台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

ブログ401 林間学校・修学旅行は・・・

2013-04-28 04:06:51 | 台湾
私は、若い頃は、泊まる行事は、大好きでした。与野市は、当時、六日町に、山の家があり、そこに林間学校へ行っていました。一回は、2泊三日。私は、連泊。4泊五日。
山の家のご飯は、とてもおいしくて、何倍もおかわりしました。当時は、私の体重52,3キロ。痩せていました。その私が朝から、ご飯をおかわりしました。
とにかく。山の家の「米」は、最高。新潟県魚沼郡の本場の「コシヒカリ」
これを食べたら、もう、ご飯こんなにおいしい。おかずが無くても、食べられます。
与野東の卒業生の皆さん覚えていますか。
あの、雲洞庵で座禅したこと。オリエンテーリングしたこと。もう忘れていたでしょ。
私は、昔のことは、覚えています。今のことは、すぐに忘れます。
ま、必要なことは、「自然に覚えます。」
私は、だから、余り心配していません。中国語は、いつかうまくなれば良いだけ。台湾人と話せば、良いだけですから。中国語と台湾語は、少し違うようです。まだ、その違いは、私のレベルではわかりません。「こうの」K1のレベルになったら、わかります。
 当時、先生方は、泊まることは、嫌いでした。私は、大好きでした。結婚していても・・・。だって、楽しい。
 泊まるというのは、生徒が悪戯いっぱいします。女風呂を覗いたり、夜中に、男が女の部家に入ったり、・・・。生徒は、悪戯する権利があります。私は、いつも仕事として、生徒を叱りました。そりゃそうでしょ。夜中に女生徒の部屋を訪ねて、教師がほめたら変でしょ。みんながやります。
キャンプフアィヤーも好きでした。大体お祭り好きなタイプ。だって、未だにお祭り大好きです。年越しとか一日中、「日本料理屋」で酒飲んでいました。三十人ぐらいの台湾人と。今年の話。
 昭和51年・54・57・61・平成元年。三年に一回。山の家は、分泊。全員が行けません。施設が狭く、三〇〇人は、入れないので、2クラスずつか3クラスずつ行きました。ま、今となっっては、笑い話も多いが、・・・。結構オリエンテーリングの問題考えたり、地図を作ったり大変でした。ほとんど、長島先生と龍ちゃんがやってくれました。私は、彼らの言われるがママ動いただけ。
 金子さんは、生徒と一緒に風呂入りました。彼の逸物は、とてもでかい。生徒も言っていました。金子先生も、草葉の陰から、喜んでいます。須田先生って、覚えていますか。
この先生は、与野東だったような気がしましたが・・・。同じ社会科の。
後、体育の柿さん。この人とも、よく議論しました。ま、いい人でした。
 ま、修学旅行で、早起きした人と一緒に散歩したのも・・・。十四・五人起きて一緒に散歩しました。京都でなんか、揚げたての練り物を食べた記憶があります。
今となっては、昔。京都という所は、たしかに「日本人」の故郷。
嵐山・清水・寂光院とか、鞍馬方面は、修学旅行ではいきませんが、個人的に好きです。
京都は、じつに、良くできた町。日本の都であるというのを実感できます。
 平安時代<貴族>の様な気持ち。ま、当時は、当時で、大変だったのだと思うが・・・。もう金持ち・貧乏人。貴賤がありました。不思議だよ。未だに、人間に貴賤とか、金持ち・貧乏で・・・苦しんでいる人が居るなんて。
もう、差別は、無いはずなのに・・・。現実の格差社会は、厳然と・・。もちろん、平安時代も「いえがら」「血筋」ですべて決まる社会。今日は、学歴、本人の能力。それだって、貧乏人は、十分な教育受けたくても・・・。
 ま、修学旅行の話から、とんでもないところに話が飛びました。与野東卒業の皆さん。いつか六日町の山の家を訪ねてみてください。
再見。

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