過去の今日の出来事etSETOraですヨ(=^◇^=)

過去の今日のTHE BEATLESだヨ(=^◇^=)

 


 ザ・ビートルズ・クイズ【全10問】Photo: Jan Olofsson/Redferns
‡2021(令和三)年12月12日(日)『Discovermusic Japan』Created by uDiscovermusic Japan
 Q①:ザ・ビートルズは1964年に全米シングルチャートで上位5位を独占。以下の中でこの5曲ではない曲は?
 Q①:正解は「A Hard Day's Night」。全米シングルTOP5を独占したのは次の5曲「Can’t Buy Me Love」「Twist and Shout」「She Loves You」「I Want To Hold Your Hand」「Please Please Me」
  Can't Buy Me Love
  Please Please Me
  Twist and Shout
  A Hard Day's Night
 Q②:ザ・ビートルズの4人が一緒にレコーディングした最後の曲は?
 Q②:正解は「I Want You (She’s So Heavy)」
  I Want You (She’s So Heavy)
  I Me Mine
  Here Comes The Sun
  Something
 Q③:『Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band』のジャケット写真にいない人物は?
 Q③:正解は「エルヴィス・プレスリー」。ポール曰く「あまりに重要で、雲の上の存在すぎて、口にするだけでも畏れ多い存在」ということでとりあげられませんでした
  マリリン・モンロー
  アルベルト・アインシュタイン
  ボブ・ディラン
  エルヴィス・プレスリー
 Q④:60年代のUK版のビートルズのアルバムの中で、唯一リンゴ・スターがヴォーカルを担当していないアルバムは?
 Q④:正解は「A Hard Day’s Night」
  A Hard Day’s Night
  Beatles For Sale
  With The Beatles
  Help!
 Q⑤:「While My Guitar Gently Weeps」のリードギターを担当したのは?
 Q⑤:正解は「エリック・クラプトン」
  ジョージ・ハリスン
  エリック・クラプトン
  ジェフ・ベック
  ジミー・ペイジ
 Q⑥:シルバー・ビートルズ(当時の名称)がバックバンドとしてツアーに参加したUKのポップシンガーは?
 Q⑥:正解は「ジョニー・ジェントル」。1960年、シルバー・ビートルズは、同じリバプール出身のジョニー・ジェントルのバックを務めていました
  ジョージー・フェイム
  フランキー・ヴォーン
  ジョニー・ジェントル
  ランス・フォーチュン
 Q⑦:1961年から1963年の間、ビートルズがキャヴァ―ン・クラブで演奏した回数は何回だと言われている?
 Q⑦:正解は「292回」。クラブの専属DJだったボブ・ウーラーがそう証言しています
  089
  176
  292
  374
 Q⑧:映画『マジカル・ミステリー・ツアー』では、あるシーンに他のバンドが登場。それは次のうちどれ?
 Q⑧:正解は「ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンド」
  ボンゾ・ドッグ・ドゥー・ダー・バンド
  ザ・スキャッフォルド
  ザ・ナイス
  ザ・センセーショナル・アレックス・ハーヴェイ・バンド
 Q⑨:最初にソロアルバムをリリースしたビートルズのメンバーは?
 Q⑨:正解はジョージ・ハリスン。彼は1968年に『Wonderwall Music』を発表しました
  ジョージ・ハリスン
  ジョン・レノン
  ポール・マッカートニー
  リンゴ・スター
 Q⑩:1964年、ビートルズによる全米シングルチャート15週連続1位の記録を阻止したのは誰?
 Q⑩:正解は「ルイ・アームストロング」。彼の「Hello Dolly!」が1週間だけ1位を獲得してビートルズの15週連続を阻止しました
  ルイ・アームストロング
  ザ・ビーチ・ボーイズ
  ディーン・マーティン
  フォー・シーズンズ
【ザ・ビートルズ・クイズ】結果は⇒⇒【10問中...10点満点】
 https://www.udiscovermusic.jp/quizzes/so-you-think-you-know-the-beatles-quiz


 削除音源◆The Beatles - Unknown Location, December 1965 https://youtu.be/ZZlpROAWGto
 1965(昭和40)年12月03日(fri) Unknown Location, United Kingdom, 3 - 12 December 1965
‡1965(昭和40)年12月12日(sun) Unknown Location, United Kingdom, 3 - 12 December 1965
 01. We Can Work It Out [0:00]
 Supposedly this is an live recording of We Can Work It Out from the last U.K. tour in 1965. There has been many speculation on its authentication and since there is no available audio and very little footage from this tour we can only assume this is either real or fake. Still this is a very interesting piece of audio. The photos are from this very same tour. The first picture is from the December 10 Hammersmith concert and the rest are from the December 8 Sheffield concert.
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 削除音源◆John Lennon - Home Recordings, December 1968 https://youtu.be/pX2CyM8PX5g
‡December, 1968 Kenwood, St. George's Hill, Weybridge - December, 1968
 While Paul was working on the "Postcard" LP by Mary Hopkin for Apple Records, John Lennon was busy during the month of December 1968 working on some new songs. Most of the performances were conducted at his home in Kenwood. The Beatles had agreed to meet in the New Year and start rehearsing for some kind of television special so some new songs might be in order.
