ビートルズがやって来る ヤア!ヤア!ヤア! (A HARD DAY'S NIGHT)
1964.09.05 東芝音楽工業 Odeon OP-7123(STEREO)英国3枚目の"A HARD DAY'S NIGHT"をジャケットのみ日本オリジナルに差し替えて発表され た日本での3枚目。(写真はApple AP-8147)オリジナル編集ではないが、日本でひと手間加えたという意味でここで取り上げてみた。
JAPANESE EDITIONS 日本独自編集のアルバム ⇒ ザ・ビートルズが日本でデビューするにあたっては英国オリジナル・アルバムではなく、 我が国独自の編集によるアルバムが公式発売されていた。(日本でのデビュー盤、2枚目が 日本独自編集、英国オリジナル・アルバムを2枚はさんで5枚目が独自編集)現在ではむろん公式カタログには存在しないものの、当時の日本のビートルズ・ファンに はビートルズ唯一の公式アルバム・ラインアップとして親しまれてきたものだ。ビートル ズ解散後の1976年、東芝EMIが「EAS~」のカタログ・ナンバー(通称国旗帯)で英国本国盤 、米国編集盤、日本編集盤のすべてのラインアップをいっせいにリニューアル発売。英国オリジナルの"PLEASE PLEASE ME"、"WITH THE BEATLES"も登場し、この時点で日本の ファンは英国本国盤、米国編集盤、日本編集盤すべてを手にできる大変贅沢な境遇に置か れたわけだ。店主も、英国オリジナル盤以上に日本編集盤を愛していたファンのひとりだ。特に日本で のデビューアルバムとなった「ビートルズ!」はデビュー・アルバムであると同時に初期 のベスト・ヒット的な趣もあり、ロックのレコードがほとんどステレオでの制作に移行し 終わった時代、ワイルドで分厚いモノラル・サウンドの心地よさもあって愛聴した。今回はビートルズの活動初期に日本独自編集で発売されたアルバム3枚と、オリジナル・ア ルバムに手を加えて発売された2枚、さらにジャケットのみまったくオリジナルに製作した もの1枚の合計6枚をご紹介します。(レコードNo.はいずれも初回盤のNo.)
今でも、ビートルズを聴きたい時にはほとんどCDは使わない。アナログ・レコードをターンテーブルに乗せることの方が圧倒的に多い。その中でも、モノラルの東芝盤は格別に味わい深いものがある。なんといっても「雰囲気」があるのだ。店主がはじめて買ったLPは国旗帯の「4人はアイドル」だったが、いちばん多く聴いたの はおそらく「ビートルズ!」だったように思う。このレコードをはじめて買って聴いたときの高揚感は鮮明に覚えている。A面の1~4曲目で完全にノックアウトされた記憶がある。今でもここに挙げた日本編集盤は「味わいたい」気持ちになったときに必ずラックから引 っ張り出してくるレコードたちだ。
http://home.q04.itscom.net/hiropon/b_review6.htm
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┃ 『A HARD DAY'S NIGHT』 ┃THE BEATLES
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1964(昭和39)年07月10日(fri) UK Released (monaural LP)
1964(昭和39)年07月10日(fri) UK Released (stereo LP)
1987(昭和62)年07月21日(tue) US released (LP&cassette)
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┃ 『A Hard Day's Night ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』 ┃
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ジャケットが日本盤オリジナルだヨ(=^◇^=)
‡1964(昭和39)年09月05日(sat) JP released (stereo)東芝音工 ODEON-OP7123
1967(昭和42)年06月05日(mon) JP released (stereo)東芝音工 ODEON-OP8147
1969(昭和44)年09月10日(wed) JP released (stereo)東芝音工 Apple-AP8147
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┃ 『A HARD DAY'S NIGHT ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』 ┃
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1976(昭和51)年06月20日(sun)以降、日本盤ジャケットが英オリジナルに準ずるヨ(=^◇^=)
1976(昭和51)年06月20日(sun) JP released (stereo)東芝EMI Apple-EAS80552
1982(昭和57)年01月21日(thu) JP released (mono)東芝EMI ODEON-EAS70132
1992(平成四)年03月25日(wed) JP released (mono)東芝EMI ODEON-TOJP7073
