過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1966(昭和41)年 9月 5日(月)|「自分探し」の映画出演
 |2009(平成21)年 9月 4日(金)|甲虫日記更新日 No.057
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1966年はビートルズの転換期になった。レコーディングの常識を覆した意欲作「REVOLVER」を発表すると、8月の米国公演を最後にツアー活動はやめた。11月にスタジオ活動を再開するまで、4人は勝手気ままに散らばっていた。
ジョージはシタール修業のためインドへ、ポールは映画「ふたりだけの窓」の曲づくり、リンゴは家族旅行。そしてジョンは9月5日、西ドイツのハノーバー郊外ツェレにある北大西洋条約機構(NATO)の戦車演習場へ向かった。リチャード・レスター監督の映画「HOW I WON THE WAR(僕の戦争)」の撮影に単独で出演するためだった。
作家パトリック・ライアンの小説をもとに、戦争賛美のこっけいさをコマ切れのシュールな作風に仕上げた反戦映画であった。ジョンの演じるグリップウィールド2等兵は、中尉付きの少し臆病(おくびょう)な兵士だった。
「『はい、中尉。いいえ、中尉。もちろんです、中尉』と将校の面倒をみるためにはいつくばる男」とジョンは説明している。
その中尉率いる英国軍の分隊は、敵方後方100地点にクリケット場を造る任務を命じられる。この映画のクライマックスでジョンは砲弾に倒れる。
「こうなることは予想していた」と腹を押さえながらうめく。続けてカメラに向かってひと言、「君たちもそうだろう?」。
ツェレ到着の翌日、ジョンは役づくりのため長くて美しい巻き毛を軍隊カットに刈り上げた。鼻の上には、丸くて縁がワイヤになった国家医療制度推奨の丸眼鏡が乗っかっていた。崇拝されるポップ・スターとはまるで正反対の醜い姿がマスコミに報じられると、世界中の若者がこの眼鏡をかけるようになった。
映画出演を引き受けたのは、エルビス・プレスリーのように、俳優としてのキャリアをスタートさせようとはしたからではない。映画「HELP」などの監督を務めたレスターの頼みだったからだ。むしろ「反戦映画」自体に興味をもっていた。
前段がある。65年後半、ポールは92歳で精力的に平和活動に取り組んでいた哲学者バートランド・ラッセルにチェルシーの自宅で会った。著書を読み、その荘厳で明確な思想に感銘を受けていたポールは、「ベトナム戦争は米国が自国の既得権のためだけに戦っている帝国主義的な戦争で、この戦争には反対すべきだ」という話を聞かされ感銘する。ポールから報告を受けたジョンは、すごく興味を持ったというのだ。
この年の夏、米国公演の記者会見でベトナム戦争について質問されたジョンは、「僕たちは毎日、そのことを考えている。いくら考えてもどうも好きになれない。賛成しかねるね。やはり間違っていると思うよ」と述べている。
ロック・グループが政治的立場を明確に打ち出す先例はなかった。英国の歴史家エリック・ホブスバウムによると、当時の英国人はベトナム戦争を「間違っている」と思っても「毎日考えている」ことはなかったという。だが、ジョンのようなラジカルな考えは希少な部類に属し、世間では戦争賛美の映画がまだ好まれていた。
66年6月、ビートルズが最後のワールド・ツアーにでかけるころ、米軍は初めてハノイ(当時の北ベトナムの首都)を爆撃した。米国内の反戦運動は徐々に広がりをみせていた。
「僕の戦争」では、全身に色が塗られた戦死者が再登場する。戦死者にも階級のように差別があることを批判する意欲作である。しかし、英国人でありながらファシズムに対する戦争とベトナム戦争を区別せずに描いたことは、致命的な失敗だった。
ロンドン・パビリオンで公開された最初の週には、極右政党「国民戦線」が映画館で発煙弾を爆発させる騒ぎが起きた。「ジョン・レノンがギターを弾いていない」と怒り出して席を立つ観客もいた。
 ◎思い悩むジョンのところに… 次のページへ
ジョンが映画に出演した最大の理由は、「レノン的自分探し」だったと考えていい。「何かほかの分野で自分の才能を見つけたい思いもあった。変化のため何かをしてみたい気分になっていたら、ちょうどその時にこの話が持ち上がった」
ツアーをやめたジョンには、やることがみつからなかった。「ステージがなければ生きている意味がない」と初めて実感した。同時に「何とかしてここから抜け出さなきゃいけない」と、もがいていた。
「ビートルズのない生活がどんなものなのか、どうすればやっていけるのか、まるで考えられなかった」ジョンが答えを求めたのはバンドを抜けることではなく、「ビートルズが終わったら自分は何をやるか」という問いだった。自分から抜けていくのは不安だった。
追加の撮影が
9月19日から11月6日までスペイン南部カルボネラスで行われた。この地で名曲「Strawberry Fields Forever」を手がけた。人生の壁にぶつかったとき、少年時代の回想を郷愁たっぷりに歌い込んだ曲ができあがった。
共演した中尉役のマイケル・クロフォードは、撮影期間中、浜辺とベッドの上でギターを持つジョンの姿をよく目にしたという。
「たまらないほど素晴らしい響きじゃないか」と声をかけると、ジョンは「確信が持てないな……確信が持てないんだ」という言葉を続けていたという。
そんなとき、相棒ポールのアドバイスを求めていたのだろうか。
撮影が終わり、マドリードから飛行機で戻ってから2日後、ジョンはロンドンのインディカ・ギャラリーを訪れる。そこで運命の人、オノ・ヨーコと出会う。
 ◎『この日のビートルズ』の次回は9月19日(更新は18日)です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒ 映画「HOW I WON THE WAR」は英国でアヴァンギャルドな作品として扱われた。日本では「大勝利」という邦題までつけられたが、公開は見送られ、何度かテレビ放映されたのち。現在は「ジョン・レノンの僕の戦争」のタイトルでDVDが発売されている。
映画「ジョン・レノンの僕の戦争」
2009年7月3日  20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/090904.html
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 ┃    『THE BEATLES Interviews Database』    ┃
①┃ 163 Beatles interviews & press conferences ┃
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‡1966(昭和41)年10月29日(土)
‡No.102(22) 1966-10-29(sat) Lennon / Carboneras, Spain (3 photos) Fred Robbins interviews John Lennon from the set of his new film. 
