┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃デッカのオーディション落選と┃
┃ そのテープがもたらしたもの ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ビートルズ物語 1962年
‡1961(昭和36)年12月13日(水)、このオーディションは、マイク・スミス (Mike Smith) が、デッカ・レコード会社のA&R(アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する職務)の代表としてキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏を見た結果を受けて開催されたもので、その夜の彼らのパフォーマンスは、すぐにレコード契約を保証できるほどのものではありませんが、スミスは意欲的で、デッカのスタジオで改めてオーディションすることを彼らに提案したものです。
1962(昭和37)年01月01日(月)、ジョン・レノン (John Lennon)、ポール・マッカートニー (Paul McCartney)、ジョージ・ハリソン (George Harrison)、ピート・ベスト (Pete Best) の4人は、ローディーのニール・アスピノール(Neil Aspinall) が運転するヴァンでリヴァプールから移動しますが(ブライアン・エプスタイン は列車移動)、吹雪の天候にたたられ、一行は午前11時からのオーディションにぎりぎりで間に合います。そして、ロンドンのウェスト・ハムステッド区 (West Hampstead) ブロードハースト・ガーデンズ(Broadhurst Gardens) 165番にあるデッカ・レコード社で、ビートルズのオーディションは始まります。オーディションにぎりぎりで間に合ったビートルとその一行に待っていたものは、デッカの担当者マイク・スミスからの待ちぼうけで、徹夜の新年会で遅れて来たスミスは、ビートルズの持ち込んだアンプ類の使用を認めず、スタジオの機器を使い、待望の「オーディション」は始まります。スミスは
1961(昭和36)年12月31日(日)、大晦日の夜にハリキリ過ぎて遅れて来た上に、ビートルズの使ってるのは音が問題外だからデッカのアンプを使えと言ってきかず、ビートルズの神経を逆撫でてしまいます。ビートルズは、15曲(「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love Of The Loved」の3曲がレノン=マッカートニーの作品で、残り12曲はカバー曲)を演奏し、オーバー・ダビング無しの一発録りで、おおよそ1時間で全曲の録音を終了させます・・しかし、あえなく「落選」、ジョンは、この時の感想を率直に語っています、「これで終わりだなって、その時はほんとに思ったよ。ここまでだって」。ビートルズはオーディションが終わると、デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”に、「次のバンド『BRIAN POOLE AND THE TREMELOES(ブライアン・プール&ザ・トレメローズ)』の開始時刻を過ぎてしまった」とせかされスタジオの外へ出されます。緊張のためにビートルズの演奏は最高とは言えないまでも、メンバー4人とブライアン・エプスタインは、このセッションがデッカとの契約に結びつくことを確信しますが、ブライアン・プール&ザ・トレメローズが合格したことを知らされ、その後、1月27日付のリバプール・エコー誌に短い記事が載ります。
「デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”は、ビートルズはすごいバンドだと筆者に語った。30分以上に及ぶオーディションの模様をテープに録音しており、デッカのレーベルからぜひともデビューさせたいということである」と云う内容ですが、公式の理由としては「エプスタインさん、ギター・グループは消えゆく運命ですよ」と云うもので、この言葉は世間に広く知られ、ディック・ロウは後に「ビートルズを蹴落とした男」という悪名を背負うことになります。しかしジョージ・ハリソンの推薦を受け、ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) と契約するのも彼だと云うことです。
↓↓『Decca_studio』↓↓
