BOΦWY FRIEND YOKOHAMA 7TH AVENUE VIDEO CONCERT
‡1987.8.1 SAT 1st.11:00 2nd.14:00 3rd.17:00
http://ameblo.jp/femacc/image-11808923058-12892347674.html
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┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1983~1988:平野茂平】Vol.13┃
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2018(平成30)年04月29日(日)
‡2017(平成29)年08月01日(火) @名古屋Electric Lady Landにて 関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー
平野茂平(ライブハウスElectric Lady Land オーナー)
80年代初頭、BOOWYが有名になる以前。名古屋の伝説的ライブハウスElectric Lady Landのオーナー 平野茂平氏は、誰よりも早くBOOWYの才能を見抜いた。その後、BOOWYはユイ音楽工房や東芝EMIとの契約へ結びつき躍進した。1983年10月18日、Electric Lady Landへの出演、すべてはココからはじまったのだ。名古屋音楽シーンのボス的存在であり、“シゲさん”の愛称でバンドマンから絶大なる信頼を集めた“目利き”に当時の話を伺った。80年代初頭のリアルなライブハウス・シーンの状況。そんなBOOWY伝説を裏付ける貴重なトークをお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)https://twitter.com/fukuryu_76
――シゲさん(平野茂平)がライブハウスをはじめたきっかけを教えてください。
平野:Electric Lady Land は、1977年12月オープンです。新宿LOFTより1年遅れだね。
――2017年で、40周年ってことですね。
平野:そうです。当時は、ライブハウスっていうのがまだ確立してない時代でした。その前は、いわゆるグループサウンズがやるような、僕らJAZZ喫茶って呼んでいたんだけど、いわゆるディスコに毛の生えたような小屋しかありませんでした。名古屋は、グループサウンズが巡業で回ってくるような店やフォーク喫茶みたいなのがあって。そこで、エレキギターを持ったバンドもいて。1974?75年頃ですね。名古屋の今池ってところに店があって……。僕はそういうところへ出てたワケなんですけど。
――バンドをやられていたんですね?
平野:ロックバンドで出演してました。笑い話になりますけど、はじめてそこにマーシャルを持ち込んだんですよ。もちろん、ボトムは買えないからヘッドだけ買って国産のスピーカー繋いでね。「お兄ちゃんハウっとるよ!」って言われて。「いや?これフィードバックって言うんだけど」ってね。そんな時代(苦笑)。
――なるほどです。
平野:「あんたギター下げないと歌聞こえんがね」って。「いや?、こう言う音楽なんだけど」って言っても通じない(苦笑)。いづらくなって、昔のElectric Lady Land があった大須のビルの地下のコマンド(Electric Lady Land の前身の店)へ移って。ライブハウスっていうより会員制の飲み屋みたいな感じだったんですけど。ちっちゃいステージがあって、ライブやらせてくれるらしいよって。そこへ出初めたのが1975年、76年あたりですね。でも、業務的に立ちいかなくなって閉めることになって。「じゃあ、俺やるから譲ってくんね?か?」って。大家さんに掛け合ったら「若い人がやるんだったらいいよ」って。「家賃もしんどかったら言ってよ」みたいないい条件で。
――それがライブハウスをやられることになったきっかけなのですね。
平野:そう。ライブハウスをやるつもりはまったくなかったんだけど、自分たちの演奏をする場所がなくなっちゃうのは困るからって。はじめたのがそのビルの地下で……当然お金がないんで、よくありがちな日曜大工で内装工事して。夜中にトンカントンカンやりながら作って、照明も最初は3発くらいしかなかった。それも、どっかの劇団から古いのを譲り受けて。PAも買うお金がなかったんで友達のバンドからミキサーを借りて。で、スピーカーも借りてたんだけど、それじゃダメだからって自分たちで自作でスピーカーを作って。全部手作りのライブハウスとして始まったのが1977年の12月でした。
――お幾つくらいの時ですか?
平野:僕が24歳でしたね。そこからスタート。今に至るワケで。
――若いですね。元々ロックにハマったきっかけは?
平野:ちょうどそう言う年齢だったんですよ。田舎なんで、ビートルズが日本に来たのはテレビでしか観たことなかったんですけどね。親戚のお兄ちゃんがグループサウンズもどきをやってたりして、近所にエレキギターが転がっていた環境ではあって。ませたガキで。いわゆるディスコ、昔のゴーゴー喫茶へ行ってサイケデリック・ロックを生演奏で聴いたのがロック体験として大きかったな。
――フォークじゃ物足りなかったんですね?
平野:もうちょっと刺激のあるのが欲しいなって。鮮明に覚えているのがラジオで聞いたVanilla Fudgeの「You Keep Me Hanging On」のファズギター。「なんじゃこれ?」って言う衝撃で。当時、ギターの音ってクリーンなものだったから。寺内タケシさんとかね、そう言う時代でしたから。すごく新鮮だしショックを受けて。それからジミヘンへつながっていくわけなんですけど。で、ジミヘンからライブハウスの名前、Electric Lady Landをいただいたと。でもジミヘンは3年で死んじゃったからね。もうアルバムも増えない。同じ時期にFrank Zappaも聞いてましたね。1966年に『Freak Out!』が出たのかな。1976年の京大西部講堂のライブを観に行ったんですよ。偶然京大西部講堂の裏で、本人と鉢合せしたりね。自分のフェイバリット・アーティストはジミヘンとFrank Zappaでした。
――そんな、シゲさんがBOOWYを知ったきっかけは?
平野:1983年の夏、土屋が送って来たVHSビデオじゃないかな。さすがに時系列が少し曖昧なんだけど、6人組の映像だったのよ。で、うちの後にはグレイトフルユッカでもやったんだよ。
――あれ、そのお店は記録には残っていないんですよ。
平野:ユッカでやってない? あれ、やってないかな? 当時のことで覚えているのは、マネージャーの土屋浩がすげ?ポスターをたくさん送ってくれて。ジャパンレコードから出した『INSTANT LOVE』のヤツ。「こんなたくさん貼れね?じゃん?」って思って。
――当時、ボトムラインでもライブしてました? 翌日の10月19日で記録に残っています。
平野:1983年はボトムラインはまだないな。ボトムラインは1986年くらいだから。
――あ、これ(年表が)間違いですね。
平野:たぶん、それがグレイトフルユッカだよ。
――これで年表が修正されますね。よかった。グレイトフルユッカって今は?
