戸田城聖著「人間革命」(精文館書店 昭和32年7月3日発行)で、 創価学会会長 戸田城聖が(昭和32年6月10日付け)で、奥付として書かれている「人間革命の真髄(あとがき)」の、2頁)
http://journal204.iza.ne.jp/blog/entry/1515211/
精文館書店発行の法悟空著「人間革命」
1957年(昭和32年)7月3日発行(写真掲載した箇所は、第386頁の後ろから8行目と387頁)
http://journal204.iza.ne.jp/blog/entry/1163948/
http://onobushi.blogspot.jp/2014/02/blog-post_3.html
映像◆https://youtu.be/m0I5ygov4IM
BOΦWY - PSYCHOPATH時 インタビュー 15分
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┃『PSYCHOPATH』┃
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1987(昭和62)年09月05日(土) リリース
‡1987(昭和62)年06月10日(水) ~ SEDIC A STUDIO 録音
1987(昭和62)年06月26日(木) 迄 SEDIC A STUDIO 録音
https://ja.wikipedia.org/wiki/PSYCHOPATH
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┃ OVER SOUL MATRIX TOUR 1991 ┃
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1991(平成三)年06月04日(火) 11 郡山市民文化センター
1991(平成三)年06月05日(水) 12 宮城県民会館
‡1991(平成三)年06月10日(月) 13 鹿児島市民文化ホール
1991(平成三)年06月12日(水) 14 大分文化会館
1991(平成三)年06月13日(木) 15 宮崎市民文化ホール
1991(平成三)年06月19日(水) 16 熊本市民会館
1991(平成三)年06月21日(金) 17 福岡サンパレス
1991(平成三)年06月22日(土) 18 長崎市公会堂
1991(平成三)年06月28日(金) 19 帯広市民文化ホール
1991(平成三)年06月30日(日) 20 釧路市民文化会館
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https://www.amazon.co.jp/dp/B001MYRO20
https://www.livefans.jp/groups/5790
http://ameblo.jp/26beat69/entry-11158719198.html
https://en.wikipedia.org/wiki/Higher_Self_(album)
http://midnightrunners.web.fc2.com/hk/himurolive1991.html
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映像◆KYOSUKE HIMURO TOUR1991 -OVER SOUL MATRIX- https://youtu.be/biy9bFD7TbA
1991(平成三)年08月22日(木) 横浜アリーナ 収録
1991(平成三)年08月23日(金) 横浜アリーナ 収録
2008(平成30)年12月26日(金) YouTube公開
映像集◆OVER SOUL MATRIX 氷室京介 TOUR 1991
https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRVpua4WDa6MguR99P71INIL
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┃BOΦWY STORY ARCHIVE【1985~1988:坂元達也】Vol.05┃
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‡2016(平成28)年06月10日(金)
2016(平成28)年04月13日(水) @渋谷にて
関係者によるBOOWY伝説を裏付けるドキュメンタリー
レコーディング・エンジニア 坂元達也
BOOWYブレイクにあたって、“誰にも似ていない、何処にも属さない”サウンドが持っていた魅力は、ロックシーンの未来を切り開いたといっても過言ではない。坂元達也は、1986年以降、BOOWY史上初の1位を記録したアルバム『BEAT EMOTION』のレコーディング・エンジニアを手掛け、躍進をサポートしたBOOWY伝説の立役者のひとりだ。その後も氷室京介や吉川晃司、佐野元春など日本のロックシーンのサウンドをクリエイトし続けている。そんなBOOWY伝説を裏付ける貴重なトークを、サウンド面からお届けしよう。
※クローズドなメディア掲載での発言、多くの登場人物が敬称略であることをご了承下さい。
テキスト:ふくりゅう(音楽コンシェルジュ)
https://twitter.com/fukuryu_76
――今日はよろしくお願いします。まずは、坂元さんがレコーディング・エンジニアになったきっかけから教えてください。
坂元:名古屋で高校~大学とバンドをやってました。学部は心理学を専攻していたので、将来はそっちの仕事か音楽関係で迷っていたんですね。そんなとき、CBSソニーの会社説明会に行って、ミキサーという仕事を知りました。これは面白そうだなと、大学卒業後に専門学校に入って、そのまま1981年にスタジオTake Oneで仕事を始めました。
――そこで、佐野元春さんの作品に関わられたのですね。
坂元:1982年のアルバム『SOMEDAY』をアシスタントとして担当しました。あと、印象深かったのは吉川(晃司)君の『LA VIE EN ROSE』などですね。
――Take Oneはどんなスタジオだったんですか?
