エッセイ「戦争がなくならないのは基本的に人間が馬鹿だからでしょう。
‡2022(令和四)年09月11日(日) 佐々木 基充
yokoほど毀誉褒貶に相半ばする世界的な日本人女性はいないのではないでしょう。僕はyokoが好きなので少しだけyokoの功績を記してみます。
(01)JohnをBeatlesという狭い世から解放させた。
(02)一緒に薬物やることで薬物を断つ方向へ導いた。これは自分の身体も蝕むことにも繋がることであり 余程の覚悟が必要
(03)Johnに付き合ってプライマリー療法を受けJohnのトラウマを解消すべく努力した。
(04)Johnを母、妻の両面から精神をyokoと出会わなかったらJohnは30すぎには薬中で亡くなっていただろう。yokoはJohnの精神安定剤であり命の恩人。
(05)シンシアとジュリアンを救った。シンシアはJohnという荒馬を乗りこなす術をもたなかった。yokoJohnを連れ去ることでシンシンとジュリアンはさらに重大な不幸から身を守ることできたと思われる。
(06)Johnに様々な世界に目を向けさせた。Love &peace
(07)高齢だったのにも関わらず、命懸けでJohnと同じ誕生日にショーンを出産した。
(08)Johnにハウスハズバンドをさせた。それによりクリエィティブなJohnに戻した。
(09)小野一族と会わせて家族の素晴らしさを教えた。
(10)Johnを真人間にさせた。
(11)Johnを何回も日本に連れてきて日本人以上の日本人にさせた。
(12)日本文化の真髄を教えた。
(13)誰に何を言われようと決していい訳をせず冷静だった。
(14)共依存になってもおかしくないところ、彼女の類稀なる知性、理性、そして「確固たる自分」をもっ て共依存には決してならなかった。
まだまだ沢山あると思いますが、功績と思ったことを書き出してみました。たった12年しか一緒にいられなかったJohnとyoko。12年は短かすぎます
https://www.facebook.com/groups/720792321370235/posts/5433020103480743/
映像◆The Beatles Magical Mystery Tour Filming: Fish 'N' Chips https://youtu.be/fa7cJ4d_Ch0
1967(昭和42)年09月15日(fri) 撮影映像
映像◆The Beatles Magical Mystery Tour - The Wizards Filming Session https://youtu.be/t9mcsmpnUPg
1967(昭和42)年09月20日(wed) 撮影映像
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┃『MAGICAL MYSTERY TOUR』┃
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‡1967(昭和42)年09月11日(mon) 撮影開始
1967(昭和42)年09月25日(mon) 撮影終了
1967(昭和42)年12月26日(tue) BBC1 白黒放送
1968(昭和43)年01月05日(fri) BBC2 カラー放送
1968(昭和43)年08月11日(sun) New York City:Fillmore East AM8:00&AM10:00
1975(昭和50)年01月10日(fri) アップルのオフィスで上映
1979(昭和54)年12月21日(fri) BBC2『ビートルズ・アット・クリスマス』までTV放映無
1993(平成五)年11月01日(mon) MTVヨーロッパ「ビートルズ・デー」の一部
https://en.wikipedia.org/wiki/Magical_Mystery_Tour_(film)
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┃『ビートルズのふしぎな旅』┃
┃ 『マジカル・ミステリー・ツアー』 ┃
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1968(昭和43)年10月10日(木) TBS 日本初放送 ちなみに……「日本での初OA時は放送事故があった」という伝説を、雑誌「レコード・コレクターズ」2012年11月号で大村亨という方が、見事に検証されています。