平野:今はもうない。さっき話したマーシャルを持ち込んだ店がユッカって言うお店で。そこは本当に小さなフォーク喫茶で。80何年かな、今池にあった店が栄へ移転して、グレイトフルユッカになった。ビルの半地下のところで。今で言う200?250くらいのキャバの小綺麗なライブハウスで。で、そこをやっていた人が、いわゆる社交性がある方で。僕みたく趣味の人じゃないんで、イベンターさんや放送局とか仲良くやっていて。著名なアーティストが出演していましたね。簡単に言うとうちのスケジュールをみんな持っていかれた。鮮烈に覚えてます。シナロケ(シーナ&ザ・ロケッツ)の誠っちゃんとかここによく出ていて。
――BOOWYのポスターは土屋さんがいきなり送ってきたんですか? それまで面識は?
平野:なかったと思うよ。ただ……、前後関係があやふやなんだけど、その前に布袋は来ているの。AUTO-MOD(日本のポジティブパンク・シーンを牽引したバンド)で。
――なるほど。
平野:渡辺貢(PERSONZのベーシスト)と布袋とジュネ(AUTO-MODのヴォーカル)とまこっちゃん(高橋まこと)がメンバーのAUTO-MOD。そのことは覚えていて……。そんときに貢がうち泊まってんの。貢とはそれ以来の付き合い。昔はホテルに泊まるなんてなくて……。到着してライヴやって「さ?泊まるところどうしよう?」っていうね。行き当たりばったりのツアーが当たり前だったね。友達の友達とかさ。対バンもあんまりなかったし、それこそ、観に来た子のうちとか「泊めてくんね?」みたいなノリの時代だったんだよ。
――宿代だって、バカにならないわけですもんね。
平野:ジュネはうちじゃなかったし。布袋もまこっちゃんも違うと思ったんだけど。で、BOOWYとしてやって来た時に、「あれ? あのギター見たことあるぜ?」って。「ジュネの時来てた奴じゃん?」って言ったのを覚えている。BOOWYの初名古屋って1983年かぁ。しかも、翌月の11月24日にも出てもらってるね。
――両方とも、ワンマンですよね?
平野:ワンマンだね。
――その後、BOφWYは
1984(昭和59)年02月17日(金)にも『INSTANT LOVE』のツアーで、
1984(昭和59)年07月08日(日)にもElectric Lady Landに来ていて、計4回出演されました。
平野:その後ホールツアーで名古屋に来ても声をかけてくれて、ライブ終わって打ち上げに行ってました。BOOWYというと、まだ汚い「世界の山ちゃん」が二階にあった頃。よく打ち上げやっていた印象ですね。メンバーとも割と仲良くしてもらってたし。ライブハウスとバンドっていうのが、もうちょっと密な時代だったですよ。だから売れているとか売れてないとかじゃなくって。さらっと「あ?、売れてよかったよね」みたいな。
――布袋さんが、すごくシゲさんのことをリスペクトされてましたよね。
平野:うん、布袋くんは引っ越してからの今のElectric Lady Landで何回もやってくれたりして。いろいろ話もしたね。ヒムロックは、結局最後の彼の『LAST GIGS』には行けなかったんですけど。ステージでElectric Lady Landのこと話してくれたっていうのは、お客さん越しに聞いて。「行けばよかったのに」ってみんなに言われて。で、ドラムのまこっちゃんは割と今でもたまに「ゴルフ行く?」みたいな感じで。ベースの松井さんとはだいぶ前に何回か来てくれて、最近は接点がないかな~。
――BOOWYはElectric Lady Land出演後、ターニングポイントとして事務所であるユイ音楽工房と契約と言う流れがありました。そのきっかけは、同じく名古屋の音楽シーンのキーマンである東海ラジオのディレクター、加藤与佐雄さんでした。のちに『SFロックステーション』と言う番組で、氷室さんをパーソナリティーに迎えた方ですね。
平野:そうですね。当時の名古屋は東海ラジオと中京テレビが、邦楽ロックの宣伝の双璧だったんです。全国的にみてもすごく珍しい状況だったらしいんですね。僕ら地元だから当たり前だと思っていたんですけど。夕方の番組でスタジオ生ライブをやっちゃう中京テレビさん。それが屋外ライヴ・イベントとなり、結果的に野外フェスの走りになったような気がしてます。
――BOOWYも出演されていましたね。
平野:そう。で、もう一方の東海ラジオは、邦楽ロックのアーティストをゲストに迎えて、やりたい放題やらせるっていうアバンギャルドな手法。AM放送の深夜帯がすごい活性化したんですよ。売れてる、売れてないじゃなくて個性的なバンドのヴォーカルを起用して。結果、みな売れていくという。
――シゲさんが加藤与佐雄さんにBOOWYを紹介されたんですか?
平野:いや?前後関係はね。はっきりと覚えてないんだよ。
――加藤与佐雄さんと、サンデーフォーク(名古屋のイベンター)の桑原宏司さんが初めてBOOWYを観に行ったライヴがElectric Lady Landなんです。「すごいバンドがいるから!」って。それが1984年7月8日。BOOWYの動員の動きはどうだったんですか?
平野:急激に増えていった気がする。Electric Lady Landでの最後はもうパンパンだったんじゃないかな? で、僕は土屋に相談されて「この先イベンターとか付けたほうがよいと思う」って話したんだよ。で、ぶっちゃけサンデーフォークっていうのは大っ嫌いなんだけど(苦笑)。だってロックじゃね?じゃん。名前がフォークだぜって。当時ニューミュージック界隈で頭角を表してきたイベンターさんなんですよ。僕らからすれば、ロックに関しては「わかっとらん!」と思ってた。でも、宮崎猛っていう男がいて。こいつだけは買ってたんだよ。だから「宮崎が担当だったらサンデーフォークでやるべきだよ」って言ったな。
――きっかけのひとつかもしれませんね。
平野:北九州出身の熱い男で。いわゆる男気があるっていうか。他のアーティストも、パールとかPERSONZとかは「宮崎だったらサンデーフォークにして」って。そんな話を土屋にはしたなぁ。そんときに、与佐雄さんがいたらしいのね。で、桑原さんを呼んできてきたのかな。
――シゲさんが、土屋さんに加藤与佐雄さんを紹介したんじゃないんですか?
