2018(平成30)年11月09日(金)、ザ・ビートルズはその”The White Album”の50周年を記念した豪華パッケージを複数のフォーマットでリリースする(Apple Corps Ltd./Capitol/Umeから)。”スーパー・デラックス・エディション“には、プロデューサーのジャイルズ・マーティンとミックス・エンジニアのサム・オケルによって新たに制作されたアルバム所収の30曲の新規ステレオ・ミックスと5.1サラウンド・ミックス、さらにアルバムのレコーディングに先立って録音された27曲のアコースティック・デモ、アルバムのセッション・テープから起こされた50テイク(その大半は完全な未発表音源)が収録される。ポール・マッカートニーは今回リリースされる“The White Album”のアニヴァーサリー・エディションに以下のような序文を寄せている。「僕たちは陽を浴びた天上の世界で演奏するためにペパー軍曹のバンドを脱退した。そして地図も持たず、新たな方向を目指し始めたんだ。」”The Beatles (White Album)”のリミックス・ヴァージョンがリリースされるのも、この作品が、デモ音源やセッション音源を追加した拡張版としてリリースされるのも、今回が初めてである。2017年に発表され、全世界で高い評価を受けた“Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band”の一連のアニヴァーサリー・エディションと同様、”The White Album”も、今回のアニヴァーサリー・エディションで、まったく新しい作品に生まれ変わっている。”The White Album”のニュー・ステレオ・ミックスと5.1サラウンド・ミックスは、マーティンとオケルが、ロンドンのアビー・ロード・スタジオのトップ・クラスのエンジニアと音源修復のスペシャリストとの共同作業を経て完成した。”The White Album”の“アニヴァーサリー・エディション”は複数のパッケージで発売されるが、アルバム収録曲の新規ステレオ・ミックス(制作にはオリジナルの4トラック/8トラックのセッション・テープが使用されている)は全パッケージに収録される。ジャイルズ・マーティンはこれらの“ニュー・ミックス”の制作に当たって、父ジョージ・マーティンがプロデュースした68年版のオリジナル・ステレオ・ミックスを参考にしたという。「”The White Album”をリミックスする際、僕たちが心がけたのは、ザ・ビートルズがスタジオで奏でていたそのままのサウンドを届けることだ。」これは、ジャイルズ・マーティンが今回のパッケージに寄せた序文の一節だ。「僕たちは、”Glass Onion(ガラスの玉葱)”の皮を1枚ずつ剥がしていった。そうすることで、アルバムに親しんできた人たちにも、今回初めて”The White Album”を聴く人にも、きっと作品に没頭してもらえると思った。この、歴史上例のないほど刺激的で、多様性に富んだアルバムにね。」必要最小限の要素のみから成る、”The White Album”のミニマリズム的なアートワークを手がけたのは、イギリスのポップ・アートの草分け、リチャード・ハミルトンである。見開きジャケット(ジャケット上方からレコードを挿し込む形になっている)の裏、背、表の地色は白で、表側に箔押しされた”The BEATLES”の文字、背面に、カタログ・ナンバーと、同じ”The BEATLES”の印字があるのみ。ただし、初期プレスの表面には個別の通し番号も印字されていた。今回リリースされる”The White Album”の”スーパー・デラックス・エディション“には、それら初期プレスに倣い、ナンバリングが施されている。この”スーパー・デラックス・エディション“は、164ページのハードカヴァーのブックレットに、CD6枚とブルー・レイを収納した特殊仕様になっており、4枚のカラー写真と大判のポスターも同梱されている。写真はジョン、ポール、ジョージ、リンゴのポートレートでいずれも光沢紙を使用。ポスターは片面にさまざまな写真のコラージュ、片面に英詞を記載したもので、どちらもLPに封入されていたものの復刻版になっている。ハードカヴァーのブックレットにはメンバー手書き/メモ書きの歌詞やレコーディング・シート、テープ・ボックス、アルバム発表時の広告等々を含む貴重な写真資料(ここで初出となるものも含まれている)を掲載。さらに、個々のトラックの詳細な解説、“Sgt. Pepper”のリリースから“The White Album”の完成に至るまでの時期をカヴァーしたセッション・ノート、1968年7月28日にロンドン周辺で行われたフォト・セッション“Mad Day Out”、”The White Album”のアートワークやそのリリースに至るまでの経緯、同作の計り知れない影響力等に言及した膨大な文字資料が掲載されている。