過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今夜の『夜のヒットスタジオ』だヨ(=^◇^=)


 映像◆松田聖子 1980-1989金曲
 2017(平成29)年11月25日(土) 21:23:11
 https://www.bilibili.com/video/BV1Lx411576C/?spm_id_from=333.788.videocard.7

1983.3.28沖縄コンサート完全版 松田聖子 http://v.youku.com/v_show/id_XNjEwMDk3NDI0.html
1983年5月1日放送 スーパースター松田聖子http://v.youku.com/v_show/id_XNjAzODU5NTMy.html
ゴリラ スローモーションPV http://v.youku.com/v_show/id_XNDk4NDYzNjUy.html
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─――――――――――――┐ビデオデッキ
 ┃ ベータマックス(βマックス Betamax)  ┃|1975(昭和50)年 5月10日(土)|初代β方式ビデオデッキ
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛└─――――――――――――┘ベータマックスVTR1号機 SL-6300 \229,800発売(TVチューナー別売)
 タイトルで「本格的・・・」と挙げたのは、それ以前に「Uマチック方式」というビデオカセットシステムが存在したからだ。しかし、Uマチックのカセットは大型で扱いにくく、もっと家庭でも手軽に使える家庭用ビデオデッキの登場が待ち望まれていたのである。SONYのベータマックス初代機は標準モードβⅠのみで登場。ポケットサイズの1/2インチタイプのβカセットテープには、1時間の録画が可能であった。ただし、録画タイマーは別売、そしてなんとTVチューナーも別売で、20万を超えるこの価格。当時の物価を考えると、まさに「高嶺の花」であり、お医者さんの家など「お金持ち」か余程の「マニア」でなければ、そう簡単に手が出るシロモノでは無かった。しかし、四半世紀経った今日、ビデオデッキは「ひとり1台」の時代になり、僕たちのテレビ・ライフを大きく変える「大型家電商品」に成長した。「隔世の感」がある。ところで「ベータ」の名前の由来だが、(ちょっと専門的になるが)従来のビデオトラック間の干渉をなくすために用いられていたガードバンドというものを取り除き、ベタに記録するので「ベタ方式」と呼ばれたことが語源となっているそうだ。
 平成極楽オタク談義 「ソニー ベータマックス遺産」 (2003年) http://youtu.be/lS0v9NKBCls 
 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
 映像◆84年 松田聖子 SONY ベータプラス60 15s うわさは本当よ。https://youtu.be/9v5wCUMAOyY
 
 映像◆84年 松田聖子 SONY ベータプラス60 15s うわさは本当よ。https://youtu.be/8E2fMm9P9iU
 
 映像◆84年 松田聖子 SONY ベータプラス30 15s ビデオフェア \137,000 https://youtu.be/sH1HosxozQs
 
 映像◆84年 松田聖子 SONY ベータプラス30 15s ビデオフェア \137,000 https://youtu.be/hLPTX1TIWSg
 

 


 ユーノス ロードスター が歴史遺産車に認定…日本自動車殿堂表彰式 
 2019(令和元)年11月17日(日) 00:24 
 NPO法人日本自動車殿堂は2019年の歴史遺産車4台と、殿堂者殿堂入り3名を発表し、その表彰式を開催。歴史遺産車の1台はマツダ/ユーノス『ロードスター』が選ばれた。選考基準は、自動車社会構築の功労者を専攻テーマとし日本自動車殿堂内に設置された研究選考会議において議論。歴史遺産車においては自動車産業、自動車交通、自動車文化の発展に貢献した歴史に残すべき自動車、そして主に製品コンセプト、技術、スタイル、バリューフォーマネーなどに優れた自動車であり、乗用車全般に加え、二輪車、三輪車、商用車、競技車両、特種用途自動車などを対象としている。これらの専攻テーマと選考基準により本年度は研究選考会議において、歴史遺産車候補として後述の4台が選ばれた。また、殿堂者の選定は、歴史遺産車と同様、研究選考会議において議論。自動車社会の構築の功労者を選考テーマとし、選考にあたっては自動車産業や学術はもとより、文化的な活動の分野にも選考対象が及ぶことを前提とし、四つの選考基準を設け選考が行われた。
 ・技術分野:日本独自の自動車技術開発に尽力した人
 ・産業分野:日本の自動車及び自動車産業の基盤を開拓した人
 ・学術分野:日本の自動車工学学術に貢献した人
 ・社会分野:日本の自動車社会の発展に貢献した人
 これらの選考基準に則り今年度は3氏が殿堂者入りを果たした。
◆三菱『A型』…我が国初の量産乗用車として開発生産された◆1918年に図面や知識、工具もない中で当時の欧州車を分解研究し、部品をいちから自作するとともに、設計から生産販売、さらにはアフターサービスまでも視野に入れながら、自動車の量産化の模索が行われた、その先見性と努力が結晶となった三菱A型は歴史に残る貴重な名車であることが評価された。受賞に際し三菱広報部部長の小池尚子氏は、「三菱A型は今から約100年前の1917年夏頃に制作が開始された。当時の技術者にとり、自動車は未知の製品ということで、まずは欧州車を参考モデルとして分解研究するところから始まり、ハンマーやたがねを使って全て手作りで、翌1918年に第1号車を完成させた」とその歴史を語る。そして、「ガソリンエンジンや自動車の車体に関する知識もない。もちろん生産経験もないという状況の中で、1921年までに合計22台のA型を生産し、その後の販売は三菱初の自動車販売会社である大手商会によって行われた」という。また、「いわゆるプロダクトライフサイクルマネジメント、製品企画から設計、試作、試験、生産、販売、アフターセールスという一連のプロセスを100年も前に初めて試み、自動車の量産化ということに挑戦した先人の方々の苦労は想像を絶するものであり、ただただ敬意を表する」と述べた。