平野:俺は宮崎を紹介したつもりでいたのね。まぁ、与佐雄さんも桑原さんも来てたから。
――2016年に亡くなられた、加藤与佐雄さんはどんな方だったんですか?
平野:年代的には僕よりちょっと上で。非常にラジオっぽくないというか。まぁ、いわゆる親分肌な感じですよね。放送局っぽくない人。
――で、紆余曲折はありながらもElectric Lady Landでのライヴをきっかけに、加藤与佐雄さんからユイ音楽工房のプロデューサー糟谷銑司さんへBOOWYの情報が伝わり、バンドはユイ音楽工房と契約することとなり、レコード会社を東芝EMIに移籍して1985年を迎えるという。活動がどんどん大きくなっていきます。BOOWYの大躍進をシゲさんはどのようにご覧になられていましたか?
平野:誤解を恐れずに言えば、ロックはビジネスになるって言うのを多分一番具体的にやったグループだと思うんです。いい意味でね。ライヴも素晴らしく良かったからな。それまでは、せいぜいジャパメタだったワケですよ。ラウドネスがひとつの成功例であって。まぁ、ロックなんで「ライブハウスの穴蔵で、ちまちまやって行くのがカッコいいんじゃね」って思ったんだけど、それを完全にひっくり返したわけだよ。それがカルチャー・ショックでしたね。
――その後、名古屋に来た時にライヴを観られてました?
平野:もちろん。BOOWYがレベッカ、パーゾンズと対バンした1987年の夏に行った『KING OF ROCK SHOW』もすごかったよね。レベッカもElectric Lady Landでは何回かやってもらっていて。ノッコとかも当時仲良かったんで。当然パーソンズも仲よかったからね。知ってるバンドが3つ出たら嬉しいよな。あんな大規模なコンサートは当時名古屋にはなかったし。僕も3,000人規模の学園祭なんかのプロデュースはやっていたんだけど。『KING OF ROCK SHOW』はスケールがほんと大きかった。
――1万人超えてたっていう。
平野:そうです、そうです。勉強を兼ねて、あの日あえて一般導線で行ったんですよ。地下鉄に乗って。で、もう名古屋港駅のホームから人でいっぱいで。改札から動けないんですよ。電車から降りられないぐらい人がいて。会場へはバスでピストン輸送されていくんだけど、主催者の控え室に行って「(イベンターの)桑原さん、ホームにまだお客さんいっぱいいるからちょっと時間押したほうがいいよ」って言ったのを覚えてる。
――当日、レベッカが最初に出てBOOWYがトリだったそんなんですけど、ライヴの印象は?
平野:お客さんの人数や会場の規模に圧倒されたよね。正直、会場の音はそんなよくないし。客席から観たら点じゃないですか? 後ろから観てたから。
――しかも真夏なのに空調がなかったという。
平野:まぁ、あっても効いてないないでしょうね。凄いところでやりましたよね。しかも8月ですから。
――BOOWY 的には、神戸と横浜で行われた『"GIGS" CASE OF BOOWY 』の間の8月4日だったんですよね。当時、ありえないアリーナクラスの画期的なイベントでした。
平野:いや?画期的ですよ。ロックバンドがそんなところでやっていいの?って規模で。まだアリーナってワードもない時代だったから。
――BOOWYをきっかけにロックの時代がやってきたという。
平野:そうですね。ビジネスになると言うのがバレちゃったもんだから色んな人が入って来ちゃって。地方にいると、アクションを起こしても企業のパワーゲームには勝てないから悔しくもあり。でも、レーベルは続けて、手を替え品を替えやってみたんですけど、やっぱり商才はなかったかな、僕は。もうちょっと商売っ気があればよかったかもしれないんですけどね。
――いえいえ、Electric Lady Landを継続されて大きく成長されたじゃないですか? 音楽シーンへの影響は大きいと思います。ところでBOOWYの年表を見てみるとElectric Lady Landへ出演後、バンドは綺麗にステップアップしていきます。しかも急激な速度で。BOOWYって売れると思っていました?
平野:すごいカッコいいバンドだなとは思ったよ。ただパンクとは違うし、正直ちょっとオシャレすぎるって思ってた。でも、BOOWYはそれをピューって飛び越えていっちゃったワケだから。当時もうちょっと商売っ気があったら「次シークレットでやろうよ?」って言ったんだろうけど。そんな事欠けらも思ってなかったっていう。
――「一回くらいElectric Lady Landで2デイズ公演くらいやってよ」とか一切言わなかったんですか?
平野:Electric Lady Land が10周年の時に、LOFTが10周年のイベントをやっていてBOOWYが出てるんだよね。「うちの10周年に出てくれてもいいんじゃね?の?」って言ったけど、土屋にいいようにはぐらかされて(苦笑)。で、10周年の写真集を出したのよ。そんときに一応BOOWYの写真を使う確認を土屋に聞いたら、それもいいようにはぐらかされて。結局OKもらえてない写真は載せられないから、載せなかったのね。そしたらメンバーが後で「そんなの黙ってやっちゃえばいいのに」って。「いや?、そう言うワケにはいかないでしょう」ってね。
――そんなやり取りがあったんですね。貴重な写真たち。その後、BOOWY は、1987年の8月4日に名古屋で『KING OF ROCK SHOW』があって。その4ヶ月後のクリスマスイヴには渋谷公会堂で突然の解散宣言をするという。登り調子でロックの歴史を変えたと思っていた途端に、解散を表明しました。社会現象になりました。シゲさんは、どう受け止められましたか?
平野:そりゃ、しょうがないないわなって。事前には一切聞いてないし、クリスマスにリアルタイムで知ることになって「なんで?」って思ったよね。
――振り返られてみると、BOOWYの作品で思い入れが強いアルバムは?
平野:そこはやっぱり、自分の所でやってくれた時代の『INSTANT LOVE』が好きかな。
――お気に入りだった曲は?