1987(昭和62)年02月26日(thu) JP released (CD-mono)東芝EMI ODEON-CP32 5322
1998(平成十)年03月11日(wed) JP released (CD-mono)東芝EMI ODEON-TOCP51113
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https://en.wikipedia.org/wiki/A_Hard_Day%27s_Night_(album)
英Mhttp://yokono.co.uk/collection/beatles/uk/lp/uk_lp_mono_p.html##3-1
英Shttp://yokono.co.uk/collection/beatles/uk/lp/uk_lp_stereo_p.html##3-1
英http://rock-t.info/beatles-discography-elp-aharddaysnight.html
日http://rock-t.info/beatles-discography-jlp-aharddaysnight.html
日http://yokono.co.uk/collection/beatles/japanese/lp/lp_op_7123.html
Ohttps://music.amazon.co.jp/albums/B019GHCHCQ
⑨https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTFD8QC
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┃ 『THE BEATLES ANTHOLOGY 2』 ┃
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1996(平成八)年3月18日(mon) JP Released
1996(平成八)年3月18日(mon) UK Released
1996(平成八)年3月19日(tue) US Released
◇Disc two (CD2)
◎LP F-side (Record Disc 3)
‡1967(昭和42)年09月05日(tue) EMI Studios 4:02
14."I Am the Walrus" (Take 16)
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https://music.amazon.co.jp/albums/B01DJHE4YS
https://music.amazon.co.jp/albums/B07FTBJ8VJ
https://en.wikipedia.org/wiki/Anthology_2
https://music.amazon.co.jp/albums/B00H77Z0I6
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‡9/05/64 Chicago International Amphitheatre 1 show $ 125.00
http://www.rarebeatles.com/photopg7/tourprog.htm
映像◆The Beatles Live In Chicago 1964 https://youtu.be/xkT0fZrA7Io
‡1964(昭和39)年09月05日
The Beatles Live In Chicago 1964 HD. Sources of Footage:
00:18 - 16mm B&W Film By WGN 2 Sources (Newsreels)
04:34 - 16mm B&W By Barbre Productions
08:01 - 8mm Color By Bill Diehl (Before The Concert)
09:09 - The Concert
13:15 - 8mm Color By an Amateur Fan (Actual Audio)
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┃ ビートルズ詳解 The Beatles’Corpus ┃
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①1959(昭和34)年09月05日(土) ライヴ演奏:カスバ・コーヒー・クラブ/リヴァプール
②1960(昭和35)年09月05日(月) ライヴ演奏:インドラ・クラブ/ハンブルグ (20日目)
③1961(昭和36)年09月05日(火) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (昼)/リヴァプール
④1962(昭和37)年09月05日(水) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜)/リヴァプール
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①1959(昭和34)年09月05日(土) ライヴ演奏:カスバ・コーヒー・クラブ/リヴァプール
クオリーメンとしてはカスバに7回出演していたヨ(=^◇^=)
1959(昭和34)年08月29日
