ビートルズ「最後のライブ」はなぜ屋上だったのか 『ジョン・レノン 最後の3日間』Chapter37
2022(令和四)年01月02日(日) 21:00 ジェイムズ・パタースン
写真◆Martin Wahlborg/iStock(c)東洋経済オンライン
エミー賞9度受賞のほか、エドガー賞、米国人文科学勲章、アメリカ文学界奉仕功労賞を受賞している米国でも有数のストーリーテラーの名手ジェイムズ・パタースン。その著者が、ポール・マッカートニーをはじめとする関係者への独占インタビューを盛り込み、ビートルズ結成60周年、解散50周年、ジョン・レノン射殺から40年の節目であった2020年12月、満を持して上梓したのが、ニューヨークタイムズベストセラーにもなった『The Last Days of John Lennon』でした。今回はその翻訳書『ジョン・レノン 最後の3日間』の中から、Chapter32・35・37・39から抜粋し、東洋経済オンライン限定の試し読みとして4日連続・計4回に分けてお届けします。
■一緒にいようよ――「レッツ・ステイ・トゥギャザー〈Let’s Stay Together〉」■ ビートルズは、『ハード・デイズ・ナイト』や『ヘルプ!』の撮影にも使われたトゥイッケナムのスタジオに戻った。英国での10枚目のアルバムとなる『レット・イット・ビー(Let It Be)』(当初タイトルは『ゲット・バック(Get Back)』になるはずだった)の制作過程を追った映画を作ることになったのだ。撮影監督には、『ローリング・ストーンズのロックンロール・サーカス(The Rolling Stones Rock and Roll Circus)』(この作品は結局お蔵入りとなり、1996年まで公開されなかった)の監督を務めたマイケル・リンゼイ=ホッグが選ばれた。この企画についてバリー・マイルズは、「あれもまた、ポールのアイディアだった」と説明している。タイトル・ソングの「レット・イット・ビー」は、10年前、1957年に亡くなった母マリーが、ポールの夢に出てきたことに着想を得て書かれた曲だった。
「僕たちは、またツアーに出るべきだと思うんだ」1968年のクリスマス前、ポールが言った。
「小さなバンドが、旅をしてクラブやなんかで演奏する。初心に戻って、そういう僕たち本来の在り方を思い出そうよ」ポールの言葉の背後には、ビートルズが初めて直面しつつある新たな問題があった。金銭的なプレッシャーだ。というのも、その年の10月、ビートルズは、財務状況の窮状を訴える専属会計士からの手紙を受け取っていた。そこには、1万ポンドの支出につき12万ポンドの収入がないと、莫大な額の税金を支払うことができないと記されていた。このころまでに、アップル社の経営は、深刻な悪循環に陥っていたのだった。
「もう、これで終わりだ」映画『レット・イット・ビー』のラストを飾るコンサートについて、リンゼイ=ホッグは、あるアイディアを膨らませていた。サハラ砂漠か、あるいは大型客船を舞台として、さまざまな文化の人々がともに集い、世界平和を祈るという、壮大な案だ。
「ビートルズが、日の出とともに演奏を始めるんだ」リンゼイ=ホッグは4人に説明した。
「そこに、1日かけて方々から人々が集まってくる、っていうのはどうだろう」
「ローマの円形劇場のレプリカを作って、そこに僕たちがライオンを何頭か率いて現われるっていうのはどうかな」と、ポールが提案した。
「リバプールに戻ろうよ」とリンゴが割って入る。
「キャバーン・クラブ〔ビートルズが初めてギグをした場所〕にさ」ジョンの案は、こうだった。
「僕は、アシュラム〔以前ビートルズが瞑想訓練で数カ月滞在したインドの僧院〕でやったらどうかと考えているんだけど」なんといっても、世界一のバンド、ビートルズの映画だ。見たこともないような、大胆なエンディングが必要だった。一方、ジョージにも考えがあった。
「もう、これで終わりだ」カメラが回る中、ピリピリしたムードで続けられていたリハーサルの7日目の昼食中、ふいにジョージが言った。
「クラブで会おう」ジョージはそのままスタジオから出ていき、14歳で加入したバンドを去ったのだった。ジョンは、これを聞いても落ち着いていた。
「月曜か火曜になってもジョージが戻らなかったら、エリック・クラプトンにギターを弾いてもらえばいいさ」とジョンは言い放った。それは、それほど突飛な案というわけでもなかった。9月の初め、『ホワイト・アルバム』の収録中に、ジョージはクラプトンを招いて「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス(While My Guitar Gently Weeps)」を録音していたのだ。
「考えなきゃいけないのは、もしジョージが辞めたとして、それでもビートルズを続けたいのかってことだ。僕は、続けたい。だれかほかのメンバーを入れて、前に進むだけだ」と、ジョンは皆に告げた。