◆いすゞ『エルフTL151型』…2トン積み小型トラックのディーゼル化を決定付けた◆いすゞエルフは1959年の発売以来、60年にわたり積載量2トンから3トンクラスのキャブオーバートラックのトップブランドとして君臨。その初代TL151型は高い積載性と優れた運転席設計に加え、経済性と高出力、信頼性に優れたディーゼルエンジンを搭載。その後の小型トラックのディーゼル化への流れをけん引した歴史的名車であることが歴史遺産車の選定理由とされた。いすゞ常務執行役員開発部門CV統括CEの山本悦夫氏は、「エルフは1959年に1号車が生まれ、今年で満60歳となる。人に例えると還暦で、そういった節目の年にこういった賞を頂いて、我々も開発の一員として非常に嬉しく思っている」とコメント。「発売当初はキャブオーバートラックとして、いかにたくさん荷物を効率よく積めるかということをコンセプトにして作ってきた。さらに現在に至っては、トラックといえども安全性、快適性などいろいろな要求が高まってきている」「最新のエルフではそうした考えのもとに衝突被害軽減や衝突回避支援システムなどを装備。また通信端末を搭載し、お客様とつながるトラックを目指し、トラック自身がお客様と通信しながら走るということを考えながら開発を行なっている」と現在のエルフを紹介したうえで、「今後は、還暦ということなので次は大還暦ということで120年後を目指してまた頑張ってきたいと思う」と述べた。
◆ヤマハスポーツSR400…40年間にわたり最もオートバイらしいデザインを保持したまま販売し続けた◆1978年の発売以来、40年にわたり単気筒エンジンの大型オートバイとして独特な味わい、魅力をライダー達に提供。新しい2度の排ガス規制の壁を乗り越え長期にわたり生産を継続。世界でも貴重なロングセラーバイクとして評価された。ヤマハ発動機企画・財務本部コーポレートコミュニケーション部広報グループ・リーダー 壬生貴氏は、「ヤマハSR400は1978年にデビューし、今もデザイン、エンジン、フレームといった基本骨格はそのままに販売を継続するロングセラーモデルだ」と話す。「販売当時、国内外のオートバイ市場はエンジンの多気筒化、マルチ化が進んでいた中で、シングル、単気筒のエンジンを搭載しスリム、軽量、ビッグトルクといった特徴を生かしたロードスポーツモデルとして市場に導入。当時は少し異彩を放ったモデルとしてマニアな方達の支持を受けていたようだ」「その後シンプルな構造ゆえに、カスタムの可能性があるオートバイとして、若い方々からも支持を得て、現在もSR400の購入層は40代から50代が中心ではあるが、20代の購入ウエイトも高い」「この40年の間に、環境対応やトレンド変化で存続の危機に何度か立たされたが、その都度販売店やSRの熱烈なファンの方の後押しがあり、古い設計なので環境規制には難しいがそれをクリア。また細部にわたって商品性を追求して現在も販売を続けているモデルだ」「静岡県磐田市にある本社工場で流れる生産ラインではなく、2人一組で手組で組み上げる方式で作っている。ヤマハとしては引き続きヤマハのロングセラーモデルとしてSR400を育てていきたい」
◆マツダ/ユーノス『ロードスター』…ライトウエイトスポーツカーとして人馬一体というコンセプトを維持し、4代30年にわたり作り続けられた◆マツダ/ユーノス・ロードスターは変わらぬコンセプトを維持し4代にわたり作り続けられ、累積生産台数は100万台を超え、ライトウエイトスポーツカーとしての世界記録を更新し続けている。魅力的なスタイリング、クルマを操る楽しさを提供し、日本の技術水準の高さを世界に知らしめて歴史的名車とされた。マツダ・ロードスター・アンバサダーの山本修弘氏は、「2代目ロードスターから開発に携わり22年間ロードスターの開発を担当してきた。最後の4代目は開発主査を担当した。今はユーノスロードスターのレストアサービスを見ている」と、現在の自身の状況を説明。「ロードスターには大変なファンがいる。人馬一体という言葉があるがそれは、開発のメッセージだった。もうひとつお客様に届けるメッセージとして、初代ユーノス・ロードスターのカタログを開くと、“だれもが、しあわせになる”、そうメッセージが書かれている」「今年はロードスターが誕生して30年の節目になり、10年に1度行われるマツダの三次試験場でのファンイベントが行われた。世界中から2200台のロードスター、そして3600人のファンが集まった」。そこでは、山本氏達にファンから感謝状が贈られ、その内容が述べられた。「きっとだれもがしあわせになる。30年前にその言葉に誘われてこのクルマを手に入れた私達は、クルマなのに雨漏りをしても気にならない性格になったり、他に欲しいクルマがなくなってしまったり、気がつけば運転中に理由もなく笑顔になっていたり、各地のミーティングでそんな同じ症状を訴える仲間を見つけて安心したり。そして10年に1度三次に行きたくなってしまう。こんな人生になってしまった。でもそれもこれも幸せだ。私達の人生にこのクルマがある幸せを感じている。あなた方はこのクルマを生み出し人々を笑顔にし続けることに大いに貢献した。よってここに深く感謝の意を表する」。「我々はロードスターはもはやマツダだけのものではなくて世界中のお客様のものだと考えている。お客様が笑顔になるように、そして自分達も笑顔になるようにこれからもロードスターを作り続けていく」
◆殿堂者殿堂入り 社団法人日本インダストリアルデザイナー協会の名誉会員理事の小杉二郎氏。◆自動車の新たなデザイン開発に貢献し当事社会に馴染んでいなかったインダストリアル(工業)デザイン思想の重要性を提唱。デザインは技術開発と同様の作業工程があることを提示し、先駆者として多くの功績を残した。表彰式にはご子息の小杉茂氏が駆け付け、「権威ある日本自動車殿堂に入ることができて父もとっても喜んでいると思う。父は小さいものから大きなもの、ハンドツールから電化製品、ミシン、スクーター、自動車まで幅広くデザインを手がけた。それの中でもマツダのクルマに関しては、オート3輪の頃から軽四輪、軽三輪、トラックまで数多くのデザインを手がけた」とコメント。「最近では、マツダの自動車デザインが内外において高い評価を得ていると聞いており、私も大変嬉しく思っている。また父は三菱重工時代のスクーターも手がけていたので、今回はマツダと三菱のクルマが歴史遺産となったことも合わせて、嬉しく思っている」
◆殿堂者殿堂入り 東京大学名誉教授で工学博士の染谷常雄氏◆エンジンの滑り軸受の振動及び安定性と油膜圧力との関係を理論解析と実験により明らかにし、滑り軸受の国際標準化や認証機構の解明と制御、さらに大気汚染行政への支援とその推進など学術の発展に多大なる貢献をされた。染矢氏は受賞に際し、「青天の霹靂とはこういうことだ。私の自動車とのつながりを一言いうと、私は千葉県柏市の無医村に生まれた。年に1、2度病人が出ると町から自動車に乗って医者がやってきた。それが珍しくてまたとてもいい匂いがした。その後を追いかけていたことを覚えている」とエピソードを披露。また、ドイツでの研究や帰国後環境行政の一端を担ったことを自ら説明した。
◆殿堂者殿堂入り 川崎重工で常務取締役を務められた工学博士の大槻幸雄氏◆カワサキの大型二輪車の開発において優れた加速性能及び最高速度を実現し、排気ガス規制のため2ストロークから4ストロークへの転換を図り、カワサキオートバイのブランドを確立。さらにガスタービン研究に優れた業績を残した。大槻氏は、「自動車殿堂に入るとは夢にも思っていなかった。今回表彰を受けた大型二輪車を開発した当時、私と同じように一緒になって頑張ってくれた川崎重工の技術者の人たちのおかげでこの殿堂入りが果たせたと思っている」と喜びを語った。
