小◎ 竹◎ 関連の不審な事件
小◎ 竹◎ 関連の不審な事件 (続編)
小◎ 竹◎ 関連の不審な事件 (続々編) です、追加
「今まで自殺したと云われている政治家やジャーナリストの死に方が
全て同じだと云う不自然さに気がついて欲しい。
新井将敬、中川一郎、松岡利勝、影山日出夫ら
各氏の共通点は、
== ドアのノブにネクタイで首を吊ったこと!==」
と、続編に記載されてましたが、
この事件も同様、
==ドアのノブに、着物のひも、がかかっていて、首つり自殺と処理
された
<小泉のSMプレイと家庭内暴力>
小泉と離婚した元妻、佳代子さんの証言
佳代子さんが、さんざん家庭内暴力を小泉から受け
出て行くと決めた。
佳代子の親族は、「総理になった純一郎さんを見ていると、あの人は、表の顔と、裏の顔がかけ離れた二重人格じゃないかとおもわざるをえません。」
== 佳代子さん自身も夜の営みの時に首をしめられていた。==
【小泉首相の代議士時代の愛人 小はん変死事件の真相】など、より転載
1992.5.12日(水曜日)午後3時頃、小泉が郵政大臣に就任する直前、小泉の愛人と噂されていた新橋芸者「小はん」(本名は奥貫浩美、当時31歳)が、東京都港区三田の豪華マンションで、何の前触れもなく変死体で発見された。「小はん」は、小泉が所属していた旧福田派のアイドルともいわれた花形芸者で、
自殺として処理されたが、別に悩みもなく、人気もあり、死ぬ理由も動機などなかったという。
「ヤジ将軍」ともいわれた
ハマコー(浜田幸一議員)は、小泉を公の席で
== 「この芸者殺し野郎!」 == と罵倒した。
(「噂の真相」01.8、「週刊新潮」03.1.2―9)。
第一発見者は、彼女の母親の奥貫和子である。母の証言に拠ると、小はんは5.9日の土曜日には東踊りの練習に参加している。ところが、「小はん」は週明けの月曜日に置屋に出てこなかった。置屋は心配して、5.12日の火曜日になって千葉にいる彼女の母親に連絡し、母親が合鍵で部屋にはいったところ変死している彼女を発見した。遺書は存在せず、走り書きの「つかれました。ごめんなさい」という紙片が残されていたが、
母親は次のように述べている。
概要
「走り書きの文字は娘のそれではありません。自殺ではありません。
小はんには特段の悩みがあったとは思われず、自殺する心当たりは有りません。
小泉さんとの付き合いが原因だったと思われます」。
彼女の親戚の話によると、「小はん」は小泉と愛人関係にあった。三田のマンションを買ったときには、小泉からお金を出してもらい、月々のお手当ても小泉からもらっていた。夏や冬には、100万円をボーナスとしてもらっている。東踊りという踊りのときに100万円、茶ダンスと食卓セットを小泉から購入してもらっている。ちなみに、この港区三田というのは、小泉の母校の慶応大学に近い場所である。
所轄は三田署で、死亡推定時刻は10日の日曜日とされた。発見の12日まで死後48時間から60時間たっていたと思われる。
「洋服姿で部屋のドアのふちに、着物の細い帯がかけてあった」。
小はんは、自殺と処理され、解剖されなかった。
「新橋芸者小はん変死事件」と小泉の関係が次のように噂されている。
この頃の小泉は、政治改革関連でストレスにさらされていた。日曜日は国会が休みである。この時に、小泉は「小はん」のマンションで愛の行為に及んでいた可能性が有る。
小泉にはSM趣味による首締め癖がある。小泉はこの日、日ごろのストレスからいつもよりきつめに彼女の首を絞め、「小はん」は気を失いそのまま死んでしまったのではなかろうかと推測されている。
小泉は、秘書官飯島に連絡し善後策を相談した。秘書は三田のマンションに午前3時ごろに着き、自殺にみせかける工作を施した。走り書きを代筆し、自殺に見せかける為の首吊りようのひもをドアのへりにをかけた。こうして偽装工作は完了した。二人は、マンションの非常階段を使って誰にもあわないように降りた。次に、秘書は、月曜日になるべく遠くに、岡山辺りまで逃げることを指示した。かくて、小泉は出張名目で岡山へ行った。
12日の午後に彼女が母親によって死体発見され、13日の水曜日に小泉に連絡が入った。
小泉は、14日の金曜日に行われた葬儀には出席せず、17日の日曜日に弔問をしている。 香典50万円持ってきており焼香後、位牌の前で泣いたと伝えられている。