続けるか、どっちだ!?」と云う彼の考えを僕らは尊重した。チーズ・ロールやジャム・パンをかじるのもやめた。もっと自分たちのやってることを考え、遅刻しないようにして洒落た格好をするようになった。(書籍『Anthology』抜粋参照)』」。
 ジョンがブライン・エプスタインを語ります②、「彼はあちこちに行ってニコニコし、新聞屋などにも気に入られた。みんな彼のことは認めていたよ。宣伝してもらうのはゲームになるのさ。僕らは地元の新聞社や音楽誌の事務所を回って、記事を書いてくれるように頼んだ。そうしなきゃダメなんだ。最高のステージをやるには当然のことだけどね。記者の前ではいい顔をしなきゃならなかった。たとえ相手がすごい傲慢な奴で、『恩を売ってるんだぞ!』って態度だとしてもね。僕らはそいつらに調子を合わせてやたよ。『取材をしてくれてありがとう!!』みたいな態度でね。そい云う点では見事に二重人格だったね。ブライアンはずっとリヴァプールとロンドンを往復してた。そしてある時ロンドンから戻ってくると、こう言ったんだ『オーディションだぞ!』って。僕らは大喜びだったよ。それはデッカのオーディションだった。彼は『マイク・スミス』とか云う奴と話をつけていて、僕らはそこへ行くことになった。それで色々曲をやったんだけど、不安と緊張でガチガチでね、それがしっかり演奏にも出てた。でも、最初は不安だったものの、そのうち気持ちも落ち着いて来た。『トゥー・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー』って云うフェイル・スペクターの曲と持ち歌をいくつかやった。キャバーンのステージをそのまま再現したようなもので、何曲か外したようなね。20曲くらいやったと思う。テープはデッカとバイの送ったけど、バイには行かなかった。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
★デッカA&R部のトップだったディック・ロウ (Dick Rowe) は後にこう語っています、「私はマイクに『どちらにするのか君が決めろ』と言った。ビートルズか、それともトレメローズか、それは彼次第だった。彼は『どちらもいいんです。ただ一方は地元のグループで、他方はリヴァプールからのグループです。』と言った。そして地元のクループを取った方が良いという結論になった。彼らはダグナム (Dagenham) から来ていたので、仕事がやりやすいし親密でいられると考えた。」。
★マイク・スミスは語ります、「経験豊富な彼が、どちらを良いと判断するか知りたかったが、彼は何も意見を言わなかった。ディックは私に『君が決めろ』と言った。あとになってディックは、ビートルズがシャドウズに似ていたので契約を交わさなかったと発言したが、まったくおかしな話だ……歌も聴いていないのに」。両者の見解と解釈や発言はかみ合っていません。そして
 1962(昭和37)年02月初め、「オーディション不合格」の知らせがブライアンの元に届きます。理由は「シャドウズに似ている。ギターバンドは売れない」と云うもの。
★釈然としないブライアン・エプスタインはデッカ本社まで押しかけ、「デッカがリリースするビートルズのすべてのシングル盤に付き、僕が3,000枚の買い取りを保証する」と販売部に約束します。
★そのことを知らされていないディックは丁寧さを装いつつも高慢な態度でブライアンを突き返しこの発言を言い放ちます、「ビートルズは成功しませんよ。エプスタインさん。我々にはわかるんです。あなたはリバプールで立派なレコード店を経営していらっしゃる。なにがご不満なのですか」。ディック・ロウがブラインの発言を知らされていたなら、歴史はまったく違っていたかもしれません。
★冷静さを失ったブライアンは、ディックにこう言い返します、「この子たちは今に爆発的な成功を収めますよ。いずれエルビス・プレスリーより大物になると断言します」。
★後にディック・ロウは語っています、「あの時点では私はそのことを聞いていなかった。当時のレコード業界の常識を考えると、3,000枚の売上げが確実ということになれば、たとえそれが何者であっても、そのレコードを出さざるを得なかっただろう。」。ビートルズのロディ担当・ニール・アスピノールは語ります、「