坂元:新宿御苑にありました。吉野金次さんがトップエンジニアだったスタジオで、基本的にエンジニアは全員フリーランスでした。日本のロック系が多かったですね。
――そんな坂元さんがBOOWYを知ったきっかけは?
坂元:アシスタントをやっていたときに、先輩エンジニアがカセットテープで聴かせてくれたのが最初ですね。でも、スタジオも忙しくてライブを観るチャンスにはめぐまれなかったんです。
――坂元さん自身は、どんなアーティストがお好きだったんですか?
坂元:プログレが大好きで、一番好きなのはピンク・フロイドでした。自分のバンドでもピンク・フロイドのコピーや、キングクリムゾンのコピーをやってました。
――その辺のセンスが音響的なこだわりへと結びついているのですね。
坂元:音を作っていく作業は好きでしたね。
――最初にBOOWY作品を手がけたのは、1986年9月29日にリリースした「B・BLUE」のシングルですか?
坂元:はい、サウンドインスタジオですね。麹町にあるVAPの上にあるスタジオでリズムを録りました。
――どんなきっかけでオファーがあったのですか?
坂元:東芝EMIのディレクター、子安次郎さんから声をかけていただきました。すでに「わがままジュリエット」がヒットしてた頃ですね。あともう一息で大ブレイクという状況でした。
――大ブレイクというと「B・BLUE」、「ONLY YOU」以降なイメージがありますよね。
坂元:そうですね。5枚目のアルバム『BEAT EMOTION』が3週連続オリコン・トップとなって驚きました。
――4thアルバム『JUST A HERO』でBOOWYらしさを極めながらも、ポップなアプローチへとチャレンジされたのが5thアルバム『BEAT EMOTION』でした。
坂元:日本の良い意味でのポップロックというスタイルを作ったんだと思います。メロディーもポップな曲が多いですよね。これまでの70年代や80年代の日本のロックとは、根本的に違う流れを感じました。
――『BEAT EMOTION』という作品のレコーディング・エンジニアを担当するにあたって、メンバーからコンセプトなど説明はありましたか?
坂元:いや、何も聞かされませんでした。録音しての感想は、オリジナル度の高い、洋楽など何かの真似って感じではない、日本的な新しいロックという印象を受けました。
――『BEAT EMOTION』は、サウンド的にデジタルなイメージがあります。ビート感やシンセの扱い方にしても、空気感が明らかに70年代、80年代のロックとは違う質感を持ってましたね。
坂元:80年代の半ばくらいからデジタル・ミュージックが広がってきました。本格的に広がったのは、YMOの1983年の散開以降だと思います。BOOWYは、ある種ロックとデジタルの融合を最初に上手にやれたバンドなのかもしれません。そのへんは布袋君の考えでありセンスですね。
――「B・BLUE」のレコーディング時は、とっても忙しかった時期だそうで、メンバーは羽田からスタジオに直行だったそうですね。
坂元:最初はリズム隊のレコーディングでした。布袋君は気さくに「やぁやぁ!」って感じで、初対面でも良い意味で緊張感はなかったですね。
――当時、デモというかプリプロ音源などはあったのですか?
坂元:デモはあったと思いますが、聴かされてないですね。アルバムの時も何も聴いてなかったですから。
――アルバムはスケジュール的には、1986年の9月6日から23日までで録り終えられてますね。
坂元:みんなとにかく早いんですよ。スケジュールはタイトでしたけど、レコーディング現場の雰囲気は明るかったです。喧嘩とか一切なかったですし(笑)。基本的にはドラムとベースをまず録りました。布袋君はいっしょにブースに入って、ガイドでギターを弾いている感じで。
――メロや仮歌は無いんですか?
坂元:なかったですね。だから曲としてはなんだかよくわからないまま(笑)。ヒムロックは、ギリギリまで歌詞を書いてたかな。
――先行シングルとなった「B・BLUE」は、BOOWYを代表するヒットチューンとなりました。もともと「TRUE BLUE」というタイトルだったのが、マドンナのアルバムタイトルとかぶった為に「B・BLUE」というタイトルになったそうですね?
