映像◆【放送事故】射殺が全国に生中継された「瀬戸内シージャック事件」https://youtu.be/uZxQCBCq2Js
1970(昭和45)年05月11日(月) 自動車窃盗事件
1970(昭和45)年05月12日(火) ぷりんす号シージャック事件発生
†1970(昭和45)年05月13日(水) ぷりんす号のXを射殺
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E6%88%B8%E5%86%85%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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┃ Danny Hodge ダニー・ホッジ ┃
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‡1932(昭和七)年05月13日(金) 生 誕
2020(令和二)年12月24日(木) 88歳没
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%83%E3%82%B8
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“最強プロレスラー”ダニー・ホッジさん死去 テーズ、BI砲にも勝利
2020(令和二)年12月27日(日) 12:15配信 デイリースポーツ
写真◆ダニー・ホッジ氏=2014年撮影
米国の元プロレスラー、ダニー・ホッジさんが25日に死去したと、米国の世界最大手プロレス団体WWEの公式ホームページなどが伝えた。88歳。死因は不明。ホッジさんは56年のメルボルン五輪レスリング・フリー79キロ級で銀メダルを獲得。ボクシングでも58年に米国のアマチュア大会ゴールデングローブでヘビー級王者となり、59年にプロレスデビュー。60年には当時の世界最高峰団体NWAのジュニアヘビー級王座を獲得し、12年以上も保持した。だが、76年に交通事故で重傷を負い、引退した。レスリングとボクシングの実績、さらにリンゴを握りつぶす怪力の持ち主であることなどから、最強との呼び声も高かった。来日も多く、67年には国際プロレスに参戦し、68年には“鉄人”ルー・テーズからTWWA世界ヘビー級王座を奪取。69年には日本プロレスに参戦し、ウィルバー・スナイダーとのタッグでジャイアント馬場、アントニオ猪木組からインターナショナル・タッグ王座を奪取。74年には全日本プロレスに参戦した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/a1a209c38f2cdc02f3e17c103e79a053286d457d
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ダニー・ホッジさん死去 88歳「史上最強のジュニア選手」BI砲からインタータッグ奪取
2020(令和二)年12月27日(日) 12:09配信 スポーツ報知
写真◆ダニー・ホッジさん
日本でも人気を誇ったプロレスラーのダニー・ホッジさんが24日、米オクラホマ州ペリーの病院で死去した。88歳だった。ホッジさんは
1932(昭和七)年05月13日(金)、オクラホマ州の出身。アマレスでは52年ヘルシンキ、56年メルボルンと2度五輪に出場。フリースタイルで2度、銀メダルを獲得した。アマチュアボクサーでも実力を発揮した後、プロレス入り。NWA世界ジュニア王者のタイトルを1960年から76年にわたってのべ16年保持。「史上最強のジュニアヘビー級選手」とも称される。日本にもたびたび来日。69年の日本プロレス参戦時には、ウィルバー・スナイダーと組んでジャイアント馬場、アントニオ猪木組からインターナショナルタッグ王座を奪取した。プロレス評論家の流智美氏は「ルー・テーズさんがよく私に『ノールールで、ホッジに勝てるヤツはこの世の中にいない。ホッジが現役時代にアルティメット・ファイトがあったら、冗談ではなく彼の相手は何人か死んでいたと思う』と何度も言っておられた」とホッジさんの強さを回想し、故人を悼んだ。
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【武藤敬司、さよならムーンサルトプレス〈9〉ブロディ刺殺事件に遭遇したプエルトリコ】
https://news.yahoo.co.jp/articles/afbdb2901b7169ef54547ba623506d91be87b025
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「何で私がバードマンなんだ?」名レスラー、ダニー・ホッジ逝く…“ノールール最強”の異色な才能
2020(令和二)年12月29日(火) 17:01配信 Number Web 「格闘技PRESS」高木圭介 = 文
オクラホマ大学時代のダニー・ホッジ photograph by AP/AFLO
【この記事の写真】2014年来日時の様子はこちら!