‡1961(昭和36)年12月31日(日)の大晦日にロンドンに行くことになったんだ。デッカ・レコードのオーディションがあったからね。ミッドドランドのどこかで道を間違った。その大晦日が僕らのロンドン初体験だった。全員が一文無し。その上、雪が降って凄い寒いときてる。シャフツベリー・アベニューあたりに行ってみたんだ。買いたいものばかりで、目を見張ったね。角に靴屋のアネロ&ダビデがあって、洋服のセシル・ジーがあって、セント・ガイルス・サーカスでクラブに入った。退屈だからすぐに出ちゃったよ。女の格好をしている髭の生えたのがいたりしてさ。飢え死にしそうだったからレストランに入ったんだけど、僕らの持ってる金じゃスープしか頼めなかった。それで追い出されて、ソーホー行って何とかしのいだ。ロンドンはほんとエキサイティングで、全てが新しかったね。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
 ↓↓『Decca Audition Bootleg&Decca studio 3 - West Hampstead』↓↓
 ジョージは語ります「僕らがロンドンで逢ったグループが、その後『ビートル・ブーツ』として知られるようになるブーツを履いててね。そう云うブーツを始めてみたのがその時だった。先が柔らかいんだよ。チャリング・クロス・ロードのアネロ&ダビデって云う店で作られてるものだった。デッカからいつまでたっても何も言ってこない。ブライアンは何度もせっついていたんだけどね。それでも結局は断られた。おかしなことに、断ってきたのがあの手の“ダン・ド・ダン”的なバンドをやっていたトニー・ミーハンでね。彼、その頃はデッカのディレクターとして成功してた。それでも有名な話がある。ブライアン・エプスタインが彼をつかまえて、僕らを気に入ったかどうかを聞き出そうとした。『僕らは契約できるのか?』って、すると帰ってきた言葉が、『ミスター・エプスタイン、私は忙しいんです』。奴はまだ若造だったんだぜ。何年も後で知ったんだけど、彼らがあの時採用したのは『ブライアン・トレメローズ』だった。デッカの社長のディック・ロウは鋭い予想をしていたんだだ。『ギター・バンドはもう終わりですよ、ミスター・エプスタインさん』だってさ。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
 ジョンは語ります「リヴァプールに戻って待ち続けた。そしてようやく、通らなかったことが分かったんだ。『これで終わりだな』って、その時はほんとに思ったよ。『ここまでだ』って。『ブルージーすぎる』とか『ロックンロール色が強すぎる、ロックはもう過去の音楽だ』とか、いつもそう云うことを言われてた。ハンブルグでドイツの会社のオーディションを受けた時にも、『ロックやブルースはやめろ、他のものにしろ』って言われた。みんなロックは死んだと思っているんだよ。でも、間違ったのは彼らの方だよ(1977)。ポールは『今聴けばどうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。』って言うけど、テープを聴いてみて、僕ならこれで断りはしないだろうね。問題無いと思うな。後半なんて、あの時代にこれだけできれば文句ないさ。当時はああいう音楽をやっている人間はそんなに無かった(1972)。デッカはすっかり洗練されたグループを期待してたんだろうね。でも、僕らがやったのはただのデモ・テープだった。僕らの将来を見るべきだね(1967)。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
 ポールは語ります「ジョンとは少し意見が違うけど、今テープを聴けば、どうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。とはいえ、凄く面白くてオリジナリティがあるのも入ってた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
■「ビートルズ・デッカ・オーディション」とは、一般的に想像される生演奏を審査してのオーディションではなく、「権限のある」デッカ社内の人間に聞かせるためにサンプル・テープを録音するセッションの事で、内容は