2012(平成24)年10月14日(日)25:35~28:00
2012(平成24)年10月15日(月)01:35~04:00
フジテレビ三夜連続企画《THE ROCK MOVIES》第一夜
1967:イギリスBBC『マジカル・ミステリー・ツアー』
2012:イギリスBBC『アリーナ:マジカル・ミステリー・ツアー リビジデッド』の2本をノーカット(ただしCMあり)放送
http://webneo.org/archives/5910
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┃『マジカル ミステリー ツアー』┃
┃ 『シェア スタジアム』 ┃
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2007(平成19)年11月20日(火) 今回は、
1977(昭和52)年08月28日(日) 有楽町は数寄屋橋横、丸の内ピカデリーの地下にあった丸の内松竹で見たビートルズ「シェア スタジアム マジカル ミステリー ツアー」豪華2本立ロードショーのプログラムから全ページを載せました。まあ、プログラムそのものも250円で16ページというペラペラのものですから省略のしようがないといったところ!?今年もこの時期になるとビートルズものが多数リリースされます。そんな中、先日購入した「ヘルプ!4人はアイドル」のデラックス・エディションはすごい!! とくに写真集がすばらしかったですね。その他附随するグッズも良い!! 値段も高いですが、ずっしりとした豪華感!? は十分でした。そこでビートルズ映画といえばこれがあったではないですか!! 当時、解散してから7年とはいうものの、この年ビートルズのライブ・アルバムも発売されグループの人気は高まる一方。そこで「シェア スタジアム」のライブ映画と「マジカル ミステリー ツアー」を2本立で公開するという暴挙!? いや、快挙にうって出た松竹さん!! わたしのように伝説の世界でしか知らなかったシェア・スタジアムの全貌、マジカルの映像が見られるとあっては、映画館に行かないわけにはいかなかった!!と、勇んで見たはいいがこれまた今となってはこの映画自体の記憶はほとんどないですね。お客さんも満員というわけでもなく、ライブのほうもレコードを流した疑似ライブだったように感じました。でも、映像は映像なのでファンの反応のすごさには圧倒されましたけど。マジカルは、放映当時不評だったというのもわからなくはない出来。ちょっとフェリーニの映画みたいでおもしろかったことはおもしろかったですが。ビートルズのライブ史の中、重要な位置をしめるシェア・スタジアムでのライブ。現在では「アンソロジー」でより美しい映像によるライブが全体の半分ぐらい見られます。演奏も詳しくはわかりませんがライブ録音のようです。それでも映像と違和感があるので、わたしが映画館で見た時も疑似ではなく実際にこの音だったのかもしれません。また、後年「シェア スタジアム」はビデオでも発売されていたようですが、現在では当然のように存在しません(と思いますが)。「マジカル ミステリー ツアー」の方はOK!! そのうち豪華絢爛!? のデラックス・エディションなんてのも出てくるでしょう!! プログラムは素材があまりなかった(使えなかった)のか、デザインの苦労がしのばれます。立川直樹さん、石坂敬一さん2人の文章も当たり障りのないものに。それでもビートルズの4人が写っていればカッコイイネ!!
http://mamedama2.cocolog-nifty.com/rockpop_park/2007/11/post_900d.html
【ビートルズ最大の失敗作】マジカル・ミステリー・ツアー
「永遠に10年早い映画」「名高いビートルズの音楽に申し訳程度の映像がおまけ」「ビートルズの“マジック”は失敗」「愚かなホーム・ムービー 伝説の終焉」など散々な評価をされたビートルズのテレビ映画”マジカル・ミステリー・ツアー”とは何なのか?
2013(平成25)年05月25日(土) 更新日
https://matome.naver.jp/odai/2136911843869313301
「日本武道館のビートルズ」未公開写真を奇跡的に発見!