 01. I've Got A Feeling [0:00]
 02. Oh My Love [1:42]
 03. Oh My Love [3:07]
 04. I've Got A Feeling [4:30]
 05. A Case Of The Blues [5:36]
 06. Don't Let Me Down [8:30]
 07. Don't Let Me Down [11:25]
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 ┃ Dick James ディック・ジェイムズ ┃
 ┗━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
‡1920(大正九)年12月12日(sun) Born
 1986(昭和61)年02月01日(sat) Died 
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Dick_James
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誰がビートルズの林檎をかじったのか 
2010-05-12 
ビートルズがいかに曲を巻き上げられたかという実に血管プチプチな話ばかりなのでゆめもきぼーもありません。読んでも楽しい気分にはなりません。
[注意:メンドーな話を大雑把にまとめたので正確性には欠けます。詳しい話は実物で]
ノーザン・ソングス 誰がビートルズの林檎をかじったのか
作者: ブライアン・サウソール,ルパート・ペリー,上西園誠
出版社/メーカー: シンコーミュージック
2010/03/29 発売日
EMIとの最初の契約はシングル(6シリング7.5ペニー)1枚につき1ペニー。最初の2曲の出版契約をアードモア&ビーチウッドと結ぶも、「ラブ・ミー・ドゥ」の売り上げは振るわず
 60年代初め、音楽出版社には多くのことが期待されていた。出版、登録、楽譜製作に加え、ラジオで曲が流れるようにすること、アーティストがテレビ出演できるようにすることも出版社の業務だった。この点においてアードモア&ビーチウッドはエプスタインを満足させられなかった。
そこにジョージ・マーティンと親交のあったディック・ジェイムズが登場。人気テレビ主題歌「ロビンフッド」がヒットした元歌手、音楽出版に乗り出すも破産寸前だった。「プリーズ?」の成功でノーザン・ソングス設立となり、ディック・ジェイムズ・ミュージック(DJM)が株式50%、残りの50%をエプスタインのNEMSとレノン&マッカートニーで分けることに。
65年税金対策としてノーザン株公開。ジェイムズが社長、その会計士シルヴァーが会長。売りに出されなかった375万株を社長と会長が約93万株ずつ、レノン&マッカートニーが各75万株、NEMSが約37万株、ジョージとリンゴに各4万株。レノン&マッカートニーの株配当はひとり約9.4万ポンド、65年からの新税制でキャピタル・ゲイン税対象外になり非課税所得に。株式公開に合わせ二人は窓口&印税受け取り用会社マックレン(レノン&マッカートニーが80%、NEMSが20%)設立。
1966年4月、56曲を保有するレンマック・エンタープライゼズをノーザン・ソングスに最終的に「売却」したことで、レノン&マッカートニーは自分たちの作家取り分著作権印税と引き換えに、それぞれが14万6千ポンドずつ(7万3千ポンドがNEMSへ)を受け取った。(略)この「稼ぎ」はキャピタル・ゲインとして課税されるため、税率はたったの30%だったのである。[所得税としてなら累進付加税も足され、90%が税金で持って行かれる]
 ノーザン・ソングスの株式公開が妥当だったか未だに疑問を抱いているのが、1973年にEMIに入社した弁護士ガイ・マリオットである。「株式公開というアイデアをどこから得たのかは知らないが、とにかくべらぼうな話だった。非現実的なコンセプトだし、所得税が心配なら他に選択肢はあった。海外移住する手もあっただろうし、リヴァプールからあまり離れたくないというなら、マン島に行ってしまえば税金からは逃れられたはずだ」
当時の著作権事情
[トム・ジョーンズが「俺が歌ってやるから著作権の分け前をよこせ」と出版社に要求したり]
ソングライター本人が、アーティスト、出版社、レコード会社に屈してしまうこともあった。著作権は特定の録音物をはるかに上回る利益をもたらす可能性があることを、相手がわかっているからだ。1955年にチャック・ベリーが自作曲「メイベリーン」をレコーディングしたとき、チェス・レコード社長レナード・チェスはそのレコードをDJのアラン・フリードに送ったが、彼の番組でかけてくれればベリーとの共作者扱いにするというおいしいおまけをつけていた。
[プレスリーに曲提供した作家はプレスリーの音楽出版社に強制帰属させられたり]
ハリソングス
65年ジョージはハリソングスを設立、ノーザンの契約条件はマックレンと同じだったが、印税率に関しては、マックレンが50:50だったの対し、ジョージはレコード売り上げ80%海外出版70%演奏放送約67%という好条件を獲得。しかし自分がノーザンの一契約作家にすぎず、大株主のレノン&マッカートニーが自分の曲で自分より利益を得ることに苛立ち“オンリー・ア・ノーザン・ソング”。
NEMS売却
69年、エプスタインの弟クライブはNEMS売却を決意。義理としてまずビートルズに声をかけるも、アップルで混乱中、クラインはビートルズの財政状態から買収すべきでないとした。結局、トライアンフ社に売却。
ノーザン売却
アップル破産の噂でノーザン株下落を恐れたディック・ジェイムズはビートルズに無断でATVに売却。
[ナイジェル・ハンター談]「ノーザン・ソングスが売りに出た場合にまず彼らに買うかどうかの選択権が与えられるという条項を契約に盛り込まなかった、エプスタインとビートルズの致命的なミスだ」
クラインがノーザン100万株を買い戻し過半数を握るという対抗策を提案。それには保持しているノーザン株を担保に200万ポンド調達する必要があり、ポール側のイーストマン親子が危険すぎると拒否。しかもポールがこっそり投資としてノーザン株を購入、ジョンより10万株多く保有していたことが発覚。ノーザンの所有権に関して対等でいようとの口約束を破ったとジョンが激怒。なんだかんだでATVのルー・グレードが株54%を手に入れ決着。