‡1959(昭和34)年09月05日・12日・19日・26日
1959(昭和34)年10月03日・10日
②1960(昭和35)年09月05日(月) ライヴ演奏:インドラ・クラブ/ハンブルグ (20日目)
平日の夜は、
08:00pm~09:30pm
10:00pm~11:00pm
11:30pm~00:30am
01:00am~02:00am 以上、4時間半の演奏良好だヨ(=^◇^=)
④1962(昭和37)年09月05日(水) ライヴ演奏:キャバーン・クラブ (夜)/リヴァプール
ビートルズは前日にEMIスタジオで2度目のレコーディング・セッションがあったため、この日に予定されていたキャバーン・クラブのランチタイムショーの出演は翌日に入れ替えられた。ビートルズが時間通りにリヴァプールに戻ってくる保証がなかったためである。しかし彼らはイブニングショーへの出演には支障がない時間にリヴァプールに戻って来た。これは彼らの98回目のイブニングショー出演であり、ランチタイムショーを含めると227回目のキャバーン・クラブへの出演だった。ビートルズのキャバーン・クラブへの正確な出演回数は判っていないが、1961年2月9日から1963年8月3日までの期間に、少なくともランチタイムショーで155回、イブニングショーで125回の演奏を行っている。
ビートルズは1962年8月22日に、グラナダTV (Granada Television) の『Know The North』という番組用に、この会場で『Some Other Guy』を演奏するシーンを収録されていたが、この日同局の音響技師ゴードン・バトラー (Gordon Butler) はより高音質な録音のために再びキャバーンを訪れていた。バトラーはこのイブニングショーでは3本のマイクを使い、ビートルズの演奏を1時間録音している。その内『Some Other Guy』と『Kansas City/Hey-Hey-Hey-Hey!』の2曲が現存している。
『Some Other Guy』の8月22日と9月5日の2バージョンは、どちらも海賊版で聴くことができるが、映像と音声のタイミングのズレが合成編集を暗示するため、早い段階で映像フィルムにオーバー・ダブされていたのかもしれない。『Kansas City』の音声の断片は「アンソロジー」シリーズに収録されているが、インタビューの会話によって不鮮明である。バトラーはこの2曲の録音から5枚のアセテート・ディスクを作った。その内の1枚は1993年8月にクリスティーズ (Christie's) のオークションで売却されている。
ボブ・ウーラー『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ あの音響技師が『Some Other Guy』と『Kansas City』のアセテート盤を作ってくれと言って来た。それで1枚をレイ・マクフォール (Ray McFall:キャバーンのオーナー) に渡し、2枚をブライアン・エプスタインに渡した。僕も1枚自分のレコードボックスにしまっておいたんだが、もっと注意すべきだった。ビートルズが有名になった時、そのレコードは消えていた。1993年に1枚のコピーがクリスティーズ (Christie's) のオークションに出品され、15,000ポンドで売れた。それが僕の持っていたものかどうかわからないが、もしそうだったとしてもそれを証明することはできなかっただろうね。
ブライアン・エプスタインも『Some Other Guy』の録音の1つから作ったアセテート・ディスクを少数持っていたが、彼はそれを自分のNEMSレコード店で売りさばいている。
⑤1963(昭和38)年02月26日(火) ライヴ演奏:ゴーモン・シネマ/トーントン
この日ビートルズはヘレン・シャピロ (Helen Shapiro) を主役とするUKツアーに戻っている。彼らは1963年2月2日の初日からそのUKツアーに参加しているが、途中『Please Please Me』アルバムのレコーディングが入ったり、ビートルズ単独のショーが入ったりして、一時的にツアーの戦列を離れることはしょっちゅうであった。しかしこの日はヘレン・シャピロ自身が重い風邪のためコンサートを欠場しなければならなくなった。花形スターである彼女が抜けた穴はダニー・ウィリアムズ (Danny Williams) が埋め、また『Tell Him』がヒット中のビリー・デイヴィス (Billie Davis) を戦列に加えて補強することになった。このゴーモン・シネマ (Gaumont Cinema) はサマセット・トーントン (Taunton, Sumerset) のコーポレーション通り (Corporation Street) にある。ビートルズは
‡1963(昭和38)年09月05日(木)にもう一度この会場で公演しているヨ(=^◇^=)
⑥1962(昭和37)年08月22日(水) ライヴ演奏1:キャバーン・クラブ (昼) ビートルズTV初収録
この日はマシュー通り (Mathew Street) にあるキャバーン・クラブ (Cavern Club) のランチタイムショーへの126回目の出演だった。そしてこの日初めて、TV局のカメラが彼らの演奏をフィルムに収める。キャバーンのランチタイムショーは通常12:00pm~2:00pmに開催されていた。イブニングショーも含めると、これがトータル218回目のビートルズのキャバーン出演だった。ビートルズのキャバーン・クラブへの正確な出演回数は判っていないが、1961年2月9日から1963年8月3日までの期間に、少なくともランチタイムショーで155回、イブニングショーで125回の演奏を行っている。グラナダTV (Granada Television) のあるスタッフは、ビートルズについてファンから多くの手紙を受け取った後、盛り上がりを見せるその現象を調査することにした。マンチェスターを拠点とするグラナダTVのプロデューサーは、