坂元:そうなんですね。「B・BLUE」は、独特なイントロのインパクトですよね。あの当時、布袋君は音階的なものをところどころに入れるのが気に入っていたのかなという気がします。
――ロックが持っていたアンダーグラウンドなイメージが、このアルバムによってポップミュージックとして解放されましたよね。とはいえ、細部への作り込みや日本語の乗り方は、とっても工夫されていたように思います。
坂元:布袋君のエッヂの効いたカッティングがあればこその曲ですよね。あと「ONLY YOU」はね、ヒムロックが歌のレベルを確認したときに「歌を大きくしてくれ」とコメントしていたのを記憶してますね。
――氷室さんにとって大事な曲ですもんね。シングル「B・BLUE」と「ONLY YOU」がチャートで駆け上がった流れをどうみられてましたか?
坂元:日本の音楽業界というか、特にロックミュージックの世界で大きな変化が生まれたんだと思っていました。日本のロックが市民権を得ていくタイミングでしたよね。同時期にREBECCAのブレイクもありましたし。僕は岡村靖幸も担当していたんですけど、ああいうちょっとブラックに憧れを持っているようなアーティストがメジャーになったり、J-POPが変わりつつあった時代でしたね。
――3曲目「RUNAWAY TRAIN」も人気曲ですね。
坂元:「RUNAWAY TRAIN」は僕も大好きな曲なんですよ。あまりにも短時間で録ったので細かいことは覚えてないんですけど。特にギター、シンセ・ダビングまでは超ハイペースでした。2日間でドラムとベースを録り終えて、その後ギター・ダビングを何日か。シンセ・ダビングやって、一番大事に時間をかけたのは歌だったかな。ミックスについては布袋君と話してましたね。
――レコーディングでの録り方で工夫はありましたか?
坂元:当時、布袋君はJCのアンプを2台使ってましたね。
――ステレオですか?
坂元:ステレオじゃないんですよ。JCにコーラスが付いていて、薄っすら両方ともかかってるんです。JCのコーラスっていうのは、向かって右側のスピーカーと左側のスピーカーの間で揺れる感じで、向かって右はストレートな音が出て、向かって左は揺れた音が出ていて。それを混ぜるとコーラス効果が生まれるんですね。それを両側で少しずつかけていたので、両側で少しずつ揺れているんです。それでなんとなくステレオ効果が出てくる。マイクも凝っていて、スピーカー1個1個に全部違うマイクを置いていたんです。
――何を使ってたんですか?
坂元:ゼンハイザーの421と441。あとSHUREの57と、……あと一個は忘れちゃったな。
――ベースの松井(恒松)さんは?
坂元:アンプはトレースエリオットですね。電源入れるとライトが付くやつ。ライブでも使ってました。
――松井さんのベースは、ダウンピッキングなので特徴あるじゃないですか? その為の工夫などありましたか?
坂元:まっちゃん(松井)はアタックの強い音を出してくれるので、あまり手を加えませんでしたね。工夫と言えば、ヴォーカル録りのときに、これは今考えると効果がどれほどあったかわからないんだけど、通常のマイク以外にちょっと離れたところに、平たい板の上に乗ってるタイプのマイクがあるんですけど、それを立てて。狙いとしては空気感を拾いたかったんですね。ヴォーカル・マイクとそれと両方立てて混ぜてました。全曲それでやったんですよ。だからヴォーカルは必ず2トラックありました。ちょっと変わったコーラス効果があったんですよね。
――(高橋)まことさんのドラムでの工夫は?
坂元:まこっちゃん(高橋)のドラムは普通に録ってましたよ。
――でも、まことさんってドラムが走るじゃないですか?
坂元:走る(笑)。何回かやってると走らなくなってくるんだけど、それでも走るね(笑)。一応ドンカマつかってるんだけどね。とはいえ、ちゃんとリハをやってきてるので、割とスムーズにまこっちゃんもやれましたね。
――スケジュールをあまり取れなかった理由はあったんですか?