ジョージは語ります、「雪が降る中、デッカのスタジオに言ったのを覚えれいる。ただ、入って行って、アンプをセットして、演奏しただけ。あの頃のロックンロールの曲は、実際には古い曲ばかりだった。40年代とか50年代とか、みんながロックにハマっていた頃のやつさ。やるものがない時はそう云うのをやってたんだ。ジョー・ブラウンが『シーク・オブ・アラビー』のロックンロールバージョンを出してたね。彼は土曜のテレビ番組『シックス/ファイブ・スペシャル』や『オー・ボーイ!』凄く人気があった。僕はそのジョー・ブラウンのレコードをやって、『シー・オブアラビー』を歌った。ポールは『セペテンバー・イン・ザ・レイン』を歌った。それぞれがやりたいこと曲を選んだんだよ。グループのメンバー全員が歌うって云うのは当時は珍しかった。あの頃は、クリフ&シャドウズって具合に、どのグループでもリードボーカルを前面に出してた。他のメンバーは全員スーツに揃いのタイとチーフで決まった動きをしているだけ。その前にボーカルが一人立って歌ってるんだ。オーディションは何時間か続いた。それが終わると僕らはホテルに帰った。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンがブライアン・エプスタインを語ります①、「ブライン・エプスタインはこう言った『なあ、本当にもっと大きな場所でやりたいなら、変わらなきゃだめだ。ステージでものを食べるのも、汚い言葉を使うのも、煙草も、止めろ!』ってね。彼は僕らのイメージをクリーンにしようと考えていたんじゃなく、恰好が間違っているって言ったんだ。『そのままじゃいいところには絶対出れない』って。僕らはステージの上でも下でも、いつだって好きな格好をしていたからね。『ジーンズはあまりスマートじゃない、きっちとしたスラックスを履かないか』って彼は言ってたけど、いきなりかしこまった格好をさせようとしたんじゃないよ。彼は僕らに、個性ってものを分からせようとしたんだ。僕らにすればブライアンはエキスパートだった。だってもともと店をやってただろ。店を持ってる人間ならみんな正しいはずだって思った。それに車にでかい家、それが全部父親のだろうと関係ない。こいつこそ理想の人間だって僕らは思ったのさ。『成功するか、ステージでチキンを食べ続けるか、どっちだ!?」と云う彼の考えを僕らは尊重した。チーズ・ロールやジャム・パンをかじるのもやめた。もっと自分たちのやってることを考え、遅刻しないようにして洒落た格好をするようになった。(書籍『Anthology』抜粋参照)』」。
ジョンがブライン・エプスタインを語ります②、「彼はあちこちに行ってニコニコし、新聞屋などにも気に入られた。みんな彼のことは認めていたよ。宣伝してもらうのはゲームになるのさ。僕らは地元の新聞社や音楽誌の事務所を回って、記事を書いてくれるように頼んだ。そうしなきゃダメなんだ。最高のステージをやるには当然のことだけどね。記者の前ではいい顔をしなきゃならなかった。たとえ相手がすごい傲慢な奴で、『恩を売ってるんだぞ!』って態度だとしてもね。僕らはそいつらに調子を合わせてやたよ。『取材をしてくれてありがとう!!』みたいな態度でね。そい云う点では見事に二重人格だったね。ブライアンはずっとリヴァプールとロンドンを往復してた。そしてある時ロンドンから戻ってくると、こう言ったんだ『オーディションだぞ!』って。僕らは大喜びだったよ。それはデッカのオーディションだった。彼は『マイク・スミス』とか云う奴と話をつけていて、僕らはそこへ行くことになった。それで色々曲をやったんだけど、不安と緊張でガチガチでね、それがしっかり演奏にも出てた。でも、最初は不安だったものの、そのうち気持ちも落ち着いて来た。『トゥー・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー』って云うフェイル・スペクターの曲と持ち歌をいくつかやった。キャバーンのステージをそのまま再現したようなもので、何曲か外したようなね。20曲くらいやったと思う。テープはデッカとバイの送ったけど、バイには行かなかった。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
★デッカA&R部のトップだったディック・ロウ (Dick Rowe) は後にこう語っています、「私はマイクに『どちらにするのか君が決めろ』と言った。ビートルズか、それともトレメローズか、それは彼次第だった。彼は『どちらもいいんです。ただ一方は地元のグループで、他方はリヴァプールからのグループです。』と言った。そして地元のクループを取った方が良いという結論になった。彼らはダグナム (Dagenham) から来ていたので、仕事がやりやすいし親密でいられると考えた。」。
★マイク・スミスは語ります、「経験豊富な彼が、どちらを良いと判断するか知りたかったが、彼は何も意見を言わなかった。ディックは私に『君が決めろ』と言った。あとになってディックは、ビートルズがシャドウズに似ていたので契約を交わさなかったと発言したが、まったくおかしな話だ……歌も聴いていないのに」。両者の見解と解釈や発言はかみ合っていません。そして
1962(昭和37)年02月初め、「オーディション不合格」の知らせがブライアンの元に届きます。理由は「シャドウズに似ている。ギターバンドは売れない」と云うもの。
★釈然としないブライアン・エプスタインはデッカ本社まで押しかけ、「デッカがリリースするビートルズのすべてのシングル盤に付き、僕が3,000枚の買い取りを保証する」と販売部に約束します。