 1962(昭和36)年01月01日(月)に行われた、セミプロによる失敗のほとんどない優秀な演奏であり、この驚異的な録音は1962年の彼らの熱狂を唯一感じることのできるものです。デッカ・オーディション落選後、エプスタインは、デッカ社から譲り受けた録音テープを持ち、友人であるロンドンのオックスフォード通り (Oxford Street) のHMVレコード店の店長を訪ねます。彼は、もっと簡単に再生できる方法とオープンリールのテープからレコード盤を作ることをエプスタインに提案し、エプスタインが同意しすると、すぐにそのレコード店の上にあるスタジオとプレス工房にテープを持って行きます。その録音テープを聴いたその店のエンジニアであるジム・フォイは、とても感動したと云います。エプスタインが「その内の3曲はレノン=マッカートニーの自作だ」と伝えると、フォイは音楽出版のアードモア&ビーチウッド社 (EMIの子会社) のシド・コールマンにそのことを伝え、そしてコールマンはエプスタインに出版契約をオファーします。しかし、エプスタインの優先すべきはビートルズのレコード会社への契約で、そこでコールマンはエプスタインとパーロフォン・レコード (Parlophone Record) のA&Rのトップを会わせる手はずを調え、これによりブライアン・エプスタインとEMI傘下のパーロフォン・レコードのヘッドであるジョージ・マーティン (George Martin)との面談が実現します。ジョージ・マーティンは、
 1962(昭和37)年05月09日(水)にブライアン・エプスタインと会談した際、ビートルズとレコーディング契約を結ぶことを承諾しますが、実際にサインするのは彼らを見聞してからだとエプスタインに告げます。デッカの録音を聴き、かなり興味を感じたマーティンが、アビー・ロードでのオーディションをエプスタインに申し入れることとなったわけです。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■
<1962(昭和37)年06月05日(火)>ロンドンのアビイ・ロードにあるE.M.I.・スタジオ (Abbey Road Studios) での翌日午後7時からのレコーディング・セッションの前日、ビートルズはEMIレコーディング契約成功させるために、交通渋滞や悪天候など、あらゆる可能性を排除するためリヴァプールからロンドンに向けて車で出発させ、その夜にはロンドン市内に到着宿泊します。
<1962(昭和37)年06月06日(水)>この日が、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日になります。アビイ・ロード第2スタジオで午後7時~10時に行われたこのレコーディング・セッションは、所謂オーディションのようなもので、オーディションのメンバーである、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ピート・ベストの4人は多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、本番の演奏を始め、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順に4曲、テープに収めます。但し、正確なテイク数は現在でも分かっていません。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■ノーマン・スミスは語ります、「ビートルズの印象はルックス以外はあまりよくなかった。つまりジョンとポールのソングライターとしての資質はまったく聴き取ることはできなかった。彼らはちっぽけなVOX社製のアンプとスピーカーを持ってたが、それらは楽器の源音を再生できていなかった。言うまでもなくすべての音響技師はあるレベルの源音を欲しがる。それさえあれば後でいくらでも改良したり効果を加えたりできるからね。しかし僕らがビートルズの装置から得たものは大量のノイズやハム、あと正体不明の音だけだった。ポールの装置は最悪だった。その頃は残響を付加するために残響室 (echo chamber) という部屋があったが、僕は彼の音をなんとかテープに収められるレベルにするのに、第2スタジオの残響室にあったアンプとスピーカーを引っぱり出さなければならなかった。また、ジョンのギターアンプが振動してカタカタ鳴るのを、僕らは実際にひもで縛って止めた。それからピート・ベストのドラムのシンバルにも確か問題があったと思う。でも最終的に何とかすべてを整頓し、やっとのことでレコーディング開始にこぎつけた。」。
 写真◆左からリチャード・ランガム、ノーマン・スミス、ジョージ・マーティン
 https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-decca-audition/

 ザ・ビートルズ “イエスタデイ” カタログ・キャンペーン実施!