坂元:『BEAT EMOTION』の発売は11月でしたよね? メーカー的に12月には伸ばしたくなかったんだと思います。11月に結果が出るような時期に発売したかったんでしょうね。
――9月23日にスタジオで録り終えて、11月8日発売というタイム感ですもんね。1986年の3月1日に4thアルバム『JUST A HERO』をリリースして、武道館でのライブ盤『“GIGS” JUST A HERO TOUR 1986』を7月31日に出していることを考えると、1年で重要作を3枚リリースって生き急いでますよね。
坂元:12月に入っちゃうと、年末に向けていろんなものが出てくるから考えていたんでしょうね。でも、そんなに焦らされた感覚はなかったですね。みんなホントにレコーディングが早かったんですよ。
――アルバム『BEAT EMOTION』にはシンセサイザー・オペレーターとして、YMOでお馴染みの松武秀樹さんが参加されていました。どの曲でどんな効果を与えられたのでしょうか?
坂元:ドンドコとかピコピコとか入ってるのは全部松武さんですよ。「B・E・L・I・E・V・E」とか、いろんな曲で音を作られていますね。
――どんな効果を狙いたくて松武さんが参加されたのでしょうか?
坂元:松武さんはシンセサイザー・オペレーター第一人者でしたから。やっぱり松武さんの感覚が欲しかったんでしょうね。イメージは伝えるんですけど、それを音にしてくれるのは松武さんでした。「こういうの欲しい!」って言ったら「じゃあこういうの?」って出してくれるから。当時のデジタルビートのセンスとしては秀でていたと思います。
――「SUPER-CALIFRAGILISTIC-EXPIARI-DOCIOUS」のキーボードソロは、ホッピー神山さんが弾かれたそうですね?
坂元:そうなんでしたっけ? 覚えてないな(笑)。ヒムロックが小泉今日子に「LOVE&GAME」の元曲「3001年のスターシップ」を提供したときもホッピーは来てましたよね。
――そして「NOISE LIMITTER」という曲はデジタルビートで印象的でした。
坂元:ドラムは人力ではなく実は打ち込みなんですよね。
――布袋さんの中で、デジタルなビート感、コンピューターっぽいリズムへのこだわりが芽生えていたんですかね?
坂元:GUITARHYTHMやCOMPLEXでは、完全にそっちいっちゃってるじゃないですか? そういう嗜好性があったんでしょうね。他の曲にしても、バンドサウンドなんだけどデジタルビートを絡めてくるという。たとえば「RUNAWAY TRAIN」にも、そういうエッセンスが入っていると思うし。
――メロディーが美しくポップなナンバーと言えば「RAIN IN MY HEART」も良かったです。作詞が松井さんで、布袋さん曲なんですよね。
坂元:良い曲ですよね。あんまり個々の録りのことは覚えてないんですけど、ミックスはけっこう朝までやってましたね。最後の日とか徹夜しましたから。「OUR REVOLUTION」でのエフェクティヴなアプローチとか、自分も若かったんでしょうね。いろんなことを思い切ってやってたんだと思います。今聴くとドラムがでかく感じるね(笑)。
――リバーブ感がなんか違いますよね?
坂元:時代ですよね。デジタルリバーブとか、そんなに立派なものが無かった時代ですから。台数とかも限られているし、ディレイだってたくさんあったワケじゃないからね。
――デジタルリバーブ、レキシコンなどはまだなタイミングですか?
坂元:このちょっと後くらいだと思うな。ただTake OneにはAMSっていうラックマウントのリバーブがあったんですよ。百何十万するような。
――1986年って、スタジオの機材など、デジタルとアナログの過渡期な時代だったのですか?
坂元:デジタル機材が出始めたのが80年代。Take Oneはそういうの遅かったかな。81年82年くらいからデジタルディレイ、デジタルリバーブなどが入ってきました。でも当時はまだ高価だったのでそんなに台数もなくて使えるものは限られてました。あと当時は、ドラムにリバーブを付けて、それをゲートでカットするゲートリバーブが流行ってました。そういうのをやるためにはデジタルリバーブをガっとかけて、スパっと切らないとダメでしたね。
――当時、坂元さんはおいくつだったんですか?
坂元:え~と、28歳ですね。
――メンバーもそのころ20代ですよね。制作以外でもメンバーとはお話されてました?
坂元:あまり外で会うことはなかったですね。あとシングルだと「MARIONETTE」も担当したんですよ。そういえば、カップリングの「ワイルド・ワン」が時間がなさすぎて大変でした。一泊三日でロンドンに行ってきたんだよね。
――そのときはディレクターの子安(次郎)さんが?