執筆者は作家/ラジオ・プロデューサーで、ビートルズの歴史の研究家でもあるケヴィン・ヒューレット、ジャーナリスト/作家のジョン・ハリス、テート・ブリテン(国立美術館)で近現代美術部門の主任を務めているアンドルー・ウィルソンの3名。また、ポール・マッカートニーとジャイルズ・マーティンも共に書下ろしの序文を寄せている。CD3枚から成る“デラックス・エディション”の“CDヴァージョン”は、エンボス加工を施したデジパック仕様でのリリース。同パッケージには、“スーパー・デラックス・エディション”の抜粋から成る24ページのブックレットが同梱されており、さらに折り畳まれたポスターとメンバー4人のポートレートも封入されている。“デラックス・エディション”の”LPヴァージョン”は上部に蓋のある箱に4ページのブックレットとLP4枚で構成。4枚のディスクのうち2枚はオリジナル盤を忠実に再現したゲートフォールド・ジャケットに、折り畳まれたポスター、4枚のポートレートともに封入されており、“イーシャー・デモ”を収録した2枚のディスクは、エンボス加工を施したゲートフォールド・スリーヴに収納されている。“The White Album”収録曲の多くは、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スターの4人が、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーの“Academy of Transcendental Meditation”で学ぶために、インドのリシケーシュに滞在していた1968年2月から4月かけて、彼の地で書かれた。ジョン・レノンは、このとき、3人より一足早くイギリスに帰国したリンゴに宛てたハガキに以下のように記している。「俺たちは、もうLP2枚に纏めるに十分な楽曲を書き上げている。ドラム・セットを準備しておいてくれよ。」
1968(昭和43)年の5月の最終週、ザ・ビートルズの4人はサリー州はイーシャーのジョージの家に集まり、これらの楽曲のうち27曲のアコースティック・デモをレコーディングした。“イーシャー・デモ”として知られるこれら27曲のデモは、今回、オリジナルの4トラック・テープから起こされ、”The White Album”の”デラックス・エディション“と”スーパー・デラックス・エディション“に収録された。なお、この27曲のうち21曲は、ほどなくスタジオに場所を移して始まったレコーディング・セッションでも取り上げられ、19曲が”The BEATLES (The White Album)“の収録曲として陽の目を見ている。”The BEATLES (The White Album)“のスタジオ・セッションは、
1968(昭和43)年05月30日(木)にアビー・ロード・スタジオで始まっている。以降、およそ20週間に亘って、ザ・ビートルズの4人は大半の時間をニュー・アルバムのレコーディングに充てている。この間、アビー・ロードを離れ、トライデント・スタジオでセッションが行われることもあった。そして
1968(昭和43)年10月16日(水)、グループはプロデューサーのジョージ・マーティンとともに、アビー・ロードで24時間に及ぶマラソン・セッションを敢行。この際、アルバムの曲順が決められ、個々の楽曲のエディットやクロス・フェードといった作業が行われ、”The White Album”のセッションは完了した。ザ・ビートルズの面々は、”The White Album”のレコーディングに、”Sgt. Pepper”のそれとはかなり異なったアプローチで臨んでいる。”Sgt. Pepper”は、マルチ・トラック・テープに、個々のメンバーがそれぞれにオーヴァーダビングを重ねていくことで完成させたアルバムだったが、”The White Album”のレコーディング・セッションの大半では、メンバー全員が揃って演奏と歌唱を披露し、それを4トラック/8トラックのテープに記録していくという手法が取られた。この際、彼らは同じ曲の録音を数え切れないほど重ねていくこともあり、この点は今回の“スーパー・デラックス・エディション”所収の“Not Guilty”(オリジナルの“The BEATLES (The White Album)”には収録されなかった)の“テイク102”にも明らかな通りである。こうした”スタジオ・ライヴ“的手法を採用した結果、”The White Album”はよりシンプルで自由度の高いアルバムになった。そしてこうした作風の変化は、ロック・ミュージック全体のあり方を変化させ、後年のパンク・ロックやインディ・ロックにも影響を及ぼすことになった。この時期から、ザ・ビートルズの面々は夜を徹してのセッションを行うことが多くなったが、プロデューサーのジョージ・マーティンにとって、これは時間的にも、また心身両面にもあまりに過剰な負担を強いるやり方だった。