もはやビートルズができるのは、ノーザン・ソングスヘ自分たちの株を売却し、できるだけいい値をつけてもらうことしかなかった。
 ノーザン・ソングス買収が失敗したことに関して、レノンは素っ気なく答えた。「会社なんて持ってなかったよ。ノーザン・ソングス、NEMS、ディック・ジェイムズ。僕らには何があった? 銀行にあるわずかな金だけだ。ブライアンがしくじったのさ」。さらに続けて、出版とマネージメント契約について自分たちが無知だった初期の時代に、ジェイムズがエプスタインを丸め込んだとほのめかした。
[ポール]「僕らは帰国してすぐに『ディック、やめてくれよ』と言ったんだ。あいつは『やめないよ』と答えた。会社は売りに出され、商品になった。買ったのはルー・グレードだ。そうして僕とジョンは自分たちの多くの曲の権利を失ってしまった。ジョージもだ。何曲かね」
 新しい契約ではディック・ジェイムズ・ミュージックがATV傘下のノーザン・ソングスを引き続き担当し、管理手数料として総収入の10%を受け取るという条件になっていた。つまりジェイムズがビートルズ、エプスタインと結んでいた取り決めがそのまま続くことになった。
見切り発車なので今日はここまで。明日につづく。
 https://kingfish.hatenablog.com/entry/20100512

 ノーザン・ソングス・その2 
 2010-05-13 
前日のつづき。
解散後の著作権
[ポールとリンダ共作「アナザー・デイ」がNo1ヒット]
マッカートニー夫人はノーザン・ソングスと契約していなかったため、彼女の作家としての印税は夫が契約しているノーザン・ソングスとは別の、外部の会社[マッカートニー・ミュージック・インク]へ支払わなければならなくなる。ATV会長グレードはこれをインチキだと考え、マッカートニーの新しいコラボレーターが純然たる共作者ではないとして訴訟を起こした。
 レノンもすぐにあとに続き、ヨーコと曲作りを開始する。(略)「ハッピー・クリスマス(戦争は終った)」である。イギリスでの発売が一年遅れだったのは、オノのクレジットを巡るATVとの対立のためだ。(略)
[さらに『ジョンの魂』収録曲は、ノーザン・ソングスではなくマックレン・ミュージック管理曲としてクレジットするべきと主張。それに対し、ノーザン側は命令状を発行。73年2月までレノン&マッカートニーは]
既存の音楽出版契約に縛られていること、1965年の契約によってノーザン・ソングスが出版したいかなる「音楽作品」についての著作権を主張することを彼らに禁じるものであった。(略)
マッカートニーは[『ラム』収録の]自分の単独作五曲(「ラム・オン」の二ヴァージョンを含む)をノーザン・ソングスのクレジットとすることには同意したものの、妻との共作曲に関してはマッカートニー・ミュージックと表記すべきだと言って譲らなかった。(略)     
ノーザン・ソングスはEMIが11曲すべてを自分たちに許諾申請しない限り、単独作品5曲の許諾も出すつもりはないという意思を明らかにした。
 しかしEMIに補償を確約したことと自分たちの懐に印税が入ることもあって、五月の初めにはノーザン・ソングスは許諾を出し、それから一ヶ月もしないうちに『ラム』はUKアルバム・チャートで首位に立った。五ヶ月後にはレノンのソロ・アルバム『イマジン』もトップに輝く。このアルバムにはレノン作九曲、レノンとオノ共作一曲が収録されていたが、クレジットはすべてノーザン・ソングスである。
なぜATVと再契約したのか
[弁護士のマイケル・イートン談]「あのふたりがATVと再契約した理由は、ゆくゆくはノーザン・ソングスなりATVミュージックを買い戻すのに有利だから、という憶測があった。ただし妙だったのは、第一優先権なり追従オファーのオプションについての含みを書面に一切入れていなかったことだ」(略)
[ATVの]ヒースは慎重に付け加えた。「私はすべての話し合いに出たわけじゃないが、ふたりはある程度の権利を取り戻したはずだし配慮もしてもらったはずだ」。(略)当のオノの記憶は、「知り合いの悪魔のほうが、素性のしれない悪魔よりもまし」というものだった。
(略)
レノンとマッカートニーはそれぞれの新しい出版社経由で、レコードの売り上げからはこれまでの25%ではなく27.5%を受け取ることになり、共同出版者としてのレノン&マッカートニーはATVに対して55:45の分配率となった。この有利な条件をATV、ノーザン・ソングスから引き出すために、ふたりの元ビートルは代償を支払っている。(略)
 1973年、マッカートニーはATVのテレビで『ジェイムズ・ポール・マッカートニー』というスペシャル番組に出演した他、『ズー・ギャング』という新シリーズのために主題歌を作った。それには負けられないとばかりにレノンも、1975年にニューヨークで開かれた『ルー・グレード卿に敬意を』というチャリティで、自身最後となるステージに立っている。
MPL
音楽出版の仕組みと旨味を身をもって実感したポールは、義父の指導を受けMPLを設立、音楽出版ビジネスに乗り出す。バディ・ホリー、『グリース』『コーラスライン』。1979年コロムビア・レコードと契約した際には、フランク・レッサーの曲を含む出版カタログをプレゼントされる。
チャンス到来
一方グレードの関心は映画に向かい、ピンクパンサーがヒット、ソフィーの選択も高評価、調子に乗った『レイズ・ザ・タイタニック』がコケて大損失。ノーザン・ソングスを2000万ポンドでどうかとポールに打診。自分が無から産み出したものに大枚はたくことにポールは躊躇。ヨーコに共同購入を持ちかけるも、ヨーコは500万ポンドまでという回答。その渦中、豪の実業家ロバート・ホームズ・ア・コートがACC(ATVの親会社)の筆頭株主に。ポールはチャンスを逃し、グレードは追放。
[ポールは]初の主演映画『ヤァー・ブロード・ストリート』(略)で「イエスタデイ」を使いたかった。(略)もはや彼は曲の所有者ではなかった。(略)世界でもっとも有名な曲を書いた本人が、自分の映画にその曲を使うための許諾をATVミュージックに申請しなくてはならなかった……しかもシンクロナイゼーション料までかかる。
マイケル・ジャクソン