米国より、往年の名レスラー、「鳥人」ダニー・ホッジの訃報が入ってきた。享年88。NWA世界ジュニアヘビー級王者としての実績云々だけでも語り継ぐべき存在なのだが、1990年代に入り、それまでプロレスが売りとしてきた「強さ」が他の格闘技やMMA(総合格闘技)興行の台頭とともに揺らぐ中、時代を共にした鉄人ルー・テーズをはじめとする往年のレジェンドたちが「彼こそが最強だった」「彼がもし、ノールールの試合に出場していたら大惨事が起きる……」などと語ったことで平成時代のファンにも、その幻想が一気に広まった伝説のプロレスラーなのである。ホッジがプロレスに転向したのは27歳とかなり遅め。と、いうのもプロレス入り前の経歴が異色すぎる。まず少年時代から親しんだレスリングで、オクラホマ大学時代にAAUを4度、全米大学選手権を3度制覇。19歳で1952年ヘルシンキ五輪に出場、56年メルボルン五輪ではフリースタイルのミドル級(79kg級)で銀メダル獲得と輝かしい成績を残している。五輪銀メダリストの経歴でプロレス入りならば、さもありなんなのだが、ホッジは大学時代に誘われて、ほんの“かじった”つもりで始めたボクシングでも頭角を現わしてしまう。それも、半端なレベルではなく、すぐにオクラホマ州王者となり、その後はヘビー級で全米ゴールデングラブ王者に君臨し、短期間ながらプロボクサーとしても活躍。プロレス転向はその後の話なのである。
■「奇跡」を達成した稀有な存在■レスリングとボクシングはともに古代オリンピックから競技採用された格闘技の二大古典。長い長い人類の歴史の中で駆逐されずに生き残ってきたことは、無駄なモノがそぎ落とされた両競技が非常に実戦的だという証拠にもなる。93年に米国でさまざまな格闘技の選手を寄せ集めてノールールの“何でもアリ”を売りにアルティメット大会(現在のUFC)がスタートした際、まずはグレイシー柔術がその強さと実戦性を証明し、その後もさまざまな格闘技の選手が、その特性を生かした強さを披露した。しかし、スタートから20年以上が経過し、「ノールールというルール」が整備され、MMA(ミックスド・マーシャルアーツ)なる名称も一般化してきた頃になると、互いの攻撃や防御も知り尽くされ、もはや「秘技」などは存在せず、その戦い方も、ボクシングに近い構えでステップし、レスリングの間合いとなれば、タックル等で相手を倒し、有利なポジションをキープしつつ殴るという「ボクシング&レスリング」スタイルに落ち着く傾向が見られた。“何でもアリ”で最も実戦的だったのは結局はレスリングとボクシングの二大古典だったということが証明された。ストライカーとグラップラー。打撃系と組み技系格闘技では、強化すべき筋力も異なるし、選手の適性も違う。ゆえにトップレベルで両競技を両立させた選手はいないはずなのだが、ホッジはその二大格闘技でトップクラスに君臨する「奇跡」を達成した稀有なる存在なのだ。
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■スポーツ・イラストレーテッドの表紙にも■現在、YouTubeなどでホッジのアマチュア時代の映像が、レスリングとボクシングの両方で視聴可能となっている。レスリングのほうは、寝技で相手の手首を掴むや、そのまま長いリーチを活かしつつ、相手をひっくり返してフォールを奪うモノだった。大学生が圧倒的な体力差をもって高校生を組み伏せているならば納得だが、大学のトップレベル同士の対戦ではまず見られないシーンだ。レスリング時代から「普通ではない」握力を武器にして戦っていたことが分かる。だから、ホッジのレスリングを研究したところで、一般の選手にはまるで参考にならない。ホッジの握力や身体能力には、後天的に鍛錬して身につけたというよりは、先天的にリミッターが外れた強者のみが持つ「何か」が感じ取れる。 プロレス転向前の57年に『スポーツ・イラストレーテッド』誌の表紙を飾り、生まれ故郷のオクラホマ州ペリーに偉業を称えた銅像が立つのも、プロレスラーとしての実績よりも、むしろそれ以前の異色すぎるトップアスリート歴が称えられたものだろう。
■リンゴを片手でつぶす82歳■ホッジと最後に会い、インタビューさせていただいたのは6年前、東京・高円寺で『U.W.F.スネークピット・ジャパン』を主宰する宮戸優光氏の招聘で来日した2014年5月だった。当時82歳だったホッジは、ニッコリ笑顔で握手してくれたのだが、ウインクと同時にギュッと手を握られるや右手に激痛が走り、1週間は痛みが取れなかった。ホテルの部屋では得意とする、片手のみでリンゴを握り潰すパフォーマンスも見せてくれた。こんな82歳はなかなかいない。その来日時に、ホッジと久々の再会を果たし、握手を交わしたアントニオ猪木氏も、相変わらずの握力維持に驚きつつ「レスリングはもちろん、ボクシングも強かったし、あの時代に今でいうアルティメットみたいな競技があったら、凄い実績を残しただろうね」と語っていたのが印象深い。
次ページは:代名詞的な技がない
■代名詞的な技がない■打撃と組み技で高すぎるスキルを持ち、プロレスラーとしても華麗なる実績を残しているホッジだが、ルー・テーズ=バックドロップ、ビル・ロビンソン=人間風車(ダブルアーム・スープレックス)、フリッツ・フォン・エリック=アイアンクロー……といった代名詞的な技は思い浮かばない。フリースタイルレスリングの「股裂き」の体勢からフェイントで相手の四肢にからみつくコブラツイスト(アブドミナル・ストレッチ)や、下半身を固めるオクラホマ・ヘイライドなども印象深いが、小学生がプロレスごっこでモノマネするような浸透度はなかった。本来はテクニシャンタイプなのに、披露されるパフォーマンスは「リンゴ潰し」と怪力系。それほど凄まじい握力を誇示しつつも、試合でクロー技を披露することもない。そして何よりも謎だったのが、「鳥人」なる異名だった。