2018(平成30)年10月01日(月) 06:00FLASH編集部 エンタメ・アイドル
‡2018(平成30)年09月11日(火)号『週刊FLASH』日本武道館のステージに立つビートルズの4人。今回、世界中のファンが見たこともない彼らの写真が発掘された。
「社会現象となった1966年の日本公演は、写真撮影や録音はもちろん、椅子から立ち上がるだけで警備員に制止される “非常事態下” での開催でした。そんななかで、これだけ多くの写真を撮影した度胸のあるファンがいたんですね」写真の歴史的価値を語るのは、ビートルズ研究家として活動する藤本国彦氏だ。
「メンバーの衣装などから推察すると、計5公演中の
1966(昭和41)年07月01日(金)昼公演の写真です。このときのステージを、正面からこれほど鮮明に撮影した写真はありません。非常に希少価値の高いものです」写真のネガを持っていたのは、青森県在住の岩田宣浩氏(71)。拓殖大学の学生だった岩田氏は、アルバイトの警備員として現場にいた。
「当時は大学の体育会に所属していて、先輩に誘われたんです。日給1万数千円と、当時としては異例の高待遇。ビートルズのファンではなかったですし、私がフィルムを持っていたことも忘れていました」2018年の1月、岩田氏が古い荷物を整理していると、正体不明のフィルムを発見。地元紙を発行する東奥日報社に預け、同社が現像すると、14コマにメンバーの姿が写っていた。
「演奏中、会場で盗撮を発見すると、フィルムを没収し、その場で感光させて処分していたのです。5公演で数十本は没収しましたが、そのなかの1本が、私の手元に残っていたのですね」岩田氏はその撮影者のことをうっすらと記憶していた。
「おそらく2階席の正面にいらっしゃった20代くらいのカップルの方だったと思います。ステージを熱心に隠し撮りされていました」ステージには背中を向けていたため、4人の姿を見たのは一瞬だったという岩田氏だが、「彼らがすごい音楽を奏でていた」という記憶だけは、52年たった今も消えないという。
【関連記事】「SMAP」と「ビートルズ」に共通する「グループが解散する条件」
【関連記事】Chage「ジョン・レノン」にならって9歳の息子に職業を隠す
https://smart-flash.jp/entame/51110
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「ビートルズの秘書を11年間してたけど何か質問ある?」海外掲示板にまさかの人物が現れ、ファン感激
‡2013(平成25)年09月11日(水) 12時32分
ざっくり言うと
◎ビートルズの秘書をしていた女性が海外掲示板に登場し、質問に答えた
◎記憶に残っている思い出に、市民による歓迎レセプションだとコメント
◎ジョン・レノンに関するエピソードでは、楽屋で首にされたことを明かした
ビートルズの秘書を11年間してたけど何か質問ある?」海外掲示板にまさかの人物が現れ、ファン感激
2013年9月11日 12時32分 らばQ
「ビートルズの秘書を11年間してたけど何か質問ある?」海外掲示板にまさかの人物が現れ、ファン感激いまだに愛され続ける、20世紀を代表するイギリスのロックバンド「ザ・ビートルズ」。その全盛期にビートルズの秘書を11年間していたという女性、フリーダ・ケリー“Freda Kelly”さんが掲示板に現れ、質問を受け付けていました。フリーダさんは1961~1972年までの11年に渡ってビートルズの秘書を務め、ほぼ50年経った現在は、ドキュメンタリーが制作されたとのことです。(ビートルズは1962年10月にレコードデビュー、1970年4月に事実上の解散)そんな彼女が質疑応答に答えると、掲示板に登場していました。彼女しか知りえない、ビートルズの当時の姿が垣間見えるエピソードをご紹介します。
Q:ビートルズの音楽は楽しんでいましたか? お気に入りは誰でしたか?
A:音楽は楽しみました。秘書になる前からの大ファンでしたから。お気に入りに関しては彼らの機嫌と、私の機嫌により毎日変わりました。
Q:彼らと仕事をして、一番記憶に残っている思い出は何ですか?
A:リバプールでのタウンホールで、市がビートルズとその家族を招いて、市長から直々に栄誉を与えられたときの市民による歓迎レセプション。20万人くらいの人々がビートルズを見るためにやってきていたと思う。そのときに一緒にいたので、いつまでも記憶に残ってます。
Q:ジョン・レノンのことで、あなたのお気に入りのエピソードは?