当時、マーティンには自身のAIR (Associated Independent Recording)のマネージメントという仕事もあり、さらにザ・ビートルズの面々が登場するアニメーション映画“Yellow Submarine”(1968年7月に公開されている)のスコアの作曲という仕事も抱えていた。スタジオ・セッションの開始から3ヶ月が経過したころ、マーティンは3週間の休暇を取得。その不在はマーティンの若いアシスタント、クリス・トーマスと、ジェフ・エメリック(1968年7月中旬にセッションを外れていた)に代わってエンジニアのポジションに就いたケン・スコットが埋めることになった。そして
‡1968(昭和43)年08月22日(木)にはリンゴ・スターがセッションから離脱。
1968(昭和43)年09月03日(火) その11日後、しかし、彼は無事に職場に戻り、メンバーはドラム・セットを花で飾り、彼のスタジオへの復帰を歓迎した。4ヶ月半に及ぶ長時間のレコーディング、さらには同じ楽曲の度重なる録り直しは、しばしばレコーディング中のスタジオに軋轢をもたらしたが、セッションの模様を伝える音源から感じ取れるのは、ザ・ビートルズの4人、そして彼らとジョージ・マーティンのあいだにある親密さや仲間意識、団結力の揺るぎない強さである。『The BEATLES (WHITE ALBUM)』はザ・ビートルズが、自身のレーベル、アップル・レコーズからリリースした最初のアルバムで、イギリスではモノラル盤、ステレオ盤の2種、アメリカではステレオ盤のみが発売されている。このLP2枚から成るこのアルバムは瞬く間にベストセラーになり、イギリスではチャート入りと同時に1位をマーク。以来8週に亘って首位を維持し、計22週のあいだチャート圏内に留まっている。アメリカのチャートでも、“The White Album”は初登場と同時に首位に輝いたが、こちらでは9週に亘ってそのポジションを維持。65週ものあいだチャート圏内に留まり、その後も、幾度かチャート入りを繰り返した。ローリング・ストーン誌の創始者の一人、ヤン・ウェナーは同誌に掲載されたレビューで”White Album”を熱烈に支持し、以下のように記している。「これは彼らがリリースしたアルバムの中で最高の1作だ。より優れたアルバムを作ることができるのは、ザ・ビートルズだけだ。」2000年、RIAA(アメリカ・レコード協会)は“The White Album”のセールスが950万セット(1900万枚)を超えたとして、”19× Platinum“に認定(RIAAは100万枚のセールスを上げたアルバムをプラチナ・アルバムに認定している)。また、同作は米レコーディング・アカデミーからも、その”恒久的な質的/歴史的な価値“を認められ、同協会の設立したグラミーの殿堂(グラミー・ホール・オブ・フェイム)入りを果たしている。
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『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』全曲の新ステレオ・ミックスと5.1サラウンド・ミックスに加えて、同時期にレコーディングされたデモ、同作のレコーディング時に残されたセッション・レコーディング等の未発表音源を収録。
1968年11月、ザ・ビートルズ通算9作目であり、初のダブル・アルバムとして発売された『ザ・ビートルズ』。自身のレーベル、アップル・レコードからの第1弾でもあるこの作品はのちに“ホワイト・アルバム”と呼ばれることになり、リリースから50年にわたり、その収録された多彩で野心的な音楽で新しい聞き手を魅了し続けてきた。
2017年に発売され世界中で大きな話題となり、成功をおさめた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に続き、今回『ザ・ビートルズ(ホワイト・アルバム)』の50周年記念エディションが複数フォーマットでリリース。
新ステレオ・ミックスと5.1 サラウンド・ミックスはプロデューサーのジャイルズ・マーティンとミックス・エンジニアのサム・オケルが担当。
https://sp.universal-music.co.jp/beatles
ザ・ビートルズ『リボルバー』についてあなたが知らない15のこと
‡2016(平成28)年08月22日(月) 16:30 Colin Fleming
写真◆Photo by Santi Visalli Inc./Getty Images
ひどいダジャレ、ドラッグ、カモメの声、その他さまざまのことが、この1966年の傑作にいかにして織り込まれたのか。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』がビートルズの文化面での頂点を達成し、俗に言う"サマー・オブ・ラヴ"に湧いた1967年の西側社会の時代精神に事実上見直しを迫ったのに対し、その前作、
