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┃ 『Journey of a Songwriter~旅するソングライター』┃
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‡2015(平成27)年04月29日(wed) released
******************* http://hamasho-tabisuru.jp
https://music.amazon.co.jp/albums/B00W9NEYZS
https://music.amazon.co.jp/albums/B00W9N9H2S
https://ja.wikipedia.org/wiki/Journey_of_a_Songwriter_%E3%80%9C_%E6%97%85%E3%81%99%E3%82%8B%E3%82%BD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%BC
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映像◆新宿 1975年・冬 http://youtu.be/s8GcPXX3xrQ
2012(平成24)年08月18日(土) この動画は NHK総合TV『特ダネ!投稿DO画 夏のスペシャル』で放映
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①┃ 『愛奴』 ┃
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1974(昭和49)年12月10日(火) 録音開始
1975(昭和50)年01月22日(水) 録音終了
1975(昭和50)年05月01日(木) released LP
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①┃ 『AIDO』 ┃
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1982(昭和57)年XX月XX日(X) released LP再発
1987(昭和62)年07月22日(水) released CD
‡1990(平成二)年06月21日(木) released CD再発
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②┃ 『AIDO Complete Collection』 ┃
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2015(平成27)年04月29日(水) released
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①https://ja.wikipedia.org/wiki/愛奴_(アルバム)
②https://ja.wikipedia.org/wiki/AIDO_Complete_Collection
https://music.amazon.co.jp/albums/B00W9N08TE
https://music.amazon.co.jp/albums/B00FS80MGQ
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CBSソニーの♪二人の夏♪視聴会時??、150万枚は売れると期待した♪二人の夏♪
15:13 ♪片想い♪の後、本人の口から初めて父の逝去が公表される
‡1987(昭和62)年05月01日(金) 16時間かけて横浜から
1987(昭和62)年05月02日(土) 父の里山口までGET BACK
1987削除動画◆浜田省吾 NHK-FM MY SELECTION からトーク(前半)https://youtu.be/153r0pTOjP0
広島が生んだ新しいポップスを創造するグループ
5/1デビュー!
♪広島フォーク村から巣立った若者らが、新しいサウンドを創造して、
ついに5月1日 LPシングルでデビューします・
『愛奴』を大きく育てま省!
CBS・ソニー 番号なし
盤に「CBS・ソニーニューミュージック情報」「見本盤」等のプリント。
解説:
愛奴と国吉氏を紹介する内容なのに・・・ジャケには愛奴の事だけ。
文章から察するに「ジャケは広島で作った物か?」と推測してしまう。
https://blogs.yahoo.co.jp/fostw66/8802097.html
動画◆THE ALFEE 御三方が語る、愛奴 恋の西武新宿線 アルフィー 高見沢俊彦 坂崎幸之助 桜井賢https://youtu.be/ssM0Qgf752Y
2018(平成30)年11月07日(水)
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①┃ 浜田省吾 #22 A Place In The Sun at 横浜スタジアム ┃
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2016(平成28)年06月04日(土)
‡1984(昭和59)年04月29日(日)、浜田省吾第二回目のA Place In The Sunが開催されました。今回はその時の話です。
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1984(昭和59)年02月19日(日)、NHKホールで終了したファースト・フィナーレツアーをもって第二期The Fuseは消滅した。そして残ったメンバーは町支寛二、古村敏比古、板倉雅一の三人だった。このメンバーを中心とした新たな編成のバンドで、4月に横浜スタジアムで開催されるA Place In The Sunに臨むことになった。The Fuse消滅の寂しさに浸っている間もなく、横浜スタジアムでのバンドメンバーの人選が始まった。自薦、他薦等で集まったメンバーは以下の通り。
ドラムス:菊地丈夫
ドラムス:富岡"Grico"義広
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
ギター:法田勇虫
キーボード:板倉雅一
キーボード:友成好弘
サックス:古村敏比古