坂元:リズムトラックをこっちで作って、子安さんがテープを届けて。向こうで録ってきたんですよね、ゲストシンガーのスージー・クワトロの歌声を。ちなみに、このタイミングでTake Oneを抜けていたので、セディックを本拠地にしてました。
――六本木WAVEの上にあるスタジオ、セディックはいかがでした?
坂元:リズムを録るには部屋鳴りがすごく良いスタジオで。A、B、Cとあるんですけど、僕はSSLのコンソールをメインに使ってたんですけど、最初はNEVE(ミキシング・コンソール)しかなかったんです。Cスタは違うメーカーのがあったんですけど、僕が入るってことでそこをSSLに変えていただきました(苦笑)。どのみち、SSLは一個あった方がいいからね。
――なるほど。「MARIONETTE」はどんなレコーディングでした?
坂元:これも忙しかったからか、あんまり記憶ないですね。子安さんが慌てていたことしか覚えていない(笑)。
――「MARIONETTE」は1987年7月22日発売ですけど、スケジュール的にけっこうギリギリだったんですね。
坂元:そうですね。忙しさもあって、あまりメンバーと話し合ったってのもなかったんですよ。メンバーと交流を持てたのは、僕が担当していないアルバム『PSYCHOPATH』のミックスのときでした。ベルリンへ遊びにいったんですよ。メンバーと同じ部屋に泊まりました。部屋がだだっ広くて、ベットが点々と置いてあるような場所で。ミックス中は時間が出来るんで、一緒に遊んでましたね。
――なぜまたベルリンへ?
坂元:イギリスに兄がいて遊びに行ったついででした。ロンドンからベルリンへ飛んだんです。まだ壁があったころですね。古い建物の中にあるスタジオでした。僕が遊びにいったら、現地の人が勘違いして、坂本龍一が来たってザワついて(笑)。わざわざ見にくるわけ。見事に“サカモト”違いでしたね(苦笑)。
――ははは(笑)。
坂元:メンバーとはいっしょに御飯を食べたこととか覚えてますね。特に、まっちゃんと行動していたことが多かったかな。
――当時のベルリンはどんな雰囲気でしたか?
坂元:西側は普通に歩けるんですよ。まぁ、退廃的な場所でしたね。半日だけ東側にも入りました。東に入るときは身体検査されるんですよ。僕の前にいたアメリカ人は捕まってました(苦笑)。
――ベルリンでのミックスも覗かれました?
坂元:もちろん。でも、まぁミックスだけでしたから。録りは全部セディックでやってたんだよね。印象はそんなにはないですね。僕の仕事としては、最後のシングル『季節が君だけを変える』のミックスを担当しました。カップリングが「CLOUDY HEART」でしたね。
――「CLOUDY HEART」は昔のマルチ(録音素材)に、布袋さんがリアレンジされたヴァージョンですね。
坂元:「季節が君だけを変える」はリミックスで、「CLOUDY HEART」は一部録り直しました。
――この頃は、BOOWYが解散するっていうのは?
坂元:まだ知らなかったですね。
――坂元さんといえば、BOOWYのライブ・レコーディングもたくさんやられてますよね?
坂元:ライブに関しては、この頃は主要なものはだいたい録ってましたね。
――1987年の夏、神戸ワールド記念ホールと横浜文化体育館で行った『“GIGS” CASE OF BOOWY』もですか?
坂元:やりましたね。神戸へも行きました。デジタルでまわしてました。その前に、熊本グリーンピア南阿蘇アスペクタにて行われたライブ・イベント『BEAT CHILD』の収録へも行ってたんですよ。
――あの異常な豪雨のなかでおこなわれた伝説のロックイベント『BEAT CHILD』も観られているんですね。
坂元:3人で交代で収録して、後に、映画に使われた音のミックスは僕がやりました。尾崎豊、佐野元春、THE STREET SLIDERSとかも出てましたからね。
――岡村ちゃんも出てますね。
坂元:岡村靖幸のときは、まだ雨降ってないんだよね。前日に通しリハをやったんですけど、すごい良い天気で(笑)。当日も最初は降ってなくて、白井貴子の頃から降ってたよね。BOOWYのときはどしゃぶりでした(苦笑)。肌に当たると痛いくらいの雨で。
――収録、雨の音とか大変そうですよね。
坂元:オーディエンス・マイクにカバーかぶせたんだけどバチバチ鳴っててすごかったですね。ていうか、泥沼がひどすぎて歩けないから、みんなトイレへも行けないわけですよ。終わった後パンツとかいっぱい落ちていた惨状で……。草っぱらの斜面にステージがあっただけでしたから。ホントよく滑るんですよ。あの光景は忘れられないな……。
――伝説の現場にいたワケですね。
坂元:布袋君が立ててた髪もひゅって倒れちゃって。エフェクターも雨ですぐやられちゃいましたから。音がこもっちゃってね。
――渋谷公会堂での最後のライブ『1224』のエンジニアも坂元さんですか?