 https://response.jp/article/2019/11/17/328831.html

 本当は男勝りよ!『真っ赤なロードスター』松田聖子
 1984(昭和59)年O6月10日(日)発売の聖子ちゃん通算9枚目のオリジナル・アルバム。 『Tinker Bell』(ティンカー・ベル)収録曲。
 1曲目、『真っ赤なロードスター』
 作詞: 松本隆 
 作曲: 林哲司
 編曲: 船山基紀
 ロードスターというと、ほとんどの方が、マツダのロードスターを思い浮かべるかと思いますが、この曲の誕生した1984年当時には、その車はまだ影も形も現わしていませんでした。ただ、聖子ちゃんの名前の由来は、1979年にサン・ミュージックの先輩、太川陽介の恋人役として共演した『おだいじに』という日本テレビ系ドラマの中の芸名兼役名として誕生したものでした。 名前の良く知られた大企業(MAZDA、SEIKO)の名前を二つ組み合わせることによって知名度と親しみ易さなどを狙って付けられたと言います。先に“新田明子”という芸名を示されましたが、なんかパッとしない名前だと乗り気ではなかったところ、もう一つの候補名として示されたのが、その“松田聖子”という名前でした。そちらの方が断然良いということで喜んで決めてもらったそうです。その名字にあたるマツダがその後ライト・ウェイト・オープンカーの代名詞になるぐらいヒットさせたのがユーノス・ロードスター(後のマツダ・ロードスター)です。この曲が、その車種と一致するタイトルだったというのは、聖子ちゃんとの少なからぬ運命的出会いを感じます。そうなると、この曲に登場する車は何かと想像しますと、“ロードスター”という名称の発祥地であるイギリスの車で当時まだ現役で使用できていたジャガー Eシリーズ3 のロードスターしかないと思われます。 レース仕様でもありますので、まさに打って付けです。のっけから繰り出される豪快なエンジン音。 ライバルの新車のエンジンから煙を巻き上げさせるほど熱くさせるレース魂。迫力と意外性のある曲展開が繰り広げられます。そして、曲のロケーションなのですが、狭い日本の海岸通りなどでは特に当時から渋滞が酷くて、レースどころではありません。 男の子たちの名前も日本人に付けた愛称などではなく文字通り友人達の名前でしょう。 従って、この曲の舞台は日本ではなくて、若者文化が花開いていた70年代のアメリカを想定しているんじゃないかと思われます。そう、アメリカを舞台に、か弱く、可憐にしか見えない聖子ちゃんが、男勝りのレース・ガールスターとして走り屋の男の子たちを蹴散らして一泡吹かせるというレース・ファンタジーのヒロインになっているのですね。実際の聖子ちゃんも、この頃は、それまでのおしとやかな純情・可憐路線からよりアクティブにメイク、ヘア・スタイル、コスチュームなど挑戦的な試みを繰り返すようになり、イメージ・チェンジを果たしつつある頃でした。初期からの男性ファンにとっては、聖子ちゃん、ちょっと違うのではないかとその攻撃的な姿勢にたじろぎ始めていた時期だったかもしれません。そして、聖子ちゃん自身が作り上げたかわいこちゃんのイメージを自ら壊しにかかっていたのかもしれません。「私は、その姿ばかりではないのよ! もっと男勝りで、強気な面だってあるのだから、そちらも受け入れて欲しいわ。」という自己主張をし始めたのでしょう。そんな一面を感じ取って、松本隆さんが、ダイレクトにぶつけて来たのがこの『真っ赤なロードスター』なんだと思います。このファンタジックなアルバムの第一曲目を務めたのは、インパクトがあって攻撃的、そう、聖子ちゃん自身を見た目はスマートで華麗だけれど実はパワフルな“真っ赤なロードスター”に見立てたレース・ファンタジーといえる躍動的なナンバーです。
 http://proper1015.blog.fc2.com/blog-entry-169.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャガー・Eタイプ
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『We Love SEIKO -35th Anniversary   ┃
 ┃  松田聖子究極オールタイムベスト50Songs-』 ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 2015(平成27)年12月09日(水) リリース
 2017(平成29)年11月15日(水) Deluxe Edition
 2015(平成27)年12月21日(月)付のオリコン週間アルバムランキングで初週5.0万枚を売り上げ、3位に初登場した。週間アルバムTOP3入りは、『Vanity Fair』が
‡1996(平成八)年06月10日(月)付で2位を獲得して以来、19年半ぶり。ベスト盤では
 1987(昭和62)年11月21日(土)発売、最高①位『Snow Garden』が
 1987(昭和62)年12月14日(月)付で3位を記録して以来、28年ぶりとなったヨ(=^◇^=)
  私は、2015年の今年、デビュー35周年を迎えました。
  ここまでくることができたのは、
  たくさんの皆様の応援のおかげだと心から感謝いたしております。
  本当にありがとうございます。
  私は、デビューしてから35年間、
  たくさんの素晴らしいアーティストのかたがたに素敵な曲を書いていただきました。
  私が歌ってきた全ての曲は、私にとってキラキラ輝く大切な宝物です。
  この宝物を、デビュー35周年という特別な年に、
  ベストアルバムという形で皆様にお届けすることができることになりました。
  このベストアルバムは、私にとってもずっと忘れることのできない
  貴重な思い出になることでしょう。
  私の35周年は、応援してくださった皆様の35周年でもあります。
  皆様と私とで一緒に歩んできた35年を、
  このベストアルバムと共に振り返り、楽しんでいただけたら幸いです。
  これからも、皆様への感謝の気持ちを胸に頑張ってまいります。
  どうぞよろしくお願いいたします。
  2015年12月9日    松田聖子
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 https://ja.wikipedia.org/wiki/We_Love_SEIKO_-35th_Anniversary_松田聖子究極オールタイムベスト50Songs-
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 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 過去の今日の松田聖子様 ┃1978(昭和53)年6月