平野「INSTANT LOVE」や「NO N.Y.」かな。ライヴで盛り上がる曲がやっぱりね。
――当時、BOOWYの客層っていかがでした?
平野:男女比は半々だった印象だね。もっと女性が多いのかな?って思ったけど。意外と思ったより男の子がいた印象で。ライヴも荒れるっていっても、今みたいにモッシュっていう言葉もないし、ダイブって言う言葉もない時代で。危ないって言う感じはなかったですね。
――その後、BOOWYをきっかけにバンドシーンが盛り上がって、バンドブームは加熱していきました。
平野:ビートパンク、ビートロックだよね。ワードとして、ひとつのジャンルを確立しちゃったわけだから。
――ライブハウスにお客さんがいっぱい集まり始めた時期ですよね。
平野:そうだね。BOOWYが来てくれた時なんかは、僕は昼は別の仕事をしてたんだよ。その給料でライブハウスの家賃を払ったな。それこそ1977年?84年くらいまではね。ライヴも最初は週末しか入ってなかったんですよ。でも、だんだん平日も入るようになってきて。で、仕事終わってから慌ててサウンドチェックやって、みたいな。84年から仕事を辞めてライブハウスで食うことに専念するようになりました。
――それって鳥肌もんですね。感動します。ライブハウスの歴史ですね。
平野:すごい馬鹿にされたんだよ。ライブハウスって、みんな金持ちがやるもんだと思ったのね。たとえば神戸の某キャバレーの二階でやってたライブハウスなんかは、親父のやっているキャバレーの上が空いているから家賃も払わんでいいし。そのオーナーに会った時の第一声が「お前、仕事しながらライブハウスやっているなんてアホちゃうか?」って言われて。
――それが今やElectric Lady Landは、老舗のライブハウスですよ
平野:いやいやいや。
――40年以上ライブハウス続けるって思ってました?
平野:すぐ潰れると思ってましたから。そもそも、自分たちが演奏する場所が欲しくてはじめたんですよ。で、お金もないから、いわゆる土木建設業をやりながらね。日銭に近いような形でお金を稼いで。もっとプロのライブハウス経営者がやってくれたらいいと思っていたし。それこそ自分のバンドで、1980年頃にツアーで東京、大阪へも行ってるんですよ。だから新宿LOFTにもよく出ていて。
――そうなんですね。
平野:社長で、昨年亡くなったBOOWYにも縁が深かった小林茂明は、確か当時バイトだったからね。あいつも愛知県の人間なんで。「西尾やねん」みたいな話をした覚えがあって。で、行けば外国製のPAシステムが入っているワケですよ。メチャメチャ羨ましかったもんね。「すげ?な?」とか言って。そう言う時代でした。まさか自分がライブハウスをそんな長い間やるとは思ってなかった。
――なんでこんなに長く続いていると思いますか?
平野:必要だと言ってくれる人がいたからですよ。ライブハウスなんて、やりたいって言う人間がいて、観たいっていう人がいなかったら成り立たないから。もちろん人並みにマーケティングとか、いろんなライブハウスさんを観て勉強もしたけどね。レーベルもやっていたんで、ツアーもするんですよ。それこそアメリカでもブッキングしてツアーしたり。そこで、自分なりの日本のライブハウスのあり方を考えてきたよね。17年前の2,000年に一念発起して引越したんです。スタッフさんの生活とかを考えたら、ちゃんとしたハコを作っておかないとね。
――そうなんですね。BOOWYというバンドはライブハウスに育てられて広がっていったバンドだと思います。シゲさんにとってBOOWYとはどんな存在ですか?
平野:いい意味で、ロックがビジネスになるよって証明したバンドだよな。そう言う事をやってのけた最初のロックバンドじゃないですか? 夢があるよね。それまで、いわゆる僕らが信仰していたアンダーグラウンドなロックとは違っていたんだよな。
――当時、完成したばかりの東京ドームでのBOOWY の最後のライヴ『LAST GIGS』へは行かなかったんですか?
平野:行けなかったな。自分とこも店を構えてたからね。でも、名古屋のライブの後でヒムロックが店に来てくれたよ。地下の旧Electric Lady Landでスタッフさんとかと飲んで、最後は隣の吉野家へいったな。
――いい話ですね。ロックが加速してきた、怒涛の80年代?90年代?00年代を経て、そして今というワケですね。時代も大きく変わりました。
平野:僕らよりお客さんの方が元気だから。新幹線でライヴを観にくるとか、今はもう普通だしね。LCCでアメリカやヨーロッパなど世界からも来ちゃう時代だから。聞いたことない国から、聞いたことない言葉で来たりね。いや、ほんと隔世の感ありですよね。うん、そうだね。BOOWYには、いい経験をさせてもらったと思っています。感謝したいね。
<インタビューを終えて>
『BOOWY STORY ARCHIVE』第13弾、名古屋の伝説的ライブハウスElectric Lady Landのオーナーであり、名古屋ロックシーンのボス 平野茂平 氏へのロングインタビュー。いかがでしたでしょうか。BOOWY躍進のきっかけとなったライブハウス時代の逸話。ブレイク前のヒストリーを中心に、80年代の音楽シーンの状況、名古屋シーンのレアな逸話などなど、貴重なトークを語って頂きました。BOOWYをとりまいていた当時の熱狂的なロックシーンの雰囲気を味わえたのではないでしょうか?
引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWY伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告:桑原宏司(株式会社サンデーフォークプロモーション相談役)
https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=13
B'z 初となる自身主催のRock Project「B’z presents UNITE #01」開催決定!!
Mr.Children、GLAYとライブ初共演!!
B'z自身がオーガナイザーとなる初のRock Project「B’z presents UNITE #01」を、大阪城ホール・横浜アリーナにて開催。大阪公演にはMr.Children、横浜公演にはGLAYを迎え、2年振りとなる有観客ライブ+配信ライブを実施!