■「何で私がバードマンなんだ?」■ギリシャのイカロスは別として、それまで日本国内で「鳥人」の異名で呼ばれた存在は大正時代の映画スタア・高木新平や、戦前映画界で「昭和の鳥人」と呼ばれたアクションスタアのハヤフサヒデト、そしてコウモリ(哺乳類)のはずなのに、日本のTVドラマ版で「怪鳥人間」なる謎の冠がつけられてしまったバットマン、フォーリーブスが主題歌を歌っていた米国産アニメ『電子鳥人Uバード』、ウクライナの棒高跳び選手、セルゲイ・ブブカ、プロレス界ではドロップキックを得意としたアントニオ・ロッカらがいる。しかし、ドロップキックは得意技としていたものの、ホッジに「鳥人」のイメージは乏しい。ホッジ本人に日本で「鳥人」と呼ばれていることについて訊ねてみたのだが、首をかしげつつ「何で私がバードマンなんだ?」と、鳥の仕草をマネしつつ大笑い。日本国内での「鳥人呼ばわり」はまったく周知していない様子だった。鉄人、神様、銀髪鬼、人間発電所、荒法師、人間風車、鉄の爪、黒い魔神、魔王、仮面貴族、人間山脈、不沈艦etcと、昭和期を飾った外国人プロレスラーの異名は、意味こそ少々不明だが傑作が多い。しかし、ホッジの「鳥人」は失敗作の部類に入るだろう。日本で「まだ見ぬ強豪」であり続けたアントニオ・ロッカとも丸被りだし……。 インタビュー時、あらためて、プロレスラーとしての必殺技を問うてみたところ、ホッジの答えは「私の必殺技はコンディション。いつでも60分、90分を戦い続けられるコンディションにあった。コンディションさえ保っておけば、レスリングの攻防でもパンチの攻防でも負けない」だった。その言葉は、トップアスリートだった者のみが有する自信に満ち溢れていた。合掌。
◎puramu | ホッジが現役の頃のプロレスは今とはまるで別物だからね。ちょっとでも油断すると相手が潰しにくるような代物。だからテーズも相当「リアルファイト」を経験している。そのテーズが強いと言うんだから間違いないだろう。
◎>ホッジが現役の頃のプロレスは今とはまるで別物だからね。MMAでさえ初期のUFCに比べると随分とマイルドになってしまった印象が否めない。地下プロレス的な初期のUFCは流血など当たり前だったが、今のMMAは(ボクシングでは当たり前の)ダウンカウントさえ取らず即KO決着で面白味が無い。恐らく昔のプロレスは初期のUFCに似た空気が漂っていたのだろう。
◎意表を突くのは卑怯、というプロレスの価値観があるからね。あえてそれをやる場合もあるけど、それはやる方もやられる方も、わかっててやってる。その土俵で強さを競うのがプロレス。そこを理解しない人は永遠に総合>プロレスって言いつづける。
◎フレッド・ブラッシーとかゴージャス・ジョージとかバディ・ロジャースとか大人気だったんだけどね。どんなにガチが強くても客呼べないレスラーは価値がない。
◎見た目からして本当に強そう。ホッジさんの全盛期はとてつもなく強かった事が窺い知れるエピソードですね。長い間、お疲れ様でした。御冥福をお祈り致します。
◎ボクシングとレスリングの実績、現代の総合格闘家と同じような引き締まった肉体、数々の強さのエピソード。間違いなく総合格闘技で活躍できただろうね。もし時代が合っていたらグレイシー一族もあれほど時代を風靡しなかったかもしれない。
◎ウィルバー・スナイダーとのタッグは当時最強でしたね。この方スタミナが無尽蔵だったらしく、フルタイムファイトしても全然平気だったようです。この方の逸話と言えば片手だけでリンゴを粉々に砕いたことで凄まじい握力だったみたいです。レスリングも基礎がばっちりだったので強く、ストリートファイトも強かったという噂があります。ディック・マードックもレスリングも強く、ストリートファイトも滅法強かったので他のレスラーから一目置かれていたのと似ていますね。
◎ボロ | >ディック・マードックもレスリングも強く、ストリートファイトも滅法強かったので他のレスラーから一目置かれていたのと似ていますね。
こういう逸話は良いよね。不良の価値観を大人になってまで引きずってる感じがてさ。オレも含めて、大人になったら大抵は物分かりが良くなっちまうからさ。
◎時代は変われどやっぱりレスラーが最強であって欲しい。プロレスファンにとってダニー・ホッジとは最強という幻想を抱かせてくれる存在であったと思う。
◎ホッジさんが現役の頃に初期UFCがあったら・・柔術家をタックルでテイクダウンし上をキープしつつ超威力のパウンドで制圧!きっと凄い活躍をしたでしょう私は本気でそう信じています
◎藤波がJr.のままならば、ホッジ、マツダの後を継いだ正統派のJr.チャンプだったと思う。藤波はJrでは大きく、ヘビーでは小さかった。努力でヘビーの中で負けない身体を作ったね
◎名優バート・ランカスターに似た風貌から、ランカスターが英国アカデミー賞主演男優賞を受賞した名作「終身犯/Birdman of Alcatraz」から名付けられたというのは考えすぎかな。
◎試合会場への車のなかでエネルギー浪費させるため あんなこと、したて80年代の暴露本に書いてありましたが・・創りですよねたいへんすごいかたでした。
◎バスのなかで発電してたのは有名ですね!突き抜けた人はやることが違います!凡人は真似出ません!
◎オレが持ってたプロレス大百科にはゆりイス固めが必殺技って書いてあって、写真もあった。その後、小橋がローリングクレイドルを使い始めた時、コレがゆりイス固めかと思ったが、全然違ってた。
◎不覚にもホッジの動いている姿を見たことがない。ゆえにこの記事は非常に興味深かった。
◎フィジー | 昔のプロレスって十字架固めばっかりで退屈だけど、今の新日とかスターダムよりはマシかな。
◎木村政彦先生とガチ勝負では、どちらが勝つだろうか?