★そのことを知らされていないディックは丁寧さを装いつつも高慢な態度でブライアンを突き返しこの発言を言い放ちます、「ビートルズは成功しませんよ。エプスタインさん。我々にはわかるんです。あなたはリバプールで立派なレコード店を経営していらっしゃる。なにがご不満なのですか」。ディック・ロウがブラインの発言を知らされていたなら、歴史はまったく違っていたかもしれません。
★冷静さを失ったブライアンは、ディックにこう言い返します、「この子たちは今に爆発的な成功を収めますよ。いずれエルビス・プレスリーより大物になると断言します」。
★後にディック・ロウは語っています、「あの時点では私はそのことを聞いていなかった。当時のレコード業界の常識を考えると、3,000枚の売上げが確実ということになれば、たとえそれが何者であっても、そのレコードを出さざるを得なかっただろう。」。ビートルズのロディ担当・ニール・アスピノールは語ります、「
1961(昭和36)年12月31日(日)の大晦日にロンドンに行くことになったんだ。デッカ・レコードのオーディションがあったからね。ミッドドランドのどこかで道を間違った。その大晦日が僕らのロンドン初体験だった。全員が一文無し。その上、雪が降って凄い寒いときてる。シャフツベリー・アベニューあたりに行ってみたんだ。買いたいものばかりで、目を見張ったね。角に靴屋のアネロ&ダビデがあって、洋服のセシル・ジーがあって、セント・ガイルス・サーカスでクラブに入った。退屈だからすぐに出ちゃったよ。女の格好をしている髭の生えたのがいたりしてさ。飢え死にしそうだったからレストランに入ったんだけど、僕らの持ってる金じゃスープしか頼めなかった。それで追い出されて、ソーホー行って何とかしのいだ。ロンドンはほんとエキサイティングで、全てが新しかったね。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
↓↓『Decca Audition Bootleg&Decca studio 3 - West Hampstead』↓↓
ジョージは語ります「僕らがロンドンで逢ったグループが、その後『ビートル・ブーツ』として知られるようになるブーツを履いててね。そう云うブーツを始めてみたのがその時だった。先が柔らかいんだよ。チャリング・クロス・ロードのアネロ&ダビデって云う店で作られてるものだった。デッカからいつまでたっても何も言ってこない。ブライアンは何度もせっついていたんだけどね。それでも結局は断られた。おかしなことに、断ってきたのがあの手の“ダン・ド・ダン”的なバンドをやっていたトニー・ミーハンでね。彼、その頃はデッカのディレクターとして成功してた。それでも有名な話がある。ブライアン・エプスタインが彼をつかまえて、僕らを気に入ったかどうかを聞き出そうとした。『僕らは契約できるのか?』って、すると帰ってきた言葉が、『ミスター・エプスタイン、私は忙しいんです』。奴はまだ若造だったんだぜ。何年も後で知ったんだけど、彼らがあの時採用したのは『ブライアン・トレメローズ』だった。デッカの社長のディック・ロウは鋭い予想をしていたんだだ。『ギター・バンドはもう終わりですよ、ミスター・エプスタインさん』だってさ。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンは語ります「リヴァプールに戻って待ち続けた。そしてようやく、通らなかったことが分かったんだ。『これで終わりだな』って、その時はほんとに思ったよ。『ここまでだ』って。『ブルージーすぎる』とか『ロックンロール色が強すぎる、ロックはもう過去の音楽だ』とか、いつもそう云うことを言われてた。ハンブルグでドイツの会社のオーディションを受けた時にも、『ロックやブルースはやめろ、他のものにしろ』って言われた。みんなロックは死んだと思っているんだよ。でも、間違ったのは彼らの方だよ(1977)。ポールは『今聴けばどうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。』って言うけど、テープを聴いてみて、僕ならこれで断りはしないだろうね。問題無いと思うな。後半なんて、あの時代にこれだけできれば文句ないさ。当時はああいう音楽をやっている人間はそんなに無かった(1972)。デッカはすっかり洗練されたグループを期待してたんだろうね。でも、僕らがやったのはただのデモ・テープだった。僕らの将来を見るべきだね(1967)。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ポールは語ります「ジョンとは少し意見が違うけど、今テープを聴けば、どうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。とはいえ、凄く面白くてオリジナリティがあるのも入ってた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
■「ビートルズ・デッカ・オーディション」とは、一般的に想像される生演奏を審査してのオーディションではなく、「権限のある」デッカ社内の人間に聞かせるためにサンプル・テープを録音するセッションの事で、内容は
