過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 

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 ┃ 『HEY JUDE』Photo Session  ┃‡1969/08/22(fri)
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━┛Final photo session with all four Beatles takes place at John and Yoko's Tittenhurst Park estate. Photographers: Ethan Russell, Monty Fresco and Mal Evans. Partially shot.
 Locations: 
 01) Pillars in front of the main house; 
 02) Main garden path; 
 03) Paddock of high grass; 
 04) John and yoko posing with donkeys; 
 05) cypress tree by the Diana statue; 
 06) Weeping blue Atlas cedar trees; 
 07) Atlas trees; 
 08) Lawn near main house; 
 09) Balcony; 
 10) Side doorway in the assembly hall; 
 11) Arched porches; 
 12) Walled path between cottages and main house; 13) Indoors; 
 14) Southern balcony of main house
 ┏━━━━━━━━━━━━━┓かみばやし さとる      朝日文庫
 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 本体680円+税 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛  2013(平成25)年11月30日(土)第1刷発行
‡No.49 P.274 1969年08月22日「最後のフォト・セッション」◎コンピレーション・アルバム『HEY JUDE』ジャケット撮影日◎
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 ┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
 ┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
  人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
  ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
  文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
  語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
 ┌─――――――――――――┐
‡|1969(昭和44)年 8月22日(金)|「最後のフォト・セッション」
 |2009(平成21)年 8月21日(金)|甲虫日記更新日 No.056
 └─――――――――――――┘ビートルズのオリジナル・アルバム13タイトルとアルバム未収録曲などを集めた『PAST MASTERS VOL.1&2』をリマスターしたCDが間もなく発売される。より本来の音に迫ったサウンドがCDで聴ける喜びの半面、CD化もされていないアルバムについて改めて気になった。1970年2月、キャピトルから米国で発売されたコンピレーション・アルバム「HEY JUDE」もその1枚。大きな扉の前に4人が並んで立った「大人のビートルズ」が印象に残るジャケットだ。
この写真は69年8月22日、ロンドンの南西バークシア州アスコットにあるジョンの自宅ティッテンハーストで撮影された。ジョージ王朝様式の屋敷と、72エーカー(29.14ヘクタール)の広大な敷地があり、ジョンとヨーコは入居したばかりだった。
撮影者は、写真家イーサン・ラッセル、「デーリー・メール」紙のカメラマン、モンティ・フレスコ、ビートルズの助手マル・エバンズの3人。ポールの妻リンダも随行して16ミリフィルムを回した。臨月の彼女は6日後にポールとの最初の子どもメアリーを出産する。
ジョンとジョージはつばの広いカウボーイ・ハットをかぶっていた。撮影は母屋の前から始まり、前庭の小道を進み、背の高い草が生い茂る放牧場に向かった。ここで一列に並んだ4人の姿はアンソロジー映像版のラスト・シーンにも登場してくる。