坂元:そうですね。ライブはマルチで2台まわしてましたね。当時ライブはデジタルの信頼性の低さもあって、同時にアナログもまわす風潮でした。
――あらためて『1224』の頃のライブはいかがでしたか?
坂元:やっぱり熱がありましたね。ずっと録音車の中にいたので、渋谷公会堂の外で入れなかったオーディエンスが集まって騒動になっているなんて知らなかったんですよ。
――そして、1988年4月、東京ドームでの『LAST GIGS』はいかがでした?
坂元:当日のことはあまり記憶になくて……。でも、録音した音源を1週間くらいでミックスを仕上げて、1ヶ月たたないうちにライブ盤として発売したんですよね。
――『LAST GIGS』のミックスでは、まことさんがスタジオに来てくれたんでしたっけ?
坂元:まこっちゃんとまっちゃんが遊びに来てくれました。テイクは全部ディレクターの子安(次郎)さんによるチョイスでした。
――1988年に出された盤では、MCもカットされて12曲にセレクトされてましたね。この『LAST GIGS』は選曲が良かったこともあり、BEST盤のようにものすごく売れましたね。
坂元:当時、東京ドームができたての頃でした。ライブをどう収録するかも手探りの状況でした。
――『LAST GIGS』は日本で一番売れたライブ・アルバム作品かもしれないですよね。
坂元:後にこの音を使ってDVDが出たじゃないですか? そしたらとんでもないことが発覚したんだよね。布袋君がコーラスしてるところにコーラスが出てなかったという。ライブ盤向けにお客さんの声を聞かせるために、布袋君の声をおさえちゃった箇所が少しだけあったんですよね。
――なるほど。そして、完全盤として『“LAST GIGS” COMPLETE』もリリースされました。坂元さんは、BOOWYのたくさんの録音に携わられて、どんなところに魅力を感じましたか?
坂元:惹かれましたよね。ヒムロックの存在感とかね。彼は甘さと激しさを両方兼ねそろえている貴重な声の持ち主なんですよ。歌も非常にうまいし、ロックバンドでこんなに歌がうまい人はなかなかいないと思います。布袋君はセンスも抜群でギタリストとして最高に素晴らしかったから。よく一人のギターで、サウンドを支えられていたなと不思議に思いますね。一人でやるんだったら歪んだ音で埋めるようなサウンドかというと、BOOWYってほとんど歪んでないんですよ。そして、そんなサウンドを支えていたのはまこっちゃんのドラムとまっちゃんのベースでした。手数の多さが逆に音の物足りなさを感じさせないところがあって。まっちゃんが余計なことしないからこそ、まこっちゃんがいろんなこと出来たのかもしれないし。4人の不思議な個性が絡み合って、ライブの音の場を作り上げて行きましたよね。ドラムがタイトで手数の少ない人だともたないと思うんですよ。絡み合いとして、奇跡的な部分があったと思いますよ。よく楽器3ピースであれだけもっていったなと感じましたからね。
――東京ドームでも、4人だけでやっちゃいましたからね。
坂元:BOOWYって、本編最後の曲をやるとき照明が全部つくじゃないですか? あれちょっと感動的ですよね。あと、自分が携わった「ONLY YOU」も忘れられないなぁ。レコーディングだといきなり歌から始まるんですけど、ライブは最初にジャジャジャジャジャってイントロが入るんですよね。
――このワンシーンは忘れられないなというハイライトはありますか?
坂元:渋谷公会堂のヒムロックの涙は忘れられないですね。でも、当時ツアーのラストが渋谷公会堂だと聞いて“何で?”って思ったんだよね。武道館がツアーラストじゃないんだって。……解散するなんて思ってなかったからね。
――氷室さんとはその後もお仕事を?