■「屋上でやったら素晴らしいんじゃないだろうか」■ジョージは
1969(昭和44)年01月10日(金)にビートルズを脱退し、
1969(昭和44)年01月15日(水)に戻ってきた。だが復帰後も、ツアーを再開するという案にジョージは断固として反対した。
1969(昭和44)年01月29日(水)になっても、コンサートシーンの撮影場所は決まらないままだった。そしてついに、あるアイディアが降ってきた。ジョンはリンゴに意味ありげな顔をしてみせ、こう言った。
「屋上(ルーフトップ)でやったら素晴らしいんじゃないだろうか。ウェスト・エンド中に向けて演奏するんだ」ジョンはリンゼイ=ホッグに向かっていたずらっぽく微笑んだ。ロンドン市民を驚かせたゲリラ・ライブ計画は、こうして始まった。翌
1969(昭和44)年01月30日(木)の午後1時、アップルの幹部たちは、サヴィル・ロー3番地の本社ビルの屋上に集まるようにという緊急通知を受け取った。現地ではすでに、仮設ステージを組み立てる大道具スタッフや、ケーブルの束を抱えたエンジニアたちがあたりを走り回っていた。ジョンたちは頭を寄せ合って、曲目をもう一度確認した。4人揃って人前で演奏するのは、じつに4年ぶりだ。ジョンは、緊張でおかしくなりそうだった。だがそれはポールたちも同じことだった。ジョンは、彼らの目にも緊張がありありと現われているのを見て取った。
「ステージに出たくない」と、ジョージがごね始める。「だいたい、なんのためにこんなことするんだ?」と、リンゴもぼやいた。こんなとき、ゴーサインを出すのは、やはりジョンの役目だった。
■オープニング・ナンバー「ゲット・バック」■ヨーコの毛皮のコートを羽織り、眼鏡を直すと、ジョンは楽屋から屋上へと続く階段を登り始めた。その日はテムズ川から強風が吹いていて、ヘリコプターからの空中撮影はできそうになかった。こうなると、メンバーのクローズアップのショットと、通りに集まる人々のショットをうまく?いでいくしかない。ジョンの手は、ギターの弦を押さえられないほど冷え切っていた。彼は用意されたギターをどうにか手に取り、ビリー・プレストンの見慣れた顔を見やった。ビリーは、1962年にビートルズがリトル・リチャードのバック・バンドとしてツアーをしたときに出会ったアメリカ人のR&Bキーボーディストで、電子ピアノでこのセッションに参加していた。ケン・マンスフィールドは、4本のタバコに火をつけた。吸うためではなく、ジョージの指先を温めるためだ。オープニング・ナンバーの演奏が始まった。「ゲット・バック」だ。通りすがりの人々がビルの前で歩みを止め、次々に上を見上げて、空を指し始める。
「その通り」とジョンは言ってやりたかった。ビートルズのフリー・コンサートだ。1966年のキャンドルスティック以来、初めてのライブが、たったいま、きみたちの頭上で始まったのさ。この様子を文字通り通行人の頭上から捉えていたのが、アメリカ人カメラマンのイーサン・ラッセルだった。ジョンから依頼を受けたラッセルは、屋上から隣のビルの壁によじ登るという危険を冒して、演奏するビートルズの姿を頭上から撮影することに成功した。ロンドンの街を背景にしたジョンとポール、ジョージ、リンゴ――世界で最も有名なロックローラーたち――の姿は、周りを取り囲むほかのすべての人々と同様に、小さく見えた。
「彼らも、普通の人間なんだ」シャッターを切るラッセルの心を、そんな思いがよぎった。
■ビートルズ、伝説のラストライブ■ビートルズはこの日、42分間にわたって5曲を披露した。
「ゲット・バック」は3バージョン、「ドント・レット・ミー・ダウン(Don?t Let Me Down)」と「アイヴ・ガット・ア・フィーリング(I?ve Got a Feeling)」は2回ずつ演奏したので、テイクは9回分だった。ロンドン警視庁からやってきた警官たちは、アップル本社のビルを取り囲み、スタッフにこう言い渡した。
「10分間やる」とはいえ巡査たちとて、もちろんビートルズのファンだ。約束の10分が過ぎても、すぐに演奏を止めることはしなかった。そしてついに、警察がビル内部に立ち入り、屋上に向かった。スタッフたちは念のため、大急ぎでトイレに駆け込んでドラッグを流した。警察が屋上に辿り着いたところで、コンサートは終了した。ジョンは、マイクに向かって語りかけた。
「バンドを代表して、お礼を言いたいと思います。オーディションに合格できたならいいんだけど」ポールとジョージ、リンゴは、これを聞いて微笑んだ。4人の胸にある想いは、同じだった。僕たちはいまでも、世界最高のロックンロール・バンドだ。このルーフトップ・コンサートがビートルズとして最後のライブになるかもしれない予感はあったか、と2019年のインタビューで聞かれたポールは、こう答えている。