 2019(令和元)年10月11日(金) 映画『イエスタデイ』公開に合わせて、ザ・ビートルズのカタログ23タイトルをお求めやすい価格で期間限定発売。
 2019(令和元)年10月02日(水)~
‡2019(令和元)年12月末(火)まで期間限定発売(既発タイトルと同内容になります)
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 ┃ 『IMAGINE イマジン』 ┃
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 1972(昭和47)年12月23日(土) released
 2020(令和二)年12月04日(金)より全国拡大公開決定! 生誕80周年の日本最終上映
 ジョン・レノン生誕80周年記念上映 ジョン&ヨーコが1972年に発表したアルバム『イマジン』のイメージ映像集
 劇場上映版日本初公開 劇場上映盤のみ<ドルビーアトモス+未発表映像を含む約15分の特典映像>
 多くのリクエストに応えて再上映が決定しました!ドルビーアトモス/ドルビーサウンドで体験できるラストチャンスです。劇場情報はTHEATERSでご確認ください。
  https://www.universal-music.co.jp/johnlennon-imaginefilm/
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 ┃ 『IMAGINE イマジン』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━┛日本語字幕
 2020(令和二)年12月04日(金) 宮城 チネ・ラヴィータ 12:20 / 20:40~22:10終
 2020(令和二)年12月10日(木) 宮城 チネ・ラヴィータ
 2020(令和二)年12月04日(金) 埼玉 MOVIXさいたま 11:20 ~ 終12:55 *ドルビーアトモス上映
 2020(令和二)年12月10日(木) 埼玉 MOVIXさいたま *ドルビーアトモス上映
 2020(令和二)年12月04日(金) 東京 立川シネマシティ 14:05 / 21:05 *極音上映
 2020(令和二)年12月10日(木) 東京 立川シネマシティ *極音上映
 2020(令和二)年12月05日(土) 神奈川 横浜シネマリン
 2020(令和二)年12月11日(金) 神奈川 横浜シネマリン
 2020(令和二)年12月05日(土) 神奈川 あつぎのえいがかんkiki
 2020(令和二)年12月11日(金) 神奈川 あつぎのえいがかんkiki
 2020(令和二)年12月18日(金) 茨城 シネマサンライズ
 2020(令和二)年12月24日(木) 茨城 シネマサンライズ
 2020(令和二)年12月04日(金) 茨城 イオンシネマ守谷 10:15 / 19:00
 2020(令和二)年12月10日(木) 茨城 イオンシネマ守谷
 2020(令和二)年12月19日(土) 栃木 宇都宮ヒカリ座
†2020(令和二)年12月31日(木) 栃木 宇都宮ヒカリ座
 2020(令和二)年12月11日(金) 栃木 小山シネマロブレ
 2020(令和二)年12月24日(木) 栃木 小山シネマロブレ
 2020(令和二)年12月05日(土) 石川 シネモンド
 2020(令和二)年12月11日(金) 石川 シネモンド
 2020(令和二)年12月04日(金) 静岡 静岡東宝会館 09:30 / 13:20 / 17:05 / 20:55
 2020(令和二)年12月10日(木) 静岡 静岡東宝会館
 2020(令和二)年12月04日(金) 愛知 ミッドランドスクエア シネマ 11:55 / 20:50~22:20終 *ドルビーアトモス上映
 2020(令和二)年12月10日(木) 愛知 ミッドランドスクエア シネマ *ドルビーアトモス上映
 2020(令和二)年12月04日(金) 京都 MOVIX京都 Dolby Cinema 11:15~12:50終 *ドルビーアトモス上映
 2020(令和二)年12月10日(木) 京都 MOVIX京都 Dolby Cinema *ドルビーアトモス上映
 2020(令和二)年12月04日(金) 兵庫 塚口サンサン劇場 12:00 / 20:00~21:30終 *特別音響上映
 2020(令和二)年12月XX日(金) 兵庫 塚口サンサン劇場 ~終了日未定
 2020(令和二)年12月04日(金) 兵庫 シネ・ピピア 日本語字幕12:15 / 16:15
 2020(令和二)年12月10日(木) 兵庫 シネ・ピピア 日本語字幕