◎エビデンス将軍 | 自分も彼がバーリトゥーダーのパイオニアだと思っていた スキルが高い人は全ての技の破壊力が有るから必殺技なんて要らない かつてのジャンボ鶴田にしてもバックドロップが無かった時も技が全て強力だったから他の技でピンフォールしてたしね得てして格闘技はそう言う事です
◎ビル・ロビンソン曰く「鶴田とはグレコローマンでもやったが正直大したレベルではなかった」。鶴田が一度も勝てなかった磯貝頼秀氏は「アマレスルールなら谷津、長州、鶴田の順」で、長州と鶴田の間はかなり差があると言ってる。鶴田が五輪代表になった時の身体測定では体重110kgで背筋力228kg(吉田沙保里が200kg超、中西は330kg)なので、そこから体重が増えて筋力アップしてるとしても、外人をフィジカルで圧倒できるレベルとは思えない。性格もガチ向きではないので顔面への打撃センスが特に優れてでもいない限りは厳しいと思う。
◎鶴田はアマレス2年くらいしかやってないんだから、強いわけないです。あと、背筋力とか個別の筋力の数値って意味ないですよ。明らかに性格的に向いていないのでMMAには出ていないでしょう。当時だからプロレスラーだったけで、現在ならバスケやサッカーやってたんじゃないかな?いずれにせよ、歴代のプロレスラーの中では身体能力はNo1でしょう。
◎鶴田はお坊ちゃん育ちだからね。(自分で言ってた)あまり野蛮なことはしないよ。でも鶴田が総合でガチギレしたら、ああ、怖くて書けない…
◎それこそジャンボのMMA参戦を見てみたかったですよね!
◎エビデンス将軍 | ビルロビンソンのコメントはあくまで新人時代 ナンセンスな話し それこそルーテーズから1000マン払って学んでからのスタート 学識有る彼は貪るように格闘哲学、運動生理学まで学んだらしい 故に強い 強いのは完成形は無く 伸び代の多さが重要 何々出身なんて正にナンセンス レスリングは総合格闘技の一部分 レスリングだけでは今や勝てない進化してしまったパンクラチオンなんだよ 現在はボクシングの方が重要殺傷力が有るからでもそれも総合格闘技では一部分日本は遅れているから勝てない
◎エビデンス将軍 | 5さんじゃ中西、永田は総合格闘技で通用したの?アマレスの実績とか性格が優しいとかナンセンスだと思わないのですか?要するに通用する資質は順応性、鶴田は順応性が高く、能力が有ったと戦ったレスラーがほとんど言っている 貴方の何を知ってるの? ナンセンスな事言って知ったかぶりしてもね 彼は元々バスケだし サッカーなんて関係ない インターハイ選手だよ 彼は全日に就職したから業務命令が無い限り総合格闘技に参戦しないよ 彼の順応性の高さを評価してるだけ エビデンスが無いコメントは不毛です
◎aornxuiwin | テレビで馬場、猪木VSスナイダー、ホッジを見たのが、懐かしく思える。
◎ダニー・ホッジの強さだけでなく、身体能力は伝説だからね。◎読み応えのある、いい原稿だね。プロレスLOVEが伝わってくるよ。◎自分もホッジの「鳥人」はピンと来てなかったがやはり誰もピンと来てなかったと聞いてなんかホッとした。
◎バーンバニア、レオノメリーニ、カールゴッチ、ダニーホッジ、ルーテーズ。
https://news.yahoo.co.jp/articles/3972abdb756478715905794533e29168a57a6b55
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カール・ゴッチとダニー・ホッジとではどちらが強いですか?
2017(平成29)年04月09日(日) 19:34
2017(平成29)年04月09日(日) 19:36 ベストアンサー rewens2659さん
ダニー・ホッジがレスラー仲間から恐れられたのは、反則ながら時折見せる強烈なパンチ攻撃と、キレたら何をしでかすかわからない無鉄砲な性格からでした。ホッジはプロレス入りする前は、レスリングの選手として鳴らし、1956年にはメルボルン・オリンピックのレスリング競技にアメリカ代表として参加し、ミドル級で銀メダルを獲得しています。しかし、オリンピックを終えてアメリカに帰国してから、なんとプロボクシングの選手としてリングに上がり、1年半にわたって活躍し、ライトヘビー級で17戦し11K.Oの記録を残したのです。ホッジのボクシングには、先ほど紹介したキレたら何をしでかすかわからないという自身の性格が影響していました。それはホッジが大学生の時分まで遡ります。ホッジの所属していたレスリング部の選手とボクシング部の生徒が喧嘩になってしまったため、ホッジが仲裁に乗り出したのですが、あるボクシング部員がホッジを怒らせてしまい、ホッジが怒り狂って、こともあろうに当時のボクシング部のエース選手の腕を折ってしまったのです。あとで冷静になってから、そのことを反省したホッジが罪滅ぼしのためにボクシングの練習に加わり、自分が怪我をさせてしまった選手の代わりに競技に参加するようになりました。ところが、もともと抜群の運動神経をホッジは誇っていたために何なくボクシングのテクニックをマスターしてしまい、ボクシングでも一流の選手に名を連ねるまでになったのです。
このようなホッジの性格でしたから、対戦した選手は大いに気を使いました。特に、打撃や顔面への攻撃には細心の注意をはらっていたそうです。あのルー・テーズですら、試合中にホッジの様子がおかしくなってきたのがわかると自らリング外に出て、ホッジが冷静になるまで決して戻らなかったそうです。また、NWA世界Jr.ヘビー級タイトルを賭けて長年に渡りライバルとしてしのぎを削ったヒロ・マツダさんも、試合中は絶えずホッジの目の動きを気にしていたそうです。マツダさんが言うには、キレそうになると目が据わってくるらしく、そうなってしまった時は、テーズ同様リング外に逃げて時間稼ぎを試みたそうです。
