過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 


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 ┃   Beatles {U.S.A.} Ltd.   ┃
 ┃ THE BEATLES' 1964 US Tour ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡No.2 (tue)11 February 1964 8:30pm
 Washington, Washington Coliseum 
 Note・・・'64北米ツアー パンフレット 写真家 ロバート・フリーマン P.26 http://eil.com/shop/moreinfo.asp?catalogid=553605
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 https://en.wikipedia.org/wiki/List_of_the_Beatles%27_live_performances
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 映像◆【DVD】『The Beatles(ビートルズ)/LIVE AT THE WASHINGTON COLISEUM』
 フォーマット:1DVD
 コンディション(ジャケット/盤):NW/NW
 備考:WASHINGTON DC FEBRUARY 11, 1964.
 ビートルズのワシントンDCコンサートを、ビデオソースにて完全収録。いままで完全でなかった「TWIST AND SHOUT」も完全収録、オープニングでビートルズが入場するシーンからコンサートが終わって司会者が終演の挨拶をするところまで、かつフィルム傷が皆無のビデオソースでの完全収録ということで、従来のものとは比較にならないくらい完璧な内容です。
音質も格段に向上しており、「LONG TALL SALLY」の前では、ポールがオフマイクで「Last tune!( 最後の曲だよ)」とドラムセットを回転させているリンゴに声をかける音までしっかり聞くことができます。
このオーディオ部分は、ドルビーデジタル、PCM、5.1サラウンドと3種類を選択できる仕様となっています。プレス盤。 
 01. introduction & tuning
  02. Roll Over Beethoven
  03. From Me To You
  04. I Saw Her Standing There
  05. This Boy
  06. All My Loving
  07. I Wanna Be Your Man
  08. Please Please Me
  09. Till There Was You
  10. She Loves You
  11. I Want To Hold Your Hand
  12. Twist And Shout
  13. Long Tall Sally
  14. Outroduction 
 http://www.teenagedream-record-3rd.net/?pid=27182234

 映像◆2/11/64 DC concert https://youtu.be/Y8jc0Ng5ZQ4
 Beatles -- Live -- D.C. Concert (music film highlights!) 
 Roll Over Beethoven 
 From Me to You 
 I Saw Her Standing There 
 This Boy 
 All My Loving 
 I Wanna Be Your Man 
 Please Please Me 
 Til There Was You 
 She Loves You 
 I Wanna Hold Your Hand 
 Twist and Shout 
 Long Tall Sally
 
 映像◆https://youtu.be/ge66-bK0E70
 00:04 Roll Over Beethoven
 02:34 From Me to You
 05:19 I Saw Her Standing There
 08:41 This Boy
 11:32 All My Loving
 14:26 I Wanna Be Your Man
 17:34 Please Please Me
 19:58 Till There Was You
 22:08 She Loves You
 25:53 I Want to Hold Your Hand
 29:20 Twist and Shout
 33:00 Long Tall Sally
 
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 ┃2005『ザ・ビートルズ フロム・リバプール・トゥ・サンフランシスコ』 ┃00:00~
 ┃2003 WOWOW『ザ・ビートルズ ライブ・イン・ワシントンD.C.』   ┃51:46~
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 1964(昭和39)年2月 7日(金) アメリカへ初上陸
 1964(昭和39)年2月 9日(日)『エド・サリバンショー』に初出演
‡1964(昭和39)年2月11日(火) ワシントンD.C.で公演
 1964(昭和39)年2月12日(水) ニューヨーク・カーネギー・ホールで公演
 1964(昭和39)年2月13日(木) マイアミで二日間休暇 初 日
 1964(昭和39)年2月14日(金) マイアミで二日間休暇 二日目
 1964(昭和39)年2月16日(日) マイアミのホテルで『エド・サリバンショー』出演
 1964(昭和39)年2月18日(火) カシアス・クレイ(モハメド・リ)と面会
 1964(昭和39)年2月22日(土) イギリスに帰国
 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ワシントンD.C.ライブ
 ┃     『THE BEATLES DIRECT FROM THEIR     ┃ 上映予告編
 ┃  FIRST AMERICAN CONCERT IN WASHINGTON.D.C. COLISEUM!』 ┃  アメリカ初の
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ビートルズ公演
  AND ON THE SAME SHOW!“THE BEACH BOYS”LESLEY GORE
  同時上映『ビーチ・ボーイズ レスリー・ゴーア』     53分45秒過ぎから
    2Matinee Performances Each Day!
 1964(昭和39)年3月14日(土) 昼間各2回上映!
 1964(昭和39)年3月15日(日)
 映像◆ザ・ビートルズライブ・イン・ワシントンD.C.1964 http://video.fc2.com/content/20150604QCmThBwL