2020年に始まり、2021年の現在もその余波が続いているコロナ禍。昨年の11月には初となる無観客配信ライブ「B’z SHOWCASE 2020 -5 ERAS 8820-」を5日間開催し、全セットリスト・ステージセットを総入替えで開催したB’z。卓越した演奏スキルと圧倒的パフォーマンスで、無観客且つ配信ライブでありながらも、その確固たる存在感を改めて世に知らしめた。先の見通しも立たず、松本・稲葉各々が予定していた全国ツアーも中止とせざるを得ない中、それでも「この時だからこそできることを、新たな挑戦を」と掲げて模索し、B’z がオーガナイザーとなる初のRock Project「B’z presents UNITE #01」の開催を決定。全国ツアーの開催は未だ困難なものの、コロナ禍が始まり1年以上が経過し、-5 ERAS-も経験した今、無観客での配信形式に留まらず、本来の姿である有観客でのライブを少しでも取り戻し、オーディエンスを前にした実践感覚を失わないようにと願った松本、稲葉。加えてこの状況下の中、B’z単独ではなく日本国内の音楽シーンを牽引するMr.ChildrenとGLAYを迎え、共にステージに立つことで刺激し合い、団結し、更なる音楽の高みを目指すべく、賛同してくれた彼らとの共演を決めた。Mr.Childrenは2019年に開催した“Against All GRAVITY”ツアー以来の有観客ライブで、音楽ファンのみならず大きな注目を集めることは必至。横浜公演で共演するGLAYはコロナ禍でもエンターテインメントを守るべく、精力的に有観客及び配信ライブを開催しており、今回の共演でどのようなパフォーマンスを見せるのかこちらも注目される。オーガナイザーを務めるB’zは、昨年の-5 ERAS-にて全曲総入替えでステージに臨んだが、今回の「UNITE #01」でも大阪・横浜公演用のセットリストをそれぞれ検討しているという。新たなる試みだが、この「B'z presents UNITE #01」を開催することで、少しでもコンサート・エンターテインメント業界に光をもたらすことができればと願って止まない。
◎B'z / 松本孝弘 皆さん、大変ご無沙汰しています。 如何お過ごしでしたか。我々は昨年の5 ERAS、その後はスタジオに入り、ひたすら新作の制作に取り組んできました。 しかし、再び表舞台に立ち、コロナで大きな打撃を受けた音楽業界復興に向けて立ち上がらねばと考えます。 “UNITE”これは LIVE-GYM とは違うB'z の新たなパフォーマンスの形であり、チャレンジです。 今回 Mr.Children、そして GLAY という素晴らしい同志達の協力を得て、共にコロナ禍に一矢報いる事が出来ればと思っています。今回のオファーに賛同してくれた彼等に心から感謝すると共に、久しぶりに皆に会える事、本当に楽しみにしています。 IT'S SHOWTIME !
◎B'z / 稲葉浩志 この1年以上、ライブやツアーを行うことは決して当たり前のことではないと思い知らされて、われわれミュージシャンやバンドも見たことのない壁にぶつかったような思いで過ごしてきました。B'zとしても昨年、無観客での配信ライブなどをやりましたが、また新しいときめきが生まれるようなライブはできないかと話し合い、B’z主催ではやったことのない他バンドとの共演という形であるこの“UNITE”に行き着きました。我々にとってこの初の試みに賛同していただいたMr.ChildrenとGLAYのメンバー、スタッフのみなさんの好奇心と懐の深さに心から感謝します。当日はそれぞれのファンの皆さんと一緒に、まだまだ残されている音楽の可能性を目一杯感じながら歌いたいと思います。やばいです。今から興奮が止まりません。
〇Mr.Children / 桜井和寿 まだ開けてなかった扉があって新たに生まれる絆があっていまだ僕らに[まだ]と[新た]があることが、とっても嬉しく、無邪気にワクワクしています。松本さん 稲葉さん何よりB’zの音楽を愛する皆さん素晴らしい機会を与えて頂き、ありがとうございます。当日、会場で会えることを楽しみにしています!思い切り楽しみましょう~!
●GLAY / TAKURO この度、Rock Project「B’z presents UNITE #01」に参加しますGLAYのギターのTAKUROです。長く続くコロナ禍でも希望を失わず、心を一つにして未来を切り開こうとするB'z初のこのイベントに誘っていただいた事、とても光栄に思います。ありがとうございます。まだまだ世界は予断を許さない状況ではありますが、僕たちGLAYも今一度音楽が持つ力を信じて横浜アリーナのステージに立ちたいと思います。ミュージシャン発信のイベントだからこそのこの夜限りのセッションも期待しています。ライブを待ちこがれる音楽ファンの皆様のひとときの安らぎになりますように。
https://bz-vermillion.com/unite/
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映像◆桜井和寿 × 稲葉浩志 / Vocalist対談https://youtu.be/75ql--IBtp8
2021(令和三)年08月16日(月) 4,094,665回視聴
2021(令和三)年05月14日(金) YouTube公開
稲葉浩志 Official Website「en-zine」スペシャルコンテンツ Vol.6の公開です!久々のお届けとなるen-zine対談のゲストにお迎えしたのは、Mr.Childrenの桜井和寿さん。デビューから長きにわたりバンドのフロントマンとして歌い続けてきた二人の共演は今回が初となります。“歌う”ということについて、今だからこそ、じっくり話してみたいという純粋な気持ちから実現に至ったこの対談では、互いが親近感を覚えた出来事から、シンガーとしての素朴な疑問や普段の喉のケア、作詞についてなど、ここでしか知り得ないエピソードも披露。貴重な2ショットでありながら終始漂う和やかな空気感も含めて、キャリアを積み重ねてきた “歌う者同士” の尽きないトークをぜひお楽しみください。
●稲葉浩志 Official Website「en-zine」http://en-zine.jp/pc/fate/
●Mr.Children Official Website https://www.mrchildren.jp/
#Bz #稲葉浩志 #MrChildren #桜井和寿 #vocalist #enzine
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B'z 主催ライブでミスチル、GLAYと初共演 稲葉浩志「興奮が止まりません」
‡2021(令和三)年08月01(日) 12:14配信 デイリースポーツ
ロックバンド・B'zが、Mr.Children、GLAYとライブ初共演することが1日、分かった。B’zが初めて主催するライブイベント「B'z presents UNITE #01」に両バンドが出演。B'zにとって2年振りとなる有観客ライブで、
2021(令和三)年09月18日(土) 大阪城ホールにMr.Children、
2021(令和三)年09月19日(日) 大阪城ホールにMr.Children、
2021(令和三)年09月28日(火) 横浜アリーナ