このように述べると、ホッジは喧嘩屋の印象を持たれがちですが、プロレスにおいては派手な投げ技や立ち技は使わず、アームロックやヘッドロックなどの基本技を大切に、小技からじっくりと大技につなぐという形に試合を組み立てる正統派のテクニシャンタイプでした。また、その体格からは考えられないほどの怪力と握力の持ち主だったため、相手を押さえ込む力や締め上げる力が非常に強く、一度技を決められてしまった場合はほとんど脱出不可能でした。それに加えて、パンチ攻撃とキレやすい性格でしたから、強さと言ったら並のものではなかったように思います。それなので、ゴッチとの対戦は非常に興味深いものがあったように思います。ゴッチも、ホッジほどではありませんが、気の短いのには定評があり、また喧嘩早さでも名前が通っていまし、それぞれが持っていたプロレスのテクニックも似ているようなところがありましたから、なかなか面白い試合になったのではないでしょうか。展開としては、寝技中心のあまり動きの活発なものにはならないでしょうが、それだけに技の一つ一つに力が入って、緊迫したものになったと思います。また、仮にホッジがキレたとしてもゴッチならそのまま受け流して自分の攻めを続けていったかもしれません。ですから、最終的にどのような形で決着が着いたかといえば、プロレス流なら一瞬の隙を突いての返し技でピン・フォールというものになったような気がします。このふたりの性格から考えて、技を決められてもう逃れられないような場合でも、決してギブアップはしなかったと思います。ギブアップするくらいなら、腕か足でも折られても構わないと考えそうな感じです。また、展開によってはお互いのキレやすい、喧嘩早い性格が顔を出して、正統派テクニシャン同士の試合とは思えないような、凄惨な内容にも変化したとも想像できます。このふたりに限っては、まったく実力的に互角のように思えて、どちらが強いのか、結果を出すのが非常に難しいです。しかし、あえていうならば、ボクシングのテクニックのあるホッジのほうが、ゴッチよりはもしかしたら強いかな…という気はしないでもないですね。しかし、きっぱりと断言出来ないところがまことに残念です。 3人がナイス!しています
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13172796778
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Q:鉄の爪 フリッツフォンエリックと 鳥人 ダニーホッジが握力勝負、若しくは、リング上で戦えばどちらが勝つでしょうか?
2015(平成27)年01月25日(日) 21:58
A:ベストアンサー ダニー・ホッジのプロボクシング試合記録
2015(平成27)年01月31日(土) 22:33 元NWA世界J.ヘビー級チャンピオン、日本でもTWWA世界ヘビー級選手権(ルー・テーズに勝利)、インター・タッグ(馬場・猪木組に勝利)を奪取したダニー・ホッジのプロボクサー当時の試合記録。ホッジは1955年アマレスの全米選手権優勝、翌56年のメルボルン五輪では銀メダル獲得。1957年ボクシングのアマチュア大会ゴールデングローブの全米王者となったあとプロボクシングに転向。以下がその成績。対戦相手の名前の後の()内の成績は相手の当時のレコード。
1958(昭和33)年06月10日(火) ペンシルベニア ○ホッジ(KO1R、タイム不明)ノーマン・ジャクソン●(デビュー戦?)
1958(昭和33)年07月14日(月) カンサス ○ホッジ(KO3R2:03)ドン・ジャスパー●(25勝15KO勝9敗6KO敗1分)
1958(昭和33)年08月06日(水) シカゴ ●ホッジ(TKO4R、タイム不明)アート・ノリス○(0勝2敗)
1958(昭和33)年09月18日(木) カンサス ○ホッジ(判定10R)アート・ノリス●(1勝1KO勝2敗)
1958(昭和33)年10月07日(火) オクラホマ ○ホッジ(KO2R1:15)モーリス・グリーン●(0勝2敗1KO敗)
1958(昭和33)年11月06日(木) カンサス ○ホッジ(TKO5R2:45)テッド・プール(10勝2KO勝8敗2KO敗)
1959(昭和34)年01月29日(木) カンサス ○ホッジ(判定8R)ルー・ベイリー●(5勝1KO勝9敗1KO敗3分)
1959(昭和34)年02月24日(火) マイアミ ○ホッジ(KO8R、タイム不明)ゲルビン・ソイヤー●(14勝9KO勝6敗1KO敗)
1959(昭和34)年04月28日(火) カンサス ●ホッジ(TKO8R、タイム不明)ニノ・バルデス○(46勝34KO勝17敗5KO敗3分1無効試合)
12戦9勝3敗の説もあるが今回判明したレコードは9戦7勝(5KO勝ち)2敗(2KO負け)。プロボクサーとしての生活は約1年。見る限り月1回のハイペースで試合を行なっている。しかし対戦相手はキャリアが浅かったり負けが込んでいる選手が多い。短期促成栽培だったのかも知れない。最後の試合の相手ニノ・バルデスはキューバの強豪選手。当時の上位コンテンダーで、世界王者のソニー・リストンと対戦経験もあり。
1958(昭和33)年08月06日(水) の初黒星の日のメインがそのリストンだったそう。この8月6日の試合、4Rにダウンしたホッジはカウント9で立ち上がると自分のコーナーに戻ってさっさと試合放棄してKO負けとなりボクシング・ジャーナリズムから批判の対象にされたとか。しかし0勝2敗の選手にKO負けとは(まあ再戦で判定勝ちしているようだが)。何かコンディションなどに問題があったのだろうか。なのでダニー・ホッジが勝つと思います。握力勝負ではフリッツ・フォン・エリックが勝つと思います。エリックは握力計の針を吹っ飛ばしたり本気になれば相手の頭蓋骨から顔の肉をむしり取ることさえ可能と言われたり相手の顔面を掴めば血ダルマにして胃袋を掴めばヘドを吐かせ連戦連勝です。地上最強の鉄人ルー・テーズさえいつもエリックの鉄の爪に血ダルマにされての反則勝ちばかりで1度も2フォールは奪えず、エリックに完勝したレスラーは0です。生傷男ディック・ザ・ブルーザーが、警官隊と乱闘してブタ箱入りとなったのは1度でしたが、エリックは2度も打ち込まれました。エリックのアイアンクロー で頭を締め上げられて脳波が狂ったレスラーは5人を超えます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12141129277