「いいや、そんなふうには感じなかったよ。ほかのメンバーも同じじゃないかな。ただたんに、たくさんの曲を書いてリハーサルをした成果として、あそこで演奏しただけだった」だが終わりというものは、必ず訪れる。予感のあるなしにかかわらず。
◎最後の「Get back」の演奏中にアンプのプラグを抜かれてしまったときのジョンの苛立ち。ポールとリンゴだけで何事もなかったかのように演奏を続けた。その後、ジョージがプラグを差し込んだ。ギター演奏を再開した時のジョンのドヤ顔。そして、演奏後の例のジョーク。最高のドラマだった。何回でも観たい。ビートルズは、最後の最後まで奇跡だった。
◎結果的にセッションが失敗したのは、ポールの拙速さが原因だと思う。ライブショー開催や、その場所をどこにするのかすらメンバー全員の同意がないままにトゥイッケンナムスタジオに集まっちゃてる。これは致命的。事前にしっかり話し合っていれば、なんら問題はないようなものだけど意思疎通が出来ない状態になってたのではないかな。あとジョージは、クラプトンの演奏力を称賛しているシーンがあったけど、当時台頭してきたクリーム フー 、ザバンド等の演奏力に驚異を感じていたんじゃないかな?ジョージのギタープレイは、それ以前とはだいぶ変わってきているしね。
◎The whoのピートタウンゼントはアルバムを制作するにあたって スタジオでの「このだらけたグダグダな時間」がどうにも嫌で 自宅のスタジオで一人多重録音によるデモテープを必ず制作しメンバーに渡していた 効率性は仕事のカテゴリーで重要なポイントだ 正に「ゲットバック」を見て痛感する 化学反応を狙うにしても程がある 作品としては「よくぞ丹念に再編集してくれた」と賛辞を惜しまないが……
◎そうなんですね。布袋さんのboowy時代のインタビューで、「俺ピート・タウンゼントに近いかもしれない」って言ってた意味が分かりました。
◎集まってセッションしながら曲仕上げようとすると絶対ダレる。意見や方向性も交錯して煮詰まったり、しまいには収拾つかなくなったりする。よくなんとか最終的にまとめたよ。演奏力も抜群ですね。ポールがピアノ弾いてた時にベースが聴こえた気がしたが。ギターをオクターブ下げるイフェクターでも使ってたのか。ジョンのギターを弾く手がベースをやっているようにも見える場面があったような気がした。あのマイクはあの当時としては随分洗練されたデザインだなあ、なんて思いながら見てた。ケーブルが無くて細いポールの先にマイクが付いているだけ、ってやつ。
◎余り知られていないが・・・・前年の
1968(昭和43)年12月07日(土)にジェファーソン・エアプレインがニューヨーク・マンハッタンのビルの屋上でライブをおこなっていたんだよな。逮捕されるのを危惧して1曲だけだったそうだが・・・・。最終的に「警官に羽交い締めにされて逮捕され、そのシーンを映画のラストに使いたかった…」とリンゴ・スターが語っている---。勿論ビートルズの方が迫力が有り中身も濃かったけどね。◎ルーフトップコンサートは昔見た事があります。近くのビルのお爺さん(オーナーか?)がパイプを咥えながらビルに設置されている梯子階段をゆっくり登ってコンサートを眺めているシーンが印象的でした。「おやおや、何が始まったんだい?」とばかりに。かなりの大音量だったと推測出来ますね。町中大騒ぎだった事でしょう。
◎「私たちがオーディションに合格できるといいのですが」これは7年前の
‡1962(昭和37)年1月1日(月)にビートルズがデッカのオーディションを受けて落ちたことをジョンが根にもっていて発言したんだろうね。ビートルズをオーディションで落として一躍有名になったデッカレコードのA&R(アーティスト・アンド・レパートリー)部門の部長ディック・ロウはそれに凝りて
1963(昭和38)年5月6日(月)、当時全く無名だったローリングストーンズとレコーディング契約をする。
◎その頃はクリームやジミヘンが台頭し、圧巻のライブ・パフォーマンスを繰り広げていた。ザ・フーも全盛期を迎え数々のライブで評判を得ていた。ビートルズのメンバーも当時のシーンには敏感でジョンはブルース・ロックに傾倒し、ジョージはクラプトンと交遊を温めていた。ビートルズは、このままレコーディングするだけのバンドとして存続するのが最善なのかメンバーは苦悩していたと思う。ライバルのストーンズも休止していたライブツアーの再開を迫られ、過度の薬物中毒に陥っていたブライアンを解雇し、新進気鋭のM・テイラーを迎え第二期黄金時代を幕開ける。