2021(令和三)年09月29日(水) 横浜アリーナにGLAYが登場する。コロナ禍にあって、B'zは昨年11月に初となる無観客配信ライブを5日間開催し、全日セットリストとステージセットを総入替えする野心的な試みに挑んだ。新たな音楽の可能性を開拓すべく、松本孝弘(60)と稲葉浩志(56)が、国内音楽シーンを牽引するミスチル、GLAYに声をかけ、両バンドも快諾。日本を代表するミリオンバンドたちの競演が実現した。ステージに立てぬ時間を新曲制作に費やしてきた松本は「素晴らしい同志達の協力を得て、共にコロナ禍に一矢報いる事が出来ればと思っています」と意気込み。団結を意味する英語をタイトルに冠し、稲葉も「やばいです。今から興奮が止まりません」と夢の競演を楽しみにしている。ミスチルにとっては19年以来の有観客ライブ。ボーカルの桜井和寿(51)は「いまだ僕らに[まだ]と[新た]があることが、とっても嬉しく、無邪気にワクワクしています」とコメントした。GLAYのリーダー・TAKURO(50)も「今一度音楽が持つ力を信じて横浜アリーナのステージに立ちたいと思います」と腕を回している。
https://news.yahoo.co.jp/articles/9a99c76ab7921a30e4fbd2511623708b3de41524
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┃ 今日は何の日!? ┃|8月1日|
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http://www.cdjournal.com/main/calendar/2020080/todays/
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┃ 『Hello, I Love You』 ┃Mr.Children
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Mr.Children 2枚目のアマチュア時代作品
Mr.Children 名義初のアマチュア時代作品
‡1989(平成元)年08月X日(?) リリース日
備考・・・自主制作で価格300円
媒体・・・コンパクトカセット(テープ)
♪この雨あがれ♪
♪ベルリンの壁♪
♪Chu Chu Chu♪
♪君だけの一日♪
************************ http://www.mrchildren.jp
https://ja.wikipedia.org/wiki/Mr.Children#アマチュア時代
https://www.uta-net.com/song/102328 https://www.uta-net.com/song/78338
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┃ ♪ヨーイドン♪ ┃
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|2005(平成17)年?月?日(?)|『ポンキッキーズ』主題歌 第2期 P-kiesメロディ
└─――――――――――――┘『ガチャガチャポン!』のオープニングテーマと共通だヨ(=^◇^=)
映像音声◆http://youtu.be/FkiwQRH-9NU
)
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http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=26533
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%B3
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ap bank fes'12 Fund for Japan staff blog ┃
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①|2012(平成24)年 8月 1日(水)「8/1淡路島既に始まっています。」|
②|2012(平成24)年 8月 1日(水)「8.1午前」 |
└─――――――――――――――――――――――――――――┘
************** http://ja.wikipedia.org/wiki/Ap_bank
①http://blog.fes.apbank.jp/?p=412 ②http://blog.fes.apbank.jp/?p=435
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ Mr.Children の過去の今日の出来事 ┃
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|1989(平成元)年 8月?日(?)|1stテープ『Hello, I Love You』発売
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******************* http://ja.wikipedia.org/wiki/Mr.Children
http://www.mrchildren.jp/bio/bio.html
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┃ 『トッカン-特別国税徴収官-』 ┃日本テレビ系
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|2012(平成24)年 8月 1日(水) Collection 00|
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主題歌・・・♪hypnosis♪ Mr.Children(ドラマ主題歌15回目) 日本テレビ系ドラマ主題歌5回目
平均視聴率・・・10.5% ※視聴率は関東地区・ビデオリサーチ社調べ
映像◆http://youtu.be/4Zj9PE3Vcc0
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主題歌http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=138844
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%B3_-%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%9B%BD%E7%A8%8E%E5%BE%B4%E5%8F%8E%E5%AE%98-
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平和の火1/3 http://youtu.be/ljVYDCKh_88
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┃ 平和の灯(Peace Flame) ┃
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|1964(昭和39)年 8月 1日(土)|点灯式
|1974(昭和49)年 8月?日(?)|毎年行って来た平和の灯まつりをこの年限りで中止