【ワシントンDC公演】
★アメリカで記念すべき最初のコンサートは「ワシントン・コロシアム」でおこなわれ、会場の8092席はもちろん完売。
★ステージの四方すべてに観客席があるという珍しいセッティングだったため、1,2曲ごとにマイクやアンプを移動させ、ドラムセットに至ってはリンゴが自分でドラム台を回転させるということもあった。
★ニール・アスピノールのコメント、、、「大変だった。四方に観客を入れるボクシング・リングだったから、全方位に向けて演奏しなければならなかったんだ。ビートルズは1曲ごとに別方向を向かねばならず、ボクらは常にマイクを持って移動した。リンゴはステージの丸いターン・テーブルの上に座っていたが、それも自分たちで回さなきゃいけなかった。ところがこれが動かなくなってしまった。それで混乱を招いた瞬間もあったけど、内容はいいコンサートだった。そのコンサートが撮影されていて、アメリカのキッズがお金を払って劇場に出かけ、このコンサートを見たという事実を20年後に知ったけどね。」
【ワシントンDC公演 セットリスト】
Roll Over Beethoven / From Me To You / I Saw Her Standing There / This Boy / All My Loving / I Wanna Be Your Man / Please Please Me / Till There Was You / She Loves You / I Want To Hold Your hand / Twist And Shout / Long Tall Sally
★ジョージが「好きな食べ物はジェリー・ベイビーズ」と発言したために、ファンの女の子がビートルズ(特にジョージ)めがけて投げるようになった。イギリスで売られているジェリー・ベイビーズは赤ちゃんの形をした柔らかいゼリーだったのに対し、アメリカで売られているものは日本のものと同様砂糖でコーティングされた「ジェリー・ビーンズ」。これはかなり硬くて、直後のインタビューでジョージは「ジェリー・ビーンズは硬くて痛いので危険だからやめてくれ。イギリスのジェリー・ベービーズは柔らかいんだ。」と発言している。
http://music.geocities.jp/yjunchan_999/first-america.htm

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 ┃ Lost Weekend 失われた週末は本当に失われていたのか・・・  ┃■2012(平成24)年2月11日(sat)  
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛テーマ:ビートルズ
(not second a time先輩からコメントで貴重な情報をいただきあらためて調べていく中でレココレ増刊の「ザ・ビートルズ・ソロ・ワークス」が自宅にあることに今頃気づき、その中のレコーディング・セッション・リストなどを参考に更に追記および動画の追加を行いました。)
ジョン・レノンのファンであればご存知かとは思いますが1973年の10月から1975年の1月までジョンとヨーコは別居生活を送っています。現在「失われた週末Lost Weekend」と呼ばれる期間なのですが、一般的な理解としてはジョンがヨーコと別れLAに出向きニルソンやリンゴやキース・ムーンと呑んだくれて放蕩の限りをつくしていたが、さすがに自分の愚かさに気づきヨーコに謝罪しよりを戻す迄の時期というものなのではないかと思います。
僕は「愛と平和」の使者=ジョン・レノンというのはジョンの死後にヨーコによって必要以上にデフォルメされたものだという考えを持っていて何度かこのブログでもそのことを書いてきました。同じようにこの「失われた週末」もジョンの死後、いやその前からジョンの正史からはできるならば削除してしまいたい期間としてジョン・サイドというかヨーコ・サイドからはほとんど語られる事が無かったように思われます。実際ヨーコの発言の中に「失われた週末」における最重要人物であるメイ・パンのことがまったく出てこないというのはあまりにも不自然な気がします。男性による女性差別について「女は世界の奴隷か」という歌をジョンに歌わせたくらいの「超フェミニスト」のヨーコですからメイ・パンをジョンの「慰安婦」として帯同させたなんて、そりゃ言えないですもんね。
まぁメイ・パンの言っていることも100%真実であるかどうかは神のみぞ知るなのかもしれませんが、それを考慮するにしても現在の「失われた週末」に対する情報はあまりにも少なく偏りすぎている気がずっとしていました。そこで、手持ちの資料にはなりますが、「失われた週末」の期間に一体何があったのかを時系列に沿ってかき集めてみました。
こうして見ると音楽家ジョンという観点から眺めるとこの「失われた週末」という期間が如何に活動的で実りの多い期間であったかということがお分かりいただけるのではないかと思います。決して「失われて」なんかはいない、そう思いませんか・・・
 1972(昭和48)年11月7日 マクガバンが大統領選挙に破れた夜、ジョンとヨーコはジェリー・ルービンのパーティに招かれる。NY中のリベラリストが集まった様なパーティでジョンはしこたま酔っぱらいとある女性とロッカー・ルームに閉じこもってしまう。ジョンと女性の行為は薄い壁を筒抜けでヨーコは強いショックをうけます。この出来事によってジョンとの間の「何か」が失われてしまったと感じたヨーコは自分の気持ちの整理を付けるためにジョンと別居し冷却期間を置くことを考え出します。
 1973(昭和48)年3月 合衆国出入国管理当局から国外退去が命じられる。ジョンの68年の麻薬不法報所持による。
 1973(昭和48)年3月 自身で何度かデモ録音していた「アイム・ザ・グレーテスト」をリンゴ・スターの新しいアルバム『リンゴ』に提供することを決め、サンセット・スタジオの『リンゴ』セッションに参加。メンバーはジョン(P、Vo)、リンゴ(Dr)、ジョージ・ハリスン(G)、クラウス・ヴーアマン(B)というほぼビートルズなメンバー。この歌ジョンが歌っていたらシャレにならないですもんね、リンゴで正解(笑)。
 1973(昭和48)年7月~8月 アルバム『ヌートピア宣言Mind Games』のためのセッションがNYのスタジオ、レコード・プラントで行われる。プロデューはジョン自身。