トランペット:兼崎順一、小林正弘
サックス:沢井原兒、包国充
トロンボーン:池谷明宏
コーラス:石川寛爾(かんじ)
ゲストキーボード:佐藤準
ツインドラム、ツインギター、ツインキーボード(曲によってはトリプルキーボード)
という強力な布陣だった。それとオフィシャルのクレジットには載っていないが、コーラスでPAスタッフの石川寛爾が参加していた。石川寛爾は後に作曲家/シンガー・ソングライターに転身し、数々のヒット曲を手がけることになる。
1984(昭和59)年の春、渋谷区初台のレオミュージック・スタジオでリハーサルが始まった。大所帯のバンドのため、広いスタジオの中はメンバーと楽器が入るととても狭く感じられた。ほぼメンバーを一新してのリハーサルだったため、最初の頃はとても大変だった。特にツインドラムの呼吸がなかなか合わずに、ベースの江澤くんはどちらのビートに合わせていいか頭を悩ませていた。そのためドラムスチームは、みんなが帰った後も居残りで呼吸が合うまで練習したりしていた。菊地丈夫さんは浜田さんの数々のアルバムでも叩いている名ドラマー。スタジオミュージシャンとしても、数えきれないくらいたくさんの作品に参加している。もう一人のドラマーの富岡さんは、伝説のロックバンド「TENSAW」のドラマーだった方。通称「グリコ」と呼ばれていた。キーボード隊もぼくと友成くんのコンビに変わったため、アンサンブルのチェックやシンセの音作り等に膨大な時間がかかった。そのため全体でのリハーサルが休みの日に、友成くんにぼくの家に来てもらってシンセの音作りをしたり、アンサンブルの確認をしたりもした。友成くんは角松敏生バンドのキーボード・プレイヤーで、ぼくとはほぼ同世代。聴いていた音楽も共通するものが多かったので、すぐに打ち解けることが出来た。ギターチームもツインギターのアンサンブルやソロの割り振り等、綿密な打ち合わせが行われた。ギターの法田さんは、以前来生たかおさんのバンドでもプレイしていたそうで、ぼくも来生さんと一緒にやっていたことがあったので、法田さんとそんな話で盛り上がったりした。 そして何曲かゲストでキーボードの佐藤準さんが加わった。準さんは浜田省吾のバラードアルバム「Sand Castle」のアレンジャーで、超一流のキーボードプレイヤーでもある。そしてライブでもSand Castleからのナンバーに参加してもらうことになった。佐藤準さんは主にシンセサイザーでの参加だった。準さんが加わってのトリプルキーボードのアンサンブルは本当に強力だった。
セットリストは以下の通り。
01.壁にむかって
02.明日なき世代
03.モダンガール
04.DJお願い~バックシート・ラブ
05.さよならスウィート・ホーム
06.ラストショー
07.風を感じて
08.あの頃の僕
09.愛のかけひき
10.いつかもうすぐ
11.愛しい人へ
12.家路~終りなき疾走
13.独立記念日
14.路地裏の少年
15.陽のあたる場所
16.片想い
17.いつわりの日々
18.愛という名のもとに
19.マイホームタウン
20.土曜の夜と日曜の朝
21.反抗期
22.東京
23.愛の世代の前に
24.OCEAN BEAUTY~僕と彼女と週末に
・アンコール
25.DANCE
26.Little Rocker's Medley?今夜はごきげん~ HIGH SCHOOL ROCK & ROLL~あばずれセブンティーン
27.ON THE ROAD
28.凱旋門 全28曲、約三時間半のコンサートだった。ステージのセットは二階建ての作りで、一階にバンドメンバー、二階部分にホーンセクションとコーラスが配置していた。ぼくの場所はステージの奥まった部分で、ちょうど自分の頭の部分がステージの二階の部分になっていて、まるで屋根付きのガレージのような感じだった。ぼくは実はこの日のコンサートのことをあまりよく覚えていない。断片的に覚えているのは、この日はとても寒くてコンサートの最中にスタッフの私物のジャンパーを借りて衣装の上から着た事、寒さで身体が冷えて本番中にトイレに行きたくなったのだが、トイレがステージからは非常に遠かったため、急遽スタッフが用意した簡易トイレでステージ裏で用を足した事、打ち上げは後日六本木の中華料理店で行われた事等々。コンサートの中で印象的だったのは、中盤の佐藤準さんが加わってのバラード曲のコーナー、初披露されたレコードとはバージョン違いのDANCE、アンコールでの膨大な量の紙吹雪。ぼくは演奏していて何だか不思議な感覚に陥っていた。ステージから客席を見ると、グラウンドやスタンドを埋め尽くした何万という観客の姿は見えるのだが、何だか絵葉書や静止画を見ているようで、そこにお客さんがいるというリアル感が全く無かった。屋外のためなのか、歓声もステージにはあまり届いて来なかった。自分達の演奏している音も風に乗ってどこかにかき消されてしまうような、手応えが感じられないような、ぼくは演奏しながらそんなどこか空回りしているような感覚に陥っていた。勿論ベストは尽くしたし、コンサート終了後の達成感はあったものの、何だか今ひとつすっきりとしない複雑な気分だった。コンサートが終わり、ほどなく自分の車で球場を後にした。外に出ると街の其処彼処に、球場から飛んで来た紙吹雪がちらほら舞っていた。ぼくはコンサートが終わって駅に向かう大勢の人達を横目で見ながら、夜の横浜の街を一人で走っていた。
‡写真◆1984.4.29(sun) 横浜スタジアム。
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②┃ いっぺいちゃんのこと ┃
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2016(平成28)年03月28日(月)
今回は、ぼくが高校生の頃からの知り合いで、後に浜田省吾&The Fuseの一員として苦楽を共にした盟友、いっぺいちゃんこと一戸清さんのお話です。