◎「Get Back」で分かるのは、撮影時にはメンバーが予定していたことをやらずに引き延ばしたり、やる気を失っていることだった。だれけた状態で撮影した映画などいい出来になるわけがない。いい出来の映画であれば、すぐにでも公開、上映されたはず。しかしそうではないので、50年後になって公開されたのではないかと思う。ファンとしては見る価値があるし、見てよかったと思う。解散直前のメンバーの状況を知ることが出来たのは、ファンとしては嬉しいこと。また、見なければ後悔するであろうことは間違いない。しかし、数年後にまた見てみたいと思うような映画ではないというのが正直な感想。年末に公開された『マッカートニー 3,2,1』の方がずっと良かった。
◎あの4人の状況で素晴らしいパフォーマンス、下積み時代からのライブバンド魂が伝わりました。あんなふうに演奏してみたい 20代
https://news.yahoo.co.jp/articles/04647693078b0abe0ca22168672b11b3bcaeddab
『僕はビートルズ』が大好き THE BEATLES
デッカ・レコードを受けるものの、「いらない」と落とされ(T▽T)、やっとこさEMIの中でもい~っちばんマイナーなレーベル(;;) と契約したビートルズは、デビューシングルの録音時に「ドラムがヘタクソだからセッション・ドラマーと交替!」な~んてリンゴをはずされちゃったり(j_j)、プロデューサーが用意した曲を歌うのを嫌い、オリジナルで勝負させてもらったセカンド・シングルは歌詞を間違えたまま発売しちゃったり(T▽T)、ファースト・アルバムは「1日しかスタジオ使えないからねっ!」ってんで全曲を1日で録っちゃう憂き目に遭ったり…(==;)それでもあれよあれよと云う間に人気が出たビートルズは、「この勢いでテキトーに映画を作っちゃえ!」ってな具合に、ファンに追っかけまくられるアイドル映画を撮ったものの、あまりの忙しさに「ヘルプ~!」と叫べば、それまで映画にされちゃって(;¬ _¬) 、しかもそれらは図らずも名作に(-_-;)王室主催のショーでは「安い席の方は拍手を、そのほかの方は宝石をジャラジャラ鳴らしてくださ~い」ってなジョークがウケた(^▽^)のをいいことに、余所で「僕らはいまやキリストより有名だ!(`◇´)」な~んて口をすべらせ、教信者にレコードを燃やされて(T_T)ギターのフィード・バックが面白きゃ、すぐさまシングルのイントロに入れちゃったり(^▽^)、ロック・バンドのくせに弦楽四重奏をバックにバラードを歌ったり(^▽^)、インドのヘンテコな楽器を持ち込んだり(^▽^)… と、自由に何でも許されるレコーディングがと~っても楽しくなっちゃったビートルズは、「あー、もうライヴはやめやめ!」と宣言。長ったらしい名前の架空のバンドを想定して“芸術”と呼ばれるようなアルバムを作ったかと思えば( ̄^ ̄)、世界初の宇宙中継TV番組に出演し、ガムを噛むことの大切さと、“愛”のメッセージを全世界へ伝えたりもした(^▽^)モーホーだったマネージャーの死後、誰も止めるヤツがいないのをいいことに、ファンも辛くなるようなワケのわからないバス旅行の映画を作って酷評され(T▽T)、真っ白なジャケットのタイトルもない2枚組のアルバムのレコーディング時には、ジョンは東洋の魔女を、ジョージは髭のギタリストを連れて来ちゃって、4人てんでバラバラな纏まりのなさをアピール(Θ.Θ)「昔を思い出して、仲良くレコーディングしようじゃないか!」ってポールの呼びかけの許、ご丁寧にもレコーディング風景を撮影したドキュメンタリー映画では、険悪・最悪の醜態をさらけ出し(--|||、挙げ句、いきなりスタジオの屋上でぶっぱなしたライヴ・パフォーマンスじゃ、駆け付けたお巡りさんにおこられちゃうし f^_^; かと思えば『エベレスト』なんてセンスのないタイトル先行(すぐに却下)のアルバム制作に入り、スタジオ前の横断歩道でジャケット撮影をしたら、裸足で目をつぶっていたってだけで「ポールは死んだ!」とマコトシヤカな噂が流され ┓(´_`)┏ 「やめるぞ、やめるぞ!」と云い続けてきたジョンは、「やめま~す」とポールに先に脱退宣言をされて拗ねちゃうし(`ε´( や~っぱりビートルズはいいわ。たった7年の間に、ジョンは同一人物とは思えないくらい風貌が変化してるし(゚-゚;
http://www.begets.co.jp/doda/archive/021.html
ビートルズ ハンブルグでのライブ
2007(平成19)年02月10日
1962(昭和37)年12月31日録音のテープ