1966(昭和41)年08月05日(金)にリリースされた『リボルバー』は、ビートルズ最大の音楽的転換点であった。ビートルズがこれほど品質の高い楽曲集を世に問うたことはこれまでになかったし、ポール・マッカートニーの作曲がこれほど冴(さ)えていたこともなかった。ジョン・レノンも全然悪くなかった。およそロックバンドがここまでどっぷりとスタジオ技術の魔法に取り組んだこともなかった。単純な話、これまでにどんな音楽のバンドも、サウンド制作の考え方そのものを変えようと、これほどさまざまのことをしながらも、完全な楽しさと徹底的な芸術性を保ったことなどなかったのだ。『サージェント・ペパーズ』は制作や編集の面で数多くの伝説を生み出した。その点で『リボルバー』は常に後れを取ってきていたが、この不朽のアルバムが50歳になるに際して、それは本当に事実だったのか、再検討しておく価値がある。そんなわけで、今でも衝撃的なこの名作についてあなたが知らないであろう15のことをまとめてみた。
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https://rollingstonejapan.com/articles/detail/26448
■01. ジョン・レノンは『イエロー・サブマリン』で危うくく死にかけていた■
1966(昭和41)年06月01日の水曜日、ビートルズは、マリアンヌ・フェイスフル、ザ・ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズ、ジョージ・ハリスンの妻パティら血気盛んな連中とともに、『イエロー・サブマリン』に効果音を載せるため、アビイ・ロードのスタジオ2に集まっていた。『The Goon Show』(訳注:1950年代に人気を博した、英国BBCラジオのコメディ番組)の大ファンだった頃から、ジョン・レノンは常にお笑いに特別な関心を持っていた。気分はすっかり潜水艦長のレノンは、まずはうがいをしながら歌おうとして失敗、次に『リボルバー』のエンジニア、ジェフ・エメリックに、水中で歌わせてくれないかと無理を言っていた。エメリックは後にこう書いている。「ジョージ・マーティンは何とかレノンを諦めさせようとしていたが、私は代案を思いついていた。マイクを水に沈めて、ジョンに歌わせてみてはどうだろう?」水没から保護するため、コンドームでしっかりとマイクを包んだところ、レノンが皮肉を言った。「マイクが妊娠したら困るだろ」。そしてマイクをミルクのカートンの中に落としたのだった。音が遠すぎたため、この作戦は却下されたのだが、この時のレノンがどれほど幸運だったか、当時は誰も気がつかなかった。エメリックが振り返る。「数年たってから気がついた。当時使っていたマイクはファンタム電源を使っていた。つまり、マイク自体に実際に電気が通じている状態なんだ。英国では240ヴォルト方式を使っているから、レノンを始めそこにいた全員があっさり感電死することだってありえたんだ。そして私は、歴史上初めて、スタジオでクライアントを殺害したレコーディング・エンジニアとして名を残すことになってもおかしくなかったんだ」
■02. ビートルズ・サウンドの秘密兵器の使用は『リボルバー』から始まった■『リボルバー』の音のシチューに主な原材料があるとすれば、それはビートルズとジョージ・マーティンが作り出した、事情通がアーティフィシャル・ダブル・トラッキング(ADT)と呼ぶテクニックだった。例えば『トゥモロー・ネバー・ノウズ』で、レノンの声がまるで地球外のもののようになるところで聞くことができる。「ADTとは、音のイメージをわずかに遅らせたり早めたりすることで、二重に聞こえるというものだ」とジョージ・マーティンは『ビートルズアンソロジー』で語っている。「写真に例えれば、ネガが2つあるようなものだ。1枚のネガを正確に焼けば、写真が1枚だけできる。音のイメージも1つだけなら、1つのイメージにしかならない。すかし、ほんの数ミリセカンド、8から9ミリセカンドほどずらしてやれば、こもった電話のような音質が得られるんだ」レノンはもっとあっさり表現している。「僕らは2重のつなぎ目と呼んでるけどね」
