■浜省「夜は優し」
●Smokey Robinson & The Miracles「Ooo Baby Baby」
http://mfile.akamai.com/12858/wm2/muze.download.akamai.com/2890/us/uswm2/858/462858_1_25.asx?obj=v31021
■「君去りし夏」 from 「青空の扉」(1996/11/11)
「Hushabye」/Beach Boys from 「Little Deuce Coupe/All Summer Long」(?)
メロディが似てるそうです。
http://music.geocities.jp/gimi10jp/pack07.html#hamsyo
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┃ 『君去りし後 Since You Went Away』 ┃
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1944(昭和19)年07月20日(thu) US released
1952(昭和27)年09月03日(wed) JP released
https://www.amazon.co.jp/dp/B00005B3L4
https://www.uta-net.com/song/51505
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%9B%E5%8E%BB%E3%82%8A%E3%81%97%E5%BE%8C
映像◆0:06 凱旋門 https://www.youtube.com/watch?v=1MutH-GIF3o
動画◆浜田省吾33~35才 from『J.BOY』 to『FATHER'S SON』~ from 1986~to 1988 https://www.youtube.com/watch?v=VUXHj-Ybch4
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┃ Arc de Triomphe エトワール凱旋門 ┃
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1806(文化三)年08月15日(金) 着工
1836(天保七)年07月29日(金) 落成 高さ50m
1870(明治三)年09月04日(日) 共和国宣言プレート
1919(大正八)年07月14日(月) 第一次世界大戦の同盟国の勝利のパレード
1940(昭和15)年06月18日(火) シャルル・ド・ゴール将軍の演説記念プレート
‡1940(昭和15)年11月11日(月) ドイツ軍(ナチス)占領下の学生デモで亡くなった学生の祈念
https://www.uta-net.com/song/42729
https://ja.wikipedia.org/wiki/エトワール凱旋門
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┃ON THE ROAD '88 FATHER'S SON┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛後半戦 日程
‡072 1988(昭和63)年11月11日(金) 久留米体育館
http://www.flashandshadow.com/shogo/live/on/on1988.html
https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600186984.html
http://ameblo.jp/futabayama69/entry-10819384548.html
http://www9.plala.or.jp/bt-pearl/dear_memories.html
89.1.28♪ON THE ROAD♪映像◆http://www.nicovideo.jp/watch/sm13810282#
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┃ 浜田省吾 #32 『FATHER'S SON』 ┃
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2017(平成29)年01月14日(土) 今回は
1988(昭和63)年03月16日(水)に発売された浜田省吾さんのアルバム『FATHER'S SON』の話です。
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1987(昭和62)年11月01日(日)