1962(昭和37)年10月にはデビューシングル「ラブ・ミー・ドゥー」がすでに発売され、「プリーズ・プリーズ・ミー」も録音完了している時期なのになぜ?~どうもハンブルグでClubとの契約が残っていて、その履行のライブがこの日だったようですね。メンバーもジョン、ポール、ジョージ、リンゴの公式メンバーがそろっての、非公式録音の最初で最後のものだと思います。音質はひどいもの(家庭用テープデッキにマイク1本で収録したもの)ですが、雰囲気、“ビートルズのルーツ”が嗅ぎ取れる貴重な録音だと思います。I’m Gonna Sit Right Down And Cry Over You ~ I Remember You全30曲、音源は‘77リリースの独ベラフォンのレコードからです。アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア、ロール・オーバー・ベートーベン、ツイスト・アンド・シャウト、ミスター・ムーンライト・・・等後に大ヒットする曲もたくさん含まれています。興味深く聴きなおし、編集をしております。このテープ第一話には2時間たっぷり、解説を交えてビートルズデビュー前の非公式録音の現存するすべてが収録してあります。ビートルズ コレクション軽音楽をあなたに
①The Beatles with Tony Sheridan
1961(昭和36)年06月
1962(昭和37)年04月 全8曲 録音
②The Decca Audition
‡1962(昭和37)年01月01日 全15曲 録音
③The Star Club Tapes
1962(昭和37)年12月31日 全30曲 録音
③の一部が収録されたCDがありました、紹介しておきます。
http://analogshinn.seesaa.net/article/391649985.html
┏━━━━━━━━━━━━━━┓
┃デッカのオーディション落選と┃
┃ そのテープがもたらしたもの ┃
┗━━━━━━━━━━━━━━┛ビートルズ物語 1962年
1961(昭和36)年12月13日(水)、このオーディションは、マイク・スミス (Mike Smith) が、デッカ・レコード会社のA&R(アーティストの発掘・契約・育成とそのアーティストに合った楽曲の発掘・契約・制作を担当する職務)の代表としてキャバーン・クラブを訪れ、ビートルズの演奏を見た結果を受けて開催されたもので、その夜の彼らのパフォーマンスは、すぐにレコード契約を保証できるほどのものではありませんが、スミスは意欲的で、デッカのスタジオで改めてオーディションすることを彼らに提案したものです。
‡1962(昭和37)年01月01日(月)、ジョン・レノン (John Lennon)、ポール・マッカートニー (Paul McCartney)、ジョージ・ハリソン (George Harrison)、ピート・ベスト (Pete Best) の4人は、ローディーのニール・アスピノール(Neil Aspinall) が運転するヴァンでリヴァプールから移動しますが(ブライアン・エプスタイン は列車移動)、吹雪の天候にたたられ、一行は午前11時からのオーディションにぎりぎりで間に合います。そして、ロンドンのウェスト・ハムステッド区 (West Hampstead) ブロードハースト・ガーデンズ(Broadhurst Gardens) 165番にあるデッカ・レコード社で、ビートルズのオーディションは始まります。オーディションにぎりぎりで間に合ったビートルとその一行に待っていたものは、デッカの担当者マイク・スミスからの待ちぼうけで、徹夜の新年会で遅れて来たスミスは、ビートルズの持ち込んだアンプ類の使用を認めず、スタジオの機器を使い、待望の「オーディション」は始まります。スミスは
1961(昭和36)年12月31日(日)、大晦日の夜にハリキリ過ぎて遅れて来た上に、ビートルズの使ってるのは音が問題外だからデッカのアンプを使えと言ってきかず、ビートルズの神経を逆撫でてしまいます。ビートルズは、15曲(「Like Dreamers Do」「Hello Little Girl」「Love Of The Loved」の3曲がレノン=マッカートニーの作品で、残り12曲はカバー曲)を演奏し、オーバー・ダビング無しの一発録りで、おおよそ1時間で全曲の録音を終了させます・・しかし、あえなく「落選」、ジョンは、この時の感想を率直に語っています、「これで終わりだなって、その時はほんとに思ったよ。ここまでだって」。ビートルズはオーディションが終わると、デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”に、「次のバンド『BRIAN POOLE AND THE TREMELOES(ブライアン・プール&ザ・トレメローズ)』の開始時刻を過ぎてしまった」とせかされスタジオの外へ出されます。緊張のためにビートルズの演奏は最高とは言えないまでも、メンバー4人とブライアン・エプスタインは、このセッションがデッカとの契約に結びつくことを確信しますが、ブライアン・プール&ザ・トレメローズが合格したことを知らされ、その後、1月27日付のリバプール・エコー誌に短い記事が載ります。