■03.『タックスマン』のギター・ソロはポール・マッカートニーが弾いていた■『リボルバー』以前は、ビートルズの楽曲のギターソロと言えば、レノンによる一部の例外を除き(例えば『ロング・トール・サリー』の最初のソロなど)、およそジョージ・ハリスンが担当していた。ハリソンはまた、初期のビートルズのアルバムで作者やシンガーとしてのクレジットは限定的なものにすぎなかったが、『リボルバー』では大きく露出することとなった。このアルバムには彼の楽曲が3曲収録されている。特にオープニングナンバーの『タックスマン』 には、ハリがあってハイエナジーで、このアルバムの雰囲気を決定づけている。ところがハリスンは、このファズの効いた名人芸のソロを演奏していなかったのだ。「この曲のセッションはいささか緊張感のあるものとなった」とエメリックは回顧する。「ジョージがギターソロの演奏にかなり苦労してね、実際テープを2分の1倍速で聴き直すと、まともな演奏ができていなかった。ジョージが苦戦するのを何時間か待っていたら、ポールとジョージ・マーティンが相当イライラし始めてね。だって結局これってハリスンの曲だし、これにこんなに時間をかけるつもりは誰にもなかったんだ。」手厳しい指摘だが、結局そこでマッカートニーが登場し、60年代で最良の1つに数えられているギターソロを演奏したのだった。ハリスンのギタリストとしての足跡は、『アイム・オンリー・スリーピング』の逆回転録音と、マッカートニーの楽曲『ゴット・トゥ・ゲット・ユー・イントゥ・マイ・ライフ』でのR&Bスタイルのブレイクにより深く刻まれている。
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■04. 『グッド・デイ・サンシャイン』でマッカートニーは、ザ・ラヴィン・スプーンフルを模倣しようとしていた■ポール・マッカートニーは当時、このバンドの文化の目利き役として、舞台作品やアヴァンギャルド音楽、クラシックから、ラヴィン・スプーンフルといった現代作品までを吸収していた。「『グッド・デイ・サンシャイン』では、僕は『デイドリーム』のような曲を書こうとしたんだ」とマッカートニーは語っている。スプーンフルのこの曲は地味なバラードで、『サンシャイン』の勢いや活気は見られないのだが、こうした影響は、ビートルズがいかに他人の音楽的なアイデアのかけらを採り上げて、完全に自分たちのものに作り上げてしまうかの好例になっている。この曲には「伝統的な、ほとんどトラッド・ジャズ的な感覚がある」とマッカートニーは付け加えている。「彼らの曲ではこれが一番のお気に入りなんだよ」
■05. アルバムカバーのデザインはマンフレッド・マンのメンバーが担当していた■小さなビートルズを白黒でサイケデリックにブリコラージュした『リボルバー』の有名なカバーアートのデザインを担当したのはクラウス・フォアマンである。ハンブルグ時代にビートルズと偶然出会い、彼らにアストリッド・キルヒャーを紹介した人物だ。キルヒャーは後に、ビートルズのオリジナルのベーシスト、スチュアート・サトクリフの妻となる。フォアマンは楽器の演奏はできなかったが、英国に移住し、マンフレッド・マンに加入していた。70年代のヤン・S・ウェナーとのインタヴューでレノンは次のように質問していた。「クラウス・フォアマンが描いてくれたあの白いアルバムって、『ラバー・ソウル』の前だったっけ、後だったっけ?」。これはレノンが、ビートルズの傑作アルバムのタイトルは忘れてしまっても、フォアマンの作品はちゃんと覚えていることを物語っているのである。「人の耳からものが出てきているようなところが気に入っていたし、スケールの大きな作品でありつつ、とても細かいコラージュが施されていて、僕らは気に入っていたよ」とマッカートニーは語っている。「それに彼は僕らのことをよく知っていたから、とても美しく描いてくれている。光栄なことだよ」
■06.リンゴ・スターのひどいダジャレがアルバム・タイトルとして採用される寸前だった■『リボルバー』というタイトルは銃から来ていると思っている? それは間違いである。このアルバムはある時点では『After Geography』(アフター・ジオグラフィ)になるところだったのだ。これは、ザ・ローリング・ストーンズのアルバム『アフターマス』にひっかけたリンゴ・スターのひどいダジャレで、ロック史の金字塔が危うく高校の授業ジョークになってしまうところだったのだ(訳注:Geography = 地理、Math = 数学)。『Beatles on Safari』、『Four Sides of the Circle』、『Fat Man and Bobby and Abracadabra』といったタイトル候補もあった。特に最後のタイトルは、すでに他の人に使用されていることが判明するまで、有力候補として残っていた。最終的なタイトルについては、このアルバムがすること、つまり”回転”(revolve)から決定された。まったく、ビートルズほどダジャレ好きなバンドはかつてなかった。後年まで不評を買うようなタイトルになることを危うく回避したのだった。