 Lennon Interview: Carboneras, Spain with Fred Robbins 10/29/1966
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 1966(昭和41)年12月13日(火)
 No.105(25) 1966-12-13(tue) Lennon / Look Magazine (10 photos) Behind the scenes with John Lennon on the "How I Won The War" film set. 
 John Lennon Interview: Look Magazine 12/13/1966
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 ①http://www.beatlesinterviews.org/db1966.1029.beatles.html
 ②http://www.beatlesinterviews.org/db1966.1213.beatles.html
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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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 |1962(昭和37)年10月 5日(金)|「レコード・デビュー曲♪ラヴ・ミー・ドゥ♪発売」
 |2007(平成19)年10月 5日(金)|甲虫日記更新日 No.009
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1962年10月5日、ビートルズの記念すべき英国デビューのシングル盤レコード「ラヴ・ミー・ドゥ/P.S.アイ・ラヴ・ユー」が発売された。
コアなファンには周知の事実だが、A面の「ラヴ……」には3種類の公式バージョン(版)がある。ほとんどの人が耳にしている版で、リンゴはドラムスではなくタンバリンを演奏している。そして、B面の「P.S.……」でドラムスを担当しているのは熟練セッション・ミュージシャンのアンディ・ホワイトで、リンゴはマラカスを振っているだけだ。
こうなった原因は、録音を指揮したEMIのプロデューサー、ジョージ・マーティンの考えによるところが大きい。
デビュー・シングル発売に向けた録音は、62年6月6日、9月4日、同11日の計3回行われたが、3回ともドラム担当者が違っている。正確なテンポを刻むドラム演奏に慣れていたジョージ・マーティンの「耳」を、若きピート・ベストもリンゴもすぐには満足させることができなかったからだ。
ビートルズがEMIで初めての録音に臨んだ6月6日、ピートがドラムをたたいた。この版は、95年11月世界同時発売の「アンソロジー1」に収録されてようやく日の目を見る。全体にテンポは遅く、サビと間奏でシャッフル系からエイト・ビートにリズムが変わるなど不安定な演奏だ。
ジョージ・マーティンは録音が終わるとピートを部屋の隅に呼び、「次はスタジオ・ミュージシャンを雇う」と告げた。当時はセッション専用のドラム奏者を使うことは珍しくなかった。
8月にピートはビートルズを解雇される。ジョージ・マーティンの指摘が自然と最終的な方向を突いていたのは確かだが、解雇の理由ではない。ピートの母に電話で釈明した内容から、マーティンの基本的な考え方が伝わってくる。
「ピートを辞めさせなければならないとは言っていない。ビートルズの最初のレコードだから、セッション・ミュージシャンを使ったほうがいいと思うと言っただけで……。それにファンというのはドラム演奏の質には特別の注意を払いません」
2回目の録音があった9月4日、新メンバーのリンゴがドラムスを担当した。ところが左利きなのに右利き用のキットを使っていたリンゴは、ロール演奏がうまくできなかった。どうしてもビートが速くなったり遅くなったりする。この日は、スティックではなくマラカスでハイハットを刻む妙なテクニックも試みた。
そのときジョージ・マーティンには、リンゴの本当の実力が分からなかった。ビートルズと危険を冒す心構えもできていなかった。ポールに「リンゴはやめよう。このレコードでは別のドラマーを使いたい」と告げた。
3回目の録音の日、スタッフの記憶によればリンゴはスタジオにあったドラムに触ってもいない。スタジオに行くと「プロのドラマーがいるから」と言われ、静かにコントロール・ルームで座っていた。そのうち「ラヴ……」でタンバリンを担当し、「P.S.……」ではマラカスの演奏を頼まれた。
いよいよデビューという段階になって双方に歩み寄りがみられた。最初にシングル盤として発売されたバージョンは、タンバリンが入っていない「リンゴ」版に決まった。
マネジャーのブライアン・エプスタインは自分が経営するレコード店で1万枚注文したり、BBCとラジオ・ルクセンブルクに手紙を出すキャンペーンを仕掛けたりした。英国のヒット・チャートで最高位は17位。
ところが、63年3月発売のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」では「アンディ」版が収録された。このころからEMIは「アンディ」版を正式版扱いにし、シングル盤やEP盤も「アンディ」版に差し替えている。ベスト盤「ビートルズ1962―1966」(通称・赤盤)にも「アンディ」版が収録されている。
一方、リンゴが演奏した版は珍品扱いとなった。解散後に発売された編集盤「ビートルズ・ボックス」と米国盤「レアリティズ」に収録されたが、2作ともCD化はされていない。英国で最初に発売された、センターレーベルが赤色のドーナツ盤は、いまや収集家にとって垂涎(すいぜん)の的だ。
「リンゴ」版の原盤は長らく「紛失した」とされていたが、デビュー20年後に「発見」され、82年11月に「アンディ」版と組み合わせた12インチ・シングル盤で発売された。いまはCDアルバム「パスト・マスターズVOL1」で聴くことができる。
さて、ジョージ・マーティンにドラマーを降ろされたリンゴは、そのことを何年も恨んでいた。内心は「ピートの次はおれか」と相当焦っていたはずだ。マーティンから何度か謝罪を受けたというが、アンソロジー(本)では「完全に許しちゃいないからね」と記している。
98年に発売されたリンゴのソロアルバム「ヴァーティカル・マン」には、いまやロック・クラシックにもなった「ラヴ……」が収録された。ジョンの代わりにスティーヴン・タイラーがハーモニカを担当。リンゴは、昔年の恨みを晴らすかのようなパンチの利いたドラミングにあわせ、実に心地よさそうに歌っている。