「デッカのプロデューサーである“マイク・スミス”は、ビートルズはすごいバンドだと筆者に語った。30分以上に及ぶオーディションの模様をテープに録音しており、デッカのレーベルからぜひともデビューさせたいということである」と云う内容ですが、公式の理由としては「エプスタインさん、ギター・グループは消えゆく運命ですよ」と云うもので、この言葉は世間に広く知られ、ディック・ロウは後に「ビートルズを蹴落とした男」という悪名を背負うことになります。しかしジョージ・ハリソンの推薦を受け、ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) と契約するのも彼だと云うことです。
↓↓『Decca_studio』↓↓
ジョージは語ります、「雪が降る中、デッカのスタジオに言ったのを覚えれいる。ただ、入って行って、アンプをセットして、演奏しただけ。あの頃のロックンロールの曲は、実際には古い曲ばかりだった。40年代とか50年代とか、みんながロックにハマっていた頃のやつさ。やるものがない時はそう云うのをやってたんだ。ジョー・ブラウンが『シーク・オブ・アラビー』のロックンロールバージョンを出してたね。彼は土曜のテレビ番組『シックス/ファイブ・スペシャル』や『オー・ボーイ!』凄く人気があった。僕はそのジョー・ブラウンのレコードをやって、『シー・オブアラビー』を歌った。ポールは『セペテンバー・イン・ザ・レイン』を歌った。それぞれがやりたいこと曲を選んだんだよ。グループのメンバー全員が歌うって云うのは当時は珍しかった。あの頃は、クリフ&シャドウズって具合に、どのグループでもリードボーカルを前面に出してた。他のメンバーは全員スーツに揃いのタイとチーフで決まった動きをしているだけ。その前にボーカルが一人立って歌ってるんだ。オーディションは何時間か続いた。それが終わると僕らはホテルに帰った。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンがブライアン・エプスタインを語ります①、「ブライン・エプスタインはこう言った『なあ、本当にもっと大きな場所でやりたいなら、変わらなきゃだめだ。ステージでものを食べるのも、汚い言葉を使うのも、煙草も、止めろ!』ってね。彼は僕らのイメージをクリーンにしようと考えていたんじゃなく、恰好が間違っているって言ったんだ。『そのままじゃいいところには絶対出れない』って。僕らはステージの上でも下でも、いつだって好きな格好をしていたからね。『ジーンズはあまりスマートじゃない、きっちとしたスラックスを履かないか』って彼は言ってたけど、いきなりかしこまった格好をさせようとしたんじゃないよ。彼は僕らに、個性ってものを分からせようとしたんだ。僕らにすればブライアンはエキスパートだった。だってもともと店をやってただろ。店を持ってる人間ならみんな正しいはずだって思った。それに車にでかい家、それが全部父親のだろうと関係ない。こいつこそ理想の人間だって僕らは思ったのさ。『成功するか、ステージでチキンを食べ続けるか、どっちだ!?」と云う彼の考えを僕らは尊重した。チーズ・ロールやジャム・パンをかじるのもやめた。もっと自分たちのやってることを考え、遅刻しないようにして洒落た格好をするようになった。(書籍『Anthology』抜粋参照)』」。
ジョンがブライン・エプスタインを語ります②、「彼はあちこちに行ってニコニコし、新聞屋などにも気に入られた。みんな彼のことは認めていたよ。宣伝してもらうのはゲームになるのさ。僕らは地元の新聞社や音楽誌の事務所を回って、記事を書いてくれるように頼んだ。そうしなきゃダメなんだ。最高のステージをやるには当然のことだけどね。記者の前ではいい顔をしなきゃならなかった。たとえ相手がすごい傲慢な奴で、『恩を売ってるんだぞ!』って態度だとしてもね。僕らはそいつらに調子を合わせてやたよ。『取材をしてくれてありがとう!!』みたいな態度でね。そい云う点では見事に二重人格だったね。ブライアンはずっとリヴァプールとロンドンを往復してた。そしてある時ロンドンから戻ってくると、こう言ったんだ『オーディションだぞ!』って。僕らは大喜びだったよ。それはデッカのオーディションだった。彼は『マイク・スミス』とか云う奴と話をつけていて、僕らはそこへ行くことになった。それで色々曲をやったんだけど、不安と緊張でガチガチでね、それがしっかり演奏にも出てた。でも、最初は不安だったものの、そのうち気持ちも落ち着いて来た。『トゥー・ノウ・ハー・イズ・トゥ・ラヴ・ハー』って云うフェイル・スペクターの曲と持ち歌をいくつかやった。キャバーンのステージをそのまま再現したようなもので、何曲か外したようなね。20曲くらいやったと思う。テープはデッカとバイの送ったけど、バイには行かなかった。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