■07.マッカートニーは、レノンの起床を待っている間に『ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア』を書きあげたポール・マッカートニーは『リボルバー』の作曲セッションでケンウッドにあるジョン・レノンのアパートを訪れたが、もう昼すぎだったにもかかわらず、レノンはまだ寝ていた、「僕はプールサイドのサンデッキの1つに、ギターを持って座っていた」とマッカートニーはバリー・マイルス著『メニー・イヤーズ・フロム・ナウ』で明かしている。ほどなく、彼は『ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア』を生み出す。この曲はレノンお気に入りのビートルズ・ソングの1つとなった。「歌詞の最後の部分はジョンが書いたのだったかもしれない」とマッカートニーは続ける。「それでさ、スタジオでこの曲を歌った時には、実はマリアンヌ・フェイスフルのように歌ってやろうと思っていたんだよ。これは誰も知らないことだ」
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■08.『シー・セッド・シー・セッド』はもともと『ヒー・セッド・ヒー・セッド』だった■レノンが死について書いたズキズキくるこの曲は、『シー・セッド・シー・セッド』になる前には『ヒー・セッド・ヒー・セッド』と呼ばれていた。というのも、文字通り彼が言ったことについての曲だからである。彼というのはピーター・フォンダのことで、フォンダはLSDでトリップしながら、あの世を経験した話をして、レノンを完全にびびらせていたのだった。問題の夜は
1965(昭和40)年08月24日(火)、ビートルズは北米ツアー中の休日で、ビヴァリーヒルズでフォンダやザ・バーズとパーティーに興じていた。フォンダはローリングストーン誌にこう書いている。「彼らは机の下に隠れている女の子を見つけたりして、雰囲気は完全にぶっ飛んでいた。ビリヤード場に窓から忍び込むと、LSDを決めたリンゴはキューを逆さまに持ってビリヤードをしていた」子どもの頃フォンダは、銃で撃たれて死にかけたことがあった。彼はその傷跡をビートルズのメンバーに見せると言い張った。ジョージ・ハリスンはウンザリし、レノンはもう黙ってくれと言っていた。ケンウッドに戻ったレノンは、1人でアコースティックギターで繰り返し次のように歌った曲を録音した。「彼は言った。死がどんなものか、僕は知っているよ。そして僕は言った・・・」。この曲は『リボルバー』で最後に録音された楽曲になった。
■09.『エリナー・リグビー』に登場するマッケンジー神父は、マッカートニー神父になっていたかもしれなかった■ジョン・レノンの親友にピート・ショットンがいる。レノンはリヴァプール時代からショットンと一緒に育ち、後にスーパーマーケットまで買い与え、作曲のセッションにまで招き入れる間柄だった。ある時ケンウッドでそんな機会があった。ビートルズメンバーはみな、恋人を連れてやってきていた。夕食が済むと、男たちはレノンの自宅スタジオに向かった。レノンはみんなが見ていたテレビ番組に退屈しきっていた。「そんなクソみたいなものは放っておけよ」とレノンが言っていたと、ショットンは著書『The Beatles, Lennon and Me』で語っている。「いつものように自分のギターを持ちこんでいたポール・マッカートニーは、それを取り出すとかき鳴らし始めた」。ポールはみんなに新曲を聞かせた。それがたまたま、『エリナー・リグビー』だったのだ。曲に出てくる牧師のもともとの名前は、マッカートニー神父だった。「ちょっと待てよ、ポール」とショットンが口を挟んだ。「これだとみんなが、キミの気の毒なお父さんの話だと思うんじゃないか。リヴァプールにたった1人で取り残されて、靴下の穴を縫い合わせているあのお父さんをさ」。もっともだった。みんなが口々に代わりの神父の名前を言い出したが、最後はショットンの提案したマッケンジー神父という名前と、この神父が夫に先立たれたリグビー夫人のために葬式を担当するという背景アイデアが採用されることとなった。「お前にオレたちのやろうとしていることが分かるわけがないだろう」とレノンが評論すると、ショットンは「ファックユー、ジョン」と答えたのだった。
■10.マッカートニーは『フォー・ノー・ワン』のフレンチ・ホルン奏者と一触即発だった■ビートルズの活動に参加することの悲しい側面に、ビートルズのアルバムに1度でも登場したなら、他に何をしても目立たなくなってしまう可能性があるということがある。ビートルズファンは、マッカートニーの名作『フォー・ノー・ワン』でフレンチ・ホルンを吹いていたアラン・シヴィルの名前を知っている。しかし、この音楽家の実績はそれにとどまらない。シヴィルはクラシックの世界では十分に認められており、最終的には大英帝国勲位(OBE)を授与されている。後に『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』のオーケストラ演奏のクライマックスにも登場しているが、本来は特にモーツァルト作品のマスターである。