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ぼくといっぺいちゃんの出会いは1974(昭和49)年、ぼくがまだ高校生だった頃に遡る。千葉県船橋市のとある高校に通っていたぼくは、学校の同級生と三人組のバンドを結成してオリジナル曲を作ったり、学園祭で演奏したりしていた。隣町の高校にカッコいいバンドをやっている奴らがいる、という噂をある日ぼくは友達の女の子から聞いた。「EEF(イーフ)」と名乗るそのバンドは三人組のトリオで、フォークっぽい曲にジャズフュージョンのようなテイストを加えた、ちょっと不思議なサウンドを奏でるバンドだった。そのジャズっぽいクロスオーバーのようなサウンドを担っていたのが一戸清だった。EEFのメンバーとぼくの友達の女の子が付き合っていたことから、ぼくはいつの間にかEEFのメンバーだった一戸くんと知り合いになった。一戸くんはぼくより二つ年上で、黒縁のメガネをかけたちょっとインテリっぽくて、博士のような雰囲気の男だった。高校の同級生と結成したぼく達のバンドはオリジナル曲も増えて来て、どうせならラジオ番組で募集しているコンテストに応募してみようという話になった。そこで知り合いの中で、唯一オープンリールのマルチトラックレコーダーを持っていた一戸くんの家で、デモテープを録らせてもらうことになった。1974年、昭和49年当時にオープンリールのマルチトラックレコーダーを持っている人はそう多くなかった。一戸くんの家にはTEACの4チャンネルのマルチトラックレコーダーがデン!と鎮座していて後光を放っていた(ように見えた)。一戸くんの家で頑張って録音させてもらったデモテープを、カセットテープにダビングしてラジオ番組のコンテストに応募した。結果はあえなく落選、一次審査にも引っかからなかった。まぁ当然と言えば当然なのだが(笑)。それはさておき、その頃千葉県北習志野にぼく達がよくたむろしていた「Beatle」という喫茶店があった。Beatleにはフォルクスワーゲン・ビートルの愛好家や、地元のアマチュア音楽サークルの連中がたくさん出入りしていた。Beatleのご子息のUさんも、たしか「Joy Of Wednesday」というすごくいかしたバンドをやっていて、そのウエストコーストっぽいサウンドに、ぼくは密かに憧れていた。Beatleでも一戸くんとはよく一緒になった。地元のアマチュア音楽サークル主催のコンサートで、ぼく達のバンドと一戸くんのEEFが一緒になることもあった。しかしぼくと一戸くんは、好きな音楽もプレイスタイルも全く違っていたので、この先も彼と一緒に演奏することはきっと無いだろうと、その頃は思っていた。それからしばらく一戸くんとはあまり会う機会がなかったのだが、何年か後にぼくも一戸くんも、ミュージシャンの卵のような活動をするようになっていた。そんなある日、突然彼から電話がかかって来た。熱海の温泉旅館でのハコバンの仕事の電話だった(詳しくは熱海の記事を参照)。そこからさらに数年後、ぼくと一戸くんは思わぬ所で再会を果たす。そう、浜田省吾さんのバンドである。
1979(昭和54)年07月、ぼくと一戸くんはほぼ同時期に浜田省吾バンドに加入することになった。おそらく一緒に演奏することは無いだろうと思っていた人物とのまさかのツインキーボード。しかもぼくがピアノで一戸くんがオルガン。何か不思議な縁を感じた。浜田省吾1979(昭和54)年の秋のツアーから、
1984(昭和59)年02月19日(日)にNHKホールで終了したファースト・フィナーレツアーまでの約4年半の間、本当に苦楽を共にした。79年?80年当時はまだ浜田さんのコンサートも、すべての箇所でソールドアウトというわけではく、場所によってはかなり空席の目立つところも多かった。時には千数百人収容の会場に、二百人に満たない観客しか入っていない前で演奏したこともあった。過酷な移動や悪条件の宿泊施設等、決して楽な環境での旅ではなかったけれど、とても楽しくてしかたがなかった。特にThe Fuseと名乗るようになってからの、第二期のメンバーは本当に仲が良くて、ツアーの間のつかの間の休日を利用して、メンバーだけでプライベートで海外旅行に出かけたりもした。しかし、1983(昭和58)年のツアーあたりから何となくメンバー間に、目に見えない溝のようなものが出来始めているのを、みんな薄々感じ始めていた。何百本ものツアーを共にした馴れ合いのような、そうで無いような、何とも言葉では言い表しがたいムードが漂い始めた。かと言って決して仲が悪くなった訳ではない。もし仲が悪くなったら、何百本ものツアーを一緒に廻ることなど到底不可能だ。ぼくといっぺいちゃんは当時住んでいる家がすぐ近所で、ぼくの家から歩いて数分のところにいっぺいちゃんは住んでいた。当時独身だったぼくは、すでに妻帯者だったいっぺいちゃんの家に、よくご飯をごちそうになりに行った。バンドのメンバーもいっぺいちゃんの家に、ことある毎に良く集まった。ツアーに出かける時にも一緒によくタクシーで羽田空港まで行った。ツアーが終わって羽田に到着してからの帰りも一緒だった。
1984(昭和59)年02月19日(日)にファースト・フィナーレツアーが終わって、The Fuseは解散というか自然消滅した。
‡1984(昭和59)年04月29日(日)に横浜スタジアムで開催された、浜田省吾「A Place In The Sun」は、The Fuseからはぼくと古村敏比古くん、町支寛二さんの三人だけが残った。ベースの江澤くんはゲストプレイヤー扱いでの参加だった。The Fuse脱退後の一戸くんは、映像制作会社を設立して活躍していた。ぼくも電話やメールで話すことはあったが、実際に会う機会はなかなか無かった。数年前にSNSを介して、また一戸くんとの繋がりが復活した。近い内に再会を約束したばかりだった。
2014(平成26)年10月28日(火)、一戸清くんは永眠した。まだ60歳の若さだった。結局
1984(昭和59)年02月19日(日)が彼との最後の日になるなど、その時は夢にも思わなかった。
2014(平成26)年11月02日(日)、横浜の瀟洒な教会で彼と再会した。30年ぶりに会ったいっぺいちゃんは、昔と変わらず優しい顔でまるで眠っているようだった。いっぺいちゃんありがとう、安らかに。
写真◆北習志野のBeatle。1974(昭和49)年頃。
写真◆いっぺいちゃんと。1981(昭和56)年頃。
写真◆1981(昭和56)年頃。
映像★浜田省吾さんからの生メッセージと歌 「君の微笑」ピアノ「君が人生の時」
映像★浜田省吾は肩こりだった SHOGO メドレー 家路 Midnight BT etc Piano https://youtu.be/B-s4aAr2904
**************** http://air.edisc.jp/ima/
①http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/06/22-place-in-sun-at.html