★デッカA&R部のトップだったディック・ロウ (Dick Rowe) は後にこう語っています、「私はマイクに『どちらにするのか君が決めろ』と言った。ビートルズか、それともトレメローズか、それは彼次第だった。彼は『どちらもいいんです。ただ一方は地元のグループで、他方はリヴァプールからのグループです。』と言った。そして地元のクループを取った方が良いという結論になった。彼らはダグナム (Dagenham) から来ていたので、仕事がやりやすいし親密でいられると考えた。」。
★マイク・スミスは語ります、「経験豊富な彼が、どちらを良いと判断するか知りたかったが、彼は何も意見を言わなかった。ディックは私に『君が決めろ』と言った。あとになってディックは、ビートルズがシャドウズに似ていたので契約を交わさなかったと発言したが、まったくおかしな話だ……歌も聴いていないのに」。両者の見解と解釈や発言はかみ合っていません。そして
1962(昭和37)年02月初め、「オーディション不合格」の知らせがブライアンの元に届きます。理由は「シャドウズに似ている。ギターバンドは売れない」と云うもの。
★釈然としないブライアン・エプスタインはデッカ本社まで押しかけ、「デッカがリリースするビートルズのすべてのシングル盤に付き、僕が3,000枚の買い取りを保証する」と販売部に約束します。
★そのことを知らされていないディックは丁寧さを装いつつも高慢な態度でブライアンを突き返しこの発言を言い放ちます、「ビートルズは成功しませんよ。エプスタインさん。我々にはわかるんです。あなたはリバプールで立派なレコード店を経営していらっしゃる。なにがご不満なのですか」。ディック・ロウがブラインの発言を知らされていたなら、歴史はまったく違っていたかもしれません。
★冷静さを失ったブライアンは、ディックにこう言い返します、「この子たちは今に爆発的な成功を収めますよ。いずれエルビス・プレスリーより大物になると断言します」。
★後にディック・ロウは語っています、「あの時点では私はそのことを聞いていなかった。当時のレコード業界の常識を考えると、3,000枚の売上げが確実ということになれば、たとえそれが何者であっても、そのレコードを出さざるを得なかっただろう。」。ビートルズのロディ担当・ニール・アスピノールは語ります、「
1961(昭和36)年12月31日(日)の大晦日にロンドンに行くことになったんだ。デッカ・レコードのオーディションがあったからね。ミッドドランドのどこかで道を間違った。その大晦日が僕らのロンドン初体験だった。全員が一文無し。その上、雪が降って凄い寒いときてる。シャフツベリー・アベニューあたりに行ってみたんだ。買いたいものばかりで、目を見張ったね。角に靴屋のアネロ&ダビデがあって、洋服のセシル・ジーがあって、セント・ガイルス・サーカスでクラブに入った。退屈だからすぐに出ちゃったよ。女の格好をしている髭の生えたのがいたりしてさ。飢え死にしそうだったからレストランに入ったんだけど、僕らの持ってる金じゃスープしか頼めなかった。それで追い出されて、ソーホー行って何とかしのいだ。ロンドンはほんとエキサイティングで、全てが新しかったね。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
↓↓『Decca Audition Bootleg&Decca studio 3 - West Hampstead』↓↓
ジョージは語ります「僕らがロンドンで逢ったグループが、その後『ビートル・ブーツ』として知られるようになるブーツを履いててね。そう云うブーツを始めてみたのがその時だった。先が柔らかいんだよ。チャリング・クロス・ロードのアネロ&ダビデって云う店で作られてるものだった。デッカからいつまでたっても何も言ってこない。ブライアンは何度もせっついていたんだけどね。それでも結局は断られた。おかしなことに、断ってきたのがあの手の“ダン・ド・ダン”的なバンドをやっていたトニー・ミーハンでね。彼、その頃はデッカのディレクターとして成功してた。それでも有名な話がある。ブライアン・エプスタインが彼をつかまえて、僕らを気に入ったかどうかを聞き出そうとした。『僕らは契約できるのか?』って、すると帰ってきた言葉が、『ミスター・エプスタイン、私は忙しいんです』。奴はまだ若造だったんだぜ。何年も後で知ったんだけど、彼らがあの時採用したのは『ブライアン・トレメローズ』だった。デッカの社長のディック・ロウは鋭い予想をしていたんだだ。『ギター・バンドはもう終わりですよ、ミスター・エプスタインさん』だってさ。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ジョンは語ります「リヴァプールに戻って待ち続けた。そしてようやく、通らなかったことが分かったんだ。『これで終わりだな』って、その時はほんとに思ったよ。