1962(昭和36)年01月01日(月)に行われた、セミプロによる失敗のほとんどない優秀な演奏であり、この驚異的な録音は1962年の彼らの熱狂を唯一感じることのできるものです。デッカ・オーディション落選後、エプスタインは、デッカ社から譲り受けた録音テープを持ち、友人であるロンドンのオックスフォード通り (Oxford Street) のHMVレコード店の店長を訪ねます。彼は、もっと簡単に再生できる方法とオープンリールのテープからレコード盤を作ることをエプスタインに提案し、エプスタインが同意しすると、すぐにそのレコード店の上にあるスタジオとプレス工房にテープを持って行きます。その録音テープを聴いたその店のエンジニアであるジム・フォイは、とても感動したと云います。エプスタインが「その内の3曲はレノン=マッカートニーの自作だ」と伝えると、フォイは音楽出版のアードモア&ビーチウッド社 (EMIの子会社) のシド・コールマンにそのことを伝え、そしてコールマンはエプスタインに出版契約をオファーします。しかし、エプスタインの優先すべきはビートルズのレコード会社への契約で、そこでコールマンはエプスタインとパーロフォン・レコード (Parlophone Record) のA&Rのトップを会わせる手はずを調え、これによりブライアン・エプスタインとEMI傘下のパーロフォン・レコードのヘッドであるジョージ・マーティン (George Martin)との面談が実現します。ジョージ・マーティンは、
1962(昭和37)年05月09日(水)にブライアン・エプスタインと会談した際、ビートルズとレコーディング契約を結ぶことを承諾しますが、実際にサインするのは彼らを見聞してからだとエプスタインに告げます。デッカの録音を聴き、かなり興味を感じたマーティンが、アビー・ロードでのオーディションをエプスタインに申し入れることとなったわけです。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■
<1962(昭和37)年06月05日(火)>ロンドンのアビイ・ロードにあるE.M.I.・スタジオ (Abbey Road Studios) での翌日午後7時からのレコーディング・セッションの前日、ビートルズはEMIレコーディング契約成功させるために、交通渋滞や悪天候など、あらゆる可能性を排除するためリヴァプールからロンドンに向けて車で出発させ、その夜にはロンドン市内に到着宿泊します。
<1962(昭和37)年06月06日(水)>この日が、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日になります。アビイ・ロード第2スタジオで午後7時~10時に行われたこのレコーディング・セッションは、所謂オーディションのようなもので、オーディションのメンバーである、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ピート・ベストの4人は多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、本番の演奏を始め、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順に4曲、テープに収めます。但し、正確なテイク数は現在でも分かっていません。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■ノーマン・スミスは語ります、「ビートルズの印象はルックス以外はあまりよくなかった。つまりジョンとポールのソングライターとしての資質はまったく聴き取ることはできなかった。彼らはちっぽけなVOX社製のアンプとスピーカーを持ってたが、それらは楽器の源音を再生できていなかった。言うまでもなくすべての音響技師はあるレベルの源音を欲しがる。それさえあれば後でいくらでも改良したり効果を加えたりできるからね。しかし僕らがビートルズの装置から得たものは大量のノイズやハム、あと正体不明の音だけだった。ポールの装置は最悪だった。その頃は残響を付加するために残響室 (echo chamber) という部屋があったが、僕は彼の音をなんとかテープに収められるレベルにするのに、第2スタジオの残響室にあったアンプとスピーカーを引っぱり出さなければならなかった。また、ジョンのギターアンプが振動してカタカタ鳴るのを、僕らは実際にひもで縛って止めた。それからピート・ベストのドラムのシンバルにも確か問題があったと思う。でも最終的に何とかすべてを整頓し、やっとのことでレコーディング開始にこぎつけた。」。
写真◆左からリチャード・ランガム、ノーマン・スミス、ジョージ・マーティン
https://beatles-in-ashtray.jimdofree.com/1962-decca-audition/
┏━━━━━━━━━━━━┓
┃ 大人のMusic Calendar ┃
┗━━━━━━━━━━━━┛
56年前の本日、ビートルズがデッカ・レコードのオーディションを受けた。なぜ、元旦だったのか?