 ☆そして、ここから「失われた週末」が始まります。
 1973(昭和48)年10月 ヨーコの提案により別居生活に入る。ヨーコ曰く「愛するがゆえに分かれる」
『アンソロジー』のブックレットによればベッドの中でヨーコはジョンに告げます。
>”私たちはふたりともまだ若くて魅力があるのに、結婚しているというだけの理由でおたがいのなかに閉じこもってしまうなんて、とんでもないわ、そんなの私はいや。私たちらしくないわ、そうでしょ。離れてみて、どうなるか見てみましょうよ。””ロスへ行ってみるのはどうかしら?昔ビートルズのツアーで行って、楽しかったって話していたじゃない・・・。」
ヨーコの提案をしぶしぶ受け入れたジョンは最初の4日間は有頂天になっていたが5日目には早くも泣きを入れてきたとヨーコは回想します。
>”もう十分だ、家に帰りたいよ”私は笑い飛ばしました、あまりに早すぎたからです。
メイ・パンの著書「失われた週末」によれば、別居の始まりはこんな具合です。
>ある朝早くレノン夫妻の住むダコタ・ハウスの中にあった私の仕事場に、ヨーコが入ってきました。ヨーコは私に、ジョンと「うまくいっていない」ことを打ち明けました。<中略>ヨーコは続けてジョンは誰かほかの人と一緒に暮らすことになるだろう、その相手は「ジョンをうまく扱うことのできる人」であってほしい、と言いました。<中略>ヨーコはさらに続けました。「あなたボーイ・フレンドいないわよね」。私はペンとメモ用紙を落としてしまいました。聞き間違いではないかしら?私はヨーコに、こちらの一方的な勘違いかもしれないけれど、私はジョンに対して特別な感情はいだいていません、と念を押しました。ヨーコはそれは承知だと言いながらも話をやめませんでした。「あなたがジョンと一緒になるといいと思うの」。私は呆然としてしまいました。お断りします、私にはできませんと何度も言いました。でもヨーコはすっかり心を決めているようでした。「ジョンから誘われたら断らないようにね!」というヨーコの言葉には、単なる提案以上の強さが込められていました。
この半月後位にエレベーターの中でジョンに抱きしめられ、キスをされ「こうなる日をずっと待っていた」と告白されます。何度かジョンの誘いを断ったもののジョンの強引さに負け関係を持つことになります。そうしてNYで二人の関係が始まりますが、ある日ヨーコがフェミニストの会合に出席するためにNYを留守にした時に、たまたま弁護士のハロルド・シーダーもLAに向け出発しようとしていました。ジョンは突然思いついたように”NYを離れ二人で暮らそう”といいハロルドに同伴しLAへ旅立ちます。