 ◎お知らせ ⇒ 本文中に登場するアルバム
「アンソロジー1」1992.6.24発売 EMIミュージック・ジャパン
「プリーズ・プリーズ・ミー」1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン
「ビートルズ1962-1966」1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン
「パスト・マスターズVOL1」1998.3.11発売 EMIミュージック・ジャパン
「ヴァーティカル・マン」1998.6.29発売 EMIミュージック・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/071005.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━┓‡1968/9/4(wed) filmed
 ┃ 『Frost On Sunday』  ┃ 1968/9/8(sun) broadcast
 ┗━━━━━━━━━━━━┛ Performance on the David Frost TV show,『Frost On Sunday』, singing ♪HEY JUDE♪ (filmed September 4, 1968).
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 ┃  ♪HEY JUDE♪  ┃リンゴかグループに戻った日に
 ┃ ♪REVOLUTION♪ ┃♪HEY JUDE♪と♪REVOLUTION♪
 ┗━━━━━━━━━┛のプロモビデオを撮影。♪REVOLUTION♪にはプロモフィルムが存在する。これは♪HEY JUDE♪と同じく、ヴォーカルだけはライブの物で演奏はオケである。しかし♪REVOLUTION 1♪でやってた「シュビドゥワ」のコーラスが入っており、ジョンも「count me out....in」と歌っている。・・・・・自分たちでもどっちがどっちかゴッチャになってたんじゃないのか?wwこのプロモビデオが撮影されたのは1968年9月4日。後にあの『GET BACK session』が開始されるトゥイッケナム・フィルム・スタジオである。しかも、この撮影日までリンゴはグループを一時脱退していたのだった(詳細は♪BACK IN THE U.S.S.R♪の項で)
  Twickenham Film Studios. Filming of clips for ♪HEY JUDE♪ and ♪REVOLUTION♪. 
  Ringo returns to THE BEATLES.
  David Frost records the introduction for the clip of ♪HEY JUDE♪, to present it later on his program『Frost On Sunday』.
 ‡1968(昭和43)年9月4日(wed)
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 https://beatlesdata.info/16/08_revolution.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/Revolution_(Beatles_song)
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 ┃ THE BEATLES on film and television  1968 ┃
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‡(wed)04 September 1968 ♪Hey Jude♪/♪Revolution♪ Promos  The band spent the day at Twickenham studios recoring a number of live performance promos for 'Hey Jude' (at least 3 versions) and 'Revolution' (at least 2 versions). David Frost also filmed a segment to act as an intro to the film on his show. 
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 ┃ THE BEATLES TV Appearance Photos Quick-Reference Guide 1962-1970 ┃
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 (sat)24 August   1968『Frost On Sunday』(interview)
‡(wed)04 September 1968『Frost On Sunday』♪Hey Jude♪
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 http://www.tvtalkin.esy.es/fab4tv/1968.htm
 http://www.beatlesource.com/TV/index.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ The Savage Young Beatles 1950s 1962 ┃
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‡(tue)4 September 1962 Speke Liverpool Airport London
 Photographer: unknown 
 The Beatles depart Liverpool for London and their first real recording session at E.M.I. Note that George is sporting the "shinner" he received from an irrate fan a few days earlier at The Cavern.