1987(昭和62)年11月02日(月)
1987(昭和62)年11月04日(水)の三日間と、間に石渡長門くんのリハーサルを挟んで、
‡1987(昭和62)年11月11日(水)と
1987(昭和62)年11月14日(土)の計五日間、目黒のヤマハスタジオと初台のレオミュージックスタジオ、新宿のミュージックシティスタジオで、ニューアルバムのプリ・プロダクションを行った後、
1987(昭和62)年11月16日(月)から信濃町のソニースタジオで、ぼくの担当する曲のレコーディングが始まった。ぼくがアレンジを担当した曲は後に「NEW YEARS EVE」「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」とタイトルが付けられる2曲。今回のアルバムのアレンジは町支さんが3曲、古村くんが1曲、ぼくが2曲、梁くんが4曲を担当することになっていた。キーボードプレイヤーが二人になったことで、どちらがどの楽器を担当するか梁くんと話し合った。基本的には自分がアレンジした曲は自分が弾くということになったが、曲によってはぼくのアレンジした曲で梁くんがピアノを弾いたり、梁くんのアレンジでぼくがピアノを弾いたりした曲もあった。町支さんと古村くんのアレンジした曲でも、レコーディングをしながら楽器の分担を決めて行った。ぼくは今回2曲だけのアレンジだったが、サウンドを考えるのに結構時間がかかった。特に「DARKNESS IN THE HEART (少年の夏)」は、浜田さんからの要望と自分のイメージするサウンドが合致するまで、何度も試行錯誤を繰り返した。まずは打ち込みによるシンセベースのラインを考えることから始めた。8ビートでフレーズをシーケンスするようなクールなベースのラインを作った。そしてそれに呼応するようなタイトなリズムのドラムのパターンを考えた。リズムの上に乗っかる楽器は、イントロとアウトロのテーマを吹くサックスとギターの掛け合いのフレーズや、間奏のブレイク部分やサビのバックで繰り返されるストリングスのライン等、細部に渡ってフレーズを譜面に書き込んだ。レコーディングは断続的に
1988(昭和63)年の1月の終わりまで続いた。ちょうどこの頃ぼくは幼馴染みでもある、石渡長門くんという新人のシンガーのレコーディングとライブも受け持っていたので、それこそ目の廻るような忙しさだった。渋谷のTake Off7とエッグマンで行われた石渡くんのライブは、江澤くんと古村くんにも手伝って貰った。アルバム『FATHER'S SON』に参加した主なレコーディングメンバーは以下の通り。
ドラムス:高橋伸之
ベース:江澤宏明
ギター:町支寛二
キーボード:梁邦彦 板倉雅一
サックス:古村敏比古
トラッペット:小林正弘
トロンボーン:清岡太郎
パーカッション:ペッカー 他にも曲によってはゲストのミュージシャンに参加してもらった。「NEW YEARS EVE」では、宮野弘紀さんにガットギターを弾いてもらった。この曲のアレンジは音数を少なくして、淡々とした中にも情感が溢れるようなイメージで作り込んだ。宮野さんの奏でるガットギターは、浜田さんのボーカルに寄り添うような素晴らしい演奏だった。『FATHER'S SON』のレコーディングは、それまでのアルバムのレコーディングよりも更にアレンジを担当した者が中心になって行われたため、J・BOYの時よりもシステマチックに行われた。ぼくもすべての現場に居合わせた訳では無いので、自分のアレンジした曲以外の曲のリズム録りが終わって、しばらくしてスタジオに行くと、たくさんの楽器がダビングされていて驚いたことも多々あった。
写真◆『FATHER'S SON』のレコーディングが行われた信濃町ソニースタジオの壁に書かれたマイケル・ジャクソン直筆のサインの前で。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/01/32-fathers-son.html
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┃ 浜田省吾 #07 因島 ┃
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2016(平成28)年03月24日(木)
ぼくは浜田省吾さんのツアーで全国津々浦々を廻りましたが、その中でも何カ所か印象に残っている場所があります。今回はそんな場所の一つ、因島でのコンサートのことを思い出してみます。
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1979(昭和54)年11月08日(木)から、関西学院大学での学園祭出演を皮切りに始まった、浜田省吾の関西~中国ツアーは、
‡1979(昭和54)年11月11日(日) 福山大学学園祭