『HEY JUDE』の表紙は、ビクトリア朝様式の集会室の正面扉で撮影したもの。裏面は、母屋の前庭で壁をバックにしたカットが使われた。1763年にできたこの屋敷の庭は「ティッテンハースト・パーク」と呼ばれ、非常に珍しい樹木があることで学者の間では知られている。69年当時、高さ約38メートルのセコイアや9種類の糸杉、7種類の松、5本のヒマラヤスギ、英国で2番目に高いオニヒバ(約34メートル)などがあり、ジョンとヨーコが入居するまでは一般に開放されていた。
なかでもヒマラヤスギの一種で、「しだれカーテン」のような2本のウィーピング・ブルー・アトラス・シダーが有名だ。『HEY JUDE』のジャケットには、アトラス・シダーの下で撮影した1枚を正面扉の上部分の枠のなかに合成写真としてはめ込んでいる。
4人そろった最後のフォト・セッションの場所となった。その2日前には、アルバム『ABBEY ROAD』のために4人そろって最後のレコーディングをすませてもいた。『ABBEY ROAD』は、4人とも最後の録音だと悟っていた。だが、ティッテンハーストでのフォト・セッションもそうだったとはわからない。リンゴは「『よし、これが最後のフォト・セッションだ』なんて思っていたわけじゃない」と語っている。
 ◎撮影場所になったジョンの自宅はその後… 次のページへ
ジョンは1971(昭和46)年9月にニューヨークに移るまでの3年間、ここでヨーコと過ごした。英国に住んだ最後の家だ。♪Imagine♪のビデオ・クリップを見た人は、壁も内窓も白で統一された広いフロアで白いグランドピアノを弾くジョンの姿を思い浮かべるだろう。屋敷には8トラックのレコーディング・スタジオも設置され、アルバム「イマジン」が録音された。DVD「Gimme Some Truth」にその様子が詳しく収められている。
この家は1973(昭和48)年9月にリンゴに売却された。白亜館の自宅スタジオは「アスコット・サウンド」から「スターリング・スタジオ」と名を変えた。リンゴも88年にはこの家を出た。アブダビ首長国連邦の首長が新しい所有者になると、屋敷は大幅に手が加えられ、ジョンとリンゴが使っていた家具などはほとんど廃棄されたという。
こんなエピソードを拾い出しながら、30年以上前に買ったレコードのジャケットを見ていると感慨が深まる。キャピトル初の編集アルバムは、66年から69年にかけてシングル盤だけで発売されていた8曲と、キャピトルのアルバムには未収録だった初期の2曲の計10曲が収められている。
EMIは1987(昭和62)年にビートルズの音源をCD化したとき、英国盤12タイトルに米国編集盤『MAGICAL MYSTERY TOUR』を加えた13タイトルをオリジナル・アルバムとして統一した。その他に世界各国で独自に発売されたレコードは、米国盤キャピトル・シリーズ以外にCD化の日の目を見ていない。
解散後に発売されたベスト盤や編集盤も同様に狭き門だ。1973(昭和48)年に発売された通称『赤盤』『青盤』と呼ばれる2枚組だけが1993(平成五)年に実現した。アルバム『HEY JUDE』がCD化されるハードルはかなり高そうだ。
 ◎『この日のビートルズ』の次回は9月5日(更新は4日)です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
 ◎お知らせ ⇒ アルバム『HEY JUDE』は、大々的な宣伝とベスト盤的な内容もあって米国では400万枚近く売れた。英国では1979(昭和54)年に発売。10曲のうち♪恋する二人♪(53位)、♪レイン♪(23位)、♪レボリューション♪(12位)、♪ドント・レット・ミー・ダウン♪(35位)、♪オールド・ブラウン・シュー♪(チャート入りせず)の5曲はシングルB面曲(かっこ内はビルボード誌最高順位)
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 https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
 http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/090821.html
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 ┏━━━━━━━━┓1970(昭和45)年2月26日(thu) US
 ┃ 『HEY JUDE』 ┃1970(昭和45)年4月21日(tue) JP
 ┗━━━━━━━━┛1979(昭和54)年6月X日(???) UK
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Hey_Jude_(Beatles_album)
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 ┃ U.K. Picture Disc issued to celebrate THE BEATLES'20th Anniversary ┃
 ┃        THE BEATLES 20TH ANNIVERSARY PICTURE DISKS        ┃
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 A面♪She Loves You♪/B面♪I'll Get You♪
 1963(昭和38)年08月23日(fri) 初リリース