 2020(令和二)年12月04日(金) 岡山 シネマクレール丸の内 15:20 / 20:45
 2020(令和二)年12月10日(木) 岡山 シネマクレール丸の内
 2020(令和二)年12月04日(金) 広島 八丁座 壱・弐 082-546-1158 19:10~20:45終
 2020(令和二)年12月10日(木) 広島 八丁座 壱・弐 082-546-1158
 2020(令和二)年12月04日(金) 香川 イオンシネマ宇多津 09:45 / 14:45 / 18:30 / 20:35
 2020(令和二)年12月10日(木) 香川 イオンシネマ宇多津
 2020(令和二)年12月04日(金) 沖縄 シネマQ *ドルビーアトモス上映
 2020(令和二)年12月10日(木) 沖縄 シネマQ *ドルビーアトモス上映
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 2020(令和二)年12月08日(火) 青森 フォーラム八戸 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 岩手 フォーラム盛岡 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 山形 フォーラム山形 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 福島 フォーラム福島 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 東京 新宿ピカデリー ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 栃木 MOVIX宇都宮 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 群馬 MOVIX伊勢崎 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 大阪 なんばパークスシネマ ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 兵庫 神戸国際松竹 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 鳥取 MOVIX日吉津 ワンナイト上映
 2020(令和二)年12月08日(火) 山口 MOVIX周南 ワンナイト上映
 特別上映につき鑑賞料は一律2300円、ドルビーアトモスは別料金
※上映劇場・時間が変更となる場合がありますので、鑑賞の前に必ず劇場にご確認ください。
※終映時間が23:00を過ぎる回は、18歳未満入場不可となります。
※作品名の後にあるマークは映倫による区分マークです。マークの詳細についてはこちらをご覧ください。
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 https://eigakan.org/theaterpage/schedule.php?t=imagine
 https://en.wikipedia.org/wiki/Imagine_(1972_film)
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 ジョン・レノン没40年 先進の音楽と男女の関係 先んじて見せた21世紀
 2020(令和二)年12月03日(木) 17:37配信 産経新聞
 写真◆ジョン・レノン(左)が夫人のオノ・ヨーコ(右)と示した生き方は、新たな夫婦関係そのものだった Photo by Iain Macmillan(C)Yoko Ono
 英のロックバンド、元ビートルズのジョン・レノンが米ニューヨークで凶弾に倒れたのは1980年12月8日。間もなく40年、存命なら80歳になっていた。今年はビートルズの解散から50年の節目でもあり、展覧会の開催や映画の上映など、レノンの足跡を再確認する動きが盛んだ。20世紀最大のロックスターは音楽と、21世紀にも共通する課題の中を生きていた。(石井健)1940年、英リバプールに生まれたジョン・レノンは、17歳の頃に友人らとバンドを結成。後にポール・マッカートニー(78)らが加わり「ビートルズ」が形作られていく。東洋文化にも関心の深かったレノンは、69年に日本人アーティストのオノ・ヨーコ(87)と再婚。ビートルズでもソロでも多数のヒット曲を送り出し、若者の文化、生き方に大きな影響を及ぼした。仕事の帰りに、ニューヨークの自宅前でファンを名乗る男に銃で撃たれ、衝撃の死を迎える。40歳だった。