②http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/blog-post_28.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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♪A PLACE IN THE SUN♪ -日本語訳♪陽のあたる場所♪-
一本の長くて孤独な川のように
僕は夢に向かって走りつづけている
立ち止まらずに 先へと進んでいる
一本の樹の小さな枝のように
僕は自由を求めて手を伸ばし続けている
もっと先へと あきらめないで
古くて埃まみれの道のように
僕は重荷にうんざりしている
でもどんどん行くんだ もっと先まで
くたびれて問題だらけの、この地球のように
生まれてからずっと僕は転がりっぱなしさ
ぐるぐる回れ 止まっちゃいけない
だって陽のあたる場所はかならずあるから
そいつは誰にでも希望がある場所で
僕の貧しく不安な心も追っ掛けるべき場所なんだ
そうさ、陽のあたる場所はかならずある
命がつきてしまう前に
陽のあたる場所を見付けなくてはいけないよ
※この歌詞は、浜田省吾が1996年にリリースしたアルバム『Road Out“Tracks”』でこの曲をカバーしたときの歌詞です
http://moonlight-cats.com/blog-entry-872.html
304 : NO MUSIC NO NAME
2017/01/08(日) 14:25:33.50 ID:9Fob0F35
そういえばそのアジア三部作のPart1風の歌詞の
『陽の下で月の下で誓おう”No More War”』と
誓いの歌詞の”飲もう”はやっぱりゴロをかけてあるのかな?
飲もう~をNo More War~って聞こえるように歌ってる感じすんだよね。
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1483162281/l50
【DANCE】
1984年8月1日Release
省吾さま17枚目のシングルにして初の12インチシングル。
B面は THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY
とっちゃんが浜田省吾ファンになってからリリースされた最初のシングルがコレ!
(えっ、そんな情報いらない W)
省吾さまにとって「風を感じて」「ラストショー」「「ON THE ROAD」に続き自身4度目のシングルチャートイン!
しかも自身最高位記録も「風を感じて(25位)」を抜いて、初のトップ20位入り!( 週間ランキング=20位 )
☆とっちゃんメモ★
あ…読者のみな浜、覚えていらっしゃいますか?浜田省吾史上最短襟足の記事(笑)
↓↓↓ポッチして↓↓↓
史上最短!!!(笑)
泣き笑いせつなブログ『週刊とっちゃんの部屋』-120107_221025.jpg
↑DANCEの裏ジャケに、その頃の写真が(^m^) カワイイでしょ?
あ、つまり『浜田省吾公式作品掲載写真での最短襟足は???』
と浜田省吾カルトQで出題されたら、迷わず「DANCE」とお答えください(^0^)b
実は、浜田省吾事典には掲載が漏れてますが(もちろん、とっちゃんの部屋ではバッチリ網羅されてましたね☆)、この曲、というかこの12インチシングルは両面とも意外な人にCoverされているんですドキドキそれはコチラ
泣き笑いせつなブログ『週刊とっちゃんの部屋』-120131_082633.jpg
石川秀美『BURN UP HIDEMI ~秀美の熱い一日~(笑)
石川秀美さん=’80年代のトップアイドルの1人。TBSはなまるマーケットの司会・やっくんこと薬丸さん(元・シブがき隊)の奥様。
泣き笑いせつなブログ『週刊とっちゃんの部屋』-120131_082704.jpg
見えますか?A面(SIDE 1)の最後2曲。
キチャッターーー(・∀・)ーーーーーッ (笑)
なっち(安倍なつみさん)が「片想い」をカヴァーする以上に違和感あります(^_^;)
「みんなも一緒に歌ってねぇ~~~♪ ロ~ックンロ~ハイハイハイッ! 」って・・・
まさに秀美ちゃんにとって、本当に熱い1日だったようです(*^_^*) ハイ
ちなみに THE LITTLE ROCKER'S MEDLEYというのは浜田省吾ロックンロールメドレー(今夜はごきげん~HIGH SCHOOL ROCK&ROLL~あばずれセブンティーン)のことです。
DVD「ON THE ROAD “FILMS”」の中のTour Scrapの中で(紙吹雪の中)横浜スタジアムで歌われてるのがソレですね。
「B面の『THE LITTLE ROCKER'S MEDLEY』は、ライヴ・バージョンで、当時ツアーでアンコールに、ほとんどもどしそうになりながらやってた。すごいハードなの。最後の疲れ切ってるところにもってきて、10分以上のアップ・テンポなロックンロール・メドレーでしょ。もう死ぬんじゃないかと思いながら(笑)。だから、このライヴ・バージョンには、すごい思い入れがある。12インチだからこそやれたという長さだし。これを聞くと、当時一緒にやってたTHE FUSEのメンバーを思い出す。ツアーがいちばん楽しくていちばんきつくて、いちばん長かった時代のメンバーだからね。」(『浜田省吾事典』より。本人談)
『いちばん楽しくて(でも)いちばんきつくて…』
一見相反(あいはん)する言葉が並んでるから矛盾するようですが、これはもう省吾さまの本心なのでしょうご。
きつかったけど、それでも続けてこれたのは、それ以上に楽しかったからなんでしょう。苦しい時代の省吾さまを支えてくれたメンバー&スタッフの方々にあらためて感謝ですクローバー
『12インチだからこそやれたという長さだし。』
これは そう、このDANCEはドーナツ盤ではなく12インチシングルといって当時のアルバム(LP盤)と同じ大きさの(だから)一見アルバムと間違うシングルなんですね。
若い読者のかたに、分かるかな~???(^-^;
大きさはLP盤と同じでも回転数はシングルと同じ45回転(アルバムは33回転)だからアルバムと12インチを交互にかけた場合、回転数を切り替えないと当時、大変なことになったもんです(笑) エェ
Σ( ̄□ ̄;)
ダレ、コノコエ???