1962(昭和37)年07月26日(木)にサウスポート (Southport) のケンブリッジ・ホール (Cambridge Hall) で彼らの演奏を初めて見た。そしてグラナダTVのディック・フォンティーン (Dick Fontaine) は事前にライトニングの条件のチェックするため、
1962(昭和37)年08月01日(水)にキャバーンを訪れていた。
写真◆リハーサルの風景
グラナダTVのスタッフは『Know The North』という番組用に、ビートルズの♪Some Other Guy♪の演奏シーンをフィルムに収めた。この撮影はピート・ベストがグループから追放されて1周間にも満たない時期に行われたため、曲の終りに「We want Pete!」と叫ぶ男性の声が混じっている。
映像◆Youtubeで見るhttps://youtu.be/ZDJoW4G6Lhc
ジョニー・ハンプ(グラナダTVプロデューサー)『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ 彼らはキャバーンでの♪Some Other Guy♪の演奏で初めてTVにお目見えした。リンゴが入ったばかりの頃だから、注意深く聞けば「We want Pete!」という観衆の叫びが最後の方に聞こえる。彼らの対抗馬としてブライハウス&ラストリック・ブラスバンド (Brighouse and Rastrick Brass Band) も撮影した。しかし2つの理由でどちらも放映されることにはならなかった。ビートルズのフィルムは音質が悪すぎたし、ブラスバンドは組合規定の報酬をメンバー全員に要求してきた。50人もいたのですべてはおじゃんになった。ブライアン・エプスタインは僕に電話してきて、フィルムを放映するように尽力してくれと頼んできた。音質の悪さは現在なら問題にならない。沈没するタイタニック号のフィルムを今持っていたら、そのクオリティは問題にならないのと同じで、たとえあのバンドの音が聞こえなくても問題にならないだろう。それは歴史だからだ。
その映像と音声はわずかにタイミングがずれている。またジョンとポールの二人で歌っているにも関わらず、ジョンの声しか聞こえない。こうしたことからビートルズの海賊版コレクターの間では、♪Some Other Guy♪の2つのバージョンはどちらもこの日の収録なのか、後日の録音が重ねられているのではないかということに関して議論が続けられている。グラナダTVの音響技師ゴードン・バトラー (Gordon Butler) は、
‡1962(昭和37)年09月05日(水)にキャバーンに戻り、音声部分だけを録音し直す。
1962(昭和37)年08月22日(水)の録音ではマイク1本だったが、今回は3本のマイクを使った。この時録音されたのは♪Some Other Guy♪と♪Kansas City♪ / ♪Hey-Hey-Hey-Hey!♪であり、後者は『ANTHOLOGY』シリーズに収録された。
ボブ・ウーラー『The Cavern』スペンサー・レイ ⇒ あの音響技師が♪Some Other Guy♪と♪Kansas City♪のアセテート盤を作ってくれと言って来た。それで1枚をレイ・マクフォール (Ray McFall:キャバーンのオーナー) に渡し、2枚をブライアン・エプスタインに渡した。僕も1枚自分のレコードボックスにしまっておいたんだが、もっと注意すべきだった。ビートルズが有名になった時、そのレコードは消えていた。1993年に1枚のコピーがクリスティーズ (Christie's) のオークションに出品され、15,000ポンドで売れた。それが僕の持っていたものかどうかわからないが、もしそうだったとしてもそれを証明することはできなかっただろうね。
撮影されたフィルムのクオリティは放送するにはあまりにも劣悪と判断され、ビートルズが有名になるまでお蔵入りとなった。『Some Other Guy』は
1963(昭和38)年11月06日(水)の6:30pmから放送の『Granada's Scene』という番組でで初めて放映され、それ以降は何度もくり返して放映されている。
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①https://gejirin.com/beatles/history/1926-1959/0history_index-1959.html
②https://gejirin.com/beatles/history/1960/19600817_live_indra1.html
https://gejirin.com/beatles/history/1960/19600818_live_indra2.html
③https://gejirin.com/beatles/history/1961/0history_index-1961.html
④https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620905_live_Cavern.html