A:一度、楽屋で彼に首にされたことがあったわ! 私が「ムーディ・ブルース」という別の音楽グループの楽屋で時間を取られていたことにジョンは怒っていて、ビートルズの楽屋に戻ったときには時間がかかりすぎだと不満そうでした。私に「どこのファンクラブの秘書なんだ」と詰め寄ってきたのです。「ムーディ・ブルース」なのか「ビートルズ」なのかどっちなのかと。
私がそれを笑い飛ばして「ムーディ・ブルースのよ」と答えると、「もう首にするからムーディ・ブルースの楽屋に戻っていい」とジョンは告げました。 そこで私は他の3人のところに行って、私を首にするかを尋ねると、3人はそんなつもりはないと答えてくれえたので、私はジョンに向かって「わかりました。じゃあ3人のファンレターだけ取り扱うので、自分のファンレターは自分で処理してくださいね」と伝えました。
すると「今のは冗談だった」と言ってきたので、「あれは冗談じゃなく本気でした」と言うと、ジョンは「お願いだから戻ってきてくれ」と答えました。そこで「両膝・両手をついてお願いしたら戻ってもいいわ」と言うと、「その半分のところで手を打つ」と答えたので、それ以上押せないとわかっていた私は、片膝をついたジョンを許しました。その後7年働くことになったわ。
Q:ビートルズで一番の奇人は誰でしたか? そして一番強い絆をあなたと持っていた人は?
A:奇人はジョージ、あるいはリンゴかもしれない。特にこの人とだけ強い絆という人はいなかった。
Q:働いていた頃のメンバーを、ひと言かふた言で表現するとしたら、それは何ですか?
A:ジョンは気分屋、ポールは怒ったり気分を害したりしないタイプ、リンゴはユーモアとダンス、ジョージは思慮深い。
Q:ジョンが撃たれてそれを聞いたとき、どこにいたか覚えていますか?
A:アメリカから電話がかかってきたのですが、早朝で、まだベッドにいました。
Q:メンバー同士でどんなことでケンカしていましたか? そしてどんな風に解決していましたか?
A:実際のところ、彼らはあまりケンカしなかった。初期のキャバーンクラブ時代(デビュー 前、毎日演奏していた地下のクラブ)には、どの曲を演奏するかの意見の相違はありました。どの曲にするかの議論はしていました。それから1人がシンプルにその曲を弾きはじめる、すると3人がそれに参加していました。
Q:全盛時代には彼らはノーマルでしたか、それとも横柄でしたか? LSD(麻薬)の使用についてはどれくらいオープンでしたか?
A:ノーマルでした。彼らは一度も横柄だったことはありません。LSDの使用についてもオープンでした。ポールはそれを支援する嘆願書に署名もしていました。
Q:何が理由でやめたのですか?
A:妊娠をしたのです。
Q:もし若者があなたのような仕事(長時間勤務と叫ぶ群衆、ファンとの架け橋になることなど)を得る機会があるとしたら、その仕事を勧めますか? そういうバンドグループの秘書として、向いているタイプというのがあると思いますか?
A:あまり栄光にとらわれない、そしてグループをあまり神格化しないタイプなら、ぜひお勧めします。
Q:4人のうちの誰かの彼女(あるいは妻)になれたら、と願ったことはありますか?
A:特に思ったことはありません。仕事をし始めたときは10代で惚れっぽい子でしたが、移り気も早くメンバーはすぐに兄弟みたいになりました。
Q:一番クレイジーなファンの扱いで、覚えているものはどんなことですか?
A:一度、女の子がほとんどお金も持たずにアメリカからやってきました。とにかくビートルズに会いたい一心でなんとか安い飛行機に乗ってやってきていました。ジョージのファンでした。うちに1週間泊めることになって、その後、彼女のロンドンの親戚に連絡をとり、その親戚の助けで彼女は帰りました。
Q:あなたの考察では、メンバーの力関係はどのように変わっていきましたか?
A:初期のメインは2人でジョンとポール。2人はかなりイコールな関係でした。ジョージは一番若くて、静かだったのであまり何も言いませんでした。自分のために何かを言うことは最初はなかったけれど、有名になるにしたがって話すようになっていきました。
Q:あなたがバンドに影響したということはありますか? あるいはバンドがあなたに影響を与えたということは?
A:間違いなく私が与えた影響はありません。彼らは私に音楽の影響は与えました。ジョージは私に“The Miracles”に対する興味を持たせました。
Q:一番おもしろいグルーピー(追っかけ)のエピソードは?