2018(平成30)年01月01日(月) 執筆者:藤本国彦 よりによって、元旦にレコード会社のオーディションが行なわれることになるなんて、リヴァプールの「片田舎」からロンドンの「都会」に向かうメンバーも気が気ではなかったのではないだろうか。
1962(昭和37)年01月01日(月)は、ビートルズがデッカのオーディション受けた日である。それにしても、なぜ元旦になったのか。こんな経緯である。
‡1961(昭和36)年12月13日(水)に、キャヴァーン・クラブの夜公演にデッカのマイク・スミスが訪れたのが、まずその第一歩だった。きっかけを作ったのは、「ディスカー」というペンネームで『リヴァプール・エコー』紙のレコード評や、デッカから発売されるレコードの解説文も手掛けていたトニー・バーロウである。その1ヵ月前の
1961(昭和36)年11月09日(木)に、同じくキャヴァーン・クラブでビートルズのステージを観て一目惚れしたエプスタインがビートルズに契約を申し出たのは
1961(昭和36)年12月06日(水)のことだったから、その1週間後にデッカ・オーディションのきっかけが生まれていたことになる。エプスタインは、『リヴァプール・エコー』紙のレコード欄でビートルズを取り上げてもらえないかと考え、トニーに連絡を取ってみると、デビュー前のバンドの記事は断られたものの、デッカの人間を紹介してもらうことになった。デッカ側も、エプスタインが経営しているNEMSにレコードを卸している関係もあり、無下に断ることもできず、A&R部門のまとめ役のディック・ロウは部下のマイク・スミスをリヴァプールに行かせることにしたのだった。キャヴァーンのステージを観たスミスは、すぐに契約を結びたいとは思わなかったものの、ロンドンのスタジオでオーディションを行なう価値はあると判断したという。「力強い演奏と地元ファンの熱狂ぶりに、私はためらいもなくオーディションをしようとに申し出た」(スミス)。こうして「舞台」は整い、ジョン、ポール、ジョージ、ピートの4人は、ローディーのニール・アスピノールが運転するヴァンでロンドンのウェスト・ハムステッドへと向かった(エプスタインは列車で移動)。だが、吹雪のための交通渋滞などで到着が遅れ、スタジオに着いたのは開始時間ぎりぎり(11時)だったという。
写真◆元デッカ・スタジオ
デッカのA&R担当マイク・スミスの気を惹くのはオリジナル曲ではなく、想像力豊かに、時にエキセントリックにアレンジされたスタンダード曲だ――そう頑なに信じていたエプスタインは、幅広い音楽性を持ったバンドとしての魅力を伝える15曲を選んだ。中にはジョンとポールのオリジナル曲も含まれており、ジョンの「ハロー・リトル・ガール」とポールの「ライク・ドリーマーズ・ドゥ」は、のちに『アンソロジー 1』に収められた(ポールの自作曲「ラヴ・オブ・ザ・ラヴド」は未収録)。「サーチン」や「セプテンバー・イン・ザ・レイン」などここでしか聴けない曲もあるが、ジョンもポールも声が上ずっていて、本調子とは程遠い仕上がりだ。むしろジョージの溌剌とした歌声が聴ける4曲(「スリー・クール・キャッツ」「クライング、ウェイティング、ホーピング」「アラビアの酋長」「さよならベイビー」)が白眉である。演奏に立ち会ったマイク・スミスの感触は良かったものの、数週間経ってもデッカからは何の知らせもない。そしてエプスタインは1ヵ月後の
1962(昭和37)年02月06日(火)にロンドンに向かい、デッカのディック・ロウとビーチャー・スティーヴンスから不合格の知らせを耳にする結果となった。ギター中心のバンドは流行らないし、クリフ・リチャード&ザ・シャドウズのようにヴォーカリスト1人を中心としたバンドがこれからの主流になるだろうという判断からである。一緒にオーディションを受けたブライアン・プール&ザ・トレメローズが、デッカの本社があるロンドンのバンドだということもビートルズには不利に働いたという。その場でエプスタインは「ビートルズはプレスリーを凌ぐ大物になると確信しています」と涙ながらに告げたという。また、その後に、契約したらビートルズのシングルはすべて3,000枚を買い取るという提案をデッカの販売部にしたという話も伝わっている。ただし、信頼に足るマーク・ルイソンの『ザ・ビートルズ史』によると、ビートルズはデッカに蹴られたのではなく、レコードを出してやるから金を払えというデッカの姿勢にエプスタインが頭にきて断ったそうだ。それが「事実」だとすると、レコード契約を焦っていたのに逆の行動に出たエプスタインの、「癇癪持ち」だと言われる性格を物語るエピソードのひとつと言えそうだ。ビートルズが世界的な人気グループになると、ディック・ロウは「ビートルズを蹴落とした男」として「名を上げた」が、その後ディック・ロウはジョージの推薦で(ロンドンの)ローリング・ストーンズと契約したのだから、これはもう「ロックの神様」による運命のいたずらとしか言いようがない。このオーディション時の音質の良いオープン・リールのテープを受け取ることができたエプスタインは、ロンドンのオックスフォード通りにあるHMVレコードに向かい、店長のボブ・ボーストの勧めでアセテート盤を制作。それが巡り巡ってEMI傘下のパーロフォン・レーベルのジョージ・マーティンの耳に入ることになる。ちなみに2017年10月にイギリスに行った際、リヴァプールの「ビートルズ・ストーリー」という博物館に入ってみたところ、そのアセテート盤が展示されているのを見て驚いた。収録曲はデッカ・オーディションからの2曲――“Hello Little Girl”と“Till There Was You”。前者が“John Lennon & The Beatles”、後者は(展示では見られなかったが)”Paul McCartney & The Beatles”とレーベルに記載されているので、クリフ・リチャード&ザ・シャドウズを意識したバンド名でエプスタインは次なるレコード会社に売り込もうとしていたことがわかる。