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛CBSソニーの若松宗雄ディレクターが九州予選のテープ聞いて、聖子をデビューさせることを決意する
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 過去の今日の松田聖子様 ┃1981(昭和56)年6月頃
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛日本テレビ音楽祭でトップアイドル賞受賞
****************** http://www.seikomatsuda.co.jp/index.html
 http://www.universal-music.co.jp/matsuda-seiko
 http://www2a.biglobe.ne.jp/~seikofan/html/text/his1b.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E7%94%B0%E8%81%96%E5%AD%90
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  ▼松田聖子フル収録▼
  映像◆松田聖子 seiko prism agency http://v.youku.com/v_show/id_XNDk0MzIwNTky.html
  映像◆松田聖子 fantastic http://v.youku.com/v_show/id_XNDkzNzc3OTI0.html
  映像◆明菜ちゃん ちびっこの♪1/2の神話♪質問に苦笑い
 松田聖子特集  http://youtu.be/HC_MSHGSbTo
 
 夜ヒット総集編 松田聖子 山口百恵https://youtu.be/Abc-UrvfP7w
 
 映像◆Seiko Matsuda 松田聖子 ? JA-POPS NOW Best Stage 19940108  https://youtu.be/eOD6T5P2VF0
 00:01 Interwive
 07:40 Call Me
 12:10 Sweet Memmory
 16:27 赤いスイートピー
 20:10 Interwive
 25:35 大切なあなた (陽光路上) Ke Hui Xiang Qi Wo
 30:00 Time For Love
 

 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃1969(昭和44)年の主な出来事┃6/10(火) 経済企画庁、1968年度の日本の国民総生産(GNP)が
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛     約51兆円に上り、世界第2位の水準に達したと発表。
 http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/781ac428d56837bd1ef713c224ec8bbb
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『夜のヒットスタジオ』司会二代目a:芳村真理・三波伸介・朝丘雪路  ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
 ※この頃よりスタジオに観客を入れての公開番組形式となる<1976(昭和51)年3月頃まで>
 ┌─――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
①|歴代出演歌手―司会者不在時代→芳村真理・三波伸介・朝丘雪路司会時代(1973~1974)|
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‡第0292回 1974(昭和49)年 6月10日(月) ちあきなおみ、奥村チヨ、殿さまキングス、
                   南沙織、欧陽菲菲、浅田美代子、八田英士、ほか
 ┌─――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
②|夜ヒット・初出演データ(10) 司会者不在→芳村・三波・朝丘時代(1973,10-1976,3)|
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‡第0292回 1974(昭和49)年 6月10日(月) ♪別れないでおくれ♪ 八田英士 
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③|夜ヒット最大の存亡の危機・・・「バンザイ事件」とマエタケの“解任”(歴代司会者考Ⅱ)|2006-08-06
 └─――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
                 「バンザイ事件」の日付は明確にわかっておりません
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 ①http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/b96212e9c8c50dcb931d15868c21673e
 ②http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/e9076525754d4fda5df0b443ce4adea8
 ③http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/7ff48d758b270f6a5ef553959061cb76
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 ┃ 『夜のヒットスタジオDELUXE』司会四代目:芳村真理・古舘伊知郎 ┃
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①|歴代出演歌手―芳村真理・古舘伊知郎司会時代Ⅱ(1987~1988)|※郷ひろみマンスリー5月から6月へ本日The End.日(=^◇^=)
 └─―――――――――――――――――――――――――――┘
‡第0965回 1987(昭和62)年 6月10日(水) 郷ひろみ(マンスリー6)、二谷友里恵(特別ゲスト)、マイアミ・サウンドマシーン、野口五郎、
                   河合奈保子、中森明菜、吉川晃司、チェッカーズ、C-C-B、西城秀樹、森山良子、ほか