動画◆【木村政彦こぼれ話--Vol.15】原田久仁信という孤高の漫画家。梶原一騎スピリッツで描かれた木村政彦漫画「KIMUAR」/木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか/男の星座/プロレススーパースター列伝https://youtu.be/wtNzdVCu7wY
『枯れない殺意』について
1993(平成五)年5月6日(木)『週刊文春』合併号 文:猪瀬直樹
‡1993(平成五)年5月13日(木)『週刊文春』合併号 文:猪瀬直樹
《誰でも小さな挫折を繰り返しては開き直っていく。受験や就職や昇進など、一、二度失敗しても取り返しがきくし、人生の一部であってすべてではない。では、もはや立ち直れないほどの打撃をこうむり人生の敗者として屈辱にまみれたら……。しかもそれが騙し討ちによるものであったらどうするか。
「そいつを殺すつもりだった」ある人物が、僕にそう打ち明けた。眼の前に、抱いた殺意を隠そうとしない老人が坐っていた。
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元柔道日本一の木村政彦が死んだ。七十五歳だった。ニュースを耳にして、あらためて憶い出した。多摩川に近い京王線沿線の住宅地を駅に向かって戻りながら、「あんたも殺されたいのかね」と厳しい口調で切り返してきたときの木村の顔の輪郭を、幾度も幾度もなぞっていた。四年前の夏だった。木村に会っておかなければと思ったのは、テレビ放送の黎明期についての取材を重ねていて(拙著『欲望のメディア』)、力道山との世紀の一戦の真相を知っておく必要に迫られたからだ。取材を申し込んでもなしのつぶてだった。こちらもしつこかった。一年待たされてようやく許可が下りた。それでも招かれざる客であったことに変わりない。開口いちばん、「会う必要はない」と断られたが、引き下がらずにいたら夫人が座敷に通してくれた。それでも「話すことはない」と繰り返すばかりだった。木村についてマスコミ(世間)がなにを記憶しているか。それを示す意味で今回の死亡記事を引こう。
1993(平成五)年4月19日(月)付『朝日新聞』「一九三五年に十八歳で明治神宮大会大学高専の部で優勝してから五〇年に引退するまで一度も負けなかった。日本一にも五度輝き、〝木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし〟と言われ、日本柔道界の伝説的存在だった。五一年からプロレスラーとなり、力道山との一戦では敗れ……」
1993(平成五)年4月19日(月)付『産経新聞』「小柄な体ながら、右からの一本背負い、大外刈りなどの技は強烈だった。立ち木を相手にして毎日千回の打ち込みなど、猛げいこを示すエピソードは多い。……故力道山と日本選手権を争い敗れたが、〝世紀の一戦〟として当時大きな話題となった」新聞の死亡記事の中身はどれも変わらない。無敵の柔道王として「木村の前に木村なく……」のキャッチフレーズと、「世紀の一戦」での敗北に触れている。木村は、輝かしい勝者としての前半生と、力道山に敗れ屈辱にまみれた後半生、つまり一身にして二世を生きた。
1954(昭和29)年12月22日(水)、蔵前国技館で行われた〝世紀の一戦〟は、わずか十五分四十九秒で決着がついた。力道山の空手チョップが爆発、木村は血まみれで昏倒、無惨な敗北を喫したのである。
2月25日号 この試合について「事前に引き分けの話し合いがあった」との八百長説をこのコラムで少し紹介した。当時の関係者に当たり、だいたいの状況証拠はつかんでいた。あとは当事者の証言だけである。周知のように力道山は一九六三年十二月十五日、赤坂の山王病院で死亡した。赤坂のクラブでチンピラにからまれ錆びたナイフで腹部を刺された。開腹手術を受け病状は快方に向かっていたはずだったのに突然の暗転、腸閉塞を併発したのだ。絶対に水分を採ってはならないし、ましてや固形物など……。しかし、力道山は術後の常識を無視してリンゴを食べた。自分が不死身だと思い上がるぐらいに、ヒーローとしての自分に溺れていたのである。テレビ開局まで、プロレスなど誰も知らなかった。力道山は木村とタッグチームを組み、アメリカから招聘したシャープ兄弟と闘った。シャープ兄弟は巧妙な反則で木村を攻め、木村がグロッギーとなると力道山が空手チョップで颯爽と登場する。弱い木村、強い力道山という図式ができた。力道山は、巧みな演出とテレビの力で国民的ヒーローとなった。力道山と袂を分かった木村は、国際プロレス団を旗揚げして失敗、病妻の薬代にも事欠いていた。関係者からの証言を総合すると、八百長を申し込んだのは木村だという。「ほんとうは俺のほうが強い……」と吹聴していた。マスコミが木村を煽った。いつの間にか〝世紀の一戦〟が一人歩きしていく。それなら、と木村は考えた。引き分けにして、分け前を半分もらおう、と。ここまでだったら悪いのは木村ということになるが、ことはそう単純ではない。力道山は、木村の申し出に応じるふうな態度を装った。木村が書いた念書を力道山が「預かっておく」と受け取った。翌日「ハンコをついたものをくれ」と木村が求めると「忘れた」という。この時点で、「じゃあ、念書を返してくれ」と木村が食い下がればよかったのだが……。八百長が成立したと信じてリングにのぼった木村は隙だらけだった。
*
「あいつは卑怯な男ですよ」と木村は僕にいった。
「だから、殺したんだ」しかし、彼はあなたに殺されたのではなくヤクザに刺されて死んだんですよ。
「いや。殺した」どうやって?