みたいな みたいな(笑)
あ、そーいえば、昔「トリビアの泉」でやってましたヨ。
一青窈さんの『もらい泣き』の回転数を変えると、平井堅さんの声になる(笑)
へ~ へ~ へ~ ☆
ま、↑ここまで話してもなお若い読者のかたにはチンプンカンプンでしょうけど (^-^;
パパかママに聞いてください!(笑) ←
最後にDANCEといえば…
LOVE HAS NO PRIDE の時もそうでしたが、発表当時かなり酷評された(というか、評論家達が難色を示した)らしいですね。
「浜田省吾がダンス~~~?」って。
あのシンプの大越(正実)さんでさえ
「正直に言えば、この曲を初めて聴いたとき、『ウソやろ』と思いました。『どうしちゃったの、浜田さん』というか。なんで浜田省吾がダンスやねん!浜田省吾に近しいあるスタッフも、戸惑いの言葉を語っていたのを覚えてます。でも、この疑問もライヴを観ていくことで、氷解していくのは『MONEY』と同じだった。これをうたわねば、先に進めないと、きっと浜田省吾は確信したのだ。思えば『DOWN BY THE MAINSTREET』は、とても思い切ったアルバムだった。ただし、この曲を発表後、ライヴでこの曲をうたいながら『ダンス』をする浜田省吾はあんまりかっこよくなかったと記憶している。すみません(笑)。」
と懐述されてます。
これ、この大越さんのコメント・・・よぉ~く分かるなぁ~(笑)
思わず、10年前のNHK「浜省特番4部作」で省吾さまが披露してくれたあのヒップホップ・ダンスを想像して苦笑いしてしまいました。 (*^_^*)
もちろん、シングル(今回紹介の12インチシングル)とアルバムでバージョンが違います。(バージョンというより、一部歌詞まで違います!)
12インチシングルバージョンを聴いたことがないかたは、この機会に是非!
~~~ ここまで ~~~
さて、昨日最終回だった短期集中連載・横浜スタジアムの記事 のアンコール1曲目で、
「新曲を聴いてください!」といって披露されたのが このDANCE だったでしょうご。
つまりあの時(横スタで)、リリースの3ヶ月も前に生で先行披露してくれたという事になります♪
(ライブが4/29 リリースが8/1)
厳密に言うと・・・ ↑過去記事でもそれは書いてますが、この12インチシングルバージョンのDANCEは、アルバム収録のソレとはバージョンが(一部歌詞も)違いますケドね・・・。
でも、そんなの長渕さんは知らないでしょうし・・・「おかしいなぁ? DANCEってシングルになってなかったっけ?」みたいな狐につままれた感じだったでしょうね(笑) これは完全な省吾さまのケアレスミス(あのアルバムからシングルになってる)といえましょうご。
https://ameblo.jp/futabayama69/entry-11521214177.html
■141 : NO MUSIC NO NAME
2016/11/19(土) 10:53:07.29 ID:6u4WztXD
>>122
8月の歌の当時の貴重な資料ありがとう。これらを見ると、やっぱり浜田省吾にとって、ヒロシマ、戦争、夏っていうテーマが特別で、それが背景にあるってことだね。この時点からアジア3部作の視点が既にあったこともわかる。アジア第2部の青空は、8月の歌の現代版だね。これも、陳腐な反戦歌にならないよう、ロミオとジュリエットに詩的になぞらえて、すごく工夫してると思う。例えば会社組織で、やたら反目しあう老害と戦う新世代の歌として聞くこともできるし、普遍性をもつ傑作だと思う。
■122 : J.BOΦWY
2016/11/19(土) 08:29:33.86 ID:U+3d2j/A
>>94
音楽っていうのは直接的な力は与えられないけど、世相のムードを代表するものだと思うんです。だから僕らミュージシャンにとってはいい作品を作っていくことが、具体的ではないにしろ、僕らなりの一番いい貢献の仕方だと思ったりもするんです。だから『J.BOY』の中の♪八月の歌♪というのも僕なりのヒロシマに対するステイトメントでもある訳です。
SHOGO HAMADA ON THE ROAD 2006-2007
“My First Love is Rock'n Roll”TOUR BOOKLET
THANK YOU FOR THE 30 YEARS OF YOUR SUPPORT
SOLO DEBUT 30 YEARS DATA BOOK SINCE 1976
(1987 040~041)
『宝島』1987年8月号【SHOGO 34才】
■126 : J.BOΦWY
2016/11/19(土) 08:35:43.64 ID:U+3d2j/A
SHOGO HAMADA ON THE ROAD 2006-2007
“My First Love is Rock'n Roll”TOUR BOOKLET
THANK YOU FOR THE 30 YEARS OF YOUR SUPPORT
SOLO DEBUT 30 YEARS DATA BOOK SINCE 1976
アナログ盤2枚組という重厚な作品で、ソロデビュー
10年目にして初のアルバムチャート1位獲得。
1986
TOUR:“ON THE ROAD'86 I'm a J.BOY”
RELEASED:ALBUM“J.BOY”
(1986 036~037)【SHOGO 33才】
●『J.BOY』インタビュー
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♪八月の歌♪は本当に苦労したんですよ。
ヒロシマのことを歌うのに、教条的になってしまったりすると絶対によくない。
自分と同じ生活の目線から歌うにはどうしたらいいかと。
文:田家秀樹
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♪八月になるたびに