└─――――――――――――┘点火は、被爆日である1945年(昭和20年)年8月6日生まれの7人の広島の女性により行われた。以降、毎年8月1日に全国から数宗派があつまる「平和の灯まつり」を開催。備考・・・この火は、1964(昭和39)年8月1日点火されて以来ずっと燃え続けており、「核兵器が地球上から姿を消す日まで燃やし続けよう」という反核悲願の象徴となっています。 プロパンガスで燃やしており夜も昼もずっと燃え続けている。雨が降っても台風がきてもずっと燃え続けているとのこと。火の大きさも調節でき、式典の時は大きく燃えるらしい。もしも消えてもすぐに係の人がかけつけるようになっているとのこと。この灯は北海道の北広島にも渡り、北広島でも燃え続けています。これはボランティアの方は知らなかったようです。http://blogs.yahoo.co.jp/otokikko2/63649042.html
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%92%8C%E3%81%AE%E7%81%AF_(%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82)
http://okwave.jp/qa/q592509.html http://qanda.rakuten.ne.jp/qa592509.html
http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/tour/ireihi/tour_18.html
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=107 1981
http://www.uta-net.com/user/phplib/Link.php?ID=38562 1986
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家に灯った原爆の火 前編 http://youtu.be/mZD5lYrrq54
8月6日の投下直後、親戚の安否を尋ね広島の市街地に入り、 地獄絵の中を探し歩いた元日本兵「山本達雄」さん。 叔父を焼き殺し、広島を地獄図と化した原爆の火。それは恨みの火であったという。 その山本達雄さんが2004年5月、他界した。 番組では、亡くなる3年前に取材した記録映像から、 山本さんにありのまま語っていただいたその稀有な原爆体験のすべてを紹介する。
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┃ 広島大本営 ┃
┗━━━━━━━┛大本営は
1893(明治26)年05月19日(金) 勅令第52号戦時大本営条例によって法制化された制度であり、日清戦争において初めて設置された。このときの大本営は
1894(明治27)年06月05日(火) 東京の参謀本部内に設置され、
‡1894(明治27)年08月01日(水) 皇居内に移った。その後、当時東京を起点とする鉄道網の西端であったこと(広島駅)、また大型船が運用出来る港(宇品港(現・広島港)が有ったことで、前線に向かう兵站基地となった広島市に移ることとなった[1]。
1894(明治27)年09月13日(木) 大本営が宮中からこの地に移転し、2日後の
1894(明治27)年09月15日(土) 戦争指揮のために明治天皇が移った。このため、行宮の役割も果たした。明治天皇は日清講和条約(下関条約)調印後の
1895(明治28)年05月30日(木)までの227日間この地で指揮を執った後、東京に還幸した。大本営はその後も台湾の統治機構整備など戦後処理のために広島に留まり、1896(明治29)年4月1日(水)に大本営解散の詔勅によって解散
備考・・・国の立法・行政・軍事の最高機関が一時的とはいえ広島市に集積したことで、広島市は臨時の首都の機能を担った。これは明治維新以降、首都機能が東京から離れた唯一の事例であるヨ(=^◇^=)
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E6%9C%AC%E5%96%B6
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〈SHOGO HAMADA OFFICIAL FAN CLUB "ROAD & SKY"〉
浜田省吾オフィシャルファンクラブ「ロードアンドスカイ」会員規約
2013年8月1日施行
第1条 [ ファンクラブの目的 ]浜田省吾オフィシャルファンクラブ「ロードアンドスカイ」(以下、当ファンクラブ)は、浜田省吾の情報を提供することを目的としたサービス機関です。
会報誌「ROAD&SKY」の発行を中心に、浜田省吾とファンの方々の繋がりの場を提供しています。
会員および入会申込者は、この会員規約(以下「本規約」といいます)に同意したものとみなされます。 第2条 [ 運営主体 ]1.当ファンクラブは、浜田省吾の専属契約事務所である「株式会社ロードアンドスカイ」(以下、当社)が運営します。
2.当社は、当ファンクラブの管理・運営に関する業務の全部または一部を当社が適切な監督を行う事業者(以下「業務委託先」といいます)に委託することがあります。このため、会員および入会申込者は、当社が第4条に定める会員特典の提供のために、これに関する業務の全てまたは一部を業務委託先に委託すること、およびその委託業務に必要な限度において、会員および入会申込者個人に関する情報を業務委託先に提供することを了承することとします。
第3条 [ 会員規約の範囲と変更 ]1.本規約は、入会を承認した会員に対する規約です。
2.チケット規約および会員限定イベント等の申込受付時に個別に提示される受付要項・注意事項等は、その名称の如何を問わず、本規約の一部を構成するものとします。
3.本規約は、円滑な運営のために予告なく変更する場合があります。
変更された規約については、当ファンクラブより会員へ通知された時点から効力を発するものとします。
第4条 [ 会員特典 ]会員は、以下の会員特典を受けることができます。この特典の内容は変更される場合があります。
なお、パソコンまたは携帯電話等でインターネットがご利用いただけない方は会員特典の一部を受けられない場合があります。
1.入会特典(会員証・特製キーホルダー)進呈
2.会報誌「ROAD&SKY」の発行(年6回発行)
?アーティスト情報の告知をオフィシャルウェブサイトやメール等の他の媒体と並行して発表することがあります。必ずしもすべての情報を会員が先行して入手できるものではありません。また、会報誌での告知が間に合わないアーティスト情報については、オフィシャルウェブサイトやテレフォンインフォメーション等を通じて告知いたします。
3.会員プレゼント(年1回配布)
4.オフィシャルウェブサイト内にあるファンクラブ会員ページへのアクセス権
5.各地でのファンクラブ会員限定のイベント(不定期)への参加権
6.コンサートチケットの確保
?当ファンクラブでご用意できる枚数に限度があるため、申込多数の場合は抽選となり、会員に優先的にお席をご用意できるものではありません。主催者および企画内容によりファンクラブでの先行予約がない場合もあります。
第5条 [ 入会 ]1.入会を希望する方は、本規約を承諾のうえで、所定の方法により入会を申込み、入会金及び年会費をご入金いただきます。
2.入会はおひとり様1口に限らせていただきます。
3.その他、以下の場合は入会をお断りします。
?過去に当ファンクラブを退会処分にさせられた場合。
?個人ではなく法人の場合。
?入会申込みに必要な項目の登録を拒否、または登録情報に虚偽がある場合。
4.未成年の方が入会される場合、親権者の同意を得てください。
5.入会の申込みの際に登録する全ての項目は入会者ご本人の情報を必ず正確に申告してください。
?氏名は会員限定イベント等で本人確認をする場合があるため、実名表記でご登録ください。
また、入会後、いかなる理由でもご本人以外の名義変更の受付は一切行えません。