1979(昭和54)年11月13日(火) 因島市民会館
1979(昭和54)年11月15日(木) 萩市民会館
1979(昭和54)年11月16日(金) 三次文化会館
1979(昭和54)年11月18日(日) 山口大学学園祭
1979(昭和54)年11月19日(月) 高梁市民会館と廻る、約二週間の日程のツアーだった。
‡1979(昭和54)年11月11日(日)に広島の福山大学での学園祭を終えたぼく達は、
1979(昭和54)年11月12日(月)に三原から船で因島に入った。因島は現在は尾道市に属しているが、当時は因島市として独立していた。島に着いてすぐにぼく達は、二階建ての簡素な作りの旅館に連れて行かれた。旅館というよりも、まるでどこかの会社の保養所みたいだな、とぼくは思った。明日のコンサートまでオフなので、浜田さんとバンドのメンバーは二組に別れて休日を過ごすことにした。ドラムの俊ちゃんとギターの町支くんは、どこからか二千円の竿を買って来て、釣りに行くと張り切っている。ぼくとキーボードのいっぺいちゃん、ベースのブンちゃん、そして浜田さんの四人はレンタカーを借りて島を一周することにした。さっそく小さな車を借りて来て、ブンちゃんの運転で島をドライブした。走り出してすぐに大きな造船所が見えて来た。因島は当時、造船の島と呼ばれていて日立の巨大な造船所があった。その時も一隻の船を造っている最中で、ぼく達はその大きさに息を呑んだ。造船所を見たり車の中で音楽を聴いたりして、はしゃいでいたぼく達四人だったが、四方を海に囲まれた小さな島なので、そんなに時間を要することなく島を一周してしまった。それでもぼく達は美しい景色を堪能することが出来て満足だった。釣りチームの二人は、今夜の夕食のおかずを釣ってくると豪語して出かけて行ったが、釣果はゼロであった。釣れたての魚を期待していたぼく達は大いにガッカリした。明けて
1979(昭和54)年11月13日(火)、因島市民会館でのコンサートの日になった。会場の因島市民会館は約千人ほどのキャパの小さな会館で、どこか懐かしい雰囲気のする建物だった。こんな小さな島でコンサートをやって、果たしてお客さんは来てくれるのか心配していたぼく達だったが、コンサートが始まってみたら客席はほぼ満杯で、ぼく達は胸を撫で下ろした。コンサートが始まってステージから客席を見渡すと、おそらく今日来た大半の方が、初めて浜田さんのコンサートを観るのではないかと思われるようなムードが、何となく全体に漂っていた。そして大音量でのコンサートにちょっと戸惑っている風でもあった。この日のセットリストは以下の通り。
01.ひとりぼっちのハイウェイ
02.愛を眠らせて
03.朝のシルエット
04.いつかもうすぐ
05.いつわりの日々
06.恋の西武新宿線
07.愛のかけひき
08.涙あふれて
09.片思い
10.幻想庭園
11.風を感じて
12.今夜はごきげん
アンコール
13.さよならの前に
14.ミッドナイト・ブルートレイン オープニングの「ひとりぼっちのハイウェイ」の前には、オーバーチャーのようなちょっとした長めのイントロが付いていた。「朝のシルエット」は町支、岡島、板倉の三声によるアカペラのコーラスから始まるアレンジだった。エンディングの「今夜はごきげん」アンコールの「さよならの前」は、レコードになったアレンジとは、かなり違う感じのアレンジで演奏していた。 浜田さんもぼく達バンドも、いつもとはちょっと違う雰囲気に最初は緊張したが、終わってみればいつものように盛り上がったコンサートになった。コンサート終了後、地元の方々も交えての打ち上げが行われた。中には村上水軍の末裔の方もいらしていて、とても興味深い話を聞くことが出来た。海の幸を堪能したぼく達は、すっかりいい気分になって、満天の夜空を眺めながら歩いて旅館まで帰った。
写真◆1979(昭和54)年頃。ヒゲを生やしていた。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2016/03/7.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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『烏丸せつこのサウンドストリート』
‡1981(昭和56)年11月11日(水) 22:20~23:00 NHK-FM
ゲスト/浜田省吾
O.A内容:芸能週刊誌で噂となった烏丸せつこの「サウンドストリート」にゲスト出演
ラジオ欄の曲目
1. ロックンロール・ドール(Rock'n Roll Dol/烏丸せつこ)
2. 土曜の夜と日曜の朝
3. 愛の世代の前に ほか
パーソナリティー:烏丸せつこ
http://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11600876865.html