⑤https://gejirin.com/beatles/history/1963/19630226_live_Gaumont_Taunton.html
⑥https://gejirin.com/beatles/history/1962/19620822_live_Cavern.html
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┃ THE BEATLES HISTORY ┃|September 05|248
┃ ザ・ビートルズの今日の出来事 ┃| 9月05日 |
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‡1964(昭和39)年09月05日(土) イリノイ州シカゴ インターナショナル・アンフィシアター公演)
★観客数13,000人 宿泊先は移動のためになし
https://beatlepedia.web.fc2.com/usa-tour-64.html
********** http://www.thebeatles.co.jp/contents/index2.htm
http://www.beatlelinks.net/forums/showthread.php?t=17116
http://beatlesdiary.web.fc2.com/day/009/0905.html
http://www.beatlesagain.com/bhistory.html
楽曲資料https://beatlesdata.info/
歌詞充実http://tsugu.cside.com/index.html
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1962(昭和37)年09月05日(水) Cavern Clubで録音?「Kansas City/Hey-Hey-Hey-Hey!」音源発掘
2013年7月25日木曜日 時刻: 23:10 投稿者 甲虫のべ ( 甲虫楽団 )
映像版「ザ・ビートルズ・アンソロジー」第一巻でインタビューの後ろでうっすら流れている以外では一般に流通していなかった1962年9月5日Cavern Clubでの録音とされる「Kansas City/Hey-Hey-Hey-Hey!」音源全編がWebで共有されました。
これは1962年9月5日にキャヴァン・クラブにてグラナダTVによって録音されたものだと言われています。Some Other Guyの映像で有名な1962年8月22日の撮影に続くものだったようです。
この映像については以前の投稿もご覧ください。The Beatles Bibleによると
http://www.beatlesbible.com/songs/kansas-city-hey-hey-hey-hey/
Some Other GuyとKansas City/Hey-Hey-Hey-Hey!を両面に収録した5枚のアセテート盤が作成され、そのうち1枚が1993年にオークションで落札されたようです。それがアンソロジーに使用されたのかもしれません。
今回そのアセテート盤を再生する様子を共有した人物はグラナダTVのカメラマンだったとのことです。もう片面は近々公開するそうで、それがSome Other Guyであればますます信憑性が高くなります。
https://blog.kouchu.info/2013/07/KansasCity-at-Cavern.html
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┃ 『この日のビートルズ』 ┃上林 格 P.288 714円(税込) 朝日新聞出版
┗━━━━━━━━━━━━━┛2013(平成25)年11月7日(木) 朝日文庫発行
人類がまだ月面着陸を夢見ていた1960年代、英国出身の4人の若者が世界を席巻した。
ポピュラー音楽史の記録を次々と塗り替えただけではなく、
文化、思想、生活スタイル、あらゆる分野に強烈な影響を与えた。
語り継がれる20世紀最高のファブ・フォーの「この日」にこだわってみました。
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|1966(昭和41)年 9月 5日(月)|「自分探し」の映画出演
|2009(平成21)年 9月 4日(金)|甲虫日記更新日 No.057
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1966年はビートルズの転換期になった。レコーディングの常識を覆した意欲作「REVOLVER」を発表すると、8月の米国公演を最後にツアー活動はやめた。11月にスタジオ活動を再開するまで、4人は勝手気ままに散らばっていた。
ジョージはシタール修業のためインドへ、ポールは映画「ふたりだけの窓」の曲づくり、リンゴは家族旅行。そしてジョンは9月5日、西ドイツのハノーバー郊外ツェレにある北大西洋条約機構(NATO)の戦車演習場へ向かった。リチャード・レスター監督の映画「HOW I WON THE WAR(僕の戦争)」の撮影に単独で出演するためだった。
作家パトリック・ライアンの小説をもとに、戦争賛美のこっけいさをコマ切れのシュールな作風に仕上げた反戦映画であった。ジョンの演じるグリップウィールド2等兵は、中尉付きの少し臆病(おくびょう)な兵士だった。