■19歳も「あこがれる」■ソニーミュージック六本木ミュージアム(東京)で今、「ダブル・ファンタジー ジョン・アンド・ヨーコ」展(来年1月11日まで)が開かれている。レノンとヨーコ夫妻の足跡を貴重な写真などでたどるものだ。主催のソニー・ミュージックエンタテインメント(東京)によると、来場者の中心は30~40代の女性。11月からは20代の男女も増えたという。「イマジン」や「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」といった名曲の数々は、日本のミュージシャンにも大きな影響を与えた。カバー曲は多数、歌詞にレノンを登場させた曲も枚挙にいとまがない。レノンの音楽は、ヨーコとの夫婦関係やベトナム反戦運動など、「生き方」とも深くつながっていた。「音楽家を超えて社会に向かって発信する姿に刺激を受ける。とても大きな存在。こんなふうに生きたい」。レノンへのあこがれを口にするのは、甲田まひる。19歳。インスタグラムで注目されたモデルで、ジャズピアノ奏者でもある。ユーチューブでレノンの動画を見るが「古さはない」という。SNS世代ならではの感覚で、レノンが残したものを受け止める。
■音楽と、人としてのあり方と■音楽評論家の湯川れい子(84)は「ビートルズが残した足跡は、いまなおポピュラー音楽の世界で最大」と話す。だが、レノンについては、音楽以上に「近年になって論じられる夫婦や男女のあり方、ジェンダーレス(性差がないこと)を半世紀前から実践していたことに大きな意義がある」と指摘する。例えばレノンは76年から足かけ5年、音楽の仕事をやめて育児に専念。当時は奇異の目で見られた。レノンは親交のあった湯川に「育児に必要なのは、愛と関心と食事だ」と話した。「20世紀の男性でそんなことを理解していたのはジョンだけ」と湯川は言う。ヨーコは湯川に「私たちは洋の東西、男と女、宗教などあらゆる『違い』について徹底的に話し合い、相互理解に努めた。そうやってたどり着いた夫婦の形が『ジョンとヨーコ』なのよ」と話したことがあるという。対立や分断とは正反対の存在がジョンとヨーコ。若い世代が共感するのも、こうした音楽を超えた部分なのかもしれない。
■映画「IMAGINE」4日公開■
 2020(令和二)年12月04日(金) 4日から全国で順次公開される映画「IMAGINE〈イマジン〉」は、レノンの名作アルバムの世界を映像化した。ユーモアのセンスが独特で戸惑う場面も多いが、夫妻の素顔をとらえている。10月には、ビートルズ解散後の代表曲36曲を集めた2枚組みCD「ギミ・サム・トゥルース.」も発売されている。一方、ビートルズ時代の盟友、ポール・マッカートニーは、精力的な音楽活動を続けている。18日にはアルバム「マッカートニーIII」を発売。英国の最初のロックダウンの時期、コロナと闘ううちに創作意欲に火がついた。シンプルだが重々しい響きのロック曲や思索的な弾き語りなどが聴ける。
◎ジョン・レノンの神格化には驚くばかりだ。平和や愛や家族といったキーワードで語られるが、その前に音楽家ジョン・レノンをきちんと語るべきではないか。彼のボーカリストとしての実力と魅力を語るべきではないか。コンポーザーとして類い稀な能力を語るべきではないか。どうしてイマジン以降のジョン・レノンしか見ようとしないのだろうか?きちんとジョン・レノンを検証すれば、ビートルズ解散後の彼のボーカルは声質が細くなり、作曲能力も彼曰く「ミューズに見放された」と言わしめたほど大きなスランプ状態に落ち入っていた果てのハウスハズバンド時代であったことは容易に知ることができる。記事ように21世紀を先取りしたようなモノでは無かったはずだ。
◎自分が高校生のときジョン・レノンは撃たれて亡くなった。信じられなかった。イマジンで英語を覚え、カセットテープに歌を録音して聴いた。社会人バンドでハッピークリスマスをアコースティックギターで演奏した。三連譜が意外に難しかった。僕らの世代ではジョン・レノンの存在は、生きていても死んでいても、余りに自然で当たり前で、単なる音楽家を超えていた。あの事件から40年も経つのかぁ。自分も歳を取ったし、ジョン・レノンも少し前の音楽家になった。
◎John には もっと長生きして、Julianに「愛と関心」を示して欲しかった。Seanにしたのと 同じに。一方は「愛と関心」に溢れ、もう一方は それを感じなかった。Julianに「父さんにとって、自分は関心の無い子供 に感じた。」なんて言わせて... 最低限の援助しかしなかった... そんな事があっても 弟を大切にしている Julian と、彼を支え続けた Cynthia に一言詫びて欲しかった。John、Julianは 優しい 素敵な人に 育ったよ。今、あなたの言葉を信じて、子供達と 地球環境の為の仕事をしている。もちろん、音楽も!