「ここですよ」と木村は額を指さした。僕は意味がわからなかった。
「ここに〝殺〟と書いたんです」書く? ああ、イメージで前頭葉のあたりに字を描いたわけですね。
「そうだ」そんなことをしたって人は死にません。
「いや、死ぬんだ」念力ですか。納得できませんね。
「あんたについても〝殺〟を描こうか」しばらく気まずい沈黙がつづいた。木村は、眼を閉じ昔話をはじめた。
「柔道の選手権の前夜、座禅を組んだ。何時間も、ずっとだ。すると額のところに〝勝〟が浮かんできて黄金色に輝きはじめる」試合の前は、そうなさるのですか。
「〝勝〟が出て来ないときには、日本刀を腹にあて、切っ先を食い込ませる」痛いですね。
「痛くない。そのままじっと待つ。すると〝勝〟が出てきたときもある」木村は誇り高き勝負師だった。たった一度の過ちが彼の後半生を台無しにしたはずだが、世間が何をどういおうと、力道山を自分で始末したのである。取材の帰途、拭いがたい疲労感に覆われることがたまにある。あのときもそうだった。残暑を怨んだ》
http://blog.livedoor.jp/masuda_toshinari-about/archives/30341845.html
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┃ 都井睦雄 ┃
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1917(大正六)年03月05日(月) 生誕
1938(昭和13)年05月21日(土) 21歳没
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┃ 津山事件 津山三十人殺し ┃
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1938(昭和13)年05月20日(金) 午後05時頃、都井は電柱によじ登り送電線を切断、貝尾集落のみを全面的に停電させる。しかし村人たちは停電を特に不審に思わず、これについて電気の管理会社への通報や、原因の特定などを試みることはなかった。翌
1938(昭和13)年05月21日(土) 01時40分頃、都井は行動を開始。詰襟の学生服に軍用のゲートルと地下足袋を身に着け、頭にははちまきを締め、小型懐中電灯を両側に1本ずつ結わえつけた。首からは自転車用のナショナルランプ[3]を提げ、腰には日本刀一振りと匕首を二振り、手には改造した9連発ブローニング猟銃を持ち犯行開始・・・
‡2008(平成20)年05月13日(火) 事件発生から70年後にあたる2008年『週刊朝日』5月13日号にて津山事件関係者による証言記事(記者:小宮山明希)が掲載された。その記事内で匿名でのインタビューに応じた90代の老人によると、都井は村が停電になった時によく修理を頼まれていた。また、事件が発生したその日のうちに「昭和の鬼熊事件」と題した号外が出たと述べている[5]。当時村に残っていたとされている夜這いの風習については否定している[5]。なお、この証言については司法省刑事局による「津山事件報告書」[6]と食い違う部分がある。
2008(平成20)年07月21日(月) テレビ朝日『スーパーモーニング』内のコーナー「時空ミステリー」で、「八つ墓村70年目の真実」として事件の特集が組まれている。取材を受けた村民は、夜這いの風習が当時はあったと証言、容疑者も数々の女性と性的関係を持っていたと証言した。容疑者は当時幼なじみと婚約していたが、肺結核に感染した容疑者との結婚を周囲に反対され、2人は破局、女性は別の男性と結婚した。容疑者はそのことから犯行に及んだ可能性があり、肺結核に対する自身への悪口を言った村人を順に殺害したといわれている。しかし、容疑者は幼なじみの女性をわざと手にかけなかったと当時は噂された。その女性は事件後に貝尾を離れ、他の集落に転居した。2014年の時点で生存が確認されており、2020年現在は生誕100年を超えているが、被害者の一人であるにもかかわらず周囲からは「被害を作った張本人」と見なされ、70年経っても地域社会から孤立していた
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E5%B1%B1%E4%BA%8B%E4%BB%B6
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┃ 『八つ墓村』 ┃
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1971(昭和46)年04月26日(月) 発行日 著者:横溝正史
①1951(昭和26)年11月02日(金) 東映系劇場公開
②1977(昭和52)年10月29日(土) 松竹系劇場公開
1979(昭和54)年10月12日(金) フジテレビ系列TV初放送 ビデオリサーチ調べ(関東地区視聴率)34.2%
③1996(平成八)年10月26日(土) 東宝系劇場公開
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E3%83%84%E5%A2%93%E6%9D%91
②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E3%81%A4%E5%A2%93%E6%9D%91_(1977%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
③https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E3%81%A4%E5%A2%93%E6%9D%91_(1996%E5%B9%B4%E3%81%AE%E6%98%A0%E7%94%BB)
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①┃ 『怪奇ロマン劇場』 ┃ NET系列
┗━━━━━━━━━━━┛22:30~23:26
1969(昭和44)年10月04日(土) 第12話「八つ墓村」
脚本・・・野上龍雄
監督・・・渡辺成男
出演者・・・田村正和(寺田辰弥)金内吉男(金田一耕助)原知佐子(田治見美也子)夏川かほる、相馬剛三、清見晃一
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②┃ 『サスペンスシリーズ 八つ墓村』 ┃ NHK総合
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛21:00~21:30
1971(昭和46)年08月02日(月) 銀河ドラマ
1971(昭和46)年08月03日(火) 銀河ドラマ
1971(昭和46)年08月04日(水) 銀河ドラマ
1971(昭和46)年08月05日(木) 銀河ドラマ
1971(昭和46)年08月06日(金) 銀河ドラマ
┏━━━━━━━━━━━━━┓ MBS制作
③┃ 『横溝正史シリーズⅡ』 ┃ TBS系列
┗━━━━━━━━━━━━━┛22:00~22:55
1978(昭和53)年04月08日(土) 第1話(07) 第01回(28)「八つ墓村」
1978(昭和53)年04月15日(土) 第1話(07) 第02回(29)「八つ墓村」
1978(昭和53)年04月22日(土) 第1話(07) 第03回(30)「八つ墓村」