 1973(昭和48)年10月メイ・パンと共にLAに赴いたジョンはビル・ワイマンとアンドリュー・オールダムと会います。アンドリューはベルエアのルー・アドラーの家を借りていたが、ロンドンに戻るのでそこに住めるようにルーに交渉し、ジョンとメイは約2ヶ月そこで暮らすことになります。
 1973(昭和48)年10~12月LAスにて『ロックン・ロール』のための録音を開始。プロデュースはフィル・スペクターに依頼。過去のフィルとの共同作業はアスコットやNYのスタジオというジョンのホームで行われましたが、今回はフィルのホームであるLAでの録音。NYと違うルーズさでジョンはいつも呑んだくれた状態でスタジオに入り、フィルもその奇人ぶりを遺憾無く発揮したためセッションは混乱を極め、手を焼いたジョンはアルバム制作を一時棚上げにしてしまいます。
この時のセッション・メンバーはジェシ・ディヴィス(EG)、ホセ・フェリシアーノ(AG)、リオン・ラッセル(Key)、ジム・ケルトナー(Dr)、ニノ・テンポ(Sax)、ゲストにスティーヴ・クロッパー(G)、ハル・ブレイン(Dr)、ジェフ・バリー、バリー・マン(Cho)というもので、きちんとやってくれていたらなぁと思うのは僕だけ?
 1973(昭和48)年10月『サムタイム・イン・ニューヨーク・シティ』の評論家からの酷評、売上の低迷に凝りていたジョンは積極的に発売間近の『ヌートピア宣言Mind Games』のプロモーション活動を開始します。ロスで再会したアップル・レコード総支配人トニー・キングの忠告もジョンに影響を与えていました。曰く”今、世間は君のことを批評ばかりする過激なやつだと思っている。それではレコードの売上も期待できない。必要なのは昔のように陽気で、ユーモアがあって、みんなから愛されたジョン・レノンに戻ることだ。”。そしてトニーはジョンのイメージ回復の手助となる効果的なインタビューの機会ををセッティングしている。
 1973(昭和48)年10月息抜きをかねてジョンとメイ・パンはラスベガスへ小旅行。トニー・キングやマイケル・ヘイゼルウッドを呼び寄せファッツ・ドミノ(前座はフランキー・ヴァリ)のショウなどを楽しみます。この時ラスベガスのステージに立つフランク・シナトラに歌わせたくて「愛の不毛Nobody Loves You When You're Down And Out」をジョンは作ります。
 1973(昭和48)年11月2日アルバム『ヌートピア宣言』発売。
 1973(昭和48)年11月2日リンゴ・スターのアルバム『リンゴ』発売。ジョン、ポール、ジョージが楽曲を提供しミュージシャンとしても参加。4人揃っての共演はないが大きな話題となる。
 1973(昭和48)年12月LAのジョンとメイ・パンの元へ離れて暮らす息子ジュリアン・レノン(10歳)と前妻シンシアが訪れる。この時ジョンは4年近く息子とあっておらず最初は気まずさも感じる再会でしたが、この再会がきっかけとなりジュリアンはたびたびジョンの元に訪れ親子の関係は修復されていきます。
この時にジュリアンとジョンがお遊びでモーリス・レヴィの管理楽曲である「YaYa」を録音。「カム・トゥゲザー」での盗作判決の穴埋めとして『心の壁、愛の橋』に収録されることに。
 1974(昭和49)年1月”これまで、僕はビートルズの話をするのが嫌だった。だが今ではそういう気でもなくなってきた。現在、どんなことでも起こりうる可能性がある。近い将来、我々4人で何か素敵なことをするかもしれない。”ロサンジェルス・タイムス紙のインタビュー。『リンゴ』の発売もあり、再結成の噂がまことしやかに囁かれる。
 1974(昭和49)年2月16日メロディー・メイカー誌が”ビートルズ・トゥゲザー・アゲイン!”という特大見出しでビートルズ再結成を予測。ポールの再結成を匂わす発言、ジョン、ジョージ、リンゴがアレン・クラインを馘首したこと、1月に4人がニューヨークで一同に会した(噂のみ)ことがその理由。
 1974(昭和49)年3月ニルソンらとともに泥酔し暴れたためロスのトゥルバドール・クラブからたたき出されたことが記事になる。出演中のスマザーズ・ブラザースに悪態をつき、ウェイトレスに暴行を振るったとのこと。
 1974(昭和49)年3月NYのプロモーター、ビル・サージェントがビートルズ再結成の一夜公演に42億のギャラを申し出る。ジョンもポールも無視。
 1974(昭和49)年3月28日ジョンがプロデューサーとなりニルソンのアルバム『プシー・キャッツPussy Cats』の録音がLAのバーバンク・スタジオで開始される。この日の夜遅くNYに来ていたポール・マッカートニーとリンダがひょっこりと姿を見せます。ジョンとポールはビートルズ解散後、最初で最後のジャム・セッションを行います。途中からはスティーヴィー・ワンダーも加わったというこのセッション、テープが回っていればなぁ。
(追記:と書きましたが、しっかりテープが回っていたようで、過去に『A TOOT AND A SNORE IN '74』というタイトルのブートレグも出たことがあるようです。ジョンとポールにスティーヴィー・ワンダー、ニルソン、ジェシ・ディヴィス、ジム・ホーンが参加してのジャムのようです。演奏はかなり荒いですが音源がアップされていましたのでどうぞ)
 1974(昭和49)年4月or5月ミック・ジャガー(Vo)、ダニー・コーチマー、ジェシー・デイヴィス(G)、ジャック・ブルース(B)、アル・クーパー(Key)、ジム・ケルトナー(Dr)、ハリー・ニルソン(Vo)というメンバーによる「トゥー・メニー・クックス」をプロデュースする。この音源は永らく未発表のままでしたが2007年に発売されたミック・ジャガーのソロ活動をまとめたベストアルバムに収録され陽の目を見ています。
 1974(昭和49)年5月LAで行われていた『プシー・キャッツ』のセッションですが、スタジオ内はセッションかパーティか分からない状態で、結局、きっちりとした仕事のできる慣れ親しんだNYのスタジオ、レコード・プラント・イーストにスタジオを移動し完成させることになります。その後NYのRCAのケン・グランシーのオフィスに赴きアルバムを必ず発売することを確約させます。ジョンは願いを聞いてくれるならアップルとの契約が切れたらリンゴを誘って自分もRCAに移籍するとまで発言したとか。確かにリンゴはRCAに移籍しましたが・・・。
NY滞在中ジョンとメイは東52丁目434番地のペント・ハウス・タワーBというアパートで暮らします。ベッド・ルームには当時最も大きかった27インチのソニー・トリニトロンTVを設置し二人はそこで心からリラックスできたようで「夢の夢」のヒントもそのベッドの中で生まれました。この部屋にもポールとリンダなど多くの友人たちが訪問していますが、ジョンにとって一番の訪問者は離れて暮らす息子ジュリアンでした。メイの写真には少年期(11歳)を迎えた息子と海でたわむれる父親ジョンの姿がとらえられています。