?海外への会報誌等の発送を行っていないため、登録住所は日本国内に限ります。
海外にお住まいで入会をされる場合、日本国内での発送物引き受け住所と電話番号を申告してください。
6.入会金及び年会費のご入金後、入会手続き完了までに、最長1ヶ月半程度お時間がかかります。
?会員証(会員番号)が届いた時点から会員特典が受けられる対象となります。
?毎月20日までに入金した場合は翌月1日から1年間、21日以降に入金した場合は翌々月1日から1年間有効会員として認められます。
例:2013年7月20日までに入金 … 2013年8月1日~2014年7月31日の1年間有効
2013年7月21日以降に入金 … 2013年9月1日~2014年8月31日の1年間有効
?入会時期により会員特典を受ける対象会員から除外される場合がありますので、あらかじめご了承ください。
?発行された会員番号はいかなる理由でも変更できません。
第6条 [ 会費(入会金、年会費)、会員継続 ]1.会費5,200円(入会金700円+年会費4,500円)
2.入会金700円は新規に入会される場合のみお支払いいただきます。
3.年会費4,500円は1年間分を事前にお支払いいただきます。
4.会員継続を希望される場合、会員期限日に合わせて順次お送りする会員継続用紙が届きましたら会員期限日までに年会費をご入金ください。会員期限日の翌月1日から引き続き1年間有効会員になります。
5.会員継続手続きが遅れた場合は、当ファンクラブまでお電話でご連絡ください。
会員期限が切れてから3ヶ月以内は、同じ会員番号で継続手続きが可能となります。
ただしこの場合、会員期限は継続手続きが遅れた期間を含んだ1年間の継続となります。
会員期限が切れてから継続手続きをするまでの間に発行された会報などは手続き完了後、お送りいたします。
手続き完了までには、最長1ヶ月程度お時間がかかります。なお、継続手続きが遅れた場合は、急なお知らせや会員特典が受けられない場合があります。また、会員期限が切れてから3ヶ月以上経過の場合、会員登録は抹消となり継続手続きは行えません。
会員登録が抹消された場合は、新たな会員番号で新規入会となります。
第7条 [ 会員の義務 ]1.氏名・住所・電話番号等その他、入会申込みの際に届け出た会員情報に変更が生じた場合は、速やかに所定の変更手続きを行ってください。変更手続きが行われない場合、急なお知らせや会員特典が受けられないことがあります。また、会報誌やアーティスト情報、チケット等が未着及び延着の場合には、当ファンクラブは何ら責任を負いません。
2.発行された会員番号、会員証、パスワード等はご自身で責任をもって管理してください。 ?会員証を紛失・破損した場合は有料で再発行が可能です。所定の再発行手続きを行ってください。
第8条 [ 禁止事項 ]以下に該当する行為を禁止します。
?本規約または当ファンクラブの他の規約(チケットの先行予約や会員限定イベント等)に違反する行為。
?会員の資格を第三者へ転売・譲渡・貸与する行為。
?会員特典により得たチケットの先行予約権、チケット、会報誌、グッズ、その他会員としての資格に基づき有する権利を、インターネットオークション等により転売する等、不特定多数者を対象に譲渡、貸与、名義変更する行為、また、それらを購入する行為。
?当ファンクラブを通じて入手した全てのデータおよび製作物(情報、文章、写真、音、映像、イラスト等を含みますがこれらに限られません)を無断複製、転載および再配布する行為。
?アーティスト、当社、その他会員の財産、プライバシーもしくは肖像権、パブリシティ権等を侵害する行為、またはそのおそれのある行為。
?アーティスト、当社、その他会員を誹謗中傷し、その名誉または信用を棄損する行為、またはそのおそれのある行為。
?アーティストに対し連絡や面会を強要すること、または当社およびその関連会社に対しアーティストへの連絡や面会を申し入れる行為。
?当ファンクラブを利用して、個人または第三者の営利を目的とした活動およびその準備を目的とした行為。
?当ファンクラブを利用して、選挙運動・政治活動、宗教活動、またはこれらに類似する行為。
?法令または公序良俗に違反する行為、もしくは当ファンクラブの運営を妨害する行為。
第9条 [ 会員資格の喪失 ]以下の場合、当ファンクラブは会員資格を抹消することができるものとします。会員資格を抹消された場合には、会員としての一切の権利を失います。また、理由の如何にかかわらず入会金及び年会費は、返還いたしません。
?第8条[ 禁止事項 ]に該当すると当社が判断した場合。
?会員期限が切れてから3ヶ月以内に年会費の入金がなかった場合。
?会員の架空名義や虚偽、重複登録の行為が認められた場合、または会員の権利を利用した転売等の行為が発覚した場合。
第10条 [ 退会 ]1.会員はいつでも当ファンクラブを退会することができます。
なお、退会の際は、退会の理由・時期にかかわらず、入会金及び年会費は、返還いたしません。
2.会員有効期間中に退会を希望される場合は、当ファンクラブまでご連絡ください。
会員証の無効化および全サービスの停止の手続きをいたします。
第11条 [ 当ファンクラブの活動停止や解散 ]1.当社は、以下のいずれかの事由が生じた場合、事前に通知することなく、当ファンクラブの運営を一時的に中断、もしくは中止することができるものとします。
?システムの保守を定期的、または緊急に行う場合。
?火災・停電等の非常事態により、当ファンクラブの運営ができなくなった場合。
?地震・洪水等の天災及び暴動・テロリズム等により、当ファンクラブの運営ができなくなった場合。
?その他、当社が一時的な中断、または中止が必要と判断した場合。
2.当社は、アーティストの活動状況、その他の事情等により、当ファンクラブの運営が継続しがたいと判断した場合には、当ファンクラブを解散することがあります。その場合には、事前に通知をいたします。
第12条 [ 免責 ]以下の場合、当ファンクラブは責任を負いかねます。
1.お申込み期限のあるお知らせを確認しないまま期限を過ぎた場合、お申込みの権利は消失します。
受付期間後のお問合せはお受けできません。
2.公演日が指定されたコンサートのチケットや来場案内が未着の場合、当ファンクラブに未着の旨を連絡しないまま公演日を過ぎた場合は全て無効となり、代金の返還はいたしません。
3.当ファンクラブからの会報誌等の発送物は、登録された住所・宛名に発送いたします。当ファンクラブが適当と判断する方法で会員に発送日・発送物の内容・発送物の未着受付期間を告知いたします。発送物の未着が生じた場合、会員は未着受付開始日以降に当ファンクラブにしかるべき方法で連絡をするものとします。連絡がない場合、発送物は届いているものとし、情報にお申込み期限があるものが含まれている場合、その権利が消失することがあります。
第13条 [ 個人情報の取り扱いについて ]当ファンクラブの会員の個人情報の取り扱いは、別途定めるプライバシーポリシーならびに、各関係法令に従い運営いたします。 第14条 [ 協議 ]1.当ファンクラブの運営に関して、本規約により解決できない問題が生じた場合には、会員および当社は双方誠意をもって話し合い、これを解決するものとします。
2.訴訟によって解決する場合には、東京地方裁判所を第一審の専属的合意管轄裁判所とします。
[ お問合せ ]浜田省吾オフィシャルファンクラブ 「ロードアンドスカイ」
〒150-8681 東京都渋谷区渋谷郵便局止
TEL:03-5466-7595(平日/12:00~18:00)
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