“広島―ヒロシマ”の名のもとに
平和を唱えるこの国
ASIAに何を償ってきた
おれ達が組み立てた車が
ASIAのどこかの街角で
焼かれるニュースを見た♪
さっき録り終わった♪八月の歌♪にしても、たとえば、毎年8月になると、ヒロシマの名のもとに平和が語られる。でも本当は、被害者でもあると同時に、戦争っていうのは加害者でもあるわけだから、東南ASIAや中国やいろんなところに償っていかなきゃいけない40年であったわけでしょ。それだけの経済力があったにもかかわらず、それをよいほうに持っていくチャンスがあったのに反対に西側の中に組み込まれていってるって感じるんですよね。
――違う生き方のできる国であると……。 浜田 まあ、大げさかもしれないけど西とか東とか、南とか北とか、そのかけ橋になれる可能性のある国だと。でも少なくともASIAと欧米のかけ橋にはなれる国なのに。ちょうどボクらがAMERICAのリゾートに来て高級ホテルに泊って、他のカラードを差別して見るようなのと全く同じあり方だと思うね。こんなことは、いろんな人が何度もいったことだけど、俺も同じように感じる。もちろん、俺もある程度豊かになってるから、カーメルとかリッチな場所に入っていくことはできる高級ホテルに泊ることもできる。でも、やっぱり白人じゃない日本も、ASIAの中でいちばん豊かになって欧米の中でまるで自分が青い目で肌が白いかのようにやってるんだけどけっきょくショーウィンドゥに映る影は、黒い目をしてるんだよね。本当はASIAと西側のまん中に立ってASIAを代表していなきゃいけない国なのに、西側の中にしか組み込まれていくしかないっていうのは、今回のアルバムのテーマでもありますね。
■128 : J.BOΦWY
2016/11/19(土) 08:44:07.82 ID:U+3d2j/A
浜田 ええ。それと、詞を書くときに『Down by the Mainstreet』あたりからなんですけど、やっぱり等身大の目線から物を見た書き方をしなきゃいけないなあって思うんですよね。♪僕と彼女と週末に♪とか♪愛の世代の前に♪とか、少し観念的になってしまうところがあって、それはそれなりにあの27~28歳のときの自分を記録したわけだから、それでいいと思うんですけど『Down by the Mainstreet』あたりからできるだけ自分と同じ目の高さで物を見て歌えたらいいなあ、と。♪八月の歌♪なんて本当に苦労したんですよ。ああいうヒロシマのことを歌うのに、教条的になってしまったりすると絶対によくないな、と。だから自分と同じ生活の目線から歌うにはどうしたらいいかと。あれが完璧にそうなっているとは限らないんですけど、努力したつもりです。まだまだ才能が豊かで根性があればね(笑)。もっともっといい表現のしかたがあるでしょうけれど。
■129 :NO MUSIC NO NAME
2016/11/19(土) 08:44:33.24 ID:U+3d2j/A
八月という月は
日本人にとって
特別な月だとそんなふうに思います。
人の生とか?
死とか?
戦争とか?
そんなことを考える季節だと
そんなふうに思います。
8月6日の広島、9日の長崎・原爆記念日。
15日の終戦記念日。
他の国の人達の夏に対するイメージは、
「太陽と恋とバカンスの季節」かもしれないが、日本の夏は違う。
日本の夏は否応なく、
「戦争」や「平和」や「国家」や「民族」や「歴史」や「生と死」
といったことについて考えることを求める。
日本の夏には悲しみがある。
いつの日か、この悲しみを乗り越えられることを願う。
2005年 夏 省吾
■131 : よしりん ◆SH0GO/MTqU がんばれ!くまモン!c2ch.net
2016/11/19(土) 08:50:13.55 ID:cCWFdzec
>>126
西側に組み込まれてしまっているのは仕方なかばぁい(^_^;) 核を持たない…持てない国だからね^_^;) 中国や北の驚異があると言うのにどうせいと?(^_^;) 謝罪と賠償ならじゅうぶんしてきたと思うばぁい(^o^)/ 天皇陛下もいろいろ訪問しているばぁい(^_^;) 天皇陛下やぞ(>o<") 現人神やぞ(>o<") すぅすぅ・・・
/\___
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/(-Θ-*)~◎/
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/ ∴∵∴∵ /
`/ ∴ぷぅ~∵/
(______ノ
爆笑またなーーコマネチ
■140 : NO MUSIC NO NAME
2016/11/19(土) 10:32:18.51 ID:0ClCyZlG
>>129
中国に歩兵で行った90代のおじいさんに聞いた話だけど 銃弾がバンバン飛び交ってて 撃たないと死んじゃうしバンバン鉄砲撃ってたって 怖いとか感じてる暇はなっかたみたい チョンと引き金引けば発砲するからゲーム感覚だったと 死んでいく仲間もいたって 17-18歳だったって。。。慰安婦いた?って小さい声で聞いてみたら やっぱりいたらしい 私「いった?」じい「いってない」私「うそつけえ~^^」少年兵は行ってだめだったらしい うえの兵隊さんがいってたんやって 神風特攻隊で行った90前のおじいさんは 出動する日の二週間前に終戦迎えて帰ってこれたの 15歳 もうこんな戦争は繰り返してはなりませぬ 省吾が歌ってくれてる しかしまあだからかそのくらいの男の子は殺し合いのゲームが好きなんですかねえ
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/musicjm/1479380449/
kuwakuwa3 ⇒ オフコース、浜田省吾、尾崎豊のファンです。 大変申し訳ありませんが、アップした動画は公開する予定はありません。