参考URL■https://ameblo.jp/chiharu1997/entry-11596940023.html
Be My Baby
Phil Spector
The Ronettes
昨今“癒し”なる言葉が横行しているが、僕はそうした“癒し系”なる括りが大嫌いだ。
「音楽療法」の研究が進められている。
音楽療法は適切に用いれば、自閉症児の治療や、高齢者・障害者の機能回復にも有効だそうで、米国では犯罪者の社会復帰にも使われているらしく、とても結構なことだと思う。
実際僕も女房の妊娠時に、精神をリラックスさせる為の講習を夫婦で病院で受けたことがあるが、その中の「音楽療法」は、それはそれは気持ちの良いものだった。
しかし今ブームになっている商業化された「癒しの音楽」の大半は、音楽療法に便乗した安直で粗悪な発想でしかない。
例えば、精神的に疲れている時や、悩みやストレスを抱えている時は、心を慰めるような音楽を聴くと良いと思われているが、それは単に音楽に逃避するだけで、一時的な気休めにしかならない。
そもそも精神的に疲れたりしているのには、「人間関係がギクシャクしている」「仕事がうまくいかない」等の理由があるわけで、そこを解決しないことにはどこまで行っても救われないこと。
深い悩みの淵にいる時に「ヒーリング・ミュージック」と題されたCDを聴いてみると、そのことがよくわかる。よけい苛々するのだ。
市販の「癒しの音楽」「ヒーリング・ミュージック」のCDの多くは、間延びしたメリハリのない音楽の連続で、ちょうどぬ るま湯に浸かっているような雰囲気のもの。
こうした音楽は、ものわかりよく状況を受け入れ、諦めさせる過剰適応性、悪く云えば敗北主義性を助長させ、リラックスではなく“無気力”を誘引する。
権力者が宗教を用いて民衆を統治するような場合には、とても有効かもしれないが…。
「まわりとうまくやっていく」ための、他人を傷つけない「やさしさ」がもてはやされ、自分の意志をストレートに主張すると「困った人」と見なされるから他人と合わせる… 一見人間関係は良好に見えても、一皮むけば互いにストレスを溜め合っていたりする。そして当たり障りのない事象を“癒し系”などと呼び、現実逃避に解決したかのような錯覚を見る。
突き詰めれば、そうした“癒し系”ほど不健全なものはない。
不当な扱いを受けたら抗議すればいいし、場合によっては怒ることも必要だ。不愉快なことがあれば、大声を出せばいい。
落ち込んでいる時には、そんな“見せかけのやさしさ”の音楽に浸るよりも、明日生きていく希望が湧くような音楽を聴く方が良い。
それはどんな音楽か?
答えは簡単、「自分が大好きな音楽」だ。
ロックが好きなら好きなロックを聴けばいいし、クラシックが好きなら好きなクラシックを、演歌が好きなら好きな演歌を。つべこべ云われる筋合いはない。
曲調の明るい・暗いも関係ない。体質的に、短調のメロディーが好きな人もいる。だったら無理にハッピーな曲を選ばずとも、大好きなマイナーな旋律に身をまかせればいい。
そうすると、“1/f ゆらぎ”などと謳っていなくとも、自然とα波が出てくる。要は、どれだけ前向きになれるかだ。
そんな時僕が聴いているのは、ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』。
http://www.begets.co.jp/doda/archive/047.html
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┃ 『青空の扉 ~THE_DOOR_FOR_THE_BLUE_SKY~』 ┃
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‡1996(平成八)年11月11日(月) リリース
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音源◆https://music.amazon.co.jp/albums/B00FSBAJRU
https://ja.wikipedia.org/wiki/青空の扉_~THE_DOOR_FOR_THE_BLUE_SKY~
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青空の扉~THE DOOR FOR THE BLUE SKY~
SRCL-3690 1996/11/11 released
sound 01 BE MY BABY
sound 02 さよならゲーム
sound 03 二人の絆
sound 04 彼女はブルー
sound 05 紫陽花のうた
sound 06 君去りし夏
sound 07 恋は魔法さ