 1974(昭和49)年6月メイ・パンと暮らすLAの借家で新曲のデモ録音。多くの曲はアルバム『心の橋、愛の壁』の収録曲となる。中にはリンゴに提供される「グッド・ナイト・ウィーン」も。(この時期、ジョンはNYにいたと思われ「LAの借家」というのは引用元のレココレ増刊「」ビートルズ・ソロ・ワークス」の間違いか?)
 1974(昭和49)年6月『プシー・キャッツ』を完成させた後、『ロックン・ロール』のセッションを再開しようとしますが、フィルがLAで録音したテープを持ったまま行方不明状態に(オートバイ事故で入院していた)あったため断念。そこで書き溜めていた新曲を元にオリジナル・アルバム『心の壁、愛の橋Walls And Bridges』の録音に取り掛かります。キャピトルはジョンの子供時代に描いた画を使い『ロックン・ロール』のジャケを制作していましたが、むしろ新しいアルバムにぴったり来るということでジョンはこのデザインを『心の壁、愛の橋』に流用しようと考えます。しかしキャピトルはジョンのアルバムだとひと目でわかるポートレイトを使うことを主張し、それを呑んだジョンはメイ・パンを使ってフォト・セッションを行います。ところがアート・ディレクターの要望する写真が素人カメラマンであるメイ・パンのカメラでは取れないということになり、最終的にボブ・グルーエンによる写真がジョンの画とともに使用されることとなります。
 1974(昭和49)年7月17日合衆国司法局より60日以内の国外退去を命じられる。ジョンは控訴。
 1974(昭和49)年7月中旬NYレコード・プラント・イーストでニュー・アルバムのためのリハーサル・セッションがスタート。ジョン(G)、ジェシ・ディヴィス(G)、クラウス・ヴーァマン(B)、ジム・ケルトナー(Dr)。この時の音源は『アンソロジー』で聴くことができる。
 1974(昭和49)年8月ジョンがプロデュースをしたニルソンのアルバム『プッシー・キャッツPussy Cats』発売。
 1974(昭和49)年8月先のリハーサル・メンバーにエディ・モットー(AG)、ケン・アッシャー、ニッキー・ホプキンス(Key)、リトル・ビッグ・ホーンズ(Horn)が加わりレコード・プラントで『心の壁、愛の橋』セッションが行われる。後半ではエルトン・ジョンも参加し「真夜中を突っ走れ」が録音される。
 1974(昭和49)年8月9日ウォーター・ゲート事件によりニクソン大統領が辞任。
 1974(昭和49)年8月下旬『心の壁、愛の橋』のレコーディングを終えたジョンはLAへ飛びリンゴの『グッド・ナイト・ウィーン』のセッションに参加。デモ録音していた「グッド・ナイト・ウィーン」を提供し、カバー曲「オンリー・ユー」(最高!)のアレンジ、ガイド・ヴォーカル録りを行う。
 1974(昭和49)年8月31日司法局の国外追放命令はニクソン政権による不当な圧力によるものとNY連邦裁判所に訴える。ジョンがベトナム反戦運動の指導者の一人であり72年の党大会を阻止しようとしたことに対する共和党の報復だというもの。アビー・ホフマン、ジェリー・ルービン、ジョン・ビールといった急進的な活動家との交流もありダコタ・ハウスのジョンの部屋には複数の盗聴器がしかけれていたという。
 1974(昭和49)年9月74年はビートルズのアメリカ上陸から10年にあたります。この年キャピトルはビートルズに脚光を当てたキャンペーンを行なっていました。そんな中、元ビートルズのジョンのニュー・アルバムが発売されるとあって、キャピトルは最大限のプロモーションを行うことになります。題して「この~を聴け(Listen To This ~)」というキャンペーンでListen To This ~というコピーが上段、中段にはジョンの目許の写真、下段には「ジョン・レノン 心の壁、愛の橋」の文字というデザインが様々な場所に描かれました。「この~を聴けの」の~には媒体に合せ”ポスターを聴け”や”雑誌を聴け”、”バスを聴け”(バスの車体広告)、”Tシャツを聴け”といった具合です。TVコマーシャルも作られ、リンゴ・スターが出演、このお礼としてジョンは『グッド・ナイト・ウィーン』のTVCMに出演します。
 1974(昭和49)年9月14日”ジョン・レノンなんて全然革命的じゃない。奴は呆れかえる程の大馬鹿、白痴だ。ただ革命、革命って叫んでるだけで、行動ときたら・・・・だもんな。人の気も考えて欲しいよ。皆あいつには気分が悪いんだよ。”メロディ・メーカー誌によるトッド・ラングレンのインタビューより。
 1974(昭和49)年9月26日”貴方が私に対してアタマにきている本当の理由は分かっている。LAのレインボウであなたと一緒になったとき、私が貴方を誰だか分からなかったからなのだ。メロディ・メーカー誌によるインタビューより。
 1974(昭和49)年9月『ヌートピア宣言』発売の際に貴重な忠告をくれたトニー・キングをアメリカに呼び寄せます。そしてリンゴとともにEMI/キャピトルのCEOバスカー・メノンに手紙を書きキャピトル内に立派なオフィスを設けさせます。ジョンは信頼していたキャピトル副社長でヒットを探す達人アル・コーリー、トニー・キング、メイ・パンを集めアルバムからのシングル・カット曲を検討します。最有力候補「夢の夢」をはじめ「予期せぬ驚き」から「ようこそレノン夫人」まで候補に挙げられますが最終的にアルが選んだ「真夜中を突っ走れ」に決定されます。ジョンはこの曲のヒットに半信半疑でしたが、結果はアルの耳の正しさが照明されることとなります。
 1974(昭和49)年9月メイ・パンは第1回ビートルズ・コンベンションに赴きます。『トゥー・バージンズ』がこれ以上市場に出回らないように買い占めるようにジョンから頼まれていたメイ・パンは会場でドイツの写真かユルゲン・フォルマーによる61年にハンブルグで撮られた写真を見つけます。ジョンにそのことを電話で報告すると旧知であるユルゲンにぜひとも会いたいということになり後日ユルゲンは当時の写真を持ってアパートに訪れます。『ロックン・ロール』のジャケ写はこうして決まったというわけです。
この再会の後メイ・パンと知り合いのレストラン・オーナー、リチャード・ロスのが所有するNY州エレンビルにあるロッジでジョンとメイ・パンは休暇をすごすことにしました。気持ちのいい秋の日ジョンはお気に入りのアイリッシュ・ニット・セーターを着てリチャードの飼い犬を連れ山道を散歩します。前を歩くジョンに声をかけ振り向いた瞬間を、メイ・パンが写真に撮ります。この写真を気に入ったジョンは75年10月24日(メイ・パンの誕生日)にイギリスで「イマジン」のシングルが発売される際にジャケ写として使用しています。