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②┃ The Savage Young Beatles 1950s 1962 ┃
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‡(tue)4 September 1962 E.M.I. Studios Abbey Road NW8 London
 Photographer: Dezo Hoffmann
 This was The Beatles second E.M.I. recording session and Ringo's first. Actually, it was The Beatles' first REAL sesion. The first session on 6 June 1962 was essentially just an audition. The session began with rehearsals for a potential single as well as an audition for Ringo (this was the first time George Martin had met him). These photos were likely taken during the rehearsals. Actual recording took place during the evening. This session produced the A-side of their debut single, "Love Me Do" (the Ringo version) and "How Do You Do It" which remained unreleased until 1995 on『The Beatles Anthology 1』The Anthology version is edited. Here is the original unadulterated version.
 サウンド出る■♪How Do You Do It♪
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 ①http://www.beatlesource.com/savage/1962/62.09.04%20airport/62.09.04airport.html
 ②http://www.beatlesource.com/savage/1962/62.09.04%20emi/62.09.04emi.html
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 ┃ Summer 1963 UK Tour“THE BEATLES SHOW” ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.65 (wed)04 September 1963 Worcester, England, Gaumont 
  Note・・・今日からパンフレットが一新(?)して青表紙から紫陽花色?に変更されましたヨ(=^◇^=)。なお、この情報は、必ずしも正確とは言えませんが一概に間違いともいえませんヨ(=^◇^=)ゞ
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 ┃ Summer 1964 United States & Canada Tour ┃THE BEATLES SHOW
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‡No.13 (fri)04 September 1964 Milwaukee, United States, Milwaukee Arena 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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  ┛THE BEATLES 1962 Recording Sessions ┛Studio 2
 ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00-10:00pm
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①┃ ♪HOW DO YOU DO IT? (恋のテクニック)♪  ┃takes unknown
①┃              ♪LOVE ME DO♪  ┃takes 1-15+
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛No.2 ドラマーはリンゴ・スター。この日はビートルズのデビューシングルになるはずだった「How Do You Do it」を録音するためのセッションだった。この曲は他の作家の手によって書かれたナンバーで、ビートルズの為に用意された楽曲である。録音を終えた後、ビートルズは「やっぱり、オリジナルで勝負したい」と申し出て、再度「ラヴ・ミー・ドゥ」に着手する。この日は結局15テイク以上、録音した「How Do You Do it」は後に、「The Beatles Anthology 1 」に収められている。
  Note・・・1962年9月04日 リンゴ・スターバージョン このバージョンは『PAST MASTERS vol.1&2』に収められている。マスターテープが破棄されていたために、このCDが発売される際にはレコード盤からマスターを起こしたそうである。
  Note・・・1962年10月5日 このシングルはリリースされたが、最初のリリースは9月4日のリンゴバージョンであった。しかし、翌年になってから発売されたこの曲はすべて9月11日のアンディバージョンに差し替えられた。マスターテープの混乱を避けるために、リンゴバージョンは早々と破棄されたそうな。よって、このアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー 」に収められているのはアンディバージョンである。
  2:30-5:00pm Ron Richards leads a rehearsal of six songs, 
        including ♪HOW DO YOU DO IT?♪, ♪LOVE ME DO♪, ♪PLEASE PLEASE ME♪.
  5:30-7:00pm Restaurant Alpino. Dinner of the Beatles with Neil Aspinall and George Martin.
     ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛
     ┛THE BEATLES 1962 Mono mixing ┛Studio 2
     ┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛┛7:00-10:00pm
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
①┃ ♪HOW DO YOU DO IT? (恋のテクニック)♪  ┃from take 2
②┃              ♪LOVE ME DO♪  ┃from unknown take number
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
  First session for the first single. Remixes for cutting acetates
  Producer: George Martin
  Engineer: Norman Smith
  2nd Engineer: unknown
 ‡1962(昭和37)年9月4日(wed) 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1995/11/20(mon) UK
③┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』 ┃1995/11/21(tue) JP、US
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 〇Disc one〇
 23.♪How Do You Do It♪ (mono) 4 September 1962 EMI Studios 1:57 
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓1995/11/20(mon) UK
③┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 1』 ┃1995/11/21(tue) JP、US
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 〇Disc one〇
 23.♪How Do You Do It♪ 62.9.4. デビュー・シングルのセッションで録音された曲。マーティンが用意した、ミッチ・マレーというソング・ライターの書いた曲で、マーティンがこの曲をデビュー・シングルにしようとした、しかしビートルズの4人(ここから、ようやくリンゴ参加)は、頑なにオリジナルでいきたいと主張、デビュー・シングルはLove Me Doとなり、この曲は幻のデビュー・シングルとなった・・・。この辺のエピソードは、 あちこちで語られていることなので、既にお馴染みだろう。事実、この曲はロック的な要素の全くないポップ・ソングで、確かに「売れ筋」かもしれないが、ビートルズには不似合いに思われる。4人も「やる気なさそうに演奏した」そうで、本当にノリは悪い。ただし、サビのバック・コーラスなどはビートルズならではのものがあり、「やる気がない」中でもちゃんと自己主張しているあたりに意地のようなものを感じる。 結局、この曲は後にリバプール出身で、エプスタインのマネージメント、マーティンのプロデュースでデビューするジェリー&ザ・ペイスメイカーズのデビュー・シングルとなり、全英No.1ヒットとなった。なお、古目のビートルズ本には、この曲は「幻のセカンド・シングル」で、レコーディングはセカンド・シングルPlease Please Meのセッションとされていることもあるが、これは誤り。ただし、Please Please Meのセッション時にも、 マーティンがこの曲をやろうと提案したのは事実。また、このテイクは、幻の未発表テイク集SESSIONSに収録される予定があり、ブートなどでもかなり以前から発掘されていた。 
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 ①https://en.wikipedia.org/wiki/How_Do_You_Do_It%3F
 ②https://beatlesdata.info/1/08_lovemedo.html
 ②https://en.wikipedia.org/wiki/Love_Me_Do
 ③https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_1
 ③http://www.geocities.co.jp/Broadway/5266/beaAlb20.html
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 映像◆Revolution | The Beatles | The David Frost Show 1968  
‡1968年9月4日。LWTの「Frost On Sunday」最後のTV出演
 https://matome.naver.jp/odai/2144289977538423301?page=2
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓8 September 1968
 ┃ ♪Hey Jude♪3 versions『THE BEATLES 1』 ┃4 September 1968
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛Michael Lindsay-Hogg non-album track From Frost on Sunday (8 September 1968) Recorded on 4 September 1968, in Twickenham Film Studios
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 ┃ ♪Hey Jude♪『THE BEATLES 1』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛Michael Lindsay-Hogg Editor: Matthew Longfellow non-album track Made for 1+ Recorded on 4 September 1968, in Twickenham Film Studios
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 ┃ ♪Revolution♪2 versions『THE BEATLES 1』 ┃4 September 1968