共作した際にポールが音楽出版ビジネスをレクチャー。
 マッカートニーは「枯葉」「ラック・ビー・ア・レディ」「アンチェインド・メロディ」といった曲の著作権を持つことの御利益についても、自分が保有している曲が録音されたりラジオでかかったりライヴで演奏されるたびに使用料が手元に入ることについても、確実に説明したはずだ。(略)この時点でのマッカートニーの自作以外の管理楽曲からの収入は、年間四千万ドルという規模だった。
『スリラー』マネー運用として、まずスライ・ストーンの「スタンド!」「エヴリデイ・ピープル」をゲット、さらにディオン、レン・バリー、ソウル・サヴァイヴァーetc、プレスリー、アレサ・フランクリンの曲も。
和解
1984年、100万ドルと印税率アップと引き換えに、レノン&マッカートニー側はノーザンへのあらゆる訴訟を取り下げることに。ノーザン契約下での解散後ソロ作品権利は返還された。逆にATVはノーザンを障害なく売却できることになった。そしてマイケルが登場。ホームズ・ア・コートは合意に達しそうになるたびに売値を吊り上げ最初の価格から1000万ドルアップの4750万ドルで、85年、ATV全カタログを売却。
[その際、むかつくホームズ・ア・コートのあほうは、娘の好きな“ペニー・レーン”プレゼントしてくれなきゃ売らないとゴネ、マイケル側が激怒し契約が御破算になりかけている。さらに豪パースでのチャリティ・イベントにマイケルを呼びつけるという傲慢ぶり]
 のちにマッカートニーは、自分はATVカタログを買えたはずだったが「ヨーコとのいざこざで買えなかった」と釈明している。その一方でジャクソンが楽曲を所有していることについては、「僕よりマイケル・ジャクソンのほうが“イエスタデイ”の権利割合が多いというのは腹立たしい。困ったもんだ」と語っている。(略)
 ジャクソンから買収の件を聞いたことは絶対にないと譲らないマッカートニーは、買収契約の締結以降にジャクソンとはほとんど口をきいていないことを認めている。
[マイケルは全曲は入手できなかった]
エプスタインがディック・ジェイムズに渡した「プリーズ・プリーズ・ミー」「アスク・ミー・ホワイ」の二曲は、DJMの他の音楽出版ビジネスと合わせて1986年にポリグラムヘ売却されている。一方ビートルズのデビュー・シングルだった「ラグ・ミー・ドゥ」「P.S.アイ・ラグ・ユー」は、最終的にポール・マッカートニーのものになった。
[80年半ば、キャピトル復帰条件のひとつとして手に入れた]
注意点
所有権はマイケルにあるが、レノン&マッカートニーは全世界で50?55%(米では33%)の作家取り分の著作権印税を得ている。
ソニーATV
 買収から十年後、そして「アース・ソング」が大ヒットするほんの一ヶ月前、ジャクソンはATVミュージックとソニー・ミュージックの合併を発表し、音楽業界をあっと言わせた。この提携で彼は一億一千万ドルを受け取り、新たな巨大会社の株式の50%を保有することになった。(略)
[ノーザン・ソングスは1986年に有名無実化、1995年に正式に解体]
 ジャクソンヘの蔑視なのか、あるいはソニーATVミュージックという名前をアルバムに入れないための単なる手段なのか、『ザ・ビートルズ1』の中でソニーATVが所有している25曲の出版社クレジットは、ノーザン・ソングスとだけされている。実際には五年前に消滅した会社なのにである。
 二年後、マッカートニーはレノンと共作したビートルズ時代の20曲が含まれているライヴ・アルバム『バック・イン・ザ・USライヴ2002』を発売し、クレジットを巡ってのオノとの対立をわざわざ再燃させた。「ジョンが僕の曲だと言ってくれたものについては、僕の名前を最初にするのがフェアだと思う」と理由を説明し、コンポーザーのクレジットを「ポール・マッカートニー&ジョン・レノン」としている。出版社クレジットはまたしてもノーザン・ソングスである。
 https://kingfish.hatenablog.com/entry/20100513

 ポール・マッカートニー、2018年からようやくビートルズの楽曲の管理権を所有できるか
 2016.03.28 12:21
 ポール・マッカートニーはザ・ビートルズ時代の楽曲の版権を取り戻そうと動いているという。実はポールはビートルズ時代の楽曲の版権を所有したことがなく、ビートルズ時代に書いたレノン=マッカートニーとしての楽曲やジョージ・ハリスンやリンゴ・スターの楽曲の管理権もすべてノーザン・ソングスというポールとジョン・レノンも出資者となった著作権管理会社に所有されていた。実際にこの会社はディック・ジェイムスという楽曲著作権管理事務所の経営者とビートルズのマネージャーだったブライアン・エプスタインが実質的に切り回している団体だった。その後、ブライアンが1967年に他界した後、ポールとジョンは版権を自分たちの手元に取り返そうとノーザン・ソングスの買収に動き出すが、ジェイムスは会社をイギリスの民放テレビ局ATVに売却し、その後、ポールとジョンは何度かATVから楽曲の版権の買戻しを試みたがいずれも実現しなかった。さらに80年代に入ってからポールがマイケル・ジャクソンとのコラボレーションを重ねるようになると、ポールはマイケルから楽曲の所有権のノウハウなどについて訊かれ、版権を所有することの重要性を彼に説いたというが、その後、マイケルからビートルズの曲を買ってみせると宣言され、マイケルは現実にATVそのものを買収してしまうことに成功した。マイケルはさらにATVとソニーを合併させ、版権管理会社ソニー/ATVとなったが、先頃、マイケルの遺産管理団体がマイケルの所有していた株式をすべてソニー/ATV側に売却することが明らかになって、ポールがビートルズの楽曲をまた取り戻す日はいつかくるのだろうかという関心がにわかに注目されることになった。さすがにソニー/ATVの買収やビートルズ楽曲の版権の買戻しは資金的にも難しい一方で、ポールが着実に版権の回復のために動いていることが明らかになったとビルボード誌が伝えている。というのは、アメリカの著作権法の規定で、1978年以前に書かれた楽曲については著作権が成立した日から56年目に原作者は楽曲の権利を取り戻せることになっているからで、1962年にレコード・デビューしているビートルズの場合、2018年からがそのタイミングとなるのだ。ただし、版権を取り戻すには56年目から数えて2年から10年前までに米国著作権局に申請を行わなければならず、その後、当該楽曲の著作権がいったん抹消され、原作者にすべての権利が返却されるという。そしてポールは昨年末にこの申請を行っていたことが明らかになったという。なお、ビートルズの楽曲はすべてレノン=マッカートニー名義になっているため、ポールはその半分だけを取り戻すことになるが、ジョンの持ち分については著作権そのものが無効となる(ジョンの死から70年後)までソニー/ATVが版権を保持し続けるという取り決めがソニー/ATVとオノ・ヨーコとの間で行われたという。ただし、この措置はアメリカについてのみの話で、ポールはアメリカでは2018年以降、楽曲の版権を取り戻すことになるが、そのほかの世界各国では依然としてソニー/ATVが権利を所有したままになる。 