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②|夜のヒットスタジオ・初出演データ(3) 芳村・古舘時代後期(1987,1-1988,2)|
 └─――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
‡第0965回 1987(昭和62)年 6月10日(水) ♪Rhythm Is Gonna Get You♪ グロリア・エステファン&ザ・マイアミ・サウンドマシーン
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③|歌でふりかえる夜のヒットスタジオ②②年史(2) 1987年4月-6月(第955-967回)|
 └─――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
‡第0965回 1987(昭和62)年 6月10日(水) 森山良子 ♪DANCE~男たちによろしく♪
                   郷ひろみ ♪YOU ARE EVERYTHING♪(with二谷友里恵)
                   郷ひろみ ♪男の子女の子♪
                   郷ひろみ ♪花とみつばち♪
                   郷ひろみ ♪裸のビーナス♪
                   郷ひろみ ♪誘われてフラメンコ♪
                   郷ひろみ ♪よろしく哀愁♪
                   郷ひろみ ♪マイ・レディー♪
                   郷ひろみ ♪バイブレーション(胸から胸へ)♪
                   郷ひろみ ♪花のように鳥のように♪
                   郷ひろみ ♪あなたがいたから僕がいた♪
                   中森明菜 ♪BLONDE♪
                   吉川晃司 ♪終わらないSunSet♪
                   C-C-B ♪2 Much I Love U♪
          マイアミ・サウンドマシーン ♪REYTHM IS GONNA GET YOU♪
‡第0965回 1987(昭和62)年 6月10日(水) 中森明菜(54) ♪BLONDE♪(1)
 ┌─――――――――――――――――――――――――――――――――――――┐
④|【総括】夜のヒットスタジオ・年表Ⅸ(1986,4~1988,2<第1000回・芳村勇退まで>)|
 └─――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘女優(当時)・二谷友里恵との結婚を間近に控えた郷ひろみが1月半にわたりマンスリーゲストとして登場。最終週の6月10日放送では「花とみつばち」ほか初期代表作を中心に9曲の過去の夜ヒット出演映像を織り込んだヒットメドレーの後、婚約者の二谷が傍らで見守る中「You Are Everything」などを披露。また、新御三家として長年共に切磋琢磨してきた西城秀樹と野口五郎も応援にかけつけ、久々の新御三家揃い踏みが実現。
 第0965回 1987(昭和62)年 6月10日(水) 中森明菜(54) ♪BLONDE♪(1)
 第0970回 1987(昭和62)年 7月15日(水) 中森明菜(55) ♪BLONDE♪(2)
 第0974回 1987(昭和62)年 8月12日(水) 中森明菜(56) ♪清教徒 アーミッシュ♪(1)
 第0979回 1987(昭和62)年 9月16日(水) 中森明菜(57) ♪BLONDE♪(3) 
 映像◆めんどくさいファンどっきり 中森明菜  https://youtu.be/f2vnoIsqTkA
 「中森明菜 ファンが車で籠城 誠意ある説得」スターどっきり(秘)報告より 小野ヤスシ 
 真剣に相談にのろうとする布施明
 夜ヒットリハーサル㊥ 芳村真理の車の中に中森明菜のファンが籠城
 
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 ①http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/8656d50951a618ed615a3ebb733fda6f
 ②http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/76014af4fe0adde865baa590af25d1da
 ③http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/1b20d720e6b062009de47bceb3b471c7
 ④http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/709775bd2cf570fb74385eafdd89fc36
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 ┌─―――――――――――――┐第0758回 1983(昭和58)年 5月30日(月)放送
 |『夜ヒット』今夜のエピソード|http://youtu.be/4x1CmCmFTEs
 └─―――――――――――――┘薬師丸ひろ子歌唱曲♪探偵物語♪ ⇒ http://video.fc2.com/content/20110714f7ztaPMY
♪オープニングメドレー♪:<裸のビーナス>薬師丸ひろ子 ⇒ <夏の扉>郷ひろみ ⇒ <ふられてBANZAI>松田聖子 ⇒ <私はピアノ>近藤真彦 ⇒ <夏に抱かれて>高田みづえ ⇒ <夜空>岩崎宏美 ⇒ <バラ色の月>五木ひろし ⇒ <バラ色の月>布施明
 ◎松田聖子 ⇒ 6/1~6/10までパリへ, 近藤真彦 ⇒ 6/6~6/23までハワイ、ラスベガス、アラスカへ, 郷ひろみ ⇒ 6/1~6/30までニューヨークへ, 五木ひろし ⇒ 6/1~6/22まで北京から西安、トルファン、ウルムチのシルクロードへ。ということは6月1日に松田聖子、郷ひろみ、五木ひろしが東京国際空港という名の成田空港でバッティングしたかもヨ(=^◇^=)
 ◎季節の風物としまして水槽の中の鮎が数匹登場、6月1日に解禁になるそうだヨ(=^◇^=)。英語でも鮎(ayu)というそうだと芳村
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『夜のヒットスタジオ』 ┃1968(昭和43)年11月 4日(月) 22:00~22:54 Startin'
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛1985(昭和60)年 3月25日(月) 22:00~22:54 The End.