◎母のいない幼少期を過ごし、ビートルズとして成功をおさめ母と再会した直後に事故で失くしてしまっている。家庭に愛を求めていた彼は早くに結婚したが失敗してしまった。そんな彼を救ったのがヨーコさんなのでしょうね。彼女と出会わなかったらどうなったかなんて思うこともあるけどね。「Double Fantasy」の中の「Beautiful Boy」をポールがジョンの新しい面が出てると絶賛していた。また新たなジョンが生まれたのではないかな。未来ではなく今を大切にしてた人だと思います。
◎トップコメントの方もおっしゃってますが、彼は愛と平和の聖人というような人ではなく、常に葛藤を抱えた一人の優れたミュージシャンという存在だったと思います。一時はかなり荒れた私生活を送っていましたし、ヨーコさんに依存し過ぎてまるで従者のようだと皮肉られた事さえあります。亡くなってから何年もこの時期になると「イマジン」ばかりが流され、違和感を覚えた人も多いはずです。ジョンは平和を愛する「イマジン」だけの人ではないでしょう?、と。
◎先日の湯川れい子のFM特番で、80年12月4日の小野洋子への電話インタビューやってた。ジョンが「こんにちは」と英語話者らしからぬ上手い発音で電話口に出て、1分くらい「75年から78年まで毎年日本に来てて、79,80は来れなかったけど、次は北海道とか小野家のルーツの鹿児島にも行きたい旨」を話してた。あと、最後に湯川から小野への業務連絡が面白かったw
◎Seanが英語でしゃべらナイトに出演したとき、海外からのコメントは「アメリカにいる時と違ってお行儀が良い」実はSeanも両親から沢山の愛情を受けて立派に育っている
◎今でも新鮮なビートルズの曲の数々、ソロになってもレノンマッカートニーでも、素晴らしい歌詞と音楽。天才ですね。当時色々言われたヨーコ氏の影響力ももっと評価して良いと思います!
◎ジョンは大好き。だけど白状する。イマジンがそれほどいい曲とは思えない。その10倍くらいアクロッスザユニバースの方が優れていると思う。
◎>ファンを名乗る男に銃で撃たれ
 40年前、タカ派大統領が就任して、その関係者がジョンレノンの活動再開を快く思っていなかった、という説の真相は結局のところどうだったのでしょうか。
◎THE BEATLES | カムトゥゲザーでシュートミー(俺を撃て)とコーラスしてるね。レノンは偉大な音楽家だよ。マッカートニーがいてこそあそこまでに。二人は偉大だ。化学反応みたいなもんだろうね。
◎一言おじさん | 産経は保守を代表するオピニオンリーダーのつもりなんだろう? フェミニズムで行くか、ナショナリズムで行くか・・・今回はどっちにしとこうかなあ・・・などと、フラフラするんじゃない!!
◎そもそも驚くほどへたくそな日本語による記事。レノン以前の問題だわ。もし、記者や会社がそう思ってないなら...んー。
◎ガールが好きですね。曲もいいし、ボーカルが秀逸。
◎ジョン・レノンの育児に関しては欠片も評価する気になれない。ジュリアンって知ってるか?って言いたくなりますね。
◎ジョンの影響力は絶大だ、だから国際金融マフィアに地球が支配されていることを暴露し始めて 消されたんだよ マイケルも尾崎豊もおんなじなのさ。
◎Wings Fan | 平時だったら、絶対に行っているだろうなぁ
◎SUPER BAKA HUNTER | ビートルズは別に好きではなかったが、僕と同じ中学で頭がいいのに僕と同じ偏差値の低ーい高校に来た同級生のある男子がビートルズが好きでとりわけジョン・レノンの大ファンだった。あの日
 1980(昭和55)年12月09日(火) 12月8日の翌朝、駅で少し離れた場所から彼を見かけて元気よく「おはよう!」と声をかけるも反応なし。下を向いたままで何か様子がおかしい。近づいて、どうした?と話しかけると下を向いたままの彼は人目も憚らず大泣きしていた。そして涙を流しながら手に持っていた東スポを差し出した。<ジョン・レノン射殺>の大きな見出しがトップ記事にデカデカと。ショックだった。言葉にならない彼は、ただ泣きながら立ちすくんでいた。僕も一緒に泣いた。あの時のあいつの涙は一生忘れない。同時にあいつの大好きだったジョン・レノンの素晴らしい歌を聴く度にあいつの気持ちがわかったような気がする。
◎今も 声が、私の身体に しみている 一人。
◎the sun will never disappear but the world may not have many years..isolaion...social distance
 https://news.yahoo.co.jp/articles/e89b5424932ec147cc536304dd43d5b279f43220

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