sound 08 君がいるところが My sweet home
sound 09 あれから二人
sound 10 Because I love you
sound 11 青空のゆくえ
30代後半から40代になる頃、アルバムで言うと『FATHER'S SON』『誰がために鐘は鳴る』『その永遠の一秒に』あたりは、凄く内省していた時期なんです。精神的にも少しダウンだった時期で、歌にも内省的な気配が色濃かったと思う。そして『その永遠の一秒に』を作り終えた頃から、雲が少しずつ晴れるような感じになってきた。
そんな中で、青空や太陽が自分の人生に必要ならば、空が晴れるのを待っているんじゃなくて自分で太陽の下に出て行かなければいけない、青空のドアを自分で探して開けなければいけないという気持ちが強くなったんです。
そして「とにかくラブソングばかりのアルバムを作ろう」と思った。ラブソングにもいろんな時期のラブソングがありますよね。初めて恋をした頃のラブソングとか、生涯の伴侶に出会った頃のラブソングとか。今回のラブソングというのは、いろんなものを経験して、挫折して、辛い思いもしたんだけど、もう一度誰かを愛するということを信じようというラブソング。そんなテーマでアルバムを作り始めました。
メロディがとても気持ちよく書けたんで、ドラム木村万作さん、ベース岡沢茂くん、ギター水谷公生さん、キーボード福田裕彦くんというリズムセクションと一緒にスタジオに入って、コード譜だけを渡して、歌は「♪ラララ」でレコーディングしました。
なんのために録音したのかと言うと、それを聞いて詞を書こうと考えたから。非常に贅沢な話なんだけど(笑)。普通のレコーディングだと一日せいぜいリズムセクション2曲くらいだけど、一日6曲ぐらいずつ伸び伸びプレイして、そのノリがすごくよかった。それを持ってアメリカへひとり旅に出て、その演奏を聞きながら少しずつ詞を書いていったんです。そんな気持ちのいい状況の中で詞を書けたので、全体的に自分が思っていたような詞が出来た。「歌を作るのは楽しいな」と改めて思ったりもしましたね。
30代後半から40代になるときには、歌を書くことにもすごく苦しんだ。でも、あとから考えると、逆にその時期に大きく成長出来たのかなあと思いますね。その成長がすごく表れて見えるアルバムだと思う。もし「自分の作品の中から好きなアルバムを1枚挙げろ」と言われたら、この『青空の扉』か『My First Love』か……どちらかを選ぶのはすごく難しいけど、『青空の扉』を選ぶかもしれない。
困ったことに、あまりにこれが気に入ったために、次のアルバムまですごく時間がかかった(笑)。そのぐらい、ソングライターとして幸せな気持ちにさせてくれたアルバムです。
https://shogo.r-s.co.jp/disco/album20.html
時計の針の 巻き戻し ⇒ ふだんの生活の中で、ふとやり残した感じがすること有りませんか?時計の針は、自分で巻き戻すものです。
http://blog.goo.ne.jp/gehen_584/e/c3df593d2f271c91ed14c7af8083a6b0?fm=entry_related
♪BECAUSE I LOVE YOU♪https://youtu.be/YVQyW3RRGzw
1994(平成六).11.11(fri) SHAKE THE FAKE 広島サンプラザ
https://www.youtube.com/playlist?list=PLmQIzKRWaBRUn3m-4o3Rz07t3EnbQXwDj
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┃ 1992年 下半期の出来事 ┃
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2017(平成29)年08月11日(金)
今回は1992(平成四)年下半期の出来事です。
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久宝さんのコンサートのスケジュールが一段落した頃、町支さんのツアーのリハーサルが始まった。一緒にツアーを回る町支寛二バンドのメンバーは、
ドラムス:高橋伸之、
ベース:関雅夫、
ギター:水谷公生、
キーボード:板倉雅一、
キーボード:福田裕彦、
サックス:古村敏比古 この6人に町支寛二を加えた計7人。新旧入り交じった浜田省吾バンドのメンバーが集まった。ぼくはベースの関さんと一緒にやるのは初めてだったが、昔から面識はあったので不安は無かった。キーボードの福ちゃんは、浜田さんのレコーディングで一緒だったので以前からよく知っていた。他は長年一緒にツアーを回ったメンバー達だった。サックスの古村くんとは久宝さんのツアーでも一緒だったので、町支さんのバンドでも再び一緒にやることとなって嬉しかった。町支さんのツアーの曲目は、初のソロアルバムからの曲を中心に構成されていたが、他にも何曲かの洋楽のカバーもあった。約二週間程のリハーサル期間を経て、いよいよ町支さんのソロツアーが始まった。