『ここまでだ』って。『ブルージーすぎる』とか『ロックンロール色が強すぎる、ロックはもう過去の音楽だ』とか、いつもそう云うことを言われてた。ハンブルグでドイツの会社のオーディションを受けた時にも、『ロックやブルースはやめろ、他のものにしろ』って言われた。みんなロックは死んだと思っているんだよ。でも、間違ったのは彼らの方だよ(1977)。ポールは『今聴けばどうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。』って言うけど、テープを聴いてみて、僕ならこれで断りはしないだろうね。問題無いと思うな。後半なんて、あの時代にこれだけできれば文句ないさ。当時はああいう音楽をやっている人間はそんなに無かった(1972)。デッカはすっかり洗練されたグループを期待してたんだろうね。でも、僕らがやったのはただのデモ・テープだった。僕らの将来を見るべきだね(1967)。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
ポールは語ります「ジョンとは少し意見が違うけど、今テープを聴けば、どうして落ちたのか分かる。あんまり出来が良くない。とはいえ、凄く面白くてオリジナリティがあるのも入ってた。(書籍『Anthology』抜粋参照)」。
■「ビートルズ・デッカ・オーディション」とは、一般的に想像される生演奏を審査してのオーディションではなく、「権限のある」デッカ社内の人間に聞かせるためにサンプル・テープを録音するセッションの事で、内容は
1962(昭和36)年01月01日(月)に行われた、セミプロによる失敗のほとんどない優秀な演奏であり、この驚異的な録音は1962年の彼らの熱狂を唯一感じることのできるものです。デッカ・オーディション落選後、エプスタインは、デッカ社から譲り受けた録音テープを持ち、友人であるロンドンのオックスフォード通り (Oxford Street) のHMVレコード店の店長を訪ねます。彼は、もっと簡単に再生できる方法とオープンリールのテープからレコード盤を作ることをエプスタインに提案し、エプスタインが同意しすると、すぐにそのレコード店の上にあるスタジオとプレス工房にテープを持って行きます。その録音テープを聴いたその店のエンジニアであるジム・フォイは、とても感動したと云います。エプスタインが「その内の3曲はレノン=マッカートニーの自作だ」と伝えると、フォイは音楽出版のアードモア&ビーチウッド社 (EMIの子会社) のシド・コールマンにそのことを伝え、そしてコールマンはエプスタインに出版契約をオファーします。しかし、エプスタインの優先すべきはビートルズのレコード会社への契約で、そこでコールマンはエプスタインとパーロフォン・レコード (Parlophone Record) のA&Rのトップを会わせる手はずを調え、これによりブライアン・エプスタインとEMI傘下のパーロフォン・レコードのヘッドであるジョージ・マーティン (George Martin)との面談が実現します。ジョージ・マーティンは、
1962(昭和37)年05月09日(水)にブライアン・エプスタインと会談した際、ビートルズとレコーディング契約を結ぶことを承諾しますが、実際にサインするのは彼らを見聞してからだとエプスタインに告げます。デッカの録音を聴き、かなり興味を感じたマーティンが、アビー・ロードでのオーディションをエプスタインに申し入れることとなったわけです。
■E.M.Iスタジオ・オーディション■
<1962(昭和37)年06月05日(火)>ロンドンのアビイ・ロードにあるE.M.I.・スタジオ (Abbey Road Studios) での翌日午後7時からのレコーディング・セッションの前日、ビートルズはEMIレコーディング契約成功させるために、交通渋滞や悪天候など、あらゆる可能性を排除するためリヴァプールからロンドンに向けて車で出発させ、その夜にはロンドン市内に到着宿泊します。
<1962(昭和37)年06月06日(水)>この日が、ビートルズがロンドンのセント・ジョンズ・ウッド (St. John's Wood) アビー・ロード (Abbey Road) 3番にあるEMIスタジオを初めて訪れた歴史的な日になります。アビイ・ロード第2スタジオで午後7時~10時に行われたこのレコーディング・セッションは、所謂オーディションのようなもので、オーディションのメンバーである、ポール・マッカートニー、ジョン・レノン、ジョージ・ハリソン、ピート・ベストの4人は多くの曲をひと通りプレーしてウォーミングアップした後、本番の演奏を始め、『Besame Mucho』『Love Me Do』『PS I Love You』『Ask Me Why』の順に4曲、テープに収めます。但し、正確なテイク数は現在でも分かっていません。