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛Recorded in Twickenham Film Studios 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Beatles_discography#Music_videos
 https://en.wikipedia.org/wiki/1_(Beatles_album)
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《Love Me Do - How Do You Do It - Please Please Me - P.S.I Love You》
<1962(昭和37)年09月04日(火)>
 1962(昭和37)年06月06日(水)のロンドンのE.M.I.(アビー・ロード)・スタジオでのレコーディング・セッション(E.M.I.オーディション)から約3ヶ月後の
‡1962(昭和37)年09月04日(火)早朝、ビートルズはリヴァプール空港からロンドンに飛び、チェルシー・ホテルにチェックインした後、正午過ぎにアビーロードに到着し、彼らのデビューシングルのレコーディングのため、E.M.I.アビーロード・スタジオに戻って来ってきます。
 1962(昭和37)年06月06日(水)と一つ大きく異なるのは、ドラマーが、ピート・ベストからリンゴ・スターに交代していることです。彼らは、レコーディング・セッション本番に先立ち、マーティンのアシスタント、ロン・リチャードの監督下で3時間(午後2時~午後5時)、6曲をくり返し演奏するリハーサルを行い、『Love Me Do』と『How Do You Do it』のレコーディングを選択します。ソングライターのミッチ・マレーが書いた曲『How Do You Do It』はマーティンがビートルズのデビューシングルとして選んだ曲で、マーティンはマレーに、1962年初めにバリー・メイスンとデイヴ・クラーク・ファイヴがロンドンのリージェント・サウンド・スタジオで録音した『How Do You Do it』のデモ用アセテート盤を送らせ、ビートルズに聞かせます。しかし、マレー自身は「この曲は“アダム・フェイス“がリリースするのために書いた」と語っています。しかし、この曲を聞いたビートルズは「オリジナル曲の持つ躍動感を殺し、彼らの嗜好に合わせたR&B色の強いもの」にアレンジし直してしまいます。最終的にジェリー&ザ・ペースメーカーズがこの曲を録音・リリースし、1963年にNo.1ヒットとなりますが、ベースはビートルズがアレンジしたものです。ポールは語ります、
「ジョージ・マーティンは『How Do You Do It』と云う曲がNo.1ヒットになることを知っていたんだと思う。だから僕らにデモ録音テープを渡した。白い小さなアセテート盤だった。僕らはそれをリヴァプールに持って帰って話し合った。『これどうする? これは彼が僕らに望んでる曲だ。彼は僕らのプロデューサーだ。やらなきゃならない。覚えなきゃいけない。』。だから僕らはやった。ただ好きじゃなかったのでマーティンの所に戻って言った。『うーん、確かにこの曲は今の僕らにはNo.1の曲かもしれない。だけど僕らはこの手の曲はどうも好きじゃない。こういう曲をやる歌手のイメージを持たれたくないんだ。これは僕らが求めるものとは違う。僕らは何か新しいものが欲しいんだ。』。味方陣営の人に対する態度としては、僕らはかなり強硬の姿勢だったように思うよ。でも彼は分かってくれたよ。後に彼マーティンは僕らが録音したデモをジェリー&ザ・ペースメーカーズに聞かせて言ったんだ。『彼らはこれ要らないそうだ。これは大ヒットだぞ。君らがやれよ。』と。それでジェリーはそのチャンスに飛びついた。彼は僕らのバージョンとほぼ同じテンポを受け継いだ。オリジナルのデモとはかなり違ってて、あれは基本的には僕らのアレンジなんだよ。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照) 1962年頃は、レコーディング・スタジオを使用する際の規制は厳しく、セッションは1日3回ーー午前10時~午後1時・午前2時30分~午後5時30分・午後7時~午後10時に限られ、それ以降は残業許可を取り、ミュージシャンズ・ユニオンの然るべき申請書に署名がなければ、如何なる作業もさせて貰えないことになっており、この他にも興味深いのが、1970年代まで続く「テクニカル・エンゾニアの白衣姿」で、レコーディングに来たはずなのに「病院なのか?」と帰ってしまう人もいたようです。「自分たちは自作の曲をやりたい」とマーティンに伝えるビートルズ、それに対し「僕が選んだ曲に匹敵する曲を書けばやるとこにしよう」とマーティン。そして、この日のレコーディングは午後7時から始まります。ビートルズはオリジナル曲をデビューシングルしようと想うものの、「彼らは全然嫌がらなかったよ。やりたくなかったにせよ、仕事は上出来だったよ。』という評価をマーティンに貰っています。しかし、義務感のよう気持ちで非オリジナル曲の『How Do You Do It』の多くのテイクを演奏し続けるヤル気の無さがやはりマーティンに伝わったようで、この曲のレコーディングは中止し、マーティンはオリジナル曲でデビューするチャンスに掛けることに同意します。そして、ビートルズは『Love Me Do』のレコーディングに取り掛かります。まず、リズム・トラックを15テイク15録音し、その後にヴォーカルが重ねられます。しかし、マーティンはハーモニカと歌を同時にジョンがやるのは無理だと判断し、ポールが急遽ボーカルの大役を与えられることとなります。ポールは語ります、