‡浜田省吾-1984.04.29(横浜スタジアム)
浜田省吾-1982.01.12(日本武道館、CD version)
浜田省吾-1984.12.11(旭川市民文化会館)
浜田省吾-1983.12.21(山口市民会館)
浜田省吾-1983.04.06(姫路市文化センター)
浜田省吾-1982.05.31(北見市民会館)
浜田省吾-1985.05.26(よみうりランド "EAST")
浜田省吾-1982.01.12(日本武道館)
浜田省吾-1983.08.13(海の中道海浜公園)
1981.11.29(FM東京)
浜田省吾-1981.03.20(日本電子工学院大ホール)
オフコース-1980.12.25(広島郵便貯金会館)
1975.04.27(神田共立講堂)
1975.03.22(日本青年館)
https://www.youtube.com/user/kuwakuwa3/playlists?view=1&sort=dd&shelf_id=0
“A PLACE IN THE SUN”in横浜スタジアム 2013/8/20(火) 午前 9:17
1984年4月29日、17時10分
メンバーがステージに立ち・・・波の音に重なって A PLACE IN THE SUN のコーラス
M1【壁にむかって】
M2【明日なき世代】
“今日この時が、俺にとっても、みんなにとっても、素晴らしいひと時でありますように…。”
M3【モダンガール】
M4【DJお願い~バックシート・ラブ】
M5【さよならスウィート・ホーム】
M6【ラストショー】
M7【風を感じて】
“一緒に歌うかい? OK? じゃあ、このスタジアムをふたつに分けます ここから右側は俺と一緒に It’s so easy~を歌ってください こちらから向こう、町支くんと一緒に 走りだせよ~ それから一緒のところは、一緒に歌う ちょっと練習してみるね ん~~~、もう少し大きな声、出るかな もう一回やるよOne Two Three………いや、もっと大きな声が出るはずだ!!OK!? One Two Three………
“横浜は、18、19才と10代の最後を学生として過ごした街です 色んな想い出が…、恥ずかしい想い出がいっぱいあります
今回A PLACE IN THE SUN を関東でやりたいと思った時、やはり横浜でやりたいなぁ…と思ったのは、そんなセンチメンタルな気持ちからです”
M8【あの頃の僕】
M9【愛のかけひき】
M10【いつかもうすぐ】
“あの~、さて…、去年も初めての野外コンサートやったし、ひょっとしてみんなはこういう大きなステージでやることが、もう慣れてるんじゃないかとか思ってるかもしれないけど、夕べ横浜に泊まったのね
で、寝られないわけよ。不思議だね いつもだったら2時ぐらいになったらバタッと寝るのに寝れないわけ で、寝てもね、2時間おきぐらいに眼が覚めるわけ で、その度にバッとカーテンあけてね「曇ってる…」(笑)”また5時頃パッとあけてね「曇ってる…」(笑) 曇ってるかどうかもわかんないのにさ、真っ暗で(客席爆笑)で、朝起きて…もちろん、スタッフはずっと徹夜でやってたからね、みんなちゃんと頑張ってステージ作ってくれたかなとか想いながら空を見ると、見事に曇ってるじゃない?
「ウーム、絶好のコンサート日和だねぇ、涼しくて」なんて思いながらも(笑)、こうやって夕暮れになって、晴れてくれて…
僕は、どっかこう…、毎回毎回ステージやる度に、自分がどれだけのものに値する人間かどうかっていうのを悩んでて、晴れるとか曇るとかっていうのが、ひとつの自然のね、自分を受け入れるか受け入れないかのバロメーターに考えるんだけども、今日も、こんなに晴れたっていうことは、きっと、僕らも、今日来てくれたみんなも、受け入れられたんだと思います
本当に良かったと…。 (大拍手)”
M11【愛しい人へ】
M12【家路~終りなき疾走】
M13【独立記念日】
M14【路地裏の少年】
M15【陽のあたる場所】
M16【片想い】
M17【いつわりの日々】
“今日このコンサートに特別参加してくれた素晴らしいゲスト・キーボード、ピアノ・プレイヤーを紹介します
アルバム『Sand Castle』のアレンジはもちろん、もう『イルミネーション』からずっとレコーディングに参加してくれてます
キーボード、佐藤準!!!”(大拍手)“10代の頃、自分の存在というのを、なんか特別のもので、「俺は絶対みんなとは違う。自信はないんだけど、いや、俺だけはみんなと違う」そういう風に思ってた。
そしていつか、どこか遠い所に、自分の生きる場所があると、それがニューヨークなのか、ロサンジェルスなのかロンドンなのか…でも今住んでる街じゃなくて、どこかもっと違う所で俺は生きるべき人間なんだと、思ってた。だけど、やがて25か26ぐらいになって、イヤなこともいっぱい知って、何もかも思い通りに進むわけじゃないんだなぁと判ってきて、やっと自分も当たり前の、普通の男なんだなと、判り始めます。俺は、そうだった
そして最近思うんだけど、逃げ出すことばっかり考えないで、ここがつまんないからといって、どこか他の所に抜け出すことを考えないで…、つまり、『陽のあたる場所』っていうのは、どこか遠い所じゃなくて、すごい身近なところにあって、たまたままだそれを見付けられないだけで、それを見付けたら、きっと自分で創っていくものなんじゃないかなと思います。だけど、僕にせよまだ、どこが『陽のあたる場所』でどこが『約束の地』か、よく判らないんだけど、多分、自分のすごい近い所にあるんじゃないかと…、そんな感じで、最近、いろんなものを見ようと思っています。”
M18【愛という名のもとに】
M19【マイホームタウン】
M20【土曜の夜と日曜の朝】
【OTIS&SLYのテーマ】
“Do you wanna dance with me ? I wanna dance with you.