 https://rockinon.com/news/detail/140947
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 ポールとジョンがビートルズ楽曲の版権を失うことになった知られざる経緯とは
 2016年01月06日 06時00分 By Ian Burt
 1962年にデビューし、一気に世界で最も有名なバンドとしての地位を獲得したザ・ビートルズは、2000年代に入ってもその影響力を保っています。アーティストには著作権に基づくさまざまな収入があるため、ビートルズの楽曲を残したジョン・レノンとポール・マッカートニーのコンビ「レノン・マッカートニー」にはさぞかし多くの収入があるんだろうな……と思う人も多いはずですが、実はビートルズ楽曲のほとんどは彼らの手には入らなかったことは、ビートルズファンの間でもあまり知られていません。
 How Paul McCartney and John Lennon Lost Ownership Of The Beatles Catalogue | Celebrity Net Worth
 http://www.celebritynetworth.com/articles/entertainment-articles/how-michael-jackson-bought-the-beatles-catalogue-then-turned-it-into-a-billion-music-empire/
 ◆若くして結んでしまった「最悪の契約」 ⇒ 1963年2月、ちょうどビートルズがアメリカのテレビ番組「エド・サリバンショー」に出演する1年前、当時バンドのマネージャーをつとめていたブライアン・エプスタインは、ジョン・レノンとポール・マッカートニーの両者に対して版権を管理する会社を立ち上げることを提案しました。これは、当時はまだ現在ほど知名度のなかったビートルズの楽曲をイギリスのラジオで流してもらうためには、大手の出版社と手を組んでラジオ局のマネージャーに売り込むことが不可欠だと判断したエプスタインの提案でした。やがて、エプスタインとジョン、ポールは1963年1月に発表されたシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」を、元ミュージシャンで音楽出版社「Dick James Music(DJM)」を運営するベテランパブリッシャーのディック・ジェイムスのもとに持ち込み、楽曲を登録。ラジオ局とのパイプを築いたことで「プリーズ・プリーズ・ミー」は全英で2位という成功を収めます。同年2月、ジェイムスはエプスタインを含む3人に対し、版権管理会社「ノーザン・ソングス」を設立することを進言。このときジョンは23歳、ポールはまだ21歳という若者で、まだまだミュージックビジネスについては知識も経験もない段階だったわけですが、ここで彼らは後に大きなミスといえる契約を結んでしまうこととなります。設立された「ノーザン・ソングス」の株式のうち、なんと50%はジェイムスと彼のパートナーであるチャールズ・シルバーによって押さえられており、残りの50%をエプスタインが10%、ジョンとポールがそれぞれ20%で保有する形で契約が行われ、このパワーバランスが長年にわたってジョンとポールに重くのしかかることとなるのです。後にポールはこの契約について、若くて無垢だったためにとんでもない契約を結んでしまった、と回顧しています。事実、ジョンとポールは契約書の内容に目すら通しておらず、どちらもジェイムスのパートナーであるシルバーに会ったことすらないと明かしています。こうしてノーザン・ソングスと契約を結んだ「レノン・マッカートニー」のコンビは、同社に対して1973年まで年間6曲の楽曲を作曲する義務を負うこととなります。また、同社はすでに作曲されたビートルズの楽曲53曲を保有することになりました。矢継ぎ早に事は進み、同年3月にはビートルズのファーストアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」がイギリスでリリースされます。その2か月後、同アルバムはUKチャートでナンバー1を獲得し、その後30週にわたってトップを独占することとなりました。なお、同アルバムを蹴落としてチャートナンバー1を獲得したのは、ビートルズ2枚目のアルバムである「ウィズ・ザ・ビートルズ」でした。ビートルズの人気は世界を席巻し、大成功を収める時代が到来します。ビートルズの4人には大金が転がり込むようになり、同じようにエプスタイン、さらにはディック・ジェイムスと彼のパートナーのもとにも巨額の大金が流れ込むようになるのでした。1965年、株式を公開することで税金を減額できることを知ったジェイムスとシルバーは、ノーザン・ソングスの株式500万株をロンドン証券取引所に公開。これにより、ジョンとポールの持ち株比率は15%(32万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約2億7500万円)へと低下。ジェイムスらの比率も37.5%(80万ドル相当、現在の価値で230万ドル・約7億1300万円)へと変化しています。
