錠をかけてしまい込んでおくものではなく、
人々と分かち合うためのものなのです。
~マザーテレサ~
「天にましますわれらの父よ、みなをあがめさせたまえ・・・」
イエスさまが弟子たちに
「祈る時はこう祈りなさい」とおっしゃった主の祈りで、
わたしのではなく、われらと言われています。
われら=すべての人のことです。
わたしは毎朝、聖餐式をしています。
パンとぶどう酒ではありませんが、
朝の食事をパンとぶどう酒に変えてくださいと祈ってから、
主の聖餐にあずかっています。
イザヤ53章:5
その打たれた傷によってわれわれはことごとくいやされたのだ!
この断言されているみことばを毎朝、声に出す時、
一日の始まりの生きる力が与えられます。
病の中にいる人、
苦しみや悩みの中にいる人、
「すべていやされました」と、十字架の完了形を覚えて祈ります。
このイザヤ書にも、われわれと書かれているのです。
共同体として、
イエスさまが神の家族として見てくださっていることばに
神さまの深い憐れみと慈しみの愛を感じ、感謝します。
神はすべての人を分け隔てなさらず、
すべての人が神の願いに生きるように願われています。
それは、自然界の被造物に現されているすべてを見れば
わかることです。
”私が来たのは、羊に命を得させ、
豊かに得させる為である。
(ヨハネ10:10)”
7月9日の花言葉
リナリア
この恋に気づいて
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