‡1983(昭和58)年08月22日(mon) RP-5055 第04弾
 備考・・・BEATLESのレコード発売20周年としてイギリスparlophoneから発売されたピクチャーレコード。イギリスでのオリジナル発売日を20年後の1982年から1990年まで8年かけて('60年代)の発売月に合わせ22枚のピクチャーレコートを発売。スリーブは厚めの透明ビニールに入れられて発売。タイトルにより黒色の台紙を挿入。20周年記念ピクチャーレコードの中で台紙入りは♪Lady Maddona ♪The Ballad Of John And Yoko ♪Get Back ♪HEY JUDE ♪Something/Come Together♪の5タイトル
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 0106 http://www.dermon.com/Beatles/Pd_uk1.htm
 http://mst1.fc2web.com/20th/picture-disk.html
 https://en.wikipedia.org/wiki/She_Loves_You_(Misato_Watanabe_album)
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 ┃ 『The Beatles』The White Album  ┃
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 Apple PMC 7067-8; PCS 7067-8 - November 22, 1968
 Apple SWBO 101 - November 25, 1968
†Capitol SEABX 11841 (White Vinyl) - August 1978
†Parlophone PCS7067/8 (White Vinyl) - 1979
 Mobile Fidelity MFSL 2-027 - January 7, 1982
 Capitol C1-46443 - August 25, 1987
 (CD) Parlophone CDP 7 46443 2; CDP 7 46444 2 - August 24, 1987
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 http://www.beatlesagain.com/btlps.html
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 ┃ どらくスペシャル「ビートルズの目撃者 日本公演から40年」 ┃
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  ジョン・レノンが生きていれば、ことし66歳。
  リアルタイムで4人を知る世代から、リバイバルヒットした数々の名曲でとりこになった30代、40代もいる。
  そんなビートルズ世代が集うのが、『どらく』だ。
  1966(昭和四十一)年、世界を席巻したザ・ビートルズが来日し、
  厳戒態勢の中、計約5万人が東京・日本武道館で公演を見た。
  あのときの目撃者、『どらく』ピープルたちは、何をいま思うのか――。
  公演・滞在こぼれ話などを間にはさみながら、7回にわたって報告します。
  『どらく』編集長によるドクダンのアルバム・レビューとともにお楽しみください。
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‡|2006(平成18)年 8月22日(火)|第4回 「至近距離の飛び入り演奏~幸運を射止めたホテルの客人~」
 └─――――――――――――┘「ビートルズの目撃者」第4回は、日本武道館でのライブではない、知られざる日本での演奏について。ビートルズは東京・永田町の東京ヒルトンホテル(現・キャピトル東急ホテル)に5日間滞在した。ほぼ缶詰状態だった彼らにとって、息抜きになったのが、同ホテル内にあったナイトクラブ「スターヒル」での飛び入り演奏だった。(次回第5回は、仕事としてビートルズにかかわり、武道館公演も見たニッポン放送元DJで現相談役の亀渕昭信さんが登場します)ホテルの部屋を訪ねてきた加山雄三さんと談笑する4人当時、ウエーターだった現横浜ベイシェラトンホテル&タワーズの村松徹総支配人(62)によると、来日した翌日の6月30日午後10時すぎ、ジョンを除く3人が従業員用エレベーターで地下1階まで降りて調理場に現れたという。この日午後6時半からの初回公演を終えて、ほとんど間がなかった。店内ではビブラフォーン奏者・平岡精二のバンドが出演していたが、ポールらは「演奏していいか」と尋ねたという。店側はその場にいた客に事情を説明し、ドアを閉めて出入り禁止にした。何を演奏したのか曲名は分からなかった、という。左利きのポールに合うギターはなかったようだ。リンゴはドラムをたたいていた。「ステージと10メートルもない至近距離で彼らを見られたのですから、その場にいた客は幸運だったと思います」。店が閉まる同11時までの即興演奏会だった。ポールらは別の日にも夜の公演が終わってホテルに戻った後、再びクラブに現れて短い演奏をしたという。