 ◆売却へ ⇒ 1967年8月、ビートルズを献身的に支えたマネージャーのエプスタインが、アスピリンの過剰摂取によりこの世を去ります。ジョンとポールはエプスタインの死後、ジェイムスらから楽曲の管理権を獲得しようとしましたが、失敗に終わります。ジェイムスとシルバーは保有していたノーザン・ソングスの株式全てを250万ドル(現在の価値で1700万ドル・約20億円)で放送メディアのATV(Associated Television)に売却するという策に出ます。この売却についてジョンとポールには事前に知らされておらず、両名はそれぞれのハネムーン旅行の最中に、新聞のトップを飾った記事でその事実を知ったというエピソードが残っています。こうしてATVはビートルズの楽曲88曲の権利を保有することとなります。このとき、ジョンとポールにはATVが版権料として1ドルを得るたびに25セントが支払われるという、にわかには信じがたい状況となっていました。打開策として、ATVは二人が所有している残りの株式を1475万ドル(現在の価値で1億ドル・約120億円)で買い取るオファーを打診しますが、ビートルズ側はこれを拒否。その後もビートルズ側は対抗策を講じるも、いずれも失敗に終わります。こんな状況でも、契約の上ではビートルズはATVに対して年間6曲を提供する義務が存在します。業を煮やしたビートルズ側は1969年、ついに残されていた楽曲提供の義務条項は全て解消する条件をつけてATVに残りの株式を売却。このときの額はATVがジェイムスらに支払った2倍の金額となる573万8000ドル(現在の価値で3600万ドル・約43億円)で決着をつけましたが、これでビートルズの楽曲の版権(正確には「版権を管理するノーザン・ソングス」)は、完全にビートルズのもとを離れることとなりました。
 ◆買い戻しのチャンス、そしてマイケル・ジャクソンの存在 ⇒ その後、1981年まで版権をめぐる状況に大きな変化は生じませんでした。状況が変わったのはジョン・レノンが凶弾に倒れた1年後の1981年、ATVがオーストラリアの大富豪、ロバート・ホームズ・ア・コート氏に買収された時で、その際にポールのもとにはATVが管理していたビートルズの版権を4000万ドル(当時のレートで約88億円)で買い戻すというチャンスが到来します。ポールはジョン亡き後のオノ・ヨーコに接触し、費用の折半を提案しますが、ヨーコは買い戻し額は全部で2000万ドルが相当であると主張したことから、話し合いは不調に終わります。ポールによると、全ての資金を一人で負担することは可能でしたが、仮にジョン亡き後に単独で版権を買い戻すことで生じる「強欲」や「ジョンへの敬意が感じられない」という悪評を懸念したことから、このときは版権の買い戻しを断念したとのこと。手元にATVが持っているビートルズの版権が残ったホームズ氏でしたが、そもそもミュージックビジネスに関わることに関心はなかったとみられ、ATVの従業員をほぼ全員解雇し、1984年には同社のミュージック部門そのものを売りに出しました。この際にもポールのもとに話しは舞い込んだわけですが、「高すぎる」ことを理由にこれを拒否。ここで名乗りを上げたのが、当時は版権ビジネスを手広く行っていたマイケル・ジャクソンその人でした。マイケルのマネージャーを長年にわたって務めていたジョン・ブランカ氏のもとにATV売却の話しが舞い込んだ時、マイケルはブランカ氏に「いくらかかってもいいからビートルズの版権を手に入れること」と指示。こうしてビートルズの版権はマイケルのもとに移ることとなりました。なお、この話の背景には皮肉なエピソードが隠されています。ポールとマイケルはそれまでに「ガール・イズ・マイン」と「セイ・セイ・セイ」という2曲をデュエットで発表していたこともあり、良好な関係を築いていました。1982年のある日、ロンドン郊外にあるポールの自宅を訪れ、ポールの妻リンダ(故人)とディナーを共にしていたマイケルは、ポールから「大金を手にできるのは版権を所有することだけだ」という手ほどきを受けたと言います。巡り巡ってその2年後、そのマイケルがビートルズの版権を所有することになるとは、当の本人すら予想できなかったことなのかもしれません。この一件をきっかけに、ポールとマイケルの関係は険悪なものになったといわれています。その後、マイケルは2009年にこの世を去り、さまざまな権利関係の動きや、「1978年以前に製作されたコンテンツの著作権は56年後に作曲家の元に戻る」というアメリカの著作権法の定めにしたがい、ポールはビートルズの楽曲の版権を取り戻している段階にあるとのこと。このまま順調に事が進めば、2026年には全てのレノン・マッカートニー楽曲の権利は再びポールの手に戻ることになると見られています。
 https://gigazine.net/news/20160106-lennon-mccartney-copyright/


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 ┃ 『FREE AS A BIRD』 ┃THE BEATLES
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 1995(平成七)年12月04日(mon) UK released
‡1995(平成七)年12月12日(tue) US released ※Wikipedia English version
 1995(平成七)年12月31日(sun) US released ※Wikipedia Japanese version
 1996(平成八)年01月01日(mon) JP released
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 https://en.wikipedia.org/wiki/Free_as_a_Bird
 http://rock-t.info/beatles-discography-freeasabird-christmastimeishereagain.html
 http://yokono.co.uk/collection/beatles/uk/single/single_anthology.html##1
 https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTWQN3X