坂元:アルバムには2枚参加しました。3rdアルバム『Higher Self』と4thアルバム『SHAKE THE FAKE』ですね。ヒムロックのソロとしては、一番バンドっぽいアルバムだと思います。
――では最後の質問です。坂元さんにとってBOOWYとはどんなバンドでしたか?
坂元:『BEAT EMOTION』というアルバムは日本の音楽シーンにおいて大きな転機だと思うし、このアルバムに関わらせてもらえたことで、僕のエンジニアとしてのポジションが確立できたと思っています。BOOWYと出会えて、一緒に作品を作れたことは大きな意味がありました。そういえば、4枚目『JUST A HERO』から5枚目『BEAT EMOTION』。何でマイケル・ツィマリングから僕にエンジニアが変わったかは、子安さんに聞かないとわからないですね。誰が言い出したとかは僕は知らないので。でも、ホントありがたいことです。
<インタビューを終えて>『BOOWY STORY ARCHIVE』第5弾、レコーディング・エンジニア 坂元達也 氏へのインタビュー。いかがでしたでしょうか。BOOWY躍進のきっかけとなった5thアルバム『BEAT EMOTION』の制作時の逸話。音作りへの飽くなきチャレンジ、伝説の現場のリアルな風景。音楽面からの貴重なトークを語って頂きました。引き続き、ロックの歴史を変えたBOOWY伝説の物語を、関係者の証言を追い求めていきたいと思います。これら記憶と記録が、次世代の音楽シーンへの正しい継承となることを信じて。
次回アップデート予告:フォトグラファー 加藤正憲
https://sp.boowyhunt.com/interview/?id=5
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┃ ♪男達のメロディー♪ ┃
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SHOGUNのシングル作品
1979(昭和54)年04月XX日(?) リリース
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┃ 『SHOGUN』 ┃
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SHOGUNのアルバム作品
‡1979(昭和54)年06月XX日(?) リリース
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https://ja.wikipedia.org/wiki/男達のメロディー
https://ja.wikipedia.org/wiki/SHOGUN_(アルバム)
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映像◆1979/7/23『夜のヒットスタジオ』SHOGUN「男達のメロディー」https://youtu.be/YBpMzC1oP4I
Mr.Childrenアンサイクロペディア ⇒ http://ja.uncyclopedia.info/wiki/Mr.Children
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┃ 今日は何の日!? ┃|6月10日|
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http://www.cdjournal.com/main/calendar/20200611/todays/
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┃ "DISCOVERY" TOUR '99 ┃Official Live No.10
┗━━━━━━━━━━━━┛15会場42公演 40万0338人
1999(平成11)年06月09日(水) 名古屋レインボーホール 04会場 35本目 ※3.13以来名古屋3回目
‡1999(平成11)年06月10日(木) 名古屋レインボーホール 04会場 36本目 ※3.13以来名古屋4回目
01.DISCOVERY
02.アンダーシャツ
03.名もなき詩
04.Prism
05.Everything(It's you)
06.I'll be
07.花-Memento-Mori-
08.Simple
09.ラヴ コネクション
10.Dance Dance Dance
11.ニシエヒガシエ
12.ラララ
13.Tomorrow never knows
14.終わりなき旅
15.光の射す方へ
~encore~
16.everybody goes-秩序のない現代にドロップキック-
17.innocent world
18.Image
備考・・・料金は6300円。照明以外は派手な演出や特殊効果は使っていない。7thアルバム『DISCOVERY』の収録曲(シングル曲除く)では♪#2601♪のみ演奏されなかった。真駒内アイスアリーナ公演と沖縄宜野湾市海浜公園野外劇場公演の音源を収録したライブアルバム『1/42』が50万枚限定で発売されたヨ(=^◇^=)
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http://www.mrchildren.jp/live/1999_discovery.html
http://blogs.yahoo.co.jp/cherry39_home/11881777.html
http://mrchildren.k-free.net/ ⇒ ライブへ
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┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