そしてシヴィルは、危うくポール・マッカートニーと衝突寸前となった人物でもある。「ポールは、アラン・シヴィルがどれほど素晴らしい仕事をしてくれたのか、分かっていなかった」とジョージ・マーティンは語っている。「完璧な演奏の後、ポールがこう言ったんだ。”オーケー、もうちょっとうまくできるよね、ねえアラン?”。アランは爆発寸前だった。もちろん、彼はやり直しはしなかったし、その時我々が聴いた演奏を、今あなたが聞いているわけだ」マーク・ルーイスン著『ザ・ビートルズ レコーディング・セッションズ完全版』で語るシヴィルは、如才ない大人のコメントを残している。「私にとっては、ある1日の仕事にすぎないよ。実際にはあの日3つ目のセッションだったんだがね。まあ、非常に楽しかったよ」。そうでしょうとも。
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■11.『タックスマン』のカウントは楽曲の1か月後に録音されていた■『リボルバー』のセッションには奇妙な日付がたくさん見られる。ハリスンの『タックスマン』の録音は
1966(昭和41)年04月20日(水)に始まり、4テイクが録音されたのだが、アルバムの最初で聞かれる「ワン、トゥー、スリー、フォー」という有名なカウントはこの4テイクのどれにも収録されていない。この『タックスマン』の頭のカウントも、実はスタジオで再修正が施されたものの1つである。ハリスンがこの乾いたウィットのあるイントロを提供したのは
1966(昭和41)年05月16日(月)とされている。実際にオフマイクでこの曲のカウントを取ったのは、マッカートニーである。
■12. このアルバムで特徴的なドラムサウンドは、あの4つ首セーターのせいだった『リボルバー』の印象的なサウンドの特徴の中には、リンゴ・スターのドラムキットから放出されたものもある。レノンとマッカートニーがさまざまな曲作りのアイデアに没頭している間、時間つぶしで忙しかったにもかかわらず、スターは常にサーヴィスを提供しようとし、ドラムに対する比類なき複合的アプローチを展開する準備ができていたのだ。彼にはある意味、仲間もいた。「僕はバスドラム用のマイクを、これまでになかったくらい、ドラムのうんと近くに動かした」とエンジニアのエメリックは語っている。「昔のビートルズの写真で、首が4つあるウールのプルオーヴァーを着ているヤツがあるだろ。あれをドラムの中に詰め込んで、音を殺したんだ。そうしておいて、その音をFairchild 600リミッター/コンプレッサーにぶちこんだんだ」。こうして、『リボルバー』時代のおなじみのドラムサウンドが誕生したのだ。
■13. ジョージ・ハリスンはタイトルを考えるのがあまりにも下手だった作曲家として脚光を浴び始めたジョージ・ハリスンは、自分の作品をどう呼ぶかのをほとんど考えることができなかった。『リボルバー』収録の3曲のうち、『ラヴ・ユー・トゥ』(これもビートルズ特有の言葉遊び、あるいは、おそらくは文法ミス)はもともと、林檎(りんご)の品種名から『グラニー・スミス』と名付けられていたのだ。曲そのものとは何の関係もない。セッションテープに残された記録によると、後に『アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー』となる曲のタイトルをジョージ・マーティンに尋ねられたハリスンには、何のアイデアもなかった。こういう機会をけして逃さないジョン・レノンは、『グラニー・スミス・パート2ではどうだい。キミは曲にタイトルを付けたことが本当にないな!』とすかさず突っ込みを入れている。
■14.『ドクター・ロバート』は実在した■『ドクター・ロバート』は、ビートルズが公然とドラッグを扱った最初の楽曲であり、モデルの医者はニューヨークでクリニックを経営していたロバート・フレイマンであるとされる。レノンはデヴィッド・シェフの著書『ジョンとヨーコ ラストインタビュー』で、「ツアー中に薬を運ぶのは僕の役目だった」と語っている。薬なら、グレイト・ホワイト・ファーザーとも呼ばれたフレイマンのような医者からもらえるという想定であった。しかし、ビートルズ初のドラッグをオープンに扱ったこの曲は、ポール・マッカートニーの『メニー・イヤーズ』によると、パロディなのであった。「ドラッグで身体を治してくれる空想上のドクター。これはジョンと僕とで面白いと思って考え出したアイデアで、冗談なんだよ。僕の知る限り、僕らは2人とも、その手の薬を入手するのに医者のところに行ったことはないと思う。ただ、そういうことは流行っていたし、今でも流行っているよ。血を入れ替えて、ヴィタミン注射をしたら、気分が良くなるんだろ」