写真◆「ビートルズ・ストーリー」内展示 写真提供:藤本国彦
≪著者略歴≫藤本国彦(ふじもと・くにひこ):ビートルズ・ストーリー編集長。91年に(株)音楽出版社に入社し、『CDジャーナル』編集部に所属(2011年に退社)。主な編著は『ビートルズ213曲全ガイド 増補改訂新版』『GET BACK...NAKED』『ビートル・アローン』『ビートルズ語辞典』など。映画『ザ・ビートルズ~EIGHT DAYS A WEEK』の字幕監修(ピーター・ホンマ氏と共同)をはじめビートルズ関連作品の監修・編集・執筆も多数。
ザ・ロスト・デッカ・テープス ザ・ビートルズ
アンソロジー 1 ザ・ビートルズ
ザ・ビートルズ史 上 単行本 - 2016/12/1 マーク・ルイソン (著), 吉野 由樹 (翻訳), 山川 真理 (翻訳), 松田 ようこ (翻訳)
ザ・ビートルズ史 下 単行本 - 2016/12/1 マーク・ルイソン (著), 吉野 由樹 (翻訳), 山川 真理 (翻訳), 松田 ようこ (翻訳)
music-calendar.jp/2018010101
ジョン・レノンの“破損”サングラスに2000万円
2019(令和元)年12月16日(月) 10:11配信
2019(令和元)年12月16日(月) 15:44最終更新
ビートルズのメンバー、ジョン・レノンさんの“壊れたサングラス”が13日、ロンドンでオークションにかけられ、およそ2000万円で落札されました。右目のレンズがフレームから外れている壊れたサングラス。ビートルズのメンバーだったジョン・レノンさんが愛用していたものです。
‡2019(令和元)年12月13日(金)、ロンドンのオークションで13万7500ポンド=およそ2000万円で落札されました。このサングラスは1968年、レノンさんがメンバーのリンゴ・スターさんの車に置き忘れたものでした。車の運転手はレンズが外れたこのサングラスに気づき、レノンさんに修理するかと尋ねましたが、「気にしないで」と言われ、そのときのまま修理せずに保管していたということです。なお、落札者は明らかにされていません。(16日08:15)
https://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20191216-00000013-jnn-int
┏━━━━━━━━━━━━━┓
┃ THE BEATLES INTERVIEW ┃ DM's Beatles site
┗━━━━━━━━━━━━━┛by Dmitry Murashev
┌─――――――――――――――――――――――┐
|John Lennon Interview for『LOOK』Magazine |No.56
└─――――――――――――――――――――――┘
‡1966(昭和41)年12月13日(tue) December 13
In the fall of 1966, Look Magazine's European editor Leonard Gross and photographer Douglas Kirkland visited John Lennon on-location during the filming of 'How I Won The War.' The article, published in the magazine's December 13th issue, is Gross's firsthand account of events on the movie set. The article also contains extended excerpts of conversations with Lennon, which are highlighted in blue.
Article 1966 Look Magazine
Whoever would have dreamed that beneath that mop lurked a Renaissance man? Yet there, shorn, sits John Lennon, champion minstrel, literary Beatle, coarse truthsayer, who turned Christendom on with one wildly misunderstood gibe at cant. Now, face white, tunic red, playing wounded in a field of weeds, this pop-rock De Vinci is proposing to act for real. Relaxed to all appearances, he is all knots inside.
"I was just a bundle of nerves the first day. I couldn't hardly speak I was so nervous. My first speech was in a forest, on patrol. I was suppose to say, 'My heart's not in it any more' and it wasn't. I went home and said to myself, 'Either you're not going to be like that, or you're going to give up.'"
As he casts his weak brown eyes at the camera, the entire movie company jockeys for a glimpse. "I don't mind talking to the camera - it's people that throw me."