┃ ap bank fes'12 Fund for Japan staff blog ┃
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|2012(平成24)年 6月10日(日)「いよいよ出演者発表しました!」 |
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http://blog.fes.apbank.jp/?p=25
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┃ 『ap bank radio NEO RESONANCE』 ┃TOKYO FM&JFN 38 STATIONS
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‡2012(平成24)年 6月10日(日) 小林武史×エリイ「ひっくりかえる展」
ワタリウム美術館で開催されている「ひっくりかえる展」今回Chim↑Pomが初のキュレーション展をした。地球上にChim↑Pomみたいな人達が同時多発的に出て来ていて、似たような人達が国境を越えて居る。世の中に対して何か思っている事を作品にしたりする人達。そんなイケてると思った人達をラインナップして集めてオファーをして作品を展示した。Chim↑Pomの作品はもちろん、ロシア、フランスから作品を取り寄せて展示している。Chim↑Pomのような作品はどういう事かというと、街を遊び場にして作品を作る。外に出て街を使う。フランスのJRという作家はブラジルのファベーラという普通の人が入ったら危険な地域にグラフィティーアートとして女性の眼を貼る。女性が強いというメッセージ。それを一晩のうちに貼っていく。外から見ると一晩のうちに眼が貼ってある丘が出来ていたりする。列車の上に眼を貼る。上から見ると隣の街に列車が移動していく。壁や街を面白く使っている人達の作品が並んでいる。アートの役割は音楽もそういう要素を持っているけれど、ポピュラーミュージックは人の営みに寄り添って人の心が震えたり、そういう事に重きを置きがち。僕らは普通に生きていると既成概念やこれが当たり前という価値観が降り積もってしまう。アートの役割はそれが当たり前だと思うのはつまらないし危険なこともあるし、福島の原発の問題もエネルギーの事も当たり前という事をちょっと待てよと視点を変えてみる。作品を見ていて価値観の逆転が起こる。そのためにアートが存在する。そういう態度でアートと向き合う、解釈を広げている人達。YESMENは「NEWYORK TIMES」の虚構新聞を作って「イラク戦争が終わった!」と夢のような事を新聞に書いて、それが凄くクオリティーが高く、細かい広告もきちんと作ってあるものを朝配って街中の人が驚いている動画がある作品。虚構なんだけれども人はそれぞれの営みを持っていて、そこに乗っ取っている訳ではなく、誰かの都合で物事が回っていたり、新聞やニュースに強い力を持っている人やシステムが回している事に改めて気付かされる。本来ならこうあった方がいいと。ロシアのヴォイナは、パトカーが全然仕事をしていなかったり不正がある。泥酔して酔っぱらっているパトカーを全部ひっくり返している映像作品と写真が展示してある。お代官さまを懲らしめる風のように去っていく闇だけど正義の味方のような風情だけれど、本人たちはそんなにヒーローという感じではない。過激になり得る要素がロシアには沢山あるのでそういう風に過激になってしまう。福島のああいった事故があって、世界からChim↑Pomが注目されているというのは、僕らは営みに寄り添う事をやっているけれども、どうして日常に降り積もっている価値観を当たり前だと思うのか。こんな目に遭っているのに。なぜもっと真っ当な声を出さないの?と。アートの役割としてそういうことになっているのはすごく良い事。
ひっくりかえる展
会期:2012年4月1日(日)ー7月29日
休館日:月曜日
入場料:大人1,000円 学生800円(25歳以下)
ペア券:大人 2人 1,600円/ 学生 2人 1,200円(期間中、何度も使えるパスポート制)
会場:ワタリウム美術館
ap bank fes '12 Fund for Japan
7/14日(土)静岡県 つま恋
7/15日(日)静岡県 つま恋
7/16日(月・祝)静岡県 つま恋
8/04日(土)兵庫県 淡路島国営明石海峡公園
8/05日(日)兵庫県 淡路島国営明石海峡公園
8/18日(土)宮城県 国営みちのく杜の湖畔公園風の草原
8/19日(日)宮城県 国営みちのく杜の湖畔公園風の草原
************* http://www.tfm.co.jp/apradio/guest120610.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/Ap_bank_radio!_THE_LAST_WAVE
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‡2013(平成25)年06月10日(日)『LuckyRaccoon 39』
仕様:A5 / 100ページ
価格:1000円(税込)
購入方法:通信販売のみ / 5月28日(月)より予約受付開始
http://luckyracoon39.tumblr.com/
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http://www.mrchildren.jp/media/media.html#mag
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