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『夜のヒットスタジオDELUXE』 ┃1985(昭和60)年 4月 3日(水) 21:02~22:52 Startin'
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1989(平成元)年 9月27日(水) 21:02~22:52 The End.
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ 『夜のヒットスタジオ SUPER』 ┃1989(平成元)年10月18日(水) 22:00~22:54 Startin'
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━┛1990(平成二)年10月 3日(水) 22:00~22:54 The End.
************************* http://blog.goo.ne.jp/resistance-k
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9C%E3%81%AE%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%88%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%B8%E3%82%AA%E5%87%BA%E6%BC%94%E6%AD%8C%E6%89%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7
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 ┃ 『水曜歌謡祭』 ┃フジテレビ系列
 ┗━━━━━━━━━┛ 19:57~20:54
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 |2015(平成27)年 6月10日(水) 第07回 |司会・・・森高千里 渡部建(アンジャッシュ)
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 オープニング
  M01 しあわせのリズム/Keyco(2003年)岡本知高Cho:水曜シンガーズ
 100年歌い継ぎたい名曲 ウェディングソング編 Part1
  M02 瀬戸の花嫁 /小柳ルミ子(1972年)小柳ルミ子
  M03 てんとう虫のサンバ/チェリッシュ(1973年)チェリッシュ×ももいろクローバーZ
  M04 ロマンスの神様 /広瀬香美(1993年)広瀬香美×鷲尾伶菜・市來杏香(Flower)Cho:水曜シンガーズ
  M05 You're the Only…/小野正利(1992年)小野正利×増田貴久(NEWS)Cho:水曜シンガーズ
 出張歌謡祭!!
  M06 糸/中島みゆき(1998年) なっち&クリス(安倍なつみ・クリス・ハート)
  M07 Butterfly/木村カエラ(2009年)なっち&クリス(安倍なつみ・クリス・ハート) 
 100年歌い継ぎたい名曲 ウェディングソング編 Part2
  M08 GET ALONG TOGETHER/山根康広(1993年)山根康広Cho:水曜シンガーズ
  M09 ハッピーサマーウェディング/モーニング娘。(2000年)モーニング娘。'15 Cho:水曜シンガーズ
 久本雅美からのリクエスト
  M10 お嫁においで/加山雄三(1966年)田島貴男×藤井萩花・中島美央・重留真波・佐藤晴美・坂東 希(Flower)
  初回宣伝映像◆https://youtu.be/8kTcYjq6Ssw
  
  
***************** http://www.fujitv.co.jp/kayosai/index.html
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9B%9C%E6%AD%8C%E8%AC%A1%E7%A5%AD
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 ┃ 夜ヒット最大の存亡の危機・・・「バンザイ事件」とマエタケの“解任”(歴代司会者考Ⅱ) ┃2006-08-06
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†第0292回 1974(昭和49)年 6月10日(月) 
 前回は、夜ヒット創成期の看板司会者である前田武彦さんと芳村真理さんに焦点を当てて記事を書きました。今回はその続き、夜ヒット22年の歩みの中でも、番組の存亡にまで関わる一大事となった「共産党バンザイ事件」について重点的に述べたいと思います。前回記事でも取り上げたように、マエタケさんは、歌手に対する渾名付けや、ちょっとしたブラックユーモア、また生放送にも関わらず台本度外視のフリートークをふんだんに取り込む軽妙な司会スタイルで、番組の安定した人気を支えてきました。しかし、フリートークがヒートアップするあまり、時に誤解を招く恐れがある「余計な」一言を発し、相手役の芳村さんが方々の批判を最小限にとどめるべく火消しに躍起することもしばしばで、人気ナンバーワンの司会者としてキャリアを上げていく反面、守旧的な意見を持つ視聴者や業界関係者の間では「アンチマエタケ」ともいえる層が徐々に増えていきました。そんな中で1973(昭和48)年 6月、「共産党バンザイ事件」が勃発します。事の発端は、共産党の当時の書記長・宮本顕治氏がマエタケさんに会談の申し入れを行ったことに始まります。政党からの申し入れでしたが、彼の当時のタレントとしての格に似合ったギャラも支払って貰えるという条件の下で、あくまでもマエタケさんさんはテレビやラジオの番組司会と同じ「仕事」の一つと解釈して、その会談の申し入れを受諾。この会談は事の他、方々に評判がよかったらしく、その後も、共産党は「広告塔」のごとくマエタケさんに各種行事の司会やパネラーの仕事を依頼するようになりました。