 ◇目の前に現れた「キャバーン」 ⇒ 公演初日の前。お茶を飲むビートルズの4人ら6月24日から、最後となってしまうワールドツアーがスタートした。最初の公演地ドイツ(公演はミュンヘンなどで3回)をへて、来日は29日の午前3時40分。その夜にホテルで共同記者会見し、「日本については本で読んだ程度で、よくは知らないんだ」と答えたポール。宿泊したホテルの部屋は広かったとはいえ、「日本武道館以外に出歩いたら、みなさんの身の安全の保証は持てない」と警察当局にまで言われていた彼らは、ストレスがたまったのだろう。ホテルでの即興演奏は、ビートルズをかたちづくった地元リバプールのキャバーン・クラブで演奏しているような気にさせられたはずだ。2回目の公演は7月1日の午後2時からだった。即興演奏したことで吹っ切れたのか、この日の午前、わずかな時間を利用して、ポールはホテルにほど近い皇居前の広場を散歩し、ジョンは原宿や六本木に足をのばし、美術店などを楽しんだ。
 ◇4人の泊まったスイートのいま ⇒ 離日する7月3日まで泊まったホテル最上階にあるプレジデンシャルスイートは、ことし11月末に消える。来日3年前の63年に開業した同ホテルだが、周辺の再開発事業でクローズするためだ。208平方メートルというマンション3戸分ほどの広さの部屋は、いまも当時の面影を残す。8月の1カ月間は、通常43万8900円のこの部屋が11万5500円(税・サービス料込)で泊まれる「ビートルマニア宿泊プラン」を実施中。この予約は予約受付からわずか10分で完売した。
********** http://doraku.asahi.com/special/beatles/list.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%BA%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%85%AC%E6%BC%94
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 ザ・ビートルズ「レット・イット・ビー」がビルボードの1位を獲得した
 2018年04月18日(wed) 執筆者:森川欣信
 1970年04月18日(sat) 僕は彼らからのメッセージ(なすがままに=あるがままに)を受け入れることができなかった
シングル「レット・イット・ビー」が日本でリリースされたのは
1970年3月25日だった。日本はEXPO’70開催で沸き立っていた。その世相とは裏腹に僕の気持ちはどこか騒ついていた。その感情が僕の裡に芽生えたのはほぼ1年前、1969年初頭である。 
アルバム『THE BEATLES』(ホワイトアルバム)」が日本で発売されたのは1969年1月だった。その日は東大安田講堂占拠事件と重なっていた。
待ちに待ったザ・ビートルズの新譜である。『SGT.PEPPER’S』のリリースから約1年半。当時は情報量も少なく僕は当日レコード店でそのディスクを受け取るまでそのアルバムジャケットに大きな期待を抱いていた。『REVOLVER』のアルバムジャケットに驚かされ、それは『SGT.PEPPER’S』のその煌びやかで豪華なジャケットへと続き、ビートルズの変化、進化、そして頂点を極めた状況をサウンドだけでなくヴィジュアルからも僕は感じ取っていた。
だが、同時にザ・ビートルズの中でその結束のバランスがおかしくなって来ていることも感じ始めていた。まず、1967年以降、シングル盤のAサイドはポール主導になりつつあった。1968年、ジョンはオノ・ヨーコとの活動が増えどこかビートルズの外にいた。ジョージはインドに傾注していたしアルバム『ワンダーウォール』は難解だった。リンゴに目立った活動はなく映画俳優としてそのキャラクターを活かすというニュースが流布していた。ポールだけがビートルズを頑張っていたのだ。そんな状況の中リリースされたのがホワイトアルバムである。
ホワイトアルバム情報を最初に僕が知ったのは多分、音楽専門誌ミュージックライフからだったと思うが、耳に届いたのはオールナイトニッポン、DJ糸居五郎さんの番組からだった。それは1968年11月後半もしくは12月。フォーク・クルセダース解散の時期と重なっていた。
糸居さんは自身の番組の中で「バック・イン・ザ・USSR」をオンエアした。まず、そのビーチボーイズ風コーラスに驚かされ、その曲のメイン・ボーカルがポールであることからやはりビートルズはポール主導に変わってきてるんだなぁとそこでも感じ入った。そして何故かリズムのパターンが直線的でフラット、それまでのビートルズの躍動感とはちょっと違う印象を受けた。その時点でこの曲のドラムをポールが叩いていることなど知る由もなかった。
糸居さんはこの時、アルバムが2枚組であること、ジャケットには通し番号(シリアル・ナンバー)が振ってあること、そしてジャケットの『THE BEATLES』という文字が立体的になっているなどの情報を提供してくれた。しかし僕が一番知りたかった肝心のアルバムジャケット図案そのものについては触れなかった。『REVOLVER』『SGT.PEPPER’S』からこれほどかけ離れたデザインだったにも拘らず何故この時、糸居さんがジャケットについて言及しなかったのかは不明である。レコード・メーカーから届けられた資料にそのジャケット写真が載っていなかったのか? 当時レコード・メーカーが配布していた資料は多分一色刷りだと思う。つまりホワイトアルバムのジャケットである。そこに掲載されているレコードジャケットは真っ白なわけだから見逃してしまっていたのかもしれない。