 https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHDFSO
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 ┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1962(昭和37)年12月12日(水) ライヴ演奏2:キャバーン・クラブ (夜)/リヴァプール
  これは彼らの118回目のイブニングショー出演であり、ランチタイムショーを含めると268回目のキャバーン・クラブ (Cavern Club) 出演であった。また45回目で最後の昼・夜ダブルヘッダーだった。彼らは広告のトップに掲載され、他にはザ・フォーモスト (The Fourmost)、ザ・マージービーツ (The Merseybeats) が出演している。またフォーク歌手のロビン・ホール (Robin Hall) とジミー・マグレガー (Jimmie MacGregor) も出演予定であったが、雪と氷点下の気温のために来ることができなかった。
  ボブ・ウーラー (キャバーンDJ)『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ 1962年の12月、「トゥナイト・プログラム」からのフォーク歌手ロビン・ホールとジミー・マグレガーがビートルズと一緒にキャバーンに出演することが予定されていた。僕はステージに上って言った「残念なお知らせがあります。この悪天候のため出演予定者の一部が出演できなくなりました。」観客のため息がこぼれた。そしてその欠場者ロビン・ホールとジミー・マグレガーの名前を出すと、みんなよろこんで拍手していた。
  ビートルズのキャバーン・クラブへの正確な出演回数は判っていないが、
  1961(昭和36)年02月09日(木)から
  1963(昭和38)年08月03日(土)までの期間に、少なくともランチタイムショーで155回、イブニングショーで125回の演奏を行っている。
②彼らのウェールズでの公演は、
 1962(昭和37)年07月14日 リル (Rhyl) 
 1962(昭和37)年11月24日 プレタティン (Prestatyn)
 1963(昭和38)年01月24日 モールド (Mold)
 1963(昭和38)年06月22日 アバーガベニー (Abergavenny)
 1963(昭和38)年07月19日 リル (Rhyl) 
 1963(昭和38)年07月20日 リル (Rhyl) 
 1963(昭和38)年08月12日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月13日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月14日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月15日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月16日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年08月17日 スランディドノ (Llandudno)
 1963(昭和38)年05月27日 カーディフ (Cardiff) 
 1964(昭和39)年11月07日 カーディフ (Cardiff) 
‡1965(昭和40)年12月12日 カーディフ (Cardiff) で開催されているヨ(=^◇^=)
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 ①http://gejirin.com/beatles/history/1962/19621212_live_Cavern.html
 ②https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630124-2_live_Assembly.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓┌─―――――┐
 ┃ THE BEATLES HISTORY ┃|December 12|346
 ┃    ザ・ビートルズの今日の出来事   ┃|12月12日|
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 1963(昭和38)年12月12日(木) '63秋の全英ツアーの最終日。サウスハンプトンのゴーモント・シネマ公演で全日程が終了した。
 1964(昭和39)年12月12日(土) 英国で、アルバム「Beatles For Sale」がこの日から46週間にわたりチャート・イン
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
 http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17214
 http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/012/1212.html
 https://blogs.yahoo.co.jp/fab4city/15583708.html
 http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
 楽曲資料https://beatlesdata.info/
 歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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 ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
 ┃ THE BEATLES of 1963  ┃(thu)07 March
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 "Do you remember 1963?