マエタケさん自身も思いのほか、各種行事の反応がよかったこともあり、快く共産党からの仕事依頼にもクビを縦に振るようになっていました。両者の間柄はすでに「ツー、カー」の仲になっていたようです。そして、このような流れで、1973年6月、共産党は今度は、参議院大阪選挙区補選で擁立した自党の候補者の応援演説をマエタケさんに依頼し、いつものようにマエタケさんはこの依頼を引き受けます。最初はいつもテレビ番組でよく見られる「余計な一言」は封印して、普通に「がんばってください」とだけ述べて帰ろうと思っていたようですが、やはり時の人気者。ここで安穏と帰ることもできず、さらに一言求められてしまいます。ここで彼は候補者の風貌から、「ボクシングのグローブ」とお得意の「渾名付け」を披露。そして「そのグローブで相手をノックアウトしてください」と、いかにもマエタケさんらしいアドリブで締めくくりました。しかし、その後、マエタケさんは候補者や演説を見に来た観衆に対して一つのある約束を交わしたことが後々、夜ヒットのみならずマエタケさんの司会者生命をも脅かす大問題へと発展していくのです。 その約束というのは、「Aさん(候補者)が当選したら、その生放送(=翌日の夜ヒット)の中でバンザイします。皆さん見ていて下さい」というものでした。この演説の翌日、開票され、マエタケさんが応援したA氏は見事選挙に当選。そして上記の「バンザイします」という約束を生放送内で必ず実行せねばならなくなりました。どのタイミングでバンザイをしようか悩んでいるうちに本番が始まり、いつものように芳村さんと番組を進めているうちに、進行にのめり込んでバンザイの約束などすっかり忘れていたのですが、番組エンディングのときに、トリで歌を披露した当時の番組レギュラー・鶴岡雅義と東京ロマンチカの面々が歌い終わって自分の前を通り過ぎてゆくときになぜかふと約束を思い出し、すでにマイクロフォンも生きていない状態の中で「三条(正人)くんお疲れ様。バンザーイ」と行ったのです。それを受けて三条さんもまったく真意など分からない状態でつられてバンザイをやったようです。当然、当事者であるマエタケさん自身、後にこの「バンザイ」という行為が大問題に発展することなど思ってもいなかったと思います。しかし、当の本人の意識とは裏腹にこのバンザイの真意を突き止めた当時のフジサンケイグループの総元締めである鹿内信隆氏の逆鱗に触れ、同月、まずは同局の映画番組「ゴールデン洋画劇場」の解説者役からマエタケさんを解任。そして、1973(昭和48)年 9月24日(月)放送を以って、5年間、256回にわたり司会を担当してきた夜ヒット司会からの降板(事実上の解任)を余儀なくされ、フジテレビにおける番組だけでなく、「東芝ヒットパレード」などほかの放送局でのレギュラー番組をもすべて解任されるという憂き目に遭います。全番組からの解任という極めて重いペナルティを課せられたこともあり、一部では「バンザイ事件」に便乗して、アンチマエタケ層の業界関係者らが一斉にマエタケ潰しに走ったのではないか、という「陰謀」説も主張されるなど、単なる番組内の一大事というレベルでは解決できない、もはや放送界全体を巻き込む一大事件となっていました。当時のフジテレビの企業体質は、今のフジテレビとはまったく異なり、保守的な政治思想を持つ経営者側と比較的前衛的な思想の若手現場スタッフの間に根強い軋轢が生じ、労使交渉は毎年のように決裂し、スタッフたちがスタジオに布団を引き詰めて局内で長時間のストライキを行うのが常識化している、というような極めて暗いものであり、このような独特な局の体質もここまで事が大きくなった要因として作用していたと思います。そして、マエタケさんと共に、相手役の芳村真理さんも「バンザイ事件」で付いたダーティーなイメージを払拭したいとの当時の製作スタッフの思惑が働いてか、同時に連帯責任的に一時番組を降板。その後、1973(昭和48)年10月 1日(月)放送からの半年間は、特定の司会者をあえて設置せずに、ゲスト歌手2名で司会を行うという輪番制の方式で放送されることとなり、それまで安定した人気を誇った夜ヒットは一転して、迷走の時を迎えることになります。いろいろと番組長寿化に辺り、決して平坦な道を歩んできたとはいえない夜ヒットの歴史の中でも、この「バンザイ事件」~歌手輪番制による司会の時代はもっとも番組の存亡が危ぶまれた時代であったという気がします。番組開始から5年間、番組の屋台骨として活躍してきた両司会者が突如として番組から去ってしまう。夜ヒットの人気はマエタケ・芳村のパーソナリティー性に支えられていた部分がかなり大きかったせいか、この個性ある2人が消えるということは、ほかの番組における司会者降板の場合以上に番組製作の基盤を動揺させる出来事でもありました。同時に、この2人の司会、そして番組に対して高い信頼を寄せていた視聴者もこの事件を境に番組から離れていくようになり、視聴率も以前ほどに高視聴率が見込めなくなる状態に陥りました。歌手輪番制の司会スタイルも、番組の安定性という面からはかなり問題もあり、また、番組内部の迷走ぶりを象徴させる司会形式でもあったため、半年間で打ち切られ、1974(昭和49)年 4月 1日(月)の放送からは、一度番組を降板した芳村さんを今度は主軸の司会者として復帰させ、新たな相手役として、朝丘雪路さん、そして「笑点」(日本テレビ)などの司会で、お茶の間の人気を集めていた三波伸介さんを迎えて、新たな仕切りなおしを図ることとなりました。芳村・三波(・朝丘)司会の時代の話は次回に論を移したいと思います。テレビ番組の司会者にせよ、なんにせよ、どのジャンルにおいても「先駆者」は、歴史上に大きな業績を残す反面、大きな代償も払わなければならないのが常といえます。マエタケさんもまさに「新時代のの司会者像を確率した」という意味でまさに「先駆者」そのものであり、彼の司会がなければ、その後の井上順や「ベストテン」の久米宏、「トップテン」の堺正章などの個性ある次世代の男性司会者も台頭することはなかった。しかし、その大きな放送界に対する業績の反動として、夜ヒットを初めとする「全番組降板」というペナルティーを課せられたと見ることができるかもしれません。