ゆえに年明け1969年、レコード店で手にした『THE BEATLES』のアルバムジャケットに僕は大きな衝撃を受けた。『SGT.PEPPER’S』以降、どのアーティストもそのデザインはアートでポップ、カラフルなものへと移行、彼らの主張がそのジャケットから見て取れた。それはサイケデリック・ムーブメントの煽りもあったのだろう。ザ・ローリング・ストーンズ、クリーム、ピンクフロイド、アレクシスコーナー、ジミ・ヘンドリクス等のアルバムジャケットは僕を大いに楽しませてくれた。アルバムジャケットというものにアートを持ち込んだのは紛れもなくザ・ビートルズ『REVOLVER』だった。つまりまだまだビートルズはロックの、ポップ・ムーブメントの最先端にいた。
だが、ビートルズの新作ジャケットは肩すかしを食らうくらい「真っ白」で、一瞬言葉を失うほどだった。ビートルズがビートルズを清算しようとしている、どこか全てを放棄している、投げ出している、このジャケット・デザインにはそんなもの言わぬメッセージが込められている、僕はそんな深読みをした。ある意味痛快で心地よく期待を裏切り続けるところがこれまでのビートルズだった。しかしながら2枚組というボリュームにも圧倒されたがそこに収録されている曲はもはやバラバラになってしまったビートルズの始まり、後始末のようにさえ僕には響いた。これがホワイトアルバムを初めて聴いた時の感想である。『REVOLVER』『SGT.PEPPER’S』それ以降のシングルやEP「MAGICAL MYSTERY TOUR」でも言えることだが、ホワイトアルバムではさらにデビュー以来ジョンとポールがイーブンでボーカル・ハーモニーを重ね進行して行く作品は1曲も存在していなかった。後にビートルズ自身も語っているがジョンとバックメンバー、ポールとバックメンバー、ジョージとバックメンバー、リンゴとバックメンバーでこのアルバムは仕上がっていた。かろうじてポールだけが他の3人の作品に手助けをしている感じがした。
1969年はルーフトップセッションのニュースやアルバム『ABBEY ROAD』発表で救われたこともあったがどこかビートルズはその揺らぎだした結束というロープの上を綱渡りをしているように見えた。多分、あの時期、多くのビートルズ少年たちはビートルズはどこへ行くのだろうと不安に思っていたはずだ。
「元祖TOKYO BOYカタログ」 2013/10/>1969年秋-17歳僕は新宿を放浪していたその2. >
ザ・ビートルズの動向に関して、僕たちは不安で不穏な70年代を迎えた。アルバム『ABBEY ROAD』以降、ビートルズは身を潜めていた。ジョン・レノン&プラスティック・オノ・バンド『平和の祈りをこめて?LIVE PEACE IN TORONTO』が2月にリリースされ僕はそれを新宿帝都無線で購入した。Aサイドはルーズだがライブということもありそこで聴くジョンの声は嬉しかった。当時、ビートルズのライブ盤はリリースされていなかったし、まだブートレグも日本には到着していなかった。僕が知る限りビートルズのライブ音源はエドサリバン・ショーと映画の『ポップギア』、そして武道館公演でしか聴いたことがなかった(Our Worldは除く)。エドサリバン・ショーは再放送されていなかったし『ポップギア』は映画館で二度ほど観たきりだった。直に目撃した武道館公演、そしてオープンリールでTVからエアチェックしていた武道館公演、その数少ない体験だけが僕の知るビートルズ・ライブ音源だった。レコードとは違い粗雑で迫力に欠ける、それでも生々しいビートルズ・ライブ音源は当時としては魅力的だった。だから例えソロであれ、まだかろうじてビートルズのメンバーであったジョンのライブ・パフォーマンスが聴けるアルバム『平和の祈りをこめて?LIVE PEACE IN TORONTO』は、その出来はさることながら、僕にとっては貴重なアイテムだった(Bサイドはほとんど聴いてない)。
しかし一方このアルバムはさらにジョン・レノンのビートルズ離れを暗示していた。ザ・ビートルズからやはりジョン・レノンは脱退してしまうのかも、微かな不安が僕の頭を過ぎった。
そんな中、ビートルズのシングル「レット・イット・ビー」リリース情報を耳にした。だが、その曲を僕はビートルズより先にアレサフランクリン・ヴァージョンで聴いた。小さなラジオ・スピーカーから流れてくるアレサ・ヴァージョンは随分メロディーを崩していることが想像できた。だからそのメロデイーの骨格はビートルズのオリジナルを聴くまではっきり判断できなかった。
日本はEXPO’70で浮かれていた。東京オリンピック以来の国を挙げての祭り騒ぎだ。戦後復興してゆく日本、その幕開けの大イベント東京オリンピックが開催された1964年にビートルズは「抱きしめたい」で日本デビューを飾った。あれから6年。そしてやがて来るであろう未来を期待させるEXPO’70。11歳だった僕も17歳になっていた。そんな中リリースされた「レット・イット・ビー」は重く暗く物哀しい、まるで葬送曲のようなピアノでスタートした。僕は「レット・イット・ビー」というタイトルを文字通り「なすがままに=あるがままに」と解釈した。それは意味深なタイトルだった。手に入れたシングル盤のジャケットは黒く縁取られ4人の表情も個々に独立していた。そのポートレートはポールだけが正面を見据え、ジョン、ジョージ、リンゴのアップは左斜めに構えたものが選ばれていた。