1978(昭和53)年04月29日(土) 第1話(07) 第04回(31)「八つ墓村」
1978(昭和53)年05月 6日(土) 第1話(07) 第05回(32)「八つ墓村」
主演・・・古谷一行
制作・・・大映 映像:京都
脚本・・・廣澤榮
監督・・・池広一夫
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④┃ 『金田一耕助の傑作推理』 ┃ TBS系列
┗━━━━━━━━━━━━━━┛21:00~22:54
1991(平成三)年2作目『月曜ドラマスペシャル』
1991(平成三)年07月01日(月) 第13回「八つ墓村 双生児の老婆が語り始める…血も凍る連続殺人の幕開け・・・」
原作・・・『八つ墓村』
主演・・・古谷一行(13)
脚本・・・関本郁夫 新津康子
監督・・・関本郁夫
備考・・・当初は『名探偵金田一耕助の傑作推理』というシリーズ名であったが、ビデオソフト化された際に『名探偵・金田一耕助シリーズ』とつけられて以降はこちらが使用されている。2008(平成20)年現在、BS-iで再放送されているタイトルには『金田一耕助の傑作推理』と表記されているヨ(=^◇^=)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓『金曜エンタテイメント』
⑤┃ 『八つ墓村』片岡鶴太郎 横溝正史シリーズ 第6回目 ┃ フジテレビ系列
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 21:02~22:52
┌─―――――─――――――┐原作・・・『八つ墓村』
|1995(平成七)年10月13日(金)|脚本・・・佐伯俊道
└─――――――――─―――┘演出・・・福本義人(連続6)
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓『金曜エンタテイメント』
⑥┃ 『八つ墓村』稲垣吾郎の金田一耕助シリーズ第2回目 ┃ フジテレビ系列
┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ 21:00~23:22
┌─―――――─――――――┐主演・・・稲垣吾郎
|2004(平成16)年10月 1日(金)|原作・・・『八つ墓村』
└─――――――――─―――┘脚本・・・佐藤嗣麻子
演出・・・星護
視聴率・・・17.9%
10周年特別企画 八つ墓村 (以下は新聞ラテ欄表記のサブタイトル…崇りじゃ! 400年前=8人死亡! 24年前=32人死亡! そして今…落武者に呪われた村で戦慄の連続殺人事件の幕が開く)
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⑦┃ 『八つ墓村』 ┃NHK-BSプレミアム
┗━━━━━━━━┛21:00~22:59
2019(令和元)年10月12日(土)「スーパープレミアム」
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①http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%80%AA%E5%A5%87%E3%83%AD%E3%83%9E%E3%83%B3%E5%8A%87%E5%A0%B4
②https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E3%81%A4%E5%A2%93%E6%9D%91#1971%E5%B9%B4%E7%89%88
③http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-16425
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B0%B7%E4%B8%80%E8%A1%8C%E3%81%AE%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E8%80%95%E5%8A%A9%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
④http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-27530
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B0%B7%E4%B8%80%E8%A1%8C%E3%81%AE%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E8%80%95%E5%8A%A9%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
⑤http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-31009
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E5%B2%A1%E9%B6%B4%E5%A4%AA%E9%83%8E%E3%81%AE%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E8%80%95%E5%8A%A9%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
⑥http://www.tvdrama-db.com/drama_info/p/id-37802
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E5%9E%A3%E5%90%BE%E9%83%8E%E3%81%AE%E9%87%91%E7%94%B0%E4%B8%80%E8%80%95%E5%8A%A9%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA
⑦https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E3%81%A4%E5%A2%93%E6%9D%91#2019%E5%B9%B4%E7%89%88
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┃ 『津山三十人殺し 日本犯罪史上空前の惨劇』 ┃
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2001(平成23)年11月10日(土) 筑波昭★新潮OH文庫。定価は税別733円です。内容 ⇒ その男は30人を嬲り殺した、しかも一夜のうちに──。昭和13年春、岡山県内のある村を鮮血に染めた「津山事件」。漆黒の晩、日本刀一振と匕首二口、そして猟銃をぶら下げ襲撃を遂行し、その後、自らも果てた男の抱える闇とは何だったのか? 丹念な取材と豊富な捜査資料をもとに再現される、戦慄の惨劇。日本犯罪史に暗い影を落とす“大量殺人の記録”に迫る。不朽のノンフィクション。
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/r414381849