「初期のセッションのことは良く覚えてる。『Love Me Do』で初めてスタジオ入りした時、まずは写真撮影、ジョージは目の回りに痣ができてて嫌がってた。キャバーンでジョージの彼女に横恋慕してきた奴にからまれて殴られたからね。とにかくいつものように『Love Me Do』をやり始めた。ジョンは歌って僕がハモって、♪pleeeaase♪そこでストップ、それで♪love me do….♪と来て、そこからハーモニカ、ワーワーワワーってね。するとジョージ・マーティンは『ちょっと待って、それじゃまずいよ。一人でヴォーカルとハーモニカの両方はできないから、誰かほかのメンバーが♪love me do♪のところを歌わなくっちゃ。でないと『ラヴ・ミー・ドゥ』ではなく『ラヴ・ミー・ワー』って曲になっちまう。ポール歌ってくれ!』と言ったんだ。僕はビビりまくったよ。それでアレンジを急に変えた。そしてジョンはキメのフレーズを歌えなくなったんだよ。ジョンが「So pleeeeease...♪♪」と歌った後にハーモニカを吹く準備をし、僕が♪「love me do…♪と歌う途中から、彼のハーモニカが「Waahhh wahhhh wahhhhhh」と入る。ライヴ録りで、当時はレコーディングでもオーバー・ダブじゃなかったんだ。そんなわけで突然僕にこの大役が回ってきた。僕らの最初のレコードでだよ。すべてのバッキングが止まる瞬間、スポットライトをあてられた僕が『love me doooo』と歌う、今でもあのレコードを聞くと僕の声が震えてるのが分かる。僕はすっかり怖気づいちゃってね。僕らがリヴァプールに帰って、ザ・ビッグ・スリー (The Big Three) のジョニー・グスタフスン (Johnny Gustafson) のその話した時、彼が『そこはやっぱりジョンに歌わすべきだったよ!』って。確かにジョンの方が適役だったんだよ。僕より低い声が出せたから、もっとブルージーになったと思うよ。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)
<1962(昭和37)年09月11日(火)>
 1962(昭和37)年09月11日(火) ビートルズは、
‡1962(昭和37)年09月04日(火)のレコーディングセッションでの『How Do You Do It』と『Love Me Do』の録音に続き、デビューシングルのレコーディングのためロンドン・アビーロード・E.M.I.スタジオに再び戻って来ます。、ロン・リチャーズは語ります、「『How Do You Do It』と『Love Me Do』はマーティンとスミスの手で9月4日中にミキシングを完成させ、翌朝マーティンとエプスタインが聴くためのアセテート盤を作った。ノーマン・スミスは『ポールはリンゴのドラミングは良くなかったと言っていたよ』と僕に言ってくれた。マーティンは『How Do You Do It』で行こうと決めていたようだが。最初的には『私も彼らの意見を聞き入れ『Love Me Do』を採ったよ、あれはとても好い曲だと』言っていた。マーティンも僕もグループのファースト・シングルだけに、あくまでも納得のいくものを作る必要があった。でも、『Love Me Do』のオリジナル・バージョンは、ドラム・サウンドが良くなかったんだよ。マーティンはこの日のセッション前半は参加できないことが分かっていた。だから前半は僕が唯一のプロデューサーだった。それで、録り直しの時はアンディ・ホワイトを雇ったんだよ。彼は腕のいいドラマーでたびたび彼を使っていた。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)この日、E.M.I.の要請にて、5ポンド15シリング(当時の標準的な日当)の報酬でこの仕事を受けることとなったアンディ・ホワイトは語ります、「彼らのことはすでに知っていた。僕のワイフのリン・コーネルが同じリヴァプール出身のヴァーノンズ・ガールズと云うバンドに所属していたので、冷たくされるかなあ、と思ったけど、彼らは凄く感じが良くて、冗談を言い合った。あの頃大抵のグループが。アメリカの曲や作曲家の書いた曲をカバーしていたから、彼らが自作の曲やっているのには感心したよ。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)」。レコーディングセッションは、ロン・リチャードがプロデュースの下、午後5時から始まり、ジョージ・マーティンも途中から参加し、午後6時45分には完了します。ロン・リチャーズは語ります、「リンゴはコントロール・ルームの僕の隣に大人しく座っていたよ。そこで僕は『P.S.I Love You』でマラカスを振ってくれまいか!?』と頼んだ。リンゴは素敵な奴だ。いつもおっとり構えてる。リンゴは『何かして欲しいことがあれがやるよ、なのもやらなくていい??うん、分かった』って、こんな感じさ。『オレが!オレが!』みたいなところが全然ないんだ。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)そして、この日リンゴ・スターは『PS I Love You』ではマラカスに、『Love Me Do』ではタンバリンの演奏を担当します。リンゴが語ります、
「E.M.I.でのレコーディングに僕が初めて参加したのは9月で、ジョージ・マーティンのために何曲かやったんだ。「プリーズ・プリーズ・ミー」もやったよ。僕が何故覚えてるかって言うと。レコーディングの時、僕は片手にマラカス、片手にタンバリンを持って、バス・ドラムをやってたからね。そのせいで、一週間後に「ラヴ・ミー・ドゥ」のレコーディングに行った時、ジョージは“プロ”のアンディ・ホワイトを使ったんだと思うな。どっちみち、ピート・ベストの代わりってことで、最初からそいつがやることになってたんだけどね。彼はもう危険な橋を渡りたくなかったんだろうね。そこへちょうど僕がはさまっちゃったわけ。僕が、僕らが北部出身だと云うのでちょっと変な反応をしていたジョージだけど、僕に来ないかとOK!!をくれ、レコーディングに参加し、この人にこのチャンスにかけてみようと思ってたから、彼に信頼されてないって分かって、僕はがっくりきたね。やる気満々で行ったのに、『プロのドラマーがいるから』って言われたんだ。彼にはその後、何度も謝られたけど、あれはひどいよ。あのことを僕は何年も恨んでた。いまだに完全に許しちゃいないからね(笑)・・・と、そんなわけで、「ラヴ・ミー・ドゥ」のシングルではアンディがドラムをやってる。アルバムは僕がやったけど。アンディはそんなに大したことないから、アルバム用にやる時はコピーしようがなかった。その後はすべて僕がドラムをやってる。まあ、『バック・イン・ザ・U.S.S.R.』とか数曲は除くけどね。」。(書籍『Anthology』抜粋参照) ポールがリンゴについて語ります、
「なんてことだ!ジョージ・マーティンはリンゴを気に入らなかった。確かにあの頃のリンゴは、あんまりビートが正確じゃなかった。今じゃ完璧だけね。いつのセッションの時だって彼の貢献度は大きかった、だからこそ僕らは彼を選んだんだよ。でも、ジョージからすれば、セッション・ドラマーほどきっちり正確じゃなかったわけだ。それでリンゴはデビュー・シングルから外されてしまった。ジョージが『ちょっといいかな!?』って来てね、僕が『何?』って答えると、『いやぁ~・・リンゴはやめよう。』って。彼は僕にこう言ったんだ、『このレコードでは他のドラマーを使いたい』だってさ。その決定を受け入れるのはものすごく辛かった。『リンゴがドラマーでなきゃ困る。僕らは彼のことを失いたくない』って言ったんだよ。だけどジョージは譲らなくて、結局リンゴはデビュー・シングルで叩けなくなった。彼がやったのはタンバリンだけだ。リンゴはずっとあの痛手を乗り越えらなかったと思う。リヴァプールに戻ると、みんなに『ロンドンはどうだった?』って訊かれるだろ。僕らはいつも、『B面は好いよ』って言ってた。リンゴはA面が好きだとはどうしても言えなかった。自分が参加していないんだからね。リンゴのショックは大きかったはずだよ。」。(書籍『Anthology』抜粋参照)