A:女の子のグループが2つほどあって、両方とも”Apple Scruffs”(アップルに食いついてるやつ、カスなどの意)と呼ばれていました。全員14~17歳で、学校が終わったあと、Appleミュージックの前でぶらぶらして、ビートルズが入ったり出たりするのを待っていました。そのうちビートルズのメンバーもよく知るようになり、彼女らを気に入って、ジョージは彼女らのことを作曲していました。
Q:後悔はありますか?
A:まったくありません。
Q:誰が一番地に足が付いていましたか?
A:全員地に足は付いていました。1人だけということはなく、全員が親しみやすかったです。
Q:仕事のおかげで何か思い出に残る品などを得ましたか?
A:ファンクラブが終わって、事務所を閉じたときに相当な商品が残っていたけど、大半はこの50年であげてしまいました。自分が大事にするものだけ残したけれど、一番の宝物は結婚したときに、全員がそれぞれインドから送ってきてくれた電報よ。
Q:彼らの好きなチーズは何でしたか?
A:だいたいチェダーかチェッシャーをその頃は食べていました。
Q:今でもポールやリンゴと連絡を取ってますか?
A:いいえ、楽しく仕事はしましたが、その後私は主婦になり母になったので。
Q:女性ファンとケンカになったことはありますか。
A:女の子たちとケンカになったことはありません。ただ彼らをかきわけてショーに行かなくちゃ行けなかった。警備員は私がビートルズのために働いていると言っても信用してくれませんでした。当時はパスというものがなかったので、すぐドアに戻されていました。
Q:アメリカのどこかで彼らのお気に入りの場所はある?
A:彼らは単にアメリカを気に入ってました。ただ特にどことは言ってませんでした。アメリカから初めて帰ってきたとき、みんな感動していました。
Q:スターダムにのし上がっていった有名人として、巨大なビートルズファンの現象が、彼らにどんなふうに影響を及ぼしていましたか? 彼ら自身が有名になったことに対してトラブルが出ていましたか?
A:ファンと名声を手に入れた多くのグループの中でも、ビートルズは一番しっかり対処していたと思います。誰一人ファンにひどいことをするようなことは見たことはありません。ただし彼らはそれがそんな続くと思っていなかったようです。ジョンが2年くらい続くと思っていたのは知っていましたが、誰もそれがこんな長く続くとは予想していなかったのもあります。
Q:誰が一番クレイジーなファンでしたか?
A:いろんな国から無茶してファンクラブ事務所にやってくるクレイジーなファンがいました。彼らを帰すのが大変で、電車やバスの時間を調べたりしました。事務所が閉まったときにリバプールに放置することが出来なかったので、駅やバス停まで連れていったりする必要がありました。
秘書をしていた彼女ならではのエピソードばかりですが、これほどまでに長く愛されるグループになるとは、本人たちは全く思っていなかったことが面白いですね。
どれだけ名声を得ても、全員が立場に溺れることがなかったというところが、今でも愛されているグループである理由のひとつなのかもしれません。
I was the secretary to The Beatles for 11 years. My name is Freda Kelly.【「ビートルズの秘書を11年間してたけど何か質問ある?」海外掲示板にまさかの人物が現れ、ファン感激】を全て見る
■外部サイト
「スティーヴン・キングだけど何か質問ある?」海外掲示板にまさかの巨匠が降臨
「Googleで働いてるけど質問ある?」掲示板に社員が現る
住居侵入罪で捕まった男の名前が、あまりにもビートルズだった
■「ビートルズ」をもっと詳しく
「アビイ・ロード」など道路名標識が競売に 予想落札価格は約73万円超
フォルクスワーゲン ビートル誕生75周年を12月27日に祝う
元ビートルズのポールとリンゴ それぞれ隔離期間中に新アルバム収録
https://news.livedoor.com/article/detail/8056393/
動画◆Paul McCartney with Larry Kane & the Beatles with Jean Morris - ca. 8-11 Sept 1964 [Audio Only] https://youtu.be/-ofAIQrBfyc
1964(昭和39)年09月08日(tue)
1964(昭和39)年09月09日(wed)
1964(昭和39)年09月10日(thu)