 1974(昭和49)年10月4日シングル「真夜中を突っ走れ」とアルバム『心の壁、愛の橋』を発表。「真夜中を突っ走れ」は11月16日にソロになって初めての1位曲となる。録音にはエルトン・ジョンが参加。その時にもし1位を獲得したらエルトンのライヴにゲストで出演するという約束が交わされていた。
 1974(昭和49)年10月アルの努力で無事取り戻されたLAでの『ロックン・ロール』のテープでしたが、ジョンはそのテープを封印し新たに『心の壁、愛の橋』のミュージシャンを使いセッションを再開することを思い立ちます。それを聞きつけたモーリス・レヴィは自分の農場をリハーサルのために提供、『ロックン・ロール』セッションが再スタートされます。
 1974(昭和49)年10月21日~25日レコード・プラントに閉じこもり5日間で『ロックン・ロール』を完成させる。ジョンがこの時期いかに充実した仕事をしていたかは、この辺からもうかがえると思うのですが・・・。また『心の壁、愛の橋』でいったんボツにした「ようこそレノン夫人Move Over Miss.L」を再び取り上げアルバムから3月にシングル・カットされた「スタンド・バイ・ミー」のB面曲として収録(UK盤)。
 1974(昭和49)年11月ジョンとポールの二人は一時期の険悪な雰囲気は消え昔の仲を取り戻しつつありました。それにともないビートルズに対してもセンチメンタルな感情を持つようになっていました。ジョンは、友人ロバート・スティグウッドがプロデュースしていたオフ・ブロードウェイ・ミュージカル「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド・オン・ザ・ロード」にも積極的に関与していきます。リハーサルを訪問し助言を行なったり、あらゆる機会に作品を絶賛。はてはBBCが撮影するプロモ映像への出演も快諾しNYの街角を歩き市民と触れ合うジョンの姿が撮影されます。
この時の映像はYOUTUBEにアップされている「マインド・ゲームス」の動画(これオフィシャルのプロモなんですかね、誰かご存知ないですか)で見ることができます。そう思ってみると3分19秒あたりからミュージカルの劇場前の風景や、ミュージカルのステージでおどけるジョンの姿が映っていますよね。
 1974(昭和49)年11月28日NYのマジソン・スクエア・ガーデンで行われたエルトンのコンサートに飛び入りで参加。「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」「真夜中を突っ走れ」「アイ。ソー・ハー・スタンディング・ゼア」をエルトンと共演。「アイ・ソー・ハー~」を歌う前には”親友ポールの歌を歌います”というMCをつけていた。このステージがジョンにとっての観衆を前にしての最後のライヴということになった。
このコンサートにはヨーコも訪れておりジョンとの再会を果たしています。
>YOKO”まずエルトンが出てきて歌ったの。<中略>そこへジョンが出てきたら、あのマディソン・スクエア・ガーデンのホールが揺れるの。みんなが飛び上がったり、拍手したり、叫んだり、わめいたり、とってもすごかったのよ、本当に文字通り床がふるえていたわ。<中略>でもその時見たジョンはわたしの知っていたジョンとは違って、ほんとうに淋しそうな孤独な感じだったのよ。”
>JOHN”聴衆の中に彼女がいるとは知らなかった・・・・彼女が来ると分かっていたらとても僕は行けなかっただろう・・・・ステージから戻るとそこに彼女がいてね、お互いをじっと見たんだよ。まるでインディカ・ギャラリーの場面の再現みたいで、それでその晩から僕たちはまた一緒になった。あの時期は幸福な想い出ばかtりだよ。
この時エルトンのコンサートにジョンが飛び入りすることを知って、ヨーコをその場に行くように教えたのは他ならぬポール・マッカートニーだったことをヨーコは2010年になって初めて明かします。
 1974(昭和49)年12月16日英国デイリー・メール紙がジョンの国外追放命令は前大統領ニクソンとホワイト・ハウスによる陰謀だったという記事を掲載。ニクソンの個人的な判断により国外追放の司令を政府関係期間に発していたという事実が明らかにされる。
 1974(昭和49)年12月19日すでに解散状態にあったビートルズですがEMIとの契約の関係もあり法的にはまだ存続していることになっていました。実質的な解散から4年で法的な問題はほぼクリアされ解散のための書類にリンゴは既にイギリスでサイン済みであったので残り3人がNYで集まりサインをすることになっていました。ジョージはダーク・ホース・ツアーでNYに来ており、ポールとリンダもこのために渡米し、席につきましたがNYに住んでいるジョンが現れません。しびれを切らしたジョージがジョンに電話をいれますが電話に出たのはメイ・パンで、ジョージはジョンへの文句を述べたあとジョンがマジソン・スクエア・ガーデンでのジョージのコンサートに飛び入りするというプランも必要ないと伝えます。
翌日ポールとリンダがジョンを訪問します。ポールに諭されたジョンは書類にサインをすることを承諾します。ジョンに対して激怒していたジョージですが、クリスマスに合せジョンの元へ訪れ、ジョージのコンサートにもやってきたジュリアンに対しジョージはすべてを水に流すからパーティに来てくれる旨を伝える電話をジョン宛にさせます。そしてコンサート後のパーティではジョージとジョン、ポールが固いハグを交わすこととなります。
翌日からジョンとジュリアンとメイ・パンはクリスマスをフロリダで過ごすため旅立ちます。
 1974(昭和49)年12月21日シングル「夢の夢No.9 Dream」全米チャートで最高位9位となる。”9という数字が好きだ。自分の生まれた日だし、数字の中で一番大きいし”。
 1974(昭和49)年12月29日フロリダのジョンの元にアップルの弁護士から解散のための書類が届きます。その書類にジョンがサイン、この瞬間ビートルズは法的にも解散します。
 1975(昭和50)年1月メイ・パンによればエレンビルから戻ったジョンはそれまで以上に精力的に仕事をこなしていきます。『心の壁、愛の橋』のプロモーション、『ロックン・ロール』のレコーディング、エルトン・ジョンのコンサートへの飛び入り、デヴィッド・ボウイと「フェイム」を共作、そしてニュー・オリンズでポールの『ヴィーナス・アンド・マース』のレコーディングに参加する予定まであったようなのです。結局は時期尚早ということで見送られたようですが、もし・・・・。
ジョンはロング・アイランドでメイ・パンと住むための家を不動産業者に探させていたといいます。そして物件は見つかり2月には仮契約を結ぶ手配になっていたとメイ・パンは回想しています。
 1975(昭和50)年1月上記のメイ・パンの回想とは矛盾しますが、ジョンはヨーコの元に戻ります。”別居はうまくいかなかった”とはジョン・レノン談。
 ☆☆ これにて「失われた週末」はエンドとなります。