寒くはないかい? 寒くはないかい? 一緒に踊らないかい?”
M21【反抗期】
M22【東京】
M23【愛の世代の前に】
M24【OCEAN BEAUTY~僕と彼女と週末に】
~アンコール~
“どうもありがとう~。新しい曲を聴いてもらいたいっ!DANCE!!”
E1【DANCE】
“ここでメンバーを紹介します。
ドラムス、菊地丈夫!
ドラムス、富岡義広!
ベース、江澤宏明!
シンセサイザー、友成好宏!
ギター、法田勇虫!
トランペット、小林正弘………、
そしてギター、町支寛ニ、
サキソホーン、古村敏比古!
ピアノ、板倉雅一!
昔、横浜に住んでいた頃、こんな球場が出来るなんて思わなかったし、まして、こんなところでコンサートをやれるなんて思わなかった
今日一緒にやってくれたスタッフ、ミュージシャン、そして集まってくれたみんなに感謝しますっ どうもありがとう!!!”
E2【R&Rメドレー☆今夜はごきげん~ HIGH SCHOOL ROCK & ROLL~あばずれセブンティーン】
“みんなの両手を見せてくれ!! みんなの声を聴かせてくれ!!みんな、みんなに俺が言いたいことっていうのは、そんなにたくさんはないんだ。ただ、誰もがNo.1である必要はないし、誰もが成功する必要もない。挫折しようが、馬鹿なことやろうが、失敗しようが構わない!
ただ、自分を大切にして、お互いに頑張ろう!! 俺が言いたいのはそれだけだ!!オッケー!? パンクでもいい、ディスコでもいい。 …だけど1番いまでも好きなのは ROCK & ROLL !!”“どうもありがとう。ここで一言 こういった野外コンサートやるのに、横浜球場の関係者の人に随分助けてもらいました。貸していただいてどうもありがとう
それから、警察や消防署の方にも結構面倒をおかけしまして、協力していただいて、本当に感謝しています
え~、ここに集まってくれた観客のみんな、ミュージシャンを代表して、大人の方々にお礼を言いたいと思います
どうも、今夜はありがとう そして、みんなに1番ありがとう!!! また、夏から日本中へロードに出かけます それぞれの会場で、それぞれの日々の中で、またみんなに会えたら嬉しいと思います 今夜はどうもありがとう。”
E3【ON THE ROAD】
E4【凱旋門】
(参考:'84GB付録)
「風を感じて」の合唱、バラードが続いて寒かったこと、身体を動かせる曲で少し温まり(苦笑)、衝撃の「東京」、初お披露目の「DANCE」などなど・・・
終わってからも舞い落ちる紙ふぶき、ラストの「凱旋門」が目を閉じると思い起こされます・・・最高のステージでした(^^)
(始まりから、球場側と揉めたり、嫌なことの連続でしたが、ステージは今までのどのコンサートより素敵でした)
昨日はそんな一日でした(^^)そして・・・そんな勢いそのままに夏から始まったのが、ON THE ROAD'84です、今夜はここから行きましょうね(^^)
http://blogs.yahoo.co.jp/bar_flashandshadow/17480966.html
ミシシッピーの流れを行くショウボート。アンディ船長と継母パーシィに育てられた
マグノリアは、美しい娘盛りを迎えていた。彼女と仲良しのジュリーは、ショウボートの主演女優だが、混血児の身で白人俳優スティーブンと結婚していることが法に触れて、去って行かねばならなかった。入れ替わりに、粋なバクチ打ちのゲイロードが、スティーブンの後釜として乗り込んで来た。
マグノリアはたちまち彼と恋に落ち、駈け落ちしてシカゴで愛の巣を営んだ。だが幸福は1年と続かず、ゲイロードはバクチに凝って財産を失い、
マグノリアが妊娠していることも知らずに、姿を隠してしまった。
悲しみのマグノリアは、昔ショウボートにいたダンサー・チーム、エリーとフランクの世話で、ナイト・クラブに歌手として職を求めた。偶然そこには、スティーブンに捨てられ酒浸りになっているジュリーがスターとしていた。ジュリーは
マグノリアの不幸な姿を垣間見て、彼女に職を与えようと、ひそかにそこを立ち去って行ったのだった……。
http://renta.papy.co.jp/renta/sc/frm/item/15301/
A PLACE IN THE SUN http://pochicoro.cocolog-nifty.com/blog/cat5606304/index.html