Sure enough, he blows his lines. He waggles his head in shame. "Sorry about that." But under the low-key coaxing of Director Dick Lester, Beatle John becomes Private Gripweed, a complex British orderly, in an unorthodox new film, How I Won The War.
Lennon on his own - rich for life at 26, yet poor still in what men of all seasons crave - full knowledge of himself. Beatling by itself, he has found, is not enough. "I feel I want to be them all - painter, writer, actor, singer, player, musician. I want to try them all, and I'm lucky enough to be able to. I want to see which one turns me on. This is for me, this film, because apart from wanting to do it because of what it stands for, I want to see what I'll be like when I've done it."
They stood silently in the deserted German square that Sunday morning, three young British actors costumed like the soldiers who had taken the town 22 years before. Then the one whose notorious locks had recently been chopped short observed, "I haven't seen so much fresh air together for about four years."
For John Lennon, the Beatles' leader, it had been one swift crazy ride to the top. But now, there were distortions, and he had recoiled. Grownups were twisting a Beatles' kids' song into an LSD trip - an ingenious lament that he and Beatle Paul McCartney had polished off one wild night was, current rumor had it, actually the synopsis of an opera so bitter it could not be sung. A passing remark about religious hypocrisy had made Lennon a devil or a saint, depending on your tastes. Others might enjoy them, but to Lennon, who is nothing if not honest, the distortions had become a threat.
"I don't want people taking things from me that aren't really me. They make you something that they want to make you, that isn't really you. They come and talk to find answers, but they're their answers, not us. We're not Beatles to each other, you know. It's a joke to us. If we're going out the door of the hotel, we say, 'Right! Beatle John! Beatle George now! Come on, let's go!' We don't put on a false front or anything. But we just know that leaving the door, we turn into Beatles because everybody looking at us sees the Beatles. We're not the Beatles at all. We're just us."
"But we made it, and we asked for it to an extent, and that's how it's going to be. That's why George is in India (studying the sitar,) and I'm here. Because we're a bit tired of going out the door, and the only way to soften the blow is just to spread it a bit."
In that kind of mood, a Dick Lester set was just the therapy for Lennon. Each man is the kind who makes the New Theologians jump. To them, the individual is more thrill than threat - a unique being who should be taken for what he is. Lester, who directed both Beatle films, gratefully recalls his first meeting with the group, when the movies were just an idea. "They allowed me to be what I damn well pleased. I didn't have to put on an act for them, and they didn't put one on for me."
This is what a Lester set is like: Once more, they are in a deserted German square, now, with all the paraphernalia of movie-making, with British 'soldiers,' Lennon among them, ready to comb the streets, with German 'soldiers' lying in wait. "Quiet please!" an assistant shouts - just as a little boy walks into the scene. Apoplectic, the assistant rushes forward and shoves the child aside. Lester, whose normal weapon is humor, flushes. "Don't push!" he commands.
Once again, they are ready to shoot - and once again, the child intrudes. For 15 seconds, Lester eyes the man silently. Then, "Boo," he calls, and "Boo" the cast joins in.
For Lester, a director makes no statement against violence by having thousands die. To him, each death must matter - and in his new film, each does. Such were the ideas that captured Lennon, despite his doubts about himself.
He did not doubt alone. How I Won The War is staffed with seasoned British actors, all trained in repertory, all well-known at home and all suspicious. But none is today.
Samples:
"We expected someone a bit kinky, bitchy, arrogant. He is none of those things. He's completely natural."
"You're not working with another actor, you're working with an OBE, a multimillionaire - in sterling, not dollars - whose every word will be reported in the world press. The miracle is that he's so normal. I could wrap him up dialectically in two minutes, intellectually, in three. But he's got a certain inborn, prenatal talent. I have my talent, which I think is considerable, but it doesn't compare in his field."
"I don't think he does anything with a conscious thought of trying to impress. He's remarkably free. He does not act the part."
"We talk about him all the time. All of us feel the same thing. We find it difficult to be as normal with him as he is with us."
Lennon's lack of pretense astonished the actors. "He's someone who just tries anything," one of them marveled. "No stand-in, no special treatment, no chair for him."
During a break for tea one raw morning, Lennon queued with the rest. When his turn arrived, his heart's desire was gone. "You don't have to be a star to get a cheese sandwich," he mused. "You just have to be first."
They like his humor too. That same morning, a German mother pushed her three-year-old son up to the Beatle, clutching his autograph book in his hand. "Sign it!" she demanded. Lennon did as bidden, telling the boy, "Yes, sir, you put us where we are today." On location in Spain one afternoon, the script required Lennon to drive a troop carrier along the beach. Accelerating too fast, he spun the wheels; the rear of the carrier sank. As his crestfallen director approached the cab, Lennon peered sheepishly over his glasses and gave him a limp salute.