‡1964(昭和39)年09月11日(fri)
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┃ 大人のMusic Calendar ┃
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ビートルズのデビュー曲「ラヴ・ミー・ドゥ」でリンゴ・スターが受けた屈辱
‡2017年09月11日 執筆者:藤本国彦
‡1962年09月11日のビートルズのデビュー・シングル・セッションは、新参者だったリンゴ・スターにとって、一生忘れることのできない思い出の日になったに違いない。これ、いい意味で書いているわけではない。そもそもデビュー・シングル・セッションが行なわれたのは、9月11日だけではなかった。その1週間前の
1962年09月04日にまずEMIスタジオでジョージ・マーティン立ち合いの元、「ラヴ・ミー・ドゥ」と「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」が収録された。ご存知のファンも多いと思うけれど、前者はジョンとポールのオリジナル曲で後者は他人(ミッチ・マレー)の曲だ。ビートルズはリヴァプールの「片田舎」から出てきた新人バンドであり、レコーディングを仕切ったのは50年代からパーロフォン・レーベルを引っ張ってきたプロデューサーのジョージ・マーティンだった。後のインタビューで両者が回想しているように、63年までは「先生」と「生徒」の関係――つまり「先生」に言われれば「生徒」は従う、ということである。そして、これはヒットするから演奏するようにと「先生」が持ってきたのが「ハウ・ドゥ・ユー・ドゥ・イット」だった。対してジョンとポールはその「他人の曲」もレコーディングしたものの、あくまで自分たちのオリジナルで勝負をしたいという強気の姿勢を押し通した。ここまでが9月4日の最初のセッションでの出来事で、当然リンゴはその2曲でドラムを叩いた。が、しかし、翌11日のセッションで、「先生」はリンゴの代わりにベテランのセッション・ドラマーを立てたのだ。アンディ・ホワイトである。ドラムの座を奪われたリンゴは、「ラヴ・ミー・ドゥ」でタンバリンを叩く役割へと「格下げ」になった。このときもう1曲、ジョンとポールのオリジナル曲「P.S.アイ・ラヴ・ユー」も収録されたが、ここでもリンゴはマラカスを振るハメになった。しかしセッションはそれで終わらず、さらにもう1曲、オリジナルで勝負したいという意気込みの強かったビートルズが準備したのが、セカンド・シングルとなる「プリーズ・プリーズ・ミー」だった。その初期(9月11日録音)のヴァージョンは『アンソロジー 1』(95年)で初めて公表されたが、ドラムはアンディ・ホワイトが叩き、リンゴは不参加である。さらに言えば、11月26日のセカンド・シングルのレコーディングの際に、そのアンディのドラムのリズム・パターンをリンゴが踏襲していることもわかる。ビートルズの前任ドラマー、ピート・ベストにもダメ出しをしていたジョージ・マーティンとしては当然の判断だったのかもしれないが、当のリンゴはそれをずっと根に持っていた。ジョージ・マーティンも後にお詫びしている。結局「ラヴ・ミー・ドゥ」の「9月4日録音」ヴァージョンはイギリスのオリジナル・シングルの初回版に収録されただけにとどまり、その後ビートルズのオリジナル・アルバムが初めてCD化された際、アルバム未収録曲をまとめた『パスト・マスターズ』など一部のレコードやCDに収録された程度にとどまった。デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』や、64年にアメリカでヒットしたシングルで聴ける演奏は、もちろんともに「9月11日録音」ヴァージョンである。それからおよそ35年。リンゴはその時の恨みを“倍返し”にするかのように「ラヴ・ミー・ドゥ」を再レコーディングした。しかもビートルズ度の高いアルバム『ヴァーティカル・マン~リンゴズ・リターン』(98年)で、である。そうしてリンゴは、「62年9月11日」の出来事に自分なりの“落とし前”を付けたのだった。
≪著者略歴≫藤本国彦(ふじもと・くにひこ):ビートルズ・ストーリー編集長。91年に(株)音楽出版社に入社し、『CDジャーナル』編集部に所属(2011年に退社)。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
music-calendar.jp/2017091101