 1975(昭和50)年1月ポール・サイモンがジョンのグリーン・カード獲得闘争を精神的に支援すると表明。
 1975(昭和50)年2月17日アルバム『ロックン・ロール』発売。
 1975(昭和50)年3月前月に発売された『ロックン・ロール』のプロモーションのため「スタンド・バイ・ミー」「スリッピン・アンド・スライディン」のビデオ撮りのためレコード・プラント・イーストで生演奏を行なった。
余談ですが、このプロモがジョンの死を伝えるニュースとともに最も流されたことが、「スタンド・バイ・ミー」がジョンの代表曲となるのに一役をかったに違いありません。なんでこの曲だったんでしょうね、本来であれば『ダブル・ファンタジー』の曲であっても良かったのに。まぁ「イエスタデイ」が流されるよりはずっとマシですけど、多かったですもんね、ジョンの曲を流せよってちょっと頭に来てました。
 1975(昭和50)年3月5日デビッド・ボウイのアルバム『ヤング・アメリカン』発売。NYでジョン・レノンとともに録音された「フェイム」「アクロス・ザ・ユニヴァース」が収録されていた。
 1975(昭和50)年4月18日ATVのスペシャル番組「サリュート・トゥ・リュー・グレイド」の為に生前最後となるライヴ・パフォーマンスを行う。8人組のバンドを従えアコギを弾きながら「スタンド・バイ・ミー」と「スリッピン・アンド・スライディン」「イマジン」を歌う。6月の放映時には「スタンド・バイ・ミー」はカットされていた、残念。(not a second time先輩、情報ありがとうございます。)
 1975(昭和50)年10月7日裁判所により国外追放命令は破棄され3年に及ぶ闘争は終結(76年7月27日グリーン・カードを取得)。
 1975(昭和50)年10月9日ヨーコとの間の第一子ショーンが誕生。こうやって見てみると、この時期運命の歯車がもう一回りしていたらビートルズの再結成、そこまでいかなくてもジョンとポールの共作っていうのがあったかも知れないですね。あっそうかそれが失われたのか(笑)。誰のせい?
 参考文献、引用元は 
 メイ・パン著「ロスト・ウィーク・エンドInstamatic Karma」
 アンディー・ピープルズ著「ジョン・レノン・ラスト・インタビュー」
 シンシア・レノン著「ジョン・レノンに恋して」
 ミュージック・マガジン増刊「ジョン・レノンを抱きしめて」
 レコード・コレクターズ増刊「ザ・ビートルズ・ソロ・ワークス」
 ジョン・レノン・アンソロジーBOXブックレット
 ウィキペディア(日米) 他です
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 http://ameblo.jp/sugarmountain/entry-11161734029.html
 https://ja.wikipedia.org/wiki/ON_THE_ROAD_2011_%22The_Last_Weekend%22_(%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%A0)
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 THE Japanese rocker Shogo Hamada talks on TV - 5  http://youtu.be/gutBaydvbcA
 5:41 初恋の島という名の江田島で♪PLEASE PLEASE ME♪をCATCH SHOGO
 