 1962(昭和37)年09月11日(火)、ビートルズはこの日『PS I Love You』を10テイク、『Love Me Do』18テイクを録音します。また、この日のセッションで行った『Please Please Me』に関してジョージ・マーティンは語ります、「『Please Please Me』はあの段階では退屈な曲だった。とてもスローでヴォーカルはブルージーで、ロイ・オービンソのなんばーみたいだったよ。テンポを速めなくっちゃ使えないと思ったよ・セッション後、テンポを上げてタイトなハーモニカをつければパットした曲になるだろう。そしたら次のセッションでやろう」・・ロン・チャールズはこれを裏付けます、「セッションの後、コントロール・ルームの外で廊下で、マーティンがこう言ってたんだ。『「Please Please Me」は今はよくないが、捨ててしまうにはおしい曲だ、保留にしておこう』とね。」。(『The Complete Beatles Recording Sessions』抜粋参照)アンディ・ホワイトは当時のことを2012年、『Daily Record』紙のインタビューでこう話しします、「僕はロンドンでよくテレビの仕事をしていたんだ。ある金曜日、次の月曜日EMIで3時間の仕事ができるかって電話があった。それしか知らされなかった。ザ・ビートルズの名前は聞いたことあったよ。僕の妻がリバプール出身で、その名前を出していたから。でも、彼らのことはよく知らなかった。本当に楽しい経験だったし、彼らの曲は凄いと思った。独自のものだったし、新しかった。当時はアメリカの音楽をコピーしたものばかりだったんだ。それで成功していた。でも、彼らがやっていることは新しく、ほかとは違いとてもスペシャルだって言えた。でも、それがその後、どれくらいスペシャルになるのかは、当時わからなかったけどね。(Daily Record)」。
 1962(昭和37)年09月11日(火)のセッション終了後、最良のテイクがモノラルにミックスダウンされ、E.M.I.は『Love Me Do/PS I Love You』をビートルズのデビューシングルとしてプレ・プレスを開始します。当初のプレスではリンゴがドラムを担当する
‡1962(昭和37)年09月04日(火)の『Love Me Do』が採用され、後のプレスではアンディ・ホワイトのバージョンになります。『Please Please Me」に関しては、1962年にはレコード・リリースの原盤が出来上がると、その日のテープは処分されるのがンツウジョウダッタノデ、ロイ・オービンソン風の『Pleas Pleas Me』のテープは破棄されます。ジョージ・マーティンは語ります、「アウトテイクまでは取っておけなかったんだよ・マスター・テープを保管するだけでも、場所がなくて困ったくらいだから」幸いこの方針は1963年に改められ、以降はほとんどのセッション・テープが保存されるようになり、今日まで残されています。『Anthology 1』に収録される『Please Please Me』は、
 1962(昭和37)年09月11日(火)の音源とクレジットされていますが、ロイ・オービンソん風ではなく通常のスピードの演奏であるため、
 1962(昭和37)年11月26日(月)のセッションの音源であると推測されます。当時、ロンドン、アビイ・ロード・EMIスタジオでは毎週には製作会議が開かれ、発売が予定されているレコードを試聴する日でもあります。これは、営業担当の12人が出席し、その出席者にはこれから聴かされる曲のアーティストは知らされず、その場で今聴いたばかりの曲についての判定を彼ら自身が下すと云うシステムで、多くの曲の中に、当然ビートルズの演奏した「Love Me Do」もあり、この曲に関しては、評価は分かれる!と云うより、むしろ殆どが否定的な意見が飛び交います。ビートルズの「Love Me Do」のような曲は、全員がこれまで全く聴いたこともない曲調なので、戸惑いが先行する作品と捉えられたわけです。しかし、この場の議長であるロン・ホワイトは、この曲を気に入ります。ジョージ・マーティンの手によるものであると云うことも彼に迷いを生じさせない一因となり、結局、このレコードは「評価すべきだ」という評価に至ります。ジョージ・マーティンの大きな影が全員を動かしたとも云えます。ロン・ホワイトは、政策会議後に聞かされるグループ名に聞き覚えおがあり、オフィスに戻り記憶を辿ると・・「数か月にブライアン・エプスタインと云う男が売り込みに来たグループの名が『ビートルズ』と云う名前ではなかったか!」・・彼の脳裏に、さまざまな思いが駆けめぐります。「あの時はジョージ・マーティンが関与していなかったのだ。」と回想する彼は、ふと我に返り「自分たちが否定したグループを最も信頼しているあのジョージマーティンが評価したという事実」に愕然します。困惑を隠せないロン・ホワイトは、エプスタインに「私は過去に自らが下した評価を恥じています。今更ながら申しわけなく思います。今回の曲は誠に素晴らしく、マーティンさんからも彼らのセンスの良さと聞いています。ビートルズと契約が交わされたことは私どもにとって有意義で喜ばしいことです。云々...」なのと云うこれ以上はないと思える表現で記した「詫び状」に近い手紙を出します。しかし、彼の一番の気掛かりは、天下のEMIが、組織内に混乱があると思われることで、追記として「今回、私が手紙を差し上げましたのは、貴殿からご覧になれば、我々の組織の異常とも思われるに違いない事態を釈明したいと考えたからに他なりません。私たちが真剣にレコードを聴いたことは誓います。しかし、製作部長といえども、意見が変わるということは、貴殿にもご理解いただけることと存じます」とも記します。この手紙にエプスタインは、「こちらこそ、感謝以外の何物でも無く、最初に却下されたことやその時のやり取りに関して不快に思ったことは一切御座いません。また、御社の内部組織に関しても一切の疑問は無く、社内の異状事態などとは考えもおりません...云々。」と記す感謝の手紙を折り返し出し、ホワイトの不安を取り除きます。そして、 
 1962(昭和37)年10月02日(火)ビートルズはデビューシングル「Love me Do / P.S,I Love You)」を発売します。
 https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-%E5%BE%8C%E5%8D%8A-08-16-11-26/

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