「『はい、中尉。いいえ、中尉。もちろんです、中尉』と将校の面倒をみるためにはいつくばる男」とジョンは説明している。
その中尉率いる英国軍の分隊は、敵方後方100地点にクリケット場を造る任務を命じられる。この映画のクライマックスでジョンは砲弾に倒れる。
「こうなることは予想していた」と腹を押さえながらうめく。続けてカメラに向かってひと言、「君たちもそうだろう?」。
ツェレ到着の翌日、ジョンは役づくりのため長くて美しい巻き毛を軍隊カットに刈り上げた。鼻の上には、丸くて縁がワイヤになった国家医療制度推奨の丸眼鏡が乗っかっていた。崇拝されるポップ・スターとはまるで正反対の醜い姿がマスコミに報じられると、世界中の若者がこの眼鏡をかけるようになった。
映画出演を引き受けたのは、エルビス・プレスリーのように、俳優としてのキャリアをスタートさせようとはしたからではない。映画「HELP」などの監督を務めたレスターの頼みだったからだ。むしろ「反戦映画」自体に興味をもっていた。
前段がある。65年後半、ポールは92歳で精力的に平和活動に取り組んでいた哲学者バートランド・ラッセルにチェルシーの自宅で会った。著書を読み、その荘厳で明確な思想に感銘を受けていたポールは、「ベトナム戦争は米国が自国の既得権のためだけに戦っている帝国主義的な戦争で、この戦争には反対すべきだ」という話を聞かされ感銘する。ポールから報告を受けたジョンは、すごく興味を持ったというのだ。
この年の夏、米国公演の記者会見でベトナム戦争について質問されたジョンは、「僕たちは毎日、そのことを考えている。いくら考えてもどうも好きになれない。賛成しかねるね。やはり間違っていると思うよ」と述べている。
ロック・グループが政治的立場を明確に打ち出す先例はなかった。英国の歴史家エリック・ホブスバウムによると、当時の英国人はベトナム戦争を「間違っている」と思っても「毎日考えている」ことはなかったという。だが、ジョンのようなラジカルな考えは希少な部類に属し、世間では戦争賛美の映画がまだ好まれていた。
66年6月、ビートルズが最後のワールド・ツアーにでかけるころ、米軍は初めてハノイ(当時の北ベトナムの首都)を爆撃した。米国内の反戦運動は徐々に広がりをみせていた。
「僕の戦争」では、全身に色が塗られた戦死者が再登場する。戦死者にも階級のように差別があることを批判する意欲作である。しかし、英国人でありながらファシズムに対する戦争とベトナム戦争を区別せずに描いたことは、致命的な失敗だった。
ロンドン・パビリオンで公開された最初の週には、極右政党「国民戦線」が映画館で発煙弾を爆発させる騒ぎが起きた。「ジョン・レノンがギターを弾いていない」と怒り出して席を立つ観客もいた。
◎思い悩むジョンのところに… 次のページへ
ジョンが映画に出演した最大の理由は、「レノン的自分探し」だったと考えていい。「何かほかの分野で自分の才能を見つけたい思いもあった。変化のため何かをしてみたい気分になっていたら、ちょうどその時にこの話が持ち上がった」
ツアーをやめたジョンには、やることがみつからなかった。「ステージがなければ生きている意味がない」と初めて実感した。同時に「何とかしてここから抜け出さなきゃいけない」と、もがいていた。
「ビートルズのない生活がどんなものなのか、どうすればやっていけるのか、まるで考えられなかった」ジョンが答えを求めたのはバンドを抜けることではなく、「ビートルズが終わったら自分は何をやるか」という問いだった。自分から抜けていくのは不安だった。
追加の撮影が
9月19日から11月6日までスペイン南部カルボネラスで行われた。この地で名曲「Strawberry Fields Forever」を手がけた。人生の壁にぶつかったとき、少年時代の回想を郷愁たっぷりに歌い込んだ曲ができあがった。
共演した中尉役のマイケル・クロフォードは、撮影期間中、浜辺とベッドの上でギターを持つジョンの姿をよく目にしたという。
「たまらないほど素晴らしい響きじゃないか」と声をかけると、ジョンは「確信が持てないな……確信が持てないんだ」という言葉を続けていたという。
そんなとき、相棒ポールのアドバイスを求めていたのだろうか。
撮影が終わり、マドリードから飛行機で戻ってから2日後、ジョンはロンドンのインディカ・ギャラリーを訪れる。そこで運命の人、オノ・ヨーコと出会う。
◎『この日のビートルズ』の次回は9月19日(更新は18日)です。この日はなんの日でしょうか? お楽しみに。
◎お知らせ ⇒ 映画「HOW I WON THE WAR」は英国でアヴァンギャルドな作品として扱われた。日本では「大勝利」という邦題までつけられたが、公開は見送られ、何度かテレビ放映されたのち。現在は「ジョン・レノンの僕の戦争」のタイトルでDVDが発売されている。
映画「ジョン・レノンの僕の戦争」
2009年7月3日 20世紀フォックス・ホーム・エンターテイメント・ジャパン
***************** https://www.amazon.co.jp/dp/4022617802
https://dot.asahi.com/1satsu/tyosya/2013110700049.html
http://doraku.asahi.com/entertainment/beatles/090904.html
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