 ステ音源◆http://youtu.be/YIumZKs6tE0
 
 モノ音源◆http://youtu.be/W42ZEUvqh-s
 
 MFSL音源◆http://youtu.be/E08IT8MV2Wk
 
 日本音源◆http://youtu.be/FEafkpsEWrY
 

 The Beatles! washington coliseum compilation 11 february 50 years!  http://youtu.be/bb3K0S3-T18
 

 ■The Beatles - Unsurpassed Masters Vol. 1  http://youtu.be/_7IhhsD8NP0
 03 There's a Place (Takes 5, 6) 4:36
 04 I Saw Her Standing There (Takes 6, 7, 8, and 9) 6:58
 05 Do You Want to Know a Secret (Take 8, Track 2) 11:58
 06 A Taste of Honey (Take 6, Track 2) 14:06
 07 There's a Place (Take 12, Track 2 and Take 13, Track 2) 16:22
 08 I Saw Her Standing There (Take 11, Track 2 and Take 12, Track 2) 18:41 

 音源◆There's A Place (take1-13) - The Beatles Rare Takes  http://youtu.be/F6nL_VNLFj0
 

■ビートルズの「1964年・アメリカ初公演」伝説とは。  
2015-11-08 テーマ:ビートルズ 
気が早いですが。 2016年は、ビートルズ来日50周年!! 『1』に続いて、「サムシング・ニュー」の予感!!
その日本公演(1966年6月30日~7月2日、武道館)。 日本を間に含むドイツ・フィリピンの「ワールドツアー」と、直後、ビートルズの「最後」のツアーとなる同年8月12日から8月29日の「北米ツアー」。
よく知られる通り、この時期のビートルズは、アルバム『リボルバー』のレコーディングを終え、実験的なサウンド作りへの挑戦を経験しました。 結局、ビートルズの活動は、大規模なコンサート・ツアーから、スタジオでの多重録音、アルバムのレコーディングへ変化。 その要因は改めて言うまでもなく、絶叫と狂気のコンサート会場、移動とホテル缶詰の繰り返し、警備と混乱、それに日本やフィリピンでの騒動、ジョン・レノンの「キリスト発言」・・・。 「いっそのこと、コンサートはやめちゃおう!!」と。
そんな分岐点となる1966年8月から遡ること僅か「2年余り」。
1963年いっぱいを、主にイギリス国内でじっくり不動の人気を固め、4枚目シングル「抱きしめたい」とセカンドアルバム『ウィズ・ザ・ビートルズ』の大ヒットを引っさげて、1964年2月7日、「アメリカ初上陸」(いわゆる「ファースト・ビジット」)を果たしたのでした。
ちなみに、初の「全米ツアー」を行うのは、これより半年後のこと。 主演映画『ア・ハード・デイズ・ナイト』の撮影と、初の「ワールドツアー」それに「北欧ツアー」を挟んだ、同年8月からのことである。
当時、イギリス人ミュージシャンがアメリカで大成功を収める、というのは「ありえない」ことだったらしく、かなり「慎重路線」を歩む。 なので、「初アメリカ」は人気テレビ番組「エド・サリバン・ショー」への複数回収録(この時、3回放送のうち初放映の視聴率はなんと72%!!笑)と、クラシックの殿堂「カーネギー・ホール」の単発公演に目的を絞り込んでの、いわば「お披露目」プログラムだったと言える。
さあて、本題!!そんな「初アメリカ」の「慣らし運転」の、さらに「アイドリング」といえるコンサート・イベントが行われた。
1964年2月9日に、既述の「驚異」の「エド・サリバン・ショー」、午前に帰国後3回目放送の収録と、同夜2回の生出演を果たし、列車でワシントン入りしたビートルズの、アメリカ「初公演」。
「ワシントン・コロシアム」である。 8千人収容のアリーナは、その後のビートルズのコンサートからすればまだまだ会場の規模は小さく、しかも器材設備などはなんとも「粗末」なステージ、その四方に観客席を配して、「ボクシング」の試合のようなセッティング!!
なのでリンゴのドラムは180度回転(しかも「人力」でクルクル回す!!)、ユニークで奇妙なステージ!!
2月11日20時30分開演。 ジョージがラジオで「大好物」と発言したものだから、ステージめがけてジェリービーンズが飛び交う。 ステージの2本のマイク、一つは不調、終始片一方のマイクからのボーカルしか聴こえない。(ビートルズは「マイク」のトラブルが多い!!) そんな段取りの悪い、終始大混乱のステージ!!
だけど、ビートルズの演奏は・・・熱い!!もちろん、デビュー以前は切れ切れのライブ・バンドだった訳で、デビュー直後の1962年12月大晦日のドイツ「ハンブルグ」での凄いライブ音源も聴くことが出来るのだけど、そんな「荒い」ステージから2年!! 既に貫禄が備わった、本当にイイ演奏!!
何が凄いって言えば・・・。 なんといっても「リンゴ」だろう。 キース・ムーンみたいに背中を丸めて、かなりパワフルにドラムを叩く姿、これは1966年ではありえない!! 「アイ・ソー・ハー・・・」の間奏やラスト「ロング・トール・サリー」のエンディグ(一瞬映る)の叩き方は、何かが憑依したかのような圧巻のドラム!!
【ワシントン・コロシアムのセトリ】(1964年2月11日)
01 introduction & tuning
02. Roll Over Beethoven
03. From Me To You
04. I Saw Her Standing There
05. This Boy
06. All My Loving
07. I Wanna Be Your Man
08. Please Please Me
09. Till There Was You
10. She Loves You
11. I Want To Hold Your Hand
12. Twist And Shout
13. Long Tall Sally
14. Outroduction
■The Beatles Live at Washington Colosseum (Full Perform
https://youtu.be/ge66-bK0E70
ちなみに。
2月9日の「エド・サリバン・ショー」では、その演奏された曲の構成が、「生放送=ポール」「収録分=ジョン」のようなイメージ。 
さらに、2月11日の「ワシントン」コンサートでも、なんとなんと、オープニングは「ジョージ」、エンディングは「ポール」!!
「初アメリカ」ではジョンの影がなんとなく「薄め」!! ど、どうした、あんちゃん!!
ウソか本当かは知らないけど、ジョンは「初アメリカ」にかなりナーバスな状態で、それに比べるとジョージはお姉さんがアメリカに住んでいて、渡米も二回目だったのだとか。 特に「ワシントン」コンサートの開演前、バックヤードでのジョンの緊張がすさまじく(嘔吐するくらい)、急遽ジョージにオープニングを譲ったのだとか。
そのジョージ、開演早々、歌い始めて、マイクのレベルが低いのを感じてか、思わずジョンのマイクに移動!! 飄々と「切り込み隊長」をこなしている!! その「ロール・オーバー・ベートーベン」、エンディングではバッキングのポールが一人立ち、メインのジョージとバックのジョンがマイク一本!! なんだか微妙な感じで面白い!! ま、「百聞は一見にしかず」などと申しますので、これくらいで。
■The Beatles - Roll over Beethoven - Washington D.C.1964
https://youtu.be/8GpZNlfvPQY
余談。以前は訴訟対立の関係だったビートルズの「アップル」と、iTunesの「アップル」が突如タッグを組み、ビートルズ楽曲配信を開始。 そのアルバム・ボックス・セット(まとめ売り)の「付録」に付く映像・・・それがこの「ワシントン・コンサート」の、それも「完全・ノーカット版」で、しばらく映像はフリーのストリーミングも行われていた。 終始切れ目のない「完全版」がちゃんと存在していたこと、それに映像の美しさに、大変驚いたのでした。
http://ameblo.jp/magic7-koba/entry-12093118346.html

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