Lennon is not on; he is simply original. "America used to be the big youth place in everybody's imagination. America had teenagers and everywhere else just had people." He recognizes his own impact on the changes since then, but he refuses to concede that youth today is all that different - particularly youth in England.
The last generation might have been just like today's young adults, he maintains, had it not had to fight the war.
"If they said, 'Fight the war now,' my age group would fight the war. Not that they'd want to. There might be a bit more trouble gettin' them in line - because I'd be up there shouting, 'Don't do it!'"
"It just so happens that some groups playing in England are making people talk about England, but nothing else is going on. Pop music gets through to all people all over the world, that's the main thing. In that respect, youth might be together a bit. The Commie youth might be the same as us, and we all know that, basically, they probably are. This kind of music and all the scene is helping. But there's more talk about it than is actually happening. You know, swinging this, and all that. Everybody can go around in England with long hair a bit, and boys can wear flowered trousers and flowered shirts and things like that, but there's still the same old nonsense going on. It's just that we're all dressed up a bit different."
"The class thing is just as snobby as it ever was. People like us can break through a little - but only a little. Once, we went into this restaurant and nearly got thrown out for looking like we looked until they saw who it was. 'What do you want? What do you want?' the headwaiter said, 'We've come to bloody eat, that's what we want,' we said. The owner spotted us and said, 'Ah, a table sir, over here, sir.' It just took me back to when I was 19, and I couldn't get anywhere without being stared at or remarked about. It's only since I've been a Beatle that people have said, 'Oh, wonderful, come in, come in,' and I've forgotten a bit about what they're really thinking. They see the shining star, but when there's no glow about you, they only see the clothes and the haircut again."
"We weren't as open and as truthful when we didn't have the power to be. We had to take it easy. We had to shorten our hair to leave Liverpool and get jobs in London. We had to wear suits to get on TV. We had to compromise. We had to get hooked, as well, to get in and then sort of get a bit of power and say, 'This is what we're like.' We had to falsify a bit, even if we didn't realize it at the time."
If Lennon is compulsive about anything today, it's about truth as he sees it. But he protests when he's labeled a cynic.
"I'm not a cynic. They're getting my character out of some of things I write or say. They can't do that. I hate tags. I'm slightly cynical, but I'm not a cynic. One can be wry one day and cynical the next and ironic the next. I'm a cynic about most things that are taken for granted. I'm cynical about society, politics, newspapers, government. But I'm not cynical about life, love, goodness, death. That's why I really don't want to be labeled a cynic."
It is in the context of the young man who recoils at distortion that his now-famous remark should be viewed. "I said it. I said we were more popular than Jesus, which is a fact." What he could not explain then was why.
He does not feel that one need accept the divinity of Jesus - he, personally, does not - in order to profit from his words. A frequent reader of ancient history as well as philosophy (his current lists includes a book on Indian thought and Nikos Kazantzakis's 'Report Greco'), he contends that man has mishandled Christ's words throughout the centuries.
"I believe Jesus was right, Buddha was right, and all of those people like that are right. They're all saying the same thing - and I believe it. I believe what Jesus actually said - the basic things he laid down about love and goodness - and not what people say he said."
Christianity has suffered, he believes, not only because Christians have distorted Christ's words but because they concern themselves with structures and numbers and fail to listen to their vows. They 'mutter' and 'hum' their prayers, but pay no attention to the words. "They don't seem to be able to be concerned without having all the scene about, with statues and buildings and things."
"If Jesus being more popular means... more control, I don't want that. I'd sooner they'd all follow us even if it's just to dance and sing for the rest of their lives. If they took more interest in what Jesus - or any of them - said, if they did that, we'd all be there with them."
Would he call himself a religious person? "I wouldn't really. I am in the respect that I believe in goodness and all those things." and if being religious meant being 'concerned,' as Paul Tillich the late Protestant theologian, once put it? "Well, I am then. I'm concerned alright. I'm concerned with people."
At the age when most men are just beginning to adjust to the world, John Lennon has already nudged it a bit. The hysteria that surrounds him can no longer disguise the presence of a mind. His ideas are still rough, but his instincts are good and his talent, extraordinary. You may love him, you may loath him, but this you should know: As performer, composer, writer or talker, he'll be around for a long, long time.
Source: Original magazine issue
******************************************************
http://www.dmbeatles.com/interviews.php?interview=56
******************************************************