「僕を呼ぶ声」というタイトルの付いたツアーは、
1992(平成四)年10月22日(木)名古屋 愛知勤労会館を皮切りに、
1992(平成四)年11月11日の東京渋谷公会堂までの計7カ所での公演だった。日程は以下の通り。
町支寛二「僕を呼ぶ声」ツアー
1992(平成四)年10月22日(木) 名古屋 愛知勤労会館
1992(平成四)年10月24日(土) 宮城県民会館
1992(平成四)年10月29日(水) 札幌サンプラザホール
1992(平成四)年11月02日(月) 広島アステールプラザ
1992(平成四)年11月03日(火) 大阪厚生年金会館
1992(平成四)年11月05日(木) 福岡電気ホール
‡1992(平成四)年11月11日(水) 渋谷公会堂 初日の愛知勤労会館のコンサートに浜田省吾さんが来ていた。ぼくは楽屋で約一年半ぶりに浜田さんと再会をした。昨年
1991(平成三)年の2月12日(火)、ぼくは千葉で行われた浜田さんのコンサートを観た。The Fuseを脱退してから初めて観た浜田さんのコンサートだった。自分がステージにいない浜田省吾のコンサート観るのは、
1979(昭和54)年07月01日(日)の新宿ロフト以来だった。ぼくは客席のほぼ真ん中の席で観戦した。浜田さんのコンサートは素晴らしかった。しかしぼくはコンサートを観戦しながら、何とも言えない感情がこみ上げて来た。当たり前のことだが、自分がいた場所に違う人がいて演奏している。自分がいない浜田さんのステージを客観的に観られるようになるまでには、ぼくにまだ時間が必要だった。町支さんのコンサートは中盤にアコースティックコーナーが設けられていて、たしか二曲程洋楽のカバーをやった。一曲はビートルズの「I've Just Seen A Face(邦題:夢の人)」と、もう一曲はCSN&Y(クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング)の「Find The Cost Of Freedom(邦題:自由の値)」だった。 この二曲の時(ひょっとしたら一曲だけだったかもしれない)、ぼくは自分のキーボードの位置からステージ中央に出て行き、町支さんを真ん中にぼくと水谷さんの三人が高さのあるスツールに座って、横一列に並ぶ編成で演奏した。演奏というかこの二曲に関してはぼくはボーカルだけだった。町支さんと水谷さんがアコースティックギターを弾き、ぼくは楽器を持たず手ぶらで歌った。長いミュージシャン活動の中で楽器を持たないで歌ったのは、この時と後は数える程しか無かった。町支さん、水谷さん、ぼくの三人でのハーモニーは、自分でいうのも何だがなかなか格好良かった。ぼくは歌いながら「CSN&YというよりもまるでGAROみたいだな。」と思っていた。特に「Find The Cost Of Freedom」は、コーラスのみのほぼアカペラで、コーラスワークはとても難しかった。今回の町支さんのコンサートでは、ぼくは浜田さんのコンサートの時よりもコーラスの比重が大きかった。コンサートの後半はフルバンドでの演奏に戻り、アップテンポの曲が中心になって畳み掛けるような構成になっていた。町支さんのボーカルとギターは、浜田さんの時とはまた違った感じでとても素晴らしかった。今回のソロツアーでぼくは改めて、町支さんのボーカリスト&ギタリストとしての素晴らしさを再認識した。
1992(平成四)年11月05日(木)の福岡公演に再び浜田さんが遊びに来た。この日は元チューリップのメンバーで、ぼくの後任のような形で浜田さんのツアーに参加していた姫野達也さんも来ていた。楽屋はとても賑やかになった。92年のコンサートの締めくくりは、
1992(平成四)年12月18日(金)に日本青年感で行われた久宝留理子さんのクリスマスライブと、
1992(平成四)年12月24日(木)のクリスマスイブに新宿で行われた山本英美くんのコンサートだった。二つともとても楽しくて素敵なコンサートだった。目の回るような忙しさだった1992年もようやく終わろうとしていた。
写真◆町支寛二1992年のツアーパンフより。
**************** http://air.edisc.jp/ima/
http://mi-mychronicle.blogspot.jp/2017/08/1992.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/THE_FUSE
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