ただ、管理人もそうですが、その「全番組降板」というペナルティーは果たして「(共産党)バンザイ」という一行為と相当する代償であったのか、といえば大いに疑問が持たれるところです。一般の企業の社会において「生意気なやつだ」「余計なことを言ったな」「政治思想が経営陣とは相反する」などということだけで解雇を許すような労使関係があるとするならば、それは間違いなく労働法規に抵触しうる不当な関係であるということはいうまでもないだろうと思います。「常識が常識として通らないところ、それが芸能界だ」という意見を述べる識者などもいますが、タレントも結局は番組に、そして局に一時的であるとはいえ「使われる」身の上である以上、その番組、そしてその放送局とのつながりがあることが生活基盤の根幹にあるという点で、会社からの給与のみに経済的部分を頼らざるを得ない一般会社員のそれとはまったく異なるところはないように思います。やはり個人的な意見ではありますけども、「夜ヒット降板」は致し方なしであるにせよ、ほかの番組まで奪い去ってしまうという責任の取らせ方は問題となる行為と責任の重さの比較考量から考えても「不均衡」と断ぜざるを得ないでしょう。やはり上記の経緯からみて何らかの業界内の圧力がそうさせてしまったと見るのが自然かもしれません。
 テレビ放送初期より放送作家・司会者としてテレビの発展と共に歩み続けた前田武彦という偉大な放送人の一生を狂わせ、そして本来ならもっとクローズアップされてしかるべき彼の業績をも霞ませる結果となってしまったこのバンザイ事件における制裁は、日本のテレビ史上における「汚点」であると私は考えます。また、夜ヒットという番組の側面から見れば、同事件がなければ、その後も当然に、1000回までとは言わないまでも数年間はマエタケ・芳村のコンビで夜ヒットは続いていた、そうだとすれば後の本格的な音楽番組への転換という方向性が生じることはなかったのではないか、そういう意味では番組にとっても最大の時代の分岐点であったと思います。
 (追記)今回の記事作成に当たっては、"ごいんきょ"さんが運営されている「昭和テレビ大全集 Blog版・夜のヒットスタジオ」の項目を参照させていただきました。(URLはトラックバックの欄にあります)
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 http://blog.goo.ne.jp/resistance-k/e/7ff48d758b270f6a5ef553959061cb76#comment-list
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓         バンザイ事件
 ┃ 『日刊ゲンダイ』「プレイバック芸能スキャンダル史」 ┃※㊦↓の記事から推測すると事件発生は1973(昭和48)年6月18日(月)
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 2011(平成23)年 9月12日 インターネット掲載<1973年6月>
先月5日、ひょうひょうとした調子の名司会で人気だった前田武彦が82歳で亡くなった。訃報記事で取り上げられた「バンザイ事件」。マエタケの一生を決定づけた騒動は今太閤の田中内閣が支持を落とし、革新勢力が躍進する政治状況の中で起きた。73年6月17日。青森と大阪で行われた参院補選は激戦となった。とりわけ2年前に黒田革新府政が誕生し、前年の総選挙で共産党が衆院の全6選挙区で議席を確保した大阪は、160人の国会議員を前日に送り込む熱の入れよう。インフレ退治に失敗し、国民にソッポを向かれ始めた角栄にとって、議席の死守は最重要課題だった。その翌日、生放送の番組終了間際に“事件”は起こった。23時ちょっと前。フジテレビの人気歌番組「夜のヒットスタジオ」のエンディングテーマが流れだした時だった。司会の前田武彦が突然、両手を高く上げ「バンザーイ、バンザーイ」と繰り返した。出演者やスタッフ、視聴者は何のことかわからず、キョトン。これが後に大問題となり、3カ月後、前田は番組から降ろされてしまう。
バンザイは共産党に向けてだった。翌日開票の大阪補選で、共産党の沓脱タケ子が当選。1議席を争う国政選挙で共産党が自民党を破ったのは初めてのこと。前日応援に駆けつけていた前田は、「当選したら月曜日の生放送中に何かやりますから」と約束していた。「ゲバゲバ90分」や「笑点」の司会を務め、「夜ヒット」でも最盛期に40%を超える視聴率を叩き出した人気者だ。確信犯とはいえ、党名を出したわけではない。局内では「数字のとれる司会者」との評価が定着している。夜ヒットの現場は「おとがめなし」に傾いていた。しかし、7月に事態は急転する。女性誌が「共産党バンザイ事件」と報じ、フジ鹿内信隆社長の耳に入るところとなる。鹿内は経済団体の労務担当として労働組合潰しに奔走した人物。グループの産経新聞で大々的に反共キャンペーンを張ろうとしていた矢先のことだった。「事実を知った社長は激怒。追放が決まってしまった。超ワンマンの鹿内さんの命令には誰も逆らえず、9月いっぱいで降板してもらうことになったんです」(フジOB)コンビの芳村真理も降板。「マンネリ化してきたのでイメージチェンジを図る」というのが表向きの理由だった。前田にとって不幸だったのは話がフジだけで済まなかったことだ。他局の番組からも次々に降板させられ、数年にわたって画面から姿を消した。今年7月末、突如体調を崩して他界。あのマエタケ節は二度と聞けなくなった。(敬称略)
●◇1973(昭和48)年06月01日(金)に岩下志麻が長女舞ちゃんを出産。「ママさん女優誕生」と騒がれた。●10日には銀座と上野を結ぶ5.5キロの歩行者天国がスタートし、「世界最長」のフレーズに沸いた。この月に支給された夏のボーナスは35歳大卒男性の標準モデルで国家公務員は17万5000円、野村証券は90万円、伊勢丹88万5000円、三菱銀行60万円、日本航空45万円だ。 
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 http://gendai.net/articles/view/geino/133603
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