4月10日、新学期が始まったばかりの夕方、帰宅して僕が開いた夕刊に「ポール、ビートルズを脱退」の記事が大きく載っていた。僕はついにそのX-Dayを迎えてしまったのだ。しかし、なぜ脱退がジョンではなくポールなのか? 3人のメンバーの心がビートルズから離れて行くのを薄々僕は感じていた。それをなんとか引き戻そうとしているのがポールだと理解していた。だから脱退声明を出したのがジョンではなくポールだった事がショックだった。そして冷静さを取り戻し、とてもやりきれない気持ちになった。ポールのメッセージ「レット・イット・ビー」はメンバーに向けてのものなのか? あるいは自分への問いかけなのか? そのメッセージは他の3人には届かなかったのだろうか? あるいは他の3人はそのメッセージを受け入れ、あるがままにビートルズでは無い自分の行く道を決めてしまったのだろうか…。もはや手に負えなくなったビートルズを見放したのが一番ビートルズを愛していたポールなんだと考えると「レット・イット・ビー」はさらに重く哀れに響いてきた。
翌日、4月11日「レット・イット・ビー」はビルボード誌のシングルチャート1位を獲得する。翌週4月18日、ポール脱退声明=ビートルズ解散の影響もあり「レット・イット・ビー」は2週続けて1位を維持する。ビートルズ解散がまだどことなく現実味を帯びていないまま「レット・イット・ビー」はセールスを伸ばし続けた。
僕は途方にくれる感覚を味わった。それはザ・ビートルズで育ってきたすべてのビートルズ少年たちに共通する気持ちだったと思う。
「そんなはずじゃないだろうビートルズ」(仲井戸麗市”新宿を語る 冬”)、ビートルズ少年たちはきっとあの時心の中でそう叫んだはずだ。その心の中にあるひとつの指針を失った僕はどこか少年期の終わりを無意識に感じていたのかもしれない。1970年4月18日「レット・イット・ビー(なすがままに=あるがままに)」、そんなビートルズからのメッセージはなかなか受け入れられなかった。
 ≪著者略歴≫森川欣信(もりかわ・よしのぶ):
●1952年8月22日 高知県生まれ。ワーナー・パイオニア(現ワーナーミュージック)、キティ・レコードにてディレクターを務める。RCサクセション、バービーボーイズ、ヒルビリーバップス等様々なアーティストの作品に携わる。1992年オフィス オーガスタを設立。杏子 山崎まさよし スガシカオ COIL あらきゆうこ 元ちとせ スキマスイッチ  長澤知之 秦基博 さかいゆう 竹原ピストル 松室政哉 等多くのアーティストを発掘。現在は同社:最高顧問。著書に『Gotta 忌野清志郎』(連野城太郎)がある。  
 http://music-calendar.jp/2018041801


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 ┃ 『The BEATLES (WHITE ALBUM)』プレスリリース訳全文  ┃
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 2018(平成30)年09月24日(月) ロンドン発
 1968年11月、数百万セットの2枚組LPが世界中のレコード店に向けて出荷された。騒乱に満ちたこの年、そのレコードの登場は、世界中の音楽ファンにとって、どんなものにも勝る最大のニュースになった。1968年11月にリリースされたそのレコードが『The BEATLES』―― やがて『WHITE ALBUM』と呼ばれることになるダブル・アルバムである。ザ・ビートルズは、通算9作目に当たるこのアルバムで、人々をそれまで体験したことのない世界に誘った。『The Beatles』は扇動的なジェット機の逆噴射音を伴い、ポール・マッカートニーが、エネルギッシュで活力に満ちたヴォーカルを披露する“Back In The U.S.S.R”から始まる。続いて登場するのはジョン・レノンの“Dear Prudence”で、ここで彼は友人たちと、私たちみんなに向かって穏やかに手招きし、“look around(周りをよく見てごらん)”と呼びかけている。そしてジョージ・ハリスンは“While My Guitar Gently Weeps“で、”With every mistake we must surely be learning(僕たちはあらゆる過ちから、何かを学び取っていかなければならない)“と歌い、私たちに普遍的な知恵を授けてくれた。このアルバムにはまた、リンゴ・スターの単独作とクレジットされた初めての楽曲“Don’t Pass Me By”も収録されていた。リリースから50年のあいだ、“The White Album”は、その多彩で野心的な音楽で新たな聴き手を虜にし、喜びと刺激を与え続けてきた。来たる

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