 Most people who can would rather not, writes Nigel Kirk. It wasn't a good year, the news was consistently bad and the Cold War was at its coldest, as was the weather. It was the worst winter for 200 years with months on end of ice and snow and even colder than in 1947. One Nottingham lady I met recently has a good reason to remember this bleak winter. Kathleen, or Kate to her friends, was a 20-year-old Beeston girl in 1963 and on 
 (thu), March 7 saw The Beatles up close at the first of the band's four visits to Nottingham. What's more, she got them to sign their autographs for her album. The autographs go under the hammer at Mellors & Kirk on 
 (fri)October 4, and are estimated at £1,000 to 1,500. The postcard-sized leaf is signed "Love from John Lennon XXX" and "George Harrison X". Theirs are the most highly prized Beatles signatures - for the obvious reason there will be no more, but also because the piece dates from the early years, the height of Beatlemania. 
 Gerry Marsden of Gerry and the Pacemakers fame has also signed the same piece. The Nottingham event was the first of manager Brian Epstein's six 'Mersey Beat Showcase' concerts at different venues, which also featured Billy J Kramer and the Dakotas, the Big Three and Cilla Black. 
 Recently Mellors & Kirk sold all four Beatles signatures obtained by a former worker at the Old England Inn on the A1 where the band stopped en route for a late night supper. She nipped out of the kitchen and got their signatures on a scrap of paper, for which we obtained £2,500 from an American collector. Beatles memorabilia commands high prices at auction as people want to own something directly connected with the most influential pop musicians in living memory. Ringo's own copy of the Parlophone Beatles album of 1968 sold for $790,000 in 2015, and a Sergeant Pepper Lonely Hearts Club Band LP signed by the Beatles sold at auction for the equivalent of £190,000 in 2013. That sort of money would have been unthought of in March 1963 when the band had to unload their own equipment from a van when they arrived at the Nottingham venue, the Elizabethan Ballroom on the top floor of the Co-Op in Upper Parliament Street. Amazingly, on the night the room was apparently only half full. It was to be a very different story on The Beatles' three other visits to Nottingham later in 1963 and early 1964. On 
 (thu)May 23 in 1963 they were at the Odeon sharing the billing with Roy Orbison, and on 
‡(thu)December 12 that year returned to a tumultuous reception from thousands of ecstatic young fans. All police leave in the city was cancelled and a fleet of ambulances were put on standby. The Fab Four also visited the city on 
 (thu)November 05, 1964. 
 Kate has treasured her memento of that historic night for 54 years, but isn't sad to part with it because somebody else will treasure it. It goes to show that its often the objects acquired without the least thought for future profit that turn out to be the best investments. John, Paul, George and Ringo have attained a sort of immortality that only artists with something unique can. There is something so new and appealing yet sweet and sentimental about the lyrics and music which changed the way a new, post-war generation of baby boomers woke up to music. And didn't they look great, those four nice ordinary boys from Liverpool, apparently so similar but very different personalities, full of charisma and talent? That's why the young and the young at heart really got 'Beatlemania'. Liverpool, The Beatles' spiritual home is a place of pilgrimage with visitors heading for the Cavern Club and the childhood homes of Lennon and McCartney, both of which are now owned by the National Trust, which describes the latter property as "a small house with huge musical significance". When John Lennon and Paul McCartney dreamt up "Ticket to Ride" they can hardly have thought it would be to their own childhood homes! It is extraordinary how each generation discovers The Beatles and 'Beatles heritage' is big business because the songs seem timeless, appealing to young and old alike. The buyer of Kate's album is just as likely to be a Beatle maniac who always wanted their autographs as what is usually thought of as a collector, which makes these particularly unusual 'collectable'." 
 Source: Nottingham Post, 8 September 2017 
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 http://www.multiplusbooks.com/630307.html
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