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■15.『トゥモロー・ネバー・ノウズ』の鳥の鳴き声は、ポール・マッカートニーのサウンド・ラボラトリーで制作された■『リボルバー』の最初のセッションの時点では、この曲の仮題は『Mark I.』だった、ビートルズの伝承によると、検討されていた題名は『The Void』(無効、排泄)だった。ジェフ・エメリックの記憶によると、レノンはよりよいヴォーカルのサウンドを見つけるのに夢中で、ブレーンストーミングの末に奇妙な録音方法を考え出したのだった。「レノンは、スタジオの天井の真ん中から自分をつり下げ、床の真ん中にマイクを設置し、そうして自分を押してくれ、自分はゆれながら歌うから、と提案した」マッカートニーは自伝『メニー・イヤーズ』で、別の作曲セッションを振り返っている。「ジョンが自分のギターを取り出して、『トゥモロー・ネバー・ノウズ』を作り始めた。コードはたった1種類だった。というのも、当時僕らはインドの音楽に興味を持っていたからだ。僕らはみんなで座ってインドのアルバムを聴いたものだったが、アルバムが終わると”コードが一度も変わらなかったことに気がついたか?"なんて言い合ってたんだ。”畜生、全部Eじゃないか。なんて斬新なんだ"」今にして思えばこの曲は純粋にレノンっぽいけれど、実際には共同作業で作られた。曲の頭の特徴的なコードはハリスンの仕事だ。一方マッカートニーは例によって繰り返しの王様だ。『トゥモロー・ネバー・ノウズ』で聞かれる、あの興奮して地獄から飛び出してきたような鶏の鳴き声は、マッカートニーが作ったテープを切り刻んで作ったものだ。テープにはディストーションを効かせたギターやベース、ワイングラスがぶつかり合う音などが収録されていた。それらをスタジオの5台のテープマシンで再生し、フェーダーを駆使したのだ。コントロール・ルームでは、ジョージ・マーティンとジェフ・エメリックが「ここでカモメの声!」と叫んでいたのだろう。こうして人類の鼓膜の歴史に存在しなかった音風景が、世界に放たれたのであった。これほどまでにリボルバーっぽいことってあるだろうか。
https://rollingstonejapan.com/articles/detail/26448/6/1/1
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┃『THE BEATLES GRATEST STORY』 ┃
┃『ザ・ビートルズ グレイテスト・ストーリー』 ┃
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1978(昭和53)年08月05日(土) 劇場公開日
1978(昭和53)年製作/99分/アメリカ
原題:THE BEATLES AS THEY WERE
配給:IP、集英社
解説:1962(昭和37)年10月05日(金)にデビューして以来8年間、世界に旋風を巻き起こしたビートルズ、彼らの軌跡を編集したドキュメント・ムービー。1964年のカーネギー・ホール、1965年のシェア・スタジアムなど、コンサートの模様を伝えるとともに、メンバーの私生活のスケッチも織り交ぜている
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ビートルズの歩みを映像で綴る「ヒストリーもの」劇場公開されたものは99分、ビデオは短縮版で60分収録。劇場公開時のタイトルは「グレイテスト」、ビデオのパッケージとテープのラベルでは「グレーテスト」、ビデオの解説書では「グレイテスト」表記。1978年制作→ビデオソフトというものが出始めた時期(1980年前後)に、画質の良くないビデオが東映ビデオから発売(型番:TE-M504)→廃盤(未DVD化)基本的にはいくつかの映像をただつないだだけで、「ドキュメンタリー」と呼べるほどの内容ではない。日本ではまず劇場公開され、地方局でテレビ放映もされていた(その時は115分枠だったから本編90分ぐらいか)。東映ビデオから発売されたビデオ版は一部をカットして60分の長さにした短縮版で、ビデオ用にテロップを入れるなどして再編集してある。ビデオ版の内容:(曲名の終りに◎の付いているものはいちおうカラーだが、相当退色している)
■キャバーン(リバプール)でのライブ
‡1962(昭和37)年08月22日(水) ♪Some Other Guy♪
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https://eiga.com/movie/44869/
http://beatleslist.web.fc2.com/b4video2.html
https://www.facebook.com/groups/720792321370235?sorting_setting=CHRONOLOGICAL
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